魔物

 

 やってきたまじない師は白い着物の小柄な老人だった。灰色がかった髪は伸び放題のま

ま紐で束ねられ、深い皺で覆われた顔は、或いは百才を越えているかも知れなかった。穏

やかな瞳は、ある種冷淡とも取れるような光を帯びていた。

「ようこそおいで下さいました。早速ですが、こちらです」

 知人のつてを頼んで呼び寄せた、この方面では超一流の腕を持つと言われる彼に、私は

妻の牧子と共に深々と頭を下げた。医者は既に匙を投げ、私達にとって希望はこの老人だ

けだ。

「匂いますな」

 草鞋を脱いで玄関から上がるとまじない師は言った。意外に若々しい声だった。

「それは、トイレに行かせてないから部屋の中で……」

「いえ、そのことではない。あなた達には分からんでしょう。我々のような者にしか匂わ

ない、妖気のようなものです。かなり強い」

 家の奥からずっと聞こえていた罵声が、老人が家に入った途端に聞こえなくなっていた。

こちらの様子を窺っているかのように。

 廊下を先導ながら私は説明した。

「ドアの前にタンスを置いて、出てこられないようにしています。特に夜中になるとひど

くなるようです」

「食べ物は」

「電話で指示を頂いてからは何も食べさせておりません。それまでは出すだけ食べており

ました。冷蔵庫が半日で空になるくらいで」

 私達は突き当たりに立った。元々は物置として使っていたところだった。

 牧子と二人でタンスをずらすと、木製のドアが現れる。所々が破れかけているのは内側

から叩かれているせいだ。

 いつもならタンスを動かすと狂ったようにドアが乱打されていたのに、今はしんと静ま

り返っている。それが逆に私には不気味だった。牧子も不安そうな顔で私を見る。

「よろしいですか」

「うむ。開けなさい」

 私は慎重にドアを開けた。キキイ、と傷んだ蝶番が軋む。

 窓のない小さな部屋に薄明かりが差し込んでいく。

 隅の方に、蹲って動かない影があった。

 私は手を伸ばして、部屋の電灯をつけた。

 汚物に塗れた床に、変わり果てた姿の雪恵が膝を抱えていた。五才になる私達の一人娘。

気の優しい、泣き虫の雪恵。ピアノを私達の前で誇らしげに弾いてみせた雪恵。甘えん坊

で、私が帰宅するとすぐに駆け寄って抱きついてきた雪恵。苺のショートケーキが好きだ

った雪恵。

 その雪恵が今、頬がこけて青黒くなった顔で、目ばかりギラギラさせて私達を睨んでい

た。手足にはゴツゴツした大きな吹き出物が増え、自分で引っ掻いたのだろう、皮膚が破

れて肉が見えている部分もあった。

「てめえら、こんな奴を呼びやがって」

 雪恵が歯を剥き出して叫んだ。粗暴な、男のような声。

「悪霊に憑依されていますな」

 まじない師は冷静だった。

「三週間前、旅行の際に古い神社に立ち寄ったと言いましたね。おそらくそこで取り憑か

れたのでしょう」

「じじいっ。お前ごときにこの俺が祓えると思うなよ。お前ら覚えてろよ。殺してやる、

ぶち殺してやるぞ」

 雪恵は憎々しげに顔を歪めた。乾いた唇にひび割れが出来る。

 おお、なんてことだ。雪恵。

「私が中に入りますから、ドアを閉めてタンスで塞いでいなさい。私が良いと言うまで、

決して開けてはなりません」

 そう告げるまじない師には、小柄な体に似合わない威圧感があった。まじない師はすぐ

に部屋に足を踏み入れた。私達は躊躇しながらもドアを閉める。

「お前ら、絶対に殺してやるぞ。内臓を引きずり出してやる。目玉を抉って首を引きちぎ

ってやる」

 雪恵の呪詛の言葉を塞ぐように、私と牧子は急いでタンスをずらしドアを塞いだ。

 奥から、呪文を唱えているらしいまじない師の低い声が聞こえる。そして雪恵の呻き声。

 神様。どうか、雪恵を元に戻して下さい。

 怯えた表情の牧子と目が合った。

 おそらく、私も同じような表情をしているのだろう。私達はどちらからともなく抱き合

って、いずれ出るであろう結果を待っていた。

 苦悶する雪恵の声と同時に、まじない師の声も次第に大きくなっていった。

 それが突然悲鳴に変わった。

「うぎゃああっ」

 私達は耳を疑った。だがそれは、やはりまじない師の声らしかった。

 何が。何が起こっているんだ。

「だ、だじげでえええええ」

 あのまじない師の持つ雰囲気からは信じられないような悲鳴だった。

「げぶぶぶぶぶぶぶぶ」

 そして、ぷっつりと声は聞こえなくなった。雪恵の声もしない。

 静まり返った部屋の前で、私達は震えていた。

 だが、私は、確かめなければならなかった。

「離れているんだ」

 私は牧子に言った。彼女は震えながら従った。

 私は一人でタンスを押し、ドアを開けた。

 後ろで牧子が悲鳴を呑み込んだ。

 部屋は血の海だった。血みどろの腸や肺や肝臓や心臓が床に転がっていた。腹部を引き

裂かれた老人の死体が、隅に横たわっていた。

 雪恵は、部屋の中央に、口を裂けそうなほどに吊り上げた不気味な笑みを浮かべて立っ

ていた。

 その左手が、まじない師の生首の髪を掴んでいた。

 まじない師の眼窩は、赤い空洞になっていた。

「ざまあみろ。ざまあみろ。ケヒヒヒヒ」

 雪恵が奇妙な声で笑った。

「ゆ、雪恵……」

「次はお前らだ。ケヒイイイイ」

 雪恵が生首を放り投げ、両手の指を自分の口の両端に突っ込んだ。

「うわあ、雪恵」

 メチメチ、と音がして、雪恵の口が裂けた。

 雪恵の、体が、壊れる。

「ゆきええええ」

 私は思わず駆け寄って雪恵の両腕を押さえた。

「ケヒヒヒ」

 雪恵の両目の間辺りが、プクッと盛り上がった。

「ゆきえええええええ」

 雪恵の顔が弾けた。どす黒い血と眼球と骨と脳の破片が飛び散って私の顔にもかかった。

牧子が悲鳴を上げた。

 私は、悲鳴を上げることが、出来なかった。

 噴き出す鮮血が見えた。それは私の血だった。私は喉を裂かれていた。どうやら傷は頸

動脈まで達しているらしかった。

 上半分が消失した雪恵の顔の奥から、黒い腕が生えていた。その腕は、私の首を掴んで

いた。

 雪恵、雪恵、ゆきええええええええ。

 視界が暗転していく。逃げるんだ、牧子。だが声が出ない。

 かつて雪恵であったものを私は両手で持ち上げた。渾身の力を振り絞って、私はそれを

壁に叩きつけた。グチャリという嫌な感触があった。それが、私の最後の感覚だった。

 

 

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