顔

 

 夜中の話し声が気になり出したのは、このアパートでの生活が始まって二週間も過ぎた頃だった。それまでは履修科目の選択やコンパのことで頭が一杯で、周囲の細かいことに注意を向ける余裕がなかった。

 僕が明かりを消して布団に入るのは、午前零時を少し過ぎたくらいだ。プレステに夢中になってもっと遅くなることもあるが、午前一時までには寝る。

 多分、午前二時くらいからだと思う。隣の部屋から薄い壁越しに、声は届いてくる。くぐもった男の声で、何と言っているのかは聞き取れない。声は一人のものだけで、相手の声は聞こえない。もしかしたら電話口で話しているのかも知れなかった。ただ、あまり楽しげな声ではない。ブツブツと同じペースで声は暫く続き、唐突に止む。

 僕は暗いまどろみの中で、なんとなくそれを聞いていた。よくもまあ、毎夜毎夜話しているものだとは思ったが、それほどうるさい訳でもないので放っておいた。まあ家賃が二万四千円と、今時珍しい安さなので、多少のことは仕方がないとも思っていた。敷金も要らなかったことだし。

 でも声は、夜毎に、少しずつ大きくなってきた。同じ男の声で、内容が聞き取れないのも変わらないが、たまに誰かを罵っているような、激しい口調が混じるようになっていた。

 ひどい奴だな、隣人の迷惑も考えないで。一週間くらいは我慢していたけれど、声は次第に耐え難い大きさになってきて、僕も流石に腹が立ってきた。

 一度会って、文句を言っておかないと。

 翌朝、そう考えながら僕は部屋を出た。うるさい隣の部屋は……。

 その時になって、僕は勘違いに気がついた。

 僕の部屋は二○四号室で、二階の端にある。

 声が聞こえてくる方の壁は、建物の外壁となっていて、隣の部屋など存在しないのだ。

 とすると、あの声は何処から聞こえてくるのだろう。僕は気味が悪くなった。

 大学から帰って、僕は自分の部屋を見回した。

 一つだけ、気にかかっていたことがあった。

 内装の壁紙は、元は真っ白だったと思われる、色褪せて黄ばんだものだった。

 ただし、一部だけ、新しい壁紙になっているところがあった。僕の胸辺りの高さで、五十センチ角の正方形になっている。周りの色と不調和で目立つので、僕はいずれポスターでも貼って隠そうかと思っていたのだ。

 その部分は、声の聞こえてくる側の壁にあった。

 壁がくり抜かれていて、中にスピーカーなんかが仕掛けてあるのだろうか。いや、そんな馬鹿なことをして、誰に何の得がある。

 その新しい壁紙を剥いでみようかとも思ったが、僕は一応そのままにしておいた。

 だが、その夜の声は更にひどいものになっていた。オレンジ色の闇の中で目覚まし時計を見ると、やはり午前二時。ボソボソと喋り続ける声に怒りを堪えていた僕は、突然の大声に驚いて身を起こした。

「馬鹿野郎!」

 その時は、はっきりと聞き取れた。部屋中に響き渡るような声だった。

 壁の向こうの声は続けて怒鳴った。

「死ね、この馬鹿!」

「うるさい、黙れ!」

 僕は反射的に叫んでいた。

 声が止んだ。

 なんだ、最初からこうすれば良かったんだ。今まで黙っていて損した。

 自分の心臓の鼓動を感じながら、僕がそう考えた時、更に大きな声が部屋を揺らした。

「何だと、殺してやるぞ!」

 訳が分からなかった。声は何処から聞こえてくるんだ。正体は何なんだ。何故僕に、こんなことを言う。

 僕は立ち上がり、明かりを点けた。

 部屋には僕以外、誰もいなかった。跳ねた布団と、机と本棚とテレビとゲーム機とラジカセ。押入れも開けてみたがやはり空だ。

「殺してやる!」

 僕は振り向いた。

 声は、やはり壁の方から聞こえていた。

 あの色違いの新しい壁紙が、こちら向きに膨らんで、微妙な凹凸を作っていた。

 それは、人の顔に似ていた。

 何だ、これは。

「馬鹿野郎、死ね、この糞野郎!」

 叫びと共に、丁度口に当たる部分の壁紙が、プカプカと膨らんだり凹んだりしていた。

 よく分からないが、とにかく、この気味の悪いものを、なんとかしなければならない。

 僕は、押入れの奥から、道具箱を引っ張り出した。

「殺してやる、殺してやるぞ!」

 怒鳴り声は続いていた。うるさくて堪らない。

 僕は、金槌を取り出した。

「この馬鹿やろ……」

 僕は、壁紙の膨らみに向かって、金槌を力一杯叩きつけた。ゴシャリという嫌な感触が伝わってきた。

 甲高い悲鳴が上がった。

 僕は、何度も、何度も、金槌を叩きつけた。

 やがて、悲鳴は止み、声も聞こえなくなった。新しい壁紙は、顔とは別のものに変形していた。

 ざまあみろ。

 金槌を持つ僕の手は、小刻みに震えていた。別に可笑しくもないのに、ヘクヘクと、笑いのようなものが沸き上がってきた。

 少しの間、じっとしていると、それも止まった。

 僕は金槌を仕舞い、明かりを消して寝た。

 翌朝起きて、壁を確かめた。あれは夢だったのかも知れないと思いながら。

 あの新しい壁紙の部分は、丸く膨らんでいた。

 僕は思いきって、白い壁紙の角に爪を差し込み、少しずつ、慎重に、引き剥がしてみた。

 ある部分まで進むと、中からドッと赤い液体が溢れ出した。僕は慌てて避けたが、ズボンの裾に数滴かかってしまった。

 それは、血だった。

 僕は、新しい壁紙を、完全に引き剥がしてみた。

 そこには、血で赤くなっていたが、平らな木製の壁しかなかった。単に、壁紙の破れを新しい紙で補修しただけのように見えた。

 僕は納得が行かなかったが、雑巾で血を拭き、ズボンを履き替えて大学へ向かった。

 その夕方、僕はテレビのニュースを観ていて事件のことを知った。

 昨日の真夜中に、中年の会社員が自宅で異様な殺され方をしたらしい。寝室で、顔をグチャグチャに潰されていたそうだ。犯人は捕まっていない。金品も盗られておらず、動機は不明だという。

 被害者は僕の知らない名前だったし、場所は他県だった。元々彼と僕とは全く関係がなかっただろう。

 でも、もしかすると、僕が殺したのかも知れなかった。

 僕は実家に電話して、この部屋は妙なことが起こって気味が悪いので引っ越したいと頼んでみた。

「入ったばかりなのに、馬鹿なことを言うな」

 僕の話を聞こうともせず、親父は答えた。

「そんなことより学校をサボったりはしてないだろうな。受験が済んだからって気を抜くなよ。父さんは留年なんか許さんからな」

 僕は絶望して電話を切った。これからも暫くは、このアパートで生活しないといけないらしい。

 壁紙の破れた部分は、変わらず平らな木肌を晒している。

 どうかずっとそのままであって欲しい。僕はそう願いながら、いつもの時間に床に就いた。

 そして、声が聞こえてきたのは、やはり午前二時頃だった。

 これまでとは別の男の声になっていたし、くぐもってもいなかった。部屋の中で、直接僕に喋っているような声だった。

 聞き覚えのある、声だった。

「この馬鹿が!」

 声は言っていた。

「死ね、この役立たず!」

 畜生。負けるか。

 僕は明かりを点け、金鎚を取り出して壁の前に立った。

 壁紙の、剥き出しになった破れ目に、木目ではなく、凹凸のある肉の塊が浮き上がっていた。

 それは、憎悪に醜く歪んだ、人間の顔だった。

 それは、僕の父親の顔だった。

「この馬鹿野郎、死ね!」

 父親の顔をしたものが、僕に向かって怒鳴った。唾が飛んで僕の顔にかかった。

 僕は、金鎚を振った。

 父親の顔をしたものが、凄まじい悲鳴を上げた。こちらの鼓膜が破れるかと思うほどだった。

 うるさいな。

 僕は続けて金鎚を振った。また悲鳴が上がった。血みどろの顔が泣いているような怒っているような目で僕を睨んだ。

 何だ、その目は。お前が悪いんじゃないか。

 僕は繰り返し、金鎚を叩きつけた。骨が折れる感触、肉が潰れる感触、つんざくような悲鳴。

 血が、父親の顔をしていたものから流れ出した。それは絶え間なく流れ続け、次第に勢いを増し、僕の足を濡らした。

 ざまあみろ。死ね。死ね。僕は高揚感に包まれながら、金鎚を振り続けた。今や、壁全体から大量の血が滲み出していた。水位が増し、足首までが血の海に浸かっている。布団も血でぐしょぐしょだ。ひどいな。今夜は何処で寝ればいいんだ。

 どのくらいの時間が過ぎたのか、分からない。目覚まし時計は血の海の中だ。

 父親の顔であったものは、今や、潰れた赤い肉の残骸に変わっていた。柔らかそうなスポンジ状の欠片はもしかしたら脳味噌だろうか。

 はは。ざまあみろ。

 僕は荒い息をつきながら、またあの衝動が込み上げてくるのを感じた。ヘク、ヘク、と、妙な笑い声が口から自然に洩れてくる。

 突然、電話のベルが鳴った。

 僕は電話機を血溜まりから引っ張り上げ、受話器を取った。

「大変、大変なのよ。と、とと父さんが……」

 母の声だった。かなり動転しているらしい。

「親父が死んだんだろ」

 僕の返事に、電話口の向こうで絶句する母親の気配が伝わってくる。僕は電話を切った。

 笑いの衝動の余韻に身を任せようとした時、別の怒鳴り声が部屋を轟いた。

「くたばれ、この糞野郎!」

 聞き慣れた、若い声だった。この声を、間違う筈がない。

 僕は血みどろの壁へと振り向いた。

 さっきまで、父親の顔の残骸があった場所に、別の新しい顔があった。

 激しい憎悪に歪み笑っているのは、僕の顔だった。

「殺してやるぞ、はは、ざまあみろ!」

 僕の顔をしたものは、僕の声で叫んだ。

 はは。ははは。

 笑いの衝動が、再び高まってきた。

 はは。

 僕は、笑いながら、笑っている僕の顔に、渾身の力で金鎚を叩きつけた。

 

 

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