死霊殺し

 

 ひどい雨だった。カーステレオの音楽を遮って、雨粒が車体にぶつかる音がバラバラと響く。夜の山道に大雨とは最悪だ。

 荷物の運び入れに手間取り、予定の時刻を大幅に遅れてしまった。夜間この峠を走りたくはなかった。女の幽霊が出て交通事故を呼ぶという噂があるのだ。それを鵜呑みにする私ではないが、実際に事故は多い。ガードレールに供えられた花束を、時折目にすることがある。

 トンネルの手前で、歪んだ視界の隅に黒い人影が映った。こちらに手を振っているようだ。

 こんな時間に雨の中を。多少気味が悪かったが停車した。幽霊は女という話で、影は若い男のものだった。トラブルかも知れないし、困った時はお互い様だ。

 助手席ではなく後部座席に乗り込んだのは、高校の制服を着た少年だった。長い間雨に晒されていたらしくずぶ濡れだ。

「すみません」

 少年は低い声でそれだけ言った。バックミラー越しに少年の顔を見ていると、事情を尋ねる気もしなくなっていた。死人のような青白い顔だが、何かを思い詰めたような雰囲気があった。

「何処まで乗せてけばいい」

「峠を抜けるまでです。多分」

 私は発進した。短いトンネルを抜ける。擦れ違う車もなく、淡々と暗い景色が流れていく。雨音に混じって、私の好きなバッハのフーガが車内を満たす。

 やがて、沈黙を破り、少年が喋り出した。

「この峠には、幽霊が出るんですよね」

「ああ、そうらしいな。まだ見たことはないが」

 私は答えた。きついカーブを、スピードを落として曲がる。ヘッドライトを浴びたガードレールの一部が凹んでいた。

「僕の好きだった人は、幽霊に取り殺されたんです」

「え」

 私はバックミラーを見上げた。少年は俯いている。僅かに見える瞳は昏い。

「いきなりこんなことを言われても、信じられないでしょうけれど」

「まあ、どうかな……」

 私は言葉を濁した。

「彼女は何も悪いことをしてなかった。デザイナーになるのが夢だったんだ。こんな理不尽なことが、許される筈がないんだ」

 少年の声は、怒りを含んでいた。

「人生とは元々理不尽なものさ」

 私は後ろの少年に言った。

「善良な生き方をしていても、災いは突然に襲いかかるものだし、悪い奴が必ず罰せられる訳でもない。悲しいが、それが現実ってもんだよ」

 少年は頷くことも反発することもなかった。どうやら私の言葉など耳に入っていないようで、ボソボソと呟いている。

「……許せない……幽霊は……僕は結局、彼女に……」

 少年の声が次第に小さくなり、雨音に紛れて聞き取れなくなった。

 私は黙々と運転を続けた。どうにも重苦しい空気になっていた。そろそろ下りに入る。早く峠を抜けてしまおう。

 少年は完全に下を向いてしまい、顔が見えなくなった。

 バックミラーから視線を外した時、助手席に白いものを認めた。

 髪の長い女が、いつの間にか私の車の助手席に座っていた。ワンピースの腰から下は、血で真っ赤に染まっていた。

「うわっ」

 私は慌てて急ブレーキをかけようとした。だが足が動かない。誰かに足を掴まれているみたいだ。逆にアクセルを少しずつ踏み込んで、車が加速していく。

 峠の幽霊だった。血塗れの白いワンピース。噂で聞いた通りだ。後はその顔が……。

 私はスピードメーターも、雨の降りしきる前方の景色も、自分の足元も、見ることが出来なかった。

 女がゆっくりと、私の方に、顔を向けたからだ。

 二十代前半の、美しい女だった。ただし、その左顔面は大きく割れ、骨と脳が見えていた。虚ろな目が私を見つめていた。

 私はもう、何も考えられなくなっていた。カーステレオから流れるフーガが、えらく鮮明に聞こえた。

 女がその両手をこちらに伸ばした。するするする、と、腕が蛇のように動いて本当に伸び、ハンドルを掴んだ。

 私が悲鳴を上げようとした時、突然後部座席の少年が叫んだ。

「幽霊が生きた人を殺すなんて、あってはいけないんだっ」

 少年が後ろから女に襲いかかった。女の両肩を掴み、女の頭に文字通り、食らいついたのだ。

 少年の顔は変形し、口が呆れるほどに大きく広がっていた。女の頭がスポンと収まった。女がもがいた。うにゃあああ、とでもいうような不気味な声が、少年の口の中から聞こえた。

 ズル、ズル、と、女の体が少年の口の中へ引き込まれていく。少年の顔は犬のようにせり出し風船のように膨らみ、魚のように丸く大きく目を見開いていた。ゴクリ、ゴクリ、と、少年の喉仏が動いた。

 女の胴が、伸びた腕が、血塗れのスカートと素足が少年に呑み込まれ、私の足の重みが消えた。私は急ブレーキをかけた。スピードは時速八十キロ以上出ていたろう。すぐ前にカーブが迫っている。ガードレールの先は崖だ。甲高いブレーキ音。濡れた路面が滑る。

 ガツンと重い衝撃があり、ガードレールを凹ませて車は停止した。私は胸を撫で下ろし、そして左を見た。

 女の姿は消えていた。少年の姿もない。ただ、後部座席のシートは雨水で濡れていた。

 私は溜息をついて、車を再始動させた。左のヘッドライトが壊れてしまったが、動力系に問題はないようだ。

 峠を越え、自宅に戻る頃には雨はやんでいた。

 彼らには、他のことを考える余裕などないのだろう。おそらく、死ぬ間際の情念に従って、機械的に動いているだけなのだ。女の場合は車への恨みであり、少年の場合は、幽霊への恨み。

 女は、少年の存在に気づいていなかった。少年が、トランクの中身に気づかなかったように。

 私は車庫に車を収め、後部のトランクを開けた。

 中には、手足を縛り猿轡を噛ませておいた少女が、窮屈そうに横たわっていた。かなりもがいたのだろう、足首のロープが解けかかっている。

 恐怖に慄く少女の瞳が、私を見上げた。そう、その瞳が、痺れるような快感を私に与えてくれる。

「さあ、楽しいダンスの時間だよ。私の地下室でね」

 私は少女に向かって優しく微笑んでみせた。

 

 

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