壁の手

 

 一年振りに会う坂井は、私の高校時代の後輩だ。喫茶店での待ち合わせに、少し遅れて彼はやって来た。

「どうした坂井、その首は。鞭打ちか」

 私の指摘に、太いカラーを填めた首に触れ、坂井は寂しげな微笑を浮かべた。

「いいえ、ちょっと事情がありまして。どうです、僕の話を聞いてくれますか」

 私が頷くと、彼はゆっくりと、話し始めた。

 

 僕が同棲していたのはご存知ですよね。真由美とは、先輩も二、三回会ったことがある筈です。

 半年前になりますかね、もう結婚式の日取りも決まってて、新居を探してたんですよ。そうそう、式には先輩もお呼びしようと思ってたんですけどね。

 ただ、僕も給料高い方じゃないし、あれこれ吟味した結果、古い借家に落ち着きました。二階建てで三万なんて、嘘みたいな家賃でしょう。

 入居した日は、僕も真由美も気に入っていたんですが、妙なことが始まったのはその夜からです。

 真由美が僕を叩き起こして、「音が聞こえる」って言うんですよ。午前二時くらいのことです。

 耳を澄ましても、僕には何も聞こえませんでした。「気のせいだろ」と伝えても、真由美は真っ青な顔で、承知しないんです。壁を引っ掻くような、嫌な音だということでした。

 僕はその後寝てしまいましたが、真由美は一睡も出来ない様子でした。

 次の夜も、その次の夜も、真由美は音が聞こえていると言いました。真由美の頬はこけてしまって、そう、二、三日でこんなに変わるものかというほどのやつれようでした。

 そして四日目の夜です。とうとう真由美は限界に来たようでした。

「音が聞こえる」「誰かが壁を引っ掻いてる」「誰かが呼んでる」

 ヒステリックに喚きながら、真由美は家の中を歩き回りました。僕も流石に心配になって、彼女の後をついていきました。

 そして真由美は、奥の部屋の壁に行き当たりました。家が広かったんで、その部屋には荷物を入れていませんでした。それは、白い壁紙が貼ってあるだけの部屋なのに、何となく汚い感じがしたせいかも知れません。

「ここよ。ここから聞こえるのよ」

 引き攣った顔で、真由美は正面の壁を平手で叩き、僕の方に向き直りました。

 その時の光景を、僕は一生忘れることはないでしょう。

 壁の中から青白い手が伸びてくると、背後から真由美の首筋を掴みました。ブキブキ、と、嫌な音がして、真由美の首が引きちぎられました。真由美は、何が起こったのか分からないという顔で、僕を見つめていました。そのまま、真由美の首は、白い腕と一緒に壁の中に消えてしまいました。

 部屋には、真由美の胴体だけが残されました。

 警察を呼んで、壁を壊したのが、一時間くらい後になります。

 壁の中には、首なしの白骨死体が塗り込められていました。誰のものだったかは、今でも分かってません。

 白骨のちょうど首の部分に、髑髏の代わりに真由美の生首が乗っていました。

 

 驚くべき話を、坂井は淡々と語ってみせた。話を聞いた後で坂井を改めて見ると、彼の顔は昔よりも青白く、生気がないように感じられた。

 私は彼にかける言葉が見つからずに、黙っていた。

「でもね、それだけで終わりじゃないんです」

 坂井は静かに言った。

「真由美がね、毎晩僕の枕元に座るんですよ。首のない姿で」

「……」

「これを見て下さい」

 坂井は首のカラーをちょっと外してみせた。

 彼の首筋には、醜い爪跡が残っていた。

「真由美がね、僕の首を狙っているんですよ。だから僕は、ずっとカラーをしているんです」

「……。お祓いとかに行ってみた方がいいんじゃないか」

 私には、それだけを言うのがやっとだった。

「そんなこと出来ませんよ」

 坂井の薬指に、小さなダイヤの指輪が填まっていた。

「真由美は、僕の婚約者なんですよ。彼女の指には今も……」

 そう言うと、彼は先程の寂しげな微笑を浮かべてみせた。

 

 

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