一
「問題は、幽霊が人の見ていないところにも出るかということで」
沢木卓司のこの台詞を聞くのは何度目になるだろうか。これまでに多分二十回くらいは聞いていると思う。助手席で喋り続ける沢木のインテリ顔を私は酔い始めた頭でぼんやり眺めていた。
「誰かが見ている時にしか現れないとすれば、人に見せるために現れる訳で、幽霊には僕らと同じように独自の意志があるということになる。幽霊が示す場所に白骨死体が見つかって、殺した犯人が逮捕されたら幽霊が出なくなったとかあるよね」
男四人を乗せたミニヴァンは国道から田舎道へ入った。月のない夜空の下で街灯もなく、遠くにポツポツと民家の明かりが見える程度だ。後部座席にいる私の隣で、峯坂隆二は四本目か五本目の缶ビールを開けた。その音を聞きつけ、運転している原澄夫が不満げに言う。
「おいおい峯ちゃん、まだ着いてないのにそんなに飲まんでくれよ」
「大丈夫だって。後ろにも一箱積んでるし。それに俺はこんくらいじゃ酔わんから心配すんな」
峯坂は平気な顔で答える。
「心配とかじゃなくって、素面で運転してる俺に心遣いはないのかってこと」
「頼りにしてるぞスミ。なあに、大路も飲んでる」
峯坂は私の名を引き合いに出した。他愛のないやり取りを聞きながら、私・大路昭人はぬるくなりかけた二缶目のビールを飲み干した。別に原も怒っている訳ではない。大学時代から、もう十年の付き合いになるのだ。
沢木が自説を続けた。
「ただ、誰かが見ている時だけ出る場合も別の可能性がある。そこに存在しないものを、僕達の脳が勝手にでっち上げて見ているということ。人間ってのは現実を正確に見ていると思い込んでるが、実際はかなりの部分を脳が補正してるんだ。バナナを振り上げて襲いかかるふりをしたら、観客は皆それがナイフに見えてたって実験があった」
その実験の話も十回くらいは聞いた。私が要点をまとめる。
「つまり、幽霊は人間の錯覚ってことだな。で、次は」
「人が見ていない時にも幽霊が現れる場合だ。これは霊というより写真とかビデオみたいなもんだよ。死んだ時の強い念が残像として焼きついてるだけで、もう本人の魂なんかその場には残ってない。何かのきっかけで毎回同じ内容を再生してるだけなのさ」
「そもそも魂ってのは何だ。俺達にもちゃんとあるのか」
峯坂が笑うと、後部座席を振り向いた沢木は澄まし顔で応じた。
「少なくとも僕に魂があることは分かってる。君達にあるかどうかは知らないけどね」
「ハハッ。やられた、やられた」
峯坂が更に大きな声で笑った。
「そっちにもう一つの可能性があっただろ。四、五年前から追加された奴」
私が促すと沢木は頷いた。
「そう。人が見ていない時に現れる場合でも、本人の魂が入って実行している可能性。生きている人へのメッセージとか意味とかお構いなしに、ただこの世に現れて動いてる。死んだ瞬間に思っていた何かに囚われてるというか、こだわってるような感じかな。当時の衝動にいつまでも操られてるだけなんだ。もう脳味噌はないんだし、生きていた頃と全く同じように考えたり出来る保証はないからね。もしかしたらこういう可能性もあるかも知れないと思ってる」
「沢木としては、その四つのうちどの可能性が一番高いと思うんだ」
私は聞いてみた。去年までの沢木は最後の説を支持していたような気がする。
「四つのうち全部だ。全部あり得る」
沢木の微笑は勝ち誇っているようにも見えた。
「人間も色々いる。幽霊も色々さ」
「なるほど、お前の勝ちだ。こりゃ賭けにならんな」
また峯坂が笑った。
「しかしこんなこと話しながらこの会も十三回目だが、一度も幽霊は見てないな」
私が言うと運転中の原が反論する。
「いや、俺見たって。三年前、トンネルの前で野宿したよな。あん時俺、一瞬だけど女の幽霊見たもん」
「あれって木の枝にタオルが引っ掛かってただけじゃなかったか」
私達は笑った。沢木が尤もらしく頷く。
「錯覚だな。四つのうちの一つ、錯覚の幽霊だ」
ヘッドライトに照らされた暗い田舎道に黒い人影が映った。
「おっと」
原が避けながらブレーキを踏む。相手は道の真ん中を歩いていた訳でもないが、未舗装の細い道のため油断していたら轢いていたかも知れない。ミニヴァンは歩行者の横で一旦停止した。相手は驚いた様子もなく歩き続けている。峯坂の頭越しに歩行者の姿が見えた。学生服の少年。高校生だろうが鞄も何も持っていない。
こちらを見ずに俯いたその顔は暗く、何かを思い詰めたような雰囲気があった。
原は軽い溜め息をついてミニヴァンを発進させた。
「この時間に一人で歩きか。何も持ってないし、ちょっと妙だな」
サイドミラーを覗きながら沢木が言った。原が応じる。
「近所に住んでんじゃないのか。自販機までジュース買いに歩いてんだろ」
「田んぼばかりだ。自転車くらい使わないと大変だぞ」
「そうだ、あいつは幽霊だよ。これで初めて幽霊が見れた。幽霊探検隊で最初に出会った本物だよ。会を続けてきた甲斐があったな」
峯坂がまた冗談を飛ばす。原がナビの画面を確認して言った。
「幽霊でもどうでもいいけど、ついでに道聞いてくれるか。ナビがずれてるみたいだ。もうじきだと思うんだけどな」
ミニヴァンは再び停止し、少年が追いつくのを待った。窓を開けると初夏の空気が流れ込む。
「こんばんは。ちょっといいかな」
助手席の沢木が少年に声をかけた。
「何ですか」
少年は車の横で立ち止まってこちらを向いた。真面目そうな白い顔。
「ここって羽越村だよね。高崎さんの家ってこっちでいいのかな。『ミンチ屋敷』って言われて有名な家なんだけど」
嫌な顔をするかと思ったが、少年の表情は特に変化しなかった。
「この道でいいと思います」
「そう。ありがとう。君はこの辺に住んでるの。ミンチ屋敷ってやっぱり皆、怖がってるのかな」
「いえ、僕はここの住人じゃないです。僕も、その屋敷に向かってるところですから」
「へえ、じゃあ乗ってきなよ。一緒に行こうや」
峯坂が気軽に言って内側からドアを開けた。余計なお世話のような気がしたが私も黙って右へずれた。
「いいんですか」
少年が聞く。
「いいさ。でもビールは飲ませられんけどな」
峯坂の台詞にも少年は笑わず、「すみません」と一礼して後部座席に乗り込んできた。ミニヴァンは再発進する。
「俺達はな、幽霊探検隊やってるんだ」
峯坂が説明した。
「まあ、大学時代からやってるちょっとしたイベントさ。仲間同士でな、心霊スポットで酒飲みながら一晩明かすって訳だ。真夏は暑くてたまらんからな、最近は少しずらしてる。年に二回やってた時もあって、今回で記念すべき十三回目なんだが、まだ一度も幽霊は見てないな」
「いや、だから俺は見たんだって。木のそばに……」
原が無駄な反論を繰り返す。私は少年に言った。
「君も幽霊を見にきたのかな。君くらいの年頃ってやっぱり、こういうの好きだよなあ」
「俺達は少年の心を持ったまま年食ってしまった訳だ。もうじき三十の少年だ。ハッハッ」
峯坂は笑いながら座席の後ろに手を伸ばし新しい缶ビールを取り出した。私は少年に尋ねる。
「でも、一人で幽霊屋敷探検ってのは怖いだろ。友達は誘わなかったのかい」
「仲間はいませんので。僕一人だけです」
少年の態度に、私はちょっとした違和感を覚えた。何処からどうやって来たのか、名前は何というのか、もう少し詳しく聞いてみたかったが、なんだか聞いてはいけないことのような気もした。
助手席の沢木が喋り出した。今回のスポットを選んだのは沢木だった。
「もうすぐだと思うから、ミンチ屋敷のおさらいをしとこうか。高崎って男が一人暮らししていて、何か商売をしてたらしいが、行方不明になったのが七、八年くらい前じゃないかな」
「それから幽霊が出るようになりましたとさ。お終い」
峯坂が早速茶々を入れる。私は沢木に聞いた。
「幽霊って、その高崎の幽霊なのか」
「それは分からない。ミンチだからね」
沢木は振り向いて口の片端を皮肉に上げてみせた。
「小さな肉片が山積みになってるのを見たって人が多いよ。まともな人間の姿を見た人はいないんじゃないかな。後は、鋸の音とか鋏で何かを切る音とかも聞こえるって話だ」
「警察は捜索とかしたのか」
「したみたいだが死体は見つかってない。ただ、風呂場やトイレに血痕は残ってたらしいな。高崎のだったのかは知らない。多分、死体を細切れにしてトイレに流したんじゃないかな。誰が誰を殺したのかは分からないが。結局、高崎が見つからないから家もそのままになってる。親類も何人か行方不明になってる筈だ」
「へえ。今回なかなかヤバそうじゃないか」
峯坂が笑った時、少年が軽く俯いたまま、ボソリと呟いた。
「肝試しに入った人も、たまに行方不明になっています」
虚を衝かれ、私達は絶句した。仲間が言った台詞ならネタとして楽しめただろう。だが少年の口調は飽くまで淡々としていた。
やがて、沢木が言った。
「……そういう、噂もあるみたいだな。でも、本当にそうだったら車が置き去りになっていたりしてすぐ分かるだろうし、もっと大騒ぎになってるんじゃないかな」
「分かった、車もミンチにしてトイレに流したんだよ」
峯坂が無茶なことを言う。少年は沢木の反論にコメントせず、別のことを言った。
「僕の好きだった人は、幽霊に取り殺されたんです」
「えっ」
峯坂の笑みも止まった。原がバックミラーを見遣った。私はあまり露骨にならないように少年の顔を見た。冗談を言っている感じではなかった。膝の上に載せた拳は力が篭もっている。
「いきなりこんなことを言われても、信じられないでしょうけれど」
「いや、そういう訳じゃないけど……ちょっと、唐突だったからね。君の彼女は、その、ミンチ屋敷で殺されたのかい」
沢木が尋ねた。
「違います。僕の彼女という訳ではないです。僕はまだ……彼女に、何も……」
車内の空気がしんみりしてきたところに、また民家が見えてきた。しかし明かりは点いていない。
「そろそろじゃないかな。三つ並んだ一番奥らしいけれど」
沢木が言った。私は気になったことを口にしてみる。
「近所の家も人は住んでないみたいだが」
「幽霊が嫌で逃げ出したんじゃねえのか。まあ、そっちの方が気楽に騒げていいんじゃねえ」
少しテンションを取り戻して峯坂が言う。
三つ目の屋敷は道の突き当たりにあった。田舎だからそれなりに広い敷地だ。錆びた正門は開け放しになっている。最近も誰か入ったのだろうか。
「ここだな」
原が言った。『高崎』となった表札が見える。ミニヴァンは門を抜けて庭に入った。長く放置された筈だが草は疎らでそれほど見苦しくはない。
「ありがとうございました」
停車すると少年は礼を言って真っ先に降りた。
「折角だから中は一緒に回ろうや」
峯坂が言うと少年は黙って待っていた。私達は車から降りて後部ハッチから荷物を取り出した。最初は懐中電灯と蛍光灯式ランタン、それと虫除けスプレー。
「場数を踏んでるからね」
仲間達で使ったスプレーを少年に渡そうとしたが、少年は「要りません」と手を振った。
「どっちかと言うと幽霊よりも怖いのはこういうスポットに入り浸る暴走族とか、住み着いたホームレスとかの方だよ。まあ、ここは田舎だしそんなことはないだろうけどね。後は、古い廃墟だと床や階段が抜けることもあるから気をつけないと」
「そういや二回目か三回目の時かな、暴走族に追いかけられて大変だったよなあ。警察沙汰にまでなったしよ」
懐かしそうに峯坂が語り、早速原が突っ込みを入れた。
「あん時、最初に相手殴ったの峯ちゃんだったろ」
「ああ、あの頃は俺も若かった」
私達は懐中電灯を握り、ひとまず建物を照らしてみた。窓が少なく、事務所みたいに地味なコンクリートの平屋。庭に木が一本もないところからも持ち主の空虚具合が窺える。
私はちょっと変な屋敷だとは思ったが、それ以上のものを感じなかった。ただ生ぬるい風を受けながら今夜が過ごしやすいかどうか考えただけだ。私達に霊感はないし、別段本物の幽霊を見たいとも本心では思っていない。ただ、ちょっとしたスリルを感じながら気の置けない仲間達と飲みたいだけだ。肝試しというものは所詮そういうものだと思っている。
沢木が持ってきたカメラで取り敢えず建物を撮った。フラッシュが四角い輪郭を浮かび上がらせる。コニカの現場監督というフィルムカメラで、デジカメよりも幽霊が写る可能性が高そうだということと、強力なフラッシュと防水機能のため、沢木は数年前からこのカメラを好んで使っている。これまで妙なものが写ったことはなかったが、現像された写真を見てワイワイ言うのも後の楽しみの一つだった。
窓ガラスが割れているが、ひとまず私達は正面玄関に向かった。
「お、開いてるな」
峯坂がスライド式の扉に触れるとカラカラとあっけなく開いた。奥の暗い闇が覗く。
「本当に誰も管理してないんだな」
私は懐中電灯で内部を照らしながら峯坂に続いた。床は埃っぽいがそれほどゴミは散らばっていない。私達は「お邪魔します」と言いながら土足で上がり込む。念のためスイッチを入れてみるが電灯は点かない。壁の上方にブレーカーがあったので上げてみたが駄目だった。
「電気が点く方が気持ち悪いよ」
原が苦笑する。彼は右手に懐中電灯を、左手に缶ビールを持っていた。遅れを取り戻すつもりらしい。
上がって右はリビングで十畳以上の広さがあった。二十一型くらいのテレビとミニコンポ。小さなテーブルが畳まれて壁に立てかけてある。必要最小限の殺風景な生活空間。左にも四畳半くらいの部屋があるが、段ボール箱が積まれているだけだ。沢木は部屋ごとに一、二枚ずつ撮影していた。
廊下を進むと正面は台所だった。食卓に椅子は四つ。一つは脚が折れていた。食器棚は空きが多く、数種類の食器しかない。大きく深呼吸をして息を止め、峯坂が冷蔵庫を開ける。タバスコなどの調味料以外は何も入っていなかった。水道の蛇口をひねると茶色の水が暫く出た後普通の水になる。
「トイレも使えるんじゃねえの。今回は外でせずに済みそうだな」
峯坂が言う。少年は黙って私達の後ろにいた。
台所を左に出ると浴室とトイレがあった。脱衣場の洗面台が見える。特に変な様子はない。
「死体処理したんなら、ここらが一番危ないとこだよな」
大雑把な性格に酔った勢いが加わって峯坂はいつも探検隊の先陣を切る。彼は私達が心構えする猶予もくれずあっさり浴室の扉を開けた。
浴室はタイル張りではなく、プラスチックに似た材質で出来ていた。懐中電灯で慎重に探るが床や壁に血痕らしきものは見当たらない。隅に使いかけのシャンプーや石鹸が置かれている。峯坂が浴室へ足を踏み入れて浴槽内を照らす。栓は抜かれ、水は入っていなかった。
「別に何ともないな」
原が言った。
「まあ、そうだな」
予想していたより綺麗なことが逆に薄気味悪いとも思ったが、それだけだ。いつもながら妙な気配や寒気を感じることもない。私は少年を振り返ってみた。沢木の横に立つ少年は眉をひそめて厳しい表情で浴室内を見回していた。
「何か見えるのかい」
私は尋ねてみた。少年は少し俯きながらも私の目を見て答えた。
「この家で十五人くらいは殺されてます」
私が初めてゾクリとしたのはこの瞬間だった。少年は冗談を言っている顔ではなかった。沢木が意外そうに少年を見、峯坂と原も振り向いた。ライトを浴びた少年の顔は不気味な陰影を作る。
「誰が殺したんだ。高崎か」
私が続けて問うと、少年は頷いた。
「最初の殺人はそうです。でも次は高崎さんが殺されてます」
「え。じゃあ、高崎を殺したのは誰なんだ。そいつが三人目以降も殺していったのか」
「高崎さんを殺したのは最初に殺された人です。それからは、殺された人達が皆で協力しています」
少年は飽くまでも暗く生真面目で、リアル過ぎて逆に私にはリアリティが感じられなかった。足元が頼りなく、急に異世界に迷い込んだような気がした。
「……幽霊か」
沢木が言った。
「幽霊が犯人の高崎を殺して、一緒くたになって次々に新しい犠牲者を作っていったというのかな。ならここには今十五人分の幽霊がいると」
少年は肯定も否定もしなかった。峯坂の眉がひそめられ、やがて逆に上がっていく。彼は十秒ほどでいつもの余裕を取り戻した。
「へえ、幽霊十五人が俺達の周りをグルグル回ってんのか。沢木、写真撮っといてくれよ」
峯坂は浴槽に足を入れ、原を引っ張り込んだ。原も曖昧な笑みを浮かべて沢木を見る。馬鹿なことを、と私は思った。いつもなら調子に乗って私も参加するところだが、今回はすべきではないような気がした。沢木は黙ってカメラを構え、一枚撮った。浴槽に立ってピースする二人をフラッシュが照らす。
「君は霊能者なのかい」
私は少年に尋ねた。
「いえ、違います」
少年は答えた。
「ここは、他の部屋より埃が少ないな」
沢木の何気ない呟きがまた気味悪かった。
浴室の隣のトイレも開けてみた。洋式の便器は内部が干上がっていたが、レバーをひねるとちゃんと水が流れてきた。水は少し汚れているものの血が混じったりはしていない。少年を振り返るとやはり険しい顔をしていた。
トイレの横に小さな物置があった。掃除機やストーブ、バケツとモップ。
「おい、これだよ、これ」
峯坂が小さな棚に手を伸ばした。そこには鋸や大きな鋏が幾つも収まっていた。金槌もあった。手に取った鋸を峯坂が懐中電灯で照らす。鋸の歯は鈍っており、幾つも欠けていた。
「きっとこれで死体をバラバラにしたんだよ」
「血はついてないな」
沢木が言う。
「そりゃあ、念入りに洗ったんだよ。警察が洗ったのかも知れんが」
峯坂は鋏を動かしてみた。錆びてもおらず、シャキシャキと小気味良い音がした。沢木がまた写真を撮った。
キッチンの右には寝室と書斎があった。布団は押入れに畳まれていた。机の上には何もなく、引き出しに入っているのは本棚の組み立て説明書だけだった。本棚には何冊か文庫の小説があるだけだ。
それで、ミンチ屋敷の探検は一通り終わった。私達は居間にランタンを置き、ミニヴァンからビニールシートとビールを出して酒盛りに移行した。
二
腕時計を確認すると午前二時を回っていた。振り返ってみるとやはり少年は壁際に正座している。
「そろそろ家に帰らなくてもいいのかい」
私が声をかけると少年は小さな声で答えた。
「いえ。まだ帰れません」
「お腹空かないかい。お菓子ならあるよ」
「いえ。結構です」
少年はやはり断った。ランタンの光が届くかどうかという場所で、そのまま闇に溶け込んでしまいそうな存在感の薄さだった。
少年の名は榊信一といった。好きだった彼女はデザイナーを目指していたこと、学校の帰り道でくっついてきた幽霊に取り憑かれて死んだらしいこと、結局少年は彼女に告白出来なかったことなどをポツリポツリと話しただけで、後は部屋の隅でじっとしていた。まるで、何かを待っているように。
初めは気になっていたが、酔っ払ううちに私達は仲間同士の会話に没入していた。怪談や幽霊の話などよりも、自分達の日常に関する話題がメインだった。仕事の愚痴、結婚している原は妻の愚痴。大学を卒業して六年が経つ。違った職種で違った道を歩くようになった四人の隙間を僅かでも埋めるための儀式が幽霊探検隊なのかも知れなかった。
クーラーボックス内の缶ビールも残り僅かとなり、峯坂は焼酎を飲んでいた。アルコールに弱い沢木は胡坐をかいたまま眠たげにぐったりしている。
「沢木、寝袋出そうか」
私が言うと沢木は重そうな瞼を開けて首を振る。
「いや、まだ大丈夫。多分、後二缶くらいは大丈夫」
「そんなこと言って去年は吐いただろ」
「向こうの押入れに布団あったじゃねえか。折角だからあれを使えよ」
峯坂が嫌な冗談を飛ばす。
「ん」
原が立ち上がった。顔には出ないが彼もかなり酔っているようで、一度床に手をついてまた立ち上がる。ズボンに載っていたピーナッツが数個転げ落ちた。
「お、布団取ってきてくれるのか」
峯坂が言う。原は首を振った。
「いや違う。トイレ」
開いた出入り口へよたつく一歩を踏み出した瞬間、突然少年が叫んだ。
「駄目だっ部屋を出たら危ないっ」
ギョッとするほどの大声だった。私達は少年の方を見た。少年が立ち上がり突進してくる。目を見開いて緊迫した表情だった。私達の間を駆け抜けて原に飛びかかろうとする。な、何だ。呆然としている私達の前で、同じくあっけに取られた原がよろよろと数歩後ずさる。その先には開いたドアがあった。
「駄目だっ」
少年が届く前に、原の背中が部屋と廊下の境界を超えた。
向こう側の闇から赤いものが伸びて原の顔に触れた。
「ぷっ」
原が口を半ば塞がれて半端な声を洩らした。引っ張られて原の首がのけ反る。原の泳ぐ腕を少年が掴んだ。少年は原を室内へ引き戻そうとしている。
ブチグギュッ、と音がした。
原の首から上が見えなくなっていた。噴き出した血が服を染めていく。原の胴に幾つも赤く長いものが絡んでいた。踏ん張っている少年が引き摺られ靴底が床を擦る。
バヂブジ、とまた嫌な音がした。少年が尻餅をついた。少年の手には腕が握られていた。付け根からちぎれた原の右腕だった。
原の胴体が闇へ消えていた。少年が手を離した。床に落ちた原の右腕に、闇の奥から伸びた赤いものが絡んで引き摺り去っていった。
「な……何が。起こった」
峯坂が、漸く、それだけ言った。
原がいなくなった。床には少し血溜まりが残っているようだ。首がちぎれたように見えた。腕もちぎれたように見えた。いや、でも、悪戯かも知れない。わざと幽霊に襲われたようなふりをしただけかも。でも、血が噴き出していた。赤いものが何本も伸びて原に絡みついて引っ張った。首を引きちぎったのだ。
私には、赤いものは、人の腕に見えた。肉の大半を削り取られて骨が突き出した、血みどろの、腕だった。指が何本か欠けているのもあった。
いや、違う。これはきっと酔っているせいだ。バナナがナイフに見えるのと同じだ。幽霊屋敷でこんな雰囲気なら変なふうに見えてもおかしくはない。第一、原は妻がいるのだ。妻がいるのにこんなに簡単に死ぬ筈はないじゃないか。これは泥酔のための錯覚だ。
いや。実際には、さっきまでの酔いはすっかり醒めていた。背筋に嫌な悪寒がわだかまっている。全身の皮膚で生ぬるい空気を感じた。持っている缶ビールの表面についた水滴も感じた。早いところ飲んでしまわないと。いや、そんな場合じゃないんだ。でも、錯覚だ。錯覚であって欲しい。
峯坂が立ち上がった。彼はいつも膠着状態を真っ先に打ち破ってくれる。そうだ、彼ならなんとかしてくれる。何をどうするのかは分からないがなんとかしてくれる筈だ。だが彼の顔にいつもの覇気はなく、口を半開きにした痴呆老人のようなものになっていた。
「どうした。原」
峯坂は懐中電灯のスイッチを入れて部屋の出入り口へ向けた。廊下には誰もいない。床には血の染みが残っている。まだ新しい、ヌメヌメとした光沢。
更に確かめようと峯坂が歩み寄った。少年が立ち上がり、制服の襟元を開けて右手を入れた。
抜き出した右手には出刃包丁が握られていた。
「あっ」
私は反射的に声を出した。逆手に握られた包丁に気づき、峯坂が咄嗟に少年の腕を押さえた。
「おい、やめろ、危ねえだろ」
「離して下さい」
少年がもがく。懐中電灯が落ちる。
「おい、押さえろ、お前らも手伝えって」
峯坂に促され、私達もなんとか立ち上がった。峯坂が少年を押し倒す。少年はまだ包丁を離さない。私は少年の背中に乗った。バタツく足を沢木が掴もうとしている。私達は何をやっているのだろう。原が消えたというのに。いや、原はきっと悪戯なんだ。
峯坂がやっと少年から包丁を取り上げた。部屋の隅に放り投げる。
「大路、押さえとけよ」
峯坂が懐中電灯を拾って廊下に光を向ける。
「すまんな。でもまずは落ち着けよ」
私は少年に告げた。背中に乗っているので少年の顔は良く見えない。でも必死なのは分かった。
「離して下さいっ」
少年はもがき続ける。私は急に不安になる。落ち着いてないのは私達の方ではないのか。間違っているのは私達の方ではないのか。
「駄目だあっ」
少年が叫んだ。峯坂が出入り口から廊下を覗き込もうとしていた。ふと動きが止まり、峯坂はこちらを振り向いた。薄闇の中で、峯坂は少年の顔を見ていた。
峯坂を止めるべきではないか。そう感じながら、私は声を出すことが出来なかった。
峯坂は黙って向き直った。懐中電灯で照らしつつ、何も持たぬ左手を廊下の空間へ差し出してみた。
室内に戻した左手は、何かおかしかった。
「あれっ」
峯坂が言った。
左手の指が全てなくなっていた。手首に大型の鋏の片方の刃が貫通し、血塗れの先端が突き出していた。前腕の皮膚がベラリと剥げて垂れ下がり、露出した筋肉がささくれている。その腕を別の赤い腕が掴んでいた。
「何だこりゃ」
呟く峯坂の横顔は何処か現実味に欠けていた。その頬から刃が生えた。峯坂が目を剥いた。廊下の闇から伸びた赤い手が別の鋏を突き刺したのだ。赤い手が次々と伸びてきた。峯坂が引っ張られよろめいた。
「いてっ」
木材用の鋸が峯坂の右腕に当てられ素早く振動した。ビヂビジという妙な音がして壁に小さな血痕が散った。ジャギジョギとまた嫌な音がした。
「おっつっ」
峯坂の胴からボタリと何かが落ちた。肉の塊か、それとも腸だったか。ボダボダと血が滴り、量が次第に多くなる。幾つもの鋏が動いていた。切られた肉片が床に落ちた。鋸がゴリゴリと骨を削る。その時になって、峯坂が本気の悲鳴を上げ始めた。
「ああっだずいでええカハ、ハーッ」
悲鳴が途切れた。鋏が喉を切ったのだ。峯坂が血みどろの両手で喉元を押さえる。右腕は上腕部がブラブラになっていた。左目に鋏が刺さっている。赤い腕が動いてジュブッと鋏が抜ける。刃に眼球が串刺しになっていた。頬が切られズタズタになっている。ゴリッとペンチが歯を折り取った。着ていたTシャツが裂けて腹も裂けて内臓が垂れ下がっていた。それを鋏で細かく切って赤い手がちぎっていく。峯坂が崩れ落ちそうになり、数十本の赤い手に引っ張られて廊下の闇へ消えた。床に落ちていた腸を赤い腕が回収して消えた。
大きくなった血溜まりが、床に残った。
私は、ただ、思っていた。嘘だ。信じられない。これは幻覚だ。嘘だ。こんなことがある筈がない。あの峯坂が、こんなことになる筈がない。嘘だ。幻覚だ。信じられない。嘘に決まっている。信じられない。幻覚だ。同じ言葉がただ頭の中をグルグルと回る。
「うっ」
沢木の声。そうだ。沢木がいた。彼なら冷静に見てくれていた筈だ。私は振り向いて沢木の顔を見た。
沢木は、目を血走らせて瞬きもせず、口をポカンと開けたまま凍りついていた。
「……嘘だ。これは幻覚だ。現実の筈がない」
沢木は、私が考えていたのと同じことを虚ろな声で言った。
「どうも酔ってるな。ここまで酔ったのは久しぶりだ。どうせブラックアウトして、明日には忘れてウブッ」
沢木が口元を押さえた。上がってきた吐物が指の間から洩れる。沢木は立ち上がって寝室に近い方の出口へ歩いていく。
「お、おい……」
私が声をかけるが沢木は立ち止まらなかった。
「駄目だっそっちも近づいたら危ないっ」
少年が叫んだ。私の下からズルズルと抜け出そうとしている。もう私は彼を押さえる気力を持たなかった。
沢木が向こうの出入り口を抜けた。途端に弾き飛ばされたように室内に戻ってきた。そのまま仰向けに倒れる。
「おえええっ。た、おえっ、あ、あれっ」
沢木が首を曲げて自分の腹部を見た。変だ。私も薄闇に目を凝らした。
沢木の腰から下が見えなくなっていた。代わりに細長いものが上半身から部屋の出口まで繋がっていた。腸だった。その腸がピンと張った。沢木の上半身が引き摺られた。
「おえっ、ひど、い、吐き」
沢木が両手で口を押さえて吐く動作を繰り返した。その腹部が部屋の外に消え、胸部が消え、そして、沢木の姿は完全に消えた。
静寂が、戻った。
部屋の外から不気味な音が聞こえた。それともさっきからずっと聞こえていたのだろうか。複数の鋏が何かを切っている音と、鋸が硬いものを削る音。そしてたまに水音。彼らが作業をしている。彼らって誰だ。何の作業だ。私は分かりたくなかったが分かっていた。
私の下から抜け出した少年が、隅に落ちていた包丁を拾い上げた。逆手に握り、黙って出入り口へ歩く。待ってくれ。私は言おうとしたが声が出なかった。少年は私の方を見向きもしなかった。原と峯坂が呑み込まれた方の闇へ、少年は自ら進んで入っていった。少年を掴む赤い手は現れなかった。
このまま朝まで待っていようかとも思ったが、私は立ち上がっていた。あの音が続く中、一人で部屋にいるのは耐えられなかった。少年についていくしかない。でも少年は部屋を出るなと言った。でも、何が起こっているのか、懐中電灯で廊下を照らすくらいなら試せるだろう。
私は少年の消えた出入り口へ光を向け、慎重に近づいていった。足元がゆらゆらしているのは酔いのせいではなかった。
その時、異様な声が聞こえた。
「ぎ、え、え、え、え、え」
しわがれて力のない、絞り出すような悲鳴だった。誰のだ。あの少年の……。
「幽霊が生きた人を殺すなんて、あってはいけないんだっ」
今度ははっきりした叫び声だった。少年の、本気で怒っている声だった。鋏と鋸の音に別の音が混じった。ジャク、ジャク、というような。
「幽霊がっ生きた人を殺すなんてっ」
何が。何が起こっているんだ。状況が変わっている。
また少年の叫び。そして弱々しい呻き。私は恐る恐る廊下を覗いた。まだ何も見えない。私は意を決して、廊下へ首を出して奥を見た。ここからはキッチンの一部とトイレ辺りまでが見える筈だった。
トイレの前の廊下で、少年が血みどろの相手を刺しまくっていた。
相手は殆ど骸骨だった。左足が付け根からなく右足で立っていた。骨の表面に粘っこい血が張りつき、僅かに残った肉が肋骨の間でブラブラ揺れていた。そんな薄い肉に、少年は逆手に握った包丁を突き刺しているのだった。骨と肉を擦る、ジャク、ジャク、という響き。
「あっては、いけないんだっ」
叫ぶ少年の顔は、凄まじい憎悪に歪んでいた。
「え、え、い、い」
骸骨が悲鳴を洩らしていた。骨だけの右手に大きな鋏を持っていたが、少年に反撃しようとはせず、抵抗もしなかった。骸骨は呻きながら、左手に持った肉の塊を鋏で細かく切り続けていた。肝臓だろうか。原のか、峯坂のか、それとも沢木のか。
少年が口を大きく開けた。大き過ぎる。鰐みたいに深い切れ目が走り少年の顔が変形する。
少年が、骸骨の頭に食らいついた。血みどろの頭蓋骨が少年の口の中へスッポリと収まっていた。少年の頭部も風船みたいに膨らんでいた。喉も膨れ、胸も膨れていく。
少年は、幽霊を呑み込もうとしているのだった。少年の口が更に大きくなった。クレイアニメを見ているようだ。骸骨の両肩が少年の口に収まった。そして胸部が、腰が呑み込まれていく。学生服の腹部が異様に膨らむがボタンが外れはしない。骸骨の手は、呑まれて消えるまでずっと内臓を鋏で切り続けていた。
骸骨は、完全に少年に呑み込まれた。膨れていた腹は元の大きさへしぼんでいくが、変形し巨大化した顔はそのままだった。少年は包丁を振り翳し先へ進んだ。数歩先に別の骸骨がいた。誰かの片足から丁寧に肉を剥いでいる途中だった。
「幽霊が人を殺すなんてっあってはいけないんだっ」
少年は同じ台詞を叫び、幽霊の背を刺した。その幽霊も抵抗はせず自分の作業を続けていた。そして少年が骸骨を呑んだ。その先にも別の骸骨がいる。少年は襲いかかった。
凄惨な光景に吸い寄せられるように、私は廊下へ泳ぎ出ていた。赤い手は私には伸びなかった。いや、また別の骸骨が角から顔を出して私を見た。左の眼窩にだけ眼球が嵌まっていた。骸骨が私に向かって歩き出す。その頭に少年が食らいついた。少年の胃袋は底なしのようだった。幽霊だから実際の質量はないのかも知れない。
私は目を逸らすことが出来ず、少年の進みに合わせてフラフラとついていき、懐中電灯の光を当てて一部始終を見ていた。骸骨はまだ何人もいた。少年の言ったように十五人いるのかも知れない。肉がそれなりに残っているのもいたが、大部分は殆ど骨だけだった。手足の一部がない者もいた。首がない者もいた。彼らはそれぞれ分担して、死体の解体に没頭していた。手足を鋸で切り落とし、肉を鋏で少しずつ切っていく。輪切りにされた腸が隅に積まれていた。溢れた血で廊下はベチャベチャだった。彼らは少年に刺され食らいつかれながら、抵抗や反撃をしようとはしなかった。まるで少年に気づいてないみたいに。それとも、解体作業が何よりも優先するのだろうか。
少年は機械のような同じ軌道で包丁を振り、骸骨を丸呑みにしていった。トイレではバケツに溜まった血と肉片を骸骨が便器へぶち撒けていた。その骸骨も少年が呑んだ。廊下をモップがけしていた骸骨も呑んだ。私は少年の後ろから浴室を照らした。そこは凄まじかった。大量の血溜まりに骸骨達の足首までが隠れていた。狭い中に七、八体の骸骨がぎゅうぎゅう詰めで作業をしていた。浴槽から手と足がはみ出して並べられ分解を待っている。私の友人達の死体。全てが、赤く、粘っこい血に染まっていた。少年は浴室へ進み、同じペースで骸骨達を片づけていった。仲間を失っても、骸骨達は全く気にする様子もなく解体を続けていた。バケツから肉片が零れ出した。
最後の一体を呑み終えると、少年の姿が消えた。私が瞬きした間に、唐突に、消えてしまった。
浴室と脱衣場、廊下には、小さく切られた無数の肉片と、骨だけが残った。私の友達。三人分の死体。
いや、呻きが、まだ、聞こえていた。
「助けて……助けて、くれ……」
私の体の感覚は殆ど麻痺していた。自分の体から一歩下がって、まるで映画でも観ているような感じのまま、私は浴室の血の海へ足を踏み入れていた。
照らされた浴槽の底に、肉が削ぎかけの上半身が転がっていた。
「助けて……くれ……大路……大路……助けて……」
首筋の肉を剥がれ頬を切り取られ、耳と鼻を削ぎ落とされた、おそらく沢木であろう男が、僅かに顎を動かして言った。瞼のない血走った眼球が私の方を向いている。でもそれは本当に見えているのだろうか。
私は、返事をすることが出来なかった。無理だ。もうお前は助からない。助けられない。すまない。許してくれ。
「助けて、くれ……助けて……」
立ち尽くす私の前で、沢木の声は次第に小さくなっていき、やがて途切れた。
三
最初の峯坂の指摘は正しかった。私達は幽霊と一緒に幽霊屋敷へ入ったのだ。
少年はもしかすると私達が来るのを待っていたのだろうか。生きた人間が見ていないと彼も力を発揮出来なかったのだろうか。いや、存在すら出来なかったのかも知れない。
私は一人生き残った。警察の事情聴取は大変だった。友人が幽霊に殺されたと言ってすぐに信用されるようなら警察の存在意義を疑った方がいい。
ひとまず私の容疑が晴れたのは、沢木が遺したカメラのお陰だった。
フィルムが現像され、プリントされた写真に、様々なものが写っていた。壁際にひっそりと立つ骸骨や、廊下の床に積もった肉片の山。便器の内側は血で真っ赤で、縁に肉片がひっついていた。血の海となった浴室で、血で溢れ返った浴槽に峯坂と原が足を埋め、こちらに笑顔を向けていた。その周囲に幾つもの顔が浮かんでいた。すだれ状に裂けた顔や下顎のない髑髏もあったが、比較的まともな顔もあった。高崎とその妹の顔、また、数年前から行方不明になっていた若者二人の顔が識別された。物置のバケツと鋏、鋸は血塗れだった。榊信一少年は写っていなかった。単に沢木が撮らなかっただけかも知れないが、今となっては確かめようがない。
これだけの霊が私達のそばにいながら、どうして少年はすぐに攻撃しなかったのか。私達が認識しなければ、彼も幽霊を攻撃出来なかったのだろうか。私達を殺すために幽霊が実体化するのを待っていたのだろうか。
警察が下水管を分解すると、ゴムタイヤの破片やワイパーの一部が引っ掛かっていたという。これも峯坂の冗談が的中していた。幽霊達は車も分解してトイレに流していたのだ。
また、私達が飲んでいた部屋の壁に、神社のお札が貼ってあったという。上の方だったので私達は見落としたらしい。最初の犠牲者の幽霊を恐れた高崎が貼ったのだろうか。幽霊達が入ってこれなかったのはそういうことなのだろうが、ならば何故少年だけは部屋に入れたのだろう。これも良く分からなかった。
そして、私が強く印象に残っていたのは、幽霊達が少年に食われながらも解体作業を続けていたことだ。幽霊について沢木が語った可能性のように、やはり彼らは死ぬ間際の恨みに支配され、他のことが目に入らない自動機械と化していたのだろうか。ならば、私達を助けようとしながら幽霊を襲った少年は、どんな意志を持って死んでいったのだろうか。
ミンチ屋敷の惨劇から二年が過ぎ、私は今、佐倉家の門を叩くことになった。
迎えた初老の女は佐倉真紀江といった。少し猫背で、痩せこけた、そのまま枯れ朽ちてしまいそうな感じの女性だった。居間に案内され、お茶を頂いてから、私は切り出した。
「昨日電話でお話した通り、あなたの娘さん……恵美子さんに関することです」
部屋の仏壇に二枚の写真があった。高校生くらいの可愛らしい少女の写真と、中年の男の写真。どちらも微笑んでいたが既にこの世にはいない人達だ。
「恵美子さんですか。それと……」
写真のことを私が尋ねると佐倉恵美子の母は頷いた。
「夫です。三年前に死にました。今ではもう、私だけです」
「そうでしたか。恵美子さんが亡くなったのは五年前ですね。幽霊に取り殺されたとか」
母親は軽く溜息をついた。
「そう、なのだと思います。でも、私と夫には、幽霊が見えませんでした。娘が部屋の隅を指差しながら、あんなに怯えていたのに、必死で助けを求めていたのに、私共には、何も出来なかったのです。そのうちに、夜中にふと気がついたら冷たくなっていて……凄い、形相で……。もっと早く、御祓いなどをしてもらっていれば、娘は助かっていたのかも知れません。ずっとそれが、心残りです」
悲しみに沈む母親に申し訳ないと思いながらも私は話を進めた。
「榊信一という少年をご存知ですか。恵美子さんの、高校のクラスメイトだった筈です」
母親は顔を上げ、眉をひそめた。
「……はい。覚えています。特別仲が良かったとかはないと思っていたのですが、娘が弱ってる時に、見舞いにも来てくれて。葬儀にも来てくれたんです。……凄く怒っていて、涙をこらえていて、何度も叫んでいたのを覚えています。『なんでこんなことで死ななくちゃならないんだよ。僕は認めないぞ』って。きっとあの子は、娘のことが好きだったんでしょうね。私は、後になってから気づいたんです」
「その榊君も、死んだんですよね」
「……はい。娘が死んで二ヵ月後くらいだったと思います。自殺だったそうです。包丁で、自分の胸を刺したとか」
「私は二年前、榊君に助けられたんですよ。幽霊屋敷で幽霊に殺されかけて」
佐倉恵美子の母親は僅かに頬の辺りを動かしただけだった。それほど驚きもせず、疑う様子もなく、ただ私の話を聞いていた。
「私はそれから色々と調べたんです。少年の名前と、私にしてくれた話から、インターネットで探したり、雑誌の心霊記事を問い合わせたりして。別の事件の目撃者が、榊君が好きだったクラスメイトの名前を聞いていました。それで、あなたに連絡をつけることが出来たんです。榊君は、人を苦しめるような幽霊を、殺して回っているんです。榊君自身も幽霊となって、日本中を巡って。これまでの五年間で、彼が幽霊を丸呑みにして食べたという目撃情報が、八十六件あるんですよ。実際にはもっと多いんじゃないでしょうか。多分、好きだった恵美子さんの復讐をするために」
「……そうだったんですか」
母親は俯いたまま、呟くように言った。隣の部屋から別の声が聞こえていた。小さな声で何と言っているのか分からない。しかし、彼女は一人暮らしではなかったのか。
「あの、どなたかおられるんですか」
私は母親に尋ねた。
「どうぞ、折角ですからご覧になって下さい」
母親は居間の外を指差した。私は立ち上がり、その指が指す場所を見た。廊下があり、その先に部屋がある。ドアは開いている。
小さな声は、その奥から洩れているようだった。私は母親に一礼して歩み寄った。
そこはおそらく佐倉恵美子の部屋だったのだろう。ベッドがあり、学習机があり、可愛らしい柄のカーテンがあった。
その、部屋の隅に、パジャマ姿の少女が膝を抱えていた。
頬がこけた青白い顔は、仏壇にあった写真と同じ人物のものだった。
「怖いの」
少女が弱々しい声を洩らした。
「白い着物のお婆さんが、じっと私のこと睨んでるの。私、金縛りになって動けなくて、助けも呼べないの。お父さんもお母さんも、幽霊が見えないみたいで。私、どうしたらいいんだろう。もしかしたら、このまま死んでしまうのかも」
少女の虚ろな瞳は私でなく向かいの壁を見据えていた。死んだ少女が死ぬ前の苦しみを虚ろに語っていた。居間から母親の声がした。
「ずっと前から、毎日、出るんですよ。私共には何も出来ないのに。夫もそれで弱り果てて、心労で……」
母親の声には何処か自虐的な響きがあった。
カラカラと音がした。カーテンが揺れた。サッシ窓が開いたのだ。
窓から学生服の少年が飛び込んできた。二年前と全く変わらぬ姿で。死んだ時と変わらぬ姿で。
榊信一は右手に包丁を握っていた。
「幽霊が生きた人を殺すなんて、あってはいけないんだっ」
少年はあの時そのままの台詞を叫んだ。少年は好きだった少女の幽霊に飛びかかり、包丁を何度も突き刺した。パジャマが血で染まっていく。
「あ、あ、あ、こわ、い」
少女の苦鳴。それでも瞳は榊ではなく向かいの壁を見ていた。
私は何も出来ず、あの時と同じように立ち竦んでいた。驚いて駆けつけた母親も私の横で凍りついた。少年は私達に構わず少女を刺しまくり、そして変形した頭部が巨大な口で少女に食らいついた。少女が弱々しく手足をもがかせる。
「はは、あ、はは、ははっ、あはっ」
母親が狂ったような笑い声を上げた。少年が少女を吸い込んでいく。相手がかつて好きだった少女だと気づかぬままに。
「し、失礼します」
母親の笑い声で呪縛が解け、私はその場から逃げ出した。少年が少女を消し去るのを見届けたくなかった。母親は追ってはこなかった。ただヒステリックな笑い声が続いていた。
佐倉邸を出て急いで車に乗り込みながら、私は呑み込まれた幽霊達がどうなるのだろうと考えていた。少年の胃の奥がせめて天国であって欲しい。せめて成仏して欲しい。涙が滲み出し、私は手の甲でそれを拭った。
きっと少年の旅は日本中の幽霊を皆殺しにするまで続くのだろう。或いは世界中の。それが済めば成仏出来るのだろうか。少女と天国で再会出来るのだろうか。せめてそうあってくれ。せめて。
もしかするとあのミンチ屋敷で峯坂と原も新たな犠牲者を待っているのだろうか。彼らを少年が成仏させてくれることを祈る。それと、頼む、もう一人……。
「助けて……くれ」
エンジンをかけた時、後部座席から声がした。バックミラーに血みどろの沢木が映った。私はポケットの御守りを握り締めた。