黒い血脈

 

  一

 

「逃がしたか」

 声はしわがれていた。

 斜め下を向いた両刃の細い剣。鋭利な刃先から赤い雫が、一定のペースで落ちていく。床の血溜まりに浅い波紋が揺れる。

 刃渡り二十センチほどの剣は、金属製のステッキから槍の穂先のように生えていた。

 白い手袋でステッキを握るのは、黒いマントを羽織った長身の男だった。同じ色をした鍔広の山高帽を目深にかぶり、顔は見えない。

 ここは、小さな工場か作業場であろう。十二、三畳ほどのスペースで、工員がいるとしても数人程度か。旋盤やプレス機などの金属加工機械が設置され、隅の方には鉄板が積まれている。

 機械と機械の間に、約六人分の死体が転がっていた。

 一人目。三十代後半と思われるスーツ姿の男は、片手を虚空へ伸ばしたまま倒れていた。顔面は血塗れでメチャクチャに凹み、原形を留めていない。飛び出した左の眼球は視神経の糸を引いて床に転がっている。

 男の左のこめかみには、金槌が頭蓋骨を破って深くめり込んでいた。

 二人目。スーツの男と同年代くらいの女が、膝をついたまま前のめりに、顔を床にぶつけた状態で死んでいた。左腕は何かを抱くようなポーズのまま固まっている。右腕は折れているらしく異様な方向に曲がっていた。女の頬には三筋の傷が走り、めくれた肉から血が滲んでいる。

 三つの小さな穴がうなじに開き、そこから流れた血は女の顔まで伝い落ちていた。

 三人目。別の女が壁に背を預け、そのままずり落ちたような姿勢で死んでいた。女の断末魔の顔はひどく歪んでいたが、それが示すものが恐怖なのか、或いは別の感情なのかは分からない。衣服と一緒に裂けた腹壁が血塗れの腸をはみ出させている。

 四人目。作業服の男が、金属の台の上に倒れ込んでいた。年齢は四十代の前半であろうか、この工場の持ち主かも知れない。軍手を填めた右手は電動丸鋸を握り締めていた。丸鋸の歯を染める血液は誰のものか。

 男の上半身は俯せだったが、その顔は完全に天井を向いていた。男の首は皮一枚を残して綺麗に切断され、ひっくり返った後頭部が自分の背中に触れていた。大量の血液が台に溢れ返り、雫が今も床に滴っていく。台の上の血には幾つもの肉片や金属部品が混じっていた。

 男の顔は、凄まじい形相のまま凝固していた。それは、極大の狂気に支えられた、歓喜であった。

 作業服の男が死んでいる台の下、やはり血の海となった床に、肉の残骸が転がっていた。おそらくはこれが五人目となるのだろう。

 それは、十才前後と思われる、裸の少年の死体だった。両腕が切断され、左足が切断され、胸腹壁が切り開かれ、腸の切れ端がはみ出していた。

 少年の顔は、消滅していた。下顎がなく、湧き出した血から舌先が覗いている。頬から上のラインで、鋸で乱暴に削り取られたような断面を見せ、頭蓋骨の上部が外れていた。内部の脳も削れ、潰れている。

 そんな、少年の胴体の周囲に、切り取られた体のパーツが散らばっていた。脳の破片もあった。どの部分なのか分からないものもあった。

 少し離れた場所に落ちている右腕の肌の色は、胴体と違い、浅黒いものだった。

 左腕は、室内の何処にも存在しなかった。

 最後の死体は、山高帽の男の前に倒れていた。黄色の雨合羽をかぶった男で、背中に幾つか細い裂け目が出来、血が流れ出している。右袖は中身ごと切断されて別の場所に落ちていた。少年の死体と違い、恐ろしく鋭利な断面だった。

 その切断された右腕は、今もまだ大型の熊手を握っていた。三本の鉤爪の先端には血液が絡んでいる。

 熊手を握る右手の指は、七本あった。余分な二本は親指と人差し指の間、そして小指の横に、無理矢理縫いつけられたようにして生えていた。他の指よりも細く、しなびている。

「あんたは……」

 死体と思われていた雨合羽の男が喋った。舌足らずの、不明瞭な発音だった。

 震える左腕で血溜まりを掻き、雨合羽の男はフードで隠されていた顔を上げた。左手の指は六本だった。

 男の顔は、正中線上で縦に縫い目が走っていた。古い、そして汚い傷痕だ。それを境に顔の右側は、のっぺりとして血の気のないものだった。右目は白く濁っている。

 顔の左側は歯を剥き出し、頬を引き攣らせ、目を見開いて山高帽の男を睨んでいた。

 雨合羽の男の瞳は怒りに燃えていたが、同時に、泣いているようにも見えた。

「あんたが、この呪いをつ……」

 カツン、と、音がした。

 死にゆく者の言葉を無情に遮り、山高帽の男が振ったステッキの刃が雨合羽の男の首を刎ねていた。肉や骨や気管の覗く滑らかな首の断面から、血が勢い良く噴き出して山高帽の男の足元を濡らした。

 山高帽の男は転がっていく生首には見向きもせず、工場の出入り口へ向き直った。

 小さな血の跡が、隣の部屋まで点々と続いていた。

「どうせ、間に合わぬじゃろうが」

 立てたマントの襟と山高帽の間から男はその言葉を吐いた。ステッキの握りを両手で持ってひねると、キョリッ、と先端の刃が内部に引き込まれた。

「追わぬ訳にもゆかぬか」

 山高帽の男は走り出した。右足を僅かに引きずるが、男の動きは素早かった。

 男が消え、工場には、六つの死体だけが残った。

 作業服の男が倒れ込む台から、血の雫と共に金属のボルトが落ちて、コトンと音を立てた。

 一九八二年十月二十一日のことだった。

 

 

  二

 

 十年後、一九九二年十月十四日、真夜中。

 令英会清和総合病院、産婦人科病棟の暗い廊下を歩く影があった。

 腰を屈めてナースセンターの前を通り過ぎ、すぐに伸ばした背筋は少し右に傾いていた。左足を動かすたびに金属の噛み合う響きが洩れる。物音に気づいて看護婦の一人が顔を出したが、その時には影は曲がり角の向こうへ消えていた。

 安物の薄いコートを着た男だった。袖は通さず、左側が右よりも膨らんでいる。首から上は包帯に覆われているため顔は見えない。隙間から覗く右目だけが、異様な眼光で周囲を見回していた。

 新生児室と書かれた札を認め、片目の男は立ち止まった。ガラス窓を通して、室内に並ぶベビーベッドや保育器が見えていた。

 片目の男は新生児室のドアに触れた。鍵が掛かっている。

 小さく舌打ちしながらも片目の男はコートの合わせ目から二本目の腕を出した。針金を鍵穴に挿して動かすが、なかなか鍵は開かない。右手は男の意志を無視して小刻みに震える。

 片目の男の瞳に、焦りが浮かんだ。

 コートの合わせ目から、更に別の腕が現れた。それは左腕で、他より細かった。

 片目の男は、三つの手を使い、なんとか鍵を開けた。

 新生児室に入った男は、薄明かりの下でベビーベッドを覗き込んだ。小さな寝息を立てる小さな赤子を、舐めるようにじっくりと観察していく。

 十数人の新生児のうち、片目の男は、『木村良介・理恵ご夫妻の赤ちゃん』と札のついている赤子と、『坂田健一・雪美ご夫妻の赤ちゃん』と札のついている赤子を交互に見比べた。

 まだ生後間もないと思われる両者は、顔の造作も体型も、殆ど見分けがつかないほど似通っていた。

「この二人だ」

 片目の男はゆっくりと、低い声で呟いた。顎の辺りで何かが軋む音がした。

 手を伸ばしかけ、片目の男はふと動きを止めた。

「やるのか」

 自問する男の眼光が、躊躇に揺れていた。

「俺が、されたのと、同じことを、こいつらに……」

「あら、あなたは」

 若い女の声に片目の男は振り向いた。巡回に来たのか、一人の看護婦が新生児室の別の入り口に立ち、怪訝そうに男を見ている。

 片目の男は何も言わず動いた。左足は微かな金属音を洩らした。男の太い方の左腕が素早く蛇のようにうねり、看護婦の喉に触れた。

 看護婦は逃げることも、悲鳴を上げることもなかった。ただ、目を大きく開いて、包帯に覆われた男の顔を見返していた。

 片目の男が、左腕を引いた。

 ブゾリ、と、不気味な音を立てて、看護婦の喉から血塗れの刃が引き抜かれた。

 片目の男の左手が握っていたのは、刃渡り十センチほどの果物ナイフだった。

「だ……ゴボッ」

 看護婦はまともな声も出せぬまま、前のめりに崩れ落ちた。それを冷静に観察する男の瞳から躊躇は消え、少しずつ、昏い愉悦が広がっていった。

「やろう」

 片目の男は呟いて、眠っている赤子を静かに抱き上げ、もう片方の赤子と場所を入れ替えた。足に結びつけられた札も取り替える。

「く、く、く」

 絶命している看護婦と床の血溜まりを尻目に、片目の男は、含み笑いを洩らしながら新生児室を出ていった。

 

 

  三

 

 更に十年が過ぎた。

 二○○二年十月十四日。丁度、体育の日であった。

 晴れた午後の通りを、男が歩いていた。灰色のロングコートは所々に染みが残っている。この季節にしては冷たい風がコートの裾を軽くはためかせた。

 男は薄汚れた野球帽をかぶっていた。顔面に包帯を巻いており、露出した部分は右目の周囲だけだ。老いの皺はまだ認められないが、瞳は陰鬱な疲労を湛えていた。

 コートの左脇は不自然に膨らんでいた。内側に何かを収めているように。

 上体を僅かに右へ傾け、左足から金属音を洩らしながら、片目の男は住宅街を歩いた。擦れ違う人々が男を奇異の目で振り返る。慣れているので男は気にしない。

 片目の男は小学校の前で立ち止まった。低い塀に沿って運動場側に回る。

 休日の運動場では、ユニフォームを着た生徒達がサッカーの練習をやっていた。

 元気良く駆け回る子供達の一人を、片目の男は金網越しに見つめていた。

 まだ十才前後だろう。髪の短い、日に焼けた肌の少年だった。年齢にしては背が高く、上級生にも負けぬ動きを見せている。

 生命力に輝く少年の顔を眺め、男の右目が細められた。

 片目の男は、何の苦悩もなかった自分の少年時代を思い浮かべていた。

 会心のシュートがゴール脇へ逸れ、少年は天を仰いで唸り声を上げた。

 と、少年が片目の男に気づいた。男の視線と少年の視線が絡んだ。

 少年が首をかしげる前に、片目の男は背を向けて小学校を離れた。

 片目の男は迷わずに歩き、小さな公園に着いた。これまで何度も歩いた道筋だった。ベンチに腰をかけ、さり気なく顔を上げる。

 視線の先には二階建ての屋敷があった。まだ築後数年だろう、窓が大きくモダンな造りだ。

 表札には『坂田』とあった。

 片目の男の座る場所からは、キッチンの一部が見えた。

 エプロン姿の女が料理の準備をしていた。今夜の夕食は手間のかかったものらしい。女は髪の長い美人で、三十代半ばと思われる。

 楽しげに料理をしている女を、片目の男は目を細めて見ていた。女の姿を見ながら、男は自分の中にある別のものを見つめていた。それは甘美な記憶と、恐ろしい記憶であった。

 腹が鳴り食物を要求し始めたが、片目の男は動かなかった。

 午後六時が近づくと、国産の高級車が到着し、屋敷の車庫に入った。

 車から喜び勇んで出てきたのは、四十代前半のがっしりした体格の男性だった。額の生え際はやや後退しているが、目の光は強く動作もきびきびしたものだ。左手に大きな袋を抱え、右手に四角い箱を提げていた。箱の包装紙にはケーキ屋の名前がプリントされていた。

 エプロンの女が気づいて、主が玄関の呼び鈴を鳴らす前に扉を開けた。

「お帰りなさい。病院の方は大丈夫」

 女が微笑み、男は笑い返した。

「ああ、祝日なのに残業なんかしないさ。約束通りケーキとプレゼントを買ってきたぞ」

「健夫はまだ帰ってきてないのよ。六時までには帰るようにきつく言っておいたのに」

「いいさ。子供のうちは目一杯遊ぶもんだ」

 そんな会話を交わしながら、夫婦は家の中へ入っていった。

 片目の男は公園のベンチから、それを見守っていた。

 夫の方が坂田健一四十二才、評判の良い外科医であり、妻の方が雪美三十三才、元看護婦であることを、片目の男は知っていた。

 日が暮れて町が夕焼けに染まった頃、先程のサッカー少年が駆けてきた。ユニフォーム姿のままで、ボールの入った網袋を振り回している。

 少年はそのまま『坂田』の表札のある門を抜けようとしたが、公園から見守っている男に気づいて立ち止まった。

 片目の男は、今度は背を向けなかった。

 怪しげな風体にも物怖じすることなく、少年は公園に入り、男の前まで歩み寄った。まだ他人の悪意に触れたことのない瞳。

「おじさん、誰。お父さんの知り合いなの。前から時々、僕のこと見てたよね」

「まあね。君が生まれた、時から、知ってるよ。ずっと、見守ってたんだ」

 片目の男は答えた。顎から洩れる金属の軋みに、少年はちょっと驚いた顔をした。

「おじさん、病気なの」

 君もいずれそうなるよ、という言葉の代わりに、片目の男は別のことを告げた。

「健夫君、誕生日、おめでとう。十才に、なったね」

 思わぬ指摘に少年はニッコリと笑み崩れた。

「へえ、僕の誕生日も知ってるんだ。そうだよ。今日はお父さんも早く帰ってきてくれたんだ」

「お父さんも、お母さんも、君のことを、愛してるね。君は、お父さんと、お母さんのことを、好きかい」

 片目の男は少年に尋ねた。

 男の瞳の奥で蠢く黒いものに気づかずに、少年は無邪気に答えた。

「うん。大好きだよ」

 片目の男は、右の目を静かに閉じた。

 やがて目を開き、男は言った。

「そうかい。じゃあ行きなさい。ご両親は、待ちくたびれてるぞ」

「うん。じゃあね、おじさん」

 少年は自宅の玄関に駆け込み、呼び鈴を押した。すぐに父親が扉を開けた。

 親子の笑い声に背を向けて、片目の男はその場を立ち去った。今夜のうちに寄らねばならない場所がもう一つあるのだ。

 片目の男は早足で地下鉄の駅まで歩いた。切符を買う際の右手は本人の意志とは関わりなく小刻みに震えている。浅黒い左手と違い、右手の肌は白かった。

 列車に乗っている間、片目の男を他の乗客は好奇心と憐憫の混じった視線で覗き見ていた。

 目的の駅まで十五分ほどだった。疎らな人の流れに沿って駅を出るとすぐ、片目の男はランドセルを背負った少年を見つけた。

 一人で歩く少年は小学四、五年生に見えた。坊っちゃん刈りで丸縁の眼鏡をかけている。鷹揚とした雰囲気に知的な眼差し。

 片目の男は偶然の神或いは悪魔に感謝しながら少年に追いつき、背後から慎重に話しかけた。

「充君、誕生日、おめでとう」

 少年は不思議そうに振り向き、男の怪しい姿に表情を強張らせた。

「誰。なんで僕のこと知ってるの」

 問いながら、少年は何かを思い出そうとするような顔になった。まだ警戒心は消えていないが、少年はぎこちなく笑みを見せた。

「そういえばずっと前、僕がカツアゲされそうになった時、おじさんが助けてくれたよね」

「へえ。覚えてたのかい」

 時期が来るまで干渉しない方針だった男が半年前に少年を助けたのは、少年に翳りのない幸福な人生を歩んで欲しかったからだ。

 これから、その全てが打ち砕かれることになるのだから。

「うん、ありがとう。あれからは嫌な奴らはいなくなっちゃった」

 それはそうだろう。カツアゲの中学生達は男がバラバラにして袋詰めにし、生ゴミに出しておいた。

「塾も大変だね。でも今夜は家で、誕生日のお祝いが、あるんだろう」

「そうなんだ。十才になるんだよ」

 少年と片目の男は、並んで歩きながら話した。

「充君は、お父さんと、お母さんのことが、好きかい」

 さり気なく、片目の男は尋ねた。

「うん。大好きだよ」

 少年は微笑んた。先程のぎこちなさは和らいでいた。

「お父さんと、お母さんも、充君のことが、好きなんだね」

「うん」

 少年は自信満々に胸を張って答えた。

 細められた男の右目の奥で、邪悪な悦楽と痛みが揺れた。少年がそれに気づくことはなかった。

「じゃあ、早く家に帰るんだね。車に、気をつけてな」

「ありがとう、おじさん、じゃあね」

 別の方向へと歩く男に、少年は手を振った。

 片目の男は少年とは違うルートを歩いたが、目的地はほぼ同じだった。

 五階建ての古いマンションが見えてきた。オートロックではなく直接階段が続いている。片目の男は膝を軋ませながら五階まで上った。擦れ違う住民が訝しげに男を見る。

 片目の男の興味はこのマンションではなく、階段の踊り場から見える向かいのマンションだった。この場所からは、サッシ越しに四階の部屋の様子が見える。

 リビングのソファーに座ってテレビを観ている三十代後半の男性と、台所から時折姿を見せる同年代の女性がいた。

 やはり丸縁の眼鏡をかけた落ち着いた物腰の男が、三十八才の有能な建築技師、木村良介で、三つ編みをした優しそうな女が木村理恵、三十五才であることを、片目の男は知っていた。

 ランドセルの少年が到着し、向かいのマンションに入った。

 片目の男はその唯一の目を開き、瞬きもせず、音のない情景に見入っていた。

 やがて眼鏡の男性が立ち上がり、妻と共に奥へと歩いていった。

 リビングに戻ってきた二人の間に、少年が嬉しそうに挟まれていた。

 親子の幸福を、片目の男は冷たい風の吹き抜ける階段の踊り場から眺めていた。

 片目の男は、溜息をついた。

 やがて男は階段を降り、マンションを出ていった。

 電話ボックスを見つけ、片目の男は入った。小刻みに震える手で十円玉を数枚取り出す。

 片目の男は暫し目を閉じて、遠い日の追憶に浸り、同時に二組の親子の姿を思い浮かべた。

 嘗て自分が味わわされた痛みを、彼らにも。

 罪悪感も躊躇も滲んだ涙と共に拭い去り、片目の男は硬貨を入れ、最初の番号を押した。

 数度の呼び出し音の後、男性の声が出た。

「はい、坂田です」

 片目の男は、ゆっくりと、話し始めた。

 

 

  四

 

 坂田健一は自分の妻を愛しているのと同じくらい或いはそれ以上に、一人息子を愛していた。溺愛していたと言ってもいい。

 矛盾に満ちたこの世界で、彼にとっての唯一の救いがこの家庭であった。それを無垢なるままに守り抜くことが彼の生きる意味であり崇高な使命であった。そのためだけにこそ、この腐った社会の泥濘を喜んで這いずり回ることが出来るのだ。

 息子には強く育って欲しかった。自分の果たせなかった夢を子供に託すつもりなどない。自分の人生と息子の人生は別のものだと冷静に心得ている。ただ自分の力で運命を切り開ける、強い男になって欲しかった。そのためには時に厳しく叱り、時に全身全霊を込めて称えた。また、父親は男の規範であり、言動の不一致を始め中途半端でいい加減な姿は決して見せてはならない。強く正しい息子は、強く正しい父親の元に育つものだ。坂田健一はそれを実践する精神力と行動力を持っていた。

 息子の学校の成績に妻の雪美は一喜一憂していたが、坂田健一は全く気にしていなかった。まだ小学生だ。そんなうちから勉強ばかりしていてどうする。少年時代にはもっと経験し吸収しておくべき、大切なことが山ほどある。息子にとって家庭とは、安心して休める故郷でなければならない。

 息子は真っ直ぐに育っていた。時には同級生と喧嘩もするが、弱い者苛めなどはしない。息子が人生の素晴らしさを信じていることを、そして父親を信じていることを、坂田健一は実感していた。

 坂田健一は、幸福であった。

 叫び回りたいくらいに、幸福であったのだ。

 電話のベルが鳴ったのは、プレゼントの新しいサッカーシューズを息子が開き、バースデーケーキを妻が切り分けていた時だった。

 幸福のひと時を中断され、多少不機嫌になって坂田健一は受話器を取った。病院からか。容態の急変しそうな患者はいない筈だ。

「はい、坂田です」

 相手は最初、無言だった。篭もった息遣いだけが聞こえていた。

「もしもし」

 坂田健一は続けて問うた。

「く、く、く」

 やがて嫌な含み笑いが返ってきた。完全にこちらを馬鹿にした笑い。

 悪戯電話か。息子の大事な誕生日に。坂田健一は怒りに頬が引き攣ってきたが、息子が近くにいる手前、冷静さを装って告げた。

「用がないのなら切りますよ」

「息子さんの、誕生日、おめでとう。丁度、十才だ」

 ゆっくりと、声が告げた。男の声だった。同時に金属のこすれるような音が聞こえた。

 誰だ。息子の誕生日を知っていて、祝いの電話をくれたのか。坂田健一は知人達の顔を思い浮かべた。いや、相手の声音には明確な悪意が感じられる。

「誰ですか、あなた」

「俺が誰かなんて、どうでもいいことだろう。そんなことよりも、重要なのは、あんたの息子が、誰かと、いうことだ」

 どういう意味だ。この男は何を言っている。私の息子は私の息子に決まっているじゃないか。坂田健一は浮かんだ疑問をそのまま口にした。

「どういう意味だ」

「息子さんの、生まれたのは、清和総合病院、だったね。その夜、看護婦が新生児室で、殺されていた事件は、覚えているだろう」

 覚えていた。犯人が見つからぬまま迷宮入りとなっていた事件だ。だがそれと、息子とどんな関係があるというのだ。

「それがどうした」

「あの夜、何があったと、思う。生まれ立ての、赤ん坊が二人、互いに、すり替えられたのさ。片方は木村良介と、理恵という、夫婦の子供だった」

 何を言ってるんだ、この男は。坂田健一は、一瞬電話を切ろうかと思った。だが彼の腕は動かなかった。

 くく、く、と、嫌な笑いの後で、男が告げた。

「もう片方は、坂田健一と、雪美の夫婦の、子供だった。つまり、そこにいる健夫君は、あんたらの、息子じゃない。本当の、息子は、木村家にいる」

 坂田健一は、自分の顔から血の気が引いていくのを、恐ろしくリアルに感じていた。

 馬鹿な。そんな筈はない。私の息子は健夫だ。目元も鼻の高さも私に似ているんだ。私は父親として、ずっと健夫に……。

「木村家の電話番号を、教えてやろうか。確かめて、みればいい。く、く、く」

 人違いだったのか。

 私は偽者に、愛情を注いでしまったのか。

「お父さん、食べようよ」

 皿に置かれたケーキを前に、待ちきれなくなった健夫が言った。

 坂田健一は、ゆっくりと、振り向いてみた。

 最愛の息子であったものが、今、何やら別の生き物であるように見えた。

 

 

  五

 

 翌日の昼。

 令英会清和総合病院の玄関を、木村良介は苦い思いで眺めていた。

 充が三才の時まではここの小児科で診てもらっていた。その後に引っ越したから、七年ぶりになるだろうか。

 木村良介は横に立つ妻の理恵の顔を、そして間に挟まれた充の顔を見た。

 理恵は内心の不安をぎこちない微笑みで隠そうとしていたが、目の下の隈は隠せなかった。

「ねえ、火曜日なのに、学校をお休みしていいの」

 充が聞いた。この場の雰囲気をどの程度察しているのか、充もまた緊張しているようだった。

 その、時に柔弱と指摘されるほどの繊細さと鋭敏さは、父親似だと思っていたのに。

「いいんだよ。今日はちょっとした検査をするんだ」

 木村良介は精一杯の微笑を浮かべて答えた。それは幾分疲れた微笑になってしまったかも知れない。昨夜は一睡も出来なかった。

 謎の男からの電話と、坂田健一からの電話のせいだった。

「でも僕、何処も悪いとこなんてないよ」

「健康診断さ。お父さんとお母さんもするんだよ。じゃあ、入ろうか」

 玄関の自動ドアを抜けて受付のロビーに来ると、待合の長椅子から素早く立ち上がる男がいた。傍らに座っていた女性と子供がそれに倣う。

 こちらに向かってくる男の足はどんどん速くなり、一瞬、飛びかかってくるのかと木村良介は思った。が、すぐ手前で男は急停止した。

「木村さんだろう。待ちくたびれたよ」

 男が言った。四十代前半だろう、がっしりとした体格で、ブランドもののスーツを着ていた。額の生え際は後退しかかっている。

 男の目の光は、尋常でない光を帯びていた。

「坂田……さん、ですね。十一時の約束だったでしょう。まだ十時四十分だ」

「こっちはもう九時過ぎに着いていた。そんな悠長には構えていられない」

「医者ということでしたね。お仕事は大丈夫なんですか」

 勿論、坂田健一の職場はここではない筈だ。

「仕事などよりこっちの方が大事だ。そうだろう」

 坂田健一の口調は高圧的なものだった。周囲に配慮する余裕を失っているようだ。

 不思議そうな顔の充へ、坂田健一が視線を向けた。

 瞬きもせず、食い入るように見つめる坂田健一に、充は怯えて木村良介の後ろに隠れた。坂田健一の頬がヒクヒクと動いた。

 坂田健一の後方から、彼の妻と思われる女性に伴われ、十才の坂田健夫がやってきた。

 背の高い、浅黒い肌の少年だった。その瞳は疑うことを知らぬ陽性の輝きを持っていた。

 彼が、自分の本当の息子かも知れない。

 その実感は、木村良介にとって何ら感動的なものではなく、人生を根底から突き崩されるような、不気味な感触のするものであった。

「まず、ちょっと二人だけで話をしよう」

 坂田健一が促した。木村良介は後ろの充に告げた。

「あの子は充と誕生日が同じで、坂田健夫君というんだ。挨拶しといで。友達になれるかも知れないよ」

 充はおずおずと頷いた。充の肩に置かれた理恵の手は、小さく震えていた。

 坂田健夫は無邪気に同年代の充を見つめていた。坂田健一の妻は滲む涙を隠していた。

 四人をロビーに残して、木村良介は坂田健一と共に応接室に入った。

「もう院長とも話した。当時のカルテも読ませてもらった」

 忌々しげに坂田健一は言った。

「この病院の警備システムの不備について、私は訴訟を起こそうかとも考えてるんだ」

 坂田健一の怒りは全ての対象に向けられているようだった。

「看護婦殺しの犯人は見つからなかったんですよね。事件のあった次の朝には、私達は息子を連れて別の病院に移りましたが、坂田さんもそうだったんでしょう」

「ああ、そうだ。殺人事件のあったようなところに、妻と息子を置いておけないからな。しかも看護婦が殺されたのは新生児室だ。もしかすると得体の知れない殺人者に、息子も殺されていたかも知れないと思うとゾッとしたよ。だが、奴の目的は、別のことにあったんだ」

 坂田健一は歯を食い縛っていた。その怒りように不気味さを感じると共に、愛情をかけてきた親ならば当然の怒りかも知れないと、木村良介は羨ましさを覚えた。だが、彼もまた自分なりに、丹精に充を愛してきたことを、誰に対しても誇りを持って宣言出来るつもりだった。

「昨夜電話をかけてきた、あの男が犯人でしょうか」

「そうかも知れない。いやきっとそうだ。探し出して八つ裂きにしてやる。だが、そんなことよりも、重要なのは、本当に、私達の息子が、すり替えられていたのかと言うことだ」

 坂田健一は目を見開き、ぶつかりそうなほどに自分の顔を近づけてきた。木村良介は反射的に一歩退いた。坂田健一は構わず続けた。

「DNA鑑定だ。説明しておいたから分かっているだろうが、口腔粘膜を採取して、急がせれば一週間で結果が分かる。ほぼ百パーセントの確実な結果だ」

「しかし……」

「心配要らない。費用はこの病院が負担する。何だ。何が不満だ」

 躊躇う木村良介を、坂田健一が抉り込むように睨んだ。

 木村良介は、仕方なく話した。

「あの男の電話は、ただの悪戯かも知れない。私達は踊らされているだけかも知れない。……それに、確かめて、どうするんです。この十年は、長く、大切な年月だった。子供にとっては特に。それが、結果次第で、全て崩壊することになるのではありませんか」

 悪戯である可能性は、彼自身、殆ど信じていなかった。そう信じたいだけだった。ただ、結果を知るのが怖かったのだ。

「坂田さん、あなたは、怖くないんですか」

「怖いとか怖くないとか、そういう問題ではない」

 坂田健一は答えた。

「確かめずにはいられないのだ。そういうことだ」

 坂田健一の揺るがぬ決意に押されるように、木村良介はDNA鑑定の手続きに応じた。書類にサインしながら、充にちょっとした病気の予防のための検査だと説明しながら、頬の内側の粘膜を看護婦に綿棒で採取されながら、木村良介の頭の中を後悔ばかりが巡っていた。

 これで良いのか。これで良かったのか。

「鑑定は専門の業者に頼むことになる。結果が分かったらそちらにも連絡が行く筈だ」

 坂田が言った。彼の目が瞬きするところは、最後まで見られなかった。

 翌日から日常が再開された。充はいつものように学校と塾に通っていたが、両親の様子を窺っているような気配があった。鋭敏さと優しさを併せ持つ充は、決して問いを口にしなかった。

 妻の理恵は家事を忘れてぼんやりしていることが多かった。木村良介がマンションに帰ってみると、料理を途中のままソファーに腰掛け、「どうしようどうしよう」と呟く妻を目にしたこともある。

 木村良介自身、仕事が手につかず、山積みの仕事を置いて早退を続けていた。書斎にいても、考えるのは充のことだけだった。実の息子かも知れない坂田健夫のことも考えたが、それよりも彼が怖れていたのは、充が本当の息子でないと判明した時に、自分の充への愛情が決定的に消え去ってしまうのではないか、そしてそれを充が感じ取ってしまうのではないか、ということだった。

 充が実の子でないとしても、愛情に飢えた荒んだ少年期は送って欲しくない。木村良介は、そう考えるだけの繊細さを持っていた。

 もし入れ替わっていたと判明すれば、坂田健一はどうするだろうか。充を引き取ることを主張するだろうか。

 あの強迫的で思考の硬そうな坂田健一が、育ててきた息子への愛情を、新しい息子にうまく切り替えることが出来るだろうか。

 そして、自分はどうなのか。木村良介はまた、自身も知らぬ本性が露呈することを怖れた。

 もし、自分の子ではないと判明しても、充を精一杯愛そう。もし、坂田家に引き取られることになったとしても、お前をずっと愛してきたし、今も愛していると伝えよう。木村良介は、そう思いながらも、悶々とした日々を過ごした。

 DNA鑑定の結果が届いたのは、清和総合病院での検査から丁度一週間後のことだった。

 速達で郵送された封筒を開き、妻と共に、木村良介は震える手で書面を開いた。充はまだ学校から帰っていない。

 何やら表と数字が並んだ後で、問題の文面はあった。

 『木村良介氏・木村理恵氏と木村充氏には、血縁関係はありません。木村良介氏・木村理恵氏と坂田健夫氏は、99.999パーセントの確率で親子関係にあります』と、書かれていた。

「あああ。ああああ」

 溜息をつくような声を出して、理恵が床にへたり込んだ。

 木村良介の脳裏に、充と過ごした十年間の光景が、次々と浮かんでいった。それは泣いている充のオムツを替えている場面であり、七五三で不似合いな晴れ着を着た充の姿であり、高熱を出した充を抱えて病院を探す場面であり、運動会の五十メートル走で膝を擦り剥いて涙を堪えている充の姿であり、飼っていたゴールデン・レトリバーの死に立ち会って「死んだらどうなるの」と父に問う充の姿であり、ほんの八日前の充の誕生日を祝う場面であった。

 それらは浮かぶそばからセピア色に変じ、更にみるみる色褪せ、やがて、完全にモノクロームの情景と化して、霧散していった。

 充と過ごした木村良介の人生が、充の存在自体が、別のものに変質してしまった。

 充。

 木村良介は、知らぬ間に、嗚咽していた。

 

 

  六

 

 坂田雪美は郵送された封筒を開けられずに、玄関口でそのまま立ち尽くしていた。

 もし健夫が本当の息子じゃなかったらどうしよう。本当の息子が向こうの子供だったら。でもあの子は優等生っぽくて成績は良さそうだったわ。そこまで考えて、坂田雪美は自己嫌悪に陥った。

 夫の健一はこの一週間、仕事を休んでいる。病院からの電話に荒々しい口調で応対する健一の姿も見ていた。解雇されないかと雪美は心配になる。息子のことを気にかけるあまり、自分達の生活を失ったら元も子もないのでは。と、そんな考えを浮かべてしまった自分をまた醜いと思う。

 坂田雪美の怖れているのは、健夫のことだけではなかった。

 彼女が最も怖れているのは、日に日に顔が険しさを増し、眼光が鋭くなっていく、夫のことだった。

 職場で一年半、結婚してからは十一年、夫の姿を見つめ続けてきたが、頼もしいと感じこそすれ、恐怖を覚えることはなかった。

 だが、今、夫の荒んだ顔は、何をしでかすか分からない危うさを孕んでいた。

 木村家の人達とトラブルにならなければいいのだけれど。

 そうだ。もし健夫が木村夫婦の息子で、木村充が私達の子供だったら、引っ越してお隣同士になり、こだわりを捨てて皆で仲良く暮らせばいい。健夫も充君も、どちらも息子だと思えばいい。皆で同居してもいい。

 そのアイデアは坂田雪美にとって、最良のものであるように思われた。

 コツンコツンという硬い音に、坂田雪美はふと顔を上げた。家の前の通りを人影が歩いていた。

 今時珍しく黒いマントを羽織った、長身の男だった。右足を僅かに引きずるが鈍重な感じはしない。白い手袋を填め、右手は金属製のステッキを握っていた。

 硬い音は、ステッキの先端がアスファルトを叩く音だった。

 鍔の大きな山高帽を目深にかぶっているため、顔は見えなかった。

 坂田雪美が見守っていると、男が立ち止まり、こちらを向いた。山高帽が斜めにかしげられた。

 二人は、黙って数秒間、対峙していた。

 やがて男は体を向き直らせ、家の前を通り過ぎていった。コツンコツンという響きが遠ざかる。

 不気味な雰囲気の、男だった。

 我に返った坂田雪美は、十五分以上に及ぶ逡巡に終止符を打ち、封筒を持ってリビングへ戻った。少なくとも自分には、開けてみる勇気はない。

 自室にいると思われた夫の健一は、リビングで受話器を握り、熱心に話し込んでいた。

 電話の相手は誰なのだろう。木村家の人だろうか。

 涎を垂らしかけた、夫の緩んだ口元が、坂田雪美には気になった。

「分かった。実に有益な意見だった。早速準備を始めるよ。君も来るのかね。そうか、そうか。じっくり見ていってくれ」

 受話器を置いた夫に、坂田雪美は慎重に声をかけた。

「あなた。あの、DNA鑑定の、手紙が……」

「ん。ああ、分かってる。いいんだよ」

 健一は封筒を取り、いとも簡単に封を切って書類を取り出した。

 坂田雪美は、書面を見ることが出来ず、夫の顔を見ていた。

 夫の表情には何の変化も、微かな驚きすらも現れなかった。

「あの、ね……結果がどうなっても……」

「いいんだよ。解決法が見つかったんだ。完璧だ」

 坂田雪美の言葉を最後まで聞かず、夫はニッコリと、幸福に満ちた笑顔を見せた。涎が書面に落ちた。

 夫の瞳に渦巻くものが、狂気であることを、坂田雪美は知った。

 

 

  七

 

 夜が訪れた。

 山高帽の男は今も町を彷徨っていた。匂いの痕跡を辿りながら、まだ標的に到達することが出来ない。既に十月十四日を八日過ぎた。時が迫っている。

 匂いの感覚が強くなるのは十年に一度だった。二度のうち一度は特に鋭敏になる。だがいつも、ぎりぎりで間に合わないのだ。呪わしき時間差を、山高帽の男はなんとかして縮めようと焦っている。

 それは匂いというよりも、共鳴によって得られる感覚なのかも知れなかった。痛みの記憶と予感。時が近づくにつれ、標的の放つ心の波動が男の心に触れるのだろうか。

 十年前に起きた清和総合病院の看護婦殺害事件を、山高帽の男は知らなかった。当時のニュースをもし見ていたら、どんな手段を使ってでも現場にいた新生児のリストを手に入れていただろう。焦燥感に焼かれながら見知らぬ町をうろつく必要もなかった筈だ。ぎりぎりまで手掛かりを得られないのが、呪いの本質なのだろうか。

 しかし科学は進歩する。山高帽の男は匂いだけに頼らず、昔にはなかった技術に目をつけ、網を張っていた。

 右足を軽く引きずってステッキを突きながら歩くうちに、山高帽の男はファミリーレストランを見かけた。入り口にメニューが開いて飾ってある。

 山高帽の男は近寄って、メニューを見た。

 ドリンクの欄にあるものを認め、山高帽の男はそれを声に出していた。低く掠れ、しわがれた声を。

「オレンジジュース……」

 山高帽の男はレストランに入った。店員が一瞬胡散臭そうな顔をした後で、「いらっしゃいませ」と頭を下げた。

 奥のテーブルに案内された男は、マントも山高帽も脱がず、すぐにただ一言の注文を告げた。

「オレンジジュース」

 待っている間、山高帽の男は微動だにしなかった。ウェイトレスがこちらを見ているのも気にしなかった。目深にかぶった山高帽とマントの高い襟のお陰で、余程図々しく覗き込まれなければ顔の造作を見られることはない。

 やがてオレンジジュースが到着し、山高帽の男の前に恭しく置かれた。

 山高帽の男は白い手袋を填めた手で、丁寧にストローの包み紙を破ってグラスに差し込んだ。それきりグラスには触れず、氷の浮かぶ、オレンジ色というよりは黄色に近い液体に、山高帽の男は暫し見入った。

「オレンジジュース」

 山高帽の男は、誰にともなく呟いてみた。そしてストローに口をつけ、少しずつ吸った。

 男の中に、眩い情景が浮かび上がってきた。

 それは、三十代半ばの美しい女性が、切ったオレンジを搾ってジュースを作っている光景だった。格調高い洋館のキッチン。テーブルの上に並ぶグラスは二つ。彼女の分はない。

 白い輝きの中、女性は、こちらに向かって微笑んでいた。柔らかで、優しげな笑みだった。

 甘い追憶に浸り、山高帽の男は無意識のうちに嘆息した。

 しかし、温かな光景の隅に、黒い闇がわだかまっていた。

 それは、椅子に腰掛けた、人の形をした闇だった。

 こういう姿でしか、思い出せなくなってしまった、人物。

 山高帽の男は、闇の引力から懸命に意識を逸らし、女性の微笑みにだけ目を向けようとした。

 と、人の形をした闇が、椅子から立ち上がった。山高帽の男は息を止めた。

 一歩、二歩と、闇が近づいてくる。

「オレンジジュース」

 山高帽の男はイメージの中で、望ましい記憶だけに集中しようと必死になった。

 だが、黒い闇は彼のすぐ前に立っていた。黒く塗り潰された手が大きな鉈を握っているのを見て、山高帽の男は耐えきれずに顔を上げた。

 闇に覆われた顔が、恐ろしい笑みの形に、変形していった。

 お前はこれから本当の息子になるんだ、と、その闇が、囁いた。

 狂った追憶を携帯電話の呼び出し音が破った。山高帽の男は首を振って光と闇を追い払う。これだけ歳月が流れたのに、いまだに囚われている。男は苦笑しようとしたが顔の筋肉は強張っていた。

 急いで携帯電話を取り出した。かけてくる相手は限られている。

「はい」

 山高帽の男はそれだけで応じた。

 相手は医療関連業者だった。ある条件でDNA鑑定を依頼した二組の親子があれば、内密に情報をくれるように頼んでおいたのだ。

 網に掛かった。

 山高帽の男は素早くメモを取り、携帯電話を切ってスーツのポケットに収めた。急げば、今回は間に合うかも知れない。

 グラスの半分ほどになっていた大事な残りを、山高帽の男は悔やみながらも一気に飲み干した。

 レジで金を払い、山高帽の男は急ぎ足でレストランを去った。

 男が飲み干した筈のオレンジジュースが、座っていた椅子と歩いた通路に大きな黄色の染みとなって残り、片づけに来たウェイトレスを驚かせることになる。しかしそんなことは、男にとってはどうでもいいことだった。

 

 

  八

 

 同日、午後八時。

 電話口で坂田健一と話している夫の姿を、木村理恵は陰鬱な気分で眺めていた。

 全てが壊れてしまった。木村理恵は声もなく、ただ溜息を吐くばかりだ。

 十年間、夫と同じくらいかそれ以上に大切であった充は、自分が腹を痛めて産んだ子ではなかったのだ。十年間、ずっと騙されていたのだ。

 子供が欲しかった。夫と子供のいる、幸せな家庭が欲しかった。結婚してから五年間は子供が出来ず、重いプレッシャーに自殺を考えたこともある。それを支えてくれたのは夫の良介だ。この人の子供を産みたいと、痛切に思っていた。最愛の人の子供を産んで、育てたいと、心の底から願っていたのだ。

 不妊治療を真剣に考える前に授かった子供は、夫との愛の結晶だった。出産の時、木村理恵は最大の歓びを持って、生まれたばかりの子を抱き締めたのだ。

 それが、偽者にすり替わっていたなんて。

 どうしよう。この十年間は全くの無駄だったのか。今からやり直すなんて遅過ぎる。私達の本当の子供は別の夫婦が育てていた。私が全く関われないまま十才になってしまった。こんなことになったのは誰のせいなのか。

 投げ遣りな憎悪が十年間愛してきた充にも向けられていることを、木村理恵は自覚していながら、それを振り払う気力も持たなかった。

 ソファーでうなだれている木村理恵を、夫が受話器を持ったまま振り返った。

 眉をひそめ、戸惑っているような顔だった。

「まあ……いや、よく分かりませんが。明日では駄目ですか。こっちも仕事を休みますから。息子をこんな時間に連れていくのは……息子と呼んだっていいでしょう、十年間私は充をそう呼んできたのだから。……まずは親だけで話し合う訳にはいきませんか。それは、結果は同じかも知れませんが、もう少し子供達にも猶予を……。え、何ですか」

 夫と坂田が話しているのがどんな内容にしろ、木村理恵にはもうどうでもいいことのように思われた。

「……分かりました。今からですね。二十分ほどかかると思いますよ」

 夫の木村良介が受話器を置き、口をへの字にして鼻から深い息を吐いた。

 何も聞かぬ妻に、夫が説明した。

「よく分からないが、今から向こうの家に来て欲しいそうだ。三人でね。問題を解決する方法があるらしい」

「そう」

 木村理恵はそれだけ答えた。

 身を屈めて、木村良介が彼女の顔を覗き込んできた。

 夫の目には懊悩に混じって、相手を気遣う繊細さが残っていた。それは木村理恵が愛した夫の性質であり、今は鬱陶しいだけのものだった。

「時間が解決してくれるよ。だから、生きていこう」

「……そうかも知れないわね」

 力なく、木村理恵は答えた。

 木村良介の視線が別の方向へ動いた。

「充」

 隣室の戸口に、いずれ坂田充になるであろう元息子は、育ての父親に似た繊細さで、不安に身を固くして立っていた。

 充は、何も言わなかった。

 木村良介が、ゆっくりと充の前まで歩き、両腕を広げて元息子の華奢な体を抱き締めた。

「何も心配は要らない。ただ、これから皆で出かけなくちゃならなくなった。この前会った、坂田さんの家だよ。健夫君のことは覚えてるかい」

「うん」

 充は頷いた。

「お父さん達も出かける準備をするから、充は待ってなさい。靴下を履くんだぞ」

「うん」

 慎重なやり取りを、木村理恵は冷めた気持ちで眺めていた。ふと充が心配そうにこちらを見たが、彼女は何も感じなかった。

「スーツに着替えるよ」

 木村良介が寝室へ去り、充も部屋に戻った。

 木村理恵だけになったリビングで、また電話が鳴り出した。

 ソファーから立ち上がり、木村理恵は受話器を取った。それだけでもかなりの努力を要した。

「……はい」

「木村さんかね」

 年老いた男の声だった。ひどくしわがれた、低い声。知人には、こんな声の持ち主はいなかった。

「どなたですか」

 木村理恵は尋ねた。

 それには答えず、相手は別のことを言った。

「子供をすり替えられたんじゃろう。相手は坂田家じゃな」

 麻痺しかけた木村理恵の頭にも、それはある程度の重さを持って響いた。

「あなたは誰です。誕生日に電話してきた人ですか」

「違う。わしはそいつを追っている。呪われた連鎖を解かねばならぬ」

「どういう意味です」

「坂田には近づくな。悲劇が起こる。あんた方の子供は地獄を見ることになる。あんた方も多分死ぬ」

 非現実的な警告だった。木村理恵の頭はそれを受け入れることも拒絶することもなかった。どっちにしろ、もうどうでもいいのだ。

 ただ機械的に、彼女は答えた。

「でも今から皆で、坂田さんの家に行くんですよ」

「行くな。死ぬぞ。あんたの息子が……」

 木村理恵は電話を切った。

「どうした」

 戻ってきた木村良介が、ネクタイを締めながら問うた。

「間違い電話みたい」

 木村理恵は答えた。

 

 

  九

 

 坂田家の前に車を停め、木村親子は玄関に立った。二階の明かりは消え、一階のサッシ窓もカーテンが閉じられ中は見えない。

「綺麗なお家だね」

 充がポツリと言った。

「そうだな」

 木村良介は淡々と答えた。

 呼び鈴を押す前に玄関の扉が開き、がっしりした体格の男が現れた。

「ようこそ。待っていたよ」

 坂田健一だった。

 逆光になってその顔ははっきり見えなかったが、両端を高く吊り上げた口と盛り上がった頬が不気味な陰影を作っていた。

「今晩は」

 木村良介が先頭になって玄関に上がった。その後に木村充が、そして無表情に木村理恵が続く。

 彼らを屋敷内へ招き入れた坂田健一は、何故か白衣を着ていた。奥の廊下から坂田雪美が顔を出し、その横に坂田健夫がいた。坂田雪美もまた夫の様子に戸惑っているようだった。いつもは明るい坂田健夫の表情にも不安の色がある。

 木村良介は、坂田健一の異様な笑みと散大した瞳孔を見て、眉をひそめた。

「どうぞどうぞ、いらっしゃい。こっちだ。母さんも健夫も来なさい」

 坂田健一は満面の笑みを崩さず廊下を先導し、リビングではなく更に奥に進んだ。おざなりの挨拶を交わして、五人はついていく。

 坂田雪美が遠慮がちに言った。

「あなた、そっちは地下室……」

「そうなんだ。道具を揃えるのにちょっと手間取って、こんな時間になって悪かったね。職場から取ってきたりもしたから」

 坂田健一は歌うように説明しながら階段を下り、ドアを開けた。

 既に地下室の明かりは点いていた。がらんとした十五畳ほどのスペースで、隅の方に段ボール箱や古い家具が置かれている。

 部屋の中央には卓球用のテーブルがあった。たまに使われていたのだろうが、ネットは取り払われている。

 傍らの床に、坂田の言う『道具』が並んでいた。

 それらは、太いロープの束であり、緑の布の上に置かれた手袋や外科用メスや縫合針や糸やガーゼであり、骨を切断する際に用いる扇形の電動鋸であり、刃渡りが二十センチはありそうな大ぶりの手斧であった。

 坂田健一以外の五人は、目を一杯に見開いて、その異様な道具類を見つめていた。

「あ、あなた……」

 坂田雪美が虚ろな声を洩らした。他の者達は声を出すことも忘れているようだ。

 静寂の地下室に、換気扇の立てる篭もった唸りだけが響いた。

 狂った歓びに満ち満ちた笑みを浮かべ、坂田健一が話し始めた。

「健夫、それから充君、よく聞きなさい。とっても大事なことを今から教えてあげよう。君らは生まれたばかりの時に、何者かによってすり替えられてしまっていたんだ。つまり、健夫、お前は本当はそこの木村さん夫婦の子供で、私達の子供じゃないんだよ。そして木村充君、君が私達の子供だ」

 他の三人の親が慎重に隠していた秘密を、坂田健一は子供達にあっさりと披露した。

 坂田健夫が、意味が分からないというような表情で、坂田健一を見、そして、凍りついている木村良介を見た。

 天性の明るさを誇っていた少年の顔が、泣きそうに歪んだ。

 木村充が、坂田健一から視線を離し、自分の横に立つ木村良介を見上げた。その震える繊細な眼差しに、木村良介は同じ眼差しで応えた。無意識にであろう、木村充は育ての父親の手を掴み、木村良介は握り返した。

「な、何を考えてるんだあんたはっ」

 そして坂田健一に向かい、木村良介が珍しく声を荒げた。

 坂田健一は全く動じず、高い笑い声を上げた。彼の瞳は、正常の領域を逸脱した者が持つ、濡れたような深い輝きを放っていた。

 慣れた動作で手袋を填め、坂田健一は告げた。

「あ、は、は、は、は。だから、この問題を解決する素晴らしい方法を、あの男が教えてくれたんだ。本当の息子と十年間育ててきた息子、どちらを選んでも具合が悪い。ならば二人を合体させて、一人にしてしまえばいいんだよ。だからこれから手術だ。手術をするんだ。は、は、は」

 その異常なアイデアに、坂田健一は僅かな疑念も抱いていないようだった。

「ヒイッ……あ、あなた……」

 腰を抜かしたのだろうか、坂田雪美がその場にへたり込んだ。まだ状況が理解出来ないのか心が理解を拒否しているのか、坂田健夫は呆然と突っ立っている。

「あ、あんたは狂ってる」

 木村良介は吐き捨てた。

「帰るぞ」

 無表情に立ち尽くす妻に告げ、木村良介は育ての息子の手を引いて、開け放しになった扉を抜け早足で階段に向かった。

「理恵」

 ついてこない妻に振り向いて声をかけた時、木村良介の手を握る充の力が強まった。

「お父さん」

 緊張の声音に、木村良介は素早く向き直った。

 階段の上に、長い影が立っていた。野球帽の長い鍔、左脇が異様に膨らんだ人影。ロングコートの裾が静かに揺れている。

「だ、誰だっ」

 木村良介の声とほぼ同時に、影が階段を駆け下りてきた。階段の軋みとは別の金属の響き。咄嗟に木村良介が充を背後に庇った。

 銀光が閃き、木村良介が、後ろへのけぞった。赤い液体が撥ねた。

「お父さんっ」

 木村充が叫んだ。

 木村良介の体は、そのままもんどり打って階段を落下した。彼の首筋から血飛沫が噴水のように撒き散らされ、壁と階段を染める。それは傍らにいた木村充の眼鏡にもかかった。

 頭から落下して更に回転し、木村良介は俯せに床に倒れた。

 その首が、ほぼ真横に曲がっていた。落下の衝撃で頚椎が折れたのだ。

 だがそうでなくても、木村良介の絶命は確実であったろう。その右の首筋にパックリと開いた傷口から、血液が凄い勢いで流れ出していた。長さ十五センチにも及ぶ傷は、右の頚動脈を完全に切断していた。

「お……お父さん、お父さん」

 木村充は慌てて駆け寄り、木村良介の体を揺さぶった。育ての父は答えなかった。ただその眼球だけが、ヒクヒクと何度か派手に動き、やがて、完全に止まった。

「お父さん……お父さんが……」

 木村充が泣きながら繰り返した。坂田健一はとろけるような笑みを浮かべ、木村良介の死体を眺めていた。坂田健夫が坂田雪美にしがみついた。夫の死体を見下ろしているうちに、木村理恵の膜のかかった瞳に別の色が湧いてきた。

 階段から、不気味な金属音が聞こえた。歩くたびに片方の足が立てる音。戸口の向こうに、灰色のコートが見えた。

 木村理恵が、やがて口を大きく、裂けるくらいに大きく開け、引き攣った叫び声を絞り出した。

「いやああああっいやあああああああっ」

 小刻みに震える右手が戸口から伸び、木村理恵の頭を鷲掴みにした。

「あああいっ」

 左手の握る血みどろの凶器が、木村理恵の胸に深々と突き込まれた。それは刃渡り二十五センチに及ぶ刺身包丁だった。

 ゴリリ、と、刃が九十度回転し、木村理恵の胸を抉った。服が真紅に染まっていく。

「ああっごぶっ」

 木村理恵の叫びに血が混じった。恐怖と苦痛に歪んだ育ての母の顔を、その口から喉へ流れ落ちる血液を、木村充は呆然と見守っていた。

 包丁が引き抜かれ、掴まれた頭が解放されると、木村理恵の体は、ぐにゃりと前のめりに崩れ落ちていった。

「今晩は」

 戸口に立つ男が言った。その声は金属の軋みを伴っていた。

 男は灰色のロングコートを羽織り、薄汚れた野球帽をかぶっていた。上体は僅かに右へ傾いている。左手に包丁を握り、右手はいつも小刻みに震えていた。コートの左側は妙に膨らみ、何かを隠しているようだ。

 男は右手を上げ、帽子を脱ぎ捨てた。その顔は隙間なく包帯に覆われ、昏い愉悦を湛えた右目だけが露出していた。

「良く来たね。じっくり見ていってくれ」

 初対面の来客を、坂田健一がにこやかに歓待した。片目の男は軽く頷いた。

「おじさん……あの時の……」

 涙と恐怖で顔をグシャグシャにして、坂田健夫が言った。

 片目の男は答えなかった。ただ同じ目をして、二人の少年を見つめていた。

「さあ、始めようか」

 坂田健一が、十年間溺愛してきた坂田健夫に手を伸ばした。

「嫌だっ嫌だああっ」

 坂田健夫は泣き叫び、育ての母にしがみついた。

「あ、あなた、やめて」

 坂田雪美がなんとか立ち上がり夫の白衣にすがった。その夫の右腕が無造作に動いた。

「うるさいよ」

 坂田健一の握る外科用メスが、坂田雪美の左目に、深く抉り込まれていた。破れた眼球の一部がはみ出し、そこから透明な粘液が零れ落ちていく。

「あら」

 坂田雪美は、びっくりした顔で片手を上げ、自分の左目に起こった出来事が何なのか、確かめようとした。その手が触れる前に坂田健一はメスを引き抜いた。割れた眼球がついてきて、ジュポンと音を立てた。

「あれ、何」

 坂田雪美は、頬を伝うヌルヌルしたものに触れ、それから、空洞化した左の眼窩に触れた。坂田健夫は育ての母を、皮膚が破れそうなほどに引き攣った顔をして見上げた。そして、育ての父を振り向いた顔からは、僅かばかりに残っていた信頼というものが、消失していた。

「男の仕事に女が口を出すな」

 十一年の結婚生活で初めての叱責の言葉は横殴りの斧を伴っていた。坂田健一が両手で握った斧は、ボグンと音をさせて妻の胸にめり込んだ。

「あ……な……」

 坂田雪美の、夫の狂笑を見る残った右目が、ゆっくりと裏返った。それと共に、彼女の体は後ろざまに倒れていった。しがみついていた坂田健夫も一緒に倒れた。

「おか、お母さんっ」

「さて、手術だ」

 妻に刺さった斧を放って、坂田健一は坂田健夫の体を掴み上げ、軽々と卓球台に載せた。恐るべき腕力だった。

「嫌だっ、嫌だようっ、お父さんっ嫌だあああっ」

 抗う健夫をロープで台に縛りつけながら、坂田健一は機嫌良く言った。

「まだ私はお前のお父さんじゃない。健夫、お前はまだ私の息子じゃないんだ。これから、本物の親子になるんだよ」

 健夫に笑いかける父の目は、瞳の部分が完全な漆黒となり、底知れぬ虚ろな闇を垣間見せていた。

 父親が狂ったことを悟り、坂田健夫の表情が壊れた。

 もう一方の木村充は地下室から逃げようとするが、すぐに片目の男が立ち塞がった。

「どうして、どうしてこんなことするの」

 涙と鼻水を流しながら、木村充が聞いた。

「どうしてか、だって」

 片目の男が震える右手で、顔に巻かれた包帯を引っ張った。その顎と額の部分が解け、地肌が見えた。

「二十年前、俺が、同じことをされた、からだよ。誰かに、同じことをしないと、俺の気が、済まないんだ」

 男の顎は、傷痕を境に青白い皮膚から浅黒い皮膚に変わり、境目の左右には二本のボルトが埋まっていた。まるで、他人の顎を無理矢理繋いだように。

 男の額の左側と左目の部分は、金属の板に覆われていた。ボルトではなく釘の頭が覗いている。

 絶句した木村充の首筋を坂田健一の手が掴んだ。その力から、ひ弱な少年は逃れられなかった。木村充は坂田健夫のすぐ横に縛りつけられた。片目の男はこれから繰り広げられる大手術を間近に見るため、卓球台まで三歩進んだ。左足から金属音が聞こえた。

「麻酔は……」

 突然聞こえた女性の声に、坂田健一は怪訝な顔で妻を振り返った。

 元看護婦の坂田雪美は血溜まりの中に横たわっており、ピクリとも動かない。

 坂田健一は、もう一人の女へ目を向けた。

「麻酔はしないの……」

 前のめりに蹲る木村理恵が、死人のように力のない、無感動な声で尋ねた。かなりの血が床に流れており、瀕死の筈だ。

「麻酔か。忘れてきた」

 一瞬だけ外科医の顔に戻り、坂田健一は呟いた。

 だが彼は再び、愛に満ち溢れた笑みを浮かべた。

「麻酔は必要ない。麻酔なんかに頼るようでは強い男にはなれないぞ。そうだろ健夫、充」

「嫌だあっ嫌だよおおおっ」

 手足と胴体をロープで固定され、坂田健夫は喚いた。隣の木村充はただしゃくり上げて泣いている。

「そういえば、合体させた後の名前はどうしようか。『たける』がいいかな。それとも『みつお』かな」

 外科用メスの血塗れの刃を取り替え、坂田健一が言った。

「まあ、どちらでもいいか。手術が終わってから考えよう」

 狂った白衣の術者を、片目の男は期待と痛みと憎しみの混じった瞳で見つめていた。二十年前に自分がされたことを、そして当時の父親の姿を思い出しているのだろうか。

「胴体は健夫のものがいいな。健康で頑丈だ。まずは、右手から行こうか。足は健夫の方が速いだろうが、充君、君の手の方が器用そうだ。やはり、良い方の素材を選ばなくてはね」

 上機嫌に呟きながら、坂田健一は木村充の服をメスで切り裂いた。日に焼けた坂田健夫の肌と違い、木村充の肌は透き通るように白かった。

「うわ、うわわっ、わわああああっ」

 木村充が目を見開いて叫んだ。これまでで最も大きな悲鳴だった。必死の抵抗は、幾重にも巻きつけられたロープと狂人の腕力によって完全に封じられていた。

「息子よ、愛してるぞ」

 本気の囁きと共に、坂田健一はメスを滑らせた。それは皮膚と皮下組織を一気に切り裂き、筋膜に覆われた筋肉と、関節を包み込む腱を露出させた。

「あいいいいっいいいっ」

 木村充が背筋を限界まで反らせ、左腕と両足をビクビクと痙攣させた。隣の坂田健夫は歯を食い縛ってそれを見ていた。信じられないという思いと、これが現実に行われているという絶望が彼の瞳にあった。

「愛してるぞ」

 坂田健一が更にメスを進めた。腱が切り開かれ、肩関節の内部が見えた。上腕骨の半球形の関節面は透明な滑液に塗れ、ぬめるような光沢を持っていた。

 木村充は、もう悲鳴を上げるだけの空気を全て絞り出してしまったようだった。全身は硬直したまま動かない。

「愛してるぞ」

 坂田健一は呪文のようにそれを繰り返した。そしてまたメスを動かした。関節を包む腱を全て切断した。その際に大きな動脈を切ったようで、血が周囲に噴き出した。坂田健一の白衣が赤く染まった。卓球台を拡がる血は木村充とその隣で震えている健夫にも触れた。背中側の皮下組織と皮膚も切った。メスの刃が卓球台にこすり、キキと音を立てた。

「ほうら、右腕だ」

 肩関節で完全に切断された木村充の右腕を掴み、坂田健一は誇らしげに差し上げてみせた。充の肩からは出血が続き、見開かれた目は虚ろなものになっている。

 隣の坂田健夫は息を呑んで、充の腕がぶらんぶらんと揺れるのを見つめていた。

 坂田健一が健夫に視線を移した。

「さあ、健夫、お前の番だ」

「嫌だ、嫌だようっ」

「男なら我慢することも必要だぞ」

 坂田健一は諭すように言って、育ての息子の服を引き裂いた。

「愛してるぞ」

 メスが当てられた時、坂田健夫は獣のような悲鳴を上げた。

 メスの切れ味はさっきよりも悪かった。それでも坂田健一は上機嫌に作業を続けた。坂田健夫がもがきながら叫んだ。

「痛いっ、痛いよおっ。血が出てるよっ死んじゃうよおっ」

「大丈夫、だよ、君は、死なない」

 嫌な軋み音を立てながら、片目の男が告げた。金属部品でツギハギとなった顔が、健夫の目の前に寄せられた。

「ベースに、なる方は、絶対に、死なないんだ。どんなに痛くても、血が出ても、ね。そういうことに、なってるそうだ。俺の親父は、旋盤工だったが、それでもちゃんと、手術が出来たんだからな。健夫君、君は、幸せだよ、お父さんが外科医で、本当に、良かったね」

 片目の男の言葉を、坂田健夫は聞いていなかったかも知れない。何故なら、男が喋っている間にも、坂田健一は手術を続けていたからだ。

「ほら、切除完了だ。では繋ごう」

 坂田健一は坂田健夫の右腕を投げ捨てた。二人の子供は血溜まりの中に横たわり、荒い息をついている。坂田健一は、先に切っておいた木村充の右腕を坂田健夫の肩関節に当てた。関節の大きさが合っていなかったが、坂田健一は細かいことにはこだわらない性格のようだった。

「愛してるぞ」

 坂田健一は縫合針と糸を使い、太い血管や神経を含めて、素早くそして丁寧に右腕を繋ぎ合わせていった。皮膚のずれもなく、見事な技量だった。浅黒い胴体と白い右腕が完全に接合された。

「次は左腕だが」

 坂田健一が困ったように言った。

「健夫は左利きなんだ。充君の左腕と取り替えるのは、なんだか勿体ないな」

「……じゃあ取り替えないで……充の左腕をそのまま追加すればいいじゃない……」

 微かな声でアドバイスしたのは、蹲ったままの木村理恵だった。

「なるほど、その通りだ。素晴らしいっ」

 坂田健一は両手を打ち鳴らして歓喜した。片目の男は愉悦の含み笑いを洩らした。彼は自分の左腕のことを言わなかった。

 メスの刃をまた取り替えると、ぐったりしている木村充の左腕に坂田健一は触れた。充の体がビクンと動いた。

「愛してるぞ」

 坂田健一はまたメスを動かしていった。力が残っていないと思われた木村充は、それでも驚くほど大きな悲鳴を上げた。また大量の血が溢れた。それでも坂田健一は熟練の技で、左腕を切断した。

「何処がいいかな。脇腹につけるか」

 健夫の上半身を裸にして、坂田健一はじっくりと吟味した。

「嫌だ、嫌だ」

 坂田健夫が身をよじる。

「愛してるぞ」

 坂田健一は健夫の左脇の皮膚を切開し、細い血管と神経を引き出した。それらを木村充の血管と神経に繋げ、断面の皮膚を縫合した。片腕を養う力のない細い血管に、呼吸筋を動かすための神経。坂田健一は自分の行為の理不尽さに気づいていないようだった。或いは、理不尽ではないのかも知れない。

「頭はどうしようか。充君の方が成績は良さそうだな。でも健夫の方がきっと根性はあるぞ。脳の一部を取り替えるかな」

 坂田健一が扇形の電動鋸を取り上げた。

 再び木村理恵が告げた。

「……充の首を切り取って……健夫君に追加すればいいじゃない」

「す、素晴らしい。素晴らしいぞっ」

 感極まったように、坂田健一が叫んだ。片目の男も無言で拍手した。片手に包丁を握ったまま。

「確かに、頭が二つあってはいけないという法律はない。これで理想の息子が出来るというものだっ」

 坂田健一は電動鋸を投げ捨て、仰向けに転がる坂田雪美に歩み寄った。その胸に突き刺さっている斧を握り締め、妻の死体を足で踏みつけ、血塗れの凶器を引き抜いた。肉の一部がちぎれてついてきた。

 坂田健一は、その斧を妻の首に振り下ろした。一撃で首が切断され、坂田雪美の頭は床を転がって壁にぶつかった。その生首は呆けたような顔になっていた。

「木村理恵さん、あなたは素晴らしい女性だ。私の妻になってくれないか」

 前のめりに蹲ったまま動かぬ木村理恵に近づき、坂田健一が斧を振り上げて言った。

 木村理恵が返事をする前に、重い斧の刃は彼女の首に打ち込まれていた。一撃では切断出来ず、骨や肉の断面を覗かせて木村理恵の首は斜めに向いた。

 坂田健一は、再度斧を振り下ろした。うまい具合に同じ傷口に当たり、木村理恵の首が完全に切断された。

 拾い上げた木村理恵の生首を、坂田健一はわざわざ健夫の顔の前に突きつけた。生首は口の片側をだらしなく開き、目は気怠い虚無を湛えていた。首の断面から滴り落ちた実の母親の血が、健夫の頬を濡らす。

「ほら、これが新しいお母さんだよ」

 坂田健夫は、もう何も言わなかった。目は見開いているが、思考も感情も凍りついているようだった。出血多量で意識が薄れているのかも知れない。

「後で繋げるから、ちょっと待っててくれないか。私達の都合よりも息子の方が大事だからね。君もそう思うだろ」

 木村理恵の生首は答えなかった。坂田健一はそれを掴み上げ、坂田雪美の首のあった場所に置いた。

 そして坂田健一は子供達の手術に戻った。

「愛してるぞっ」

 愛の雄叫びを上げ、坂田健一は木村充の首筋に斧を振り下ろした。少年の細い首はあっけなく切断された。血塗れの眼鏡をかけた木村充の生首、その半開きの目が健夫の目と合った。

「愛してるぞ」

 坂田健一は坂田健夫の左首筋をメスで切り開き、肉の間を押し分けて左頚動脈を見つけ出した。

「愛してるぞ」

 坂田健一は、それをメスで切断した。噴き出す血の勢いはあまり強くなかった。

 健夫は既に、抗う余力を持たなかった。血の気のない顔が更に白くなっていく。どんな神経の働きによるものか、左脇に繋がった木村充の左腕がピクリと動いた。

「愛してるぞ」

 真心の篭もった言葉を繰り返し投げかけ、坂田健一は木村充の生首を、坂田健夫の左首筋に、直角に繋ぎ合わせた。

「次は内臓だ。愛してるぞ」

 理想の息子が出来上がっていく歓びに打ち震え、坂田健一は木村充の腹壁をメスで縦に切り開いた。

「愛してるぞ」

 坂田健一は坂田健夫の腹を同じように裂いた。こちらは苦痛による腹圧で、腸がひとりでにはみ出してきた。

「愛してるぞ」

 坂田健一は瀕死の健夫と死体の充から内臓を引きずり出して、それぞれを見比べ、感触を確かめた。

「愛してるぞ」

 坂田健一は健夫の小腸を切り捨て、充の小腸を丁寧に繋いだ。胃は健夫のものの方が大きかったのでそのままにした。

「愛してるぞ」

 坂田健一は健夫の左の腎臓を切り捨て、充の右の腎臓を繋いだ。

「愛してるぞ」

 坂田健一は、両者の内臓を吟味しながら、次々に取り替えていった。坂田健夫はもう、身じろぎすらも出来なくなっていた。

 ただ、瞬きもせぬ健夫の両目が、極限の苦痛と絶望を湛えて、坂田健一を見つめていた。世界の崩壊を味わった者の瞳。

 いや、苦痛と絶望だけではなかった。

 瀕死の坂田健夫の瞳に、少しずつ湧き上がってくるものは、憎悪、であった。

「愛してるぞ」

 片目の男は、右の目を一杯に見開いて、外科医の芸術的な手技を観察していた。男の瞳は昏い愉悦を語っていたが、同時に、苦痛と絶望と憎悪に潤んでいた。まるで、坂田健夫に共感しているように。

「愛してるぞ」

 静寂の地下室で、血と内臓のぬちゃりという音と、坂田健一の真摯な呟きだけが響いていた。

「愛してるぞ」

 坂田健一は腹壁を閉じて縫い合わせ、次の作業に移った。

 つまり、投げ捨てていた電動鋸を拾い上げ、二人の少年の胸骨を縦に割ったのだ。

 胸壁を左右に押し拡げると、心臓と肺が姿を現した。坂田健夫の心臓は微かに脈打っていた。

「心臓は、健夫の方が大きいな」

 坂田健一は呟き、満足そうに微笑んだ。

「だが、心臓が二つあってはいけないという法律もない」

 坂田健一は木村充の心臓をメスで切り出した。彼の心臓もまだほんの僅かに動いている。

「愛してるぞ」

 坂田健一は健夫の右肺下部を切り捨て、空いたスペースに木村充の心臓を押し込んだ。動静脈は肺に繋がっていたものを無理矢理繋げる。

「愛してるぞ」

 第二の心臓がきちんと動くのを確認せず、坂田健一は右の胸壁を押さえて閉じた。左の肺を見て、坂田健一は呟く。

「肺は、充君の方が綺麗だな」

 坂田健一が、木村充の死体に再度手を伸ばした。

 その時、キョリッ、という奇妙な金属音が階段の方から聞こえた。

 

 

  十

 

「む」

 すぐに反応したのは片目の男だった。右手でコートの合わせ目を解きながら左手の刺身包丁を構える。

「ん」

 坂田健一が顔を上げて地下室の出入り口を見た。

 と、突風のような勢いで黒い影が飛び込んできた。黒いマントを羽織った男だった。同じ色の山高帽を目深にかぶり、白い手袋を填めた男。右手に握ったステッキは先端に槍の穂のような刃が生えていた。

「お前はっ」

 片目の男が叫びながら、山高帽の男に刺身包丁を突き出した。素早く横へステップして包丁を避け、山高帽の男の凶器が外科医坂田健一の喉に突き刺さった。

「ごえっ」

 坂田健一が血にむせる。山高帽の男はそこからステッキを横に払った。坂田健一の首の左半分が切断された。鮮血を傷口から噴き上げながら、坂田健一が後ろざまに、木村充の死体の上に倒れた。

 片目の男が刺身包丁を横殴りに振った。山高帽の男は高く跳躍した。足先が地下室の天井をこするような、見事な宙返りだった。卓球台を越え、ご丁寧にも山高帽が落ちぬように左手で押さえながら、右手のステッキが動いた。

 血のついた刃は、坂田健夫の露出した心臓を正確に貫いていた。少年の体がビクリと震え、そして、目を見開いたまま、動かなくなった。

「お前は、どういう、どういうことだっ」

 片目の男が叫んだ。顎の金属がギシリと鳴った。

「二十年前のあの時、お前は、俺を助けに、来てくれたのかと思った。だが俺を逃がして、くれたのは、俺の親父をけしかけた、あの男だった。何故、その子を殺す。お前は、何者だっ」

「呪われた連鎖を断たねばならん」

 着地した山高帽の男は、しわがれ声で答えた。

 片目の男の、ツギハギの口が、引き攣った笑みを見せた。いやそれは、怒っているのかも知れない。

「俺は、二十年間、ずっと考えてきた。こんなことになったのは、どうしてだろう、と。お前が一体、何者だったのだろうと」

 片目の男が、コートの内側に右手を突っ込んだ。

「お前が、この呪いの、元凶なんだ。お前が、この呪いを、始めたんだ。そうだろう」

「正確にはわしの育ての父じゃ。もう百年以上も前になる」

 山高帽の男が言った。その低い声は苦渋を孕んでいた。

「わしの本当の父である使用人が、こっそり赤子をすり替えていたんじゃ。それを知って育ての父は狂った。愛と、憎しみが、呪いを生んだのじゃ。誰かを同じ目に遭わせねば、どうしても気が済まなんだ。お主と同じようにな。じゃが、やってしまってから、わしは猛烈な後悔に襲われた。このような不毛なことが、続けられてはならぬのじゃ」

「自分がやっておいて、人にはするなと言うか。偽善者め」

 片目の男が吐き捨てた。同時にコートの内側から不気味なエンジン音が響き、男は右腕を持ち上げた。

 右腕は、隠れていたもう一本の左腕と協力して、小型のチェーンソーを握っていた。高速回転を始めた刃は見えないが、エンジン部などは薄汚れ、長い歳月を感じさせる。

 山高帽の男が風のように動いた。卓球台を回り込み、片目の男の胸を狙ってステッキを突き出す。チェーンソーがそれを弾いた。嫌な音がして金属の欠片が散った。

 片目の男は太い方の左腕で刺身包丁を突き込んだ。ギリギリで躱した山高帽の男はステッキを斜めに振り下ろした。鋭い刃は片目の男の上腕を切り裂いていた。骨が見えるほどの深い傷。

「畜生っ痛えっ」

 片目の男が唾を飛ばして叫んだ。刺身包丁が落ちたがその音はエンジン音に呑み込まれた。真上から叩きつけられるチェーンソーを余裕で避け、山高帽の男はステッキを横に振った。片目の男のコートが裂け、奥から傷ついた腸がはみ出してきた。

「ぐううう」

 片目の男は戸口に向かって走った。左膝を軋ませながら階段を上っていく。それを山高帽の男が追う。

「畜生。俺の痛みを、皆も味わえ。俺の絶望を、皆も、味わえ」

 片目の男は、駆けながら呪詛の言葉を唱え続けた。

 山高帽の男のステッキが片目の男の背中を刺した。ガキンと音がして、尖った刃の先端が欠けて飛んだ。

「俺の親父は、旋盤工だった。俺の皮膚の、四分の一は、鉄板なんだ。く、く、く。は、は、は」

 片目の男は坂田家の玄関を出て、夜の町を走る。それを山高帽の男が追いながらステッキを振っていく。左足への攻撃も弾かれたが、右肩には刃がめり込んだ。片目の男が一瞬振り返り、唸るチェーンソーを投げつけた。山高帽の男は躱しきれず、スーツの右脇腹が裂けた。黒ずんだ肉が覗くが血は出ない。チェーンソーはアスファルトを少し削って回転を停止させた。

 ステッキの刃が片目の男の右ふくらはぎを切り裂いた。片目の男が前のめりに転んだ。

 山高帽の男が止めを刺そうと、ステッキを逆手に持ち替えて振りかぶった。片目の男が体を回転させた。

 乾いた銃声が、二度、三度、と響いた。山高帽の男の体が僅かに揺れた。

 片目の男の細い左腕が、拳銃を握っていた。

 四発目が発射されるのとほぼ同時に、山高帽の男のステッキが、片目の男の顔に突き込まれた。槍の穂先が男の右目を貫き、深く奥へめり込んでいた。

「は、はっ」

 唯一の目を失った片目の男が、憎しみの嘲笑を絞り出した。山高帽の男がステッキを引き抜いて、今度は横殴りに振った。

 片目の男の首が、ほぼ完全に切断された。首の左端は金属板が入っていたらしく、刃がそこで止まる。首の切り口から血がしぶいた。

 片目の男は仰向けに倒れたまま、二度と、動かなかった。

「全ては、終わったか……」

 疲れた声で、山高帽の男は呟いた。マントに開いた銃弾の穴から、血は滲んでいなかった。

 山高帽の男は、少しの間死体を見下ろしていたが、やがて踵を返して坂田家に引き返した。

 地下室に下り、転がった死体を確認する。首の折れた木村良介の死体。前のめりに蹲る、首のない木村理恵の死体。木村理恵の生首が傍らに転がる、坂田雪美の死体。首が半分切断された、坂田健一の死体。卓球台の上にある、木村充の無残な死体。

「馬鹿な……」

 山高帽の男は、凍りついた。

 卓球台の上に、坂田健夫の死体は存在しなかった。

 

 

  十一

 

 二○一二年、十月十四日の深夜。

 慈健会串間病院の産婦人科病棟のトイレ。既に就寝時刻を過ぎているが、そこからは常に明かりが洩れている。

 男性用の洋式トイレのスペースに、一人の男が立っていた。

 男は、水色の寝巻きの上にフード付きのコートを着ていた。身長は百九十センチ近い。クリーム色のコートは左肩の上が異常に膨らみ、左首筋までを隠していた。そのため歪んだフードが男の顔の上半分を覆っている。

「俺の味わった苦しみを、他の子供にも。俺の味わった痛みを、他の子供にも。俺の味わった絶望を……」

 フードの男は小さな声で、呪詛の言葉を執拗に唱えていた。

 昼間に患者を装って病棟に入り、トイレに隠れてから八時間が過ぎていた。

 病棟は静かだった。たまに巡回の看護婦らしい足音が通るだけだ。

 腕時計で時刻を確認し、フードの男は決心した。

 使用中表示にしていたドアを開け、フードの男は呪わしき復讐への一歩を踏み出した。

「お」

 廊下に出た途端に何かがぶつかり、フードの男は自分の胸を見た。

 ステッキの先に生えた鋭い刃が、胸を貫いていた。

 フードの男は前に立つ影を見、続いて自分の胸に刺さるステッキを再び見下ろした。鋭利な刃が素早く回転して心臓を抉り、ジグザグに動いて第二の心臓と肺を切り裂いた。

「十年前、木村充の心臓がないことを確認しておいた」

 ステッキを持った影が告げた。十年前と変わらぬ姿の、山高帽に黒いマントを羽織った男。

「坂田健夫、お主を見つけられたのは時代のお陰じゃ。凶悪犯罪が増え、この数年でほぼ全ての病院に監視カメラがつくようになった。人の出入りを常に監視しておるのじゃよ。お前のような容姿のものが現れた時には、わしに連絡が来るよう頼んでおった」

 胸を裂かれた男のコートが翻り、三本目の痩せた腕が現れた。アイスピックを握るその腕を、山高帽の男のステッキが手首から切断した。

「畜生」

 フードの男は薄暗がりの廊下を走って逃げようとした。その背を山高帽の男は大きくX字に切り裂いた。血飛沫を上げてコートが破れ、フードが落ちた。

 坂田健夫の頭は、完全な白髪になっていた。首の左側に、大きな瘤のようなものが生えている。

 それは、毛髪のない、しなびた人間の頭部だった。目を閉じ、皺に覆われたミイラのような顔。

 山高帽の男がステッキを振った。坂田健夫の両足が裂かれ、彼は転んだ。彼の顔もまた、皺に覆われていた。頭部への血流が半分になった影響か、或いは十年の苦悩故か。

「畜生っ皆呪われろっ俺と同じ苦しみをっ皆も味わえっ」

 叫ぶ坂田健夫の胸をステッキが再度貫き、それは真上に滑って、彼の喉から顔を通って頭頂部までを、一気に断ち割っていた。

 坂田健夫が絶命した瞬間、左首筋についた木村充の目が開いた。眼球は瞳の部分も白く濁っていた。

「……あ、ああ、あ……」

 気管の通っていない喉で、微かな、本当に微かな声を、木村充の頭部は洩らした。

 そして、再び目を閉じて、動かなくなった。

「終わった……。呪いが解ける」

 坂田健夫と木村充の死体を見下ろして、山高帽の男は呟いた。同時に彼はよろめいて、床に膝をついた。バザリと音がして、男の両大腿が折れた。ステッキを床に突こうとして、男の右腕が折れた。

 黒い山高帽が、男の頭から落ちた。灰色の髪がごっそりと抜け落ちていく。

 彼の顔もまた、乾ききったミイラであった。

 その右頬に、別の人間の顔の一部が、融合していた。縫いつけられたものらしいそれは、眼球のない片方の眼窩と、低い鼻、そして薄い唇の一部だった。

「母上……父、上……分かっている……私は、愛されて……」

 しわがれた声で、男は呟いた。男の首が折れて外れ、床に転がり落ちた。衝撃で男の顔が崩れた。前のめりに倒れた胴体も、少しずつ風化し、塵となっていく。

 叫び声に看護婦が駆けつけたのは、全てが終わった後のことだった。

 

 

  十二

 

 男はコタツに足を入れ、ビールを飲みながら気怠げにテレビを眺めていた。年齢は三十代の半ばであろう。不精髭を生やしている。

 テレビのニュースでは、昨夜病院で起きた謎の殺人事件のことが報じられていた。左首筋に別の首が生え、左腕が二本ある異形の死体と、看護婦の見ている前で塵になって消えた死体。まだ事件の全容は掴めていない。

 次のニュースでは、失業率が二十四パーセントと、史上最高を更新したと言っていた。

 その次のニュースでは、少子化問題に加え、親による児童虐待の激増が報じられていた。

「お父さん……」

 暖房の効いていない室内で、素裸で正座させられた少年が父親を呼んだ。年齢は七、八才だろう。体中に痣や傷痕があり、怯えた目で男を見つめている。

 男は振り返り、無感動な目で実の息子を見た。

「お父さん、おしっこ行きたい」

 少年が言った。

 男はビールの残りを飲み干して、大儀そうに立ち上がると、少年の腹に容赦のない蹴りを入れた。

 

 

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