コールドドライブ

 

 黒猫が揺れている。フロントガラス中央に吸盤で吊られた小さな縫いぐるみのマスコット。リズミカルに左右に振れ、時に大きく跳ねる。この辺りの路面はあまり良い舗装ではない。

 長い睫毛をカールさせた黒猫の大きな目が運転席の男を見つめている。男は三十代半ばであろうか。白いランニングシャツに青いタオル地のズボン。自宅でくつろいでいたところに用事を思い出してちょっと外出といった風情だった。男は半眼の冷たい瞳を前方に向け、視線はあまり動かさない。

 カーオーディオも鳴らさずに旧式の赤いセダンは走る。あまり上手な運転ではなく時折中央線をはみ出している。ボディの所々に凹みや擦り傷が残っていた。

 暗い田舎道は林の合間に民家を見かける程度だ。前方にコンビニの看板が光る。広い駐車場に大型トラックが数台停まっている。男はそちらを見もせずに通り過ぎる。

 満月の、静かな夜だった。カーオーディオの上のアナログ時計は午前一時過ぎを示していた。

 ヘッドライトに人影が浮かび上がった。ガードレールのそばで女が手を振っている。左腕に何かを抱えていた。

 男は停車して助手席側の窓を下ろした。

「どうした」

「この子がひどい怪我をして大変なの。お願い、動物病院まで連れていって」

 女が抱えていたものは白い子犬だった。ぐったりして血に塗れている。前足が片方潰れているようだ。

 眠たげな半眼の目でそれを観察し、男は聞いた。

「病院の場所は」

「分かります。急がないと死んでしまうわ。乗せて、お願い」

 必死に頼む女は二十代後半だろう。薄手のジャケットとベージュ色のスカートには僅かに血の染みがついていた。肩に大きなバッグを掛けている。長い黒髪は少しほつれていたが、美しい女だった。赤い唇に大きな瞳が印象的だ。

 男は無表情に告げた。

「後ろに乗れ」

「ああ、ありがとう。助かったわ」

 女は後部ドアを開けて乗り込んだ。男は車を発進させた。

「病院はどっちだ」

「このまま暫く真っ直ぐよ。ああ、助かったわ」

 女は嬉しそうに子犬に頬摺りしている。血塗れの犬は僅かに目を開けるが鳴きはしない。

 男が尋ねる。

「車に轢かれたのか」

「違うわ。とにかくひどい目に遭ったの。可哀相。可哀相に、ねえ」

 女は膝の上に子犬を載せて撫でている。男はそれ以上聞くことはせず運転を続けた。

 一本道が続く。他の車とはたまに擦れ違う程度だ。女は安心したのか鼻歌を歌い始めた。

 男はバックミラーを見た。女は子犬を両手で捧げ持ち、鼻歌に合わせて右に左に揺らしている。最初の必死さから打って変わって上機嫌だった。

 緩い左カーブに入った。赤いセダンは微妙に対向車線にはみ出して、少し遅れて男は左にハンドルを切る。今度は寄り過ぎて左側面がガードレールを少し擦った。ガリッという嫌な響きにも男は眉一つ動かさない。

 後部座席の女が目を見開いた。

「ちょっと、危ないでしょう」

 男は返事をせず無表情に運転を続けている。今度は大きな石でも踏んだらしく、車体が斜めに揺れた。

 女の目が更に大きくなった。瞬きをしない、黒々とした深い瞳の周りで太い血管が枝分かれしていた。

「下手糞。寝惚けてんのっ」

 女の声はヒステリックに高くなった。

「寝惚けてない」

 男は前を向いたまま答える。相変わらず無感動な声だった。

 後部座席でブヂ、ミヂッという嫌な音がした。

「だったらもっとまともに運転しろこのボケッ」

 喚き声と共に何かが飛んできた。女が投げつけたのだ。フロントガラスを撥ね返ってダッシュボードに落ちる。

 フロントガラスに血糊がついていた。

 男はダッシュボードのものを見た。

 子犬の前足だった。付け根からちぎれ、骨の端と靭帯が露出していた。

 男は前方に視線を戻した。

「病院に連れていかなくていいのか」

 男が聞いた。

「病院は行くわよ。この子を助けてあげないと。でもあんたが悪いのよ。あんたの運転が下手糞だから、この子がとばっちりを食ったのよ。可哀相に。本当に可哀相」

 女は明らかな非難口調から猫撫で声に変わっていった。膝の上に横たわる子犬は目を閉じて動かない。呼吸をしていないかも知れない。肩から流れる少量の血がスカートを濡らすが女は気にしていないようだ。

「可哀相に。可哀相に」

 女は歌うように繰り返しながら大きなバッグを開けた。

 取り出したのは大きな鋏だった。十五センチほどの刃に新しい血がついている。柄の部分には古い血の塊がこびりついていた。

 男は無表情に運転を続けている。

 後部座席でジョギン、ジャギリ、という音が聞こえた。

「可哀相。可哀相」

 女が膝の上で何かを切っていた。指を突っ込んで引っ張ったりもしているようだ。

 男はバックミラーを見ることもなく黙々と運転を続けている。

「可哀相。可哀相」

 女は後部ドアの窓ガラスを下ろした。

「かーわいそーうー」

 女が窓から何かを投げ捨てた。複数の何かが暗い路面を転がり、あっという間に遠ざかっていった。

「病院はいいのか」

 男が聞いた。

「行くって言ってるでしょう。この子を治療しないと」

「でも捨てただろう」

「ちゃんと残ってるわよ。ほら」

 女が何かを投げつけてきた。丸い塊がカーオーディオのパネルにぶつかってシフトレバーのそばに転がった。

 男は必要最小限に首を曲げ、それが何かを確認した。

 血塗れの、子犬の生首だった。眼球を抉り出したらしく二つの眼窩が闇を映している。

 男は前に向き直った。半眼のまま、どんな感情も示さない。

 女が後ろから手を伸ばして子犬の生首を取り戻した。

「可哀相。かーわいそーうー」

 女は楽しげに歌う。男は何も言わなかった。

 セダンの前方に何かが見えた。道路の左側を動く影。

 男がハンドルを切ったのは轢いた後だった。鈍い衝撃に続いてバグン、ビヂッと不気味な音がした。セダンのスピードが鈍り蛇行する。

 異音は収まらず、男は無表情にブレーキを踏み停車した。シートベルトを外して車から降りる。女も降りてセダンの左前部に目を凝らした。

 潰れた肉塊が左前輪に巻きついていた。絡みついた布は人間の衣服。腕はタイヤに巻き込まれてグチャグチャになっているが、ズボンを履いた両足の大きさからすると小学校中学年くらいだろう。

 こんな時間に何故小学生が、などという疑問をどちらも口にしたりはしない。

「……大変。助けなきゃ」

 女は血走った目をギラつかせ言った。赤い唇がとろけるような笑みを形作る。

「病院まで連れていかないと」

 女は身を屈め、前輪からはみ出した部分を鋏で切っていった。肉と骨を断つ音。

 男は無表情に見守っていた。

 女は服を着た肉塊を引っ張り出した。胸部から上は何が何だか分からなくなっているが、首らしきものが見当たらない。

 タイヤにへばりついていた残りをこそぎ落とし、女はアスファルトに捨てた。

「行くか」

 男が呟いた。

 二人は車内に戻った。女は服を着た肉塊を後部座席に引っ張り込んだ。

「可哀相に。可哀相にねえ」

 赤いセダンは発進した。最初はバズンバズンと左前輪が何かを踏んでいたが、やがてなめらかになった。

「可哀相。助けてあげないと。もうこっちは要らないわね」

 女は窓から子犬の生首を投げ捨てた。目のない生首はガードレールを越えて叢へ消えた。

 男は半眼で前方を見据え、変わらぬ姿勢で運転を続けている。

「これも要らないわね」

 女は大きなバッグに手を突っ込み、大きな丸いものを取り出した。

 それは男性の生首だった。耳鼻が削がれ、眼球が抉り抜かれ、半開きの口の奥では全ての歯が根元で折り取られていた。生きているうちに行われたのか死後なのかは分からない。

 血は乾き皮膚も紫色がかっており、死んで何日か経っているようだった。

 バックミラーを一瞥して男が聞いた。

「あんたの旦那か」

「違うわよ。知らない人よ。でも可哀相な人なの。きっとそうよ」

 女は言いながら窓から生首を投げ捨てた。生首はガードレールにぶつかり一度セダンの横腹をバウンドして、アスファルトを転がって闇に消えた。

「可哀相。可哀相に」

 女は新たに獲得した死体を素手で撫で始めた。やがてジョギジョギという音が始まる。女は鋏を握って何かを切っている。

 男は無表情に運転を続けていた。

 満月の下、赤いセダンは揺らつきながら進んでいく。たまに民家がある程度で病院はまだ見えてこない。

 前方からパトカーが一台やってきた。屋根の赤いライトは光らせているがサイレンは鳴らしていない。

 男は平然と擦れ違った。女は振り向いて面白そうにパトカーを見送っている。

「Uターンしたわよ」

 女が言った。

 男はバックミラーを確かめもしなかった。

「どうするの。逃げる」

 引き摺り出した腸を握り締めて女が聞く。

「別に」

 男は無表情に応じる。

 追いついてきたパトカーが低い警告音を鳴らして停車を指示する。

 男は減速して停車した。道路脇に寄せるような気遣いはない。

 パトカーがすぐ後ろに停まった。女がニヤニヤして様子を見ている。二人の警官が降りて、歩み寄ってくる。

 男は運転席の窓を下ろした。

「ちょっといいですか」

 中年の警官が言った。

「何です」

 男は半眼で警官を見返す。

「小学生くらいの男の子を見かけませんでしたか。家出みたいなんですが、家族から捜索願いが出てましてね」

「そうですか」

 男はそれだけ言った。

 もう一人の若い警官は後部座席を覗き込んでいる。女がギラつく瞳でにこやかに手を振った。女の膝に載っているものが何なのか、警官は見極めようとしている。

「それで、見ませんでしたか」

 中年の警官がちょっと苛立ったように聞き直した。

「見たかも知れませんね」

 男は表情を変えずに答える。

「何処で見ましたか。どっちに向かってました」

「さっき道路で見ました。一部はまだタイヤに……」

「ああーっ、そ、それっ」

 若い警官が後部座席を指差して叫んだ。

「それ、子供、死、死んでるっ」

 女はニコニコして頷いている。

「何」

 中年の警官が運転席の窓から首を突っ込んで後部座席を見た。

「こんばんは」

 女が挨拶した。同時に右手を突き出した。

 鋏の先端が警官の首筋に刺さっていた。

「おっうっ」

 警官が意味不明の声を発した。女が肉の中で鋏を開いた。血が噴き出して車内を汚す。

「ほらほら、行って行って」

 女が嬉しそうに喚く。男はアクセルを踏んだ。急発進で中年の警官の首が窓枠に引っ掛かったまま引き摺られていく。ブジッ、ブボッと警官が呻く。警官の足がアスファルトを擦る。取り残された若い警官が何か叫んでいる。

 男は窓の操作スイッチに触れた。せり上がる窓に警官の首が持ち上げられ更に挟まっていく。

「あはははは、はははは」

 女が高い声で笑う。

 首筋から血を噴きながら警官の目がメチャクチャに動いている。女が抜いた鋏をまた突き刺した。ゴリッと軟骨が裂ける音。

 緩やかに蛇行するセダンが対向車線側にはみ出し、右のガードレールに側面を擦った。

 ゴブヂュッ、と不気味な音がして警官の頭が車内に転がり込んだ。衝撃で首がちぎれたのだ。

「あっはっはっ、切れた切れた」

 女が笑った。足の間に落ちた生首を女が髪を掴んで持ち上げた。警官はまだ目玉をギョロつかせていたが、次第に動きが鈍って瞼が閉じていく。

 警官の胴体はガードレールに寄りかかっていた。

 男が無表情にハンドルを切った。左に大きく曲がり、鼻面を左のガードレールにぶつけ、一度バックしてからこれまでと逆向きに走り出す。不器用なUターンだ。

 その先にパトカーと若い警官がいた。警官は運転席側から上半身だけ車内に突っ込んで無線機を掴んでいた。必死の形相で何か話しているが、迫るセダンに気づき凍りつく。

 赤いセダンはパトカーの右側面を削りながら通り過ぎた。開いていたドアが変形して外れた。

 一緒くたに若い警官の腰がちぎれ、下半身がセダンの鼻面にくっついたまま上半身と離れ離れになっていった。

「あははっ」

 女が笑った。

 鼻面から警官の下半身が落ちた。それをセダンが轢き潰した。後輪までが律儀に轢いた後で、男はブレーキを踏み停車した。

 男と女がセダンから降りた。

「あははっ、可哀相。まだ生きてるかしら」

 女は右手に鋏を握り、パトカーに歩み寄った。男はアスファルトにへばりついた警官の下半身を見下ろした。

「た……たす、け……」

 上半身だけとなった警官は地面に仰向けに倒れ、血の気の失せた顔を女に向けなんとか声を絞り出した。腰から腸がはみ出し、溢れる血がアスファルトに広がっていく。

 警官の下半身に男は屈み込み、手を伸ばした。

「あら、可哀相。本当に、可哀相。助けないと」

 女は警官の上半身を見下ろして言った。そしてハイヒールで警官の顔面を、慎重に、踏みつけた。警官は抵抗する力もないようだ。

 女は、細く尖ったヒールを、警官の左目に、抉り込んでいった。ブジュッ、と嫌な音がして、潰れた眼球が更に奥へ潜り込んでいく。

「かーわいーそーうー」

 女はゆっくりと体重をかけていき、ヒールが完全に、警官の中にめり込んだ。警官の両手が僅かにヒクついた。警官の右目は開いたまま、光が失われていく。

 銃声が響いた。

「あらっ」

 女が振り向いた。不思議そうに、左手で自分の背中を触る。

 背中に開いた小さな穴から、血が流れ出している。

 女の目の前に男が立っていた。警官の下半身から奪った拳銃を握って。

 女が言った。

「かわ、可哀相」

 男はまた発砲した。女の綺麗な顔に穴が開いた。男は更に発砲した。右の眼球が飛び出して脳漿が散った。男がもう一度発砲した。女の頬肉が飛んで歯の欠片が落ちた。

 女は、警官の上半身に尻餅をついた。それでも右手の鋏を振り上げようとした。

 男が発砲した。鋏が落ちた。女の指が二本ちぎれ飛んだ。

 女は、ゆっくりと倒れ、動かなくなった。

 男は拳銃を捨てた。パトカーも死体も放置して、男はセダンに戻った。

 男は無表情に発進した。何もなかったかのように下手な運転を再開する。後部座席に残った肉塊を振り向くこともない。

 男は夢遊病だった。

 

 

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