軋む部屋

 

 キリ、キリ、キリ……

 微かな軋みが、何処からともなく洩れていた。

 或いは、部屋全体が軋んでいるのかも知れなかった。

 六畳ほどの広さの洋室だった。床には水色の薄いカーペットが敷かれ、壁紙は模様もない白だ。部屋の四隅は、時計回りに木製のドア、勉強机、二十一型のテレビ、ベッドが占領していた。

 勉強机は持ち主が小学校へ進む際に買ってもらったものだろう、やや幼稚なデザインだ。側面や引き出しには、シールを綺麗に剥がし損なった跡が残っている。机の角が微妙に削れているのは、持ち主が戯れにカッターナイフの切れ味を試したものだろうか。上面のビニールシートは黄色に変色しかかっているが、その下に学校の時間割やクラスの連絡表が挟まっている。上の棚には教科書が並んでいるが、どちらかといえばテレビゲームの攻略本や雑誌の方が多くスペースを取っていた。車輪付きの椅子は、背もたれの金属部分が錆びを浮かせていた。

 机の左脇にはほぼ押入れと化したクローゼットがあった。半開きとなった扉から奥が覗ける。掛かっているスーツは二着だけで、うっすらと埃を被っている。滅多に着る機会がないのだろう。畳んだ衣服と下着の入った半透明の衣装ケースが主役で、その上にテレビゲーム機の空箱などが積まれていた。クローゼットとドアの間に丸い鏡が掛かっている。

 机の右脇には丈の低い棚がある。乱雑に押し込められているのは大量のゲームソフトと音楽CDだ。上には、テレビアニメのロボットプラモデルと色褪せた熊のぬいぐるみが乗っていた。どちらもあまり良い待遇を受けていないようで、無造作に横たわっている。棚の前にはCDラジカセが置かれていた。

 テレビには三台のゲーム機が繋がっていた。配線が絡み合って何が何やら分からない。周囲の床にはゲームソフトやコミック雑誌が散らかっている。ゴミ箱からはスナック菓子の袋がはみ出していた。

 部屋に一つしかない窓は北向きだった。乏しい日差しを厚い藍色のカーテンが遮っている。まるで外界を拒絶するかのように。窓の上にはエアコンが据えつけられていた。

 ベッド側の壁には、アイドル歌手の大型ポスターが貼ってあった。その隣のポスターにはアニメの少女が描かれていて、右下にゲームソフトの題名らしきものが記されている。

 ベッドの横には大きな本棚があった。数百冊にも及ぶコミックが隙間なく並んでいるが、稀に哲学や宗教関係らしい本が混じっているのが奇妙ではあった。

 ここは、そんな、部屋だった。

 カチャリという音と共に、薄暗かった部屋に光が差し込んだ。入り口のドアが開いたのだ。

 部屋へ足を踏み入れたのは、学生服を着た少年だった。右手に学生鞄を持ち、鍵束を持った左手で電灯のスイッチを入れる。

 彼は、自分の部屋に、鍵を掛けていたのだった。部屋に入ると彼はすぐに内側からドアをロックする。

 少年は、仲野堅太郎といった。

 背の高い、痩せた少年だった。端正な顔立ちだが無表情で、その瞳は昏い光を湛えている。髪は手入れされておらずボサボサだ。堅太郎は溜息をつきながら鞄を下ろし、詰め襟の上着を脱いでハンガーに掛けると、後ろ向きにベッドへ倒れ込んだ。

 瞬きもせず天井を見つめ、口を半開きにした虚ろな表情のまま、堅太郎は暫く動かなかった。

 と、堅太郎は眉をひそめ、目だけ動かして周囲を見回した。

 彼はその時になって漸く、軋み音に気づいたのだった。

 注意しないと分からない程度の微かな音だった。キリキリ、とも、キシキシ、とも聞こえる。

「潰れるんじゃないか、この家」

 ボソリと、堅太郎は独り言を呟き、唇の端を歪めて冷笑を浮かべた。

 この家が建てられたのは堅太郎が生まれる二年前という話だから、まだ十八年しか経っていない筈だった。白蟻が築何年ほどで家を食い潰すのか彼は知らないが、まだ崩壊の心配をするには早いと思われた。

 堅太郎はただ、ベッドの上で、何処からともない軋みに、耳を澄ましていた。

 やがて、廊下を歩く足音が、謎の軋みを打ち消した。自信なげな弱い足音が誰のものなのか、堅太郎には分かっている。

 遠慮がちなノックの音に、堅太郎は投げ遣りな口調で応じた。

「何だよ」

「堅ちゃん、お帰りなさい」

 おずおずと、ドアの向こうから中年の女性の声が届いた。

 堅太郎の母親の、声だった。

「それで、何」

 堅太郎が問うと、五、六秒の沈黙の後で、遠慮がちな声が返ってきた。

「あのね、今日はお父さんの帰りが早かったし、ね、たまには一緒に、ご飯食べないかって。お父さんも、堅ちゃんと色々話したいことあるみたいだし……」

「面倒臭いな。放っといてくれよ」

 堅太郎の冷淡な拒絶に、慌てて声が訂正した。

「そ、そうね、そうよね。なら、晩ご飯が出来たら持ってくるからね」

 足音が、ドアの前から逃げるように去っていった。

 堅太郎の目つきは、険しくなっていた。

 彼は頬を歪め、天井に向かって虚ろな声で呟いた。

「豚共め。僕はお前らの希望通り、ちゃんと学校に行ってるじゃないか。ちゃんと勉強も、してるじゃないか。それ以上、何が不満なんだ。……豚め、豚共め」

 人は、あまりに憎悪が高ぶると、こんな声になるのかも知れなかった。

 のそりと、堅太郎は起き上がった。テレビとゲーム機のスイッチを入れ、床に胡座をかいた。

 伝説の勇者を主人公にした、オーソドックスなロールプレイングゲームだった。昨日セーブしたところから再開する。堅太郎は経験値を稼ぐために、延々と同じエリアをうろついて敵を殺していった。

 プレイしている堅太郎の顔は、相変わらず無表情だった。レベルが上がって陽気な音楽が流れても、堅太郎は眉一つ動かさなかった。

 暫く同じ作業に没頭していた堅太郎は、ふと顔を上げて壁の時計を見た。

 既に、午後七時半を過ぎていた。

 夕食を盆に載せて母親が持ってくるのは、いつも七時頃だ。夕食が来るまでゲームをやっているつもりだったが、堅太郎はデータをセーブしてゲームをやめた。結局レベルを上げただけで、物語自体は全く進行していなかった。

 ゲームの勇壮なBGMが消えると、途端に別の音が部屋に漂い出した。

 それは、ギシリ、ギシリ、という、軋み音だった。

 最初のうちに聞こえていたものに比べ、幾分はっきりしてきていた。彼がテレビゲームをやっていた間、軋みはずっと続いていたのだろうか。

 流石に堅太郎の瞳が、不安の翳りを見せた。こんな音が聞こえるのは初めてのことだった。強い風に吹かれている訳でもなく、地震で床が揺れている訳でもない。

 しかしそんなことより、堅太郎には夕食の方が重要だった。腹の虫が鳴り始めている。常時何袋かは用意しているスナック菓子が今日は切れていた。

 堅太郎は舌打ちした。

 母親へ文句を言うためにわざわざ部屋を出るのも、堅太郎には癪に思われた。最近の彼は、学校から帰ってもトイレと風呂以外の用事で部屋を出ることがなかったのだ。

「全く」

 堅太郎は忌々しげに呟いた。彼の中で、母親に対する憎悪がむくむくと持ち上がっていた。

 机の脇にある棚から音楽CDを一枚取り出し、堅太郎はCDラジカセにセットした。大音量のロックが不気味な軋みを掻き消した。まだ夕食を持ってこない母親に対する、当てつけの意味もあった。

 本棚から古いコミックを何冊か抜き出すと、堅太郎はベッドに寝転がり、音楽を聞きながら読み耽った。

 やはり無表情な顔で、堅太郎は、ページを捲っていた。

 三冊目を読み終わり、堅太郎は掛け時計を確認した。

 午後八時十分となっていた。

 CDが最後の曲を演奏し終えた。堅太郎は本棚にコミック本を戻し、CDをケースに入れた。

 不気味な軋みは、まだ続いていた。

 もしかすると、既に夕食は来ているのかも知れない。母親が黙ってドアの前に置いていったのかも知れない。

 堅太郎はそう考えて、ドアの方へ歩み寄った。

 ロックを外してドアノブを回そうとして、堅太郎は首を傾げた。

 ノブが、びくともしなかった。

 目を見開いたまま、少しの間、堅太郎はドアノブを注視していた。やがてもう一度ロックを入れ、外し、再びドアノブを捻ってみた。

 やはり、ノブは動かなかった。

 ギシリ、ギシリ、と、部屋全体を軋み音が包んでいた。

 部屋が歪んでしまったのか。堅太郎はそう考えた。ドアの枠が変形してしまい、開かなくなってしまったのだ、と。

 堅太郎の背後で硬い音がした。

 窓ガラスを何かが叩く、コツンという音だった。

 堅太郎は振り向いた。窓は藍色のカーテンで覆われている。

 音は、一度しか聞こえなかった。

 堅太郎はドアを離れ、慎重に、窓へと歩み寄った。

 カーテンの端を握り、少しだけ開いて覗き込む。窓から外を見るのは何ヶ月ぶりのことか。

 窓の向こうは闇に閉ざされていた。夜とはいえ、室内から洩れた明かりが狭い庭を淡く照らしても良さそうなものだ。

 それが今、完全に、黒い闇となっていた。

 いや、堅太郎は窓ガラスのぎりぎりまで顔を寄せた。視界の隅で何かが動いたような気がしたのだ。

 闇の中に白く浮かぶそれは、人の顔のようだった。

 笑っている、人の顔に見えた。

 だが見えていたのは一瞬だった。すぐに顔らしきものは消え、真の闇が戻った。

 堅太郎の知っている顔に似ていた。

「とう……」

 父さん、と言おうとして、堅太郎は思い留まった。もしかしたら見間違いかも知れなかった。この二、三ヶ月ほどは、父親の顔など見ずに過ごしてきた。

 吸い込まれてしまいそうな、粘質な感じのする闇を、十秒ほど見つめ、堅太郎はカーテンを閉じた。

「どうなってんだ、全く」

 堅太郎はベッドに仰向けに横たわった。大声で怒鳴って家族を呼びつけようかとも思っていたが、そんな気分ではなくなっていた。窓の外に見かけた顔のようなものが、堅太郎の中に不吉な感触を残していた。

 天井を見つめているうちに、蛍光灯の明かりがちらつき始めた。天井からぶら下がっている電灯は、輪状の蛍光灯が二つ重なったものだ。透明なプラスティックの傘は埃を被っている。

 ほんの僅かな時間、点滅したかと思うと、また正常に戻る。数十秒が過ぎると、またちらつき出す。二つとも同時にちらついているので、蛍光灯の寿命ではなく、電力の供給の関係か。

 電灯が、ゆらゆらと、揺れていた。

「地震なのか、やっぱり」

 堅太郎は呟いた。軋み音はやはり続いている。心なしか、また少し大きくなったようだ。

 部屋の中に、閉じ込められてしまったことになるのか。窓から抜け出せないこともないが、外の闇の不気味な雰囲気は、堅太郎を躊躇させた。

 なんだか、部屋ごと宇宙空間に飛び出してしまったみたいだ。そんなことを思い、堅太郎は苦笑した。

 彼は幼い頃、親戚の家に行くと、同い年の従兄弟としばしば二段ベッドを使って遊んだ。上段から毛布やタオルケットを四方に垂らして覆いを作り、上段と下段の間を箱型の密室にしてしまうのだ。中にいると本当に、馬車や宇宙船に乗って移動しているような気分になったものだ。

 だが今は、状況が違う。

 堅太郎は上半身を起こし、リモコンでテレビのスイッチを入れた。ゲーム用のビデオモードから番組へチャンネルを切り替える。地震などについてニュースでも流れているかも知れない。

 画面は灰色だった。音声は、ザラザラした低い唸りが洩れるだけだった。

 微かな濃淡が画面一杯に灰色の渦を作り、ゆっくりと回っているようにも見えた。

 どのチャンネルでも同じだった。堅太郎はテレビのスイッチを切った。

 得体の知れない不安が、彼の中で大きくなっていた。

「母さん」

 堅太郎は大声を出した。

「母さーん」

 返事はなかった。足音も近づいてこない。部屋の外は静まり返っていた。ただ軋みだけが絶え間なく続いている。壁や天井が歪んでいる訳ではないが、やはり気味が悪いものだ。

「誰もいないのー」

 堅太郎の声はヒステリックな響きを帯びていた。

 トタ、と、壁を軽く叩くような音が、ドアとは別の場所で聞こえ、堅太郎は凍りついた。

 トタ、トタ、トタ、と、音は壁を移動していった。ドアの横から本棚の裏へ、そして音は上に進み、天井から聞こえるようになった。ギシリ、と、その部分の軋みが強くなった。

 まるで何者かが、壁や天井裏を歩いているようだった。いや、壁を歩くとは馬鹿げている。人間は垂直な壁を歩けるようには出来ていない。

 或いは、人間でないのかも知れない。

「ひゃるうううううううう」

 奇妙な高い音が、天井裏から聞こえてきた。哀切な響きのある、狼の遠吠えにも似た鳴き声だ。

「ひょるおおおおおおおおおお」

 鳴き声と共に、トタトタという音もついていく。

 堅太郎の目は、一杯に見開かれていた。彼は弾かれたようにドアへ走っていた。

「誰かっ、お母さん、開けてよっ」

 堅太郎は渾身の力でノブを掴み、ドアを乱打した。木製のドアは中空に近い構造で、堅太郎の拳によって表面が凹む。

 しかし、ドアは動かなかった。堅太郎は右足を上げ、体重を乗せてドアを蹴りつけた。バリッと音がして浅く陥没するが、やはりドアは破れない。

 バシュッ、という、奇妙な音が、堅太郎の蹴り足を止めた。

 堅太郎の、白い靴下を履いた右足の甲に、鈍く銀色に光る何かが生えていた。

 血走った目で瞬きもせず、堅太郎はそれを睨んだ。

 ドアの向こうから彼の右足を貫いているものは、槍の穂先のように細長く尖った刃だった。幅は二、三センチ、堅太郎の血を絡みつかせて、十センチほども突き出している。

「うひゅ……」

 横隔膜が痙攣したようなひしゃげた声が、堅太郎の口から洩れた。端正な顔が泣き出しそうに歪む。

 ゴリリ、と、刃が百八十度回転し、足の甲を抉った。流れ出す血が靴下に滲んでいく。

「うああああああああっ」

 堅太郎は喚きながら右足を引いた。引き方がまずかったようで、刃は抜ける時に更に足を裂いていった。

「ひゃるうううううあああああ」

 堅太郎の叫びに呼応するように、ドアの向こうから高い鳴き声が聞こえてきた。堅太郎が蹴っていた場所から、細長い菱形の刃が生えていた。

 それはスルスルと吸い込まれて消えた。直径数センチの丸い穴が、木製のドアに残った。

 堅太郎は尻餅をつき、自分の右足を押さえた。これまで経験したことのない痛みが彼の足を苛んでいた。熱いような、生温いような奇妙な感触。自分の肉体がこんなにもあっけなく破壊されたということへの怖れ。

 堅太郎には、自分がこんな状況に置かれているということが、信じられなかった。

 恐る恐る血塗れの靴下を脱ぐと、足の甲の皮膚は爆ぜたように開き、裂けた肉と、砕けた白い骨が覗いていた。足の裏から流れ出た血がカーペットを染めている。傷口の周囲に軽く触れただけで、ひどい痛みが跳ねた。

 もしかすると、一生右足を引き摺って歩くことになるかも知れなかった。

「う、ううううう。うううううう」

 堅太郎は歯を食い縛った。自然と涙が零れ、彼は顔をクシャクシャにして嗚咽した。この異常な現象についての疑問など吹き飛び、ただ彼の内部を痛みと後遺症への恐怖だけが占めていた。

 再びバシュッと音がして、銀光が堅太郎の視界を掠めた。

 ドアを貫いて一メートルも伸びた細い刃が、堅太郎の左頬を浅く裂いていた。もう数センチずれていたら、堅太郎は即死していただろう。

「うわあああああっ」

 堅太郎は慌てて立ち上がり、右足の痛みによろめきながらもなんとか後じさった。滲み出た血が頬を伝い、顎の先で雫を作る。

 ドアのほぼ中心から水平に突き出した刃は、槍のような柄がなく、全体が同じ幅の刀身となっていた。細身の両刃の剣が、真っ直ぐに引き伸ばされたような凶器だ。

 ゴリリ、と、また刃は回転し、そして引き戻されていった。また数センチの穴が残る。

 堅太郎が息を呑んで見守っていると、穴の奥から目玉が覗いた。

 人間のものにしては、異様に大きな瞳だった。白目の部分は濁っている。

「うわああああっ、おか、お母さん、お母さーん」

 先程自分が豚共と断じた母親を、泣きながら堅太郎は呼んだ。しかしあの気弱な足音が駆けてくることはなく、代わりにドアを突き破って再び細長い刃が現れただけだった。

「お母さーん、ううう、お父さーん」

 堅太郎が無駄に叫んでいる間に、何度も刃は出し入れされ、木製のドアに幾つもの穴を残していた。中央部分に、三つほどの穴が集中していた。

 その脆くなった部分をぶち破って、別のものが出現した。

 火傷の痕のようなケロイド状の皮膚で覆われた、紫色の太い腕だった。それは何を求めてかモゾモゾと宙を掻く。先の鋭く尖った長い爪。

「うあああああっうああっあああああっ」

 叫びながらも、堅太郎は机に駆け寄って、下の引き出しを開けた。雑誌を載せて隠しておいた箱を取り出す。

 箱の中身は、黒いナイロン製の鞘に収まったコンバットナイフだった。半年前にこっそり通信販売で購入しておいたものだ。プラスティックに似た材質の柄を、震える手で握って抜き出すと、艶消しのコーティングを施された灰色のブレードが現れた。刃渡りは二十センチ近くあり、峰の部分は浅い鋸歯状になっている。まだ新聞紙くらいしか切ったことのない刃だ。

 ドアから突き出した紫色の腕は、幾度か宙を彷徨った挙句、横に曲がってドアノブに触れた。

 堅太郎があれだけ力を込めても回らなかったノブが、ガギリと音を立てて動いた。

「うわあああっ」

 堅太郎はコンバットナイフを握り締め、右足の痛みも忘れて突進した。夢中で切りつけると、鋭利な刃は意外なほどにあっさりと、紫の肉を切り裂いた。骨を擦る感触があり、ベラリと開いた傷口が暗い断面を晒した。どす黒い血が滲み出る。

 ドアの向こうの相手は、呻き声も叫び声も洩らさなかった。ただドアノブを離し、素早く奥へと腕を引っ込めていった。

 堅太郎は興奮のため荒い息をつきながら、刃に付着した黒い血と黄色の油脂を見つめていた。

 と、腕の消えた穴を更に押し広げて、木片を散らしながら黒いものが現れた。

 毛むくじゃらの、丸い頭のように見えた。堅太郎にそれを冷静に観察する余裕はなかった。

「うわわっ」

 堅太郎はコンバットナイフをそのまま突き出した。グシャリと、ブレードが塊の中に深々と減り込んだ。血飛沫の一部が堅太郎の顔に撥ねた。

 やはり何の声も立てず、何だか分からない黒い塊はドアの奥へ引っ込んでいった。ナイフの抜けた箇所から黒い体液が噴き出して、カーペットを汚い色に染めた。径三十センチほどになったドアの穴の向こう側、本来は廊下が見える筈のそこには、闇だけが覗いていた。

 ドアの大穴の、ささくれた縁に、黒い肉片が引っ掛かって残っていた。

 静寂が戻り、あの高い鳴き声は聞こえなくなっていた。ただ、部屋全体の軋みだけは依然として続いている。

 堅太郎はドアノブに触れ、ロックを掛け直した。部屋の中を見回し、本棚に目をつける。

 痛みに顔をしかめながら、堅太郎は右足を引き摺って本棚の側面に回った。黒い体液の付着したナイフを握ったまま、両手で本棚を押してみる。

 大量のコミックを収納した本棚は、堅太郎が幾ら力を込めても動かなかった。仕方なく、中のコミック類を引っぱり出す。大事にしていたものだが、堅太郎はもう平気で床に投げ捨てていった。

 三分の一ほどを放り出すと、なんとか動かせる重量になっていた。堅太郎は顔を真っ赤にして唸りながら本棚を押していき、ドアの前を完全に塞いだ。今度は床に散乱したコミックを拾い上げ、乱暴に本棚へ詰めていく。少しはバリケードとして役に立つだろう。

 作業が終わり、ふと堅太郎は、傍らの壁に掛かった鏡を見た。

 彼の顔は、黒い粘液が絡みついた、異様な形相となっていた。裂けた左頬から流れ出た血が顎まで続いている。一杯に見開かれた両目は、自身が怪物と呼ばれかねない凄まじい眼光を放っていた。

「クク、ククク」

 堅太郎は顔を歪め、昏い笑いを洩らした。左頬の傷が捲れ、赤い肉が覗いた。

 鏡の縁に、灰色の虫が留まっていた。

 体長二センチほどの、丸い腹を持った虫だった。羽はない。細い足が十本あり、前の四本は互いを忙しなく擦り合わせている。

 小さな頭が動いて、堅太郎の方を向いた。両側だけでなく、頭の先端にも、目らしきものが付いていた。その真ん中の目の下で、熊手に似た顎が開き、舌のようなものがチロチロと出たり引っ込んだりしていた。

 堅太郎がこれまで見たことのない虫だった。

 見入っているうちに、奇妙な虫は鏡から跳躍してカーペットの上に着地した。堅太郎も視線で追う。

 着地した丸い虫の近くに、別の虫がいた。

 トウモロコシを縮小したような、紡錘形の虫だった。体長は三センチほどか。両端に触角があって、どちらが頭か分からない。向かい合わせに付いた四本の足を不器用に動かして、カーペットを這っていた。

 机の上で別の何かが動いた。薄桃色の芋虫だ。ぼってりとした体躯を目的もなく蠢かせている。

「う……」

 堅太郎は、顔を引き攣らせて、室内を見回した。

 既に、何十匹もの奇妙な虫達が、壁を床を這い回っていた。その内の一匹が天井を跳ね、堅太郎の肩に乗った。

「わわっ」

 堅太郎は慌ててそれを払い落とした。異常に柔らかい虫を乱暴に払ったため、一部が潰れて青い体液が手に付着した。

「うええ」

 堅太郎はベッドのシーツでそれを拭いた。

 カサカサと、虫達の気配が部屋を満たし始めていた。何処からともなく湧き出してくる虫達。堅太郎を刺したり噛みついたりする訳ではないが、だからといって許容出来るものではない。

 バシュッ、と音がして、天井から銀の刃が伸びてきた。堅太郎はビクリと身を竦める。

 ドアの時と同じように、回転しながら引き戻され、少しして、天井の別の箇所から刃が伸びた。それは電灯の傘を掠めてプラスティックの破片を飛ばした。電灯の揺れと共に部屋の陰影も揺れる。

 細長い刃の襲撃が、五回、繰り返されて、やんだ。

 堅太郎はギラつく目で天井を見上げた。

 径数センチの、五つの穴から、奇妙な形の虫達が溢れ出していた。天井を伝い、或いはそのまま床に落下し、我が物顔で這い回る。

 部屋の軋みは、ギギ、ギギ、という音に変わっていた。

「うううう……うああああああっ」

 堅太郎は叫んだ。学生ズボンに飛びついた紫色の虫を払いのけ、彼は喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。

「ああああムグッ」

 その口に羽を持った虫が飛び込んできて、堅太郎は目を白黒させてそれを吐き出した。唾液の絡まったミミズのような虫が、カーペットに投げ出されて踊る。

 暫く唾を吐いた後、もう堅太郎は叫ばなくなった。

 虫達は後から後から続いていた。もしかすると最初の侵入は、ドアの穴からだったのかも知れない。今や床は足の踏み場もないほどに虫達で埋まり、食らい合ったり隊列を組んだりじっとしていたりと各々が勝手なことをやっている。机や本棚へも虫達は這い登り、テレビは画面が隠れてしまっている。白い壁は緑や赤や茶色や青の色彩が流れ蠢き、堅太郎が避難していたベッドの上にも、虫達は侵攻を開始した。幾ら払いのけてもその十倍の虫達が這い寄ってくる。悲鳴も上げられず、ギラギラと見開いていた目にも虫が特攻してきたため、堅太郎は涙を流しながら目を細めるようになった。

「ううううう」

 堅太郎はただ口を閉じ、低い唸りを上げていた。

 床に溢れ返る虫達が上に上に積もっていき、ついにベッドの高さまで達した時、堅太郎は行動を起こした。

「うううううう、ううっうううう」

 堅太郎は唸りながら、コンバットナイフを鞘に戻してベルトに差した。黄土色の毛布を引き剥がして、左腕に巻きつけていく。かなり分厚い塊になった。右手には枕を握る。中にプラスティックの小さなパイプが詰まっている枕だ。

 堅太郎は、傷ついた裸足の右足と、靴下を履いた左足を、虫達の海へ落とした。グシャリともベチャリともつかぬ音がして、何十匹かの虫が潰れただろう。はみ出した体液の粘っこい感触と、生きている虫達の這いずる感触が彼の両足を覆う。

 平然と立ち上がると、堅太郎は両腕を振り上げ、右手の枕と左腕の毛布の塊を、溢れ返る虫達へ交互に叩きつけていった。虫達が騒ぎ出し、潰れた死骸も生きているものも、堅太郎の攻撃に合わせて跳ね踊る。

 堅太郎は、無表情に目を細め、顔面にぶち当たってくる虫達にも構わずに、黙々と、両腕を振り下ろしていった。ベッドの上にいた虫達も潰し、緑色や赤や青の粘液がシーツを染める。

 乱暴に両足で踏み散らしながら、壁といわず床といわず、手当たり次第に堅太郎は殴りつけ、虫達を潰していく。潰れた死骸と体液で、四方の壁は極彩色のアートを成した。全身を体液で染め、堅太郎の姿は斑模様となっていた。

 機械のように単調な作業が五分以上続いたが、虫は一向に減る様子がなかった。一体部屋の外にどれだけいるのだろうか。

 窓の方から、ドダン、と、ガラスを叩く音がして、堅太郎は振り向いた。

 ドロドロになった枕を投げ捨て、虫達を踏みつけながら窓に向かう。

 虫の取りついた藍色のカーテンを、勢い良く開けた。

 窓ガラスの向こうに怪物がいた。

 紫色の、ケロイド状に爛れた皮膚の、ずんぐりとした怪物だった。力なく垂れた左腕には、大きく抉れた刃物傷が残っている。

 堅太郎がナイフで切った傷だろう。

 太い毛髪を絡みつかせ、水死体のように膨れ上がった頭部は、額の少し上、やや左側に、大きな穴が爆ぜていた。黒ずんだ薄い肉が捲れ、軟骨に似た半透明の骨が開き、腐ったチーズのような脳が見えていた。

 堅太郎がナイフで刺した傷だろう。

 滲み出る黒い血が、怪物の凸凹のある顔を覆っていた。岩石を乱暴に彫って作ったような顔だった。鼻も口も分からない。ただ、濁った白目の部分に囲まれた、大きな黒い瞳が、恨めしそうに堅太郎を見つめていた。

 堅太郎は、カーテンを閉めることも出来ず、絶句したまま、その場に立ち竦んでいた。

 紫色の怪物は、鋭い爪の生えた手で拳を作り、無事な右腕を振り翳した。何処となく眠たげな、スローモーションのような動きだった。

 ノックでもするように、怪物の右拳が、窓ガラスに叩きつけられた。脳をやられていて力が発揮出来ないのか、ドダン、と、サッシが揺れるのみだ。

 怪物が、再び右腕を振り上げた。窓ガラスの、拳が当たっていた部分に、黒っぽい液体が残っていた。

 振り下ろした拳は、また同じ場所に当たり、ドダンと同じ音を立てた。

 飽きもせず、怪物はまた右腕を振り上げた。

 まるで、開けてくれと訴えているようだった。

 闇が寒いから、中に入れてくれ、と。

「うう……うああああああっあああっ」

 堅太郎の口から、また掠れた悲鳴が迸り出た。叫び続けてきたせいで喉が痛む。

 悲鳴を上げる堅太郎の、血走った目を見据えたまま、ゆっくりと、怪物が窓を叩いた。

「あああああっ」

 堅太郎は虫達の踊るベッドを見遣った。窓を塞ぐことが出来るのはこれしかなさそうだ。

 左腕の毛布を解いて、堅太郎はベッドの端を掴んで、渾身の力で持ち上げ起こした。捲れたシーツが向こう側へずり落ちる。

 ベッドの下の床が露わになった。

 堅太郎は、口をポカンと開けたまま、そこに見入っていた。

 ベッドによって隠れていた床には、径一メートルほどの深い穴が生じていた。穴の縁は黄緑色の淡い燐光を放ち、漏斗状に下へ滑り込むにつれて黒みを帯びていく。垂直に続いている穴は、途中から闇に呑み込まれていた。

 穴の近くをウロウロしている虫達が、黄緑色の縁に触れると、吸い込まれるようにしてもがきながら奥へと落ちていく。

 ドダン、と、窓が鳴り、堅太郎は我に返った。取り敢えずは立てたベッドを引っ張っていき、窓を完全に塞いだ。ゲームソフトやCDの収まっていた小さな棚を、前に置いて支えとする。載っていたプラモデルやぬいぐるみが零れ落ち、虫の海に呑み込まれた。

 外からは依然として、窓を叩く音が続いていたが、中へ侵入してくるだけの力はないようだった。

 虫の海に立ち、堅太郎は床に開いた大穴を見つめていた。虫達の水位は堅太郎の膝の上にまで達していた。羽の生えた虫達は室内を飛び回り、電灯にぶつかっては光を揺らしている。堅太郎の全身にも虫達がぶつかり、這い回っている。

 堅太郎は両腕を一杯に広げて、海の中へ屈み込んだ。複雑に積み重なり絡み合った虫達の塊を、黄緑色の大穴へ向けて押しやっていく。彼の意図を察したのかどうか、虫達は嫌がって逃げ出そうとするが、何千匹かを纏めて穴へ落とし込むことが出来た。

 ズルリ、と、魔法のように、虫達の塊が、暗い穴の奥へ滑り落ちていった。一度沈んだものが、這い上がってくることはなかった。

 穴の奥に自分が落ち込んだらどうなるのか、堅太郎の脳裏を一瞬だけそんな考えが掠めたが、彼は冷笑を浮かべながら、部屋を埋め尽くす虫達を穴へと押しやっていった。

 どれくらいの時間が経過したのか。粘液塗れの袖で額の汗を拭いながら、堅太郎は壁の掛け時計を見上げた。

 枕の打撃によって斜めに傾ぎ、虫の死骸のへばりついた時計は、九時五十分を示していた。

 室内は、まだ方々に潰れた死骸が散らばり、生き残りの虫達が這っているが、かなりの改善を見せていた。天井の五つの穴は、ネタ切れになったらしくもう新しい虫はやってこない。

「クックックッ。クックックックッ」

 堅太郎はどぎついペインティングが施されたカーペットに腰を下ろし、さも可笑しそうに笑った。左頬の傷も右足に開いた穴も、その苦痛も、彼の中から吹き飛んでしまっていた。

 ただ、腹を抱え、汚れた床に寝そべって、堅太郎は笑い転げた。今も尚続いている軋みは、彼の笑い声によって掻き消された。

 しかし、湿った物体が床を滑る、ズルリ、という音が、堅太郎を飛び上がらせた。

 堅太郎のすぐ側に、青白い怪物がいた。彼と同じくらいの大きさだ。転がるようにそこを離れ、彼は壁を背に立ち上がる。

 外から窓を叩いていた紫色の怪物とは違い、青白い怪物は、ナメクジに似た、ぬめるような光沢を持っていた。人間の上半身そっくりの形状に、腰から下の部分は次第に細まって、尾のように長く伸び、黄緑色の穴へと続いていた。

 つまり、この怪物は、床の大穴から這い出してきたのだ。

 毛髪もないツルリとした頭が、堅太郎の方を向いていた。鼻はなく、目や口に当たる部分はまるで縫いつけられているように閉じ、合わせ目の部分がビクビクと痙攣している。両腕は肘の辺りから先が無数の触手に分かれ、それぞれの触手の先端に、ミニチュアの手のようなものが付いている。それはバラバラに拳を作ったり開いたりしていた。

「うわあああああっ」

 堅太郎は叫びながら、腰のナイフを抜き放った。

 ズルリ、と、青白い怪物が堅太郎に向かって動いた。一度に五十センチほども進む。触手の束が花のように開き、堅太郎を捕らえようと蠢いている。

 触手の中に飛び込むことは躊躇われ、堅太郎は椅子を掴み上げた。虫の死骸がへばりついて汚れた椅子を、青白い怪物の本体目掛け、力一杯投げ落とす。

 グギョリ、と、不気味な音がして、それは怪物の背に減り込んだ。内臓器官が潰れたかも知れない。椅子は跳ね返ってテレビの方へと転がり、怪物の背中に青い瘤が膨らんでいった。内出血を起こして体液が内部で洩れ出しているのだろうか。

 それでも怪物は、ズルリ、と更に前進し、無数の小さな手が堅太郎の足に触れた。ひりつくような感覚。

「うああああああっ」

 堅太郎は逆襲に転じた。コンバットナイフを逆手に握り締めて一歩踏み出し、青白い怪物の頭部に突き立てた。

 予想通り、ナイフはあっけなく柄元まで突き刺さった。触手に絡みつかれた足が腕が焼けるようだ。

 堅太郎は、歯を食い縛りながら、ナイフを大きく抉り、更には刺さったままで滅茶苦茶に動かした。青い体液が滲み出て、カーペットに広がっていく。

 怪物は両腕をもがかせたが、何処かその動きは緊迫感に欠けている。頭を潰したのに触手はまだ堅太郎の体を掴んだままだ。

「うおおおおっ」

 堅太郎は胴体の部分へもナイフを突き刺していった。体中の痛みも放って、何度も何度も、狂ったように繰り返す。

 やがて、触手のざわめきがやみ、くたりと床へ沈んでいった。滅茶苦茶に裂けた怪物の残骸が、ゼリーのような内臓を露出させていた。

 堅太郎は、何年か前に食卓に出た、なまこを思い出した。美味しいからと父親が勧めてくれたが、気味が悪くて結局堅太郎は食べなかった。

 或いは、今ならば、平気で食べられるかも知れない。

 カーペットに青い水溜まりが出来ていた。堅太郎は椅子を拾い上げ、それを使って怪物を大穴へと押しやった。

 ズルリ、と、青い怪物は、元来た黄緑色の穴へ吸い込まれていった。

「ざまあみろ」

 堅太郎は顔を歪めて呟いた。

 全身の皮膚が焼けるようだった。あの小さな手の形をした触手は、酸を分泌していたのだろうか。ズボンやカッターには虫食い状の穴が開き、手足や首筋の皮膚は爛れている。

「ざまあみろ」

 もう一度、堅太郎は呟いた。

 既に彼は、何故こんなことになったのかなど、考えなくなっていた。

 床に開いた大穴も、塞いでおく必要があった。また似たような怪物が這い上がってこないとも限らない。

 堅太郎は自分の勉強机に目をつけた。ナイフをベルトの鞘に戻し、机を押していく。なかなかの重量があったが、なんとか穴の前まで滑らせることが出来た。

 彼は慎重に、机を後ろ向きに倒していった。勉強机は、上に本棚が付いている分、充分に蓋としての役割を果たしてくれるだろう。上の棚に載っていた教科書や雑誌類がバラバラと零れ落ちる。

「勉強か……」

 堅太郎の虚ろな呟きに、部屋の軋みが重なっていた。ギシリギシリと驚くほど大きく響く。今にも部屋が崩壊しそうな雰囲気だった。電灯は絶えず揺れ、時に一秒くらい消えることもある。

 暗闇への不安に襲われ、堅太郎は顔を強張らせた。しかしそれはすぐに去り、ふてぶてしい笑みに変わっていた。

「テレビはつくかな」

 リモコンは何処かに消えてしまっていた。堅太郎は直接本体のスイッチを押した。

 弾けるような音と共に火花が飛び、堅太郎は反射的に手を引っ込めた。

 画面にはテレビ番組は映らなかった。前回見えていた、灰色の渦のようなものもなかった。

 代わりに、丸いものが映っていた。

 二十一型の画面一杯に広がったそれは、巨大な眼球に見えた。黒い瞳は、じっと堅太郎の方を観察しているようだった。瞳の中には赤みを帯びた模様があって、それは、ゆっくりと回転していた。ゴポリと、水泡の生じるような音が聞こえる。

 えらく、立体感のある映像だった。

 テレビの底面から、少しずつ水が洩れていることに、堅太郎は気づいた。眼球の映った画面は、薄い濁りが揺れている。

 巨大な眼球は、ブラウン管を水槽代わりにして、実物としてテレビの中に存在しているのだ。

 堅太郎は、もう悲鳴も上げなかった。こちらを見つめている一個の眼球に対し、堅太郎は冷酷な視線を返した。

 テレビに近寄って、堅太郎はテレビの電気プラグを引き抜いた。コンセントの細い穴から水が溢れ出る。

 蓋に使っていた机をもう一度引き起こすと、今度はピンク色をした触手が数十本、穴から出ようとしていた。堅太郎は眼球の入った二十一型のテレビを抱え上げ、その上に落とした。穴の内壁にぶつかってブラウン管が割れ、はみ出す眼球が見えた。

 しかしそれはほんの僅かな間で、テレビはピンク色の触手を巻き込んで、穴の下へ滑り落ちていった。黄緑色から黒へと変わる内壁、そして底は見通せない。

 堅太郎は満足げに、机を戻して蓋をした。

 ボタン、と、更に別の音が床に落ちた。虫や青白い怪物の体液でグチャグチャになったカーペットに、新たな汚れが加わっていた。

 黄色い、一塊の粘液だった。

 堅太郎は天井を見上げた。虫の侵入もやんでいた五つの穴から、いつの間にか、黄色の粘液が氷柱状に下がっていた。

 見ているうちにも少しずつ、黄色の氷柱は大きさを増していき、先端が丸い雫となって床に落下した。ボタン、と、鈍い音がして、潰れた粘塊を残す。

 左手の人差し指で粘塊に触れてみると、ヌルヌルした感触だった。付いた粘液をズボンで拭くと指先に痛みが走る。

 人差し指の先端の皮膚が溶け、肉が露出していた。青白い怪物の触手が分泌していた酸の、何倍も強力なものであるらしかった。

 堅太郎はただ、口をへの字にして、それを確認した。

 目を細めて天井を見渡す。それぞれの穴から垂れ下がった粘液は、独自の生き物のようにゆっくりと、天井を伝って拡がりつつあった。

 ミシミシミシ、と、木の組織が破壊されていくような音がした。天井の中央が僅かにたわんで見える。

 そろそろ、限界なのかも知れなかった。

「ちゃんと、学校に行ってたじゃないか……」

 堅太郎は、低い声で囁くように、その言葉を口にした。

「ちゃんと……勉強も、してたじゃないか。成績も、いつもクラスで、五番以内だったじゃないか……」

 彼の話を聞いてくれるものは、この部屋にはいなかった。

 バシュッ、と、聞き慣れた音がして、駄目押しの刃が天井から生えた。回転して引っ込められた後に六番目の穴が残る。

 丁度、堅太郎が顔を上げたすぐ前に開いた、天井の新しい穴から、粘液が押し出されてきた。

 他の穴と違い、半透明の、赤い色をした、粘液だった。粘性も低いようで、そのままトロトロと床に落ちてくる。

 カーペットの上を広がるかと思ったが、着地した粘液は意外にも、ある幅を保ったまま上に積み重なっていく。

 堅太郎は、無表情に、目の前の赤い粘体を見下ろしていた。

 蛇口から落ちる水流のように、途切れることなく赤い粘液が供給される。型崩れせず、ほぼ垂直に溜まっていく。予め形が決められているかのように。

 堅太郎は、鞘からナイフを引き抜いた。尋常でない力が込められているのだろう、柄を握る右手が小刻みに震えている。

 半透明の赤い粘体は、立っている人間の、胴体に似た形状を示してきた。

 堅太郎は、ナイフを再び鞘に収めた。代わりに拾い上げたのは、傍らに転がっていた椅子だった。

 他の穴から滴る黄色の粘液は、天井の占領を終え、壁への侵攻に移っていた。壁に飾っていたポスターが溶けていく。バリケードにしていた本棚やベッドも煙を上げている。

 部屋のあちこちから、悲鳴に似た軋みが聞こえていた。

 積もっていく赤い粘体に、肩のようなものが出来た。そこから両腕が成長していく。これが人間だとすればかなりの巨漢だ。肩の高さが、長身の堅太郎の頭の高さくらいだった。

 堅太郎は両手で椅子を抱え、大きく振り被った。

 赤い粘体に両腕が完成した。堅太郎の腕よりも二回りは太い。粘液の供給が加速して、ゼリーのような頭部を作り上げた。

 堅太郎の、見開かれた目は、凄絶な黒い殺意に燃えていた。

 ほぼ完成品となった人型の粘体が、両腕をゆらりと差し上げた。目鼻立ちの良く分からない、半透明の顔の、口元が動いた。

「ケンタ……」

 壊れたレコードのような、間延びした低い声が、粘体の口から洩れた。

「うおおおおおおおっ」

 対する堅太郎の口から迸ったのは、凶暴な雄叫びだった。

 残った力を振り絞って、堅太郎は人型の粘体に向かって椅子を叩きつけた。

 ドチャッ、と、粘体が弾けた。飛び散った赤い粘液が壁にへばりつく。

 粘体の頭部と右肩と、胸の半分ほどが、吹っ飛んでいた。残った左腕が揺れた。

「うおおおおおおっ」

 堅太郎は椅子を横殴りに振った。左胸が腕と一緒に爆ぜ、細かな飛沫となって消失した。

 残った下半身を、三度目の打撃で叩き潰し、堅太郎は狂喜の叫びを上げた。

「うおおおおおっ、うおおおおおおっ、ざまあみろっ、俺の勝ちだっ、ざまあみろ、ざまあみろっ、ざまあ……」

 その時、部屋の軋みが一変し、バキバキという破壊音に取って代わられた。壁が歪み、亀裂が入り始めた。天井が信じられないくらいにたわみ、電灯が、酸によるものかコードが切れて落ちた。部屋に真の闇が訪れた。

 いや。

 急に生じた強い光に、堅太郎は椅子を落とし、手を翳した。

 裂けた壁、崩れた天井の隙間から、眩い光が差し込んでいた。光が強過ぎて、逆に何も見えない。

 何も聞こえなくなった。全身の痛みも遠ざかる。ただ、白い光が、堅太郎の視界を埋め尽くしていった。

「あああああ」

 堅太郎は声を洩らしていた。

「ああああああああああ」

 唐突に視力が回復し、堅太郎は、自分の部屋の中心に、立っていた。

 部屋は、崩壊していなかった。本棚もベッドも、机もテレビも、整然といつもの場所にある。電灯も無事だ。

 ひどかった痛みの大部分は消えていた。ただし左頬と右足の痛みは続いている。堅太郎は自分の頬に触れてみた。生温かい液体の感触。手を離して確認すると、やはり血液が付いている。

 あれほど長い間続いていた軋み音は、全く聞こえなくなっていた。

 今までの出来事は、何だったのか。

 堅太郎は、呆然としながら、もう一度、横の壁を見た。

 潰れた虫の死骸も、体液も、黄色の粘液も、付着していなかった。

 その代わりに、赤い血痕が、所々に残っていた。

 まだ新しい、血痕だった。

 堅太郎は自分の足元を見下ろした。靴下を履いた右足の甲が、真横に浅く裂けている。左頬のものと同じく、刃物による傷だ。

 彼は、自分がジーンズを履いていることに気がついた。上着もTシャツだ。クローゼットを見ると、ハンガーに学生服が掛かっていた。

 クリーニング屋の薄いビニールで、包まれたままだった。

 どれだけの期間、着ることもなく放置されていたのだろうか。

 堅太郎の腰のベルトには、コンバットナイフが挟んであった。柄には血が付いている。

 もしかすると、自分で自分の体を切ってしまったのかも知れない。何故か、堅太郎はそんなことを思った。

 だが、その先の床へ視線を向けると、非日常的な物体が転がっていた。

 それは、頭の陥没した、血みどろの、人間の死体だった。顔は見えないが、飛び出した眼球が一個、神経の糸を引いて転がっている。血に混じって透明な液体も洩れていた。

 背広を着た、中年の男だ。その髪型と体形には、堅太郎は見覚えがあった。

 堅太郎の、父親のそれだった。

「うう……堅ちゃん……堅ちゃん……」

 母親の啜り泣く声が聞こえ、堅太郎はドアの方を見た。

 開かれたドアの先は、黒い闇ではなく、見慣れた廊下だった。

 ドアの脇に、母親が膝をついて、顔をクシャクシャにして泣いていた。

「堅ちゃん……大丈夫だから……きっと治るから……今からでも病院行こ……」

 母親の言葉の意味が、堅太郎には、理解出来なかった。

 堅太郎は、ゆっくりと背後へ振り向いた。

 窓ガラスが破れ、破片が周囲に散らばっていた。

 一人の男が、上半身を窓から乗り出させたまま息絶えていた。

 白衣を着たその男の、左腕に、刃物による傷があった。

 男の額の上、やや左側に、細長い穴が開いていた。

 ナイフが深々と突き刺さって、引き抜かれると、こんな痕になるかも知れない。

 ベッドの上に、また別の死体が横たわっていた。まだ若い、やはり白衣の男だった。顔や首や胸や腹に、何十ヶ所もの刺し傷があり、ズタズタになった白衣は真っ赤に染まっていた。流れ出た血がベッドから滴り落ちて、カーペットに血溜まりを作っている。

 無様な断末魔に顔を歪ませた男の、眼鏡には、ひびが入っていた。

 堅太郎は、溜息をついた。

 疲れた、長い、溜息だった。

 堅太郎は、コンバットナイフを抜いた。ブレードにも血が絡みついている。無理な使い方をしたためか、刃の一部が欠けていた。

 俯いたまま泣きじゃくっている母親へと、堅太郎は静かに歩み寄った。

 母親の首筋へ、横から無造作にナイフを突き入れた。ゴリッと骨を削る感触があった。

 ナイフを抉る堅太郎を、母親はびっくりしたような、或いは嬉しがってでもいるような、不思議な顔で、見上げた。

「け……」

 ブバッ、と、母親の首筋から血が噴き出した。返り血が堅太郎の手に服にかかる。

 母親の目が、裏返った。そのまま崩れ落ちて、母親は、動かなくなった。

 あっけなく出来上がった死体を、堅太郎は部屋の外に蹴り出した。父親の死体も引き摺り出す。ベッドの上に横たわる死体も、堅太郎は廊下へ押し出した。ドアを閉め、しっかりとロックする。

 窓枠に乗って体を折り曲げた死体を、堅太郎は上半身を持ち上げて窓の外へ落とした。

 藍色のカーテンを閉め、次にベッドを移動させ、窓の前で起こして完全に塞いだ。

 再び、彼だけの、密室が、出来上がった。

「さあ、来いよ」

 堅太郎は、誰にともなく、そう呟いた。

 冷たく満ちていた死の静寂に、新しい音が到着した。

 それは、何処からともなく聞こえてくる、微かな軋みだった。

「クク。クククク」

 堅太郎は頬を歪めて笑った。その頬を伝う熱い液体が何なのか、彼は気づかなかった。或いは、気づかないふりをしていた。

 キリ、キリ、キリ……

 

 

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