第九十一番 転落マニア

 

 断崖からいきなり突き落とされるような、冷たい絶望が見たかった。

 熱狂と高揚感に包まれた人々の顔が、突如冷水を浴びせられ戸惑いと失望に歪むところが見たかった。

 私がそれを求めているのは、自身がこれまで失敗の多い人生を歩んできたせいなのだろうか。特に運動の苦手だった私は、皆が熱狂している後ろで独り疎外感を味わっていた体育祭を思い出す。学芸会などで舞台に上らされて懸念通りの大失敗をやらかしたこともある。いつも不安を抱いて生きてきた私は、失敗や挫折など考えもしない人々が憎かった。すると私のやっていることは憎悪のためなのだろうか。いや、自分が味わってきた絶望を皆が味わうことで、或いは自分の代わりに皆が味わうことで、私自身が安心するためなのかも知れない。

 だから私は祭りの神輿を燃やした。時限発火装置を自作して神輿に仕掛け、計算通り、町を練り歩いていた時に燃え始めたのだ。何人かが軽い火傷を負った程度だったが、人々の見ている前で神輿は全焼した。皆の笑顔が歪み、熱狂が失望に変わるところを私は最後まで観察していた。高校の体育祭に父兄でもないのに入り込み、悪臭を撒いたこともある。ライブ会場に仕掛けをして、シャウトしていたロック歌手の頭から大量の糞尿を浴びせたこともあった。傑作だったのは川に迷い込んで全国的に有名になったアザラシにリモコン爆弾を呑ませ、大勢の見物人やテレビカメラの見ている前で爆発させたことだ。アザラシに黄色い声をかけていた人々が唖然として凍りつくのを見ながら、私は込み上げてくる笑いをこらえていた。私は彼らの絶望を身近に感じた。同時に私の中に心地良い安堵が広がっていった。

 熱狂からの転落。その冷たい絶望を見ることが、私の生き甲斐となっていた。そんなことをもう二十年も繰り返してきた。私のやったことで死者が出たこともあるがそんなことはどうでも良かった。休日に自室に篭もって仕掛けを作っている私のことを、妻はどう思っているのだろう。彼女が私のことを理解出来る日は来るのだろうか。

 今回、私が半年をかけて準備したのは、来日したアメリカ大統領が総理大臣と共同で行う演説のためだった。この熱狂を突き落とすことが私の集大成に相応しいだろう。会場の公園もスケジュールについても予め調べ上げた。当日の警備が幾ら厳重でも、私には手段があった。公園ではなくその隣に建つ四つのビルに合計百個の爆弾を仕掛けるのだ。二人が満面の笑みを浮かべて演説するのを生中継で見ながら、私は次々とリモコン爆弾を爆発させる。観衆はどよめき、轟音を発して崩れるビルを見て、二人の指導者の顔はきっと不安と気まずさに変わるのだ。その転落の瞬間を想像して私の魂は震えた。

 全ての爆弾を設置し終えたのは本番の三週間前だった。私はその時が来るのを震えながら待っていた。場面を想像するだけで自然と笑いが洩れてくる。私は自分が狂ってしまうのではないかと思った。それでも私はいつもの日常を演じ続けた。

 当日がやってきた。私は自室に篭もって時計を何度も確認しながらテレビを見つめていた。テレビは公園の広場に埋まる観衆を映した。彼らの笑顔がどんなふうに変わるか、私はゾクゾクと寒気のような興奮を覚えていた。

 やがて総理大臣と大統領が現れて、大きな歓声と拍手の中で、互いの手を握り合った。二人が並んで壇上に立ち、マイクに向かって喋り始めた。

 そろそろだ。そろそろ行こう。私が溢れる期待で泣き出しそうになりながら、震える指でリモコンの起爆ボタンを押そうとしたその時、背後から声がかかった。

「無駄よ」

 振り返ると妻が立っていた。いつからそこにいたのだろう。

「そのリモコン、壊しておいたから」

 何。何を言っている。私は急いでボタンを押した。しかしテレビでは何も起こらない。二人の指導者が馬鹿面で無意味な演説を続けている。どういうことだ。私は何度もボタンを押した。しかし爆発は全く起きなかった。

「警察にも通報しておいたから。爆弾もきっと全部見つかるわよ」

 妻の後ろから何人もの警官が現れた。呆然としている私をあっという間に押し倒して手錠をかける。

 なんということだ。失敗した。私の努力は無駄になってしまった。テロ行為として死刑になるかも知れない。

 冷たく私を見下ろす、妻の瞳は、甘い愉悦に潤んでいた。

 瞬間、私の中に断崖から突き落とされるような冷たい絶望が広がっていった。それは快楽に似ていた。

 そうだ。これが欲しかったのだ。

 そうだったのだ。私は他人の転落を求める行為に熱狂していたのだ。

 妻は私のことを理解していたのだ。妻は私を愛していたのだ。

 警察へ連行されながら感じた自分の絶望は、極上の味がした。

 

 

  第九十二番 剣を振る

 

 素振りをしているうちに世界が滅んでしまった。

 魔物がいた。人を食う魔物だった。村が襲われて何人も食われた。魔物を退治したかった。だから強くなりたかった。修行が必要だと思った。山に篭もって剣の素振りをした。

 半端な修行では敵わないと思った。何千回も何万回も剣を振った。それでも足りないと思った。

 だから息を止めたまま、渾身の力で剣を振ることを始めた。最初は二十回くらいしか出来なかった。その回数を少しずつ増やした。目標の回数に達するまで息をしないし周りも見ない。ただ頭を空っぽにして、一心に剣を振る。いつしか百回になった。まだ足りないと思った。やがて千回になった。まだやれると思った。一万回になる。何も食べない。何も考えない。何も感じない。ただ剣を振るだけの存在となった。どんどん目標を上げていく。百万回となる。まだ先がある。一億回に達する。まだ進める。剣を振る。振り続ける。

 一息で剣を一兆回振れるようになった時、そろそろ一区切りついたと思った。そして辺りを見回すと、何もなかった。

 何もない、果てもない、荒涼たる大地に、独り、いた。

 山もない。森も村もない。人がいない。魔物もいない。何もない。あれからどのくらいの時が流れたのか。分からない。太陽がえらく大きく見える。暑い。ひび割れてめくれ返った大地。空気が煮えている。

 一体、何のために、剣を振っていたのだったか。村人達の顔を思い出そうとしたが、遠い記憶は靄に包まれたようで、はっきりとしなかった。恋人もいた筈だったが、彼女の名も思い出せなかった。

 強くなりたかった。でももう何もない。強いとはどういうことなのだろう。一体、何をしていたのだろう。

 思い出した。剣を振っていたのだ。

 また、剣を振り始めた。次の目標は十兆回だった。

 何も見ない。何も考えない。

 ただ、剣を振るだけでいい。

 

 

  第九十三番 あなたは嬉しい時も怒っている時も愛の告白も鼻歌も全てそれで済ませてしまうのですね。もう別れましょう。

 ん

 

 

  第九十四番 デュラハン

 

 私は他人の首を刈る。右手の剣で首を刎ねる。今日も五十人以上の首を刎ねた。私の首を探して。

 私の首は何処だ。転がる首を一つ一つ拾い上げ、自分の体に当てて試す。だが合わない。私の首ではない。

 私の首は何処だ。私の首を盗んだのは誰なんだ。私の首を返せ。私は泣きながら、叫びながら、他人の首を刎ね続けるのだ。

 私の叫びを聞いて、一人の男が言った。

「あんた、左腕に抱えてるのは違うのか」

 あ、本当だ。自分で持ってた。

 

 

  第九十五番 天井の穴

 

 天井からゴソゴソ音がする。ネズミみたいな小さなものではない。もっと大きくて重量のあるもの。

 やはりこのアパートには、何か、いるのだろうか。

 香菜がここを選んだのは家賃が驚くほど安かったからだ。その理由も噂で聞いていた。香菜と同じように近くの女子大に通うため入居した人達が、次々と行方不明になっているという話。実際、二つ隣の部屋の住人が行方不明となったのは三週間前だ。管理人によると霊能者に御祓いを頼んだこともあったそうだし、香菜も神社で御札を買ってあちこちに貼っておいた。

 それでも、夜になるとしばしば天井から、不気味な音が聞こえるのだった。香菜の部屋は二階で、その上はない。だから住人の立てる音ではない。管理人に音の件を話したこともある。一度など天井裏を調べてもらったりした。しかし何もなかったという。

 やはり幽霊なのだろうか。以前流行った映画みたいに、私も幽霊に引き摺り込まれて死ぬことになるのだろうか。香菜は怯えた。

 天井の隅に一ヶ所、直径三センチくらいの穴が開いていた。ゴソゴソする音はその辺りから聞こえることが多かった。穴の奥から誰かに覗かれているような気がする。香菜は穴を紙で塞いでみた。しかし翌日には紙が破れていた。指で突いたとか刃物で裂いたとかではなく、溶けたような穴になっていた。

 得体の知れない恐怖に震えながら香菜は夜を過ごした。いつかあの穴から手が伸びてきて私は捕まるのだろうか。きっと死体は見つからないだろう。そしてまた新しい入居者がやってきて、いつまでもそれが続くのだ。

 ゴソ、ゴソリ。また、あの音がやってきた。少しずつ、天井を移動している。

 見たくなかった。見るのが怖かった。それでも、香菜の目は、天井の穴へ吸い寄せられていた。

 直径三センチの暗い穴の奥に、うっすらと、何者かの瞳が見えた。大きく見開かれた、血走った、眼球が、こちらを覗いていた。

「キャーッ」

 香菜は悲鳴を上げながら家宝の槍を握って天井を刺した。細い刃がうまい具合に小さな穴を貫いた。不気味な手応えがあり、轢き潰された猫のような声が聞こえた。気配も音も、それきり消えた。

 私は勝ったのだろうか。香菜が槍を引くと刃には血がついていた。

 翌朝、大学へ行こうと部屋を出ると、アパートの玄関口で管理人が掃除をしていた。

「おはようございます」

 香菜が声をかけると、管理人は顔を上げて微笑んだ。

 彼の左目には眼帯がしてあった。

 なんだ。幽霊じゃなかったんだ。

 香菜は安心して、その夜は槍の穂に家宝のトリカブトをたっぷり塗って待った。

 

 

  第九十六番 教祖の愛

 

 五万人の信者を抱える天静会。その主催者である大和静花は、総合病院の一室で末期癌のため死にゆく桂仁助のために祈り続けていた。彼の病が癒え再び立ち上がることを願って。

 桂が入院して二週間。意識がなくなって三十八時間。その間、大和は必死に祈り続けてきた。大和を崇める十数人の幹部達が狭い病室にひしめき合い彼女を見守っている。彼らは奇跡を待っている。

 末端の信者が事故や病気で死ぬことはこれまでに何度もあった。それは信仰心の不足で説明することが出来た。しかし桂仁助は大和に三十年も従ってきた大幹部であり、彼女の片腕とも呼べる信者だった。ここで彼女の力を示さなければ全ては無に帰すだろう。

 力、だと。彼女にあるのは他人を信用させる話術と物腰、そして度胸だけだ。暗示にかけて信者を吹き飛ばしたり一時的に健康だと錯覚させることは出来るが、意識のない男を立ち上がらせることなど出来はしない。桂が最期に「私の魂は救われました」とかなんとか言ってくれればこんなことにはならなかった。だが桂は何も言わぬままあっという間に昏睡状態に陥った。

 大和静花は自分が窮地にいることを実感していた。長年尽くしてくれた桂を失う悲しみより、自分が信頼を失い奈落に落ちる恐怖だけが彼女の中で巡った。

 今彼女に出来ることは祈ることだけだ。聖書や仏教の経典から拝借してきた聖なる祈りを唱え、時には桂の額や胸に掌を当てたりした。何も起こりはしない。ずっと眠っていないため、眠気と疲労で頭がドロドロに濁っている。それでも焦りのため背筋が冷え、手は軽く痺れている。

 桂の容態は次第に悪化しているようだった。医師と看護婦が病室をたびたび訪れては渋い顔で出ていく。モニターの心電図は波形が変わってきている。酸素の供給量も限界まで達していた。桂の顔は黒ずんできている。

 それでも幹部達の顔は希望に輝いている。教祖が起こすであろう奇跡を信じて一欠けらも疑わない。彼らの純粋な愚鈍さに大和は恐怖を覚える。そして自分をここまで追い込んだ彼らに憎しみを抱く。

 やがて、心電図の波が平坦になった。医師がやってきて桂の脈を取り、胸に聴診器を当て、押し開けた目をペンライトで照らし、厳かな口調で「ご臨終です」と告げた。

 しかし大和は言った。

「まだ完全に死んではいません。私の祈祷で必ず生き返ります」

 医師は首を振って溜息をついた。大和を見る目には軽蔑の色があった。しかし医師は黙って立ち去った。

 信者達の顔はまだ変わらぬ期待を大和に向けていた。生き返らせねばならない。ここで失敗したら全てが崩れてしまう。だから生き返らせなければ。生き返らせよう。信者が期待している。生き返らせるのだ。そうだ。私にはその力がある。皆が信じているのだからきっと私には力があるのだ。そうだ。生き返らせられる。私には簡単なことだ。そうだ。私には何でも出来るのだ。出来る筈だ。私には何でも出来る。さあ、生き返るがいい。生き返れ。出来て当然だ。私は神だ。私が神だったのだ。

 大和静花は、眩い光を、見た。

 彼女は顔を上げた。おお。彼女は声を洩らした。光の中に桂の顔が見える。

 大和はそれを口にした。

「おお、桂さんが輝いています。彼が光に包まれています」

 信者達が期待にざわめき始めた。

 光の中で、桂が目を開けた。ゆっくりと上体を起こしてくる。その顔が微笑みを浮かべた。

「おお、桂さんが起き上がりました。光の中で、私達に向かって微笑んでいます。何か言っています。私に何か言おうとしています。何ですか。桂さん」

 大和ははっきりと桂の声を聞いた。彼女は桂の言葉をそのまま口にして、信者達に伝えた。

「桂さんは言っています。『ありがとうございました。私を生き返らせる必要はありません。私の魂は天国へ旅立ちます。それが人の定めなのですから。私は幸せでした。大和様、ありがとうございました』彼はそう語ってくれました。ああ、光が。桂さん、分かりました。あなたを生き返らせる必要はないのですね。あなたはこのまま幸せな世界に旅立つのですね。分かりました。さようなら、桂さん。さようなら」

 光はやがて小さくなっていき、桂の姿も消えた。いや、気がつくと、ベッドの元の位置に静かに横たわっていた。

 私は、奇跡を見た。私が、奇跡を起こした。大和は信者達を振り返った。彼らは皆涙ぐみ、何度も頷いている。もしかしたら彼らにはあれが見えなかったかも知れない。しかしあれは真実なのだ。私はちゃんと奇跡を見た。桂は礼を言ってあの世に旅立った。私が奇跡を起こしたのだ。大和は満足した。これで私の立場は保たれた。いや、私は神なのだ。

 医師がまた病室に入ってきた。モニターを見てびっくりした顔をしている。

「心臓が……」

 え。何ですって。医師がベッドに駆けつけて聴診器やライトを当てる。

「対光反射も戻ってきている。まさか。生き返った」

 あれ。おかしい。桂は旅立ったのではなかったのか。信者達が戸惑いの表情を浮かべた。大和を見つめる顔に僅かながら疑念が混じっていた。馬鹿な、そんな筈はない。私は確かに見たのだ。あれは真実の筈だ。しかし大和の思考は直ちに方針転換し新しい解釈を作り出した。そうだ、彼は戻ってきたのだ。あの世よりもこちらの世界の方がいいと思ったのだろう。きっと私を慕って戻ってきたのだ。そうに違いない。これも奇跡だ。私が起こした奇跡なのだ。新たな光が現れて桂を包み、桂の声が大和の脳に届いた。

「桂さんが天国から戻ってきました。彼は言っています。まだここでやるべきことがあるのだと、天国の門番に言われたそうです。そうですか。ならば私達もあなたを喜んで迎えましょう。桂さん、お帰りなさい」

 また信者達が感涙にむせび始めた。何という素晴らしい奇跡を私は起こしたのだろう。大和もまた泣いていた。これで大丈夫だ。私は神……。

 その時、桂が急に目を見開いた。

「あ、意識が戻ったようです」

 医師が言った。おお。大和と信者が見守る中、桂仁助はそばに立つ大和静花に目を向けた。

「この、嘘つき女」

 桂は憎々しげにそう言って、目を閉じた。信者達がざわめいた。医師が慌ててモニターを確認し、「ま、また死んだ」と呟いた。

 馬鹿な。私が見たのは真実だ。私が起こした奇跡だ。全て私が……。大和静花は凍りつき、その場に立ち尽くした。

 

 

  第九十七番 まとめますと

 

「ギヤー」

「ギギ、ギギギギギギ」

「ゲルッグゲルッグ」

「うわらっぽれるっぽ」

「アゲンブラハニョー」

「ゲゲ、グゲゲ、ゲロ」

「ベベベ、ロロロ、パパパ」

「ええ、皆さんのご意見をまとめますと近鉄とオリックスの球団合併は承認ということでよろしいですね」

 

 

  第九十八番 脆い生き物

 

 なんて小さな生き物なんだ。これで生きているのか。産まれたばかりの自分の子を見て梶谷健吾が抱いた感想がそれだった。

 片手で軽々と持ち上げられる。手が小さい。指は更に小さい。これでちゃんと動くのだから凄い。柔らかい。これでも人間なんだ。

 「赤子の手をひねる」とは良く言われるが、確かに簡単に出来そうだ。それどころか虚弱体質な健吾でも、その気になれば腕を引きちぎることだって出来るだろう。人間の腕を素手で引きちぎる。それは凄いことではないか。健吾は感動した。

 妻はベッドで眠っている。今は医者も看護婦もいない。健吾だけだ。健吾はドキドキしながら自分の子の右手を掴んでみた。プニュプニュした感触。少し引っ張ってみる。お、伸びる。抵抗があるが、この感じでは本気で力を込めればちぎれるだろう。健吾は力を緩めた。

 頭も小さい。アイアンクローをかけたら頭がスッポリ入ってしまう。赤子の頭蓋骨はまだきちんと固まっていないという。力を込めれば握り潰せてしまうのではないか。人間の頭を素手で握り潰す。凄い。凄いぞ。健吾は益々感動した。

 アイアンクローに少し力を加えてみる。骨に当たる。赤子はまだスヤスヤと眠っている。指に押され、骨が少し歪む感触があった。おお、素晴らしい。この頭が潰れて眼球が飛び出し脳味噌がはみ出るところを想像して健吾は震え、クローを外した。

 待てよ。それほど頭蓋骨が柔らかいということは、顎で噛み砕くことも出来るのではないか。人間の頭を丸齧り。これもまた凄い。ゾンビ映画でも滅多にない映像だ。健吾は自分の顎を開いて、宙で噛み合わせてみた。カツン。赤子の頭蓋骨に歯がめり込む感触を想像する。出来そうだ。出来る。恐ろしい。凄い。健吾は手が震え、危うく赤子を落としそうになった。

 少しぐらいなら、試してみたっていいだろう。

 健吾は眠っている自分の子供に顔を近づけていった。頭を丸ごと収められるほど健吾の口は大きくない。齧り取れるのは精々頭の三分の一くらいだろう。いや待てよ、齧ったら死んでしまうのではないか。勿論殺したりするつもりはない。軽く噛んでみるだけだ。本気じゃない。でも興奮のあまりちょっとやってしまうかも知れない。そのくらいならいいじゃないか。どうせ俺の子だ。

 健吾の口が名もない赤子に触れようとしたその時、赤子が突然目を開いた。まだ見えていないだろうその目。

「ダアー」

 赤子の腕が上がった。その小さな左手が健吾の左の眼球にブスリと突き刺さった。健吾は悲鳴を上げた。

 

 

  第九十九番 少年の君へ

 

「私が君達の年齢の頃、世界は腐っていると思っていた」

 天川高校三年F組の担任滝沢辰馬は、今日母校を巣立つ三十八人の教え子達に告げた。

「社会は腐っていて、政治家も腐っていて、企業の経営者も腐っていて、結局大人というものは皆腐り切っていて救いようがない。だから世界はどうしようもないと思っていた。こんな腐った世界で生きていてもしょうがないと思っていた」

 いつになく真剣な滝沢の口調に、生徒達は黙って話を聞いていた。

「だが、やがて気がついた。自分自身もその腐った世界の一部だということに。人間の利己心や薄汚さ、愚かさ、誤魔化しは自分の中にもあるのだと。子供の頃から既にあった小さな醜さが、ちょっとした妥協を繰り返すうちに次第に大きくなって、自分の醜さに気づかない腐った人間を作り、それが集まって腐った社会を作るのだと」

 教え子達を見回して、滝沢は言った。

「もし君達の中に、この腐った社会を嫌っている者がいるなら、自分でまともな社会を作ればいい。君も社会の一部なのだから。そのためにはどんな小さなことでも決して妥協してはいけない。妥協すれば君達もいずれ、腐った大人達と同じになる。自分一人が頑張ったって何も変わらないと思うかも知れない。だが、気持ちを持ち続けていれば、ほんの僅かずつでも理想に近づくことが出来る。そう、私は信じている。これが、私から君達に贈る言葉だ」

 滝沢はそうやって、教え子達への祝辞を締め括った。

 黙って聞いていた生徒達の一人が、やがて、プッと吹き出した。すぐに何人もが後を追う。

「ハハッ。何言ってんだ先公。バッカじゃねえの」

 生徒達はゲラゲラと腹を抱えて笑い出した。全員が笑っている。笑いながら携帯でゲームをしている女生徒もいた。

 滝沢は大きな溜息を一つついた。そして教壇に隠していた大型の芝刈り機を取り出した。すぐにエンジンをかける。

「こぉの腐れ共がっ皆殺しにしてやる」

 生徒達は悲鳴を上げた。滝沢は絶望の涙を流しながら、逃げ惑う生徒達を追いかけて次々と肉塊に変えていった。

 

 

  第百番 せめて今のうちに

 

 世界は無情だから、今のうちに伝えておきます。

 愛しています。

 いつ何が起こるか分からない世界だから。

 私は一秒後には死んでいるかも知れないから、あなたが一秒後にはいないかも知れないから、今のうちに全身全霊を込めて、あなたに伝えておきます。

 愛しています。

 私達は世界に押し流されるしかないから。

 それでも精一杯の抵抗を続けてみるつもりだけれど。

 いつ私が私でなくなるか分からないから、今のうちに伝えておきます。この気持ちが真実であるうちに。

 愛しています。

 愛していました。

 何が起ころうとも、私はあなたの幸せを願っていました。

 これだけが、真実です。

 あなたに伝わるうちに。これが真実であるうちに。

 愛しています。

 本当に、愛していました。

 

 

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