第二十一番 違和感

 

「人間は、何のために生きているのだろう」

 また始まった。

 レストランで食事中、いつもの正人の呟きに、由利は些かうんざりしながらも相手をする。

「さあね。楽しいことをするために生きてるんじゃないの」

「そうか……。では、何故、人間は楽しいことをしなくてはいけないんだ。それに意味があるのか」

「楽しいことをするのは、楽しいからよ。当たり前のことじゃない」

「そこが分からないな」

 正人は首を捻った。

 分からないのはあなたよ。由利はそう思ったけれど、黙っていた。

「当たり前って何なんだ。当たり前ってのは本当に当たり前のことなのか。それとも……」

 そんなことを話す際の正人の目は虚ろで、何処か別の世界を眺めているようだった。由利はちょっとした違和感を感じる。同じ場所にいる筈なのに、彼は全く違う世界にいるような、そんな不安。

「いい加減にしないと、料理が冷めてしまうわよ」

 由利が言うと、ふっと正人の顔は我に返る。

「そうだな。すまない」

 彼は現実の世界に戻ってきた。由利はホッとする。

 だが次の日には、並んで道を歩きながら正人は呟くのだ。

「世界は、何故存在するのだろう」

「正人、やめてよ」

 由利の声は、既に彼の耳には入らない。

「不思議だ。世界はいつ始まったのだろう。始まる前は『無』だったのか。無から有は生まれないから、世界は最初から存在していたのだろうか。あれ、『最初』って何だ。始まる前からあったのなら、それは始まりじゃないな。じゃあ始まりはいつだ。始まりがあると矛盾が出来るな。じゃあ始まりはないのか。おかしい。始まりがないのにどうやって始められるんだ」

 正人は立ち止まっていた。

「不思議だ。おかしい。でも世界は存在している。じゃあ実際は存在しないのか。これはただの幻なのか。『幻』って何だ。幻でも何でも実際に俺には見えているのだから、それを世界と呼んでしまってもいいのではないかな。あれ、『見える』って何だ」

「お願い、もうやめて。そんなことを考えても意味がないじゃない」

 だが正人は喋り続ける。

「『考える』って何だ。俺が考えているのは、本当に俺が『考えて』いるのか。あれ、『俺』って何だ。自分のことか。じゃあ『自分』って何だ。段々分からなくなってきたぞ。全然分からない。あれ、『分かる』って何だ。『意味』って何だ。意味の意味はどんな意味だ。意味自体にどんな意味がある。無意味にも意味はあるのか。無意味の意味は……」

 今回の正人の暴走ぶりはいつもにも増して激しかった。彼の瞳は瞬きもせず、虚空を見つめていた。固まった表情は彼を別世界の存在に見せていた。

 このまま、戻ってこないかもしれない。由利は恐怖した。

 なんとか、連れ戻さなければ。彼女は咄嗟に言葉を絞り出した。

「そんなこと言ってたって、あなたはこうやって生きてるんだし。考えてるばかりじゃなくて、現実を生きて実感してみなければ、人生や世界のことなんて分かる筈ないじゃない」

 由利にとって決死の、そして最後の試みであった。これが駄目ならば、彼女は永遠に正人の元を去るつもりだった。

 そして、試みは成功した。

「そうか。実感か。そうだな」

 初めて正人は生き生きとした表情を見せた。正人がこちら側の世界に戻ってきた。由利は涙を流した。

 二人は結婚した。正人は真面目に働き、息子も生まれた。あれ以来、正人が訳の分からないことを言い出すことはなく、由利にとっては幸せな日々であった。ずっとこの幸せが続けばいいと思っていた。

 あっという間に、六年が過ぎた。

 真夜中に、ふと由利は目覚めた。丁度、柱時計が三時を知らせた。こんな時間に目を覚ますことは滅多にない。

 隣には息子と正人が眠っている筈であった。

 また一眠りしよう。由利は目を閉じたが、どうも落ち着かなかった。

 日中には感じたことのない妙な不安だった。まるで、あの頃のような……。

 思いついて、由利は起き上がり、電灯のスイッチを入れた。闇が光に変わった。

 そして夫の顔を見た由利は、悲鳴を上げた。

 正人は目を開けていた。彼は眠っていなかったのだ。

 その顔に浮かんでいるのは、何年も由利に見せることのなかった、あの虚ろな表情だった。正人が夜にいつもこの表情を浮かべていたことを、由利は直感した。

 現実とは別の世界を見つめている瞳。

 その目は、人は何故生きている、と言っていた。

 その目は、世界は何故存在する、と言っていた。

 その目は、自分とは何だ、と言っていた。

 その目は、意味とは何だ、と言っていた。

 正人が異世界の生物であることを、由利は理解した。この世界と相容れない異邦人。根本的な部分で我々と全く異なっている化け物。

 由利は、自分という存在を根底から揺さぶられるような恐怖を感じた。

 この化け物を、この世から消し去ってしまわなければ。私の存在が危ない。世界の存在が危ない。

 台所に駆け込んで、由利は包丁を取ってきた。正人は何の動揺も示さず、瞬きもせずに虚空を見つめていた。

 渾身の力を込めて由利は包丁を正人の胸に突き刺した。血が飛んだ。正人は悲鳴も上げなかった。何度も何度も、夢中で由利は刺し捲った。正人は表情を変えず、別の世界に向けて根源的な問いを発し続けていた。

 

 

  第二十二番 生首の家

 

 目覚めると既に正午近かった。

 私はベッドから起き出して、顔を洗い、遅い朝食を作るために台所へ向かう。

 テーブルの上には、血塗れの生首が置かれていた。

 若い男の首だった。その口は両端が斜めに切り裂かれ、大きな赤い笑みを浮かべていた。

 私はメモ用紙に、『彼』へのメッセージを書き留める。

 ありがとう。でも、むりはしないで。

 『彼』は、漢字が読めない。

 私はテーブルに座り、生首を見つめながら、ハムエッグとトーストを食べる。

 『彼』の顔を私は知らない。生首の笑顔に、『彼』の顔を想像してみる。

 テレビのワイドショーでは、最近続いている猟奇的な連続殺人のことが話題になっている。被害者は皆、ハンサムな若い男だ。ただし、発見される時は、首のない死体だ。

 私は掃除機をかけ、衣類を洗濯する。私の服と、『彼』の服。

 それから私はワープロに向かう。机の上にも別の生首が乗っている。裂けた口が微笑む、やはり若い男のものだ。私は原稿を書きながら、『彼』の私への愛情を感じている。

 今日の分を仕上げ、ファックスで編集者に送る。私の書く小説とエッセイが、私と『彼』のための生活費となる。

 そろそろ買い物に行こうかと思った時、玄関の呼び鈴が鳴った。訪問者があるのは珍しい。新聞の勧誘なら断ろう。私は玄関に向かい、扉を開ける。

 新聞の勧誘ではなかった。目つきの鋭い中年の男は、北川と名乗った。

 相原恵美さんですね。男の問いに、私は、はい、と答えた。

 男は、刑事だった。

 この近辺で立て続けに起きている猟奇殺人についての、聞き込みだった。

 何か知っていることがあれば教えて欲しい。刑事は言った。

 何も知りません。そんな事件が起こっていることも知りませんでした。私は答えた。テレビもあまり見ないし、新聞も読まないんです。

 そうですか。刑事は私の顔を見た。あなたは女一人でここに住んでいらっしゃるのですか。

 はい。そうです。私は答えた。胡散臭い男だと、私は思った。早く私の目の前から消えて欲しい。

 いえね、あなたの家から夜中に若い男が出入りしてるところを見た人がいましてね。刑事が嫌な笑みを浮かべてみせる。

 いいえ、ここには私しかいません。平然を装いながらも、私の心臓はドキドキと高鳴っている。

 そうですか。ちょっと上がり口を見せてもらえますか。刑事は言うと、半開きの扉を強引に開けた。抵抗する暇はなかった。

 ほら、男物の靴がありますね。刑事がニヤニヤして言った。

 その顔が、驚愕に凍りついた。

 初めてその時になって、私は気がついた。

 下駄箱の上に、別の生首が置かれていたのだ。多分『彼』は、私が買い物に出かける時に見つけると思っていたのだろう。不器用に切り裂かれた笑み。

 あ、あんたを逮捕する。刑事が慌てて懐に手を入れた。取り出されるのは手錠だろうか、それとも拳銃だろうか。

 助けて。あなた。私の視界が急に暗くなった。体中がメリメリと音を立てる。

 『彼』が、交代しようとしている。

 薄れていく意識の中で私が最後に聞いたのは、化け物、という刑事の叫びだった。

 

 目覚めると既に正午近かった。

 少し気分が悪かった。決まった時間以外に交代を行ったせいだろう。私のために、『彼』が無理をしたのだ。

 私はベッドから起き出して、顔を洗い、遅い朝食を作るために台所へ向かう。

 テーブルの上には、血塗れの生首が置かれていた。

 北川と名乗った刑事の首だった。

 懲らしめられた子供のように、切り裂かれた生首は赤い泣き顔を作っていた。

 『彼』は分かっていないけれど、破滅は、近いのだろう。

 でも、私は、『彼』を愛している。

 永遠に会うことの叶わぬ、時を半分ずつ分け合った『彼』を。

 

 

  第二十三番 藁の家

 

 外は、強い風が吹いている。

「お父さん」

 寒さに震えながら、息子が聞いた。

「何だい」

 頭上から絶え間なく襲う雨漏りに顔をしかめつつ、父親が聞き返す。天井も壁も床も、じっとりと湿っている。

 息子は、少し躊躇った後で、ずっと抱えていた疑問を、ついに口にした。

「他の家は皆、木とかコンクリートとかで出来てるのに、どうしてうちの家は藁で出来てるの」

「……」

 父親の顔が蒼白に変わった。

「馬鹿ね、そんなことお父さんに聞いちゃ駄目でしょ」

 母親が慌てて息子を叱りつける。

 息子は泣きそうな顔になった。

 父親はむっつりと黙り込む。

「風が、強くなってきたわね」

 母親が心配そうに言った。今日は台風だった。

「家が揺れてるよ。大丈夫かなあ」

 息子が言ったその時、一際強い風が、親子の住む藁の家をバラバラに吹き飛ばした。同時に三人の体も宙に浮いた。

「うわあああああ」

 彼らは強風に乗せられて、空をきりきりと舞っていった。

 木の葉のように揺られながら、父親がぼそりと呟いた。

「だって、面白いじゃないか」

 妻も息子も遠くへ飛ばされてしまい、彼の言葉を聞く者はいなかった。

 

 

  第二十四番 俺の時間を返せ

 

 俺の会社は残業が多い。しかし残業しても手当ては出ない。全くのただ働きだ。

 仕事は嫌いだが、その分給料をもらっていると考えれば我慢は出来る。だが残業は、俺にとっては何の価値もない。

 無駄な時間の浪費というわけだ。

 俺は思う。一体、俺の人生における貴重の時間の何割が、この残業という魔物に奪い去られたことになるのだろうか。

 今日も五時になる。

「じゃあ、後はよろしく」

 課長は素っ気ない一言だけを残して家路につく。部下の俺に残業をさせておいて、自分は家でゆったり趣味に生きようというわけだ。

 つまり、俺の貴重な時間は、こいつに奪われているのだ。

 それに気がつくと、猛烈に腹が立ってきた。

「課長」

 俺は立ち上がり、課長の背に声をかけた。

「ん。何かあるのかね」

 課長は面倒臭そうに振り返った。その態度に、俺の怒りの炎は更に掻き立てられた。

「課長はいつも俺に残業ばかりさせて、俺の時間を奪ってますね」

「……。そりゃあ仕方がないことだろう。今日中に済ませなければならない仕事が残っているのならな」

 課長は冷たく答えた。

「返して下さい。俺の時間を返して下さいよ」

「そんなこと出来る筈がないだろう」

「でもあんたが取ったんだろ。じゃああんたが隠したんだ。返せよ。何処に隠したんだよ」

「何を言ってるんだ君は」

 俺は課長の机を漁ってみた。書類をバラ撒き引き出しをひっくり返すが、奪われた俺の時間は見つからない。

「何をするんだ、やめたまえ」

 課長はオロオロと俺の周りを歩き回る。

「何処に隠したんだよ。言えよ。さもないと……」

「うわっ、何をする、やめろ」

 俺は課長の上着を引っ剥いで、ポケットを探ってみた。だが、俺の時間は見つからない。

「呑み込んだな。呑み込んで隠したんだろ」

「え、何を、助けてくれ、ギャアアアアア!」

 俺はナイフで課長の腹を裂き、内臓を引きずり出して中を探した。

 そこまでやっても、俺の時間は見つからなかった。

 鋸を持ち出して、課長の頭蓋骨を開いてみたけど、やっぱり俺の時間は見つからなかった。

 課長の死体を前に、俺は溜息をついた。

 本当は、分かっていたんだ。

 時間を取り戻すことなど出来ないことを。

 そう、ただやってみたかっただけなんだ。

 わーい。

 

 

  第二十五番 鈴木君

 

 鈴木君、鈴木君、久しぶりだね。

 鈴木君、鈴木君、ちょっと待って。

 鈴木君、鈴木君、内臓が落ちた。

 鈴木君、鈴木君、拾え拾え。

 鈴木君、鈴木君、食べろ食べろ。

 鈴木君、鈴木君、……くたばれ。

 

 

  第二十六番 避ける男

 

 街は人で溢れていた。仕事帰りのサラリーマン、派手な服の若者達、制服の学生の姿も見える。彼らはそれぞれ、思い思いの場所を目指して歩いていく。

 その人混みの中を、薄汚いなりをした浮浪者風の男が歩いている。彼の存在は周囲から浮いてしまっていたが、本人は他人の視線などまるで気にしていないようで、片手に一升瓶を持ってぶらぶらと歩いている。

「ほっ」

 と、いきなり男が真上に跳躍した。近くの通行人は何事かと見上げるだけだった。

 と、街を歩いていた全ての人の足が切断されていた。まるで見えない巨大な鎌に、根こそぎ斬り払われたかのように。

「うわっ」

「何だ」

「キャーッ」

 支えを失った人々が、今にも倒れようとした時。

「ほっ」

 と、いきなり男が地面に伏せた。

 全ての人の首が切断されていた。まるで見えない巨大な鎌に、根こそぎ斬り払われたかのように。

 街を、血とバラバラ死体が埋め尽くした。

「危ない危ない」

 浮浪者風の男だけが平然として、無数の死体を尻目に歩き出した。

 一升瓶だけは大事に持って。

 

 

  第二十七番 パワフル医療

 

 私立狂田医院を今日も、何も知らぬ患者が訪れる。

 待合室は閑散としていた。座る暇もなくすぐに診察室へと呼び出される。

「ようこそ、さあさあここに座って」

 医師はえらく急いだ感じで患者を急かした。

「ああ風邪ですね。大変だ、すぐに注射をしなくては。おおい君、あれを頼む」

 患者が口を開く前に医師は捲し立て、看護婦に合図した。

「ちょ、ちょっと、私は風邪じゃなくて胃の具合が……」

 患者の言葉を遮って、医師は笑顔で言った。

「さあさあ、すぐに楽になりますからね」

 奥のカーテンが勢いよく開かれ、十人近い看護婦が現れた。

 彼女らが必死で抱えているのは、直径五十センチ、長さ二メートルほどの、一本の巨大な注射器だった。その中にたっぷりと、黄色い液体が詰まっていた。

「うわわわわ、ちょっと待って……」

「ゴー!」

 医師が叫んだ。

「うりゃあああああああ」

 看護婦達がかけ声をかけながら突進した。

 ドゴン。径十センチの太い針が患者の胸に突き刺さった。長い針は勢い余って背中まで貫通した。

「そうれ、入れろ入れろ」

 医師が叫んだ。

「うりゃあああああああ」

 看護婦達が注射器の中身を押し入れた。背中を突き出た針先から、黄色い液体は噴き出して診察室の床を濡らした。

 患者の手足が、ビクンビクンと踊った。

 やがて、動かなくなった。

 

 

  第二十八番 キャッチアンドリリース

 

 僕らは学校をさぼって街を歩いていた。大人達は僕らの派手な服装を見て非難の視線を浴びせてくるが、僕らの知ったことじゃない。

 大声で騒ぎながら歩く僕らの前に、大きな鉤が浮かんでいた。丁度、顔くらいの高さにあった。

 クレーンなんかが先端につけている、金属の鉤だ。それは太いワイヤーに吊られ、ゆらゆらと揺れていた。

「何だこりゃ」

 工事現場でもないのに。僕らはワイヤーの元を辿ろうと見上げたが、それは垂直に限りなく延び、先が見えなかった。

 或いは、ワイヤーは、空まで続いているのかも知れなかった。

「ヤッホー」

 好奇心旺盛な仲間の一人が、鉤に両手で掴まってぶら下がってみた。僕らは笑おうとした。

 その途端だった。突然凄い勢いで鉤は上へと引っ張られていった。ぶら下がっていたそいつが手を離す暇もなく、そのまま上へ吊られていく。

「うわわわわわわっ」

 僕らは叫びながら、そいつを目で追った。巻き取られたワイヤーと鉤と一緒に、そいつの泣きそうな顔はみるみる小さくなって、そして雲の上に消えた。

「ど、どうしたんだろう」

「何が起こったんだ」

 僕らはどよめいた。無駄と分かっていながら、僕らは天を見上げ、消えた仲間の姿を探し求めた。

 無駄ではなかった。

 雲を突き抜け点が生じた。それはみるみる大きくなって、消えた仲間の姿になった。

「おおおお、帰ってくるぞ」

 僕らは歓喜の声を上げた。

 そいつは凄い勢いで地上に落ちてきた。そして僕らに激突した。グチャグチャになって皆死んだ。

 

 

  第二十九番 千年一日

 

 須原玲美は斜め後ろの席から、島田洋次の姿を見守っていた。授業中ずっと。瞬きさえ惜しんで。

 生きて、動いている彼を、間近に見ることは、玲美にとって至上の喜びであった。

 四時限目が終わり、昼休みになった。

「長かったなー。やっと昼休みだよ」

 クラスメイトの一人が大きく伸びをしながら言った。

 いいや、全然、そんなことはない。玲美は思った。

 膨大な待ち時間に比べ、この幸福な時のなんと短いことか。

 島田洋次は弁当を食べながら友人と喋っていた。

 その笑顔が自分へ向けられたものであったなら。玲美はそれを熱望した。

 彼女はずっと前から考えていたことを、とうとう実行に移すことにした。これまでの長い間、勇気がなくて出来なかったことを。

 玲美は席を立ち、彼の側に歩いていった。

「島田君」

 緊張のため声が裏返りそうになるのを、玲美は堪えた。

 島田洋次は食事中の手を止め、怪訝な顔で玲美を見上げた。

「ん、何だい。えーっと、須原さん、だったよね」

 彼が自分の名前を覚えていてくれたことに、玲美は内心歓喜した。

 玲美が私的なことで彼に話しかけるのは、初めてのことだった。

「あ、あの、この頃、大きなCDショップが出来たっていうじゃない。今度の日曜日に行こうと思ってるんだけど、わ、私、あの辺の地理をよく知らないから。島田君、い、一緒に案内してくれるかな」

 玲美はどもりながらも、なんとか言い終えることが出来た。五百七十年前に考えて、一生懸命に暗記し、数百年こればかり練習してきた台詞を。

 なんで俺が案内しなくちゃならないんだよ。俺、日曜は用事があるんだ。予測した彼の返事が、玲美の中で回っていた。

 だが、彼はふっと笑顔を浮かべて、答えた。

「いいよ。俺も日曜は行くつもりだったんだ」

 玲美の不安は溶けていき、甘く温かい感覚が彼女の心を満たしていった。

「あ、ありがとう」

 玲美は頭を下げた。

「いいっていいって。で、何時に何処で待ち合わせる」

「私はいつでもいいから。島田君の都合でいいわ」

「なら、二時に駅前ってことでいいかな。他にも寄りたいとこもあるし」

「うん。ありがとう、じゃあ日曜日ね」

 席へ戻る玲美の背に、彼の友人の言葉が聞こえた。

「ああ、デートだデートだ。羨ましい奴だなあ」

「いや、そんなんじゃないって。彼女とは殆ど話したこともないんだぜ」

 そう言う島田の声も照れ臭そうだった。

 玲美には自分の心臓の早い鼓動が聞こえていた。顔に血が昇っているのが分かって、彼女は下を向いた。

 やっと言えた。玲美は安心した。

 日曜日までは後二日。

 つまり、二千年。

 世界と人類が、永い眠りを繰り返すようになってからどれくらいになるのだろう。

 夜十一時五十五分になると、空から白い雪が降り注ぐ。冷たくない、大量の雪が。

 人々には見えない雪が。

 零時。

 そして世界は冬眠に入る。誰もが人形のように動きを止め、オブジェと化す。

 電力も機械も、世界中の全ての活動は停止する。

 唯一人、玲美を除いて。

 何故、自分だけが眠らないのか、玲美には分からない。

 ただ、彼女は、動かぬ人々を眺め、白く凍った街を一人彷徨う。

 彼女の持つ腕時計だけは動いている。それは無意味に回り続け、年月を重ねていく。

 千年もの間。

 彼女は、たった一人で、その年月を過ごす。

 そして、雪が溶け、人々は何事もなかったように動き始める。

 誰も、自分が眠っていたことなど知らない。

 ああ、他の人々と同じように、自分も眠ることが出来たら。玲美はそう思う。

 この千年という膨大な時を、一人で耐えなければならないなんて。

 既に、十万年以上がこうして過ぎた。

 せめて。

 せめて、大好きな彼と、共に過ごせる時間がやってくることを、救いにしていよう。

 後、二千年。

 狂おしく長い、永遠に近い時。

 眠っている島田君の顔を、毎日見に行こう。玲美はそう思った。

 

 

  第三十番 愛してる

 

 男は女の顔に口を近づけ、封じていた万感の想いを込めて、囁いた。

「愛してる」

 女は言った。

「あなた、口が臭いわ」

 男は女を殺した。

 

 

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