第三十一番 笑い魔人

 

「ご臨終です」

 医師の告げる声は、私の虚ろな心の中を、カラカラと乾いた音を立てて落ちていった。

 私は、目の前のベッドに横たわる、変わり果てた妻の顔を、瞬きもせずに、見つめていた。

 彼女は癌だった。私は本人には病名を告げず、必ず良くなるよと笑顔で言いながら病室へ通い続けた。

 或いは、彼女は、気づいていたのかも知れない。

 私も覚悟していた筈だった。しかし私は心の何処かで、彼女が治ることを信じていたのだろうか。生涯を共に歩くと誓った妻。それが、こんなに早く私を置いて……。

 私は、人生において、最も大切なものを失った。

 空洞。

 私は、空洞になった。

 私は、どんな顔をすればいいのか、分からなかった。

 私は、何を言えばいいのか、分からなかった。

 顔面の筋肉が、ヒクヒクと痙攣して、ある表情を形作った。

「ハッ」

 私の口から洩れた声に、妻の主治医は怪訝な顔で振り向いた。

「……さん」

 彼が私の名を呼んだ。

 答える代わりに、私の口からまた同じ声が洩れた。

「ハハッ、ハハハ」

 私は、笑っていた。

 私の顔は、おそらく、異様な笑みを、作っていたのだろう。

「ハハハ、ハハハハ、ハハハハハ、ハッ、ハハハ」

 一旦始まると、もう止まらなかった。私は腹を抱え、爆発的な笑いに身を任せた。

「……さん、どうしました」

 近寄る医師を突き飛ばし、私は病室を飛び出した。

「ハハハッ、ハハ、ハハッハハハッ、ハハハ、ハハハハハ」

 病棟の廊下を笑いながら歩く私を、他の患者や看護婦達は怯えた顔で見守っていた。

「ハハハハハハ、ハハハハハハハッ、ハッハハハッ、ハハハハハハハッ」

 生温かい液体が私の頬を伝っていた。涙かと思って手で触れてみたら、それは血だった。

 私の目から、血が流れていた。

「ハハハハハハハ、ハハハハハハハッハハハッ、ハハッ、ハ、ハハハハハハハッ」

 私は血を吐いた。耳や鼻の穴からも、血が溢れ出した。私は廊下の床に手をついた。皮膚が簡単に破れ、血が流れる。

「ハハハッ、ハハッ、ハハハ……ハ……ハハ……」

 痛みはなかった。視界が赤く染まっていった。誰かの悲鳴が聞こえていた。私の全身は自分の血に浸かっていた。私は最後の力を振り絞って、笑い続けた。

「ハハ……ハ……ハ……」

 

 

  第三十二番 祭り

 

「わっしょい、わっしょい」

 この町自慢の巨大な神輿を、五十人近い男達が必死で支えて走っている。

 汗が飛ぶ。町中の者が道へ出て、男達を応援している。

 そうだった。幼い頃、家の前で手を振りながら、この神輿が通り過ぎていくのを眺めていたんだ。広志は思い出した。

「わっしょい、わっしょい」

 広志は最前列で神輿を支える一人だった。今、法被に鉢巻きという姿で、掛け声をかけながら皆と歩調を合わせ、担ぐ立場を演じているのは、なんだか変な気分だった。

「わっしょい、わっしょい」

 都会での夢破れ、この町に戻ってきたのは一週間前のことだった。捨てた筈の故郷。古臭い田舎、窮屈な、時代から忘れ去られた土地。自分はこんなところにいるべき人間じゃない、もっとでかいことが出来る筈だと、あの頃の広志は信じていた。

「わっしょい、わっしょい」

 そして今、広志はここにいる。七年ぶりの帰郷に、家族は歓迎こそすれ責めることはなかった。広志は家業の酒屋の手伝いをやって過ごすことになった。

 道の両脇には、大勢の人が並んでいる。こんな田舎にこれほど人がいたのかと驚くほどだ。皆、笑顔でこちらに手を振っている。

 都会では、常に焦りと孤独を感じていた。だがここでは、誰もが彼の存在を認めてくれる。誰も彼を追い立てたりしない。

「わっしょい、わっしょい」

 ふと広志は、学生の頃に付き合っていた優子のことを思い出した。自分の夢のことしか頭になかった彼が、故郷と共に残していった優子。旅立つ広志を寂しげな顔で見送っていた優子。

 彼女は今、どうしているだろうか。

「わっしょい、わっしょい」

 祭りには、一種の狂気がある。力の限り声を上げながら、広志は思った。

 日常の中で抑圧されていた様々なものが、この日だけは発散の機会を与えられるのだ。

 さあ。

 皆、力一杯走れ。

 皆、力一杯叫べ。

 皆、力一杯笑え。

 今日は祭りだ。

 特別な日だ。

 さあ、皆、楽しもう。

 祭りには狂気がある。

 祭りには救いがある。

「わっしょい、わっしょい」

 神輿を担いで走りながら、広志は奇妙な高揚感に包まれていた。町と一体になったような気分だった。

 ここにいてもいいのではないか。

 ここで生きていけるのではないか。

 この町こそが、本来の広志の生きるべき場所だったのだろう。

 広志の目に熱いものが溢れ、それは頬を伝って流れ落ちていった。

 広志は、泣きながら、笑顔を浮かべながら、走っていた。

 と、手を振る人々の中に見覚えのある顔を認め、広志はハッとした。

 優子だった。浴衣姿の彼女は、七年前とあまり変わっていないように見えた。

 優子も、広志に気づいていた。二人の視線が合った。

 広志は、優子が微笑むのを見た。

「わっしょい、わっしょああああああ!」

 気の抜けた一瞬、広志は転んだ。誰もが恐怖の声を上げた。広志は無数の足に押し潰された。神輿を担いでいた男達がバランスを崩した。人が雪崩となり、巨大な神輿は近くの民家に突っ込んだ。何が原因だったのか民家から炎が上がり出した。みるみるうちに炎は大きくなり、強い風に煽られて隣へ隣へと燃え広がっていく。無駄に騒ぎ逃げ惑う人々。炎はとどまるところを知らず、その日のうちに町の三分の二が壊滅し、数十人の住民が焼け死んだ。町の自慢の神輿は灰になった。広志は首の骨が折れて死んでいた。優子は発狂した。

 廃墟と化した町を、ただ風だけが澄まし顔で通り過ぎていく。

 祭り……。

 

 

  第三十三番 禁句

 

 世界は常に張りつめたような、異様な雰囲気に満ちていた。

 連れ立って街を歩く人々も言葉少なで、必要なことしか口にしない。

 かといって、誰もが互いのことに無関心で無感動なのかというとそうではない。人々の顔は、一様に『ある表情』に溢れ、それを必死に堪えているようだった。それは一つではなく、彼らの浮かべる表情は何種類かあった。

 と、道を歩いていたカップルのうち、男の方がいきなり女を抱きしめた。

「愛してる、礼子」

 男は必死の形相だった。抱きしめられた女は驚愕からすぐに『ある表情』へと変わった。

 周囲の者達は慌てて飛びのいた。

「うわっ、こいつ言っちまった」

 すぐにサイレンの音が鳴り響いた。数台の黒い車が猛スピードで駆けつけて急停車した。中から棍棒を持った男達が飛び出してきた。

 男は逃げずに女を抱きしめていた。彼らは男を女から引き剥がし、棍棒で滅多打ちにしていった。

 遠巻きに見ている人々は、やはり一様に『ある表情』を浮かべていた。

 ほんの三十秒ほどで、男は生命のない肉塊と化した。

 棍棒の男達が離れた後、駆け寄った女は変わり果てた男の体を抱きしめた。

 涙と共に『ある表情』を溢れさせ、女は言った。

「浩志、私も愛してる」

 男達はすぐさま女も滅多打ちにした。

 人々は、やはり一様に『ある表情』を浮かべていた。

 女も肉塊に変わった時、通行人の一人が我慢出来ずに涙を流しながら呟いた。

「ひどい。ひど過ぎる」

 棍棒の男達はその通行人も滅多打ちにしていった。

 人々は、やはり一様に『ある表情』を溢れさせ、同時にそれを堪えていた。

 

 渇望は、抑制によって生まれる。

 

 

  第三十四番 世界の本質に関するある高名な哲学者と殺人鬼の討論

 

 まず哲学者が言った。

「世界のほ

「アピョーン!」

 殺人鬼が斧を振った。哲学者の首が飛んだ。

 

 

  第三十五番 苦

 

 講義が終わって家に帰る道程で、島田恭一はいつものように俯いて溜息をつきながら歩いていた。

「よう」

 振り向くと同じ学部の榊がいた。ハンサムで背が高く陽気で喋り好きで友人も多い、恭一とまるで正反対の男だ。

 恭一は返事もせずそのまま歩き続けた。榊は勝手に横に並ぶ。

「相変わらず辛気臭い顔だな」

 榊は言った。

「……」

 恭一は無言だった。彼は榊が嫌いだったし、殆ど話したこともない。何故榊がついてくるのか分からなかった。

「生きるのが苦痛なら、死んでしまえばいいのさ」

 皮肉に唇を歪めて榊が言った。

 おそらく榊も、鬱々とした恭一が嫌いだったのだろう。

「……」

 恭一は無言だった。無言のまま懐から棍棒を取り出して榊を殴り倒し、気絶した榊を引きずって秘密の地下室へ運び込んだ。

 そこには包丁や鋸や万力やガスバーナーやその他様々な道具が揃っていた。

 恭一は榊を鎖に繋いでから水をかけて目を覚まさせると、ありとあらゆる拷問を実行した。泣き叫ぶ榊を、恭一は冷静に観察していた。

「君は言ったね。生きるのが苦痛なら、死んでしまえばいいと」

 恭一は告げた。

「今の君はとても苦痛に満ちているね。僕が手助けしてあげるよ」

 恭一は斧を振り上げた。

「ば……ばじげで」

 片目をえぐられ鼻を削がれ歯を折られ、変わり果てた形相で榊は言った。

「自分の発言には責任を持たなくちゃ」

 恭一は斧を振り下ろした。榊の首が飛んだ。

「僕はいいんだ。人生が楽しくなっちゃったから」

 夢見るような笑みを浮かべ、恭一は言った。

 

 

  第三十六番 無力

 

「私は運動が苦手で頭も悪く意志も弱く何の取り柄もない人間で、世界に何の貢献も出来ず皆に迷惑をかけてばかりいます。こんな私はどうしたらいいのでしょうか」

「祈りなさい。世界の平和と人類の幸福を、全身全霊をかけて祈るのです。あなたが味わわねばならなかった苦痛を誰も味わうことのないように」

 

「私は運動が苦手で頭も悪く意志も弱く何の取り柄もない人間で、世界に何の貢献も出来ず皆に迷惑をかけてばかりいます。こんな私はどうしたらいいのでしょうか」

「呪いなさい。世界の崩壊と人類の破滅を、全身全霊をかけて呪うのです。あなたが味わわねばならなかった苦痛の百倍も千倍もの苦痛を皆が味わうように」

 

 

  第三十七番 電極タッチ

 

 殺風景な部屋。

 男は椅子に座り、鏡に映った自分の姿を見つめていた。

 男の頭蓋骨は眉の少し上で水平に切り離され、ピンク色の脳が露出していた。

 男は、無表情に、それを見つめていた。

 やがて男は、ゆっくりと右手を上げた。

 右手には、コードに繋がった電極が握られていた。

 男は鏡を見ながら慎重に、自分の脳のある部位に電極の先端を当てた。

 その瞬間、男の中にある情景が浮かんだ。後に妻となる女性との初デートの場面だった。ジェットコースターに乗ってはしゃぐ彼女の顔を、二十五年の歳月を経て男は鮮明に思い出した。

 情景は一瞬で消え、男は我に返った。

 電極の当たっていた脳の表面に、小さな焦げ跡が出来ていた。

 男は、再び鏡を見ながら脳の別の部位に電極を当てた。

 その瞬間、男の中にある情景が浮かんだ。二十一年前の妻が娘を出産した時の場面。眠る小さな我が子を見て幸せな笑顔を見せる妻の顔。

 情景はやはり、一瞬で消えた。

 男は焦げ跡から電極を離した。

 それは、脳細胞が焼き切れる間際に解放する、失われつつある古い記憶の断片であったのだろうか。

 男は再度、電極を別の箇所へ当てた。

 その瞬間、男の中にある情景が浮かんだ。八年前の男の誕生日。その夜、妻と娘がプレゼントしてくれたネクタイの細かい柄さえ、男ははっきりと思い出した。

 そしてそれは一瞬で失われた。

 いつの間にか、男の頬を、涙が伝っていた。

 男の手から電極が落ちた。

 男は、ゆっくりと、両手を上げた。

 素手で、自分の脳に触れた。

 力を込めると、男の中に無数の過去の情景が浮かび、それらと共に男の命は消えた。

 倒れた男の頭から、ぐちゃぐちゃになった脳の破片が零れ出る。

 男の部屋の窓からは、核戦争後の荒れ果てた大地が何処までも続いていた。

 

 

  第三十八番 運命の女

 

 最愛の妻と二人で映画を鑑賞し、その後で喫茶店に立ち寄った。

 私は幸福だった。由利絵は私の全てであり、彼女がいさえすれば私は満足だった。由利絵の声は私にとって甘美な天上の調べであり、その笑顔は私に魂が震えるような至福を与えた。

 由利絵とは一目惚れだった。初めて会った時、体中に電気が走り抜けるような感触を覚え、目の前のこの女性が人生を共に過ごすべき運命の女性であることを直感したのだ。

 そしてその直感は間違っていなかった。

 ああ、私はなんて幸せな男なのだろう。

 ふとその時、テーブルの横を一人の女性が通り過ぎた。その女性の姿を一目見た瞬間、私は体中に電気が走り抜けるような感触を覚えた。

 か、彼女は私の運命の女性だ。

「どうしたの」

 二秒前まで最愛の存在であった妻が穏やかな微笑を浮かべ尋ねた。

 私にとって、それは今やただの肉の塊に過ぎなかった。

「人違いだった」

「えっ」

 私は拳銃を出して妻を撃ち殺した。

「運命の女はあっちだった」

 私は席を立ち、さっきの女を追いかけていった。これで十四回目になるが、今度の直感は本物だ。今度こそはきっと……

 

 

  第三十九番 平穏

 

 静寂に包まれた町を、一人の旅人が訪れた。

 町の入り口には、数十の死体が積み重なっていた。

 首を切り落とされ内臓をはみ出させた死体の山は、全てこの町の住民らしかった。

 旅人は、平然とその傍らを通り過ぎた。

 通り沿いの家の窓から、血塗れの男が上半身を乗りだしたまま死んでいた。その背中には十数ヶ所の刺し傷があった。

 縁側に並んで腰かけている老夫婦があった。二人の首から上は存在しなかった。

 幾つかの軒先には、人間のちぎれた手足が百個以上吊られていた。

 道端には無数の住民の死体が転がっていた。斬られ、刺された彼らの顔は、一つ残らず凄まじい断末魔の苦痛と恐怖を浮かべたまま凍りついていた。

 旅人は、動くもののない町の様子をゆっくりと見回しながら歩いていった。

 町は、全滅していた。

 全ての住民が、何者かによって虐殺されていた。

 死人の町で、旅人は微笑した。

「ああ、平和だなあ」

 幸せそうに、旅人は呟いた。

 旅人が去った後、町には真の静寂が戻った。

 

 

  第四十番 ワイワイ家族

 

 太田家は十二人の大家族。出来た子供は上が十五才、下は四ヶ月までの十人。家庭円満、皆が仲良しだ。

 太田家はレストランに入った。入り口のドアを開け、ぞろぞろぞろぞろ通り抜けていく。閉じていくドアに間に合わず、八才の勝則が頭を潰されて死亡した。

 家族は三つのテーブルに分けて座った。二才の幹子が座った椅子に、間違えて十五才の巨漢正志が腰をかけ、幹子は圧迫されて死亡した。正志はその拍子に床に倒れ頭を打って死亡した。

 皆が席についたら、楽しい楽しい注文だ。九才の謙一はチキンドリアを焦って早口で注文しようとして、舌を噛んでしまい死亡した。

 注文が終わり、後は待つだけだ。待ちくたびれて六才の礼太郎が飢えて死亡した。

 料理がどんどんやってくる。慌てて皿を受け取ろうとした母親が、抱えていた四ヶ月の慎吾を床に落とし、慎吾は死亡した。

 おいしいおいしい料理達。十二才の武司は肉を喉に詰まらせて死亡した。急いで食べた五才の美那子は胃が焼けて死亡した。不器用な彰二はフォークが喉に刺さって死亡した。

 食事も終わってさあ満腹だ。食べ過ぎた季治は膨れた腹が爆発して死亡した。

 一休みしたら出発だ。レジで財布を開いた母親の良子は、その値段の高さに驚いて、ショックのあまり死亡した。

 父親の健三は満足げな顔でレストランを出ていった。

 入ったのは十二人。出たのは一人。

 

 

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