その男は縁日でよく売っているような、安っぽい特撮ヒーローのお面を被っていた。ボサボサになった長い髪は背中までかかっていた。身長は二メートル近くあり、薄汚れたTシャツの下には強暴なまでに分厚い筋肉があった。
だがそんなことよりも、通行人達の目を引いたのは、男のジーンズに提がっているものが幅広の斧であり、男の太い腕が持つものがチェーンソーであるということだ。
足早に通り過ぎようとする人々の視線を浴びながら、仮面の男は無造作にチェーンソーのエンジンをかけ始めた。二回失敗して、三度目に漸くかかった。
まさか、こんな街中で。誰もが思っていた。
「アペニョーン」
気の抜けるような声を仮面の男は発した。
だが次の瞬間、男は行動に移った。一番近くにいた中年のサラリーマンへ予想外の素早さで迫る。
「うわあああげげげっ」
大きく振られたチェーンソーはサラリーマンの胴体を斜めに切り裂いて真っ二つにした。
「きゃああああ」
「う、うわっ人殺しだ」
人々は悲鳴を上げながら逃げ惑う。それを仮面の男は追いすがってチェーンソーで殺し回った。首が足が腕が飛び内臓がはみ出し返り血が男のシャツを染めていく。
「アッパラピョー」
仮面の男は殺戮しながら進んでいった。平穏な午後の通りは血と肉片と叫びとチェーンソーの唸りで満たされた。
五十二人目の犠牲者の背中を踏みつけ首を切断した時、仮面の男はふと前方へ顔を向けた。
別の悲鳴が曲がり角の向こうから聞こえてくるのだ。
突如現れたのは、黒い革ジャンと革ズボンに身を包んだ男だった。男の顔は髑髏だった。仮面を被っているのではなく、顔の皮膚と肉が殺ぎ落とされた、自前の骸骨だった。男は黒い皮手袋を嵌めた手で、両手にそれぞれサーベルを持っていた。その刀身には血と肉がこびり付いていた。
右手のサーベルには、生首が突き刺さっていた。恐怖に歪んだ表情のまま凍りつく若い女の顔、その鼻の下からサーベルの切っ先が突き出していた。
髑髏の男の剥き出しの目が、仮面の男を見つめた。
「フシャーッ」
髑髏の男の歯の間から息が洩れ、無気味な音を立てた。男が右のサーベルを一振りすると、生首は刀身から抜けて飛んでいった。
「アケロパニャー」
仮面の男がチェーンソーを振り上げた。
二人の殺人鬼は互いへ向かって突進していった。仮面の男のチェーンソーを髑髏の男のサーベルが弾き、もう一本のサーベルが仮面の男の腹を刺した。仮面の男はびくともしなかった。下から浮き上がったチェーンソーが髑髏の男の胸を切り裂いた。どす黒い血が飛び散る。髑髏の男は無反応だった。髑髏の男のサーベルが仮面の男の右腕を切り落とした。チェーンソーが地面に落ちる。仮面の男は左手で自分の右腕を拾い、元の個所に据えつけた。すぐに右腕は繋がった。仮面の男はジーンズに括りつけていた斧を引き抜くと、大きく横に払った。髑髏の男の首が飛んだ。髑髏の男は自分の生首を拾い上げると、元の個所に置いた。少しずれたが繋がった。髑髏の男は仮面の男の腹を切り裂いた。内臓がぞろりとはみ出す。仮面の男は髑髏の男の右足を切り落とした。仮面の男は自分の内臓を腹腔に収め、髑髏の男は自分の足を元通りに繋ぎ合わせた。
二人の殺人鬼は不死身だった。互いにつけた致命傷もすぐに再生した。それでも二人は闘い続けた。それが殺人鬼の意地であるかのように。
闘いが始まって五年にもなるが、今もこの場所で二人は殺し合いを続けている。
ここは殺人鬼通りと名付けられ、毎年何十万人もの観光客が二人の闘いを見物に訪れるようになった。
第四十二番 全てを認めるということ
「わーん、ひろ君に叩かれたー」
「それもよし!」
「うわっ、宝くじで一千万円当たった。夢じゃないだろうか」
「それもよし!」
「今日は僕の誕生日なんだ。皆にプレゼントもらっちゃった」
「それもよし!」
「ど、どうしよう、試験に落ちた」
「それもよし!」
「夕飯は僕の好きなカレーだ」
「それもよし!」
「明日は彼氏とデートなの」
「それもよし!」
「仕事でミスして上司に叱られた」
「それもよし!」
「会社が倒産した。これからどうやって生きていけば……」
「それもよし!」
「交通事故で腕がもげたあっ」
「それもよし!」
「家が火事になって家族が皆焼け死んでしまった」
「それもよし!」
「と、通り魔に斬られた。お腹から内臓がはみ出してるよう。だ、誰か……」
「それもよし!」
「うおおおお!殺してやる!」
「ウギャアアアアア!そ、それもよしいいいいい!」
第四十三番 読み合い
鹿嶋裕輔は八十六才になる曾祖母のハルに呼び出され、扉の前に緊張して立っていた。
大富豪のハルは一種の変人で、他人を驚かせることに異常な執念を燃やしていた。数々の度を越した悪戯に親戚も嫌気が差し、ハルの屋敷を訪れることは少なかった。そのためハルは、五千坪の大邸宅に使用人を雇って身の回りの世話をさせている。高い給料を払っているが、それでも辞めていく者が後を絶たないのは彼女らしい。
二十四才の裕輔にも、幼い頃からハルに苦しめられた思い出は多かった。
五才の誕生日に、ハルにもらったプレゼントの大きな箱を開けると、百匹近い蛙が飛び出して裕輔の部屋を荒らし回った。
十三才の夏、ハルの屋敷のトイレで用を足していると、突然床が抜けて長い長いダストシュートを滑り落ち、ズボンを下ろした状態で商店街のど真ん中に飛び出したこともある。あの時の恥ずかしさは死んでも忘れない。
十八才の正月には、長い廊下を巨大な丸岩が転がってきて逃げ走り、間一髪で横の窪みに潜り込んだ。あれは一歩間違えば死んでいただろう。
二十二才の時は誰もいない部屋で待機を命じられ、一人で座っているといきなり天井が下がってきた。入り口の扉を叩いてもびくとも動かない。焦りながらも天井をよく見ると、立っていればすり抜けられそうな穴が隅の方に開いている。裕輔は慌ててそこに立ち、天井に押し潰されずに済んだ。だがそれだけでは終わらなかった。今度は大きな刃が横殴りに襲ってきたのだ。屈むのが少しでも遅れていれば首が飛んでいた。
即ち、ハルと関わることは、命懸けの仕事だった。
そして今、裕輔は、ハルの寝室の扉の前に立っている。
以前まで奥は和室だった筈だが、何故か入り口は木製のドアになっていた。
怪しい。
裕輔は金属のドアノブをじっくりと観察した。下から見ると、銅線がドアの向こうから延びてノブに繋がっている。
もしかしたら、電気を通しているのかも知れない。銅線を露出させているのは、相手の注意力を試したものだろう。
「裕輔、早く来ておくれ」
奥からハルの妖怪じみた嗄れ声が聞こえてきた。
「はーい、今行きます」
返事を投げかけながら、裕輔はドアの周囲を見回した。
裕輔の後ろの壁に四角い凹みがあり、大型のハンマーが立てかけられていた。
罠のないことを慎重に確認し、裕輔はハンマーを取り出した。
「どうしたんじゃ裕輔、早く入りゃんせ」
「はーい、入りますよおおお!」
裕輔は振り上げたハンマーを、力一杯ドアに叩きつけた。ドアが吹っ飛んだ。裕輔は足を踏み入れる前にハンマーの柄を差し入れてみた。ヒュン、と風が動いて、上から落下してきたギロチンが柄を中途から切り落としていった。刃が通り過ぎた後、裕輔は素早く奥へ飛び込んだ。
ハルの寝室は薄暗く、十畳ほどの広さの中心にぽつりと布団が敷かれていた。小さな盛り上がりはハルの存在を示していた。だがその顔は見えない。
ガガーッ、と音がして、裕輔のぶち破った入り口の前に分厚いシャッターが降りた。
しまった。閉じ込められた。どんな仕掛けが待ち構えているのか。裕輔は素早く部屋を見渡した。横手には窓がある。ここは一階だし、いざとなれば体当たりでぶち破って逃げ出せるだろう。
部屋に入った裕輔に、布団の中にいる筈のハルは何も言ってこなかった。静まり返った寝室に、時計が秒を刻む微かな音が聞こえている。だが部屋の中には時計はない。
時限爆弾だ。盛り上がった布団はダミーで、中には爆弾が据えつけられている。裕輔は直感した。
窓を開けて爆弾を投げ捨てれば。裕輔はその考えをすぐに否定した。あのハルのことだ。まともな手段では逆に罠にかかるのが落ちだ。
すぐに窓の方へ駆け出そうとして、また裕輔は思い直した。窓から逃げるというのもすぐに考えつきそうな手段ではないか。危ない。
裕輔は窓をハンマーで叩き割り、ギロチンに用心しつつ窓の下を覗き込んだ。
そこにはぽっかりと巨大な穴が開いていた。深い闇の奥から、斜めに切られて尖った竹の先端が見えていた。もし迂闊に飛び出せば、穴に落ちて串刺しになっていたことだろう。
窓は駄目だ。どうすればいい。爆弾はいつ爆発するか分からない。
裕輔は、敷きつけられた畳の内、一枚の色が他のものと微妙に違うことに気がついた。近づいて観察すると、なんとか指が入りそうな隙間も開いている。
ここだ。ここが脱出経路だ。
勝った。
裕輔は勝利と安堵に歪んだ笑みを浮かべながら、隙間に指を差し入れ、一気に畳をひっくり返した。
その途端、奥から飛び出した数十本の槍によって裕輔の体は串刺しになっていた。即死だった。
「まだまだ甘いのう」
布団の中からハルの声がした。隙間から現れた痩せ細った手は、普通の目覚し時計を握っていた。
第四十四番 世紀末大宴会
降り注ぐ雨に視界を遮られ、男には朧な樹木の影だけが見えていた。濡れた衣服は重くまとわりつき、男の体温と体力を奪っていく。額にべっとりと貼り付いた髪も、ぬかるんだ地面も、男にはたまらなく不快だった。
富士の樹海に入ってから、六時間近くが過ぎていた。じっとしてその時を待てばいいのに、こうして当てもなく彷徨っているのは、二時間前から降り出したひどい雨のせいか、それとも本心では生きたいと願っているためか。男自身にもそれは分からなかった。
男が社会というものに見切りをつけたのは十四才、乱れる人々の倫理感に対し一家言を持っていた尊敬すべき父親が、裏で脱税していることを知った時だった。
男が自分の人生に見切りをつけたのは二十七才、時間内だけは真面目にこなしていた職場を、不景気だからという理由であっけなくクビになった時だった。さぼってばかりいた社長の甥は今も高給をもらっている。
その三日後、男はこうして樹海を歩いている。
雨は相変わらず激しい勢いで降り続けていた。社会から隔絶された場所で人知れず死んでいくことを選んだのは自分だが、だからといって人生最後の日をこんな土砂降りにしなくてもいいではないか。男は神を恨んだ。
ふと、濁った景色の奥に光が見えた。誰かが明かりをつけているのか。いや、こんな樹海の奥でそんな筈はないが。疑問に思いつつも、男は光の方へ疲れた足を向けた。
雨の中、光が次第に大きくなっていき、急に明るい視界が開けた。目を眩ませながら足を一歩踏み出すと、男に降り注いでいた雨が止んだ。見上げれば、空は雲一つない晴天で、明かりの元が太陽の光であったことを男は知った。ねじくれた木々の姿はなく、所々に可憐な花の咲く草原が広がっていた。まるで境界を越えて別世界に入り込んでしまったようだった。それとも既に死後の世界にいるのだろうか。
「ようこそいらっしゃいました。あなたが記念すべき百人目の参加者です」
呆然としていた男に穏やかな声がかけられた。男が顔を向けると、そこには白と黒の色彩を持った老人が立っていた。ゆったりとした衣服は右半分が白、左半分が黒と、はっきり色が分かれていた。豊かな髪も長い髭も、やはり右側が白、左側が黒だ。老人の顔には深い皺が刻まれていたが、その肌は艶やかだった。
「あ、あなたは誰ですか。それに、参加者というのは……」
軽い足取りで近づいてくる不思議な老人に、男は尋ねた。
「まあまあまあまあ、まずはお疲れでしょう。どうぞこちらへ」
老人は微笑した。老人の右目が白だけで、左目が黒だけで埋められていることに、男は気がついた。
自殺するつもりが、妙なことになったものだ。男はあっけに取られながらも、老人の雰囲気に押され、その後をついていった。
着いた場所は小さな岩場になっていて、五メートル四方ほどの広さに水が溜まっていた。いや、湯気が上がっているところを見ると、どうやら温泉らしい。
「まあごゆっくり。服は乾かして参ります」
言われるままに男は服を脱ぎ、湯の中に入った。丁度良い湯加減だ。くつろぐ男に老人がタオルと盆を差し出した。盆には徳利と猪口が載っていた。何なんだこれは。男はそれでも徳利の中身を猪口に注いで飲んでみた。上等な日本酒だ。男はどんどん飲み、徳利が空になった頃には朗らかな気分になって、自分の置かれている状況に対し何の疑問も感じなくなっていた。
男が湯から上がると、いつから側にいたのか老人が乾いた服を差し出した。泥まみれだった服は綺麗に洗濯され、新品に戻ったようにも見える。
「それでは会場へご案内致します」
服を着終わった男に老人が言った。その時には、中天にあった太陽は姿を消し、満月が男を見下ろしていた。
先程の草原に、十数もの長いテーブルが円周状に配置されていた。テーブルの上には男がテレビでしか見たことのないような、様々な国の豪華な料理と高級な酒が並べられていた。男はゴクリと唾を飲み込んだ。
百人近い人々が既に席についており、到着した老人と男を彼らは盛大な拍手で迎えた。
照れる男を、一つだけ空いていた席に座らせると、老人が会場の中心に立って皆に言った。
「漸く百人が揃いましたので、これから世紀末大宴会を始めたいと思います」
再び拍手が巻き起こった。男は会場を見回した。揃った人々はあらゆる人種、あらゆる年齢に及び、思い思いの服装をしていた。腰に布を巻いただけの黒人の少年もいれば、水玉模様のパジャマを着た中年の西洋人もいた。まるで世界中から無作為に攫ってきたようなメンバーに、男は何の感慨も持たなかった。男の興味は今、目の前の温かい料理とグラスに注がれた酒に向けられていた。
「いやはや、文明の道筋を決めるのも大変なことです」
老人は少しばかり嘆息してみせた。
「発生から滅亡まで、何千回何万回も繰り返し導いていると、流石に飽きてくるものです。夕飯の献立に悩む主婦の心境とでも申しましょうか」
この老人は何者なのだろう。男の中に生じた不安は、だが一秒で消え去った。老人の言葉を真剣に聞いている者などいなかった。或いはそのことは、老人の計算の内かも知れない。
「まあ、私の愚痴を聞いて頂くために皆さんをお呼びしたのではないですからね。まずは、どうぞ杯をお取り下さい」
待ってましたとばかりに皆が好きな杯を持った。男はワインのグラスを取った。
「では、人類の今後百年に乾杯」
老人の音頭に従って、皆が一斉に杯を飲み干した。男は更に爽快な気分になった。笑い声が会場を満たし、男も鳥の丸焼きにかぶりついた。
大いに食べ、飲み、騒ぐ人々を、老人は好ましげに見守っていた。やがて老人はテーブルに向かって歩き出し、両手にウォッカの杯を持ったロシア人に話しかけた。
「二十一世紀の人口は、どの程度まで増えるでしょうかな」
「さあね、二百億人くらいかな」
赤ら顔のロシア人が答えると、老人は嬉しそうに頷いた。
「なるほどなるほど、そうでしょうな」
老人は次に、ロシア人の隣でスパゲッティーと格闘しているインド人に声をかけた。
「二十一世紀には、戦争でどのくらいの人が死ぬでしょうかな」
「沢山死ぬだろう。十億人くらいは死ぬだろう」
ミートソースで汚れた上着を気にしながら、インド人は答えた。
「なるほどなるほど、そうでしょうな」
老人はやはり嬉しそうに頷いた。
インド人の隣には、猿の脳味噌を啜っているイギリス人がいた。
「二十一世紀には、人類は不老不死を達成出来るでしょうかな」
「不老不死など無理に決まってるさ」
イギリス人は肩を竦めて笑った。
「なるほどなるほど、そうでしょうな」
老人はしたり顔で頷いた。
テーブルに沿って歩き、老人は一人一人に同じようにして何か一つ尋ねていった。相手が酔った頭で適当に答えると、その度に老人は、嬉しそうに頷くのだった。二十一世紀についてのことで、疫病で何人死ぬかとか、宇宙に移住は出来るかとか、石油に代わる画期的なエネルギー源は発見されるかとか、癌はなくなるかとか、質問は多岐に渡っていた。答え終わると人々は、また魅力的な料理と酒に没頭するのだった。
そうしていつの間にか、男の前に老人が立っていた。
「あなたが最後ですな。記念すべき百人目のあなたには、重大なことを決めて頂きましょう。お答次第では、これまでの質問が全てどうでもよくなるようなことです」
老人が意味ありげに言うと、酔っ払った人々は男のために拍手した。男は頭を掻いた。
老人は懐から、小さな機械を取り出した。機械の上面には赤いボタンがついていた。前面には、換気扇に似たマークがついていた。
何処かで見覚えのあるマークだった。映画か何かだろうか。唐突に、放射能、という言葉が浮かんだ。それがどういう意味なのか、男の濁った頭には判断出来なかった。
「あなたなら、このボタンを押しますかな。それともやめておきますかな」
男は少し迷った末に答えた。
「折角だから押すだろうな」
「素晴らしい。これで私も暫くは休めそうです」
老人が顔を輝かせた。人々は盛大な拍手を贈った。
「では、早速発射ボタンを押して頂きましょうか」
「ああ、いいよ」
発射ボタンという言葉がちょっと気になったが、男は機嫌良くボタンを押した。嵐のような拍手が会場を満たした。
第四十五番 妻爆発
相模栄一はしばしば考える。自分が本当に妻を愛しているのかどうかについて。
相模の妻はミスコンで優勝したこともある美貌の持ち主だ。だがそれを鼻にかけることもなく、気立ては優しかった。相模とは二十才の時に知り合って、二年間の付き合いを経て結婚した。現在、共に三十才になるが、妻の美しさも性格も、全く変わっていない。妻は相模のことを愛してくれている。
相模も、自分は妻を愛していると思っている。
しかし、相模は考えるのだ。自分が愛しているのは、妻の美しさだけではないのかと。
それは勿論、妻の性格も愛しているのは違いない。しかし、もしあんなに妻が美しくなかったら、自分は彼女と結婚したであろうか。ならば、自分の妻への愛は、外見だけを対象にした、偽りのものなのではないか。
もし、妻が火傷や怪我などであの美しさを損なってしまうことになっても、自分は、妻を愛せるだろうか。
相模はそれが恐ろしかった。もしそんなことが起きたらどうしよう。もし妻が醜い肉塊となって、助けを求めて這いずり寄ってきたら、自分はその体を抱き締めてやることが出来るだろうか。悲鳴を上げて逃げ出したりしないだろうか、或いは冷酷に見下ろして、妻の体を踏みつけたりはしないだろうか。もし妻の身にそんなことが起きれば、相模は自分の愛情を試されることになるのだ。相模は自分が怖かった。自分の本性が露呈してしまうことが怖かった。
そんなことが起きないでくれ。相模は祈る。妻はずっと美しいままでいて、自分を試すようなことにならないでくれ。
その日の夜も、食卓で向かい合わせに座ってすき焼きを食べながら、相模はそんなことを考えていた。
「どうしたのあなた、そんな深刻な顔をして」
妻が相模の表情に気づいて声をかけた。
「いや、何でもないんだ」
そう言って、相模は微笑んでみせた。相模が何年もの間こんなことに悩んできたことを、妻は知る筈もない。相模はなんだか妻が哀れになった。
その時いきなり、妻の体が爆発した。血と肉片が飛び散り腹部が破れ内臓がはみ出し顔の皮膚が爆ぜて片方の眼球が飛び出し頭蓋骨の欠片が飛んで脳味噌が露出した。
絶句する相模の前で、血みどろの肉塊と化した妻が床に崩れ落ちた。
だが、それでも、妻は、まだ生きていた。
「あ……あなた……」
妻が、立ち竦む相模に向かって、骨の見える手を伸ばした。
相模は一瞬、自分が逃げ出すのではないかと思った。いつも怖れていたように。
だが、相模の体は逆の方向に動いていた。テーブルを避けて、倒れた妻の方へ。
相模は妻の体を抱き締めていた。恐怖も嫌悪もなく、相模は死にゆく妻に対し限りない愛しさを感じていた。
なんだ。相模は思った。私は妻を愛していたんじゃないか。良かった良かった。
そう思うと相模は嬉しくなった。これまでの重荷がなくなって、晴れ晴れとした爽やかな気分だ。瀕死の愛しい妻を抱えた相模の顔に、思わず至福の笑みが浮かんだ。
第四十六番 マンション
「へえ、いいとこじゃないか」
夕美の部屋を見回して洋司は言った。2DKの、女一人で住むには贅沢過ぎるマンションだ。
「そうでしょ、眺めもいいんだから。なんたって十二階だもん」
夕美はちょっと得意げに答える。
洋司を自分の部屋に呼ぶのは初めてのことだ。これを機会に二人の仲がもう少し進展すればいいと夕美は思っていた。洋司はちょっと浮世離れというか、地に足がついていないようなふわふわした雰囲気があって、その辺が夕美も気に入っているといえば気に入っているのだが、恋愛となるとのれんに腕押しでじれったくなる。
今夜は積極的にアプローチしてみるつもりだった。
台所の冷蔵庫を開けながら、夕美は窓際にいる洋司に声をかけた。
「ねえ、ワインを冷やしてるんだけど、飲むよね」
「いいや、もう要らないよ」
「えーっ、なんで。もうって、今日はまだお酒飲んでな……」
夕美が振り返ると、サッシが開いて洋司はバルコニーにいた。
それだけではなくて、洋司の体は、半分以上も柵を乗り越えていた。
「洋ちゃん、何を……」
「わーい」
洋司が完全に柵を越えた。
恋人が消えた空間を、夕美は口をポカンと開けたまま、見つめていた。
やがて、肉の塊が地面に叩きつけられる重い音が聞こえてきた。
夕美の手からも、ワインボトルが滑り落ちた。
第四十七番 試練の果て
暗い泥沼を歩き詰め、漸く光が見えてきた。永遠とも思えた長い時間は、しかし外部では、ほんの二時間ほどにしか過ぎないのであろう。ここでは時の流れが異なると聞いている。
苦しかった。
それはもう、飛び込む前に俺が予想していたものの何倍も、いや、何千倍も何万倍も苦しかったのだ。
遥か昔、いや実際は二時間前かも知れないが、部族内では最強の戦士であった俺に、偉大なる長は厳粛な顔をして言ったものだ。我々の部族に最大の危機が迫っている、敵の兵力はこちらの二十倍で、このままでは勝ち目はなく、部族は皆殺しにされてしまうだろう。
だが我々には、伝説に残る『試練の穴』がある。この穴に入って出てきた戦士は、神の如き力を持つ強者と化しており、たった一人で一万もの敵を破ったこともあったという。
そして長は俺に命じたのだ。見事『試練の穴』を越え、超戦士となって部族の危機を救ってみせよ、と。
長の言葉に俺は興奮し、その栄誉を誇りと歓喜とをもって受け入れた。俺はどんな辛い試練にも耐える自信があった。部族の救世主となり後々まで語り継がれるのは俺の願いでもあった。部族の者達が総出で見守る中、丸い岩によって何百年も塞がれていた『試練の穴』が開かれ、俺は喜び勇んで飛び込んでいった。
だが、ここは、地獄だった。
泥の中に溺れて窒息し、生きながら炎に焼かれ、酷寒の地で凍りつき、無数の刃に皮膚を切り裂かれ、黒い大きな手によって手足を引きちぎられ、全身を無数の蟻によって食い荒らされ、凄まじい吐き気に襲われて内臓と眼球と脳味噌を吐き出し、骨と皮ばかりに痩せた体で飢餓にのたうち回り、極限の疲労の中で眠ることも許されず走らされ、泡の出る水に浸けられて全身の肉が溶けていくのを感じ、両側から迫る石の壁にじりじりと押し潰された。
それを何百回、何千回と、強制的に繰り返されたのだ。やめてくれと俺が幾ら泣き叫んでも、試練はやまなかった。見えない手に掴まれて、俺は一つの苦行が終わるとすぐに無理矢理次の行程に進まされた。
何故俺は、こんなことを進んで引き受けたのだろうか。
何故俺は、こんな苦しい目に遭わなくちゃいけないんだ。
一体誰のせいで、俺はこんなに苦しまなくちゃいけないんだ。
俺にこんなことを押しつけやがったのは、一体何処のどいつだ。
限界を超えた苦痛の中で、俺の中に、じりじりと黒い憎悪が育っていった。何しろ考えに浸る時間は充分過ぎるほどあるのだ。俺の考えを訂正する者などいない。
俺は、俺をここに押し込んだ奴らへの憎悪を支えに、無限の苦行と拷問に耐え続けた。
そして、今、目の前に光の差し込む穴が見えていた。これまで一度も感じられなかった光。
俺はとうとう、出口に辿り着いたのだ。
光の中へ足を踏み入れると、突然割れるような拍手が巻き起こった。俺は自分の出てきた『試練の穴』を背中に見た。周囲には部族の者達が全員揃い、俺のために歓声を上げていた。
「よくぞ試練を克服した」
部族の長が俺に言った。
俺には、長の口調が、とても、尊大に思えた。
こいつら、何だ。
自分では何の苦労もせず、偉そうにふんぞり返って俺をけしかけただけじゃないか。
俺の苦しみを知らず、能天気に拍手なんかしやがって。
一体、お前ら、何様のつもりだ。
俺は咆吼した。地面を揺るがす叫びに彼らの笑顔が凍りつき、戸惑いに変わった。
長の頭を片手で掴み、俺は一気に引いた。長の首がスポンと抜けて血が噴き出した。他の者達が悲鳴を上げ、我先にと逃げ始めた。俺は彼らに追いすがり、次々と息の根を止めていった。今の俺に武器は必要なく、素手だけで充分だった。
どいつもこいつも皆殺しにしてやる。俺は解放感と復讐の味に酔いしれながら、力の限り咆吼した。
第四十八番 ポックリさん
第三十七回ポックリさんの会は、放課後の教室でしめやかに行われた。
参加者は恵美と敏子と則子と昭代の四人。今回は敏子の机を使い、その四隅に四人が椅子を置いて座る。
恵美が一枚の画用紙を机の上に置いた。則子がペンを取り出して、画用紙の自分に近い辺に、自分の名前を書き込んだ。それを右隣の敏子に渡し、敏子も同じようにして自分の名を書き込む。そうやって全員が画用紙に自分の名前を書き入れた。
昭代が財布から十円玉を一枚取り出して、画用紙の中心に置いた。四人が右手の人差し指を硬貨の上に軽く載せる。
そして、四人は声を合わせて言った。
「ポックリさん、ポックリさん。今日ポックリ逝くのはだあれ」
四人の指を載せた硬貨が、スルスルと動いた。それは、四人の見守る中、恵美の名前に辿り着いた。
「グボッ」
恵美が呻いた。白目を剥いて、口から泡を吹いて倒れる。手足を痙攣させていたが、やがて動かなくなった。
恵美は、死んでいた。
残った三人は少しの間、黙って恵美の死体を見つめていた。
そして、再び声を合わせて唱えた。
「ポックリさん、ポックリさん。今日ポックリ逝くのはだあれ」
三人の指を載せた硬貨がまたもやスルスルと動き、今度は敏子の名前の上で止まった。
「ゲハッ」
敏子が血を吐いた。その目から耳から鼻の穴から血を噴き出させ、敏子は崩れ落ちた。血が則子と昭代の顔にもかかった。
敏子は死んでいた。教室の床は血の海になっていた。
丁度向かい合わせの、則子と昭代が残った。二人の視線が互いに絡み合い、火花を散らした。
そして二人は声を合わせて唱えた。
「ポックリさん、ポックリさん。今日ポックリ逝くのはだあれ」
今度は硬貨はなかなか動かなかった。人差し指を伸ばした二人の右手が、小刻みに震えていた。どうやらかなりの力が込められているらしかった。
だが、硬貨がじりじりと動き始めた。それは、昭代の名前の方へと向かっていた。
返り血を浴びた二人の顔に、汗が滲んでいた。則子の目は、勝利を確信して喜悦に光っていた。
と、昭代が硬貨に触れていない左手を上げ、人差し指と中指でVサインを作って則子の両目に突っ込んだ。
「グベッ」
則子は思わず硬貨から指を離した。眼球が糸を引いて転がり落ちる。
だが、その拍子に昭代の指にも力が入り、硬貨が大きく動いた。
硬貨は、昭代自身の名前で止まっていた。
「ウバッ」
昭代の首が胴体を離れ、ロケットのように真上に飛んで天井にぶつかった。血が勢いよく噴き出した。
第四十九番 引き攣る笑顔
私は人と話すことが苦手だ。いや、親しい友人や家族となら自然に話題も笑顔も出るし、逆にコンビニの店員やただの通りすがりなどならば澄まし顔をしていればいい。問題なのは、それほど親しい訳でもないが、かといって全くの他人でもないような、そんな中途半端な関係の人達だ。一応親しみの情を示すために楽しい話題を考え出さねばならないし、また、出来るだけ笑顔を見せねばならない。気を遣って無理にそうするのが、私にはとても辛い。
それが運の悪いことに、今朝は会社へ向かう列車で、同僚の一人と同じ車両になってしまった。隣の部署なのであまり話したことはないし、名前も知らない。目が合ったので簡単に挨拶を交わした。いつもならばそれで終わるところだが、今日は乗客が少なかったこともあり、彼は私の方に近づいてきた。
チイッ。やめろ、来るんじゃない。
彼は私の隣に腰をかけた。嫌だったが、逃げる訳にもいかない。
全く。
「いつもこの列車で通勤されているんですか」
彼が聞いた。
「ええ、そうなんですよ。あなたもですか」
私は無愛想にならないように気をつけながら応じる。
それを手始めに、取り留めのない話題を彼が持ち出してきた。向こうはこちらに好意を示しているつもりなのだろうが、私にとっては苦痛でならない。彼のありふれた冗談に私は笑ってみせる。
この笑顔の後が、私の最も苦しい時間なのだ。
始めから終わりまで澄ました顔で過ごせるのならば楽だ。だが一旦笑顔を見せてしまうと、その後にどういう顔をすればいいのか分からなくなる。なんか澄ました顔に戻ったら面白くなかったのだと相手に思われそうだし、穏やかな微笑を湛えていなければならなくなるのだ。
だが、特に心からでもないのに微笑し続けることは、私に恐るべき緊張と苦痛を与えた。そんな状態で、微笑を続けられる筈もない。しかし、私は微笑し続けなければならない。
時折、笑顔が、引き攣りそうになる。
彼は私のそんな苦しみに気づかずに、能天気に喋り続けている。
ああ、早く、駅に着いてくれ。私は神に祈った。
ちらりと時計を見たが、目的の駅に着くまでに、まだ十分ほどはある。その間、私は笑顔を作り続けていられるだろうか。
もう、私の笑顔が、ぎこちないものに見えてはしないか。私は不安になり、益々緊張が強まった。
ふと、彼の話題が途切れた。
私にとっては、それは重苦しい沈黙に思えた。この沈黙を紛らすために、私から何か話題を出さねばならない。楽しい話題を。この笑顔を続けていられるような。
ああ、口元がヒクついてきた。危ない、危ないぞ。自分の目つきが険しくなっていくのを感じる。
ああ、え、笑顔が、もう、持たない。今にも、崩れてしまいそうだ。
私は、この緊張感に、耐えることが出来なかった。
「うおおおおおおお!」
私は叫んだ。彼が、他の乗客がびっくりして私を見る。
「うわああああああああ!」
私は叫びながらポケットからナイフを取り出して同僚の腹に突き刺した。乗客の悲鳴が上がる。
「うわっ、な、何を」
倒れた彼の上に馬乗りになって、私はその顔を胸を腹を刺し捲った。こんな関係なら、笑顔を見せずに済む筈だ。これなら笑顔を……。
第五十番 神の足
下界の人々の営みを知らず、彼は天上界に独り、いた。
彼は目覚め、大きな欠伸を一つした。
それだけで、下界では七百人が死んだ。
彼は腕が痒かったので、ボリボリと掻いてみた。
それだけで、下界では二千五百人が死んだ。
彼は機嫌良く、鼻歌などを歌ってみた。
それだけで、下界では五万人が死んだ。
彼は歩き出そうとして、床の出っ張りに足を引っかけて転んだ。
それだけで、下界では一千三百万人が死んだ。
彼は踊ってみたくなり、飛んだり跳ねたりして踊り捲った。
それだけで、下界では二十億人が死んだ。
彼は爆転を試みて失敗し、首の骨を折った。
それだけで、下界では人類が絶滅した。