第五十一番 デリカシー

 

 嘉川誠と相崎忍はお似合いのカップルだった。二人は心の底から愛し合っていたし、一緒にいると安心していられた。二人は極めて繊細な心の持ち主であり、それが互いを惹きつけた理由でもあった。

 今日は二人で映画を見に行く予定だった。待ち合わせの駅前で、誠は頻りに腕時計を覗いていた。既に約束の六時を三分ほど過ぎている。

 互いのことを思い遣る二人なので、どちらかが待ち合わせで遅れることなどなかった。何かあったのだろうか。流れゆく人込みの中に立ち尽くし、誠は嫌な予感を払い除けるように首を左右に振った。だが、不安は次第に大きくなるばかりだった。

「誠くーん」

 その時、背後から忍の声が届いた。誠は安堵に胸を撫で下ろしつつ振り向いた。遅刻について全く怒ってはいないということを示すために、柔らかな笑顔を作ってみせる。

「今日はどうしたんだい、忍」

「ご、ごめんなさい。場所を間違っちゃって。反対側で待ってたの。六時になっても誠君が来ないから、おかしいなと思って」

 忍は激しく息を切らせながら喋った。どうやら全力で走ってきたらしい。彼女の目には、恋人を待たせてしまったという自責と罪悪の念が浮かんでいた。誠にはそんな彼女が痛ましく、そして愛しかった。

 誠は忍を安心させようと、微笑みながらわざと冗談めかした口調で言った。

「馬鹿だなあ、忍は」

 それが逆効果だったことはすぐに判明した。

「え……」

 忍の表情が凍りついた。

 誠はこれまで彼女に、馬鹿などと言ったことはなかったのだ。誠は、彼女の慄く瞳を認め、忍を傷つけてしまったことを知った。

「い、いや、違うんだ。そういう意味じゃなくて……」

 弁解しようとする誠の声は震えていた。何故こんなひどいことを言ってしまったのか。最愛の恋人を傷つけてしまったという事実に、誠の繊細な心は傷ついた。

 まずいことに、それが顔に出てしまったらしかった。

 忍の目が後悔と絶望に見開かれた。誠の心遣いにいつまでも気づかぬ彼女ではない。誠の心を自分の愚鈍さが傷つけたことを知って、忍の心は更なる自責に傷ついたのだ。

 忍の心が更に傷ついてしまったことを知って、誠の心は更に傷ついた。何故、自分が傷ついたことを無様にも曝け出してしまったのか。だがその自責も、表情に出てしまったらしい。

 誠の心を更に傷つけてしまったことを知った忍の心が、更にひどく傷ついたようだった。

 忍の心を更にひどく傷つけてしまったことを知った誠の心は、ズタズタに傷ついた。

 誠の心をズタズタに傷つけてしまったことを知った忍の心が、それはもう滅茶苦茶に傷ついたようだった。

 忍の心をそれはもう滅茶苦茶に傷つけてしまったことを知った誠の心が、もうしっちゃかめっちゃかのグチョングチョンに傷ついた。

 誠の心をもうしっちゃかめっちゃかのグチョングチョンに傷つけてしまったことを知った忍の心は、もうメタメタのバラバラのボロボロに傷ついたようだった。

 そして忍の、恐怖と痛みと罪悪感を湛えた目から涙が零れ落ちた。彼女はいきなり道路に飛び出した。誠が静止する暇もなく、彼女は車に轢かれて死んだ。

 彼女を殺してしまったことを知った誠は、張り裂けそうな後悔に苛まれ泣き叫び、自らの舌を噛み切って息絶えた。

 あまりに繊細な、二人の恋は終わった。

 

 

  第五十二番 善の医者vs悪の医者

 

 一人の患者が横たわる手術台を挟んで、二人の医師が向かい合わせに立っていた。

 白い術衣に身を包み、眼鏡の奥で知的な双眸を光らせているのは、奇跡の医師と呼ばれた神崎善行であった。

 黒い術衣に身を包み、眉間を斜めに走る醜い傷痕を晒しているのは、悪魔の医師と呼ばれた地獄坂狂三郎であった。

 スキルスと呼ばれる予後の悪い胃癌の患者であった。既に腹壁を開き、充分な視野が確保出来ている。

 二人の医師は、共にメスを握っていた。睨み合う二人の視線が、対抗心に燃え上がっている。

 まず動き出したのは神崎であった。一人で血管を素早く結紮・切離し、大網、小網などを含めた一塊として胃を全摘した。そのメスさばきは神業と言えた。

 その時点で地獄坂が行動に出た。彼のメスは神崎が結紮していた左胃動脈の根元を切り裂いた。血が噴き出す。

 胃に置換するため小腸の一部を切り取ろうとしていた神埼は、素早く左胃動脈を再び結紮した。致命的になる前に出血は食い止められた。

 しかしその隙に、地獄坂が今度は腹大動脈を広く切り裂いた。溢れ出した大量の出血が術野を染めていく。

 神崎は左手で傷を押さえつつ、右手だけで針と糸を操り、血の海に浸る大動脈の傷を縫い合わせていった。人間業ではない。正に奇跡の医師だ。

 だが地獄坂も最後の手段に出た。メスは術野ではなく、患者の首筋を襲った。左右の頚動脈を切断し、更にメスを患者の閉じた右目に深く深く突き立てて滅茶苦茶に混ぜ捏ねた。

 手術室は飛び散った血で真っ赤に染まった。モニターされていた心拍の波が次第に弱くなり、そして平坦になった。

 神埼が悔しさにマスクの下の顔を歪め、地獄坂は冷酷に神崎を見据えていた。

 こうして今日の手術もまた、悪の医者の勝利で幕を下ろしたのだ。

 

 

  第五十三番 真夜中の電話

 

「たたた、大変なの!娘が娘が……」

 真夜中にけたたましく鳴り響く電話のベルで起こされ、何事かと不機嫌に取った受話器からは、そんな叫び声が聞こえてきた。

 聞き覚えのない、中年の女の声だった。かなり慌てているらしい。

「失礼ですが、どなた様ですか」

 俺は聞いてみた。

「だから大変なのよ!娘が大怪我をしちゃったの!」

「え、そうなんですか」

 俺は我ながら間の抜けた返事をした。

「凄い怪我なのよ!だからなんとかしてよ!」

 寝惚けた頭も少しずつしっかりしてきたが、電話の相手は俺に何を求めているのだろう。俺はただの会社員で、医者でも救急隊員でもない。

「あの、救急車は呼びましたか」

「血が、血が沢山出てるの!凄いのよ!どうにかして!早く!」

「いや、だから、どうにかしてと言われても、僕は医者じゃないですよ。間違い電話じゃないですか。あなたは誰です」

「早くなんとかしてよ!娘を助けてよ!お腹が破れてるの!内臓がはみ出してるのよ!」

 相手は俺の言葉などまるで聞いていないようだった。興奮して一方的に捲し立てている。

「ちょっと、まずは落ち着いて下さい。百十九番には電話しましたか。うちに電話するよりも、まずはそっちじゃないですか」

「早く助けて!このままだと死んじゃうわ!どうすればいいの!早くなんとかして!」

 何だこの女は。俺は腹が立ってきた。そりゃあ娘の内臓がはみ出しているのならこの慌てぶりも無理はないが、だからといって人の話も聞かず叫ぶだけでは、何の意味もないではないか。俺に電話をかけても役には立てないし眠いところに迷惑なだけだ。

「救急車を呼んで下さい。百十九番ですよ」

 俺はそう言って電話を切った。

 ベッドに戻ろうとした時、またすぐに電話のベルが鳴った。

 舌打ちして受話器を取った俺の耳に、やはり同じ女の声が響いた。

「どうして電話切るのよ!助けてって言ってるでしょう!」

 女は怒っていた。

「ですから僕じゃあ何の役にも立てませんって。早く医者に連れ……」

「早く助けてよ!娘がヒクヒク痙攣してるの!内臓が出てるのよ!」

 俺の言葉を遮って女は怒鳴った。俺は怒りが沸々と込み上げてきた。

 そして俺は言った。

「それは良かったですねえ」

「どうすればいいの!早くなんとかして!このままじゃ娘が死んじゃうわ」

 女の話す内容は変わらない。まるで俺の言うことを聞いていない。俺は女の叫びを聞き流しつつ、穏やかな口調で続けた。

「内臓が出てるんなら、引き摺り出してみたらどうですか。痙攣してるんですか。それなら手足を縛ってみたらいいですよ。ついでに眼球を抉り出してみましょうか。泣き叫びますか。なら口を塞ぎましょう。タオルか何かを詰めてみたらどうでしょう。内臓は全部出せましたか。腸も胃も肝臓も心臓も全部出してしまった方がいいですね。すっきりしますよ」

 調子に乗って喋っていると、相手がいつの間にか黙っていることに気づき、俺も気まずくなって黙った。

 やがて、中年の女は言った。

「分かったわ、やってみるわね。ありがとう」

 静かな、何処か、嬉しそうな声だった。

「あ、あの……」

 電話は向こうから切られた。

 気味の悪い電話だった。怒りに任せて、まずいことを言ってしまったと思った。あの女の娘はどうなるのだろう。ひどいことになっていなければいいが。

 いや、それとも、これはただの悪戯電話だったのだろうか。

 その時、玄関の呼び鈴が鳴った。

 この真夜中に、今度は何だ。

 俺はインターホンの応答ボタンを押した。

「もしもし」

「雄司、私よ」

 恋人の麻美の声だった。

「どうしたんだ、こんな時間に」

「あのね、雄司、今さっきね」

 麻美の声には生気が感じられなかった。どうしたんだ。三日前のデートでは元気そうだったのに。

「どうした」

「変な女の人が来て、私ね……」

「え」

 声はもう聞こえなくなった。俺は玄関まで走り、ドアを開けた。

 マンションの通路は、血の海だった。腸や胃や肝臓や心臓がコンクリートの床に散らばっていた。

 転がっている麻美の体は、両手足がロープで縛り上げられていた。

 彼女の美しかった顔は、両目がなくなって、赤い空洞を晒していた。彼女の悲鳴は、口に詰められたタオルに吸い込まれたことだろう。

 俺は、恋人の死体を前に、ただ、立ち尽くしていた。

 

 

  第五十四番 弁当屋にて

 

 真昼の弁当屋に、一人の男が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 まだ若い女性の店員が頭を下げると、サラリーマンらしい背広姿の男は言った。

「とんかつ弁当を」

「はい。すき焼き弁当一丁」

 店員は奥に向かって声を張り上げた。男は黙って隅に移動して、弁当の出来上がるのを待った。

 続いて、店に中年の女が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 店員が頭を下げた。

 買い物袋を提げた女は少しの間メニュー表を睨んでいたが、やがてからあげ弁当を指差した。

「これ一つお願い」

「はい。焼肉弁当一丁」

 店員は奥に向かって声を張り上げた。女は男と反対の隅に移動した。

 三番目の客は大学生風の若者だった。

「いらっしゃいませ」

 店員が頭を下げた。

 若者が注文を口にする前に、前の二人の客が両脇から言った。

「のり弁当」

「ステーキ弁当」

「はい。南蛮弁当一丁と高菜弁当一丁」

 店員は頷いて、奥に声をかけた。

「ちょっとお待ち下さいね」

 店員はカウンター横の小さなドアを開け、客達の間を抜けて外へ走り出ていった。

 三人の客は、無言でずっと、待っていた。

 いつまで待っても、弁当は出てこなかった。

 

 

  第五十五番 霊障

 

 自宅まで見舞いに訪れた僕と榊信一を、佐倉恵美子は弱々しい笑顔で迎えた。僕ら三人は高校のクラスメイトであり、気の合う数少ない友人だった。

 布団から上半身だけを起こした、彼女はやつれていた。彼女が登校しなくなってから一週間になるが、あの明るかった顔は青白く変わり、目の下にはうっすらと隈が出来ていた。

「一体どうしたんだい」

 僕には、彼女の変わり様が信じられなかった。横では榊が息を呑んでいた。

 彼女は小さく溜息をついて、また微笑を見せた。

「病気してる訳じゃないのよ。あのね、聞いてくれるかな」

 無理のある、今にも泣きそうな微笑だった。

「ああ、聞かせてくれよ。何があったんだ」

 僕が促すと、彼女はゆっくりと、記憶を噛み締めるように語った。

「あのね、十日くらい前だったんだけど、私、帰り道にお婆さんを見たの。白い着物を着てて、何も持たずに裸足でずっと立ってて、なんだか気味が悪かったわ。それでね、私が横を通り過ぎると、後からついてくるの。ピタピタと足音が聞こえてきて。振り返ってみたら、じっと私のこと睨んでるのよ。私、怖くなって、もう振り返らずに走って家まで帰ったのよ」

「……。それで」

「そのお婆さんが、夜中になったら、私の部屋までやってくるの」

 彼女の目に、涙が滲んでいた。

「部屋の隅に座ってて、何も言わないし、近づいてもこないけど、じーっと、恐い顔で、私を見てるの。私、金縛りになって動けなくて、助けも呼べないの。ここ、両親の部屋なんだけど、私が頼み込んで、一緒に寝せてもらってるの。でも、やっぱり夜になるとお婆さんが見えるの。両親は全く気づいてくれないのよ」

 僕は、何と言えばいいのか分からなかった。

「父さんは今、御祓いしてくれる人を探してるわ。私、幽霊に取り憑かれちゃったみたい。……もしかしたら、このまま私、死んでしまうのかも」

 彼女の目から、涙が零れ落ちた。

「そんなことはないよ。絶対にない」

 それまで黙っていた榊が強い口調で言った。

 僕はちょっと驚いた、日頃の榊は、大人しくて無口な男だったからだ。

「君の両親は、君を愛してるだろ。君も、両親を愛してるんじゃないかい」

 榊の言葉に、不思議そうな顔をしながらも、彼女は頷いた。

「それに君は、デザイナーになるのが夢なんだろ。得体の知れない幽霊なんかに、君の人生を邪魔する権利なんかないよ。君と家族が、そんな奴に負けて堪るかってんだ」

「……それもそうね」

 彼女は涙を拭いて、穏やかな笑みを見せた。その笑みは、さっきのものよりも力があった。

「勿論、僕達も応援してるよ。気を強く持てよ」

 榊は言った。幾分恥ずかしげに。僕もそれに相槌を打った。

「ありがとう。私も頑張るわ。そうよね。負けて堪るか、よね」

 彼女はガッツポーズを作ってみせた。

 その晩に彼女が死んだことを、僕達は翌朝になって知った。

 通夜の席で、彼女の両親は泣き崩れていた。無理もないことだ。

 悲しみに沈んだ場を無視して、榊は拳を握り締めて叫んでいた。

「僕は認めないぞ!畜生、なんでこんなことで死ななきゃならないんだよ!畜生、僕は絶対に、認めないからな!」

 こんな剣幕の榊を見るのは、初めてのことだった。榊の目に、涙が滲んでいた。彼は歯を食い縛って、泣き出すのを堪えているようだった。

 榊が、彼女を好きだったのだということに、僕はこの時になって漸く気づいた。

 

 

  第五十六番 黒い小人

 

 駅の前に立ち、柿原は時計を気にしていた。仕事上の相棒である田崎と待ち合わせているのだが、もう二十分以上遅れている。

 田崎のいい加減な性格は充分承知しているが、待っている身には堪らない。どうせまた、いつもの「悪い悪い、ガハハ」の馬鹿笑いで済ませてしまうのだろう。

「よおっ、待たせたな柿原」

 背後から近づいた田崎が、柿原の肩を叩いた。

「遅いぞ、田崎」

「悪い悪い、ガハハ」

 田崎は大きく口を開けて笑った。

「いやあ、乗ってたタクシーが途中で事故っちまってよ。ボンネットはペチャンコさ。俺はドアを蹴り破って逃げ出したら、そのすぐ後にタクシーが爆発してよ。ありゃあ運ちゃんは焼け死んじまったな。いやあ、ひどい目に遭ったぜ」

 とんでもないことを、田崎はさらりと言ってのけた。

「そ、そりゃ災難だったな」

「さて、まずは、そこのサ店で打ち合わせしようか」

 田崎はスタスタと先に歩いていく。その背を見て柿原はアッと声を上げた。

 コートの背に、黒い小人がしがみついていた。身長は二十数センチというところか。黒い襤褸を身に纏い、毛むくじゃらの手足はサルに似ていた。

 柿原の視線に気づいたらしく、小人がクルリと顔を向けた。

 百才の老人のような、皺だらけの顔だった。

 黒い小人は柿原を見て、邪悪な笑みを浮かべた。

「ん、どうした」

 田崎が怪訝な顔で振り返る。

「お、お前の背中に……」

 柿原は、言葉を続けられなかった。

「ああ、そういえば今朝から背中が重いんだよな。肩が痛いしよ。運動不足かな」

 田崎は平気な顔で喫茶店の扉をくぐっていった。

 柿原は気味が悪かったが、仕方なくついていく。店員も他の客も、田崎の背中にいる小人が見えていないらしく、顔を強張らせたり騒いだりすることもない。

 どういう訳か、黒い小人は、柿原だけに見えているらしい。取り立てて霊感が強い訳でもないのだが。

 もしかすると、タクシーの事故の原因は、この小人かも知れなかった。田崎は魔物に取り憑かれてしまったのだろう。

 一応、そのことを言っておいた方がいいか。柿原は遠慮がちに声をかけた。

「あのさ、お前の背中に黒いこ……」

「ああ疲れた疲れた」

 その時、田崎が椅子にどっかと腰を下ろした。背もたれに力一杯背を預けた。

 プキャリ、と、音がした。

「ん、どうかしたか、柿原」

 田崎が言った。その背もたれから、黒い液体が滴り落ちて床を濡らしていく。

「い、いや、何でもない」

 柿原は慌てて首を振った。

「ああ、なんだか肩が軽くなったぜ」

 田崎は気持ち良さそうに、大きく伸びをした。

 

 

  第五十七番 守りの手

 

「どうも私はこれまで、幾度となく不思議な力に守られてきたような気がします」

 淡々と、大島令太郎は俺に語ってくれた。

「中学の修学旅行に、私は高熱を出して行けませんでした。布団の中で悔しがっていたものです。ところが同級生を乗せたバスが、高速道路で事故を起こして大破したのです。七人のクラスメイトが死にました。バス内での彼らの席は、私が座る予定だった席の周辺でした。また、道を歩いていて突然靴紐が解け、立ち止まって結んでいるその先に工事現場の鉄骨が落ちてきたことがあります。もし靴紐が解けなければ、私は確実に死んでいたでしょう。空港に向かうタクシーがエンストを起こして、飛行機に乗り遅れたこともありますが、その時は私の乗る筈だった旅客機が墜落して、二百人以上が死にました。他にも、不思議な偶然によって命を救われたことは数えきれません」

 一呼吸置いて、大島はにこりと俺に微笑んだ。

「私には、何かやるべきことがあるのかも知れません。この先、何か社会の役に立つようなことをするようになっているんじゃないかと。だから不思議な力に守られているんじゃないでしょうか」

「そうですか」

 俺は言った。そして懐から斧を出して横殴りに振った。

 大島の首が飛んだ。

 

 

  第五十八番 しない

 

 一人の男と一人の女が向かい合って立っていなかった。

 男は二十代後半に見えなかった。その鍛え上げられた肉体は鋼のようではなかった。

 女は二十才前後に見えなかった。美しい黒髪が風になびいていなかった。

 男は野性味溢れる微笑を浮かべなかった。

 女は優しく儚げな笑みを返さなかった。

 男は女に愛してると言わなかった。

 女は私もよと言わなかった。

 男は突然腹を抱えて笑い出さなかった。

 女はちょっとムッとしたような顔をしなかった。

 男は女にやーい馬鹿と言わなかった。

 女は何ですってと言わなかった。

 男は今度は怒り出さなかった。

 女は柳眉を逆立てなかった。

 男は女を拳で殴りつけなかった。

 女は男の顔にびんたを食らわさなかった。

 男は女の髪を掴んで引っ張り回さなかった。

 女は男の目に指を突っ込まなかった。

 男は女の腕を折らなかった。

 女は男の首筋に噛みつかなかった。

 男は女の首の骨を折らなかった。

 女は男の腹をナイフで刺さなかった。

 男は女にキャメルクラッチをかけなかった。

 女は男の内臓を引き摺り出さなかった。

 男と女は、何もしなかった。

 結局のところ、何が何だか分からなかった。

 ただ、荒涼とした風だけが、二人の間を吹き抜けていかなかった。

 

 

  第五十九番 目隠しマラソン

 

 ある時、偶然に目隠しが外れ、一人の男が気づいた。

 男は突然開けた眩い視界に戸惑いながら、周囲を見回した。

 そこは広大な荒野だった。見渡す限り、平坦な地平線が続いていた。

 荒野には、様々なものが散らばっていた。

 美味そうな果実や柔らかそうなベッドや暖かそうな衣服やその他にも無数の素晴らしいものがあった。

 だがそれと同時に、トラバサミや落とし穴や棘のついた板やその他にも無数の恐ろしいものがあった。

 どちらかというと、素晴らしいものよりも、恐ろしいものの数の方が多いように、男には思われた。

 荒野には、これまた数多くの人々が歩いていた。

 男が驚いたことには、彼らのほぼ全員が、目隠しをしていた。

 彼らは手探りで慎重に、或いは無謀にも全力疾走で、荒野を彷徨っていた。

 幾人かは、素晴らしいものにぶつかり、嬉しそうな声を上げていた。

 同時に幾人かは、恐ろしいものにぶつかり、苦痛と恐怖の悲鳴を上げていた。中には死んで、荒野から消えていく者もあった。

 素晴らしいものを得た者達も、そこに留まることはなく、すぐにまた目隠しのまま荒野を彷徨い始めていた。

 恐ろしいものに出会った者達も、その傷ついた体を引き摺って、荒野を当てもなく進んでいた。

 稀に、目隠しをしていない者達もいた。彼らは恐ろしいものをうまく避け、素晴らしいものを集めて悦に入っていた。彼らは、他の者達の目隠しを外してやろうとはせず、恐ろしいものに引っ掛かった者達を笑いながら見ていた。

 出口は何処にあるのか。男は周囲をもう一度見渡した。

 しかし、出口らしきものは、何処にも存在しなかった。最終的には、恐ろしいものに引っ掛かって命を落とすのが、彼らの道程らしかった。

 男の前を、一人の女が通り過ぎていった。

 女は目隠しをしたまま、大きな落とし穴に向かっていた。

 男は女に危険を知らせようとした。

 しかし、背中を何者かに押され、男は倒れた。

 やはり目隠しをした別の男が、男にぶつかったのだ。

 男の倒れた先には、棘のついた板が待っていた。

 男は胸を棘に貫かれ、この無意味なゲームを終えた。

 

 

  第六十番 気紛れ魔人

 

 その男は、公園のベンチに一人、ぼんやりと佇んでいた。薄っぺらのコートは泥で汚れ、一ヶ月も洗っていないような蓬髪で顔は隠れていた。

 男は、ずっと、ベンチに座っていた。

 そのうちに、一人の女の子が男に近寄ってきた。年齢は五、六才だろう。

「ねえ、おじさん」

 女の子は物怖じすることもなく、男に声をかけた。

「何だい」

 男は尋ねた。穏やかな、しかし無感動な声だった。

「私の風船が、あの木に引っ掛かっちゃったの。おじさん、取ってくれないかなあ」

 女の子は近くの木を指差した。赤い風船が、枝に紐を絡めて揺れている。

「そうか。じゃあ、私とジャンケンをしよう。君が勝ったら、風船を取ってあげるよ」

「いいわよ」

 女の子はクスリと笑った。

「ジャンケン、ポン」

 男と女の子は調子を合わせ、右手を出し合った。

 女の子の右手はグーを、男の手はパーを出していた。

「君の負けだな」

 男はそう言うといきなり懐から鎌を出して女の子の首を刎ねた。

 鎌を収めると、男は再びぼんやりと宙を眺める行為に没頭した。血溜まりの中に、二つに分かれた死体が転がっていたが、男は全く関心がないようだった。

「瑶子ー。何処なの。帰るわよー」

 やがて、買い物かごを提げた若い女がやってきた。

 女は、男の足元に転がる女の子の死体を見つけて悲鳴を上げた。

「よ、瑶子!一体、だ、誰がこんなひどいことを……」

 死体を抱き上げて泣き伏す女に、男が言った。

「私だが」

 女は驚いて顔を上げ、それはすぐに憎悪の表情へ変わった。

「この人殺し!娘を返してよ!瑶子を生き返らせてよ!」

「なら、私とジャンケンをしよう。君が勝ったら、この子を生き返らせてあげよう」

 女は絶句した。

「ジャンケン、ポン」

 女はグーを出した。男はチョキだった。

「君の勝ちだな」

 男は言うと、死体の首を繋ぎ合わせた。瞬時に傷が消え、女の子は生き返った。

「あ、ありがとうございます」

 女は娘を連れて、そそくさと去っていった。木の枝にはまだ風船が引っ掛かっていた。

 男は、ぼんやりと宙を見据えていた。

 チンピラらしい若者達が、楽しげに喋りながら男の前に通りかかった。

「おいおっさん、どきなよ。そこには俺達が座るんだぜ」

 チンピラの一人が言った。

「じゃあジャンケンをしよう。君が勝ったら、ベンチからどいてあげるよ」

 男は答えた。チンピラ達は笑った。

「ジャンケン、ポン」

 チンピラの一人が出したのはチョキだった。男はグーだった。

「君らの負けだな」

 男は懐から鎌を出してチンピラ達の首を刎ねた。

 また、公園に静寂が戻った。

 男は、何事もなかったように佇んでいた。

 少しして、叢の中から、ジーパン姿の若者が出てきた。

「ずっと見ていたよ」

 男の前に立ち、若者は言った。

 その顔は、ある種の期待と熱望に輝いていた。

「ジャンケンに負ければ、首が飛ぶんだな。でも勝てば、願いを叶えてくれるのかい」

 若者は尋ねた。

「まあ、そんなところだ」

「じゃあ、僕に世界征服をさせてくれないか。ジャンケンをするからさ」

 若者は言った。その瞳には、狂気の光が渦を巻いていた。

「いいだろう」

 男は答えた。

「ジャンケン、ポン」

 若者は、チョキを出した。

 男が出したのは、パーだった。

 若者は、世界の王になった。

 

 

戻る