第六十一番 拍手

 

 大切な商談に遅刻しそうで、沢田昇は運転しながら悪態をついた。

 昨日は嫌味な上司にいびられ残業し、疲れて帰ったところで、単調な生活に飽きたと妻の愚痴を聞かされた。一才二ヶ月の息子は理由もなく泣き喚いて沢田を苛つかせ、やっとベッドに入ればマンションの上階から若者達の馬鹿騒ぎが聞こえてくる。それでもなんとか眠りに就くと、目覚まし時計の電池が切れていて起きたら八時近かった。言い訳する妻を放って、沢田は大急ぎでスーツに着替えて出発した。そして渋滞に巻き込まれ、脱出したのは約束の時間の二十分前だった。間に合うかどうかぎりぎりのところだ。

「どうしてこんなことになるんだ」

 沢田は眉間に皺を寄せ、同じ言葉を繰り返した。彼は法定速度五十キロの通りを時速七十キロで走っている。

「なんで俺だけ、こんなことばかり……」

 いきなり、左の歩道から男が飛び出してきた。しかも後ろを向いて、友人らしき男に手を振っていた。

 ブレーキをかける暇もなかった。沢田はそのまま正面から男を轢いてしまっていた。ドコンという重い衝撃があり、男の姿が消えた。すぐに車が何かに乗り上げて大きく揺れ、そして通り過ぎた。

 沢田はその後でやっとブレーキをかけ、停止した。心臓が早鐘のように鳴っていた。

 バックミラーから、背後の車道に転がる男の姿が見えた。足が妙な方向に曲がり、口から血を吐いてもがいていた。歩道では友人が目を見開いている。大勢の通行人が立ち止まった。

「なんてこった……」

 沢田はハンドルに顔を埋め、息を吐いた。

 これで何もかも終わりだ。契約は駄目になる。上司には何と言われることか。いやそれどころか沢田は首になるだろう。もしかすると懲役さえ食らうかも知れない。妻は離婚を主張するだろう。沢田の人生はもう終わりだ。

「なんで俺だけ、こんな目に遭わなきゃならないんだ」

 沢田は顔を上げた。

 その目は、憎悪に煮えたぎっていた。

 何もかも、不注意に道路を飛び出したあの男のせいなのだ。あの男が、沢田の人生を台無しにしたのだ。

 男はまだ、同じ場所でもがいている。

 沢田はギアをバックに入れ、アクセルを強く踏んだ。

 再びガコンという衝撃がやってきた。見ていた人々がざわめいた。

 通り過ぎて停止した沢田の車の前方に、潰れた蛙のようにアスファルトにへばりつく男が見えた。男の手足は弱々しく痙攣していた。

 やった。やってやった。これでもう事故では済まされない。

 ざまあみろ。

 沢田の全身を、決定的な破滅の感覚が突き抜けていった。

 その時沢田は、異様な音を耳にした。

 周囲から押し寄せるそれは、通りに居合わせた百人近い通行人の拍手であった。

 呆然と見回す沢田に、人々は笑顔で惜しみない拍手を送っていた。歓声を上げ、手を振る人もいた。

「いいぞー」

「よくぞやってくれた」

 そうか。

 轢いて良かったのだ。

 人々の声に、沢田は勇気づけられた。

 勇気づけられたので、再び車を発進させた。ベチボキ、と音がして、瀕死の男を轢いていく。

「キャーッ、ステキーッ」

 高校生らしい娘が叫んだ。拍手が更に大きくなった。

 気を良くした沢田はまたバックした。ブチベチャ、と音がして、男は血みどろの肉塊に変わりつつあった。割れんばかりの拍手が沸き起こる。感涙にむせぶ者もいる。沢田がまた轢く。また拍手。皆が沢田を応援する。男の友人も声援を送ってくれる。沢田は皆の期待に応えるために何度も往復し、轢いて轢いて轢き捲った。男の死体は平面に近づき道路にベッタリとへばりつく。大歓声の中、沢田はアクセルを踏みながら皆に手を振り返した。

 沢田は死刑になった。

 

 

  第六十二番 街頭募金

 

 男が街を歩いていると、街頭募金をやっていた。

 中学の制服を着たあどけない男女が、恵まれない子供達のためにと必死に呼びかけている。人々は足早に前を通り過ぎるだけで、募金しようとする者は殆どいなかった。

 男は立ち止まり、遠くからそれを眺めていたが、やがて踵を返して人通りの少ない道へと入った。

 背広を着た中年のサラリーマンを見かけ、周囲に誰もいないことを確認すると、男は懐から大型のハンティングナイフを出して背後から襲いかかった。

「うわぐえっ」

 サラリーマンの悲鳴は小さかった。男は恐るべき手際の良さで背中から心臓を抉り、相手の喉を掻き切っていた。

 男は死体のポケットから財布を取り出した。四万三千円入っていた。

 男はそれを持って大通りへ戻った。

 まだ、少年少女は街頭募金を続けていた。

 男は、肩から募金箱を下げた少女の前に立った。

 男の出した紙幣を見て、その場にいた少女達は目を丸くした。

 男は、四万三千円を全て、募金箱へ押し込んだ。

「ありがとうございましたー」

 驚きと喜びで一杯の笑顔を見せ、少女達は頭を下げた。男は黙って歩き去った。背後から、彼女達が無邪気にはしゃぐ声が聞こえた。

 男の口元に、皮肉な笑みが浮かんでいた。

 

 

  第六十三番 ミンチ世界

 

 人口が増え過ぎた。

 遺伝子治療が禁止された。

 

「良く来たな。俺は津島だ。今日から君の上司になる」

 コントロールパネルの前に立つ津島は、飄々とした雰囲気の男だった。年齢は三十代後半だろう。灰色の作業着が板についていた。

「岸田保明です。宜しくお願いします」

 岸田は頭を下げた。端正な顔をしているが、彼は表情にも口調にも感情を出さない。

「ストレートで東大を出て公務員になって、すぐこちらに配属されたということだね」

「ええ。三年前からは留年生も『処理』の対象になりましたから」

「そうだったか」

 津島は唇の片端を軽く吊り上げて笑った。

「これまでこの『処理場』を見たことはあるかい」

「いえ。最近では中学生など社会見学に入ってるみたいですけど、僕は今日が初めてです」

「そうか。まあ、見てみなよ。ここから全体が見渡せる」

 津島が手を差し延べ、前にある『処理場』を示してみせた。

 岸田は目を向けた。

 二人の足元から先の床は、なだらかに落ち込み、何処までも傾斜していた。

 鋼鉄製の、巨大な漏斗の縁に、二人は立っていたのだ。

「直径は九十六メートルある。深さは三十メートルだ」

 津島が言った。低い唸りが床から伝わってくる。床に填った巨大な漏斗は、ゆっくりと動いていた。いやそれは蟻地獄と呼んだ方が良いだろうか。

「一日の最大『処理』量は、まあ八千人ってとこだ。この頃は休みなしで稼動してるな」

 漏斗の内壁は、整列した無数の金属板で構成されていた。それは渦を描くように規則正しく動いて、漏斗に注ぎ込まれた材料を底へと運んでいく。

 材料とは、全裸の人間であった。数十人、いや、二百人近くはいるだろうか。死体ではないらしく、遅鈍に手足をもがかせたり、低い呻きを洩らしている者もいる。ただし、大部分は虚ろな目で宙を睨んだまま、身じろぎすらしなかった。

 流れに沿って巨大な漏斗を回りながら、人々は、少しずつ底へ向かって下りていく。渦の底には径二メートル弱の、暗い穴が開いていた。

 岸田の見ているうちに、底まで到達した人間が一人、穴の中へ落ちていき、見えなくなった。

 ゴリゴリ、とも、ジャギジャギ、ともつかぬ音が、続いていた。

「『処理場』製の挽肉は、勿論食べたことあるよな。豚や牛より安価だから、学校の給食や安食堂なんかじゃ大人気さ」

 岸田は左へ目を向けた。向こうでは、細かくなった肉がベルトコンベアーで流れている。その後は機械で自動的にパッケージングされる。

 漏斗の右手の縁に、大型のトラックが尻をつけて停まっていた。荷台が傾けられ、積まれていた全裸の男女が漏斗へ転がり落ちていく。

「色んな奴らが運ばれてくる。最初のうちは重い遺伝病患者が多かった。それと彼らの子供達だ。治療にコストがかかるような遺伝子を、広めてもらっては困るからな。それから段々病気の範囲が広がってきた。癌になりやすい家系、心臓病になりやすい家系、脳卒中になりやすい家系。更に進んで精神病者や犯罪者、反抗的な者、怠惰な者、社会にとって少しでもコストがかかりそうな者は、遺伝子的に根絶やしにするために、家族親戚纏めてポイだ。前の同僚は、仮病使って仕事休んだら翌日には妻子と一緒に中に入ってたよ。はは」

 津島は気怠く笑った。

 ガギギ、と、妙な音がした。金属板が軋む。津島はすぐにボタンを押して漏斗の回転を止めた。

「あそこだよ、見ろ。引っ掛かってる」

 津島が指差した先を、岸田も見た。壁の半ばほどで、若い女の右腕が金属板の隙間に挟まってしまっていた。当の女は相変わらず無表情だ。

 津島はパネルを操作して、大型のロボットアームを伸ばした。女の胴体を挟み込み、摘み上げる。

 ブチブチ、と、音がして、女の右腕がちぎれた。アームは女の胴体を投げ捨て、引っ掛かっていた腕を金属板の向こうへ落とし込んだ。

「俺達の仕事はこれさ。機械がスムーズに動くように監視していないといけない。二、三十分に一度はこんなことが起こる。全く、こんな欠陥品を設計した奴は『処理』されるべきだな。もう既に入ってるかも知れんが」

 津島はまた笑いかけて、ふと顔をしかめて左頬を押さえた。

「どうしました」

 岸田が尋ねた。

「いや、昨日から虫歯が痛んでね。早いとこ歯医者に行かないと」

「じゃああなたも『処理』すべきですね」

 岸田がいきなり津島の喉を殴りつけた。津島が背中を丸めてむせる。それを抱え上げ、岸田は漏斗の中へ落とした。津島は一気に底へと転がっていく。

 岸田はパネルのボタンを押して、漏斗の回転を再開させた。

 廃棄された人々が、ゆっくりと漏斗の底へ呑み込まれていく様を、岸田は、無表情に眺めていた。

 

 

  第六十四番 遺書

 

最愛の妻 静枝へ

 

 先立つ不幸を許して欲しい。私はもう、こんな生活に疲れてしまった。三十年もの間、こんな私についてきてくれたお前には、幾ら感謝してもし尽くせない。だが私には、そんなお前にもずっと隠し通してきたことがあるのだ。

 

 問い:私が三十年間お前に隠していたこととは以下の内どれか。一つ選べ。(制限時間は3分)

  1.実は私は他にも十二人の女性と重婚しており合計三十四人の隠し子がいた。

  2.実は私は世界有数の資産家で、会社に行くふりをしていたが全く働いておらず、同僚と食べて帰ると言った日は高級な料亭やレストランで独りたらふく食べていた。長期出張と言っていたのは外国旅行だった。

  3.実はこの屋敷は墓場の上に建っている。

  4.実は天井裏に、昔殺した上司のミイラを隠している。

  5.実はお前が寝ている間にこっそり起き出して、庭で爆転の練習をやっていた。

  6.実は私は双子で、交代でお前の夫を演じていた。

  7.実は年齢を五十才サバ読んでいた。

  8.実は三十年前、お前の家族を皆殺しにしてお前を攫い、記憶操作と洗脳を加えて妻にした。

  9.実は私は性転換した女だったのよ。

  10.というか私は神です。

 

 解答はまたの機会に。

 許してくれ、静枝。

 

 

  第六十五番 肉塊

 

「拓ちゃん、早く食べないと遅刻するわよ」

 肉の塊が言った。拓也は味気ない朝食を喉に流し込んだ。

「行ってらっしゃい」

 肉の塊に見送られ、拓也は学生鞄を持って出発した。

 道は、多数の肉の塊が行き交っていた。人間は拓也だけだ。肉の塊が蠢くホームに立ち、列車に乗り込んだ。

 車両内は肉の塊で埋まっていた。拓也は無表情に吊り革を掴んでいた。

 駅を出て学校へ向かうと、肉の塊が拓也に声をかけた。

「おはよう」

「おはよう」

 拓也は肉の塊に挨拶を返した。

 教室も肉の塊で一杯だった。肉の塊が机について、テキストとノートを広げている。

「では……石原拓也君、この問題をやってみろ」

 教壇に立つ肉の塊が言った。

 今日の授業が終わり、拓也は学校を出た。肉の塊が拓也を遊びに誘ったが、拓也は断った。

 無数の肉の塊が動き回る中を、拓也は無表情に歩いた。

 と、向こうから、一人の少女が歩いてきた。年は拓也と同じくらいだろう。白いワンピースを着た、可憐な少女だ。

 拓也が初めて見る、肉の塊以外の存在だった。

 少女と擦れ違う時、拓也は思いきって声をかけてみた。

「あ、あの……」

「肉の塊が喋ってんじゃないよ」

 少女は頬を歪めて嘲笑し、唾を吐き捨てた。

 呆然と立ち竦む拓也を置いて、少女は去っていった。

 

 

  第六十六番 いらっしゃいませ

 

 男が標的に決めたのは、大きくはないが落ち着いた印象の屋敷だった。

 男は出刃包丁を握り締め、覚悟を決めて窓から屋敷内へ踏み込んだ。廊下を進むと、部屋から中年の女性が顔を出した。

 男は緊張と興奮に張り裂けそうになりながら、震え声で言った。強盗は初めてなのだ。

「か、金を出せっ」

「まあ、ようこそいらっしゃいました」

 女は怯えるどころか穏やかに微笑んで頭を下げた。唖然とする男の前で、女は続けた。

「お金がご入り用なのですね。分かりましたわ。でもまずは靴をお脱ぎになって」

「あ、すみません」

 男は慌てて靴を脱いだ。

「丁度良いところでしたわね。今から夕食なんです。どうですか、ご一緒に」

「は、はあ、頂きます」

 男は大人しくついていった。居間には主らしい中年の男と、大学生くらいの息子がいた。皆優しそうな顔立ちで、別段驚きもせずに男を歓迎してくれた。主人にビールを勧められ、鍋をつつきながら男はついつい身の上話をしてしまった。両親が借金を抱えて自殺し、自分は会社をリストラされて返済の当てもないことなど。三人は親身になって聞いてくれ、男の話に深く頷いた。

「これを持っていきなさい」

 鍋が終わると、主人が紙の包みをくれた。中には二百万円入っていた。妻は夜食にとおにぎりを包んでくれた。

 男が礼を言って屋敷を出ると、三人は手を振ってそれを見送った。

 渡る世間に鬼はないと言うが、本当のことだったのだ。人の温かさが身に染みて、男は涙を流した。

 続いて男は別の屋敷を選んだ。窓から入ると家人がいた。

「すみませんが、お金を頂けますか」

 男はにこやかに頼んでみた。

「キャーッ、強盗っ」

 女が顔を引き攣らせて叫んだ。男は慌てて女を刺した。居合わせた家族がまた悲鳴を上げたので、男は皆殺しにした。

 

 

  第六十七番 ファミリーレストランにて

 

 真昼のファミリーレストランには、多くの客がいた。

 奥のテーブルに、茶色のスーツの男と青いスーツの男が、向かい合わせに座っていた。

 二人とも四十代で、物静かな印象の紳士だった。彼らはコーヒーを飲みながら、仕事の話を続けていた。

 入り口の自動ドアが開き、子供連れの客が入ってきた。母親が手を引いているのは三才くらいの男の子で、何が不満なのか大声で泣いていた。

 母子は窓際のテーブルについた。母親が注文している間、男の子はまだ泣いていた。他の客達がそちらを見た。

 男の子は大声で延々と泣き喚いた。母親は不機嫌な顔をしていたが、息子を注意しなかった。客達も黙っている。

 青いスーツの男が、ちらりと窓際の母子を振り返り、穏やかな口調で言った。

「ちょっとすみません。静かにさせてきて宜しいですか」

「どうぞ」

 茶色のスーツの男は答えた。

 青いスーツの男が席を立ち、窓際のテーブルへと歩いていった。

 茶色のスーツの男はそちらを見もせずに、コーヒーを口に運んだ。

 やがて、窓際のテーブルから、男の子の凄まじい悲鳴が聞こえ、すぐにやんだ。逆に母親の泣き叫ぶ声が始まり、それもすぐにやんだ。店内が少しざわついた。

 青いスーツの男が戻ってきた。その手は血で塗れていた。

「失礼しました」

 ハンカチで血を拭きながら青いスーツの男が言った。

「いえ、お気になさらずに」

 茶色のスーツの男が答えた。

 二人の男は仕事の話を再開した。

 十分ほどして、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。何台もあるようで、こちらに近づいている。

 喧しいサイレンの音は、店のすぐ外から聞こえていた。

 青いスーツの男が、穏やかな口調で言った。

「ちょっとすみません。静かにさせてきて宜しいですか」

「どうぞ」

 茶色のスーツの男が答えた。

 青いスーツの男が席を立ち、自動ドアを抜けて外へ出ていった。

 やがて、外から立て続けの銃声が聞こえてきた。そして、静かになった。

 青いスーツの男は、戻ってこなかった。

 茶色のスーツの男は、ウェイトレスにコーヒーのお代わりを注文した。

 

 

  第六十八番 翳りを慕いて

 

 宏美。

 三年前、大声で談笑する人々の中で、お前だけはひっそりと、控え目に佇んでいた。

 繊細な美貌を俯かせ、お前は他人と目を合わせることを恐れているように見えた。

 病弱で、肉の薄いお前の体は、強く抱き締めれば折れてしまいそうだった。

 私がどんな冗談を言っても、お前が声に出して笑うことはなかった。優しい微笑、そして、蜻蛉のように弱く儚げな微笑。

 お前の澄んだ瞳には、隠そうとしても隠せない、暗い翳りが潜んでいた。過去にどんな辛いことがあったのだろう。お前はそれを話そうとしなかった。

 今にも消えてしまいそうに儚く、暗い翳りを抱えたお前を、私は愛した。お前を幸せにしてやりたかった。私がどれだけ努力しても、お前の翳りを拭い去ることは出来なかっただろうけれど。その、癒しようのない儚さと翳りに、私は惹かれたのだ。

 だが、宏美。

 今、目の前にいるお前には、儚さも翳りもない。

 お前は笑ってみせる。何の曇りもない、快活な笑顔と笑い声。

 愛されている自覚と希望に満ち溢れ、輝いているお前の瞳。丸みを帯びてきた健康的な肢体。

 違う。

 私はそんなものを見たかったのではない。

 私は、お前の悲しげで儚げな表情と、暗い翳りを見ていたかったのだ。

 私がお前を愛し過ぎ、可愛がり過ぎてしまったのだろう。私は後悔している。

 お前は、私が求めていたものとは別のものに変貌してしまった。

 豚め。

「別れよう」

 私は冷たく告げた。

 お前の顔は凍りついた。捨てないでとすがりつくお前を蹴り剥がし、私は去った。

 そして、二ヶ月が過ぎた。私は双眼鏡で、ずっとお前を観察していた。

 当てもなく街を歩くお前の顔に、あの頃の儚さが戻っていた。

 お前の瞳に、あの頃の暗い翳りが戻っていた。

 これだ。

 これでまた、愛せる。

 私は双眼鏡を捨て、歩き出した。お前に声をかけるために。

 宏美。

 

 

  第六十九番 朝の駅

 

 白滝祐一はテキストを詰めた鞄を膝の上に置き、ホームの椅子に座っていた。

 彼の住む町から大学までは列車で二十分ほどかかる。小さな無人駅で、改札口もなく自由に出入り出来た。登校や出勤の時間帯なのにホームで待つ客は少なかった。

 冬が近づいている。向こうに見える景色に、薄い靄がかかっていた。吐く息も白い。

 向かいのホームに、優雅な足取りで一匹の猫が現れた。首輪をつけた、茶色の斑のある猫だ。

 その後に、中年の女が歩いてきた。女は猫の飼い主なのだろう。女は静かに猫を見守っている。

 白滝は無表情に、それを眺めていた。

 やがて、右手から列車が近づいてきた。白滝はそちらを見る。四両構成の古い車両で、錆びついた軋みを立てて停止する。

 待っていた数人の客と一緒に、白滝は先頭の列車に乗り込んだ。中の乗客もまだ少ない。

 白滝は長椅子に座り、窓越しに向かいのホームを見た。

 中年の女が困ったような顔で、何か言いながら周囲を見回していた。猫の姿が見えない。女も見失ったのかも知れない。

 扉が閉まり、列車がゆっくりと進み出した。

 ゴゾリ、と、軽い衝撃が白滝の尻に伝わってきた。列車が何かを轢いたらしかった。

 中年の女はまだ周囲を探していた。猫の名を呼んでいるようだ。

 列車は加速を続けていた。女の姿は右へ流れ、見えなくなった。

 白滝は、目を閉じた。

 

 

  第七十番 不毛

 

 歩道に老人が倒れていた。

 薄汚れた古い作務衣を着て、アスファルトの地面に俯せになって顔は見えない。長い白髪は垢で固まっている。右腕を前方に差し延べ、脱げた草履が転がっていた。

 その歩道を、出勤途中のサラリーマンや登校中の学生達が絶え間なく通っている。だが誰も、倒れた老人を気にかけることなく横を過ぎていく。たまに小学生などが目を留めるが、すぐに友達の後を追って走り去る。

 私は会社に向かう足を休め、老人の前で立ち止まった。

 老人の背中は微かに上下しており、取り敢えず生きてはいるようだ。

 どうしたものだろうか。病気か何かで苦しんでいるのだろうか。それとも、浮浪者が酔っ払って路上で寝てしまっただけなのだろうか。

 老人に声をかけてみるのも、なんだか面倒臭かった。仕事に遅れるのも、厄介ごとに巻き込まれるのも嫌だった。でも救急車を呼ぶくらいはやっておくべきだろうか。

 誰かが手伝ってくれれば良いが。私は周囲を見回した。

 だが、通行人達は無言で脇を通り抜けていくだけで、こちらを見向きもしなかった。老人に気づいている筈なのに。

 私はムラムラと腹が立ってきた。そりゃあ確かに自分の用事も大事だろうが、倒れた老人を放置して恥ずかしくないのか。日本人の心はここまで冷えきってしまったのか。

 せめて私だけでも、そんな風潮と戦ってみたかった。

「大丈夫ですか」

 私は声をかけて屈み込み、老人の肩に触れてみた。

 ヒュパン。

 老人がいきなり上半身を起こすと同時に、その左腕を振った。

「ゴポッ」

 私の喉から、そんな音が洩れた。

 私は手を上げて、自分の喉に触れてみた。ヌルヌルした温かいものが、私の喉から溢れていた。

 痛い。

 老人は左手に、ナイフを握っていた。ナイフには、血が付いていた。

 体の力が抜けていく。私はそのまま地面に崩れ落ちた。老人は無表情に、私の顔を見ていた。

 視界が暗くなっていく。多くの通行人が、私達の傍らを過ぎていく。

 誰も、こちらを見向きもしなかった。

 

 

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