第七十一番 冷たい部屋

 

 何もない、部屋だった。

 コンクリートが剥き出しの壁と床。電灯もなく、小さな窓からうっすらと光が差し込んでいる。ただし、窓の外は何も見通せない闇だった。

 冷たい床に、裸の若い男女が横たわり、身を寄せ合っていた。

 女は、男の目を見つめていた。

 男は、女の目を見つめていた。

 二人は、冷たい部屋で、ずっとそうやっていた。

「寒いね」

 ふと、女が呟いた。

「そうだね」

 男は軽く頷いた。

 また、暫く、沈黙が続いた。二人は互いの目を見つめ続けている。

 ここに時の流れは存在しない。ただ、冷たい部屋と、二人がいるだけだ。

 やがて、女が口を開いた。

「ねえ」

「何だい」

 男が応じる。

「私のこと、愛してる」

 女が問うた。

「うん。愛してるよ」

 男は答えた。

 二人の表情は変わらない。ただ、互いの目を見つめている。

 また、静寂。

 それを破ったのもまた、女だった。

「お腹すいたね」

「そうだね」

 男も頷いた。

「何か食べたいね」

 男から目を逸らさずに、女が言った。

 男は、黙って、自分の左手を見た。

 男は、右手で、自分の左手首を掴み、力を込めた。

 ゴキゴキ、と、骨の砕ける音がした。

 ブチブチ、と、靱帯や肉が切れる音がして、男は、自分の左手首を引きちぎった。

「食べるといい」

 男は、女に、自分の左手首を差し出した。

「ありがとう」

 女は言って、男の左手首を食べ始めた。手の甲の皮膚を噛み切り、骨と骨を分けて間の肉を食べる。骨や腱や靱帯が多く、肉は薄かった。

 男は、女が無心に食べる様子を、黙って見つめていた。

 ふと、女が、男の目に視線を戻した。

「食べる」

 食べかけの男の左手首を、女は男に差し出した。

「いらないよ」

 男は微笑して、静かに首を振った。

 冷たい、部屋だった。

 窓の外には、何処までも闇が広がっていた。

 

 

  第七十二番 赤いスナップ

 

 公園は緑に満ちていた。サッカーボールを蹴って遊ぶ子供達やベンチに佇むカップルを見ていると、自分も若返ったような気分になる。近所にこんなところがあったのか。三十年以上も住んでいたのに気づかなかった。

 余裕のない人生を生きてきたのだと、改めて思う。

「この辺で撮ってみようか」

 安原文雄は妻の広恵を噴水の前に立たせ、新品のコンパクトカメラを構えてみた。無趣味の安原のために、息子が定年祝いにと買ってくれたカメラだった。

 ファインダーの中の広恵は少し緊張しているようで、微妙にぎこちない笑みを見せている。安原から何かに誘うことは滅多になかったから。旅行にせよ、散歩にせよ。

 私といて、つまらない人生だったかい。ふと安原は、妻にそう尋ねてみたくなった。

 だがそれを口にする代わりに、安原は「はい、チーズ」と言ってシャッターを押した。

 気をつけていたつもりだが、手ぶれしていないだろうか。まだカメラの扱いには慣れていない。

「今度は私があなたを撮りましょうか」

 広恵が言った。

「いや、それより、二人で並んで撮ってみよう。タイマー機能がついているから」

 安原はポケットからマニュアルを出し、もう一度タイマーの操作を確認した。丁度、安原の後ろのベンチが空いている。そこにカメラを置いてファインダーで確認して角度を調節し、タイマーを設定する。

「十秒後だ。行くよ」

 シャッターを押してから急いで駆け寄る安原を見て、広恵が微笑んだ。今度はさっきより自然な笑みだった。

 後五秒くらいだろうか。妻の横に並んだ安原がカメラへ向き直ると同時に、妻が「あっ」と声を上げた。

 サングラスをつけた若い男が、安原の置いたカメラを掴み上げて走り出すところだった。

「ちょ、ちょっと」

 慌てて安原が追いかける。男の足は速く、あっという間に公園を飛び出していく。

「ど、泥棒ーっ」

 安原の叫びが終わる前に、甲高い急ブレーキとドンという重い音が聞こえた。踊るような格好で吹っ飛ぶ男の姿が見えた。逃げようとして車道に飛び出し、大型トラックに撥ねられたのだ。

 安原が駆け寄った時には、男は既に死んでいた。胴体が変な方向に捻じ曲がり顔が真っ二つに割れ、外れたサングラスに糸を引いた眼球が絡みついていた。

 男の血みどろの顔の前に、安原のカメラが転がっていた。多少すり傷はついたが無事のようだった。

 フィルムの残り枚数が、一つ減っていた。

 二日後、現像した写真には、眼球を飛び出させた男の断末魔がアップで写っていた。割れた頭蓋骨にも覗いた脳にもしっかりピントが合っている。素晴らしいカメラだ。

 安原はそれを大事にアルバムに保存した。

 それ以来安原は、カメラを持って頻繁に出かけるようになった。景色や妻を撮るのは勿論だが、しばしば人の多い場所でタイマー機能を使って放置した。あの素晴らしい出来事が再び起こることを願いながら。

 安原は人生が楽しくなった。

 

 

  第七十三番 犬

 

 四郎は犬を飼っていた。クロと名づけたのだが白い犬だった。尻尾がふさふさの、愛敬のある犬で、四郎はとても可愛がっていたし、クロもまたその愛情に応えていた。部屋に帰ると嬉しそうに飛びついてきたものだ。

 その信頼関係にヒビが入ったのは、クロの好物であるペディグリーチャムを皿に空けている途中で、まだ「よし」とも言っていないのに首を突っ込んで食べ始めた時だった。

 食い意地が張っているな、と四郎は思った。でもクロのそんなところも可愛かった。

「こら、待て」

 四郎が言ってもクロは聞かなかった。

「待てっ」

 更に厳しい口調で四郎は命じた。だがクロは一心不乱に食べ続ける。これまではこんなことなかったのに。

 四郎はちょっと腹が立ってきた。

「こらっ」

 四郎はクロの頭を叩き、皿を取り上げた。クロを叩いたのは数年ぶりのことだった。

 クロは最初びっくりしたような顔をしたが、やがて歯を剥き出して唸り出した。

 これまで四郎に向かって唸ることなどなかった。四郎は驚いた。そして同時に怒りが込み上げてきた。俺はご主人様なんだぞ。何を勘違いしてやがるんだ、こいつは。

 四郎は足でクロの腹を蹴った。クロの体が少し浮いた。ギャインと悲鳴を上げ、クロは部屋の隅に逃げた。

 悪いことをしたと四郎は思った。こんな他愛のないことで喧嘩するのは馬鹿らしい。謝ろうと四郎は思った。

 だが、姿勢を低くして四郎を見上げるクロの目は、悲しみよりも恨みと憎しみに光っていた。

 何だその目は。再び四郎の中に怒りが燃え上がった。今まで可愛がってやった恩を忘れやがって。一度蹴ったくらいで手のひらを返したように態度を変えやがる。俺への忠誠心はそんな薄っぺらなもんだったのか。

 四郎はクロに駆け寄り、もう一度蹴り上げた。今度はさっきよりも力を込めた。クロが鳴いた。

 しかし四郎を見上げる目つきから恨みの色は消えなかった。こいつめ。四郎はまた蹴った。クロがまた鳴いた。それでもクロの目から恨みは消えない。

 こいつ。まだ恨むか。四郎はクロの体を、何度も何度も蹴りつけた。終いにはクロが血を吐いた。

 床に弱々しく這いつくばったクロの目は、一層の恨みを湛えていた。

 四郎は益々クロが憎くなった。そして同時に、怖くなった。

 いや、悪いのはこいつなんだ。こいつが俺の言うことを聞かなかったのが悪いんだ。四郎は罪悪感を振り払い、クロの背を踏みつけた。ゴグン、と、骨の外れるような感触があった。クロは後ろ足が立たなくなった。

 それでも、クロの血走った目は、四郎を睨んでいた。

 四郎は怖くなった。そして益々憎くなった。こいつをどうしても屈服させてやる。四郎は道具箱から鋸を持ってきて、クロの右前足に刃を当てた。ゴリゴリと皮と骨を削っていく。クロは唸るような鳴くような声を洩らしたが、激しく抵抗する力は残っていないようだった。

 右前足が切断された。流れ出た血が床を濡らした。

 クロの、限界までに見開かれた目は、それでも極限の憎悪を込めて四郎を見上げていた。

 おのれ。四郎はクロの左前足も切断した。更に両後ろ足も切断した。そして尻尾も切断した。部屋の床は血みどろになった。

 それでも、クロの、零れ落ちそうな赤い眼球が、四郎を、睨みつけていた。

 おのれおのれ。まだ見るか。四郎は両手の親指を、クロの両目に当てた。

 そして、力を込めた。眼球は意外なほどに固かった。ブズリ、と、嫌な感触がして、二つの大きな眼球が転がり出た。

 グビュウ、と、不気味な声をクロは発した。床に落ちた二つの眼球が、まだ四郎を睨んでいた。

 畜生。四郎は足で、眼球を力一杯踏みつけた。潰れた眼球からゼリーのようなものがはみ出し、靴下に付着した。

 それでも、四郎には、二つの赤い眼窩から、クロが自分を睨んでいるように思えた。

 四郎はクロの首を出刃包丁で切断した。それでも睨んでいるような気がしたので、ハンマーでクロの頭を潰した。

 その夜、四郎はクロの残骸を袋に包んでゴミ捨て場に捨てた。

 

 

  第七十四番 ホーム

 

 シルバーホーム笹田というその老人ホームの入り口には、大きな桜の木があった。春にはこの下で花見が行われるのだと、施設長は穏やかな微笑を浮かべ岡崎に説明した。

 これまで七十年間頑張ってきた。この不安定に移ろいゆく世界に、自分の生きてきた証として強固な楔を打ち込もうと、必死に生きてきたのだ。

 その人生の終着点が、こんなちっぽけな老人ホームか。岡崎は内心苦い思いで施設長の後を歩いていた。息子が見学くらいはと勧めるため、仕方なくやってきた施設だった。言い出しっぺの息子が急用のため、岡崎当人だけの訪問。

 まだ充分に体力はある。妻に先立たれて六年、一人暮らしにも慣れた。今の屋敷に三十余年住んできた。小さいが、自分で建てた家だ。岡崎の砦であり、存在した証だ。出来るなら、この屋敷で死にたい。無趣味で人付き合いの嫌いな岡崎を、息子は心配したのだろう。

 ホームの内部は意外に洗練されていた。バリアフリーというのか、床に引っ掛かるような出っ張りはなく、間取りも単純明快だ。洋間と和室は半々で、縁側から見渡せる広い庭には良く手入れされた木々や花が賑っていた。清潔な食堂に、案内された風呂場も豪華なものだ。

 だがそれよりも岡崎にとって印象的だったのは、入居者達の表情だった。自室やホールで寛ぎ、テレビを観ながら談笑したり囲碁を打ったりしている彼らの顔は、この環境に心から満足し、生きる喜びに輝いているように見えた。

「現在五十六人の方がここで生活されています。月に一度バスハイクもありますし、イベントは多いんですよ」

 施設長は人の良さそうな笑みを見せた。自分の役割に生き甲斐を感じているような、そんな顔だった。

 今後どうするかは息子と相談して決めますと伝え、岡崎はシルバーホーム笹田を後にした。

 家路を歩きながら、岡崎は考えていた。

 これまで、意地を張り過ぎていたような気がする。社会に勝ち残ること、自分の存在を世界に食い込ませることだけを考えて生きていた。だがその結果得られたものは何だったか。古い小さな屋敷と孤立した自分だけではなかったか。

 もう、力を抜いて、楽に生きるべきなのかも知れない。夜になったら息子と電話で話してみよう。老人ホームの生活も良いかも知れない。あのシルバーホーム笹田ならば。

 そう決めてしまうと岡崎は晴れ晴れとした気分になった。長い間背負っていた重い荷物から解放されたような気分だ。

「ヒャハーッ」

 その時、甲高い奇声が聞こえて、曲がり角の向こうから飛び出してきた赤い影が岡崎にぶつかってきた。胸に痛みが走った。

 何だ。岡崎は自分の胸を見た。

 出刃包丁が刺さっていた。染み出た鮮血が服を濡らし始めている。

 包丁を握っているのは赤いレインコートを着た男だった。フードをかぶっていたが、その近づけられた顔は岡崎にははっきりと見えた。

 シルバーホーム笹田の施設長の顔だった。穏やかな笑みを見せていたあの顔は今、残忍な喜悦に歪んでいた。

「キャハーッ、死ね死ねーっ」

 倒れた岡崎に馬乗りになって、施設長は狂ったように叫びながら何度も何度も包丁を振り下ろしてきた。

 何なんだ。なんだか良く分からないまま岡崎は七十年の生涯を終えた。

 

 

  第七十五番 ペットボトルマジック

 

 友人の部屋に飾られた透明なペットボトルには、人間のミイラ化した左手首が収まっていた。ボトルの口は幅三センチもない。

「これはどうしたんだ」

 私が尋ねると、友人は軽く微笑んだ。

「ああ、それか。実は大したことないんだよ。ペットボトルの底を切って、中身を入れた後でもう一度接着してるのさ。良く見たら跡が分かるぜ」

 確かにペットボトルの底に、輪切りにされた跡がうっすらと残っている。

 友人は、短くなった左腕に包帯を巻いていた。

 

 

  第七十六番 ある聖人

 

 これが最悪ではない。何故なら、あなた方には知ってもらえるのだから。

 

 一人の聖人が腐った町を訪れた。

 強盗と殺人と裏切りが日常茶飯事の町。住民は互いの足をすくうため、常に機会を窺っている。この町を啓蒙し、平和な町にするのが聖人の目的だった。

 獲物を観察するような住民の視線を受けながら、聖人は大通りを進んでいった。

「助けて」

 幼い悲鳴が聞こえ、聖人は足を止めた。十才くらいの少年に数人の男達がリンチを加えている。笑いながら蹴ったり棒や鞭で叩いたりしているのだ。

「これこれ、やめなさい」

 聖人は早速声をかけた。男達はびっくりしたような顔をしていたが、すぐにニヤニヤ笑い出す。一人が言った。

「よそもんは黙ってな。こいつは俺の店の品を盗みやがったんだ」

「しかしまだ子供ではありませんか。食べるものがなくて、生きるために仕方なくやったことかも知れません。互いにいがみ合うよりも助け合った方が、長い目で見れば幸福になれると思います」

 聖人が説くと、男達は大声で笑った。

「そんなに言うならあんたがこのガキの代わりに罰を受けてみたらどうだ。助け合うと幸せになれるんだろ」

「分かりました。その少年をお放しなさい」

 聖人はすぐに了承した。もしこの町の人々に助け合いと犠牲の精神を示すことが出来れば、自分がどうなろうと構わないと考えたのだ。

 男達はあっさりと少年を解放した。少年は礼も言わずにそのまま駆け去っていった。感謝など欠片もなさそうな笑みを浮かべて。

 それでも良い。いつかはこの出来事を思い出し、心の糧となる日が来るだろう。聖人はそう考えた。

 少年が曲がり角の向こうに消えたすぐ後で、犬の糞に滑って転んで頭を打って即死したことを、聖人は知らなかった。

「さて、じゃあ罰を受けてもらうぜ」

 男達がリンチを開始した。聖人は蹴られ倒され、棒や鞭で容赦なく叩かれた。見物人が増え、皆が面白そうに聖人を指差した。彼らは聖人をどうしようもない馬鹿だと思っているようだった。

 でも、最後まで耐えてみせれば、こちらの言葉に耳を傾けてくれる人もある筈だ。聖人はそう考えた。

 男達は焼きごてを持ってきて聖人の背中を焼いた。聖人はそれに耐えた。男達は煮えた油を聖人の頭にかけた。聖人はそれに耐えた。男達は面白がって次々に新しい拷問道具を持ってきた。

 しかしいずれは、自分達がやっていることの重さに気づいてくれるだろう。そう聖人は考えた。それが改心へのチャンスだ。

 男達は万力で聖人の指を潰した。大鉈で聖人の手首を切り落とした。鋸で両腕と両足を切断した。彼らは笑いながらそれを行った。見物人達も拍手喝采していた。聖人は耐え続けた。

「よーし、今度は目玉抉っちまおうかな」

 やっとこを握って男の一人が言った。言いながら簡単に聖人の左目を抉り取った。

 大量の出血が続いていた。もう自分が助からないことを聖人は悟った。でも彼らもやがて、今日の出来事について真剣に考える機会があるだろう。それならば、自分の行為にも意味があると聖人は考えた。

 男達は大きな石版を持ってきて、聖人の頭に載せた。その上に男達がどんどん乗って体重を加えていった。頭がパキャリと割れて、聖人は死んだ。

「わーいわーい」

 町の人々は皆で聖人の死を祝った。その時大地震が起きて町が揺れた。巨大な地割れに呑み込まれ、腐った町は消滅し、住民は皆死んだ。

 聖人の行為は、何にもならなかった。

 

 

  第七十七番 崖の上と下

 

 ハンドル操作を誤って車ごと崖から落ちた。ゴロゴロと数回転して見事着地したと思ったら勢いでもう半回転し、左側面を下にしてやっと停止した。車体が変形してドアが開かず、それどころか身動きすら取れない。肋骨が折れたらしく胸が痛む。

 困ったことになった。だが民家には近い場所だから、きっと誰かが通りかかって助けを呼んでくれるだろう。と思って崖を見上げると、既にガードレールから身を乗り出して若い男がこちらを見下ろしている。男と私の目が合った。

「助けてくれ」

 私は叫んだ。ガラス窓越しなので声が届いていないようだ。窓を開けようとするがスイッチが反応しない。男は何故か笑顔で手を振っている。

「助けを呼んでくれ」

 私は窓ガラスを叩き、ジェスチャーでなんとか示そうとした。男は分かったというように頷き、携帯電話を取り出した。そうだ。警察に電話してくれ。頼んだぞ。

 五分ほど経ったと思う。警察はまだ来ないなと思っていたら、エプロンを着た女がやってきて男に包みを渡した。何だ。男が包みを開くとそれは弁当だった。男は弁当屋に電話したのだ。ガードレールに腰を掛け、こちらを見ながらのんびり弁当を食べている。

 何なんだ。助けを呼んでくれよ。私は窓ガラスを叩いて抗議した。男はウインクしてみせた。もう一度携帯を出して何か話している。

 五分後、来たのは警察でもレスキュー隊でもなく、別の若い男だった。最初の男と楽しげに話している。

 何をしてるんだ。助けろよ。後から来た男がビデオカメラを取り出した。ニコニコしてこちらを撮影している。

 何なんだ、こいつらは。それにしてもなんだか暑い。サイドミラーを見ると車の後部が燃えている。洩れたガソリンに火が点いたのだろうか。ヤバいぞ。このままでは焼け死んでしまう。というか既に熱い。熱いぞ。

「助けてくれ。おおい、助けてくれえ」

 私は叫びながらガラスを何度も叩いた。最初の男は分かったというようにウンウン頷きながら、しかし美味そうに弁当を食べている。二番目の男は相変わらずカメラを向けている。

 火が車内に回ってきた。熱い。焼ける。助けを呼んでくれ。しかし二人の男は食べたり撮ったりして談笑している。他の通行人が現れた。これで助かるかと思ったらやはり面白そうに見物しているだけだ。四人、五人と見物人は増えていく。炎の勢いも強くなってくる。煙が巻いてきた。息苦しい。熱い。焼ける。何なんだこれは。助けろよ。

 私の意識が遠ざかる頃、二十名を超えた見物人は、皆私に手を振っていた。

 

 

  第七十八番 人形の家

 

 その家には大きな食卓があった。三人の兄弟とその両親、祖父母の計七人が、いつもその大きな食卓で食事をした。仲の良い家族だった。

 祖父が脳卒中で死んだ。祖父の座っていた椅子の上にテディーベアの縫いぐるみが置かれ、祖父の代わりになった。残った六人の家族は、いつもその大きな食卓で食事をした。時には縫いぐるみに話しかけたりもした。

 祖母が心臓病で死んだ。祖母の座っていた椅子の上に日本人形が置かれ、祖母の代わりになった。残った五人の家族は、いつもその大きな食卓で食事をした。時には人形に話しかけたりもした。

 父が交通事故で死んだ。父の座っていた椅子の上にGIジョーが置かれ、父の代わりになった。残った四人の家族は、いつもその大きな食卓で食事をした。時にはGIジョーに話しかけたりもした。

 母が胃癌で死んだ。母の座っていた椅子の上にフランス人形が置かれ、母の代わりになった。残った三人の家族は、いつもその大きな食卓で食事をした。時には人形に話しかけたりもした。

 兄が階段から落ちて死んだ。兄の座っていた椅子の上にガンダムのプラモが置かれ、兄の代わりになった。残った二人の家族は、いつもその大きな食卓で食事をした。時にはプラモに話しかけたりもした。

 弟が風呂場で溺死した。弟の座っていた椅子の上にアニメキャラのフィギュアが置かれ、弟の代わりになった。

 その家で、ただ一人になった娘は、六体の人形が座る食卓で、食事をした。人形達に話しかけても、人形は何も答えてくれなかった。

 娘は大事にしていたバービー人形を自分の椅子に置いた。そして部屋の梁に縄をかけて、首を吊った。

 大きな食卓には、七体の人形が、いつまでも、座っていた。

 

 

  第七十九番 アンヴィバレンツ

 

 放課後。図書室で小説を読み終えて教室に寄ってみると、村井優美が一人残って、窓の外を眺めながら何やら書き物をしていた。

「何書いてるんだ」

 僕が声をかけると、村井は慌ててノートを畳んだ。シャーペンが床に転がり落ちる。

 シャーペンを拾い上げて渡すと、村井はありがとうと言った後で、ちょっと恥ずかしそうに答えた。

「詩よ。時々、詩を書いてるの」

「へえ、意外だな。村井にそんな趣味があったなんて」

「おてんばと思ってたんでしょ」

 村井は悪戯っぽい笑みを見せた。実際のところ、僕はそう思っていた。喧嘩っ早くて、男子生徒を拳で殴ったという噂も度々聞いている。

「どんな詩を書いてるんだい。ちょっと読ませてくれよ」

「これまで誰にも見せたことないんだけど。沢田君ならいいかな。というか、ちょっと読んでもらいたかったりして」

 そう言って、村井は頬を赤らめた。そんな彼女を僕は可愛いと思った。もしかして、村井は僕のことを好きなのだろうか。そんなことを考えるとちょっと胸がドキドキしてきた。

「はい」

 村井は僕にノートを差し出した。

「ありがとう」

 僕はノートを受け取り、その最初のページを開いた。題名は『春の匂い』……。

「ああっ、やっぱり恥ずかしいから駄目っ」

 村井が叫ぶと電光石火の早業で僕の手からノートをひったくり、同時に出刃包丁で僕の胸を十五、六回刺した。

 恥ずかしいからって刺さなくてもいいじゃないか。僕はそう言おうとしたが声が出ない。視界が暗くなっていく……

 

 

  第八十番 魔術師

 

 私は誰だ。彼がそう思った時、声が告げた。

「お前は戦士だ。一騎当千の勇猛な戦士だ」

 その瞬間、彼は馬に乗って荒野を駆けていた。赤い甲冑を身に着け大剣を振り、圧倒的な大軍を相手に突撃していく。槍ぶすまを乗馬が飛び越え、大剣が敵の首を刎ねる。

 彼が歓喜の雄叫びを上げた時、また声が告げた。

「お前は数学者だ。難解の定理の証明に取り組む数学者だ」

 その瞬間、彼は腕組みをして唸っていた。スタンドの光の下、机の上のノートに無数の数式が並んでいる。この定理は三百年もの間、あらゆる数学者をはねつけてきた。彼には解けそうな気がする。大体の方向性は見えてきた。後何か一つだけ足りないのだ。

 彼が欠けたピースについて考えていると、また声が告げた。

「お前は鮫だ。大海原を渡り獲物を探す鮫だ」

 その瞬間、彼は水中を泳いでいた。この地域の海は温かい。水の感触を楽しみながら彼は獲物の匂いを追っている。この匂いはゴンドウクジラのものだ。充分に勝算はある。腹についた小判鮫共が鬱陶しい。

 彼が牙の並ぶその口を開けた時、また声が告げた。何故か悲しげな響きだった。

「お前は石だ。路傍に転がる、ただの小石だよ」

 その瞬間、彼は小石になった。

 人々が忙しく往来する大通り。誰も小石などに目を留める暇はない。

 黒いローブを着た一人の男が、小石を見下ろしていた。男の深みを持った瞳は、並ならぬ眼光を放っていた。

「これで満足ですか。神よ」

 男は小石に問うた。ただの小石だ。何も答えない。

 男は悲しげに首を振り、その場を歩き去っていった。

 

 

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