指喰いと腐れ風神

 

  一

 

 どうして自分が選ばれたのか、白水恭子は最後まで分からなかった。

 始まりは音だった。キシリ、キキー、という、金属の擦れるような細い音。夜中にふと目を覚ました時、壁の向こうから聞こえることがあった。浴室でシャワーを止めた瞬間、換気扇から洩れる微かな音に気づくこともあった。錯覚かと思い耳を澄ましていると、大抵はすぐに聞こえなくなるのだ。

 そんなことが二、三日に一度の頻度で起きて二週間ほど経った頃、恭子はあれと遭遇したのだった。

 同僚数人と久々に飲み、駅で別れてマンションまで一人で歩いていた。午後十一時を過ぎ、人通りもなく街灯も疎らだったが住み慣れた町なので特に不安はなかった。高架線下の短いトンネルを抜け、潰れた酒屋のシャッターに描かれた落書きを横目に、もう三分も歩けばマンションに帰り着く筈だった。

 交差点で立ち止まり、目の前を車が駆け抜けた。エンジン音が遠ざかった後に、不意に背後からあの音が現れたのだ。

 キキュ、キシリ、という響きは錯覚と決めつけるにははっきりし過ぎていた。音の発信源は恭子に近づきも離れもせず、その場に留まっているようだった。

 恭子はそのまま交差点を渡ってしまおうかとも思ったが、奇妙な音への好奇心が勝った。

 振り向くと、十メートルほど離れて大きな鳥籠を提げた男が立っていた。

 街灯の淡い光を正面に浴びて立つ、男の身長は二メートル近くあった。黒い帽子はシルクハットに似ているが鍔がやたら大きく、端の方は少し垂れ下がっている。鍔の陰になって顔が見えない。黒いマントは空気を抱くように膨らみを保ち、ザラザラして見えた表面は黒い羽根をまんべんなく縫いつけているのだった。烏の羽根だろうか。男の服は派手な赤や黄や青、緑の布きれをモザイク状に繋ぎ合わせたもので、恭子は一瞬ピエロかと思った。

 白い手袋を嵌めた指は常人よりも細長い。その左手は丈一メートルを超える大型の鳥籠を吊っている。銅か錆びた鉄か、暗い茶色の格子は頑丈そうだ。

 キシリ、キキ、という金属の細い軋みは、鳥籠が揺れる際に吊り手とのジョイント部が擦れる音だった。

 猿でも飼えそうな鳥籠の中に、一人の少年が閉じ込められていた。小学校高学年か中学生だろう。白いタオル地のパジャマに素足だ。

 膝を抱えた少年の指は数が足りなかった。右手の薬指と小指、左手の人差し指が付け根からない。元々ではなく、断面には血がこびりついていた。改めて見ると足の指も五本ほどしか残っていない。

 少年の顔は青白く、瞬きしない瞳は虚ろに濁っていた。どうして閉じ込められているのか。鳥籠の中で何を思うのか。

 少年の目は恭子の方を向いていた。

 男の右手は、大きな剪定鋏を握っていた。柄の間にバネの入った全金属製で、半円を描く切り刃とその受け刃は十五センチほどの長さがあった。良く手入れされた刃は街灯の光を鋭く反射している。

 これは何なのか。非現実的な光景に恭子の感覚は半ば麻痺していた。彼らは一体何なのか。一種のSMプレイなのか、それともアニメキャラか何かのコスプレか。でもコスプレだったらこんな時間に人気のない場所でやる筈もないだろうし。そもそも少年の指は本当にないように見える。どうして指が……。

 男の右手が、動き出した。柄を握る力が緩められ、ショキ、と、鋏が開いた。僅かな欠けもない、輝く刃。

 男は左腕を動かし、鳥籠を自分の目の前に差し上げた。マントが揺れた。右手の剪定鋏を鳥籠に近づける。半ば開いた刃先を中の少年に向けた。少年の、左手の辺りに。

 少年が虚ろな表情のまま、左手を開いて格子の隙間から指を出した。人差し指のない四本の指を。

 恭子は、目を逸らすことが出来なかった。

 男が、剪定鋏を丁寧に動かして、少年の左手中指を、根元から、切断した。ギュジジジギリ、と、骨の切れる嫌な音が響いた。

 落ちた指が地面にぶつかる前に、剪定鋏を持った男の右手が受け止めていた。他の指もそうやって切られたのだろう、切断面から鮮血がドロリと溢れ出す。鳥籠の少年は声を洩らすこともなく、青白い顔を少しずつ、スローモーションのように苦悶へと歪めていった。濁った瞳で恭子を見据えながら。

 男が、摘まんだ少年の指を自分の顔に近づけた。大きな帽子が上を向き、街灯の光が差し込んで男の顔が見えた。

 顔の上半分は金属の仮面で覆われていた。凹凸は殆どなく、両目の部分に丸い穴が二つ開いているだけだ。

 下半分……男の露出した生身部分はそこだけだったが、細く尖った顎は極端に長く、薄い唇は両端が吊り上がって大きなV字を作っていた。人間離れした顔立ちだった。

 剪定鋏と少年の指を持った右手を顔の上に捧げ、男は指を離した。開いた口の中に少年の中指が落ちた。

 コリ、コリリ、ゴリ、グジ、と、顎の動きに合わせて不気味な音が続いた。男は、少年の指を食べているのだった。恭子は耳を塞ぎたかったが体が動かなかった。悲鳴も上げられず、ただ男の行為を見守っていた。

 男が正面に向き直った。仮面は鍔に隠れたが、恭子には男が自分を見つめているような気がした。

 鳥籠の少年も無表情に戻っていた。血の流れる切断面を押さえながらも少年は膝を抱えた。少年は黙っていた。助けを諦めているのかも知れない。

 どす黒い悪意を、恭子は男からではなく、少年の方から感じていた。いや、思い過ごしかも知れないが、どちらにせよ確かめることは出来ない。

 鳥籠と男は、唐突に消えた。そこには街灯に照らされた暗い地面だけが残った。

 車のライトとエンジン音が思い出したように恭子の後ろを通り過ぎていった。

 

 

  二

 

 恭子はあれを酔っ払って見た幻覚だと思うことにした。久しぶりにお酒を飲んだし、ちょっと自分の限度を超えてしまったみたいだ。そう自分に言い訳した。或いは夢だったのかも知れない。そう、それが一番納得しやすい答えだ。でなければどうすればいいのか分からなくなってしまう。自分の信じる現実という土台が崩れてしまいそうだ。

 だから恭子はいつも通りの日常をこなした。朝に起きて出勤し、職場の同僚と笑顔で挨拶を交わす。事務の仕事も三年目なのでそれほど苦労することもない。

 よし、大丈夫だ。二日が何事もなく過ぎ、恭子は安心した。あれはやはり夢だったんだ。何も心配することはなかった。同僚に話のネタとして使うことも出来るだろう。こんな変な夢を見たって。

 マンションでテレビを観ていてあの金属の軋みが聞こえたような気がしたが、恭子はテレビの音量を上げて対応した。暫くして音量を戻すと軋みは聞こえなくなっていた。

 きっと錯覚だ。まだ自分は気にしているのだろう。だから何もないのに聞こえるように感じているのだ。恭子はそう自分を納得させた。錯覚に決まっている。錯覚でないと困るのだから。念のため、ネタとして使うのはもう少し後にするつもりだけれど。

 そしてあれから五日経った。再び細い金属音が聞こえたのは夜のマンションではなく、昼過ぎの職場だった。

 キキー、キシリ。キキ。

 自分の机で書類チェックに集中していてふと我に返った時、恭子はあの音を聞いた。室内を見回すが、四人の同僚は普通に業務を続けている。と、二才年上の相川優美と目が合った。

「白水さん、どうかした」

 相川が尋ねた。

 恭子は背後も振り返ってみた。まだ微かにあの音は続いていたが、鳥籠を持つ男の姿はない。

 それで恭子は答えた。

「いえ、別に」

「なんか顔色悪いわよ。大丈夫」

「大丈夫です」

 恭子は自分がどんな顔をしているか分からなくなった。会話のせいで軋みが聞き取れないのもイライラさせられる。

 男性社員の柴崎が言う。

「先週の飲み会からなんかおかしいんじゃない。何かあったの」

「いえ。何もないですよ本当に」

 恭子は出来る限り自然な笑みを浮かべてみせようとした。頬の筋肉を調節し、それは勢い余って引き攣ることになった。

 柴崎の後ろの壁から鳥籠がはみ出していた。

 凍りつく恭子を同僚達は怪訝な顔で見つめた。

「ど、どうしたの。僕、変なこと言ったかな」

 柴崎が気弱に問いかける。恭子は答えられなかった。五メートルも離れていないコンクリートの壁から鳥籠が生えている。あの大きな鳥籠だ。吊られているのだろう、ゆっくりと揺れている。少しずつ、こちら側にせり出してくる。壁をすり抜けている。壁の向こうは会計課の部屋だ。別に騒ぎにはなっていないようだがどうなっているのか。

 キキ、キキー、という、細い軋みがすぐ近くにあった。

 三分の一ほどが現れた鳥籠の中に少年の足があった。やはりパジャマを着ている。膝を抱えた手も見えた。指の少ない手と足。

 指の数が、前に見た時よりも減っていた。多分、二本か三本。きっとあの男に切られ、食われたのだろう。

 鳥籠のほぼ全体が現れ、少年の虚ろな顔が見えた。やはり濁った視線が恭子の方を向いている。何故自分を見つめるのか。何故しつこくつきまとうのか、彼らは。

 それから予想通り、鳥籠を持つ手が壁の中から出てきた。白い手袋。細長い指。赤青黄色の布がツギハギになった服。昼に見るモザイクはかなりどぎつい色だった。

 壁を素通りして、あの男が全身を現した。鍔の大きな黒い帽子に黒い羽根のマント、顔の上半分を覆う鉄の仮面と、細く尖った顎。

 男の右手はやはり、大きな剪定鋏を握っていた。刃には血がついているが、鋏はまだ閉じたままだ。今日は少年の指が切られるのを見なくて済むかも知れない。いや自分は何を考えているのだろう。

 そもそもこれは何なのか。白昼夢か。そうか、これ自体が夢なのかも。

「白水さん、ほんとに大丈夫」

 相川がまた声をかけてきた。男は壁際に立ったまま動かない。恭子は慎重に視線を外して相川を見た。眉間に皺を寄せている。

 恭子は聞いた。

「これは夢ですか」

「えっ」

 相川が絶句した。柴崎が曖昧な微笑を浮かべながら言う。

「いや……夢じゃないと、思うけど……」

「じゃあ見えますか、あれ」

 恭子は壁の男を指差した。一瞬、自分が取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。

 四人の同僚全員がそちらを見た。数秒して、恭子に視線を戻した。

「何が」

 課長の太田が聞いた。皆、怪訝な顔をしていた。やはり、恭子にしか見えていないらしい。

 男はひっそりと立っていた。揺れる鳥籠から聞こえる微かな軋み。中の少年も無表情のままだ。恭子と同僚のやり取りを見ながら彼らは何を思うのか。いや、これが恭子の幻覚ならば何も考えていないのだろうけれど。

 恭子は口にした。自分の重荷を少しでも減らしたくて。

「そこに大きな鳥籠を持った人が立ってます。鳥籠の中に、男の子が入ってるんです。男の子の指が……」

「ん、この辺かな」

 課長が立ち上がり、苦笑めいたものを浮かべながら壁の前の空間を手探りしてみせた。恭子の言ったのを冗談と思ったのか、それとも何もないことを証明して恭子を安心させようとしたのか。「ちょっと待って」と恭子は言いかけた。課長の右手が鳥籠に触れ……。

 次の瞬間課長が血みどろになっていた。

 皆が沈黙する中、課長だけが「あっ」と小さく声を出した。同時にプヒュッと空気の洩れる音がした。喉の裂け目から出た音だった。

 太田課長の顔も服も、鋭い刃物で切られたようにズタズタに裂けていた。それぞれの傷の長さは十センチをちょっと超える程度だったが、数十ヶ所、いや百ヶ所以上が切られているだろう。傷が繋がって逆V字となった片頬の肉がベラリと剥がれて揺れ、水平に裂けた右の下瞼から眼球がはみ出していた。ペシャ、と、床に落ちたのは丸ごと削ぎ落とされた鼻だった。百を超える傷口から血が流れ始めた。スーツが赤く染まっていく。首の傷からは特に勢い良く血が飛んで、相川優美の顔にかかった。

 ブリュ、と、スーツの裂け目から内臓がはみ出してきた。濡れてテラテラした細長いものは腸だろう。

 課長は手で顔を覆おうとした。だが右手首は皮一枚で繋がっているような状態で、断面から噴いた血が自身の口に入った。

「ぶひゅっ、ええ、ええぇ、えっ」

 奇妙な声を発しながら、課長がその場に崩れ落ちた。恭子は課長の指を確認した。手の甲には傷があったが、指は全て無傷で揃っていた。

 相川優美が甲高い悲鳴を上げ始めた。柴崎は全身を震わせながら立ち上がろうとして床にへたり込んだ。腰が抜けたのだろう。もう一人の同僚である高木は呆けたように口を半開きにして凍りついていた。相川の立てる騒音に別の部屋から人が駆けつけてくる。

 恭子は同僚の反応より壁の男を見ていた。右手の鋏は新しい血に塗れ、先端から赤い雫が滴っている。鋏の動くところは見えなかったが、これで課長を切り裂いたのは間違いない。

 やっぱり幻覚ではなかったのだ。

 シャキ、と、男の鋏が開いた。左手の鳥籠を持ち上げると、少年が格子の隙間から足の指を差し出した。左足の親指。

 男が指を食べるのを見ていたのは恭子だけだった。

 

 

  三

 

 太田課長の死亡が確認されたのは四時間後だった。死因は出血多量とのことだ。即死だと思っていたが、随分長く苦しんだのだろうな。恭子は他人事のように考えている自分に気づく。

 事務課の部屋は封鎖され、今も鑑識などが調査を続けている。証拠など何も出てこないだろうけれど。

 一階の応接室で、恭子は二人の刑事を相手にしていた。他の同僚も事情聴取を受けている筈だが何を喋っているのかは知らない。

 恭子は全て話した。最近になって聞こえ始めた金属の軋み。五日前の夜に見た鳥籠と鋏を持つ男。鳥籠の少年の指を、男が切り取って食べたこと。今日は壁をすり抜けて職場に現れ、恭子以外には見えなかったこと。そして、鳥籠に触れかけた課長が一瞬で切り裂かれたこと。少年の指を食べた後、唐突に姿を消したこと。

 二人の刑事はなんとも微妙な表情で互いの顔を見合わせていた。そのうちに一人が立ち上がってドアを開け、廊下の警察官に「釘坂さんを呼んでくれ」と言った。

 十分ほどして釘坂という刑事が到着した。五十前後の痩せた男で、目つきは柔らかいが顔色は悪い。彼は簡単に挨拶を済ませ、「すみませんが、もう一度最初からお話頂けませんか」と言った。それで恭子は同じ話を再度することになった。

 話を終えると、最初の刑事が釘坂に声をかけた。

「どう思います」

「そういうことも、あるんじゃないですかねえ」

 釘坂はなんとも気の抜けた答え方をした。

「目撃者も複数いるんですよね。実際に一人、考えられない死に方をなさった訳ですから、信憑性をどうこう言う段階じゃないでしょう。それで、白水さん、その鳥籠の男ですが、ずっとあなたにつきまとってきてるんですよね。少年の指の数が、段々減ってきてる、と」

「はい」

 恭子は頷いた。

「少年の指が、全部なくなったら、どうなるんでしょうね」

 それは、恭子がずっと気になっていたことだった。

「……分かりません」

 恭子は答えた。

 釘坂刑事は調書を畳んでから言った。

「捜査の方は続けることになります。警察の職務として、結果が得られなくても、ね。ただ、まともな捜査とは別に……これはちょっとお節介になるかも知れませんが、見る人に見てもらいませんか」

「え。見る人というのは。霊能者みたいな」

「まあ、そんなもんです。この市内に住んでおられる住職さんなんですけれど。警察もたまに、変な事件に出くわすことがあるんですよ。ちょっと理屈じゃ説明出来ないような、訳の分からないような事件に。そんな時はお世話になってるんです。見てもらっても、構いませんか」

 釘坂の口調は淡々としていた。頼れるかも知れない、と恭子は思った。

「はい。お願いします」

 それで釘坂は一旦部屋を出て、携帯で連絡を取ったのだろう、数分で戻ってきた。

「丁度手が空いてたとのことで、すぐ来られるそうです。二十分ほどで到着すると思います」

 あっさり話が進んでしまった。でもこれで良かったのだろうかと恭子は考える。今は鳥籠の男はいない。霊能者に来てもらっても意味がないかも知れない。また、いたとしても霊能者には見えないかも知れない。あれは霊とは全然関係ないのかも。

 それに、もし見えたとしても、何も出来ないかも知れない。

 釘坂が言った。

「渕上さんはこちらの方面ではかなり有名な方で、日本では二番目の実力者とも言われています。半年前茨城で、同じ駅のホームから連続で五人が飛び込み自殺したことがありましたが、あれも渕上さんが解決なさったんですよ」

 そんな事件もあったような気がする。釘坂刑事の言うように、訳の分からない事件というのは割と起こっているものかも知れない。それが解決出来るのなら、恭子につきまとうあれも祓ってもらえるかも。

 暫くして、窓の外を見ていた釘坂刑事が「あ、来ましたよ」と言った。恭子も立ち上がって通りを覗いてみる。スクーターを停めて会社の玄関へ歩く住職の姿が見えた。五十代か六十代前半だろう、頭は綺麗に剃り上げて黒い袈裟をまとっている。小太りだが風格があり、目に並々ならぬ力があった。

 この人ならなんとかしてくれるかも知れない。そう感じさせる雰囲気を持っていた。

 そろそろ玄関を抜けただろう。受付から左の廊下を進めば十五メートルほどで応接室だ。恭子には住職の足音が聞こえるような気がした。もうドアが開くかも知れない。そして自信に満ちた笑みを浮かべ、或いは真剣に眉根を寄せて、異常事態に立ち向かってみせるのだ。そうであって欲しい。恭子は祈った。

「あひいいいぃっ」

 異様な悲鳴が聞こえてきた。釘坂のあっけに取られた顔。すぐにドアを開け廊下へ出ていく。恭子も後に続く。

 住職は床を這って逃げようとしていた。腰が抜けてしまったらしい。警官達が戸惑った様子で見下ろしている。

「無理です、私には無理です」

 住職が情けない声を上げる。そんな。どうしても助けてもらわなければ。恭子が歩み寄ろうとすると住職は物凄い悲鳴を上げた。人間がこんな声を出せることを恭子は初めて知った。

「ぎゃああああっ、来ないでっ来ないで下さい助げでええっ」

 窓越しで見た時に感じた風格も何も失われ、住職の顔は恐怖でグシャグシャに歪んでいた。涙に塗れている。失禁もしていた。日本で二番目という霊能者がこんなに怖がるなんて。しかしそんなものに巻き込まれた自分はどうなる。恭子はそれ以上近づかず、住職に言った。

「あの、助けて頂きたいんです」

「無理です。申し訳ありません。でも私には無理です。と、とにかく来ないで下さい」

 住職は恭子から目を離さず必死に這い下がる。或いは恭子の背後にあれがいるのか。振り返ってみるが青ざめた刑事達がいるだけだ。

「鳥籠の男があなたには見えるんですか。あれは何なんです」

「すみません。私はお役に立てません。触らないで下さい。絶対に、その手で誰も、触らないで下さい」

 それはどういう意味なのか。触れたらどうなると。

「私は……私は、どうなるんですか」

 住職は答えず、グシャグシャの顔を左右に振るだけだった。住職はどんどん這い下がっていく。あまり近づき過ぎないよう気をつけながら恭子は後を追った。警官達も自然と恭子を避けている。

 この人が助けにならないのなら、どうすればいいのか。もっと強い人に頼むしかない。

「あなたが日本で二番目の霊能者だそうですけれど、一番は誰なんですか」

 渕上住職の顔が更に歪み、狂気が滲み出した。

「笹垣さんは二ヶ月前に死にました。調伏に失敗して、手足の先から腐っていったそうです。ですからもう、私が……。申し訳ありません」

 恭子の足が止まった。

 そうか。

 現実とは、元々そういうものだったんだ。

「すみません。すみません」

 日本で一番の霊能者は失禁の跡を残して逃げ去った。

 

 

  四

 

 恭子は会社を辞めることになった。人事部長から休暇を勧められ、その腫れ物に触るような態度に絶望したためだった。化け物に取り憑かれた女には会社に来て欲しくないと、同僚全員の視線が語っていた。気持ちは分かる。皆、太田課長が死んだのも恭子のせいと思っているのだろう。結果的にはそうかも知れない。恭子に落ち度があった訳ではないのに。ただ、理不尽に巻き込まれただけだ。

 警察からの連絡はおざなりに一度あっただけだ。実家に帰ろうかと思ったが、どうせ恭子の話を信じてくれないだろうし、両親が太田課長みたいになるのを見たくはなかった。

 頼れるものが何もなくなったので、恭子はマンションでぼんやり時を過ごした。たまに買い物や散歩に外出する時は、行き交う人を眺めながら彼らに自分が触れたらどうなるのだろうと考える。もしかすると、鳥籠の男が出てきて相手をズタズタに切り裂いてしまうのかも知れない。考えているとちょっと可笑しいような投げ遣りな気分になった。

 鳥籠の細い軋みはたまに聞こえてきた。稀にあの男を見かけることもあった。天井を逆さまに抜けて現れることもあれば、部屋の隅にいつの間にか立っていることもあった。そしてあの剪定鋏を使って少年の指を切り落とし、さも美味そうに食べるのだ。

 事件から十日が過ぎ、少年の指は残り二本になっていた。右手親指と、左手薬指だけ。

 少年の指が全部なくなったらどうなるのか。考えたくなかったが、不吉な予想は黒い影となって常に恭子をさいなんでいた。

「そこのお嬢さん」

 声がした。午後八時過ぎの駅前で、人の流れがふと途絶えた、そんなタイミングだった。

「そこのやつれたお嬢さん。そう、あなたです」

 苦笑を含んだ声は男のものだった。

 やつれたとは失礼な言い草だが多分事実なのだろう。恭子は立ち止まり声の主を探した。駅と隣のショッピングモールとの隙間に、折り畳み式の小さなテーブルと椅子を置いて黒い着物の男が座っていた。テーブルから『易』と書いた布が垂れている。手相見らしい。街灯の光は僅かに差す程度で、こんな目立たない場所にいても商売にならないだろうに。

 手相見の男は恭子に手招きしていた。

「私ですか」

 仕方なく恭子が聞き返すと、手相見は頷いた。

「そうです。お困りのようですね」

 良く通る声だった。

「ええ。凄く困ってます。でも、誰も私を助けられないんです」

 恭子は正直に答えたが、実際のところ手相見に何も期待してはいなかった。日本一の霊能者が失禁して逃げたのだから。

「なるほど。よろしければ近くで顔と手を見せてもらえませんか」

 商売のための呼び込みかと恭子は一瞬思った。見透かしたように手相見は言った。

「見料は要りませんよ」

 それで恭子は乗ってみる気になった。ただ、警告はしておかねばならない。

「私の手には絶対に触らないで下さい。命に関わりますから」

 手相見は何故か微笑して頷いた。

 近づいてみると手相見は整った顔立ちをしていた。年齢は三十前後だろうか。いや、浅黒い肌の艶は二十代にも見えるし落ち着いた物腰は五十代でもおかしくないだろう。髪は後ろで軽く束ねている。穏やかだが野生味を秘めた瞳と引き締まった首の筋肉から、恭子は黒猫を連想した。

「神楽鏡影といいます」

 手相見は名乗った。

「白水恭子です」

 恭子は用心しながら両手を差し出した。神楽という手相見は手を見る前に恭子の背後を一瞥した。恭子もつられて振り向いたが鳥籠の男はいなかった。ここ三時間は細い金属音も聞こえていない。

 神楽が恭子の顔と手を見つめたのはほんの十秒ほどだった。その後でまた恭子の後ろを見て、神楽は言った。

「あまり猶予はなさそうですね」

「どういう意味ですか」

 恭子が尋ねると、神楽は口の片端を上げて苦笑した。唇の間から覗く犬歯は妙に長く、尖っていた。

「指が二本しか残ってないですから」

 核心に触れる指摘だった。恭子はもう一度振り向いてみた。やはり鳥籠の男はいない。

「あなたは、見えるんですか」

「鳥籠と鋏を持った男ですよね。鳥籠の中に少年が入っている。あれは『指喰い』と呼ばれています。私も見るのは初めてです」

 神楽鏡影は淡々と告げた。

「いつから存在するのか定かではありません。最も古い登場記録は十六世紀のヨーロッパで、日本での目撃例は明治二十四年のものです。開国で西洋人と一緒に渡ってきたんですかね」

 指喰い。やっていることそのままの呼び名だった。あれを知っている人がいる。もしかするとこの人なら助けてくれるかも知れない。恭子は勢い込んで尋ねた。

「それで、その指喰いって一体何なんですか。悪霊のような、それとも妖怪とか」

「人間でないことは確かでしょう。幽霊でもないようですね。実体がありますから」

 恭子の後ろを見ながら神楽は言う。今は恭子には見えないが、きっと鳥籠の男が立っているのだろう。

「でも壁をすり抜けたりするんです。あ、でも鋏で課長が切られたし、あれ、すみません、まだ詳しい話をしてなかったですね」

 神楽は小さく首を振って説明を続けた。

「存在する次元がこことは少し、ずれているのですよ。そのために見える時と見えない時、物理的に関われる時と関われない時があるのです。向こうはある程度自分の意思でやっているようですが」

 そんな曖昧な説明では納得出来なかった。しかし恭子にはもっと聞くべきことがあった。

「鳥籠の中の少年は何なんですか。どうして閉じ込められてるんです」

「人間ですよ。どうしてかというのは、指を食べやすいように、じゃないですかね。弁当箱や携帯保冷器みたいなものですよ。籠の中では心身の活動が低下するようです。血は固まりきっていないのに出血は多くない。あそこでどんな心境に浸っているのでしょうね。入ってみたいとは思いませんが」

 神楽は他人事のように語った。この人は一体何がしたくて私を呼び止めたのだろうと、ふと恭子は思った。

「あの指……もう二本しか残ってないんですけど。『指喰い』が、あの子の指を全部食べてしまったら、どうなるんですか」

 その問いに、神楽鏡影は反応を探るかのようにじっくりと恭子の目を見据えた。

「あなたも分かっているのではありませんか」

 恭子は答えなかった。口にしたくなかった。

 神楽は告げた。

「次はあなたの番ということですよ。あなたがあの鳥籠に入れられ、指を一本ずつ食われるのです。そのためにあれは、あなたの大事な指が傷つかないように近くで見守っている訳です」

 予想していたことだったが、実際に他人に指摘されると、それはどす黒い悪寒となって恭子の胸に染み込んだ。

 渕上という住職の言葉が頭に浮かんだ。その手で誰も触ってはいけない。万が一にも恭子の指が怪我をしないように、『指喰い』が相手を切り刻んでしまうためだったのだ。住職には分かっていたのだろう。

「あの、子。あの、中の少年は、どうなるんですか」

 自分も同じ道を辿るのなら、道の果ても知っておかねばならなかった。解放されるのならひとまず生き延びることは出来る。指のない不便な生活を強いられることになるだろうが。

 神楽は答えた。

「それは分かりません。用済みになった者の行く末については記録も残っていませんから」

「……。どうして『指喰い』は、人の指を食べるんですか。どうしてあんなものが存在するんですか。どうして私が、選ばれてしまったのか……」

「理由を知りたいですよね。納得行かない気持ちは分かりますよ」

 神楽は微笑した。

「しかしその答えはおそらく、『理由など特にない』ということになるでしょう。私は、最も恐ろしいものは人間の情念だと思っています」

 一呼吸置いて、神楽は続けた。

「ただし、それとは全く関係なしに恐ろしいものもまた存在するのですよ」

 理不尽。恭子の頭に浮かんだのはその言葉だった。同時に、神楽の言ったことを正しいと感じている自分もいた。

「私はどうすればいいんですか。どうすれば、捕まって指を食べられずに済むんですか。あなたは霊能者とか、お祓いの方じゃないんですか。日本で二番目という、いや今は一番だって霊能者の方は、何も出来ずに逃げてしまったんです。あなたは『指喰い』のことも知ってらっしゃいましたし、助けて頂けませんか」

 自分を助けられるのはきっとこの人しかいない。また、助けてくれるからわざわざ声をかけてきたに違いないのだ。

「霊能者とは、渕上一成や笹垣護のことですね。笹垣の方は分不相応なものに手を出してしっぺ返しを受けましたが。私は霊能者ではありません」

 ただの易者でもなさそうだけれど。神楽は自分の素性について説明しなかった。腕組みして少し考え、神楽は言った。

「あなたが指喰いから逃れるための方法は、幾つか考えられます。一つは、私が直接指喰いと戦って倒すことです」

「倒せますか」

「正直、難しいですね。あれは強い」

 神楽はあっさり言った。

「入念に準備を整えても相当なリスクを負うことになります。その代わり、勝負がつくまであなたに危険はありません。この方法を選ばれるのなら一千万、頂きましょう」

「え。一千万、円……ですか」

 恭子は面食らった。この人は金を取ろうというのか。人が困っているのを商売にするなんて。

「そうです。ボランティアで命は懸けられませんからね」

 神楽は薄い冷笑を浮かべていた。

 言われてみると確かにその通りだ。課長を一瞬で切り刻み、霊能者が失禁して逃げた相手と対決するのだ。でも、一千万とは……。

「すみません。そんなお金ありません」

 恭子は正直に言った。神楽も予想していたようですぐに話を続ける。

「そうですか。では第二案です。取り敢えず捕まり、指を全て食われ、解放された後で指を再生します」

「指を再生なんて、出来るんですか」

 なんだかとんでもない話になってきた。

「出来ますよ。私はそういう薬を持っています。首を切り落とされたり心臓を抉り出されたりしない限りは殆どの傷を元通りにしてくれます。百万でその再生丸を一粒、お譲りします。ただし、指喰いがあなたを生かしたまま解放してくれるかどうかは賭けになりますね」

 百万なら払えないことはなかった。しかしあの狭い鳥籠に閉じ込められ、一本ずつ指を切り落とされる恐怖には耐えられそうにない。それに神楽の言った通り、恭子を生かして解放してくれるとは限らないのだ。

「すみません。他の方法はありませんか」

「ありますよ。第三案です。これも少々リスクを伴いますね。指喰いに捕まる前に、あなたが自分の指を切り落としてしまうのです。或いは酸などの強い薬品に手足を浸すのもいいでしょう。それで指喰いは諦めて別の獲物を探すかも知れません」

 この人は、どうしてこんなひどいことを平然と話せるのだろう。

「指喰いが諦めた後で再生丸を飲んで下さい。一粒百万です」

「指喰いが諦めなかったらどうするんですか。怒り狂って私を殺すかも知れないし」

「その可能性はありますね」

「……すみません。出来そうにないです」

「そうですか。なら第四案です。笹垣護の件で思い出しました。あれなら指喰いに対抗出来るかも知れない」

 笹垣護とは、手足が腐って死んだという霊能者のことではないのか。神楽は懐からメモ帳を出し、手早く住所を書きつけた。

「ここに行ってみて下さい。あまり猶予がないので今からでも出発した方がいいでしょう」

 神楽は紙をちぎってテーブルに置き、恭子は手に取った。他県だ。今から列車に乗っても間に合いそうにない。急ぐならタクシーを使うしかなさそうだ。

 どうも嫌な予感がする。

「ここには誰がいるんですか」

「『腐れ風神』と呼ばれている魔物です」

 嫌な予感は当たったようだ。

「三十年前からその村にいます。村は全滅し、今も廃墟です。訪れた人は皆腐って死にます。笹垣は土地の持ち主に依頼され、失敗しました」

「あの……私もその村に入ったら、腐って死ぬんじゃありませんか」

「普通ならそうなりますね。ただ、あなたには指喰いがついていますから。この第四案は無報酬で結構です。いや、旅費は私が出しましょう。そこにタクシーが停まっていますよ。頑張って下さい」

 懐から一万円札の束を出してテーブルに置き、神楽が恭子の後ろを指差した。振り返ると、タクシーが後部ドアを開けて客を待っている。

 向き直ると神楽は消えていた。テーブルも椅子もなくなっている。まるでこれまで幻の相手をしていたかのように。ただ、地面に札束だけが落ちていた。

 狐に摘ままれたとはこんな時のことを言うのだろうか。恭子は溜め息をついた。

 

 

  五

 

 神楽の出した金は一万円札が三十枚だった。

 タクシーに乗っている間にも『指喰い』は姿を見せた。窓の外をタクシーのスピードに合わせて浮遊しながら、少年の左手薬指を切り取って食べた。恭子に見せつけるように。

 残りは右手親指だけだ。瞬きしない少年の昏い瞳は、次はお前だと言いたげに恭子を見据えていた。

 自分と同じ苦しみを、次はお前が味わうのだと。少年の悪意を恭子は感じ取った。恭子も鳥籠の中に入れば、同じように他人を呪うようになるのだろうか。

 嫌だ。鳥籠に閉じ込められて指を一本一本食べられるなんて。死ぬのも嫌だ。まだやりたいことの十分の一もやっていない。この若さで死にたくない。全身を切り裂かれるようなひどい死に方はしたくない。生きたまま手足を腐らせるような……。

 自分はとんでもないところに向かっているのではないか。恭子は不吉な予感に身震いした。

「もうじきじゃないですかね」

 タクシーの運転手が言った。出発から四時間半を経て目的地に着こうとしている。高速道路から国道へ、そして山道に入り、民家も殆ど見かけなくなっていた。

 その村は雨込村といった。『あまごめ』と読むらしい。山奥の小さな村。何人くらい住んでいたのだろう。そして全員が腐って死んだのだ。

「おっ」

 運転手が驚きの声を発した。ヘッドライトに水平の鎖が浮かび上がる。

 鎖に札が吊られていた。『危険 ここから先に進むべからず』と書いてある。

 雨込村に到着したらしい。

「どうします」

 運転手が尋ねる。

「ここで降ります。ありがとうございました」

 恭子は言った。

「先に行くんですか。危ないような気もしますけど」

「そうしないといけないので。釣りは要りませんから」

 恭子は一万円札を数えてシートの間の台に置きかけた。運転手が手を伸ばし、恭子の手から直接受け取ろうとした。

「あっ」

 フロントガラスの内側に大量の血が飛んだ。運転手の首が大きく裂けていた。恭子の方へ頭部が倒れかかり、首の三分の二近くにわたる断面から勢い良く血が噴き出している。紙幣を摘まんだ運転手の右手首が転げ落ちた。スーツは既に血塗れで、きっと太田課長の時みたいにズタズタに切り裂かれているのだろう。シートに染みた血が広がっていく。

 傾いた首から不思議そうに見上げる運転手の目と、凍りつく恭子の目が合った。運転手の目はそのまま裏返って二度と動かなかった。

 運転手は死んだ。恭子の不注意で、指喰いに切り刻まれて。惨殺死体と直面する恐怖に罪悪感が加わり、恭子は泣いた。しかしずっとこうしている訳にも行かない。恭子は自分でドアを開けてタクシーから降りた。

 涙はすぐに乾いた。空気が普通じゃない。生ぬるく、ドロドロと濁ったような空気が緩い風となって恭子の頬を撫でていく。風は前方から吹いていた。

 満月のため辺りの様子はある程度見て取れた。恭子は内心の抵抗を抑えながら鎖に歩み寄る。道の両側の木に張り渡しただけで、横から通れるし簡単にくぐり抜けることも出来る。鎖に触れるのが嫌だったので恭子は横から通った。木は立ち枯れになっていた。

 指喰いの姿は見当たらない。恭子は舗装されていない道を歩いていった。

 濁った空気は呼吸しただけで気持ち悪くなる。肺が腐ってしまいそうだ。粘液の中を進んでいるような気分だ。

 前方に自動車が見えた。セダンやミニヴァンなどが何台も停まっている。随分と汚れているが、ずっと放置されてきたのだろう。まだ新しそうなものもある。腐って死んだという霊能者の車だろうか。いや、もしかするとここは有名な心霊スポットとして、面白半分に訪れる人もいるのかも知れない。そして全員、殺されるのだ。

 車両の横を過ぎると民家が見えてきた。木造の平屋だ。家の前に何かが転がっている。月明かりの下で恭子は目を凝らした。

 服を着た白骨死体だった。Tシャツとジーンズは汚れているだけで風化していないのに、死体の方は綺麗に骨になっていた。腐れ風神。

 これ以上進みたくない。恭子が足を止めかけた時、背後でキキー、という微かな軋みが聞こえた。

 振り向くと指喰いが立っていた。大きな鍔広帽と黒マント、モザイクの服。左手に鳥籠、右手に剪定鋏。血のついた大きな刃が開いてショキッ、と音を立てた。

 使うつもりだ。でももう少年の指は一本しか……。

 鳥籠の少年は虚ろな表情で最後の指、右手親指を格子から差し出した。丁寧に、いとおしむように、指喰いは剪定鋏でそれを切り取った。少年の指が全てなくなった。

 指喰いは上を向き、仮面に覆われた異様な顔を月に晒した。V字型の口が開いて少年の指を受け入れる。

 尖った顎がゆっくり動き、骨の砕ける嫌な音が続く。恭子は目を逸らせなかった。次は私の番だ。私が鳥籠に入る番だ。

 ゴキュリ、と、指喰いが口の中のものを飲み込んだ。鋏を閉じた右手が鳥籠に伸び、出口の扉を開けた。少年を解放するのか。でも出口は約三十センチ四方の大きさしかない。小さ過ぎる。これでは通れない。

 指喰いの右手が籠の中に入り、少年の顔面を掴んだ。一気に引いた。

 少年の頭は片耳を削がれながらもぎりぎり出口を抜けた。両肩がつっかえた。ゴキメシャと骨の砕ける音が響いた。肩が変形し胴体が潰れ腕がへし曲がり無理矢理出口を通らされていく。途中少年の足が僅かに痙攣したように見えた。

 少年は投げ捨てられた。胴も手足も変形した肉塊となって。指喰いの異常な握力のため頭も潰れ、眼球が飛び出していた。もう死んでいるだろうが、その眼球が今も恭子を見据えているような気がした。次はお前の番だ、お前もじきにこうなるのだと、言っているように。

 指喰いも恭子を見ていた。そろり、とその足が進み出す。左手に持った空の鳥籠がキイキイと揺れる。

 ヒュィィィィィィ。恭子はいつの間にか細い悲鳴を上げていた。走って逃げた。嫌だ。あんなふうに死ぬのは。嫌だ。助けて。

 恭子は白骨死体の横を走り抜けた。道は曲がりくねっていた。廃墟と化した雨込村の奥へ逃げる。道に骨が落ちている。小さなものは鳩か、烏か。やたらと転がっている。人間の白骨死体もあった。二つ、抱き合うようにして倒れている。恋人同士だったのか。腐って死にながら何を思ったのだろう。いやそんなことを考える余裕は恭子にはない。百メートルは走っただろうが指喰いはまだ追いついてこない。もしかして鬼ごっこを楽しんでいるのか。怖くて振り返ることが出来なかった。

 角を曲がると板塀に隠れていた光景が露わになった。恭子は急停止して転びそうになった。

 平らな空き地に骨が山積みになっていた。動物の死体もありそうだが、絡みついた衣服と頭蓋骨から主に人間のものだと分かる。何人分の白骨か。百人、いや数百人分か。周囲には草一本生えていなかった。そういえば見かけた木は全て枯れていたようだ。ここに巣食う魔物は植物の生存も許さないのか。

 粘液の中にいる感じが強くなった。見えない舌に肌を舐められるような不気味な感触。ここは危険だ。一番危険な場所に来てしまった。魚の内臓の生臭さを恭子は感じた。腐った生ゴミを百倍に濃縮したような臭気。鼻を衝く酸っぱさと妙な甘さが混じり恭子は吐き気を堪えた。だが白骨ばかりで腐るものもないのにどうして匂うのか。

 山の向こうに動くものがあった。そこだけ白い靄に包まれたようにはっきり見えない。右から左へ、そしてまた右へ、ヒョコーン、ヒョコーンというふうに軽々と跳んでいる。高さ三メートル、距離十メートルを超えるような凄い跳躍だ。恭子は呆然と眺めていた。

 空中でふと靄が薄れ、中の一部が見えた。白髪頭。薄汚れた長い白髪に、妙に大きな頭だった。

 ヒョコーン、と、一際高く跳んで靄は骨山の上に着地した。骨山は僅かに軋むが崩れはしない。靄が揺らめいてほぼ全身が露わになった。

 腐臭の元凶『腐れ風神』の姿は腰にぼろ布を巻いた老人だった。背筋は曲がり、肌の血色も悪いのだろうが月明かりでは良く分からない。

 全身の皮膚がボコボコと、でたらめに膨らんだりしぼんだりしていた。腰まで伸びた白髪に半ば隠れていたが、顔には目しかなかった。瞼もない剥き出しの目だけが何十個も顔を埋めているのだった。

 全ての目が恭子を見ていた。来る。恭子が死を感じた時、背後で甲高い鳥の声のような音が響いた。ギギーイッ、のような、或いはギューイ、のような声だった。

 威嚇音を発した主が恭子の後ろに立っていた。指喰い。左手の鳥籠は派手に揺れ、右手の剪定鋏を前に突き出している。曲がった刃の先端が睨むのは腐れ風神。俺の獲物を盗るなと言いたいのか。

 足の力が抜け、恭子はその場に尻餅をついた。

 ヒョーンと白い靄が跳ねた。放物線を描いて恭子の方へ。

 しかしそれが空中で止まった。浮かんだまま靄が激しく揺らいでいる。シュパン、ピシ、シュピピピ、と奇妙な音が連続した。猛スピードで風が巡っている。

 小さな竜巻と化して指喰いと腐れ風神が戦っていた。両者の動きは速過ぎて、恭子の目には殆ど捉えられなかった。たまにマントや鳥籠が見えたりブヨブヨの素足が見えたりするくらいだ。どちらも着地することなく宙を移動する。マントから抜け落ちた烏の羽根がひらひらと舞った。

 竜巻の中から何かが飛び出し、恭子の近くに転がってきた。抉り出された一個の眼球だった。角膜が濁り白目部分も紫に変色しているのは腐れ風神のものか。目が沢山あったし。

 続いてもっと大きなものが飛んできた。ボデッ、と鈍い音を立てて落ちたのはブーツを履いた足だった。極彩色のズボンがくっついているので指喰いのものだ。どうやって足をちぎったのか。ブーツの中からドロリと粘液状になった肉が洩れてくる。腐っている。ズボンがみるみるしぼんでいく。肉液が染み出している。凄い速さで腐っていくのだ。腐った空気に新鮮な腐臭が加わった。それは錆びた鉄の匂いにも似ていた。

 腐液が地面を伝ってきたので恭子は慌てて立ち上がり数歩下がった。さっきまで動けなかったのに現金なものだ。動いた拍子に猛烈な吐き気が襲ってきて、恭子は上体を屈めて吐いた。何も食べてなかったので酸っぱい胃液だけ。腐臭が少しだけ紛れた。目を逸らすのが怖かったので吐きながら魔物達を見た。

 獲物が逃げると思ったのか、竜巻から鍔広帽が現れ恭子の方を向いた。と、靄の絡む手が伸びて帽子を掴んだ。ヒュパッ、と空気が鳴る。帽子を持ったまま手が落ちた。肘の辺りで断ち切られている。腐れ風神の片腕は暫く芋虫のように骨山を這っていた。

 また何かが飛んだ。カラカラと転がっていくのは鳥籠だ。籠を握る指喰いの左手。白い手袋が腐液で変色していく。

 竜巻の勢いは次第に弱まり、彼らの姿がなんとか見えるようになってきた。二つの化け物が互いを削り合っている。回転し、絡み合い、相手の存在を消し去ろうとしている。自分こそが最凶の厄災であると主張するかのように。腐れ風神の顔はズタズタに切り裂かれ、十個以上の眼球が抜け落ちていた。指喰いのマントが破れ、羽根と一緒にボタボタと腐液が滴っている。帽子を失った頭は毛髪がないが黒く、妙に凹んでいた。あれは元々なのか。脳がないのだろうか。

 また何かが落ちた。腐れ風神の足。指喰いからも大量の粘塊が落ちた。腐った内臓だろうか。濡れ汚れた衣服の切れ端が落ちていく。指喰いが剪定鋏を振るう。腐れ風神の残った手が指喰いの体に触れる。腐れ風神の傷口から白い煙が噴き出す。指喰いがギジューイ、と異様な声を上げた。

 ボロボロになりながらも二体は絡み合い回り続ける。どんなに傷ついても怯むことなく攻撃を続けている。急に恭子は彼らを美しいと思った。

 だが回転のやむ時は来た。全ての手足を失った腐れ風神の喉を剪定鋏が深く切り裂いた。腐れ風神の首がグラリと揺れた。その大きな傷から白い煙が噴いて指喰いの右手を覆った。手袋がしぼんでいく。手から鋏が滑り落ちる。掴み取ろうとして指喰いの右手は空を薙いだ。右手首がちぎれて地面を転がっていった。

 腐れ風神が骨山に落ちた。少し遅れて指喰いも落ちた。指喰いも右足しか残っていなかった。落ちた衝撃で指喰いの体がへし曲がり、腐った中身がベチャリとはみ出して骨山を染めた。指喰いの仮面が外れた。しかし素顔は既にドロドロでどうなっているのか分からなかった。

 腐れ風神は胴をくねらせて、指喰いに近づこうとした。皮膚の蠢動はかなり弱くなり、白い靄も消えかかっている。下の堆積した骨が乾いた音を立てた。

 指喰いも右腕の断端で骨山を撫でていた。もしかして鋏を探しているのだろうか。剪定鋏はバウンドして骨山の外に落ちている。

 どちらが勝つのか。それとも相討ちか。恭子が固唾を呑んで見守っていると、何処からか飛んできた黒い布が瀕死の二体にかぶせられた。五メートル四方もありそうな布は化け物達をまとめて包み込み、ひとりでに締め上げていく。

 そして二体の化け物は、サンドバッグに似た一抱えほどの袋となった。

 何、これ。これが決着なの。あっけに取られた恭子の横を過ぎ、黒い着物の男が袋に歩み寄っていった。

 男は、神楽鏡影だった。いつから見ていたのか。もしかすると最初から……。

 落ちていた鳥籠と剪定鋏も拾い、指喰いと腐れ風神の収まった黒い袋を抱えて神楽は言った。

「良い収穫でしたよ。ご協力ありがとうございました」

「あなたは……あなたは、何者なんですか」

 恭子は尋ねた。もしかするとこの男こそが、最も恐ろしい存在だったのかも知れない。

「私は、情念です」

 はぐらかすような答えだったが、神楽の目は暗く重い何かを宿していた。そして袋と鋏と鳥籠を持ったまま、恭子を残して闇へ去った。

 腐臭はいつの間にか霧散していた。それでも恭子は最後にもう一度だけ、吐いた。

 

 

戻る