第一章 二月の修学旅行

 

  一

 

 朝は晴れていたが地面にも屋根にもうっすらと雪が積もっていた。母が作ってくれた弁当を鞄に入れ、見送られながら藤村奈美は出発する。風は冷たく、痛くなってきた耳を奈美は手で押さえる。

 踏みつけた雪がシャクシャクと小気味良い音を立てる。足を滑らせないように注意して奈美は歩く。行き交う車はタイヤにチェーンを巻いているものもあった。自転車を漕いでいた同じ高校の生徒は後輪を滑らせて危うく転びそうになった。奈美の視線に気づいて彼は照れ隠しに笑い、急ぎ去った。慌ててまた転んだりしなければいいのだけど。

 学校までは歩いて二十分くらいだが実際は寄り道するのでもう少しかかる。以前より早めに家を出ることについて母に尋ねられたこともあるが、奈美は曖昧に答えを濁してきた。

 七、八分ほどで奇妙な形の屋敷が見えてくる。五角形なのか六角形なのかはっきりしない左右非対称の建物。この通りを歩いていると、ふとある光景が脳裏に甦ることがある。ひどい雨の中、頭を斜めに割られ倒れる青年の死体。首を切り落とされた高校生のカップル。一緒に切られた傘が転がっていた。血溜まりが雨水と混ざりながら広がっていく。

 だがそれらはすぐに消え、雪の積もった普通の道に戻る。もう三ヶ月以上経った。当時ほどの衝撃を感じなくなったのは慣れてきたせいもあるのだろう。それが良いことか悪いことかは分からないけれど。

 斜めの屋根が互い違いに重なった屋敷は洒落たデザインと表現出来なくもないが、くすんだ壁や手入れを怠った庭の様子からは陰鬱な雰囲気が漂っている。開いた門を抜け、奈美は玄関の呼び出しボタンを押す。鐘の音に似た電子音が屋内に響く。

 数秒でドアが開かれ、奈美のクラスメイトで殺人鬼の真鉤夭が出てきた。既に鞄も持っている。多分いつも奈美が門をくぐる前に気づいているのだろう。

「真鉤君、おはよう」

 奈美が言うと、真鉤は微笑を浮かべて「おはよう」と返した。いつもより決まり悪そうな笑みだった。

「じゃ、行こ」

 奈美が言うと真鉤は頷いてドアの二ヶ所に鍵を掛けた。この家には真鉤が一人で住んでいる。両親は彼が殺してしまったから。

 雪道を歩きながら、真鉤がポツリと言った。

「昨日はごめん」

「うん」

 いいのよ、とは言えなかった。気にしないで、とも言えなかった。真鉤が人を殺すところを直接見たのは二度目だった。首を切り落とされても平気な怪物や、焼却炉で処理中の死体を見たのは除いて。出来ればもう見たくない。でもそれは真鉤の本性から目を逸らす卑怯なことなのかも知れない。

 定期的に人を殺さないといけない宿命。平均して二週間に一度くらいだという。殺すのを我慢していると自分をコントロール出来なくなり無差別殺人に走ってしまう。それが事実だと奈美は思い知らされている。正体を奈美に告白してから今まで、やはり真鉤はひっそりと誰かを殺し続けているのだろう。見つからないように死体を隠しながら。最近は誰を殺したの、なんて奈美が聞ける筈もない。真鉤のノルマ処理に、今回はたまたま立ち会ってしまった訳だ。

 でもわざわざ自分がいる時に殺さなくてもいいのに、と奈美は思う。真鉤だったらあの若者達を軽くあしらえただろうし。いや、彼は目立つことを怖れている。真鉤だけなら逃げられただろうけれど、奈美もいたから殺すしかなかったのだろうか。でもその考え方は飛躍し過ぎな気もする。

 ああ、でもとにかく、自分の前では殺して欲しくなかったのだ。でもそれはやっぱり自分が目を逸らしたいだけで……と、奈美の考えは堂々巡りを続けている。もうやめよう。取り敢えずは。これから学校なのだ。

 ふと思いついて奈美は後ろを振り返ってみた。薄い雪の道を、奈美の足跡に並んで真鉤の足跡が続いている。

 察したらしく真鉤が苦笑して言った。

「普段はちゃんと足跡を残すよ」

 必要とあれば何処にでも忍び込み、気づかれずにベッドの下に潜むような人だった。

 学校への道筋を進むうちに同じ制服の姿も増えてくる。同級生を見かけると挨拶を交わす。真鉤の挨拶は控えめでいつも奈美の後だ。

 奈美と真鉤が付き合っていることはほぼ公然の事実となっている。一緒に登下校していることも知られているし、別に奈美は隠すつもりもないので気にしていない。目立つことを嫌った以前の真鉤なら気にしただろうか。僕の人生は君のためにあると、彼は奈美に言ってくれた。

 真鉤は表面的には大人しく地味なので、二人で歩いていると通行人がアンバランスだとか囁くのを耳にすることがある。でも真鉤に密やかな熱い視線を送る女子はクラスに何人もいて、奈美は彼女達のちょっとした物腰に自分への嫉妬を感じることもあった。

 確かにアンバランスではある。不死身の殺人鬼と癌体質の死に損ないのカップルなんて。

 二人は市立白崎高校の裏門を抜ける。昇降口で上履きに替えて二階へ上がる。二人は二年四組だ。教室は来週の修学旅行の話題でざわついていた。今時の高校ならオーストラリアとかに行くこともあるのに、東北の山奥でスキーなんて。スキーが一体何の学を修めることになるのか。そりゃスキーを学ぶことになるんだろ。スキーなんて何度も行ってるしわざわざ修学旅行にするほどのこともないし。なんてことを言い合いながらも、皆結構楽しみにしているようだった。

 奈美はスキーは初めてだしうまく滑れるか自信がない。失敗して崖から転がり落ちたりしないかと余計な心配をしたりする。真鉤ならきっと初めてでもそつなく滑るだろう。わざと下手を装って転んでみせたりはするかも知れないけれど。一緒に滑れたら助けてくれるだろうから安心だけど、きっとグループに分かれて別々のインストラクターにつくのだろう。

 授業が始まる。隣同士でヒソヒソお喋りしたり携帯でメールを打ったりしている者もいるが、奈美は一応真面目に先生の話を聞いている。でも以前ほど勉強に身が入らなくなってきている。勉強して何になるのだろう。自分が何年先まで生きていられるか分からないのに。長生き出来る可能性もあるのだしそんなに自暴自棄になってもいけないとも思う。取り敢えず大学には行きたいし、皆の顔を見るのも楽しいから学校に来るのは良いことなのだろう。

 ふと窓際の席を見る。真鉤はぼんやりと外に顔を向けていて、雪景色を眺めていたのだろうか。だがすぐに黒板に視線を戻しノートに書きつける。彼はきっと奈美が見ていることに気づいているだろう。急にもどかしくなり、こちらを見て欲しいという気持ちが強くなる。念じていたら通じるだろうか。

 真鉤が奈美を見た。あるかなしかの微笑を浮かべて一秒ほどで前に向き直った。良かった、通じた。奈美はホッとすると同時に授業中に何を馬鹿なことをやっているのだろうと自己嫌悪に陥った。

 昼食は奈美が真鉤の机に椅子を持っていって食べることが多い。クラスメイトの嫉妬やらのややこしい視線も気にしない。以前の真鉤はコンビニで買ったパンを食べていたが、一緒に食べるようになってからは弁当を持ってくるようになった。自分で作ったものらしくオカズはいつも焼いた肉と刻んだ野菜だけだ。味見させてもらったことがあるが正直まずかった。食べ物なんて栄養になりさえすればいいと考えているみたいだ。

「真鉤君のお弁当、作ってあげようか」

 奈美は思いついて言ってみた。

「気持ちはありがたいけど、自分で料理を作ったことはある」

 真鉤が淡く苦笑して尋ねる。確かにそういえばそうだ。奈美の顔に血が昇る。

「いや、滅多にないけど。目玉焼きは作れるけど、後は母さんの手伝いとか……でも、練習してみるから。ちゃんと料理出来るようになったら作ってあげるから」

「ありがとう」

 真鉤は礼を言うが口元はまだ苦笑している。練習しますとも。美味しいお弁当を作ってあげますとも。春頃までには、多分。

 午後の最後の時間は修学旅行についての細部確認だった。来週月曜の朝八時半までに学校のグラウンドに集合し、九時に出発する。一クラスが一台のバスに乗って十台で直接目的地へ向かう。途中高速道路も使い、昼食はバスの中で弁当を食べ、スキー場に到着するまで六時間。退屈な旅になりそうだ。

 到着したら一時間の休憩の後スキーの基本事項を学び、翌日から本格的にインストラクターについてスキーを始める。三泊四日の最終日は午前中に仕上げの滑りを終え、また六時間かけて帰ってくることになる。多分帰りのバスでは皆くたびれて眠っていることだろう。

 場所は加馬神山の加馬神スキー場というところで、この冬開業したばかりらしい。山奥のスキー場が客を引っ張るために学校に裏金でも払ってるんじゃないかと男子が皮肉っていた。

 スケジュールのおさらいをして今日の授業は終わる。奈美は文芸部だけれどほぼ公認の幽霊部員なのでそのまま帰ることに抵抗はない。真鉤と並んで廊下を歩いていると向こうから天海東司がやってきて気楽に片手を上げた。

「よう、お二人さん。調子はどうだい」

「こんにちは天海君。まあまあ……かな」

 奈美は笑顔で応じる。

 天海東司は奈美達と同じ二年だが、白崎高で最も恐れられ且つ尊敬されている男だった。威圧的なところはないが自然に風格のようなものを漂わせている。身長は百八十センチ台半ばで筋肉質だ。冬なのに制服の肘を切って太い前腕を剥き出しにしている。

 彼の腕や手がいびつな形をしているのは、拷問によってメチャクチャに砕かれたためだ。右膝は人工関節で、注意して見れば僅かに足を引き摺るのが分かる。数度の形成手術を経てまだ下顎は少しずれているし、歯は総入れ歯だという。右耳にも縫合した痕が薄く残っている。だが一番目立つのは、右目を覆う黒いアイパッチだった。髑髏マークがプリントされているが冗談で着けているのではない。眼球を抉り取られたためだ。

 暴力団に拉致され拳銃で七発も撃たれて生還し、病院に収容されたところで更に襲われた。天海は詳しい話をしないし二度目の襲撃も暴力団絡みだと皆は解釈しているが、奈美は本当の事情を知っている。彼女も危うく同じ男に拷問されるところだった。

 これだけひどい目に遭わされ後遺症も抱えながら、天海は相変わらず陽気で図太い男だった。奈美も天海を尊敬しているし、真鉤も天海への尊敬の念と大きな借りのあることを時折奈美の前で口にする。天海の怪我は真鉤のせいでもあったからだ。でも天海は決して真鉤に恩着せがましいことは言わなかった。

「ちょっと小耳に挟んだんだけどな、奈美ちゃん、真鉤の弁当作ってやるんだって」

 不精髭をニヤリとさせて天海が言う。奈美はあっけに取られた。

「え、何処からそんな話が入ってくるんですか」

「俺は可愛い娘についてだけは地獄耳でな。で、折角作るんだったら俺の分も作ってくれたら嬉しいな、なんて思って駆けつけた訳」

「でも、まだ考えてるだけだし……それに天海君は二人の女の子からお弁当貰ってるって聞いたけど」

「いや、今三人。全部食べるのも一苦労。だが奈美ちゃんの作ってくれた弁当なら入る余地はありそうだ」

「ううん……でも、その……」

 奈美が口篭もっていると天海は楽しげに大声で笑った。

「冗談だよ。修学旅行の準備は万端かい」

「うーん。多分、ね。スキーは初めてだから転びそうで心配だけど。天海君は膝は大丈夫なの」

「俺は大丈夫さ。元々運動神経があり過ぎたからな。ところで奈美ちゃん、気をつけろよ。修学旅行といえば男共が女湯を覗くのは定番だからな。覗かれないように俺がちゃんと見張っててやろう」

「でもそれって、天海君が覗くことにならないの」

 そんな他愛のないやり取りを、真鉤は静かに微笑しながら見守っている。

「じゃ、また来週。スキー場でな」

 天海は別れを告げ階段を上っていった。屋上で筋トレをするのだろう。彼は大抵そこにいて、トラブルに巻き込まれた生徒は助けを求めて屋上を訪れるのだ。真冬でも雪が降っていても、きっと天海は自分のルールを変えたりしない。

 帰り道の雪はタイヤと足跡に踏まれ続けて大半が溶けていた。黒ずんだ塊が端の方に追いやられている。小さな雪ダルマを玄関に飾る家もあった。これも溶けかかって木の枝の腕がしなだれているけれど。

 真鉤とは明日の予定を確認した。午前中に母親と病院に行き、午後に駅前で真鉤と後二人と待ち合わせする。映画を観る約束なのだ。

「じゃあ、また明日」

 五角或いは六角屋敷に着いて真鉤は言った。大人しくて自己主張の少ない殺人鬼。

「うん。明日ね」

 奈美はそう返して自分の家に向かった。真鉤に背中を見守られているのが振り向かなくても分かっていた。

 帰宅して、夕食の用意をしている母に「今日から私、料理手伝うから」と言うと、母はちょっとした奇跡でも見たような顔をした。

 

 

  二

 

 実のところ真鉤夭は一睡もしていなかった。

 どうして藤村奈美の前で人を殺してしまったのか。殺さずにやり過ごすことは出来た筈だ。あの手に絡まれるのには慣れていたのだから。最悪の場合でも大声で助けを求めたりすればなんとかなっただろう。

 彼女が横にいたから良いところを見せたかったのか。だが良いところどころか、絶対に見せるべきではないものを見せてしまった。彼女は悩んでいるだろう。真鉤の本性に怯えているかも知れない。自分の人生は彼女のためにあるのではなかったのか。クズめ。真鉤は自分をなじる。

 しかも雪で視界が悪かったとはいえ昼間のことだ。気が緩んでいたのだろうか。秘密にしていた自分の正体を知り、分かってくれる人がいることに、安心して、甘えてしまったのだろうか。真鉤自身にも分からない。だがそうだとしたら、自分が守るべき相手に寄りかかってしまったことになる。最低だ。

 今朝も謝ったけれど、あの程度で許されるとは思っていない。でも謝って済む問題でもない。これから気をつけなければならない。

 奈美の前で、校内で、真鉤は平静を装っていたが、頭の中では自己嫌悪と後悔だけが渦巻いていた。

 でも、どちらにせよ、自分は人を殺さなくては生きていけないのだ。

 だがそれを彼女の前でやるべきではなかった。

 あああああ。僕はどうしようもないクズだ。

 つい握り拳に力が入ってしまう。指の骨が軋みを上げ、それでも握り続けていると筋力に耐え切れず骨が砕ける感触。でも力を抜くとすぐに修復が始まる。壁に頭をぶつけたって壁が崩れるだけだ。

 今夜は眠れるだろうか。ベッドの上で膝を抱え、真鉤は思う。目覚まし時計は午前二時を示している。どうせ一週間眠らなくても平気なのだ。真鉤は自嘲する。

 来週の修学旅行は何事もなく終わって欲しい。出来るならば、彼女にとって良い思い出となるように。

 闇の中で真鉤はそれを願った。

 

 

  三

 

 内科外来には予約していた時間の二十分前に到着し、五分前にお呼びが来た。主治医は先週の血液検査の結果を穏やかな笑顔で告げた。異常なし。異常な細胞は認められなくなった、と。薬物治療はもう少しだけ続けてから一旦終了にしようと言われた。良かった。これで心置きなくスキーが出来る。

 先に奈美は退出して先生と母は五分くらい話していた。戻ってきた母の顔は晴れやかだった。慢性骨髄性白血病の治癒に安心したのだろう。これで娘の未来は守られた、と。

 自分の未来がそう明るいものではないと奈美は知っている。次はどんな腫瘍になるだろう。胃に出来るか、腎臓に出来るか、それとも大腸か。大腸を切除して人工肛門になるのは嫌だった。脳腫瘍もかなり悲惨なことになるらしい。悪性リンパ腫という腫瘍もあるらしい。手術などで簡単に良くなるのならいいけれど、いや良くない。自分の体がどんどん切り取られ減っていくようなイメージが浮かぶ。化学療法とか放射線治療とかで髪が抜け落ちていくのだろうか。悪い想像は何処までも広がっていく。

 両親から受け継いだ遺伝子のブレンドで悪性腫瘍の出来やすい体質に生まれたらしい。それを両親に教えるつもりはないし、恨んでもいない。人は皆、自分の宿命を背負って自分の道を歩くしかないのだと日暮静秋は言った。その通りだ。真鉤も日暮もそうやって生きている。

 ファミリーレストランで昼食を食べながら、今日の晩ご飯はご馳走にするわねと母は言った。

 待ち合わせの駅前に到着して母とは別れた。約束の時間にはまだ十五分ある。行き交う人々の間で奈美はふと空を見上げる。薄く雲が覆っている。スキー場はあまり吹雪にはなって欲しくないな。そんなことを考えていると目の前に人影が立った。

「ちょっと早かったかな」

 真鉤夭は二日前と同じ黒のダウンジャケットを着ていた。素手だったからね、と奈美は思う。刃物で殺したら返り血がついていたかも知れない。

「真鉤君はもっと早く来てたんでしょ」

 彼はそういう人だ。

 奈美は早速血液検査の結果を告げる。

「ひとまずは、良かった」

 真鉤は淡々と言う。奈美の重荷が下りた訳でないことを知っているからだ。

 北坂高の二人が到着したのは約束の十分後だった。遠くから歩いてきながら少女の方が少年に肘鉄を食らわせているのが見えた。

「悪い悪い。優子の化粧が遅くて……」

 言い訳しかけた少年の顔面に少女の拳がめり込んだ。メチイッ、と凄い音がした。

「嘘ばっかり。こいつの寝坊。休みの昼はグースカ寝てばかりなの。まあ吸血鬼だから仕方ないけど」

 少女が拳を戻すと少年は「すまん」と苦笑した後大きな欠伸をした。

 日暮静秋は黒のロングコートに白いマフラーという服装だった。身長百八十センチほどで、痩せ型だがちょっとした動作にしなやかさがある。西洋人みたいな彫りの深い顔立ちに肌も白い。艶のある長い黒髪と、底の知れない闇を抱えた瞳。帝王として何処かの玉座で足を組んでいてもおかしくない雰囲気だが、同時に飄々とした部分も持っている。その辺が日暮の魅力かも知れなかった。

 この現代の吸血鬼が、不死身の真鉤と互角に戦えることを奈美は知っている。催眠術も使えるらしいが、液体……特に血を操るのが得意で、触れるだけで相手に脳卒中や心筋梗塞を起こせるということだ。自分の血で作った鞭を振り回すのも見たことがある。

 南城優子は赤いハーフコートにロングブーツ、そして日暮とお揃いのマフラーを巻いていた。見事なプロポーションにモデルのような顔立ちは奈美が見ても惚れ惚れする。明るい性格だがちょっとがさつなところもあり、日暮を良く殴っている。奈美も一度だけ殴られたことがあった。

 日暮と同じクラスの彼女は特殊な血筋とかで、催眠術が効かないらしい。それがきっかけで日暮と付き合うようになったと聞くが、奈美も詳しいことは知らない。

「じゃ、予定の映画まで一時間以上あるから先に検査しとくか。その辺の喫茶店でいいかい」

 日暮が奈美に聞いた。

 程々に客のいる喫茶店に入り、四人は隅のテーブルについた。「朝飯もまだだったからな」と日暮はサンドイッチとジンジャーエールを注文し、南城はケーキセットを頼む。奈美と真鉤はコーヒーだけにした。

 ウェイトレスが去るとすぐに日暮はポケットから小さなケースを出した。待ち針と百円ライターが入っている。

「じゃ、早速やるか」

 日暮はライターの炎で待ち針を炙り消毒した。奈美が黙って右手を出すと、薬指の先に針を刺した。ほんの浅い傷で痛みも少しだけだ。

 針を抜かぬまま少しすると血の玉が浮いてきた。それが二、三滴分くらいになってから日暮は針を抜いた。血の玉は落ちずに針にくっついてくる。

 日暮はそれを自分の口に入れ、舐め取った。他の客に見られていないか気になって奈美は周囲を確認してしまう。

 待ち針をケースに収めてポケットに戻し、日暮は高級ワインでも味わうように口の中で舌を転がしているようだった。

 やがて日暮は言った。

「白血病は治ったみたいだな。再発の可能性はないこともないが、まあ当分は大丈夫だろ。他の病気も今のところなさそうだ。スキーを楽しんできな」

「ありがとう」

 治ったという実感が初めて湧いた。日暮には定期的に血液検査をしてもらっていた。最近はセカンド・オピニオンという言葉を聞くが、奈美が頼っているのは医学とは別次元の意見だ。相手の体質や健康状態まで把握出来るグルメの吸血鬼。

「おめでとう。お祝いしなきゃね。私のケーキ半分あげよっか」

 南城優子が笑顔を見せた。あっけらかんとした物言いに奈美も笑みが洩れてしまう。

「ありがとう。でも気持ちだけ貰っておきます。お昼ご飯は食べたばかりだし」

「東北の山奥だってな。遭難しないように気をつけろよ。面倒だから助けてやらねえぞ」

 日暮が冗談とも本気ともつかぬ口調で二人に言う。

「分かっているよ。君にはまだ借りを返していないしね」

 真鉤が答えた。四ヶ月ほど前、怪物との死闘に日暮が手を貸した件だ。携帯電話で助けを求めたのは奈美だった。

「修学旅行かあ。私達は一年の時に済ませちゃったよね」

「ああ、思い出したくもないな」

 南城の言葉に日暮が顔をしかめてみせる。

「あら、私は結構楽しかったけど」

「そりゃ君は俺みたいに死にかけてないからな。ひどいもんだったぜ」

 悪性腫瘍の出来やすい体質に生まれなければ、奈美は彼らと知り合うことなく平凡な人生を歩んでいたのだろう。いや、バスの転落事故から奈美を救ってくれたのは真鉤なのだから、今は生きていないことになるのかも知れない。

 総合ショッピングモールの一部として映画館があり、常に十数種類が上映されている。四人は適当な話をしながらポップコーンとジュースを買い、前の方の席に陣取る。客はそれほど多くなくてゆったりと映画を観ることが出来た。

 映画はスプラッターホラーだった。

 森に迷い込んだ若者達が殺人鬼に追われ次々と惨殺されていく。手足を切断され首が飛び、内臓が零れ出る。犠牲者の悲鳴を聞くたびに奈美は身を竦ませた。これはフィクションだ。現実とは違う。分かっているつもりだけどやっぱり怖い。

 右隣でカタカタと音がする。南城優子が歯を食い縛って震えており、その震動が座席まで伝わっているのだった。図太そうなのに意外に怖がりなんだ。思っちゃいけないのだけどついそんなことを思ってしまう。その向こうでは日暮が平然とポップコーンを食べている。

 奈美の左隣で真鉤が妙にモジモジしていた。最初はトイレに行きたいのかと思ったけれどどうも違うようだ。殺人場面にそそられているのだろうか。嫌だなあ。二日前三人殺したばかりなのに。そこまで考えて自分も随分だなあと思う。奈美の現実は映画よりも非日常的かも知れない。

 結局殺人鬼は殺された。最後の一人となった女性の決死の反撃によって。串刺しにされ、胴を真っ二つにされ、ハンマーで何度も頭を潰されて。ひどい死に様だが当然の報いとも言える。自分がそれだけのことをしてきたのだから仕方がないのだ。

 真鉤もいつか、同じようにして殺される日が来るのだろうか。少なくとも真鉤自身はそれを覚悟しているように見えた。

「だ、誰よこんな、ひどい映画選んだのは」

 映画館を出ても南城はまだ震えが止まらず日暮の腕にしがみついていた。日暮は苦笑しながら答える。

「選んだのは君だったけどな」

「わた、私はね、こんな映画だと思わなかったのよ。いや別に、怖いって意味じゃないんだからね。こんな下品で、ストーリーも何もなくて、中身が空っぽなダメ映画だから、私は怒ってんのよ。これは、怖くて震えてるんじゃないの。怒りの震えなんだから」

 目に涙を滲ませながらの強がりが微笑ましかった。

 今回のダブルデートは解散となり、「じゃ、またな」と日暮が言って二人は去っていった。南城が日暮の腕に掴まったままで。

 奈美も殺人鬼と手を繋いで帰ることにした。

 

 

  四

 

 月曜の朝。目覚ましがなる前に起きた奈美は三度目となる荷物の点検を行った。スポーツバッグの中には三泊分の着替えとオヤツ少々、携帯の充電器、使い捨てカイロなどなどが収まっている。それと一応化粧品。母に言われて絆創膏と正露丸も入れている。後者はちょっと笑ってしまったが、確かにバスで移動中にお腹が痛くなったら洒落にならない。

 軽い朝食の後で身支度を整える。申し送り通り、いつもの制服にカーディガンを重ね、マフラーを巻いて「じゃあ、行ってくるね」と出発したのだが玄関を出ても母がついてくる。

「え、どうしたの」

「いや、折角の修学旅行でしょ。見送りもしようと思って」

「見送りって、何処まで」

「勿論バスに乗るまでよ」

 母はニコニコしてとんでもないことを言う。

「ええーっ、だって恥ずかしいし。他に見送りに来る親なんかいないと思うけど」

「実希ちゃんのお母さんは見送りするそうよ。だから大丈夫」

 伊東実希は奈美とそこそこ仲の良いクラスメイトで、どちらかというと母親同士の方が交流が深いようだった。

 母はまだ奈美のことを心配しているのかも知れない。あまり邪険にする訳にも行かないと思って仕方なく一緒に歩くうちに真鉤のことに気づいた。まずい。

 これまで真鉤を家族に紹介したことはなかったし、そもそも男子と付き合っているなんて話したこともなかった。参ったな。でもこの数ヶ月早めに出発していることで何かあると思っていたかも知れない。待っている真鉤を放置して登校するのも不誠実だし、もういいや、このまま行ってしまえ。

 奈美は母に言った。

「ちょっと寄るところがあるんだけど、いい」

「いいわよ」

 母はやっぱりニコニコして答える。彼氏がいることは薄々感づいていたのだろうか。真鉤に会ったら母はどんな顔をすることやら。

 奇妙な形の古い屋敷で奈美は立ち止まり、奈美はさり気なく母の様子を見た。何とも解釈しようのない微妙な顔をしている。

 奈美は玄関まで歩き、呼び鈴のボタンを押した。いつもより遅く十秒ほどしてドアが開く。

 真鉤夭は笑顔の途中で平手打ちを食らったようなぎこちない表情になっていた。近づく気配が二人分だと分かっていたけれど、奈美の母親だとは思わなかったのだろう。なんだか凄く可笑しくて、奈美は吹き出してしまいそうになった。

「真鉤君、おはよう」

「おはよう……ござい、ます」

 真鉤の視線が後半は奈美から母に流れた。

「うちのお母さん。で、こちらは真鉤君。クラスメイトなの」

「……初めまして。真鉤夭です」

 真鉤が不自然な微笑を浮かべ挨拶する。

「初めまして。奈美とは仲良くしてもらってるのね。いつも一緒に登校してるの」

 母も作り笑いで声のトーンが違っていた。

「はあ、最近は」

「これからもよろしくお願いね」

「はあ」

「じゃ、行こう」

 奈美が言って、三人は並んで学校へ歩くことになった。会話も少なくなり気まずい雰囲気だが、奈美はずっと笑いをこらえていた。面白い。よっぽど非日常的な光景だ。

 学校の前にはバスが並んでいた。グラウンドには既に半分くらいの生徒が集まってワイワイやっている。見送りに来ている親も二十人くらいはいて奈美は安堵する。自分の母だけだったらどうしようかと思った。伊東実希も母親といたので手を振っておく。

「では、今後もよろしくお願いします」

 真鉤が奈美の母に一礼して男子のグループへ向かう。母もにこやかに礼を返す。奈美は取り敢えず実希のところに行こうとしたら母に腕を引っ張られた。

「え、何」

 母は五メートルほども奈美を連れて後ずさりし、小声で言った。

「ちょっとちょっと奈美、あの子と付き合ってるの」

「ま、まあ、そんな感じだけど……」

「あんな子がいいの。なんだか地味で、パッとしない子だけど。なんでわざわざあんなのを」

 母は地団駄でも踏み始めそうだった。小声だけど真鉤の耳なら絶対聞き取っている筈だ。

「お母さんには分からないだけよ。いいじゃない、私が好きなんだから」

 奈美の返事がストレート過ぎたようで、母は目を瞬かせて「そ、そうよね……」と言った。私もなかなかやるな、と奈美は思う。

 その後で伊藤実希のところへ行き、親子共々挨拶した。高校の修学旅行なんて一生に一度しかないものだし。修学旅行がスキーなんてねえ。そんなありきたりの会話を交わしているうちに生徒が増えてきたので親達はグラウンドの端へ引き下がった。

 教師が点呼を取っている。皆より頭一つ高い天海東司が奈美と目を合わせて片手を上げた。奈美も笑顔を返す。ちらほらと雪が降り始めた。空は暗い。吹雪になったら景色が見えないだろうな。奈美は実希と喋りながら男子の列に真鉤の姿を探す。

 真鉤夭は眉をひそめて厳しい顔になっていた。学校では決して見せない表情だ。彼が緊張している。何だろう。母に会わせたことがそんなにまずかったとも思えない。無表情の仮面を崩すほどの何かがあるのだ。モヤモヤした不安が膨らんでいき、それは奈美の中で一つの光景となった。血色の悪い大男が奈美の肩を掴み、力を込める場面。痛い。痛い。嫌だ。二度とあんなことは……。

 奈美は真鉤に歩み寄り、小声で尋ねた。

「どうしたの」

 数秒間、黙って奈美の目を見つめ、真鉤は耳元に顔を寄せてきた。ドキリとする。

 やっと聞き取れるくらいの微かな声で真鉤が告げた。

「この旅行、やめた方がいいかも知れない」

「え、どうして」

「……おかしい。先週まではなかった。同時に十人以上、サインが見える」

「えっサインって」

 奈美の声は大きくなっていた。他の男子がこちらを見る。

 真鉤の言う『サイン』とは死相のことだった。彼は死期の近い者や死病に冒された者を認識することが出来る。奈美の体質が分かったのもそのためだった。多くの人を殺してきたから分かるようになったのかも、と真鉤は前に語っていた。

 奈美が理解したのを確認し、真鉤が言葉を続ける。

「一組に六人。他の組にもポツポツといる。これだけ重なっているのだから原因は同じだと思う。旅行中か、学校にいる間か」

「で、でも。あ、そうしたら、うちのクラスは」

 出来るだけ声を落として奈美が聞く。

「今のところいない。でもサインが見えないからと言って死なない訳じゃない。見えないことの方が多いんだ」

「じゃあ、どうすればいいの」

 真鉤は俯いて、弱々しく言った。

「僕は、皆に教えられない」

 その通りだった。生徒に死相が見えるから修学旅行は取りやめにすべき、などと主張しても誰も信じないし、他の理由をつけたところで真鉤が目立ってしまうことには変わりがない。ひっそりと生きねばならない真鉤にとっては危険なことだった。それに、彼らの死は修学旅行の後に起きるものかも知れない。奈美も死相にへばりつかれたまま四ヶ月くらいは生きている。

「ひとまず、君は避難出来る。急に体調が悪くなったと言って旅行に参加しなければいい」

 それはそうだ。入院していた時期もあるし疑われないだろう。母親は心配するだろうけれど一緒にこのまま帰ることは出来る。でも……。

「でも、皆を見捨てて行けない。危険を知ってて自分だけ逃げるのは……後ろめたいし、卑怯、だと、思うし。ごめん。それに、その人達が修学旅行中に、死ぬ、とは限らないし……。やっぱり、私も、修学旅行、行っておきたいし」

 人生で最後の旅行になるかも知れないから。大切な思い出を、逃したくはなかった。

「分かった。どんなことになっても君だけは守る」

 それだけ言って、真鉤の顔が離れていった。彼が本気であることを奈美は知っている。嬉しいとも思ったが、不安の方が強かった。この旅行はどうなるのだろう。誰にも言えない。大男の手が奈美の肩に……。

 女子の列に戻ると実希がニヤつきながら言った。

「ねえ、真鉤君とコソコソ何喋ってたの。イヤらしい話でしょ」

「違うわよ」

 奈美もつい苦笑してしまうが不安は消えなかった。天海に相談すればなんとかなるかも知れない、そう思いついた時には出発時間になっていた。入ってきたバスへクラスごとに乗り込んでいく。中央の通路を挟んで男子が右側、女子が左側のシートに。最後部のシートには担任が荷物と一緒に座った。スポーツバッグを上の棚に載せる。バスの側面に荷物用のスペースがあったが、土産が増えた帰りにはそこも使うことになるだろう。奈美の席は窓際だった。出席番号順でシートは決められているが、休憩などの後にはゴチャゴチャになっているかも知れない。

 真鉤は奈美の二列後ろで通路側だった。振り返ると真鉤は黙って頷いた。

「よーし、皆乗ったな。出発するぞ」

 担任が言った。扉が閉まり、バスが動き始めた。

 雪の中を奈美の母と伊東実希の母が並んで手を振っている。一生に一度しかない高校の修学旅行。奈美も手を振り返しながら、やっぱりどうにかしてやめさせるべきだったかも知れないと思い始めていた。どうか、後悔せずに済みますように。どうか、何事も起こりませんように。奈美は祈った。

 

 

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