第二章 狩人

 

  一

 

 案の定、山は吹雪となった。地面も木も雪に覆われ、右の窓の向こうは麓の景色が広がる筈だが実際には霞がかった白い世界となっている。二十メートル先も見えない。前を行く三組のバスのテールランプがなんとか見える程度だ。

 わざわざこんな山奥にスキー場を作らなくてもいいのに。藤村奈美は改めて思う。

 サービスエリアで休憩を取った後、高速道路を出て田舎の風景を過ぎ、雪がひどくなったためタイヤにチェーンを巻いている。路面の状態について運転手と教師達が相談し、大丈夫だと結論が出たが中止が面倒で少し無理をしたのかも知れない。山道を入ったところで『トイレあります』という看板の立つ雑貨屋があった。念のためそこで小休憩を取り、再出発して三十分ほどが経った。道沿いに民家はない。バスガイドもいない旅で、カラオケやゲームなどで騒いでいたクラスメイトも疲れてきて口数が少なくなっている。問題は携帯電話が使えなくなってきたことで、スキー場も出来たばかりでその辺りの整備がまだなのかも知れない。信じられないと皆ブツクサ言っている。

 奈美の不安は、山で何かアクシデントが起きた場合に救助を頼めなくなるのではないかということだった。スキー場には勿論電話線は通っているだろうけれど。やまない吹雪も加わり、とんでもないところに来てしまったのではないかという微妙な気まずさが皆の間に漂っていた。

 曲がりくねって上る道は舗装されたばかりのようで、暫く未舗装が続くこともあった。バスにとってはカーブはやや窮屈だ。ガードレールはついているが奈美はつい以前の事故を思い出してしまう。真鉤に助けられ、奈美以外は全員焼け死んだバスの転落事故。今はあの時とは違う。でも、もしここから落ちたらどうなるのだろう。ガードレールの向こうはかなり急な崖のようだ。

 白い世界で何かがキラリと光った。下の方。人工的な光はガラスの反射だったろうか。一瞬だったし雪をかぶっていたので確信はないが、潰れた乗用車のようにも見えた。事故によるものか、それとも……。

 背もたれ越しに後ろを振り向いてみる。真鉤夭はお喋りもしていなかったし眠ってもいなかった。やはり眉根を寄せて厳しい表情で奈美を見返し、静かに頷いた。

 

 

  二

 

 彼は山道を上る十台の大型車両を高みから観察していた。この程度の吹雪は彼の視力にとって何の障害にもならない。

 窓の向こうに顔が並んでいる。まだ若いものばかりだ。口をパクパクさせている顔、頬を曲げた顔、疲れて眠っている顔、小さな機械を覗き込んでいる顔、何かを食べている顔。

 彼はそれらの表情に興味はなかった。興味があるのは彼らの強さと肉の量だ。

 一台の車両に四十前後が収まっていることを彼は知覚する。合計四百ほどが彼のテリトリーに入ったことになる。

 四百頭の獲物が。

 この山の生き物は獲り尽くしてしまった。熊も狐も鳥も全て。あれだけの数を確保すれば当分はやっていけるだろう。一頭も逃すつもりはないし、逃さない自信もあった。

 久々の大きな狩りだ。

 彼は弓を手に取った。太い枝に麻糸の弦を張ったもの。矢筒から矢を一本抜き、彼は先頭の車両に狙いを定めた。

 

 

  三

 

 天海東司はバスが山に入ってから珍しく不機嫌でピリピリした様子だったが、急に担任を振り返って声をかけた。

「あのさあ、トモやん。ここから引き返せねえかな」

 七組の担任である友田恵は化学の教師で、「めぐむ」という下の名前をたまにからかわれて「めぐみちゃん」と呼ばれることもある。男気溢れるというほどでもないがナヨナヨしている訳でもなく、淡々とした態度に滲む実直さが生徒達からそれなりの信頼を得ていた。天海からはいつも「トモやん」と呼ばれるのだが、友田は意外そうな顔でスケジュール表から目を離した。

「どうした、天海。トイレか」

 冗談のつもりはなかったようだがクラスの皆は大声で笑った。天海も少し苦笑を見せるが目は真剣だ。

「違うって。なんかここ、ヤベえ感じがする。俺の勘は良く当たるんだぜ」

「勘か。どんなふうにヤバい感じなんだ。事故とか」

「さっきまではっきりしなかったんだが、どうも俺ら、狙われてるぜ。もしかすると死人が出るかも知れん」

 アイパッチの天海が真面目な顔で言うとかなりの迫力があった。何しろ拳銃で撃たれたり拷問されたりして実際に二度も死にかけているのだ。何人かの男子生徒が上げた笑い声はすぐに頼りないものになった。車内はざわつき「マジかよ」と誰かが呟く。

「誰に狙われてるんだ」

「それは分かんねえ。でも俺は引き返した方がいいと思うけどな」

 友田は最後部の席からバスの運転手に声をかけた。

「運転手さん、後どのくらいで着きますか」

「俺もここは初めてやからよう分からんけど、十五分くらいじゃないかね」

 年配の運転手はのんびり答える。

 友田教師は少し考えていたが、後ろの八組のバスを確認して天海に言った。

「お前が言うことだから信用はしてるが、うちのバスだけがUターンする訳にも行かんしな。他のクラスを説得するのも難しそうだ。今は携帯も使えないし、スキー場に着いてからもう一度考えてみるのが無難なとこじゃないか。もしここでUターンしても山を下りるまでまた三十分かかることになる」

「まあ、そりゃ、そうなんだが……ああ、もう遅いかも知んねえな」

 天海は立ち上がり、「ちょっとごめんよ」と言いながら左側の席へ割り込んで窓から外を覗いた。女子がちょっと嬉しそうに不安そうに身を避ける。

「見えねえな」

 天海が呟くうちにバスがゆっくり減速し、停車した。

「どうしました」

 友田教師が運転手に尋ねる。

「いや、前が停まってるから」

 運転手が答える。確かに六組のバスの後部がすぐ前に迫っていた。向こうの生徒は無邪気にこちらへ手を振っているようだ。

 天海は自分の席に戻るかと思いきや、上の棚から自分のスポーツバッグを引っ張り出して昇降口へ向かった。

「どうした天海」

「ちょっと見てくる。もし進み出したら先で拾ってくれよ、おっちゃん」

 天海に言われ、運転手はあっさりドアを開けた。友田教師が声をかけた。

「そのバッグはどうするんだ」

「念のため、盾代わりさ」

 白い世界へ駆けていく天海を見送りながら、友田教師は「こんな時はあいつは生き生きしてるな」と呟いた。

 肘を切った制服に手袋も嵌めず、天海東司はバスの左脇を駆けていく。右膝の後遺症はあるが足は速い。六組の生徒が窓から不思議そうに見下ろしていた。

「チィッ、寒いな」

 ぼやく天海の息が白い。更に先に五組のバスも停まっている。天海はふと左を振り仰ぐ。木の生えた上り斜面は途中から吹雪に溶けている。天海はスポーツバッグを左脇に抱え直した。

 四組のバス。天海が窓を見ると藤村奈美の不安げな顔があった。天海は軽く右手を上げて挨拶する。奈美の向こうに真鉤夭が立っていた。表情はやや硬い。

 天海は真鉤に手招きしてニッと笑ってみせた。他の生徒達の視線が真鉤へ向けられる。真鉤はちょっと困ったような顔になったが、奈美と何か話し、後ろのおそらく担任教師に声をかけた後でバスを降りてきた。

「悪いな、呼んじまって」

「君には逆らえないよ」

 真鉤は微笑するがすぐ厳しい表情に戻る。

「行こう。先頭のバスが停まっている」

「奈美ちゃんには何か言ってんのか」

 奈美は窓にへばりつくようにして二人を見ていたが、真鉤が指差すと頷いて奥へ消えた。

「窓際は危ないから僕の席に座っているように伝えた」

 二人は喋りながら駆け出した。既に天海の髪にもバッグにも雪が積もり始めている。

「何が起こった」

「僕にも良く見えなかったが飛び道具みたいだ」

 三組、二組のバスを過ぎ、先頭である一組のバスが見えた。僅かだが左に傾いている。運転手と一組の担任教師が降りて左の後輪を観察している。二組の運転手と担任も降りてきていた。

「矢か」

 左目を凝らして天海が呟いた。

 二組の女性教師が天海達に気づいた。

「どうしたのあなた達。自分のバスに戻りなさい」

「手伝いが要るかと思ってね。力仕事なら役に立つぜ」

 天海はスポーツバッグを小脇にして両手を軽く上げてみせる。右手の指は変形し、左前腕も曲がっているが並の男より頼りになるのは確かだ。

 三十代後半の女性教師は溜め息をついてみせたが少し嬉しそうでもあった。

「タイヤ交換になりそうだけど、見てよこれ」

「どれどれ」

 天海が運転手の横に立った。屈んで覗くまでもなく明らかな異常が見て取れる。

 チェーンを巻いた大型タイヤがしぼんでいる。側面に、木製の細い棒が突き刺さっていた。直線に削られているが微妙な凹凸は手作業であったことを示している。後端には鳥の羽根が三枚。

「まあ、矢だよな」

 天海は言った。

「全く、誰がこんな悪戯を」

 一組の担任が吐き捨てるが、その声音に潜む不安を天海が代弁した。

「多分これ、悪戯じゃないと思うぜ」

「悪戯じゃなかったら何なの」

 女性教師が問う。雪に膝をついた天海が左目で彼女を見上げ、答えた。

「本気ってことだ」

 天海は車体の下に顔を突っ込んでタイヤを観察する。真鉤はバスではなく反対の上り斜面を向いて立っている。何かから天海を守ろうとするように。

「こりゃ凄えな」

 天海が忌々しげに嘆息した。二本組の左後輪の、内側のタイヤの向こうに金属片が顔を出している。鏃だ。やはり工業製品ではなく、鋼鉄をぶっ叩いて整えたような形状だった。

「バスのタイヤ二本を矢が貫通してるぜ。人間の力でそんなに飛ばせるもんかね」

 教師と運転手達は顔を見合わせた。真鉤が振り向かずに言う。

「クロスボウなら出来るかも知れない」

 教師二人は意外そうだった。大人しく目立たない真鉤が天海と連れ立ってくること自体、彼らには不思議なことだったかも知れない。

「ああ、ボウガンか。実際のとこどう思う、真鉤。クロスボウだと思うか」

 天海が身を起こして真鉤に尋ねた。

「……いや。多分、原始的な弓矢だと思う」

 大人達は再び顔を見合わせた。

「まだ見てやがるな。そんな感じがするぜ」

 上り斜面に目を向けて天海が言う。真鉤は黙って頷いた。

 改めて天海が大人達を見回した。

「で、どうするんだい。バスにスペアタイヤは」

「積んどるけど、二本交換したら三十分くらいはかかるんやないかな。この雪やしな」

 一組バスの運転手が言う。担任が後を継いだ。

「うちの生徒を分けて他のバスに乗せて、スキー場まで連れていこうと思ってるんだ。ただ、道が狭いんだ」

 天海がバスの後部に回り込み、右を確認する。中央線がなく、すぐそばにガードレールがあった。

「ここ一車線道路か。暫く対向車線もついてたけどな」

 左脇はすぐ斜面のため寄せる余裕もなく、他のバスが追い越すのは難しい。

「取り敢えずパンクしたままゆっくり進んで、広くなったところでタイヤ交換というのを考えてるんだが」

 一組教師の案に運転手は渋い顔をする。

「この雪の道をパンクのまま走るんはゾッとせんな。ちょっと間違ったらガードレール突き破って落っこちりゃせんかね」

「でも到着が遅れるなあ。携帯が繋がれば助けも頼めたかも知れないのに」

 一組教師が愚痴る。二組の女性教師が首をかしげた。

「下見の時はちゃんと繋がってたんですけどねえ」

「運転手のおっちゃん、バスは無線ないのかい」

「あるけどバス同士の連携用やから、遠くまでは電波が届かんな。スキー場が無線機置いとれば通信出来たが」

「そうか。ふうむ……」

 天海は一旦バスから離れ、ついてきた真鉤に小声で問うた。

「足止めだろうし、すんなりタイヤ交換させてくれるとも思えんがな。相手は何モンだと思う」

「分からない。でも、矢でタイヤ二本を射抜く筋力や気配からすると、人間じゃないと思う」

 真鉤の返答に、天海は別段驚きもしなかった。

「どうする気だろうな。先頭を止めたってことは、四百人じっくり皆殺しにするつもりか。大事件になるぞ。警察とか何とも思ってないのかね」

「スキー場もこの冬に出来たばかりだそうだし、山奥でひっそり暮らしていて文明を知らないのかも知れない。都会で暮らしていて、狩りをしに山に来たのかも知れないけれど。まだ何とも言えないな」

「もし殺し合いになったら、勝てそうか」

 真鉤は表情を変えず答えた。

「分からない。ただ、この山が相手の縄張りであることは……」

 二人はほぼ同時に斜面側へ振り向いた。シュヒュッという軽い風切り音にガズンと重い音が続く。少し遅れて女の悲鳴が上がった。天海と真鉤が一組バスの後部に駆け戻る。

 一組の担任がバスの側面に背をもたせていた。目を見開いて両手で首筋を押さえている。カフッガフッ、と湿った音が口から洩れる。そして鮮血が。

 教師の喉に矢が突き立っていた。鏃は貫通しており教師はバスの車体に縫い止められている。運転手達は呆然として、女性教師は甲高い悲鳴を上げている。車内から見ていた生徒達の叫びも聞こえてくる。

 教師は自分で矢を抜こうとしているようだがびくともしない。大量の血が手を濡らし足元の雪を染めていく。致命傷なのは明らかだった。目が裏返り、手足の力が抜けていく。

「おひゃああああ」

 二組の運転手が逃げ出した。自分のバスに戻ろうとする。二組の女性教師は腰が抜けたらしくその場に尻餅をつく。

 突然天海がバッグを掲げて身を沈めた。真鉤の右腕が霞む。金属を破る重い音をさせて三本目の矢がバスの車体に突き立った。矢が震えビイィィンという唸りを発する。一瞬前まで天海の頭があった高さの、数十センチ横だった。飛来する矢を真鉤が叩いて軌道を逸らしたのか、矢は斜めに刺さっていた。それにしても天海の勘の良さは尋常でない。

「あわっ、に、逃げっ」

 一組の運転手がバスに駆け込んだ。エンジンがかかりドアが閉じられる。

「おい、下手に動かん方が……」

 天海の声はもう届かないだろう。バスが発進した。タイヤに刺さった矢がクルクル回る。バスに縫い止められた教師が足を引き摺る。ぐったりと動かなくなりもう死んでいるかも知れない。中の生徒達はまだ顔を引き攣らせ悲鳴を上げているようだ。

 パンクした状態で急発進したためバスが蛇行する。天海が後を追い、それに真鉤が続く。女性教師は置き去りだ。

 なんとか三十メートルほど進んだ時、新たな風切り音にガラスの割れる響きが重なった。昇降口ドアのガラスだ。バスが急に右へふらつく。運転手の頭を矢が貫いている。凄まじい射手の技量。

「落ちるぞっ」

 天海が叫ぶ。死体の足がアクセルを踏んでいるらしくバスは更に加速した。鼻面がガードレールにぶつかりあっさりぶち破る。窓に並ぶ生徒達の青ざめた顔、顔、顔。

 前部が崖へ乗り出す。バスが傾く。

 焦って追いかけようとした天海が足を滑らせて転んだ。バッグを下敷きにして前のめりに倒れる。

 その横を人間離れしたスピードで真鉤が駆け抜けた。バスが底を擦りながら落ちていく。車体が道路を離れるぎりぎりのところで、真鉤の両手が後部下端を掴んだ。ミュキィッ、と鉄板が軋み曲がる。真鉤の膝も曲がりかけ、だがすぐに伸びた。バスが止まった。

 十トンを超える観光バスを、真鉤は素手で支えているのだった。後部の窓から数人の生徒が信じられない様子で真鉤の無表情な顔を見ていた。フッと小さく息を吐いて真鉤が足を踏ん張りバスを引っ張り上げようとする。

「危ね……」

 天海の叫び。振り向こうとした真鉤の右こめかみに矢が突き刺さり左側頭部から抜けた。血と脳の欠片を絡みつかせた鏃。右目だけが外側を向く。真鉤の姿勢が崩れ左手がバスから離れた。ガクンとバスが揺れ、車内から狂乱の悲鳴が飛ぶ。

 真鉤は倒れても右手を離さなかった。だがひどい軋み音と共に鉄板がちぎれ、バス本体が崖を転げ落ちていく。窓の向こうで泣き叫ぶ生徒達の顔は吹雪に紛れ見えなくなった。巨大な鉄塊が岩肌を擦り、ぶつかる音が下へ遠ざかり、やがて一際派手なクラッシュ音が上まで届いた。

 真鉤が倒れていたのはほんの数秒だった。ノロノロと起き上がるのは素早く動く必要がなくなってしまったからだ。軸の戻った両目で右手に残る鉄板を見つめ、真鉤は溜め息をついてそれを投げ捨てた。頭を貫く矢を鏃側で折り、羽根側を持って引き抜く。それらも崖へ捨てた。

 追いついた天海が真鉤の横に並んだ。頭の左右に開いた穴を見るが真鉤の不死身ぶりを突っ込んだりはしない。天海は真鉤の正体を知っていた。出血も少なく、傷口は塞がり始めている。

「助けられなかった」

 力なく、真鉤が言った。天海も泣くのをこらえているような、苦い、厳しい顔になっていた。容赦ない吹雪が二人の制服をまだらにしている。

「ああ。だが、助けようとしたな。皆にばれたらどうするつもりだった」

「催眠術を使える友人がいて、ある程度記憶をいじってもらうことは出来る。こんなところまで来てくれるかどうかは分からないけれど。それに……」

 真鉤は天海を見て言った。

「ここで見殺しにしたら、君と藤村さんに軽蔑されると思った」

 天海は微笑した。苦く、優しい笑み。

「……。軽蔑はしねえよ。人それぞれ、自分の都合があるからな。で、生存者はいそうにねえか」

「下まで五十メートルはある。生きている気配は感じないけれど、念のため確認に下りた方がいいかも知れない。でも、先に敵をなんとかしないと死人がどんどん増えることになる」

 真鉤は上り斜面を振り仰ぐ。

「まだ上にいる。やってみる。君は皆に伝えてくれ。窓のカーテンを全部閉じて、下手に動かない方がいい。うまく行ったら戻ってくる」

「お前が戻ってこなかったらどうする」

 真鉤はふと笑みを見せた。

「君に任せるよ」

 こめかみの穴は完全に塞がり乾いた血がへばりつくだけになった。真鉤は身を翻し、破れたガードレールから崖の向こうへ消えた。飛び下りたのではない。壁面を伝ってこっそり回り込むつもりなのだろう。彼は凹凸のない壁や天井でも這い進む男だ。

「死ぬなよ」

 真鉤の姿は見えなくなっていたが、天海の言葉はきっと届いただろう。

 天海は潰れたスポーツバッグを片手に引き返す。吹雪の中に女性教師の姿が浮かび上がってきた。

 彼女はまだ同じ場所に尻餅をついていた。

「先生、バスに戻りなよ。矢で脳味噌をほじくられるぞ」

「バスは……一組のバスは」

 女性教師が虚ろに問う。

「崖から落ちた。音は聞こえたろ。多分、全員即死だ」

 天海の言葉に彼女は身を震わせた。天海がその腕を掴んで引き起こす。まだ腰が抜けているようで、しがみつくのを天海がバスまで引き摺っていく。

「バスは動かさん方がいいぞ。矢で狙われ……あ、もう済んでんのか」

 昇降口のドアは開いたままで、革靴の足が横にはみ出していた。天海は上り斜面側に気を配りながら歩み寄る。

 バスの運転手が俯せに倒れ死んでいた。後頭部を射抜かれている。飛び出した眼球が視神経を引いて顔の横に転がっていた。

 車内では悲鳴を上げ続けている女子生徒もいた。別の一人は過呼吸を起こしているようだ。狂ったように携帯を操作している男子生徒もいた。多くの者は瞬きも忘れて凍りつき、転がる死体と来訪者の天海を見つめていた。

 漸く、男子生徒の一人が尋ねた。

「何、何が、起こってるんだ」

 女性教師を車内に押し込んで天海は答えた。

「誰かが上から弓矢で狙ってやがるんだ」

「一組は、一組のバスは……」

「崖から落ちた。多分全員死んだ」

 天海は仕方なく嫌な答えを繰り返す。ヒィィィィ、と女子生徒が細い悲鳴を上げた。

「外に出るなよ。矢の狙いはメチャクチャ正確だ。一発でお陀仏になるぞ。カーテンを全部閉めろ。窓際にスポーツバッグを積んで盾にしろ。フロントガラスも何かで塞いどけ」

 二組の生徒達を片目で睨みつけ、天海が鋭く叱咤した。

「さっさとやれ」

 大きな声ではなかったが生徒達は弾かれたように動き出した。天海は二組のバスを降りて「ドアを閉めろ」と女性教師に命じ、三組のバスへ走り出した。

 

 

  四

 

 真鉤夭は崖の裏を伝って百メートルほど横へ回り込み、素早く道路を渡って上り斜面に入った。積もった雪質は柔らかく、真鉤でも深さ一センチほどの靴跡が残ってしまう。気配も体臭も絶っているつもりだが、相手の感覚が人間離れしていれば確実とは言えなくなる。また、直接姿を視認されれば無意味だ。常人なら二十メートル先までしか見えない吹雪の中、真鉤の目は倍の距離を捉えている。だが相手の視力はそれ以上あるだろう。

 寒さが痛みとなって真鉤の顔と指を叩く。崖を這う時から軍手を填めているが指紋を残さぬためであって寒さを凌ぐためではない。指の感覚は保たれている。この程度の寒さはどうということもない。もっとひどい目にも遭ってきたし、遭わせてきたのだから。

 クラッシュ音も悲鳴も届かないから攻撃は小休止のようだ。連射を控えているのは矢を惜しんでいるのか。いや、これは狩りだ。じっくり楽しみながら仕留めていくつもりなのだろう。

 相手の気配を感じる。まだ吹雪に隠れて見えない。今の距離は六十メートル前後か。何か武器が欲しい。バスの鉄片をつい捨ててしまったが、持っていれば役に立ったかも知れない。ひとまず落ちている木の枝を二本拾っておく。長さ五十センチほどと三十センチほどのもの。少なくとも刺突には使える。

 姿勢を低くして這うように登っていく。真鉤が敵と戦っている間にバスが逃げる余地はあるか。いや、天海にそこまで鋭敏な勘と判断を頼ることは出来ない。皆のためには確実に、相手を始末しなければならない。天海のために。藤村奈美のために。彼女にこれ以上不安を与えることはしたくない。

 影。

 木々の間に長身のシルエットが浮かび上がった。丈は二メートル十センチから二十センチ、腕も体躯も太めだ。弓を左手に持ち、右腰に矢筒が下がっている。それと何か長いものを背中に吊っている。金属のようだ。

 真鉤は慎重に這って近づいていく。射手は下の道路に並ぶバスを見ているらしい。その位置からバスまでは百メートルほどありそうだ。吹雪の中この距離で恐ろしく正確な矢を放つのだから大したものだ。その視力も含めて。

 射手は矢もつがえず微動だにしない。デコイの人形ではないか。真鉤の冷めた心をふと疑念が掠めるが、乾いた殺気は感じられるから本物だ。この殺気がなければ真鉤も気配を掴めなかったかも知れない。

 背後へ迂回しながら三十五メートルまで近づく。射手は白かった。雪をかぶっているのかと思ったが白い毛皮のようだ。ズボンも同じで靴は分からない。まさかこいつは……。いや、相手が何者だろうと殺すだけだ。

 殺気を抑えろ。爬虫類のように忍び寄れ。いつものように。

 三十メートル。射手が背負っているものがはっきりしてきた。大振りの刃物だ。刃渡り一メートル二十センチほどで緩く湾曲している。エッジはカーブの内側についており鎌に似ていた。ただし柄は片手で握る程度の長さで真っ直ぐについている。

 疎らに生えた木は太くもなく身を隠すことは出来ない。もし射手が振り返ったら確実に見つかってしまう。接近戦なら真鉤が有利か。いや、自分が生物界最強という訳でもないことを真鉤は知っている。奇襲が最良の戦法だ。

 二十五メートル。大きな鎌状の刃には古い血痕がこびりついている。柄の木材も黒く汚れており、相当に使い込んでいるようだ。肩掛けした革紐に金属の輪を結びつけ、そこに刃を通して吊るしている。刃の先端はあまり尖っていない。刺すよりも叩き切るための武器。射手は頭も白い毛皮に覆われている。上着とズボンの繋ぎ目もない。フードではなく、どうやら自前の体毛らしい。

 二十メートル。真鉤は呼吸も止めていた。射手が矢筒から一本抜いて矢をつがえた。ギリギリと弓を軋ませて斜め下へ向け引き絞り、すぐに放つ。無造作だがおそらく狙いは正確だろう。風に混じる破裂音はタイヤに刺さったものか。大きな矢筒にはまだ二十本近く残っている。

 十五メートル。真鉤は射手のほぼ真後ろに来ている。助走なしでも跳んで届かない距離ではない。だが出来れば五メートル以内がいい。

 十三メートル地点で進めた右足に違和感が生じた。雪越しに地面がしなる。雪を僅かしか凹ませなくても体重はかかっているのだ。下が空洞のようだ。まさか落とし穴か。重心を左足に戻そうとしたが足の下でミシリと枝のたわむ音が、した。

 射手の振り向く気配と同時に真鉤は跳んだ。左足一本の跳躍なので距離が足りない。空中で短い方の枝を投げつける。

 矢が来た。つがえて射るまでが凄まじく速い。軌道を捉えきれず顔を庇った左腕に鏃が突き刺さった。前腕の骨を削り貫通してくるが腕を振ったため顔に刺さらずに済んだ。真鉤が投げた枝は殆ど意味を成さなかったようだ。射手は無言で次の矢を抜く。

 真鉤の着地点から相手までまだ七メートルあった。木の枝を右手に真鉤は低く突進する。

 二歩目で硬いものを踏んだ。突如雪を散らせ跳ね上がった金属の顎が真鉤の左足首に食らいつく。トラバサミだ。骨を砕く激痛。この一帯は多数の罠が仕掛けてあるのか。敵の眼前で罠に掛かったことを不運と嘆くべきか。いや、ハンターが相手なら罠の存在を想定しておくべきだったのだ。こんな大事な時に、なんと迂闊な。

 トラバサミは太い鎖とアンカーで地面に繋がれていた。鋼鉄の顎を外すか鎖をちぎるかアンカーを引き抜くか足首を引きちぎるか矢が来たっ。近距離から充分な狙いをつけて放たれた矢は防御の腕を貫いて左側頭部に突き刺さった。と思ったらまた次が来る。直接顔面に。左目から後頭部まで矢が抜けた感触。一瞬気が遠くなる。と、また刺さった。首か。体の左側の感覚がなくなった。脊髄をやられたか。矢を抜かなければ治らない。

 シャガララァ、と金属の擦る音が聞こえた。射手が背中の凶器を抜いたのだ。刃渡り一メートル二十センチの鎌に似た大鉈。近づいて、くる、振りかぶって。

 真鉤は右足で跳んだ。感覚はないが左足首をちぎれなかったらしく途中で突っ張る。右手の枝を投げた。相手の顔面へ。白い毛むくじゃらの。刃が迫る。避けられない。来た。刃が。

 分厚く重い刃は左腕ごと真鉤の首を切断した。首から下の感覚が完全になくなった。真鉤の視界が雪に落ちた。

 再び金属を擦る音。大鉈を戻したらしい。意識が鈍る。血流がなくなったから当然だ。バネの軋みはトラバサミを開いているのか。何かを持ち上げた。視界の隅にそれが見えた。

 真鉤の胴体を片手で掴み上げ、遠くへ放り投げたのだ。遥か下、バスの並ぶ道を過ぎておそらく崖の下へ。

 視界が動いた。頭を掴まれて持ち上げられる。矢で繋がった左前腕もついてくる。断面は粗かった。大鉈は腕力頼りであまり鋭い刃ではないようだ。

 射手の顔がすぐ前に見えた。細部の造作は長い毛に隠され、ギョロリとした赤い目だけが真鉤を観察していた。色素を持たないアルビノか。毛の海を横に割って大きく口が開いた。長い牙が並んでいる。生臭い息を真鉤は感じた。

 射手が真鉤の右頬に齧りついた。肉をゴッソリ持っていかれた。口の中でクチャクチャと何度か噛んで呑み込んだ。

 真鉤の生首は放り投げられた。白い吹雪の中を落ちていく。おそらく転落した一組のバスと合わせ、まとめて回収するつもりなのだろう。それが何十分後になるのかが問題だ。真鉤は藤村奈美の不安げな顔を思い浮かべた。天海東司の厳しい表情も。愛すべきというほどでもないが嫌いでもないクラスメイト達の顔も。真鉤がしくじったせいで何人犠牲者が増えることになるのか。すまない。奈美と天海は無事でいて欲しい。あんな怪物に食われるなんてことは……。

 ふと気づく。怪物が他人を怪物呼ばわりするとは。真鉤は白い闇の中で自嘲した。

 

 

  五

 

 藤村奈美は腕時計を確認する。午後三時十分二十五秒。さっき確認してから十二秒しか経っていない。それでも気になって奈美は何度も何度も確認してしまうのだ。

 本来ならスキー場に到着している筈の時刻だがバスは山道で停車したままだ。窓はカーテンを閉め、上り斜面のある左側にはスポーツバッグを積み上げてある。中の荷物が潰れるとか文句を言う者はいない。フロントガラスとリアガラスも着替えの服などで塞いだ。女子は窓際を避け、男子に席を譲ってもらったり通路に座ったりしている。ピリピリと殺気立った空気で声を発する者はおらず、女子生徒数人の啜り泣きと風の音だけが聞こえている。古文教師である担任の二ノ宮も血の気の失せた顔で硬直している。責任感と恐怖がせめぎ合っているのかも知れないが、どちらにしてもこのうらなり教師が現状を打開してくれることは誰も期待していない。運転手は時折無線で通信を試みていたがうまく行かないようだ。

 天海が一通り説明と指示を与えて去り、三十五分が経った。皆、不気味な轟音が一組バスの転落であったことを知っている。二年一組は全滅した。教師も生徒も皆。彼らの人生は奈美よりも早く終わってしまった。もうこれは修学旅行などではない。生きるか死ぬかの危機に全員が晒されている。

 真鉤はまだ戻ってこない。天海に尋ねた時、彼は様子を見に行っているということだった。それがどういう意味なのかは分かっている。でももう三十五分。彼のことだから大丈夫だとは思うけれど、でもああ、もう三十六分経った。

 もし真鉤君が死んでしまったらどうしよう。どうすればいいんだろう。どうなるんだろう。

 そこまで考えて気がついた。なんだ、自分も死ぬだけのことだ。どうせ真鉤に助けられた命だ。あまり先のない命でもある。真鉤が死んだのなら、これ以上生に執着する必要もない。奈美は少し気分が楽になった。

 隣の座席で震えている伊藤実希が不思議そうに聞いた。

「奈美ちゃんは、落ち着いてるね。どうやったらそんなふうに出来るの」

 奈美は微笑して答えた。

「最悪の結果を考えてみるの。それって死ぬことだけだし、人間は皆いつかは死ぬものだから」

 伊藤実希は信じられないというような、泣きそうな顔になって下を向いた。

 しまった、変なことを言ってしまったみたいだ。私も相当ずれてきてるんだなあと奈美は妙な感慨を抱いた。

 

 

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