第三章 赤き因習

 

  一

 

 ほぼ垂直にそびえる岩壁のそばに、巨大な鉄塊が横たわっていた。元は長い直方体だったものが、派手に変形し潰れている。降り続く雪が白いコーティングを重ねていく。

 転落した白崎高校二年一組のバスだった。底部を上にしてひっくり返っている。木が数本下敷きになって倒れている。窓は殆どが割れていた。外れたタイヤが転がって白いドーナツと化している。

 タイヤ以外にも散らばっているものがあった。ガラスの破片やスポーツバッグ、そして、生徒の死体が十数体。崖にぶつかりながら落ちる際に飛び出したものか、バスから十メートル以上離れた死体もあった。頭の潰れた死体があった。手足も胴もねじ曲がった死体があった。

 木の枝に男子学生が引っ掛かっていた。逆さ吊りとなったその体には首と左肘から先がなかった。下の雪に残る血の痕は僅かだ。

 六、七メートル離れた場所に生首と左腕があった。二つの部品は一本の矢で貫かれ繋がっている。左目は別の矢によって潰れ、右目は虚ろに見開かれたまま凝固している。右頬の肉が破れて歯列が露わになっていた。他の死体と違って雪の積もり方は少ない。滑ったような雪の凹み跡が生首から続いている。まるで、胴体に向かって首だけで這ったように。

 生首は真鉤夭のものだった。

 ギュッ、ギュッ、と、雪を踏む音が近づいてくる。

 木々の奥から大きな男が現れた。身長は二メートルを優に超え、全身が白い毛で覆われている。背には鎌に似た大鉈を吊るし、隠れた口から白い息を洩らす。

 狩人は弓矢の代わりに大きな網を持っていた。繊維は古いものだが太く強靭で、何度も修復された跡がある。

 ひっくり返り変形したバスと散らばる死体を見渡して、狩人は行動に移った。網を地面に広げ、頭の潰れた死体やねじ曲がった死体を拾って網へ放り投げる。うまい具合に、広げた網の中央に死体は落ちる。枝に掛かった真鉤の胴も投げた。

 生首を拾い上げ、狩人は顔に近づけて観察した。真鉤の瞳は既に何も見ていない。

 狩人は右手の人差し指を立てた。掌側に毛は生えておらず黒く分厚い皮膚が見える。

 長い爪を真鉤の右目に突っ込んで、グルリと抉った。視神経と眼筋群が切れて眼球がはみ出してくる。それを指で摘まみ、大きな口を開けて狩人は食べた。

 両目を失った生首を網へ投げ、眼球を口の中で転がしているのか顔の毛をモゾモゾさせながら、狩人はバスの残骸に歩み寄った。

 両手で底部を掴み、蟹の甲羅でも開けるようにあっさりとバスを割り開いた。鉄板が軋みちぎれる嫌な響き。

 中には生徒達の死体が折り重なっていた。断末魔に歪んだ顔もあれば、眠っているような顔もあった。潰れて訳の分からなくなった顔もあった。狩人はスポーツバッグや外れた座席をどけ、死体を掴んでは後方の網へ投げていく。

 死体の間に、微かに動く者が一人。クラスメイトがクッションとなったのか、口から血を流しているがその女子生徒はまだ生きていた。半開きの目、朦朧とした意識で狩人をどう捉えたのだろう。彼女は口を動かして何かを言おうとした。

 狩人は背中の大鉈を抜いて無造作に振り下ろした。ゴヅンと重い音がして彼女の首が落ちた。

 断面から血を流す胴を狩人は網へ投げた。

 五分ほどで洩らさず回収し終え、狩人は網に戻った。一クラス分の死体は肉の小山になっている。網を畳もうとして狩人はふと動きを止めた。

 死体が一つ足りないことに気づいたかどうか。狩人は周囲を見回していたが、やがて網を畳み、軽々と死体の山を抱えて歩き出した。

 

 

  二

 

 七組のバスに戻った天海東司が武器の準備を主張し始めたのは、時間を少し遡って午後二時五十分頃のことだった。

 天海は腕組みを解いて静かに立ち上がり、クラスメイト達、特に男子を見回して告げた。

「お前ら、武器になりそうなもん持ってたら出せ」

「天海、どうする気だ」

 担任の友田が尋ねる。顔は平静だったが声は少し掠れていた。

「念のためさ。もし敵が直接襲ってきたら迎撃しないとな。無抵抗でやられるのは御免だ」

 重苦しい沈黙の後で男子生徒の一人が言った。

「それより警察を呼んだ方がいいよ」

 天海は小さく溜め息をついて隻眼で発言者を見据えた。

「それが出来ねえから言ってんだろ。無線も携帯も通じねえ。先頭とケツのバスはパンクさせられて動けねえ。道が狭いから間のバスも身動き取れねえ。下手に外に出ると矢で串刺しにされる」

「で、でも、もう犯人はいなくなってるかも」

「ほう、それだったら万々歳だな。試しにお前が外に出てみてくれねえか」

 それで男子生徒は黙った。天海が続ける。

「やり方は幾つかある。パンクしたまま慎重に進んでスキー場を目指すか、どっかでUターンして山を下りるか。運転席はしっかり防御しとかないと危ねえけどな。もしパンクのせいで蛇行したり、運転手が殺されて暴走したら崖から落ちて一クラス全滅もあり得る」

 運転手が身震いした。天海が次の選択肢を告げた。

「もう一つは、助けらしきものが来るまでここでじっとしていることだ。到着が遅くなればスキー場が警察に連絡してくれるかも知れん。だがそうなるまでは一時間以上かかるだろうな。吹雪の中、警察が山を上ってくるまで更に一時間。多分最初はパトカー一台くらいだろ。矢であっさり殺されなきゃいいがな」

「誰かがスキー場まで助けを呼びに行くのは」

 別の男子生徒が聞く。

「歩いてか。さっき言ったろ、矢に狙われるぜ。それにバスじゃ十五分でも歩くと相当かかる。それしか手がなけりゃ俺が行くが、誰か留守を預かってくれるか」

 また沈黙。女子生徒が思い出したように啜り泣き始める。男子の一人が虚ろな目で呟いた。

「ここは……ここは日本なのに。なんでこんな目に。なんでこんな山奥に、来ることになっちゃったんだ」

 天海は容赦なく告げた。

「愚痴って助かるんなら幾らでもそうしろ。そうじゃねえなら生き延びる努力をしねえとな。進むにしろ戻るにしろ動かんにしろ、武器の準備は要る。田崎、お前いつもナイフ持ってたろ。出せ」

 呼ばれた田崎鉄雄は気まずげな顔で担任を窺い見た。

「非常事態だ。グダグダ言わんから、あるのなら出しなさい」

 友田教師は元気なく苦笑し、田崎は渋々立ち上がってズボンの尻ポケットから折り畳みナイフを出した。親指をかける突起つきで、片手で開くとブレードは十センチほどだ。

「もう一本あるだろ、バタフライ」

 天海が促すと今度は上着をまくってズボンの内側に手を入れ、バタフライナイフを出した。柄が二本に分かれて反転しブレードを現すタイプの折り畳みナイフだ。

「どっちも要るか」

「いや、好きな方は持ってろ。いざって時にはお前も前線に立ってもらうからな」

 田崎のいかつい顔が強張るのを皆は見た。低い声で彼は言った。

「俺が、かよ……」

「うちのクラスで俺の次に威張ってるのはお前だからな。威張れるのはそれだけのことをやれるからなんだぜ。もし得体の知れん敵が襲ってきた時お前が隅っこで震えてたら、生き延びたとしても一生馬鹿にされるんだぜ。負け犬としてな」

 天海の口調は挑発的であり同時に励ますようでもあった。田崎は下を向き、深呼吸を一つしてから天海を見返した。

「分かった。こっちをやる」

 最初に出した折り畳みナイフを田崎は差し出し、天海は「ありがとよ」と受け取った。

「そっちのナイフ、俺にくれないかな」

 田崎のバタフライナイフを指差したのは担任の友田恵だった。

「トモやん、刃物の扱いは慣れてんの」

 天海が尋ねる。

「いや、外食ばかりで包丁も滅多に使わん。でも担任だからな。生徒を守る責任がある」

 友田の微笑は不安の中にも意志の強さの宿るものだった。

 田崎はバタフライナイフを友田に渡して言った。

「実はバッグの中にもう一本ある。大型の奴がな」

 友田はちょっと呆れ顔になった。

「お前なぁ、修学旅行にナイフ三本か」

 皆笑った。ちょっとヒステリックな響きになっていたが、とにかく笑った。

「僕、スイスのアーミーナイフ持ってる。武器ってよりツールナイフだけど」

 男子生徒の一人が手を挙げた。天海が頷く。

「ないよりよっぽど役に立つぜ。その辺に枝が落ちてりゃ削って槍に出来る。話がまとまったら俺が拾いに出る」

「俺警棒持ってるけど。三段式」

 別の男子が言う。

「OK。取り敢えずそれにナイフ一本括りつけとこう。後は、そうだな……火炎瓶なんかが作れりゃいいが。燃料はバスのガソリン抜くとして、誰か瓶持ってるか」

「化粧瓶なら。あんまり大きくないけど」

 天海の問いに女子が手を挙げた。

 クラスは行動に移った。自分のスポーツバッグを探して田崎が取り出したのは刃渡り二十センチほどのシースナイフだった。結局それを天海が持ち、折り畳みナイフを田崎に返した。別の生徒が警棒を出す。ガソリンを入れる容器はバスの備品の給茶ポットを使うことになり、入っていた温かいお茶は捨てるのも勿体ないので空のペットボトルに移された。運転手は無線で他のバスにも概要を伝えたが、それで他のクラスが行動するかどうかは分からない。

 枝を探しに出ようとする天海に友田教師が言った。

「俺も一緒に出ようと思うんだが。的は多い方がいいだろ」

「いや、俺だけで充分だ。俺は勘がいいから矢を躱せるかも知れんが、トモやんは無理っぽいもんな」

 そう言って笑みを見せると、天海はすぐにドアを開けて出た。屈んでいる運転手に合図してすぐ閉めさせる。

 雪はまだ降り続いている。天海は近くの斜面を探すが地面は雪に隠れて落ちた枝など見えない。仕方なく生えている手頃な枝をナイフでぶった切る。刃筋を合わせて体重を乗せ、太さ五センチほどの枝を一度で切断する。天海はナイフを左手で持っていた。指の骨を潰され、右手の握力が極端に弱いためだ。

 四本目の枝を切ろうとナイフを振り上げ、天海は動きを止めた。白い視界と風の音に変化はない。

 硬直した数秒の後、天海はナイフを振り下ろしかけ素早く身を沈めた。鋭い風鳴りが彼の上を過ぎて道路に当たりガズッという音を立てた。鏃はアスファルトを貫いていた。

「俺の勘は凄えな」

 自画自賛しながら天海の首と腕には鳥肌が立っていた。枝を八本確保して天海はバスに戻った。

「大丈夫だったか」

 友田教師が聞く。

「まあな。だが、まだいやがるぜ」

 アスファルトから引き抜いた矢を天海は見せた。皆の安堵の表情がみるみる緊張に変わる。

「削って槍にしてくれ。頼んだぜ」

 また出ていこうとする天海に友田教師が言った。

「ホースがないんだ。ゴムチューブとか使えるものがないか探している」

「ビニール袋を巻いて管にするとか、なんか工夫してくれ。槍だけじゃ太刀打ち出来んかも知れんからな」

 天海は八組のバスへ走った。無線で連絡を受けていても彼らは何もしていなかった。天海は備えの必要性を改めて説得して次のバスへ行く。

「人のケツを叩くのも大変だぜ」

 天海は雪の中を駆けながら愚痴る。

 六組の担任は納得せず、救助を待つだけで充分と主張した。埒が明かないと判断し、天海は生徒に一通り伝えただけで去る。のんびりしてはいられないのだ。

 四組では藤村奈美が何か言いたそうに天海を見ていた。車内に真鉤の姿がないためすぐに察して首を振ると、彼女は不安げに下を向いた。それでも他の生徒よりは落ち着いているようだ。

 二組の女性教師はバスを動かす選択肢について頭から拒絶した。目の前で人の死を見て動揺がまだ収まっていない。また、二組のバスの運転手は死体となって最前列の座席に座らされており、女性教師が運転免許を持っていても雪の中で大型バスを動かすのは困難だろう。三組の運転手を引っ張ってきて一つずつずらすにしても、一台のバスは取り残される。七台のバスに分乗することは出来るが、バスから出れば狙い撃ちされるリスクも格段に高まるのだ。

 説明に時間がかかったため天海が七組のバスに戻ったのは午後三時半近かった。担任の友田に結果を報告する。

「すると、バスは動かせないか」

 友田は悩ましげに言った。天海は答える。

「待つしかなさそうだ。警察が来るか、敵が来るか」

 ホースの代用品はなんとか出来ていた。ビニール袋を切り開いて管状に丸め、セロテープで側面を密封したものだ。受け取った天海は給茶ポットを小脇に前輪近くの給油口を開け、即席のチューブを突っ込んで後端を口で吸う。

「うえっ、まずっ」

 天海はガソリン混じりの唾を何度も吐いた。チューブは漏れもなくうまく機能している。置いた給茶ポットに流し込む。新たな攻撃はなかった。吹雪の向こうで正体不明の敵は何を思うのか。

 満タンになった給茶ポットを車内に運び、中身を化粧瓶やビニール袋に移す。もう一度外に出てガソリンを入れ、給油口を閉めた。車内で給茶ポットに一応蓋をする。化粧瓶の口にはハンカチを詰めた。点火には百円ライターがあるし、田崎もジッポーを持っている。バス備えつけの発炎筒は天海がポケットに入れた。

 枝のうち四本はほぼ槍として使えるくらいになっていた。天海もシースナイフで手伝い始める。

 枝を削りながら田崎が天海に聞いた。

「『悪魔のいけにえ』って映画、知ってるか」

「いや、知らんね」

「じゃあ『サランドラ』は」

「名前だけは聞いたことあるな」

 田崎は昏い笑みを浮かべた。

「どちらもな、見知らぬ土地に迷い込んだ奴らが地元の殺人鬼に殺される話だ。『悪魔のいけにえ』は『テキサス・チェーンソー』ってリメイクされてるし、似たようなのでは『クライモリ』ってのもある」

「ああ、『クライモリ』はレンタルで観たな。ひでえ話だった」

 天海は顔をしかめてみせる。

「今の状況と似たようなもんだろ。得体の知れない殺人鬼に狙われて次々始末されていくのさ。ただ、映画とは違うとこもある」

「どの辺がだ」

「俺達は戦う意志があって、迎撃の準備をしてるってことさ」

「ふうん。田崎、お前意外にいいこと言うな」

 そんな会話を交わしながら、皆は状況の変化を待った。

 

 

  三

 

 麓に近い道に小さな雑貨屋がある。『トイレあります』というまだ新しい看板は雪で字が読みにくくなっている。

 看板の前に一人の少年が立った。髪も学生服も雪に塗れひどく汚れている。左袖は破れて前腕が露わになり、ハンカチを巻いた首筋を左手で押さえていた。首が左下に少し傾いている。

 少年は、真鉤夭だった。

 脇のトイレではなく正面に進み、軍手を填めた手で入り口のガラス戸を開けた。センサーにより電子チャイムが鳴る。

 狭い店内にはちょっとした食料品や菓子、生活必需品に土産などが並んでいた。真鉤の鋭い視線が這い、カウンターに載った黒電話機に止まる。

 生活空間となっている奥で気配が動き、垂れ布を押し分けて店主が現れた。途端に真鉤の目つきから鋭さは消えるが切迫した表情はそのままだ。

「いらっしゃい」

 七十代くらいの小太りで、やや背の曲がった老婆だった。人の良い笑みが真鉤の様子を見て不審げに変わる。

「あらぁ、ひどい格好ね。どうしたの」

「すみません、電話を使わせてもらえませんか」

 真鉤は何処かから空気の洩れているような声になっていた。

「そりゃ、いいけど、どうしたの」

「矢で射られて修学旅行のバスが落ちました。それでは使わせて頂きます」

 老婆がポカンと口を開けた。

 真鉤は右手で受話器を取り上げ一旦カウンターに置き、同じ右手で110と回した。左手はずっと首に触れている。やがて右手の受話器から中年男性の声が聞こえてきた。

「はい、秋田県警本部です。どうしました」

「助けて下さい。バスが崖から落ちました。修学旅行で、加馬神スキー場に行く途中の山道です。誰かに弓矢で射られて」

 相手が息を呑む気配があった。

「……怪我人は。救急車は呼びましたか」

「崖は数十メートルありました。多分、一クラス分全員助からなかったと思います。担任の先生と運転手の人は矢で殺されました」

 「なんてこった」という小さな呟きの後に警官の声が問うた。

「弓矢を使った奴はどうしてます。逃げましたか」

「まだいるみたいで、残りのバスも威嚇されて身動きが取れないんです。お願いです、助けに来て下さい。それから救急車も要ると思います」

「ちょっと待ってくれ」

 向こうのマイク部を手で塞がれたようだった。老婆が斜め後ろから真鉤を見ている。心配そうであると同時に、何かを窺っているようでもあった。

 真鉤が上体ごと回して振り返ると、老婆は目を逸らした。

 三十秒ほどで声が戻った。

「確認するが、君はその修学旅行に来た生徒なんだね。名前と高校名を教えてくれるかな」

 僅かな逡巡。だがすぐにそれを払いのけ、真鉤は答えた。

「真鉤、夭と言います。白崎高校の二年生です。加馬神スキー場に確認してもらえれば分かりますが、今日の午後三時には到着の予定でした。十クラスで十台のバスでした。落ちたのは一組のバスです」

「加馬神山だね。何処から電話してるんです」

「麓のお店からです。お店の名前は……」

 老婆が「種茂雑貨店」と教えてくれ、真鉤はそれを伝える。

「スキー場まで上る途中の山道だね。まずは、近くの駐在所から人を送るから」

「……。あの、大勢で来ないと、危険だと思いますが」

「それはこちらで判断するよ。雪もひどいしね。救急車が要るということだったね」

「はい。でも、大勢でないと、多分ミイラ取りがミイラになりますよ」

 相手は少しムッとしたようだった。

「君は犯人を見たのかね」

「……。いいえ、吹雪で良く見えませんでした。でも矢は走っているバスのタイヤをパンクさせましたし、ガラス窓を破って運転手を殺したんですよ」

「駐在所から人をやるから、待ってなさい」

 話は終わり、真鉤は受話器を置いた。

「凄い大ごとみたいねえ」

 老婆が取り繕うように言った。

「ありがとうございました。僕は皆のところに戻りますので」

 出口に向かいかけたところで老婆が声をかけた。

「どうやって戻るの。歩いてもどるのかい」

「はい、そうなります」

「じきにパトカーが来るから乗せてもらったらいいよ。山への道はこれ一本しかないし、絶対ここに寄るからね。寒い中くたびれてるだろうし、上がってお茶でも飲まないかい」

 真鉤は少し考えていたが、曖昧な微笑を浮かべて頷いた。

「では、頂きます」

 老婆に案内され、真鉤は靴を脱いで居間に上がった。コタツに座り、バスタオルを貰って服の雪と水分を拭う。用心深く左手を離し、真鉤は軽く息をついた。傾いていた首が真っ直ぐになっている。時刻を確認しようとして左手首の腕時計が壊れていることに気づき、壁の時計を見上げる。午後三時三十七分。

 老婆が台所から湯飲みと駄菓子を持ってきて真鉤の前に置いた。煎茶が湯気を昇らせている。

「すみません。頂きます」

 真鉤は頭を下げた。

 老婆は、真鉤が駄菓子を食べ、煎茶を飲み干すのを好ましげに見つめていた。

「ちょっと電話してくるからね」

 老婆は店側に戻り受話器を取った。薄い手帳を開いてダイヤルを回す。

「種茂だけど。村長はいるかい」

 老婆は小声で話し始めた。

「……ああ、私だよ。もう大井出さんから連絡は入ってるかい。……まだかい。あのね、困ったことになったよ。スキー場に向かってたバスが一台崖から落ちたって。学生が一人、ここまで下りてきて110番したんだよ。……そう、矢で。残りのバスも立ち往生してるって。……まさかこんな派手なことになるとはねえ。大事件になっちまうかも知れないよ。そうなったらいよいよカマガミ様も……いや、そんなことを言ってるんじゃないんだよ」

 老婆は居間を振り返るが垂れ布で遮られている。

「なんとかうまく片づけないと。大井出さんはもうすぐこっちに来るだろうけど。……一学年丸ごとだよ。バス十台って言ってたから四百人くらいいるんじゃないかね。全部消えても生き残りが出ても、結局事件になっちまうよ。どうしようか。……だからあたしゃスキー場には反対だったんだよ。カマガミ様が人間の都合なんか考えてくれる訳ないじゃないか。……ああ、分かってるよ。決まり通り、あれを飲ませた。でもいずれは警官隊やら捜索隊やらが出てくるよ。あたしらももう庇いきれない……まあそりゃ、冬を越しちまえばね。とにかく対策を考えておくれよ。……学生の死体は大井出さんに頼むよ。それじゃ、何かあったらまた電話するからさ」

 小声での会話を終え、老婆は垂れ布を押し分け居間を覗き見た。

 真鉤の姿はなかった。

「あれ、何処に……茶は飲んだのに」

「確かに飲みました」

 声は上から聞こえた。店側の、カウンターの真上から。振り向いた老婆が悲鳴を上げた。

「飲みましたが、毒は効きません。昔、父に何度か飲まされたことがあります」

 無感動に告げる真鉤は蜘蛛のように天井に張りついていた。いや、腹側を下に向けたこの姿勢は虫とは異なる。軍手と靴下の先が天井の板に触れているが何かを掴んでいるようには見えない。どうやって彼は体重を支えているのか。

「い、いつから……」

 老婆はその場に尻餅をついた。

「あなたが村長に電話する最初からです。会話は全て聞きました。鎌を持った神だから鎌神と言うのですか」

「み、見たのかい……あれを」

「はい、見ました。白い毛皮で、まるで雪男みたいですね」

 真鉤は床に音もなく着地した。

「それで良く……鎌神様に遭って、良く生きて……」

「死ぬかと思いました。首が繋がるまで時間がかかったので」

 真鉤は首筋のハンカチをずらしてみせた。水平に一周する赤い傷は半ば塞がっていたが、開いた部分は相当深くまで肉が見えていた。出血は既にない。

 いつの間にか、真鉤の掠れ声は治っていた。

「ば、化け物。たすっ助けて……」

 老婆が後ずさりして背を上がり口にぶつけ、無意味に宙を掻く。

「時間がないので手短に質問します。鎌神とは何者ですか。どうして村は鎌神に味方するんです」

「お願い、助けて、命ばかりは……」

「時間がないんです。答えないなら殺しますよ」

 威圧感のない態度が逆に不気味さを際立たせた。老婆は顔を引き攣らせながら答える。

「分かった。分かったから殺さんでくれ。鎌神様は、ずっと昔からおった。この山の主よ。何百年も昔から。冬の間しか出てこん。だけど、毎年何人か生け贄を出さんと、村が襲われる」

 『様』をつけてはいたが、老婆の口調から鎌神に対する尊敬の念は感じ取れなかった。

「警察に頼んだことは」

「かなり昔、江戸時代に二回、藩の侍達が討伐に来たとか聞いとる。返り討ちに遭って皆殺しじゃ。村もとばっちりを食うて、大半が殺された」

「だから怒らせないように、事件を隠蔽してきたと」

「年に三人か四人やれば充分だったからね。それがスキー場が出来て……ああ、あんたらには悪いことをした。でも分かっておくれ。そうしないと私らが殺されるんだよ」

 真鉤は壁の時計を見た。三時四十四分。

「鎌神の住処はご存知ですか。それと、念のため聞きます。奴に弱点はありますか」

「知らん。私は何も知らん。助けて、命ばかりは……」

「そうですか」

 真鉤は言って、老婆に右手を差し出した。

「村が生き延びるために、鎌神を知った者を生かしてはおけないんですね。生きるためには仕方のないこと。気持ちは分かります」

 老婆は安堵に顔が緩んだ。「あああ」と泣きながら真鉤の手を握る。真鉤が老婆を引き起こし、告げた。

「それはこちらも同じなんです」

 真鉤の左手が老婆の膝を掬った。老婆が後ろに倒れ込む。その驚愕の顔を右の軍手が覆い、充分な加速を与えて上がり口の段差に叩きつけた。グギッ、と骨の折れる音がした。

 段差の出っ張りに首が当たったのだ。老婆の目は裏返り、口から泡を吹き始めた。

「僕が生きていくためには、僕の正体を知った者を生かしてはおけないんです」

 真鉤はカウンターに戻り電話機に触れようとした。だがふと思い出したようにポケットから携帯電話を出す。サブ液晶は割れていたが壊れてはいなかった。アンテナマークが一本だけ出ている。麓のここにはなんとか電波が及んでいるらしい。

 店の電話を使わなかったのは通話記録が残るのを懸念したのだろう。少ない登録リストから真鉤が選んだのは『日暮静秋』だった。一秒の躊躇の後にダイヤルボタンを押す。

 七、八秒で面倒臭そうな声が来た。ノイズが多い。

「どうした。修学旅行中だろ」

「すまないが助けて欲しい。バスが襲われた」

「はあぁっ、何だそりゃ。誰に」

 吸血鬼は素っ頓狂な声を上げた。

「鎌神という土着の怪物だ。雪男みたいだった。弓矢や鉈も使う。罠もだ」

「へえ、そりゃ大変だな。だが前に言っといたろ、助けないって。そっちは東北で遠過ぎるし、自分でなんとかしろよ」

 日暮は素っ気なく突き放した。彼にウェットな人情を期待するのは間違っている。

「首を切り落とされた。繋がるまで時間がかかったので体が弱っている。相手はかなり手ごわい」

「頑張れ。俺はこれからデートだ」

「鎌神は複数いる。弓矢を射た奴と死体を回収に来たのは別だった。村は鎌神怖さに事件を隠そうとしている。頼む、君の助けが必要だ」

「そうか。なら諦めろ。諦めれば楽になるぞ」

「バスが一台落ちた。一組の四十人近くが死んでいる。僕も頑張ってみるが、最悪の場合一学年四百人が皆殺しになる」

 沈黙が落ちた。ノイズに混じって少女の声が聞こえる。日暮に話しかけているようだ。

 やがて、舌打ちと共に日暮が言った。

「分かった。間に合うかどうかは知らんが行ってみる。東北の何処だった」

「秋田県の加馬神山だ。加馬神スキー場がこの冬に出来たばかりだ。スキー場への道は一本しかないみたいだ」

「いいか、これは貸しだからな。前の貸しも返してねえんだから二つ貸しになるぞ」

「分かってる。……ありがとう」

 いつもは淡々とした真鉤の口調に、珍しく情感が篭もっていた。

「ふん。じゃあそっちで会おう。お前がその時まで生きてりゃな」

 電話は切れた。携帯の時刻表示は三時四十八分を示している。

「急がないと」

 真鉤は呟いて居間へ向かった。

 老婆は死んでいた。折れた頚椎が延髄の呼吸中枢を破壊したのだ。事故と解釈する余地を与えるため、意図的に選んだ殺害法だった。

 自分の靴を持ち、真鉤は居間を抜けて台所を漁った。出刃包丁と柳葉包丁をタオルで包む。裏の物置には大工道具から古着まで乱雑に積まれていた。柄の長さが五十センチほどの斧と、錆びた鉈が見つかった。繋ぎの作業着もある。老婆の家族のものであったか。真鉤は手早く学生服を脱いでそれに着替えた。軍手も靴下もそこにあったものに替え、自分のものは靴も含め大型のリュックに詰める。

 奥の棚にも工具やちょっとした作業機械が並んでいる。汚れたポリタンクの横に何かがカバーで覆われていた。

 真鉤はカバーを外して武器を発見した。

 物置を出て改めて見回すと二十メートルほど先に離れの木造家屋があった。吹雪のせいで誰もいないが、近くに工事車両が置いてある。

 スキー場開発で客が増えることを見越して何かを新築する予定だったのだろうか。家屋は解体中だった。

 

 

  四

 

 携帯電話を閉じて吸血鬼・日暮静秋はぼやいた。

「この糞寒いのに更に東北か。たまらんな」

 こちらはとっくに雪がやみ、晴れた空に乾いた風が吹いている。日暮は首を竦めて軽く身震いした。

「何。結局行くの。馬鹿みたい。静秋はあいつのパシリじゃないんだって、きっちり言ってやらないと」

 一緒に歩いていた南城優子が口を尖らせる。今日の授業が終わり街へ出るところだったのだ。

「仕方がない。隣の高校の俺達と同じ学年が丸ごとなくなったら気持ち悪いだろ」

「えっ、そんなにひどいの。嘘、全滅ぅ。雪男のせいにしてあいつが殺しまくってんじゃないの」

 ひどい言い草に日暮は苦笑する。

「何なら一緒に来るかい。死体の転がるゲレンデでスキーなんてのも乙なものかも……」

「そんなとこ行くかっ」

 早速拳が飛んでいつものように日暮の顔面に当たるかと思いきや、珍しく彼は躱して素早く接近し口づけしようとした。だが咄嗟に身を沈めた南城のアッパーカットが日暮の顎を捉え、彼は「ガフッ」と唾の混じった苦鳴を吐くことになった。

「キ、キスもさせないのか」

 狼狽して日暮が呻く。唇を切ったため流れた血は、魔法のように逆戻りして傷口に吸い込まれていく。

 身長差があるため顔を仰向けにして彼氏を無理矢理見下し、南城は嘲笑するように告げた。

「私は静秋の玩具じゃないんだから、簡単に出来ると思ったら大間違いよ。TPOをわきまえてもらわないとね。もっと乙女心をくすぐるような……ま、まあ、それはともかく、さっさと行ってきなさいよ」

「分かった。行ってくる」

 日暮は走り出した。

「じゃ、また明日ね」

 南条優子は気楽に見送った。日暮が無事に戻ってくることをまるで疑っていない。

 日暮は手を振って応じた。駆けながら携帯を再度開いて自宅にかける。

「じいや、俺だ。今から大急ぎで秋田の山奥まで行かなきゃならないんだが……いや、足を借りるだけでいいから。じいやはついてこなくていいって。だから乗り物だけでいいってば」

 何故か後半は、必死な口調になっていた。

 

 

  五

 

 男は薪を割っていた。雪の降り続く中、白く染まった庭で大きな切り株に薪を立て、無造作に手斧を振り下ろす。スコンと軽い音がして、太い薪があっさり真っ二つになる。爪先立ちで踵に尻を乗せた蹲踞姿勢で、男の上体は微動だにしない。

 男は三十代後半か四十代前半であろう。見事な体格で身長は二メートルを超えていそうだ。熊の毛皮らしい茶色のジャケットを着ているが手袋もせず、髪に雪が積もるままにしている。髭が濃く、頬骨が高く荒削りな顔立ちに、陰鬱さと悲哀が染みついたような瞳。

 けたたましいベルの音に男は太い眉を動かした。手斧を片手に立ち上がり、のっそりと屋内へ戻る。斜面に建てられた粗末な家はどちらかと言えば小屋に近かった。加馬神山の民家としては最も高い場所にある。

 中央には囲炉裏があった。隅の古い電話機が鳴っている。男はブーツを脱いで上がり、受話器を手に取った。

「伊蔵、仕事だ」

 年老いた声が告げた。男はすぐに返事せず次の言葉を待つ。

「鎌神様が修学旅行のバスを襲ったらしい。一台が崖から落ちて、残り九台が立ち往生だそうだ。学生が一人逃げてきて、種茂の店から警察に電話しおった」

「……それで」

 男の声は冷めていた。

「駐在所に県警本部から連絡が回ってきた。大井出が最初に様子を見に行くことにして引き延ばしたが、いずれは警官隊やら捜索隊やらごっそり来るじゃろ」

「……そうか。いよいよそうなるか。長かったな」

「何を言っとる。お主ゃ後片づけをせにゃならんのだぞ。数が多いから鎌神様も獲り逃してしまうかも知れん。外の警察が来る前に片づけてしまわんと」

「片づけてどうする。何百人も行方不明になったら大事件だ。もう隠しきれん」

 男は髭に覆われた口元を自嘲気味に歪めた。

「言うな。生き抜くために何百年も続いとる、加馬下村の掟じゃ。鎌神様に逆らう訳には行かんのじゃ」

「今は江戸時代と違う。警察には無理かも知らんが、幾ら鎌神でも自衛隊相手には勝てん。春になって隠れても捜索は続く。いつかは見つかる。村も調べられるぞ。生け贄を出しとったことも目撃者を殺したことも全部ばれる。今更何をしようが無駄なことだ」

 男は鎌神を呼び捨てにした。相手は苦い声になる。

「かも知れん。じゃが、そうなる前に鎌神様にわしらが殺される。わしらの努力を鎌神様に分かってもらわねばならん」

「死ねばいい。どうせ鎌神に話は通じん。何をしても殺されるなら何もせん方がいい」

「伊蔵、舐めた口を聞くな。お主が生まれた時にすぐ殺すことも出来たのじゃぞ。それをわざわざお前の母親共々養うてやったのじゃぞ。来い。お主も村の掟を背負うとるんじゃ」

 男は厳しい顔で暫く黙っていたが、やがて「行く」と一言告げて電話を切った。

「勝手なもんだ……」

 男は呟いた。

 壁に古い写真が一枚飾ってある。若い女性が微笑みかけている。その下に線香立てが置いてあるから遺影なのだろう。男は写真を見つめ、線香を二本取ってライターで火を点けた。線香立てに挿すが手は合わせない。

「俺も所詮は獣じゃ」

 男は毛皮の帽子をかぶって軍手を填めた。畳んだブルーシートとロープの束を麻袋に詰め肩掛けする。ズボンのベルト以外に太い革ベルトを腹に巻く。そちらには木鞘の剣鉈と革製の工具入れが通してあった。手斧も工具入れに突っ込み、ブーツを履き、入り口横の壁に立てかけてあったスコップを手に取ると、山辺伊蔵は線香をそのままに出発した。

 雪に覆われた普通の道を無視して、山辺は木の生えた斜面を駆け下りた。見事なバランスで転びも滑りもしない。やがてガードレールのある車道に出る。山辺は耳を澄まし、道のそばで待った。

 タイヤ用チェーンの響きとエンジン音が近づいてくる。二台。

 パトカーと幌つきの軽トラックだった。パトカーを運転しているのは中年の警官で、助手席に猟銃を持った老人がいる。軽トラックは四十代の屈強な男が運転していた。

 パトカーが停車して老人が手招きする。山辺は後部座席に巨体を押し込んだ。

「昨日スキー場から連絡があったが、山では携帯が使えんようになっとるそうじゃ。全種類のぅ。吹雪のせいでもなかろう」

 村長である猟銃の老人は電話の声で言った。血色の良くない顔に苦虫を噛み潰したような表情が加わり悪相となっている。

「基地局のアンテナを全部潰したか。鎌神が携帯の仕組みを知っとるとは思えんが」

 山辺が言うと中年の警官・大井出はヘラヘラ笑った。

「鎌神様のお考えはわしらにゃ分からんて」

「スキー場なんぞ最初から反対しとったんじゃ。こんなことになるのは目に見えとった」

 村長の愚痴に大井出が早速突っ込みを入れる。

「業者からたんまり裏金貰うて真っ先に折れたのは村長、あんたじゃろ。本当に、こんなことなるのは分かっとったのに」

 村長は気まずく弁解を試みる。

「生け贄が要らんようになるとちょっと期待もしとったんじゃ。鎌神様ももっとうまくやってくれりゃあ良かったが。こっそり数人行方不明くらいなら大騒ぎにならんと済んだ」

「わしらもいつの間にか、鎌神様を甘く見とったんかも知れんの」

 大井出が煙草を一本出して吸い始めた。後部座席で山辺が呟いた。

「あれは獣じゃ。好き勝手に獲物を狩るだけのな」

 『トイレあります』という看板が見えてきた。種茂雑貨店。パトカーが乗り入れて駐車し、軽トラックも続く。

「お前はここで見張っとれ。誰か逃げてきたら捕まえなならん」

 軽トラックから降りた男に村長が命じた。大井出が入り口のガラス戸を開ける。

「婆さん、そっちは片づい……」

 大井出が絶句した。後から来た村長が「どうした」と聞く。

 山辺が進み出て、居間への上がり口に倒れた老婆を見下ろした。

「死んどる。首が折れとるな」

「何じゃそりゃ」

 村長が喚いた。大井出も近寄って山辺に尋ねる。

「事故かの」

「いや、見せかけとるがそんな筈はなかろう。鎌神でもない」

 山辺は垂れ布を掻き分け居間を覗く。

「通報した学生というのはどうした」

「婆さんは毒を飲ませたと言っとったが」

 村長が答える。山辺は土足で上がり込んだ。コタツの上の湯飲み茶碗に顔を寄せ、匂いを嗅ぐ。

「毒は飲んどるようだが、死体はない。婆さんが運んだ訳もなかろう。それに……」

「どうした」

「匂いがせん。さっきまでおったんなら、どんな奴でも体臭は残る。それがせん」

 山辺はコタツの周囲を観察する。畳の一部が濡れて汚れている。溶けた雪か。山辺は台所を漁る。

「どういうこった。逃げてきた学生が婆さんを殺した言うんか」

 大井出の言葉に、戻ってきた山辺が頷いた。

「その学生、案外只モンじゃねえな」

「もう逃げ出してしもうたんか。まずい、まずいぞ。目撃者が逃げてしもうたら村は……」

 村長が呻く。山辺は首を振った。

「いや、山に戻ったようだ。包丁が消えとる。戦う気なんじゃろ」

 大井出が呆れて言った。

「馬鹿か。鎌神様に逆ろうて勝てる訳がなかろうが。只モンじゃないつうても人間じゃろ。包丁でどう戦うかね」

「……どうかな」

 何を思ったか、山辺伊蔵は髭面に陰惨な笑みを浮かべた。尖った黄色い乱杭歯が覗いた。

 

 

戻る