一
黒いSUVが山道を上っていく。チェーンは巻いておらずスタッドレスタイヤの四駆らしい。屋根に乗る四枚のスキー板は既にかなりの雪をかぶっている。フロントガラスに降りかかる雪をワイパーがせわしなく往復して払い落とす。ガラスの奥に若い男女の姿があった。
やがて道は狭くなり一車線道路となった。白く濁る視野と路面の悪さにしてはSUVはスピードを出していた。車の性能を過信しているのか、或いは予定の時刻に遅れて焦っているのか。
カーブを曲がると前方に突然壁が現れSUVは急ブレーキをかけた。四本のタイヤが雪を散らし、危うい挙動を見せつつなんとか停車する。三十センチほどしか余裕がなかった。
女は顔を引き攣らせ、男は驚愕の表情が怒りに変わっていった。ドアを開け、舌打ちしながら降りる。
「危ねえな」
前を塞ぐのは大型バスだった。青いボディに白い雪がこびりつきまだらとなっている。リアガラスの右上に『白崎高校修学旅行御一行様』という札がついている。
奇妙なのは、リアガラスのほぼ全面にスポーツバッグが積み上げられ、内部が見えないことだった。バスのエンジンはかかっている。どうして停車しているのか。
「通れねえじゃねえか。道が狭いのによう」
頭の雪を払いながら悪態をついた時、男はバッグの隙間から人が覗いているのに気づいた。女子生徒のようだが男と目が合うと喜んでいるのか怖がっているのか分からない顔をして消えた。すぐに男子生徒に替わる。ガラス窓を叩いて何か訴えているようだが声は届かない。
「何やってんだ」
男はバスの左側面に回り込んだ。すぐに立ち止まったのは後部タイヤから何かが生えているためだ。細い木の棒で、羽根がついている。
「何だこりゃ。矢かよ」
男は眉をひそめた。
「一体どうなってやがる」
側面の窓は全てカーテンが閉じていた。昇降口も閉じたままで誰も降りてはこない。前にもう一台バスが停まっているようだ。
「事故か。詰まってんのか。だけど何だよこれ」
男はタイヤに刺さった矢を素手で掴んで引き抜こうとした。だが深く刺さっておりびくともしない。
「おい、兄ちゃん」
太い声に男は顔を上げた。雪を踏む音が近づいてきて、白い世界に長身の影が浮き上がる。
制服の肘から先を切って前腕を露わにした男子生徒だった。右目に髑髏マークの黒いアイパッチを着け、右手に木の枝を、左手に大型のナイフを持っていた。木の枝は先端を削り鋭く尖らせてある。槍のように。
天海東司だった。車載無線によってバス同士の情報伝達が行われており、異変の知らせはすぐに七組の天海まで届けられたのだ。
「何やってんだ。その格好は」
男が尋ねた。天海が鋭く告げる。
「早く車に戻れ。死ぬぞ」
「何だと。やる気かてめえ」
男は表情を硬くして身構える。天海は首を振った。
「俺じゃねえ。弓矢で狙われてんだよ。もう何十人も死んだ。早く車に戻れ。バックして急いで山を下りろ。そして警察に……」
後ろでガラスの割れる音がした。女の悲鳴。男が慌てて振り向く。天海がそちらへ走る。
SUVの助手席側の窓ガラスが割れ、女が左肩から血を流しているのが見えた。矢は刺さっていない。車体の右側から鏃が突き出しており貫通したらしい。
「ユミコッ」
男が駆け寄って割れた窓から女に触れた。女は喋ろうとしているが言葉にならず、口から血を流している。天海が左の目で観察している。矢は背中から抜けたようだった。
「なんで、なんでこんなっ。誰がやったんだ」
男は泣きそうな顔で叫ぶ。パニックになりかけているようだ。
「誰かは分からねえ。だが弓の腕は抜群だし、俺達を皆殺しにする気らしい。まずこっちへ来い」
天海が木の枝を持ち替え、右手で男の肩を掴んでSUVの陰側に引っ張ろうとする。だが男は腕を振り払った。天海が苛立たしげに自分の右手を見る。粉砕骨折で握力の低下した指。
「ユミコ、ユミコッ」
男が女を揺さぶるが女の瞳は焦点が定まらなくなり力なく閉じていく。シートに染みた血が更に足元に滴り落ちる。
「悪いが、致命傷だ」
天海が冷静に告げた。
「バスの中の方が安全だと思う。それか、あんたにその気があるなら山を下りて警察に知らせてくれ。助けが要る」
男は話を聞いていたかどうか。だが天海が急に「伏せろっ」と男の頭を掴んで押し下げた。ガスッ、という金属のひしゃげる響き。
「いってえ……」
呻いたのは天海だった。右の太股を矢が貫いて先端はSUVのボディに刺さっていた。流石に勘だけでは避けきれなかったようだ。
男は新たな矢を見て漸く自分も危険なことに気づいたようだ。目を見開いて意味不明の叫びを上げる。
「おひゃああおおっ」
男は天海を置いて運転席に駆け戻った。
「おいおい、待てよ」
天海は羽根側を右手で持ち、左手のナイフを矢に振り下ろした。矢は意外に硬く半ばほどまで食い込んだだけだ。衝撃が足に伝わり天海が悲鳴を噛み殺す。
もう一度ナイフを叩きつけようとした時、男がSUVをバックさせた。引っ張られた矢の羽根が太股の肉を抉り天海が「糞っ垂れ」と喚く。矢は太股を裂いて完全に抜け、天海は尻餅をついた。
SUVはバックのまま急加速する。その先にはカーブがあった。
「おい、道を飛び出すぞ」
天海の忠告は男の耳に入らなかったろう。SUVは尻をガードレールにぶつけ嫌な音を立てた。助手席の女が揺れる。もう死んでいるかも知れない。
男は慌ててギアチェンジしてハンドルを切り、一車線ながらカーブの余裕を使ってなんとかUターンを成功させた。再び急加速して雪を散らしながら去っていく。
天海は木の枝を杖代わりにして立ち上がった。太股から流れる血がズボンを伝い靴を濡らしていく。
「全く、踏んだり蹴ったりだな」
天海は呟いた。十組バスのリアガラスから、男子生徒が不安げに覗いていた。天海は苦笑した。
遠くからクラッシュ音が届いた。数秒してもう一度、更に大きな音が下方から。SUVがガードレールを破って崖から落ちたのだろう。矢で射られたのか、それともスピードの出し過ぎか。
天海は首を振って溜め息をついた。
「いや、踏まれたり蹴られたりだよな」
バスへ戻るため数歩歩き、天海はふと立ち上がり左の斜面を見た。
大きな白い影が立っていた。いつの間に近づいたのか、足音は聞こえなかった。SUVの狂騒に紛れてしまったのか。
弓矢を持った毛むくじゃらの怪物は、十メートルの距離にいた。
全身が白い毛で覆われて顔立ちも分からない。時折長く白い息が口元から吐き出される。左手に弓を、右手に矢を持つ様子からは着ぐるみには見えなかった。最後の一本らしく、右腰に下げた矢筒は空になっていた。右肩から何かの柄が突き出している。左腰からはみ出した刃は鉈か鎌か、それにしても巨大過ぎる。
天海東司は身構えも瞬きも出来ずに凍りついていた。血の気の引いた顔は緊張のためか、それとも絶望か。彼は一瞬で悟ったのだ。
人間が敵う筈もない魔境の化け物を、相手にしようとしていたことに。
白い怪物が、ゆっくりと、矢をつがえ、鏃を天海へと向けていく。近づく確実な死を、天海は黙って見据えている。リアガラスの隙間から覗く男子生徒が不思議そうな顔をしている。
「天海、大丈夫か」
前方からの声に天海の呪縛が解けた。顔を向けると七組担任の友田恵が給茶ポットと槍を持ってくるところだった。心配で駆けつけたのか。
「逃げろっ」
天海が怒鳴った。友田はギクリと身を竦め立ち止まる。
「逃げろっ逃げろ早くっ」
友田が後戻りしかけて斜面を見た。矢をつがえた怪物を認め唖然とする。
「トモやん逃げ……」
放たれた矢が一直線に友田の腹へ吸い込まれた。背中から完全に抜けてバスのボディに刺さる。あまりにもあっさり貫通したため友田の上体は揺らぎもしなかった。
友田が目を瞬かせて自分の腹を見た。鳩尾の少し下、穴の開いたスーツがみるみる血に染まっていく。
「あ……」
声は続かず友田は崩れ落ちていく。それでも給茶ポットの中身を零さぬようにしっかりと抱えて。十組のバス内から悲鳴が聞こえた。血の絡んだ鏃が車内に顔を出したのだろう。
「トモやんっ」
天海が傷ついた足を引き摺り駆け寄っていく。
怪物は弓を置いて斜面を下りてくる。圧倒的優位を示す悠然とした歩み。ジャララー、と濁った音をさせ背中に吊った巨大な鉈を抜く。鎌のようにエッジ側に湾曲した刃渡り一メートルを超える大鉈。
「これ……」
友田が苦痛混じりの笑みを浮かべ給茶ポットを差し出した。天海がナイフと枝を捨てて両手で受け取る。
決死の表情で天海が向き直った時、怪物は二メートルの距離にいた。大きく振りかぶられた切断凶器。一薙ぎで首が飛ばせる。胴体でも真っ二つになって飛ぶだろう。
「うおおおおおおお」
野獣に似た雄叫びを発しながら、天海が給茶ポットの中身をぶち撒けた。
怪物は避けなかった。真正面から液体を浴び、濡れた毛皮を確かめるように顔を肩に近づける。その特殊な匂いがガソリンであることを怪物は理解していただろうか。
しかし火がなかった。友田は目を閉じて座り込んでいる。天海が急いで自分のポケットを探る。
別の場所から火は投げられた。僅かに外れたものの怪物の足元に落ちたジッポーライターは滴るガソリンに点火した。
足から胴へ一気に燃え上がり、怪物は炎に包まれた。
怪物が悲鳴を上げた。苦痛と恐怖と、そして憎悪と。どんな勇者も竦ませ、実行者を復讐の不安に痺れさせる凄まじい悲鳴だった。バスの車体がビリビリと震動した。
火の点いたジッポーを投げたのは田崎鉄雄だった。左手に枝の槍を持ち、全身が小刻みに震えている。膝は今にも崩れ落ちそうだった。
怪物は雪の中を転げ回り火を消そうとしていた。だが毛に染み込んだガソリンの炎は簡単には消えない。怪物は叫びながら走り出した。視界が炎で遮られたのか興奮して判断力を失ったか、バスの後ろを過ぎてガードレールにぶつかり、大鉈を握った人型の炎は前のめりに転げ落ちた。悲鳴が下へ遠ざかっていく。
天海は静かに耳を澄まし、悲鳴が聞こえなくなったのを確認して田崎に言った。
「助かったぜ」
「まぁ、まああな。正直、外したか、と思った。手が、滑ったか、て……」
田崎の声は裏返っていた。まだ震えが止まらない。目に涙が滲んでいることに本人が気づいているかどうか。
「で、でも、ありゃ何だ。雪男みたいな……」
「雪男だろ」
天海はあっさり答えた。
「トモやん、大丈夫か。田崎、手伝ってくれ。先生を運ばないと」
抱き起こすと友田教師は薄く目を開け、弱々しく声を洩らした。
「……すまん。役に……立てなかった……」
「役に立ったぜ先生。先生が来なけりゃ俺は死んでた」
天海が言うと友田は淡い微笑を浮かべた。田崎が震えながらもなんとかやってくる。
「あ、ちょっと待った」
天海が友田を田崎に預け、右の太股を押さえながら雪の斜面を登った。怪物が置いていった長大な弓を拾い上げる。
「使えるものは何でも使え、だ」
戻ってきて枝と空の給茶ポットも拾う。
十組バスの昇降口が開き、教師と男子生徒が顔を出した。
「こっちへ」
十組の教師が勧めるのをなんとか手を振って辞退し、友田が言った。
「七組のバス……自分のクラスが、いい」
雪は大量の血で染まり、友田の顔は青白くなっていた。
「分かった。そうしよう」
天海が頷いた。
十組の教師と田崎と他の男子生徒が友田を抱えて七組バスへ運んだ。別の生徒が天海に肩を貸す。
怪物を撃退したのに誰の顔にも笑みはなかった。友田の状態もあるが、あの憎悪に満ちた怪物の悲鳴はまだ終わりでないことを暗示していた。
友田教師は七組のバスに運び込まれ、倒したシートに寝かされた。皆、黙りこくっていた。手当てしようとする女子生徒に首を振り、友田は静かに言った。
「俺から、お前達に、言っておきたい、ことが、一つ、ある」
狭い車内で皆担任の近くに集まり、次の言葉を待った。
「本当は、皆が卒業、の時に、言うつもり、だった。……いや、こんな時、でないと、言えなかった、のかも、知れないな」
友田は苦笑した。その後でゲップをしたと思ったら口から血が溢れ出した。
天海は厳しい表情で担任教師を見守っていた。
「この世界には、理不尽な、ことが、山ほどある。絶望したり、投げ遣りになったり……することが、これからも、何度も、あるだろう」
シートに血が広がり、床に滴り始めている。生徒達に向けられた友田の瞳は優しく、強かった。
「それでも、戦え。戦って、生きてゆけ。それが、俺がお前達に、贈る、言葉だ」
自分の哲学など語ることのない教師だった。ただ淡々と、何処か寂しげに職務をこなす男だった。単調な日常の中で、彼はずっと何かを秘めて生きてきたのだろうか。
友田は目を閉じた。口も動かさなくなった。呼吸もしなくなり、シートの血だけがじわじわと広がっていた。
淡く微笑したまま、友田恵は死んだ。
「先生……」
女子生徒が声をかけた。返事の来ることがないと分かっていながら。女子生徒が啜り泣き始めた。声を上げて泣く男子生徒もいた。田崎も拳で目元を押さえてむせび泣いていた。
天海東司は歯を食い縛っていた。左目に涙が滲み出し、右のアイパッチが濡れていた。
「先生、ありがとよ。俺達は生き延びるぜ」
天海はタオルを取り出して自分の右太股に巻きつけた。途中から女子生徒が結んでくれる。白いタオルがすぐ赤くなるが出血の勢いは弱まったようだ。
「バスを進めよう。多分、チャンスは今しかない」
天海が言った。
二
十六時三十二分。バスが進み始めて二十分が経過した。崖沿いは過ぎて林の中の道となったがまだスキー場は見えてこない。本来のスピードの半分以下で走っているのだから当然か。到着はいつになるのか。本当に到着することは出来るのか。
藤村奈美は顔を上げ、改めて車内を見渡した。左右の窓はカーテンとスポーツバッグで覆われ、フロントガラスもリアガラスも最小限の視野を確保しているだけだ。皆左端の席は避け、中央の予備席が埋まっている。やはり喋る者はなく、不意の矢を食らわないように身を屈めていたり携帯の通話を試したりしていた。
七組の友田教師が死んだことは無線で知った。化学の地味な教師で奈美はあまりこれという印象を持っていなかった。どんなふうに死んだのだろう。何も出来ぬまま、悲鳴も上げられずに即死したのだろうか。人間が信じられないくらいあっさり死に得ることを、奈美は知っている。
しかし怪物は逃げていったのだという。ガソリンをかけて火達磨にしたのだとか。
雪男だったそうだ。弓矢を持った雪男。想像するとちょっと可愛らしいような気もするが吹き出す余裕はなかった。
真鉤がまだ帰ってこない。
クラスの皆は様子を見に行ったままの真鉤について特に何も言わなかった。彼らの中で暗黙の了解としてとっくに殺されたことになっているのかも知れない。そんな筈はない。真鉤が死ぬ筈はないと奈美は思う。
でも、雪男が直接襲ってきたのは真鉤が殺されたということではないのか。真鉤が自分だけで逃げたとは考えられない。奈美を置いていく筈がない。それは自負ではなく確信だった。
真鉤が死んだのであれば、後はどうなろうと構わない。でも生きていて欲しい。奈美はそれだけを祈り続けている。
フロントガラスの僅かな隙間から雪が見える。吹雪はやまない。腹立たしいほどに。
四組のバスを運転しているのは担任の二ノ宮だった。二組バスの運転手がいないために三組、四組の運転手がずれていき、二ノ宮が代打を買って出たのだ。昔トラックの運転手をやっていたことがあるという。古文教師の意外な経歴はこんなアクシデントがなければ知ることはなかっただろう。
隣に座る伊東実希が奈美の袖を引っ張った。顔を向けると何か言いたげに奈美を見ている。実希は震えることにも疲れてしまったようでグッタリしていた。
実希は口を小さく動かしていたが言葉は出なかった。多分、「無事にスキー場に着くのかな」とか「私達は助かるの」とか「雪男はまた来るのかな」とかいうことだろう。
奈美は黙って頷いた。あらゆる問いに対応出来る万能の答えだ。
「おっ、と」
運転席の二ノ宮が声を発した。バスが減速する。前方に停まる三組バスの後部が奈美にも見えた。嫌な予感が。
「うわっ」
二ノ宮の気弱な叫びが生徒達を凍りつかせた。間髪入れず衝撃が伝わってくる。前の方から一度、バスが僅かに傾いた。バスの右側面を何かが駆ける気配。そして後ろからもう一度。バスが右へ更に傾いた。女子の何人かが高い悲鳴を上げた。え、バスが倒れるの。奈美は一瞬ゾクリとするがすぐに車体は静止する。何が起きたのか。
「タ、タイヤが……外された。右の。刀で、雪、雪男だ……」
二ノ宮が全身を大きく震わせた。
やっぱりスキー場に着くのは無理だったみたいだ。奈美の中で覚悟が冷たく凝固していく。
吹きつける雪で白く濁った世界。慎重に進む二組バスのヘッドライトに大きな影が浮かび上がったのは少し前のことだ。
雪の積もった一車線道路のど真ん中で、身長二メートルを超える白い巨体が立ち塞がっていたのだ。鎌状カーブのついた長大な鉈を無造作に握り、刃の先端は雪についていた。毛に覆われた顔の奥で、ライトを反射して二つの赤い瞳が光る。
運転手が慌てて急ブレーキを踏んだ。途中で力を緩めかけたのはこのまま轢き殺すアイデアが脳裏を掠めたのかも知れない。だが結果は同じだったろう。白い怪物は素早く動いてバスの右側へ回り、大鉈を車体下部に叩きつけたのだ。バスがつんのめりゴリゴリとアスファルトを削る音。女性教師と生徒達が狂ったような叫びを上げる。
怪物が斬ったのは前輪だった。タイヤもホイールも車軸も周囲の鉄板もひっくるめて、大鉈によって紙のようにあっけなくぶった切られていた。ちぎれた部品がすっ飛んでいく。怪物は止まらずそのまま駆けた。再度大鉈を振り翳し、今度は後輪へ斜めに振り下ろす。筋力だけでなく綺麗に刃筋の立った斬撃は二列の後輪をあっさり破壊した。右のタイヤを全て失いバスが傾いた。もう前進も後退も不可能だ。
白い怪物はそれでも止まらなかった。二組のバスを放置して三組のバスを襲う。フロントガラスの覗き穴から怯えた運転手の顔が見える。怪物は二度大鉈を振るい、バスは二組と同じ運命を辿った。
続いて四組、五組と怪物はバスの右タイヤを破壊していく。
見えなくなった怪物に、二組の運転手がホッと息をつく。
「た、助かった……」
「助かってない」
男子生徒の一人が陰鬱に言った。
「逃げられなくして皆殺しにする気だ」
白い怪物は休まずバスからバスへと駆けていく。タイヤが斬られるたびに悲鳴も移動する。僅かに右に傾いたまま動きの取れなくなったバスの列。
駆け抜けながら十組バスの後輪を潰し、九台全ての処理が完了した。踵を返してじっくり獲物を絞めていくかと思いきや、怪物は動かなくなった。
二十メートルほど先に、人影が一つ立っていた。
ビュルン、ビュルン、と、風に奇妙な音が混じり始めた。
その男は繋ぎの古い作業服を着ていた。靴は履いておらず汚れた靴下が直接雪を踏んでいる。マント代わりに首に結んだボロ布は膨らんでいる。大型のリュックを背負っているためだ。
男は白いタオルを巻いて顔を完全に隠していた。横に裂いた二つの覗き穴から冷徹な瞳が怪物を見据えている。雪が触れても瞬きはしない。タオルの上から黒い髪がはみ出している。
軍手を填めた手が鎖を握っていた。右腕を頭上で大きく振り回し、重量のある物体が半径五メートルの円を描いている。左手は束になった鎖の端を持つ。
ビュルン、ビュルン、と唸りを上げて回るのは、直径六十センチほどの鉄球だった。
解体用の鉄球クレーンから鎖ごと引きちぎってきたものだ。九百キロ近い重量の鉄球を平気で振り回す筋力とはどのようなものか。
男は、真鉤夭だった。
対する鎌神は真鉤より頭二つほども高く、圧倒的な肉体を白い毛皮で包んでいる。火傷痕がないのは弓を射たのと別の個体なのだろう。呼び名の由来となった刃渡り一メートル二十センチの鎌状鉈を右手に握り、畳んだ網を左手に持っていた。一時間ちょっと前に四十人分の死体を運んだ網。
毛に覆われた顔から白い息が洩れている。深く静かな呼吸。二つの赤い瞳は真鉤をどう捉えているのだろう。
鉄球の唸りがビュルン、からビュルルー、と高くなった。回転速度が次第に増しているのだ。真鉤はまだその場から動かない。鎌神も立ち止まったままだ。
バスのリアガラス、スポーツバッグのバリケードが崩れ、何人かの生徒が覗いていた。吹雪の中で対峙する二体の怪物を。
ビュルルー、という鉄球と鎖の唸りがルゥゥン、というなめらかな音に変わった。既に鉄球は霞み、残像が巨大なドーナツを作っている。
「グゥオオオォオオオオ」
突然鎌神が吼えた。覗いていた生徒達が身を竦ませた。
鎌神が飛び出した。素足の強靭な爪が雪を貫きアスファルトを抉って凄まじい加速を見せる。魔獣の敏捷性。
真鉤の右腕が前へ伸びた。円を描いていた鎖鉄球が直線となって飛ぶ。
ボグオォォン、と破滅を予感させる轟音が弾けた。バスが激しく揺れ生徒達が悲鳴を上げた。撥ね飛ばされてきた白い巨体がバスの後部に激突し五十センチもめり込んだのだ。割れたリアガラスがバラバラと落ち、生徒達は前部へ避難する。
鉄球は鎌神の分厚い胸板に命中していた。九百キロの物体が時速二百キロで衝突すればどんな生物も無事には済むまい。
だが鎌神は変形した鉄板を押し分けて戦場へ復帰した。大鉈も網も離してはいない。
鉄球は引き戻され、再び真鉤の頭上で回転を始める。タオルの穴から冷酷な瞳が相手のダメージを観察している。
最初の数歩は僅かによろめいたが、鎌神の足はすぐに力強さを取り戻した。今度は単純な突進を控え姿勢を低くして様子を見ている。
鉄球の唸りは速やかになめらかな高音へ達していた。真鉤もまた動かない。
鎌神が左へ回り込みながら慎重に接近を始めた。真鉤は少しずつ体の向きを変えて正対関係をキープする。鉄球の速度がどんどん速くなっていく。
パンッ、と突然小さな破裂音がした。鉄球の回転が音速……時速約千二百キロを突破したのだ。
続けて鉄球が飛んだ。グバァン、と凄い音がして鎌神がひっくり返った。降る雪に血飛沫が混じる。後ろに一回転、二回転して鎌神は俯せに倒れた。真鉤の腕の動きから反応しようとしたが間に合わず直撃を受けたのだ。
真鉤は鉄球を引き戻し、数回転の短い加速で鉄球を叩きつけた。鎌神が回復する前に畳みかけるつもりらしい。それでも時速百キロは超えていただろう、鎌神の頭部に命中しゴギュッと嫌な音がする。
鎌神は倒れたまま動かない。流れ出した血が積もった雪を染めていく。真鉤は距離を保ったまま容赦なく鉄球を叩きつける。四度、五度、六度。割れたガラスの奥で生徒達が固唾を呑んでいる。吹雪に紛れ何処まで見えているのか不明だが、彼らは襲撃者と戦う怪人をどう思っているのだろうか。
七度目の鉄球が飛んだ瞬間鎌神が横に転がり大鉈を振った。地面の凹む響きと金属音。
刃渡り一メートル二十センチの大鉈は鉄球を繋ぐ鎖を断ち切っていた。自由となった鉄球は雪の地面をバウンドしてバスの後部を凹ませ、横に転がって道路を外れていった。
真鉤はすぐに鎖を捨てて背中に手を回した。鎌神が素早く起き上がり突進してくる。信じ難いタフネスだった。頭から胸辺りまでが血で染まっている。
真鉤が両手で何かを投げた。鎌神が身を屈めて出刃包丁を避け、錆びた角鉈を大鉈で弾き、最後の一本が左肩に刺さった。刃渡り二十センチの柳葉包丁。
鎌神が口から血を飛ばしながら咆哮した。至近距離に入ると大鉈を横殴りに振る。真鉤が跳躍して躱した。鎌神の肩に刺さった包丁の柄を、右足で踏んで更に高く跳ぶ。刃渡りのほぼ全てが肉に潜り込む。
空中で真鉤は新たな凶器を出し、スターターを引いた。二回で軽快なエンジン音が始まり金属のすれ合う響きが重なる。
雪に着地した真鉤はチェーンソーを構えていた。
派手なクラッシュ音が後方から届き、奈美はいよいよ殺戮が始まったかと思った。これから蟻でも潰すように十組から皆殺しにしていくのだろう。ここは四組だから七番目になる、などとつまらないことを考える。
「今のうちに逃げた方が……」
男子の一人が言い出した。確かに雪男が後ろにいると分かっているのだからバスを出て前に逃げる考えは間違っていない。このひどい雪の中をスキー場まで辿り着けるなら。また、逃げることに気づかれたら雪男は躍起になってこちらを追ってくるかも知れない。現代人の足が野獣の足に勝てるとは思えない。皆バラバラに逃げた方が生き残る確率は高いかも。そんな思考が高速で巡るうち、後部にいた男子が興奮した様子で叫んだ。
「誰かが雪男と戦ってるってっ。変な奴が鉄球ぶん回して戦ってるってっ」
後ろのバスのフロントガラスから誰かが伝言メモを見せてくれたらしい。車内がどよめいた。訳の分からない状況下での訳の分からない期待。無線機がコールされるが二ノ宮は緊張して取ることが出来ない。多分伝言メモと同じ内容だろうけれど。
真鉤だ。きっと彼だ。奈美は強張りが芯から溶けていくような気がした。武器を持って駆けつけてくれたのだ。変な奴と言われたのは服を変え顔を隠しているのかも知れない。他の生徒に正体がばれないように。真鉤はずっとバスを見守ってくれていたのだろうか。
これで皆助かる。いやでもそれは真鉤が勝てばの話だ。でもきっと勝ってくれる。真鉤を近くで見たいけれどこの場を動かない方がいい……。
「ん、何だ」
後部の男子がリアガラスから覗きながら言った。
「何か指差してる。何か……」
ギュガァッ、と突然バスの壁を破って刃が現れた。バス後部の天井も座席もまとめて裂きながら斜めに下りてくる。男子生徒はキョトンとして振り向きかけた。
クラス全員の視線を受けながら、大きな鉈が彼の右側頭部に潜り込み顎を割り、途中でクニュリと曲がった首から胴へ抜けていった。奈美の脳裏をかつて見た光景が掠めた。狂った真鉤が通行人を惨殺する場面。人の頭が西瓜のように割れ……。
男子生徒は血を流しながらベラリと二つに分かれた。死体の片方が通路に転げ、血塗れの断面を晒した。骨と内臓と、ああ、まだ心臓が動いている。
皆、悲鳴を上げることも呼吸すらも出来ずに凍りついていた。バスの後端が切られ、蓋でも開けるように圧倒的筋力で剥がされていく。向こうへ倒れていく座席の残骸に死体のもう半分がへばりついていた。風が雪を運び込み車内が一気に寒くなった。
無理矢理開いた出入り口に、のっそりと、白い巨体が姿を現した。
真鉤はもう負けたのか。雪男に殺されてしまったのか。まさか。
遠くでエンジン音が聞こえている。バスのそれとは違う。金属を激しく打ち鳴らす響き。戦いの音。ここに現れた雪男は火傷していない。短時間に治ったのでなければ……。
まさか。雪男は何人もいるのか。
白い右腕が上がり大きな刃物が見えた。金属も叩き切る鎌のような形の鉈。その半ばほどに新しい血糊がついている。
無呼吸の限界に達した女子の一人がヒュッ、と息を吸い込んだ。その音が先鞭となって皆の呼吸が再開した。
「に、逃げろっ」
担任の二ノ宮が叫んだ。ブザー音が鳴り前部の昇降口が開く。堰を切ったように生徒達が動き出した。一斉に出口を目指して通路で押し合いとなり、そのため詰まってしまっている。火災などで良くあるパターンだ。即席の槍を持った男子も逃げようとしている。化け物が相手では仕方のないことだ。天海の勇気は凄まじい。数人がなんとか脱出し、倒れた女子を踏んで皆が転ぶ。
奈美は座席から動かなかった。動けないのか自分でも分からない。隣の伊東実希が力一杯奈美の腕を掴んでいるせいもあるのかも。心は妙に冷たく澄んでいた。具体的な死が目の前に迫っている。それは何度も経験してきたことだ。
雪男が左手を車内に置き、悠然と上がり込んできた。巨体のため頭が天井につっかえ身を屈める。毛の中に赤い瞳が見えた。白い兎のようだ。その瞳が団子状に固まった生徒達を吟味するように見回している。
一番後ろにいた男子に雪男が左手を伸ばした。掌には毛が生えていない。男子は必死に逃れようと前に詰まったクラスメイト達を叩く。
「助けて、助けてたすけぶっ」
雪男が彼の首を掴んだ。彼は手足を突っ張らせてすぐ静かになった。首が握り潰されて側頭部が肩につき、見開いた目から血が流れ出した。
皆の悲鳴が益々大きくなった。宙を掻いたり前の人を叩いたりするが狭い通路で三人が絡み合った先頭はもうどうにもならない。順番に出ていけば逃げられたのに、人間は愚かだなあと奈美の中に冷めた思考が浮かぶ。そんな人間を雪男も嘲笑っているかも知れない。いや、何も考えてないかも。
別のバスからも悲鳴が移動を始めていた。外へ逃げ出しているらしい。でも吹雪の中で道を外れて大丈夫なのだろうか。
雪男は大鉈を振ることなく、後ろから生徒達を一人ずつ引き剥がした。男子はあっさり外へ放り捨てる。肩などを握り潰された男子もいた。女子を捕らえると顔を覗き込んで数秒してやはり捨てる。吟味しているのか。何のために。先頭の生徒達は座席の上を這って脱出に成功する者もいた。
捕獲が一人の女子の番となった時、雪男は投げ捨てずに彼女の顔を暫く凝視していた。市川香澄。ちょっとツンとしたところはあるけれど美人で、良く他のクラスの男子からもラブレターを貰ったりする女子だった。奈美も彼女を意識せず過ごしてきたと言えば嘘になるだろう。その彼女が今、雪男の太い腕に抱えられて震えている。雪男の赤い視線と吐く息に、粘っこいものを奈美は感じ取った。
雪男は市川を通路に置いて足を軽く踏みつけた。
「助けて、誰か」
市川が弱々しく哀願するも皆逃げるのに必死で聞いていない。雪男はまた男子を放り捨て、市川を確保したまま少しずつ前に進んでくる。奈美のいる座席に、近づいてくる。伊東実希に掴まれた腕は感覚がなくなってきた。
雪男の目と、奈美の目が合った。
自分はどんな顔をしているのだろうと奈美は思う。恐怖に引き攣っているのか、それとも人形のように固まっているのか。雪男は視線を外さなかった。その粘りつく視線。
男子と女子二人をまとめて投げ捨て、雪男が奈美のすぐそばに立った。もう逃げる余地はない。分かっている。悲鳴を上げても無駄だ。分かっている。
「この野郎っ」
突然男子の一人が枝を削った槍で雪男に突きかかった。小島という名の彼がどんな気持ちで反撃を試みたのか奈美には分からない。ただ、この大人しい少年がたまに奈美にだけはにかんだような笑みを見せることは覚えていた。
槍は届かなかった。雪男は左手で無造作に彼の胸倉を掴み、圧倒的なリーチの差で槍の先端は相手の毛皮から二十センチ近く離れていた。雪男が彼を持ち上げた。彼の頭が天井を突き破り胸辺りまで外へ消えた。
両足がばたついている。命に別状はなかったようだ。奈美が安堵する前に雪男が大鉈をコンパクトに振った。逃げられず固まる生徒達の頭上、ばたつく小島の腰を刃が薙いだ。
ボドリと彼の下半身が落ちた。続いて腸がズルズルと下がってくる。通路に転がった下半身に大量の血が零れていく。彼はもう助からない。自分の下半身に何が起こったのか彼は気づいたろうか。絞り出した勇気の報酬がこんな苦痛と恐怖になろうとは。理不尽だ。
許せない。麻痺した恐怖の底から怒りが湧き上がってきた。奈美は雪男は睨みつけた。雪男の赤い瞳もまた奈美を見返していた。
雪男が左手を伸ばし、奈美の肩を掴んだ。強い力に骨が砕けるかと思った。まただ。血色の悪い偽刑事の姿を奈美は思い出した。また掴まれた。バスでの災難も二度目だ。もういい加減にして欲しい。
「ああ、ああああ」
伊東実希が情けない声を洩らした。奈美を離せず一緒に引き摺られているのだ。奈美は痛みをこらえながら彼女の手を優しく引き剥がした。涙でグシャグシャになった顔で彼女が奈美を見上げていた。
奈美は座席から引き摺り出され、市川香澄と一緒に抱き上げられた。市川は既に気絶しているようだ。雪男は残りの生徒達を見回し、獲物はこれで充分と思ったのか踵を返す。
「動くな」
天海東司がバスの外から弓を構えていた。弓道部が使うよりも大きな弓。矢はタイヤに刺さっていたものを使っているのか。弓道の経験があるかは知らないが、天海の構えはなかなか堂に入っていた。右の太股にタオルを巻き、顔は血の気が引いて白い。隻眼に宿る覚悟と殺意。
「二人を放せよ、化け物。日本語が分かんねえのか」
天海が続ける。怪物にそんな脅しが通用しないことは、彼も悟っていたのではないか。声もかけずに射るべきだった。それが出来なかったのは矢の正確さに自信がなかったためか。奈美達に当たる可能性もあるのだ。
雪男は通路に倒れていた男子生徒を大鉈で引っ掛け持ち上げた。まだ生きて呻いている生徒だ。それを天海に向け掲げてみせた。矢の盾にするように。
天海が舌打ちした。雪男は腕の力だけで男子生徒を投げつけた。天海は避けきれずぶつけられ雪を転がる。雪男はバスを降りる。腕の締めつけがきつい。息が出来ない。
天海は男子の下から這い出そうともがいている。投げられた男子の背が異様に反っている。背骨が折れたのか。天海のダメージはどのくらいだろう。大怪我をしてなければいいけれど。もう充分過ぎるくらい怪我をしたのだから。
ギイイ、ギギイイィ、と奇妙な音が雪男の口から洩れた。
もしかすると、笑っているのだろうか。
雪男は天海に大鉈を振るうことはなかった。どうでもいい雑魚と判断したのか。奈美と市川を抱えたまま雪男は道を外れ林の中を駆け始めた。息が苦しくなって、奈美の意識は次第に薄れていく。
バスの外へ逃げ出したのは四組の十人程度を中心にして三組と五組のほぼ全員、二組と六組の半数ほどであった。逃げた者の中には教師もいた。
四組より前の者達は道沿いに逃げることが出来たが、五組と六組は前後を怪物に挟まれ林へ逃げることとなった。無数の罠が待ち受けるとも知らずに。
最初の犠牲者は六組の男子だった。勢い込んで踏んだ右足は雪と草を突き抜け、直径一メートル半の落とし穴へ転がり込んだ。尖った木の杭二十本に全身を貫かれた彼の悲鳴は他の大勢の悲鳴に紛れた。
次の犠牲者は五組の女子だった。吹雪で濁った視界を進むうち、積もった雪すれすれに張られたロープに足を取られる。前のめりに転んで両手をつき、制服は雪塗れにならずに済んで彼女は引き攣った笑いを洩らした。次の瞬間上から落ちてきた大岩に胴体を潰された。ガフッ、と吐いた血が雪を染める。
通常の括り罠で逆さ吊りにされた者はまだ幸いだった。トラバサミで足を潰された者も生きていられる。木のしなりで横殴りに襲った杭を胸と腹に受けた者は呻きながら時間をかけて死んでいった。細いワイヤーに巻きつかれ体を四つに裂かれた者もいる。飛んできた石に顔面を砕かれた者、落ちてきた丸太に潰された者、ロープに首を吊られた者、竹槍に串刺しにされた者。山の中は多様な罠の博覧会だった。
前のバスの悲鳴はチェーンソーの唸りに紛れた。それでも真鉤夭は耳を澄まし彼方へ注意を向けようとした。しかし隙を逃さず大鉈が襲い真鉤は身を沈めて躱す。低い姿勢から足を狙ったチェーンソーは届かず宙を薙ぐ。刀身となるガイドバーは九十センチで大鉈に比べると不利だ。また、大鉈と直接打ち合わせるのは強度の面で不安もある。真鉤は右手にチェーンソー、左手に斧を持つ二刀流となっていた。斧の柄は五十センチ、チェーンソーよりも小回りが利くがやはりリーチは短い。
鎌神は右手の大鉈を物凄い勢いで振り回す。熟練の使い手がナイフを繰り出すように速く、当たれば必殺となる攻撃だ。真鉤は避けながらまず巨体の末端を狙っていた。足首を削れば動きが鈍り、手を傷つければ武器を落とすかも知れない。通り過ぎる大鉈に合わせて真鉤はチェーンソーを突き出した。鎌神が途中で軌道を変え、回転する刃は指ではなく鉈の側面を叩いていた。高い音が鳴り火花が散る。見かけと違って芸が細かい。
鎌神が左手の網を投げた。端に錘のついた網は勢い良く広がって真鉤を捕らえようとする。真鉤は後ろに跳んで逃げ、網は僅かに足先にかかっただけだった。チェーンソーで切り払おうとすれば絡まってしまったかも知れない。鎌神は鉈で迫りつつ軽く身を屈め、網を拾おうと左手を伸ばす。
そこへ真鉤が一転して飛びかかった。迎撃の大鉈は真鉤を真っ二つにすべく斜めに斬り上げる。
真鉤の目は大鉈と左手の斧に集中していた。スピードを殺して引き気味に斧で受け、腕と体ごとねじり込むようにして大鉈をすり抜けた。魔術的な真鉤の体技だった。網を掴んだ鎌神が左腕で抱き捕らえようとする。真鉤は鎌神の眼前で跳躍してすれすれで鎌神を乗り越える。ガガギュギュ、というチェーンソーの唸り。更に越えざまに叩きつけた斧は鎌神の後頭部に命中した。
真鉤は雪を駆けながら振り返る。鎌神もすぐに向き直っていた。真鉤の筋力で斧は深くめり込んだ筈だが、鎌神の姿勢は揺るがなかった。
チェーンソーの唸りが苦しげになっている。白い毛が絡みついて回転が鈍っているのだ。だが真鉤にエンジンを止めて掃除する余裕はない。
鎌神の顔の左半分ほどが毛を奪われ地肌を見せていた。いや、皮膚はチェーンソーで裂かれ血みどろの肉を晒している。ドロリと垂れ下がるのは破れた眼球だった。鎌神の左目を潰した。
タオルの覆面から覗く真鉤の瞳が、膜が張ったように虚ろになっていく。殺しの快楽が滲み始めているのか。だがすぐに冷徹な鋭さが戻ってくる。今は殺しを楽しめる状況ではないのだ。
「ギュオオオアアアア」
鎌神がまた吼えた。怒りに燃えて突進してくる。真鉤は躱しつつチェーンソーで切りつけた。右前腕の肉を削るが鎌神は凶器を離さない。じりじりと真鉤が押されている。後退して道路の端にかかる。その後ろは林が待っている。
大鉈が横殴りに襲った時、真鉤は左後方へ跳んだ。そこには木の幹があった。振り向きもせずにどうやって位置を感じ取ったのか、或いは戦闘中に確認して覚えていたのかも知れない。真鉤は両足で幹を蹴り、鎌神の上を飛んだ。身をひねりながら追う大鉈を避け、真鉤の斧は再び鎌神の後頭部を捕らえていた。先程と全く同じ箇所だった。ゴズッという硬い音。頭蓋骨は砕けたか、ヒビの入った程度か。
よろめきながら振り向く鎌神の首筋に真鉤のチェーンソーが食い込んだ。血と肉が飛び散り、しかしチェーンソーは弱々しい異音を立てて回転が停止した。長い毛が大量に絡んで使い物にならなくなったのだ。鎌神の首筋から血は流れるが頚動脈は無事だったようだ。
真鉤はチェーンソーから手を離して退こうとした。しかし投擲された網が真鉤の体にかぶさる。横に跳ぼうとした足に網が引っ掛かって真鉤はつんのめった。
鎌神が網の端をうまく掴んで引っ張った。真鉤は網に包まれ持ち上げられる。引きちぎる暇もなく凄い勢いで振り回され地面に叩きつけられた。真鉤は身を丸めて耐える。ボゥゴォンと重い音がしてアスファルトが凹む。鎌神はすぐに引っ張り上げ反対側へ叩きつけた。また凄い音がして地面が凹む。雪が舞い上がる。強靭な網は切れなかった。毛に絡んでいたチェーンソーがすっぽ抜けて地面を滑っていく。
三度目に叩きつけられた時、真鉤の首が奇妙な角度に曲がった。首にかかるタオルに血が滲んでいる。繋がった首が衝撃でちぎれかけているのか。真鉤は右手で自分の頭を押さえる。鎌神はそれでも容赦なく真鉤を叩きつける。五度、六度。
雪の積もるアスファルトに七つの陥没が出来た時、鎌神は漸く大鉈を振り上げた。天を目指すように高く。網の中でそれを見据える真鉤の瞳。フシュー、と鎌神が息を吐いた。血みどろの顔に赤い憎悪を湛えた右目。
渾身の力で大鉈が振り下ろされた瞬間、真鉤は団子虫のように鎌神側へ転がって斧を差し上げた。網の制約を受けながらも斧の刃は大鉈を持つ手に潜り込んだ。いや、待ち構えた斧に鎌神の手が吸い込まれたようにも見えた。
鎌神の指が四本落ちた。コントロールを失った大鉈は真鉤の背を裂いて先端がアスファルトにぶつかり、鎌神の手を離れてバウンドした。
網を離して鎌神が大鉈を拾いに走る。愛用の大鉈。真鉤も急いで網を這い出ようとする。斧の刃で網を切り開く。
鎌神が左手で大鉈の柄を掴んだ瞬間、その左手首を真鉤の斧が切り落とした。体重とスピードの乗った一撃だった。太い血線の噴き出す手首を見つめ、赤い瞳は呆然としているようでもあった。狩ることには慣れていても、自分が狩られることは想像だにしなかったのだろうか。
左手で自分の頭頂部を押さえ、真鉤はよろめきながら大鉈に歩み寄った。右手に持ち替えていた斧を落とし、柄に残った毛むくじゃらの手首を足で蹴りやって、真鉤は大鉈を拾い上げた。
鎌神がゆっくりと身を起こした。身長は二メートル二十センチを超え、遥かに高い位置から真鉤を見下ろすが、今は幾分小さく見えた。顔も胸も両手も血みどろで、割れた後頭部からは脳漿が滲んでいる。
真鉤夭は頭から左手を離し、両手で大鉈を一杯に振りかぶった。
ゴズッ、と、振り下ろした鉈の先端がアスファルトにめり込んだ。衝撃で真鉤の左上腕部が曲がった。ヒビの入っていた上腕骨が完全に折れてしまったらしい。
大鉈は、本来の持ち主である鎌神の脳天から股間までを断ち割っていた。
ズブズ、と、断面でずれていき、鎌神は二つに分かれて崩れ落ちた。はみ出した腸が血溜まりに沈んでいく。
真鉤は大きく息をついた。作業服とマント代わりのボロ布に血の染みが広がっていた。首からの出血が止まらないのだ。背中の傷は切断された肋骨を見せていた。普段の真鉤ならもう肉が盛り上がり塞がっている筈だった。
真鉤は左手で再び頭を押さえ、右手で大鉈を引き摺りながら十組のバスへと歩いた。
バスの中から生徒達が見守っていた。襲撃者が倒されても笑顔はなく、見開いた目をギョロつかせている。彼らにとっては雪男もマスクの殺人鬼も同じ脅威なのだろう。
十組バスの側面に手をついて、天海東司が待っていた。真鉤は足を止め、天海の方がバスを離れて彼に近寄っていく。天海の口元に血がついていた。こちらも折れた肋骨が肺を傷つけていたのだ。
真鉤の前に立ち、一度血の混じった咳払いをしてから、天海はバスの生徒に聞こえぬよう小声で告げた。
「すまん。別の雪男に奈美ちゃんが攫われた」
真鉤の目の色が変わった。
三
窓の外は何処までも青く澄み渡り、下方には白い海が広がっている。日暮静秋は静謐の雲海から腕時計に目を移した。デジタル・アナログ併用のGショックは十六時四十一分を示している。
「もう少しで加馬神山です」
操縦士が言った。
「大したもんだ。一時間かからなかった」
自家用ジェット機の座席で足を組む日暮は学生服でなく黒いシャツとズボンに黒のロングコート姿だった。靴下も靴も黒、そして薄い生地の手袋も黒い。雪山では逆に目立つ服装だが、彼なりの美学があるのだろう。
「親父のジェット機に頼りたくはなかったがな……」
「坊っちゃん、必要な時に道具を使うのは悪いことではありませんよ」
横の床に立つ狼が明瞭な発音で応じた。年老いた男の声は灰色の毛並みに似合っている。体重六十キロほどはある大きな狼だ。
「何より、窮地に陥ったご友人と大勢の人を救いに行く、静秋坊っちゃんの心意気にじいやは打たれましたぞ」
日暮は苦笑した。
「友人というか、腐れ縁というか、な……。それよりじいや、何百回も何千回も繰り返し言うが、いい加減その『坊っちゃん』はやめてくれないか」
「分かりました坊っちゃん」
狼は平然と答えて日暮は溜め息をついた。
「そろそろ加馬神山になりますが」
操縦士が言った。狼が命じる。
「高度を下げなさい。坊っちゃんと私は飛び降ります」
狼は自分のことを「わたくし」と呼んだ。
「パラシュートは後ろにあります」
「要りません。私が坊っちゃんを無事お連れします」
ミリ、ミリ、と不気味な音が狼の体内から響く。狼の体格が大きくなっていく。
「了解しました。下は雪が凄いようです」
機体が雲海に近づき、潜っていった。窓の外が灰色に変わり、次第に暗くなっていく。
自家用ジェット機は雲を抜けた。降り注ぐ雪に視界は濁り、前方に山の輪郭がうっすらと見える程度だ。
「あれだと思います」
操縦士が山を指差す。
「もう少し高度を落とし、上を通り過ぎなさい」
狼が告げる間に日暮は立ち上がり、左の昇降口まで歩いてロックを解除した。扉を開けると吹雪が前を掠め、日暮の体は僅かに揺らいだだけで吸い出されずに済んだ。
「では、坊っちゃん、お乗り下さい」
後ろで狼が言う。その時点で狼は虎ほどの大きさになっていた。体長二メートル、体重は二百キロを超えるだろう。張りぼてでなくみっしりと詰まった筋肉は質量保存の法則を無視している。
「じいやの背に乗るのは何年ぶりかな。って一年の時も乗ったか。頼むぜ」
「お任せあれ」
日暮は狼の背に跨って上体を伏せ、首筋に腕を絡めしがみついた。山の輪郭が迫ってくる。
「お気をつけて」
操縦士が言うと同時に人狼が力強く跳んだ。減速気味とはいえジェット機の速度に筋力が加わり凄まじい勢いで落ちていく。
「雪で殆ど見えんな。じいやは大丈夫か」
風に髪とコートをなびかせながら日暮が問う。落下の恐怖は感じていないようだ。
「勿論ですとも。夜が来れば坊っちゃんも見えるようになりますよ」
「そうだな。だがそれまで生徒は何人生き残ってることか。雪男なんていそうな山かね」
下界の白い木々が見える。空気抵抗によって二人のスピードはある程度で留まっている。
「鎌神というものについては私も存じておりません。イエティもサスクァッチも人里離れた山奥に住むもので、弓矢や罠を使うような知能は持たない筈です。村人が隠蔽に関わっているということでしたな」
「場合によってはそいつらも敵に回すことになるかもな。人間を殺したくはないが……」
林を越え、木の生えていない斜面があった。日暮を乗せた人狼はそこに着地した。雪を幾分散らした程度で激突もせず、十メートルほど走ってうまくエネルギーを殺し、日暮は狼の背から降りた。空を仰ぎ見るが既にジェット機の姿はない。二人を置いて地元へ戻ることになっている。帰りは自分達でなんとかしないといけなかった。
「ふー。寒い。おっとそうだ。念のため顔を隠しておかないと」
日暮はコートのポケットから黒の目出し帽を出して頭からかぶった。穴は一繋がりになった目の辺りだけで口も隠れている。
「格好悪くなっちまった」
マスクの下に苦笑が浮かぶ。
「ここはゲレンデのようですな」
人狼が言った。斜面は一応整地され、林との境界にはロープが張られ『進入禁止』の札が掛かっていた。
「もう少し上に建物があります。まずそちらに寄ってみましょう」
人狼と日暮は並んで走る。人間離れしたペースだが息も切らさずまだ余裕がありそうだ。周囲を見回しながら人狼が言った。
「ゲレンデを照らすライトが立っているのですが点灯していません。リフトも停止しています」
「誰も滑ってないしな。この吹雪に滑る奴はどうかしてる」
日暮の服は既に雪塗れになっていた。
「建物も明かりが消えています。血の匂いがしますね。坊っちゃん、ご用心下さい」
「血の匂いは俺も分かった。複数だ。予想以上にひどいことになってるかもな」
日暮の目つきも険しくなる。
人狼が鼻をヒクつかせ、右へと方向転換した。斜面にある僅かな凹凸で止まり前足で雪を掻く。
十センチほどの深さに青い手袋が埋まっていた。左手用だ。周囲の雪が赤く染まっている。人狼が前足でほじると転がり出てきた。
手袋には中身が入っていた。手首の断面は刃物によるものだ。
「鋭さではなく重さとスピードによる一撃でしょう。他の部位はここには残っていません」
人狼が言った。
「持ち去られたか。そもそも運んでる途中で手首だけ落としたのかもな」
再び上を目指しながら日暮が人狼に告げる。
「言っとくが、じいやに頼むのは案内だけだからな。手は出すなよ」
「分かっておりますとも。化け物共には坊っちゃんに指一本触れさせません」
もう日暮は訂正を諦めたようだった。
五分ほどで建物が浮かんできた。リフト降り場、ホテルから繋がった通路と準備場、その隣には喫茶店もある。人狼が言った通り明かりは洩れていなかった。
喫茶店のガラス戸にベッタリと血糊がついていた。その戸を押して日暮達は店内に足を踏み入れる。テーブルにコーヒーカップやサンドイッチの皿が置いてあるが、客も店員の姿も見当たらない。
床は血の海だった。重いものを引き摺ったような筋が出入り口まで繋がっている。日暮がカウンターの裏を覗き込むと生首が一つ転がっていた。断末魔に歪んだ中年の男の顔。やはり傷口は刃物によるものだ。
「回収し忘れらしいな」
人狼が近づいて生首の匂いを嗅いだ。
「死後六時間から八時間は経っているようです」
「修学旅行のバスが着く前にスキー場は襲われてた訳か。一日でも予定が違ってりゃ巻き込まれずに済んだのにな。真鉤も運の悪い奴だ」
二人は生首を放置してホテルへの通路を進む。電灯は消えているが二人の目が闇に負けることはない。やはり点々と血の痕が続いていた。
「電線も鎌神とやらが切ったのかな。だとすれば狡賢い奴だ」
ホテルのロビーに到着する。やはり電灯は消え、閑散として誰もいない。スキー板やバッグなどが転がっている。そして大量の血糊。階段も何筋もの血痕が残っている。
日暮は大きく鼻から息を吸い、黒い瞳に陶酔と嫌悪の混ざった微妙な色を浮かべた。
「凄いな。全員殺して、死体を運び去ったか。何のために」
「おそらく……」
「いや、答えなくていい。薄々分かってる」
フロント正面の壁に、矢が一本深々と刺さっていた。木製の棒部分と本物の羽根を使った矢羽には血と脳の破片が絡んでいる。誰かの頭部を貫通したのだろう。
「おーい。誰か生きてるかー」
日暮は呼んでみる。良く響く大声が建物内を木霊するが、反応は感じられない。
フロントに電話機がある。日暮は受話器を取り耳に当ててみるが全くの無音だった。
「電話線もか。助けも呼ばせず、一人も逃がさないつもりだったか。客が何百人いたか知らんが、鎌神ってのは相当の欲張りだな」
「時間は経っていますが大量の血が流れていますので、何処に運んだかは匂いで辿れそうです。まずご友人と修学旅行のバスを探す道もありますが、どうなさいますか坊っちゃん」
人狼が尋ねた。
受話器を元の場所に戻し、日暮静秋は「さて」と呟いた。目出し帽から覗く瞳が冷たく冴えていく。
四
「寒いな」
村長は呟いてコタツから手を伸ばし、石油ストーブを引きつけた。
向かいに座る駐在の大井出はのんびり茶を啜りながら夕刊を読んでいる。勿論湯飲みは真鉤に出したものとは別だ。
主である老婆・種茂の死体は毛布にくるまれ店の床に置かれていた。
「もう少ししたら本署には、異状なかったと連絡するわ。どんくらい時間稼げるか分からんがの」
大井出が言った。
「うむ」
頷く村長の横には猟銃があった。上着のポケットから携帯無線機が顔を出している。
「冬ももうじき終わるのに、鎌神様は頑張っとるなあ。年末に一家族行方不明になったっつうからそれで終わりと思っとったに」
「そうじゃな」
煎餅をポリポリ食べながら、大井出が聞いた。
「のう、村はどうなるんかの」
「知らんわ。わしらは今まで通りやるだけじゃ」
村長は吐き捨てるように言った。
「生きるためには仕方なかった。警察が来ようが自衛隊が来ようが、鎌神様に任せるだけじゃ。わしらが出来るだけの努力をしたことは、伊蔵の奴になんとか伝えさせよう。そんためにわざわざ奴を飼っとるんじゃからのう。それだけやりゃあ、後のこたぁ知ったこっちゃないわい」
店の戸が開いて四十代の屈強な男が顔を出した。
「山から誰か来よると伊蔵が言うとる」
「ほう、車か」
大井出が問う。
「いや歩きだ。一人らしい」
村長と大井出はコタツから這い出した。店の外はやはりひどい吹雪だ。道路際に茶色の毛皮のジャケットを着た大男が立っている。山辺伊蔵。村長が声をかける。
「種茂の婆さんを殺した学生か」
「いや。スキー客じゃろ」
ぶっきら棒に山辺は答える。四人の男達は道の前方を見据える。
白い世界に人の姿が浮き上がってきた。四十才くらいの男でストックを一本持っている。スキーウェアはあちこちが破れ、血が滲んでいる箇所もあった。
「た、助かった。助かった……」
男は村人の姿を認め、泣き笑いのような顔になった。いや実際に涙を流していた。疲れきった足を引き摺り近づいてくる。
「どうした」
大井出が微笑を浮かべて迎える。
「お、襲われた。化け物に。スキー場が。皆殺しで。俺だけ、逃げて。ああ、でも、助かった。山の中、そこら中に罠があって、死ぬかと思った」
「スキー場もか。あちゃあ、そりゃまた大変だのう」
大井出の口調に違和感を覚えたらしく男が立ち止まった。村長が猟銃を構えて引き金を引いた。あっけない、銃声。
至近距離からの散弾が男の胸部に血みどろのクレーターを作った。男は崩れ落ちながら、曖昧な笑みのようなものを浮かべた。それは雪に埋まって見えなくなった。
「これも婆さんと一緒に埋めなならんのう」
大井出が言った。
山辺は元々険しい顔を更に険しくして山の方を見ていた。
「伊蔵、さっきからどうした。何かあるのか」
屈強な男が尋ね、山辺は陰鬱な瞳で三人を見渡した。
「変な感じだ。……もしかすると、鎌神が一頭、死んだかも知れん」
「何」
村長が目を剥いた。
「信じられんのう」
大井出が頭を掻く。
「鎌神も生きモンじゃ。不死身の生きモンなどこの世にはおらん」
山辺はそれを喜んでいるのか、悲しんでいるのか。或いは、何も感じていないのかも知れない。
「流石に鎌神様のことはよう分かるのう、伊蔵。お前はあれと繋がっとるけんの」
屈強な男に山辺は昏い視線を返した。山辺は相手よりも一回り大きく、自然と見下ろす形になる。
「な、何じゃ、その目は」
男は怯みかけ、それを補うようにきつい声になっていた。
「伊蔵、早う死体を運べ」
村長が言う。山辺は男を見据え続けている。
「のぼせ上がんなよ、伊蔵。村がお前らを養ってやったのを……」
「もういい」
男の言葉を遮って山辺は言った。
「もういいとはどういうこっちゃ」
「そういうことじゃ。もう、どうでもいい」
山辺は腰の剣鉈を抜いた。
「あ、貴様……」
男が山辺を指差した。剣鉈が霞み、男の手首が落ちた。人差し指を伸ばしたままの形で。
「あ、ああっ」
男が叫んだ。
「やめい伊蔵」
村長が猟銃を向ける。大井出が慌てて腰の拳銃を抜こうとしている。
山辺は右足を踏み出しながら剣鉈を横薙ぎにした。
三人の首筋に、赤い横線が走っていた。それが太くなり、パックリと開いて肉を覗かせる。三人の首が、後ろに傾き始める。目を白黒させた大井出の顔。村長は何か言いたげだが喉の傷から空気が洩れるだけだ。
「後のことは知ったこっちゃない」
山辺は店の奥の会話を聞き取っていたらしい。
三人の首が転がり落ち、血を噴き出しながら胴が倒れた。山辺はロープとブルーシートの入った麻袋を捨てた。死体を運ぶための道具だった。村長の猟銃と大井出の拳銃を取り上げベルトに差した。予備の銃弾もポケットに突っ込む。
下りてきた男も合わせて四つの死体を道に放置したまま、瞳に絶望を湛え山辺は歩き出した。山ではなく、加馬下村の方へ。