第五章 後のことを考えている

 

  一

 

 冷たい感触。床。濡れている。岩かも知れない。

 藤村奈美は自分が横たわっていることに気づいた。背中が痛い。落とされた衝撃で目が覚めたのだろうか。

 寒い。

 物凄く寒い。

 ヒュルールー、と風が細く鳴っている。

 奈美は目を開けた。

 薄暗い。小さな炎が見える。二ヶ所。蝋燭だろうか。違う、金属の器に立てた芯が燃えている。燃料は何だろう。

 少しずつ目が慣れてくる。ここは洞窟か。広い。なめらかな壁面は鍾乳洞かも知れない。何かがぶら下がっている。何十も沢山、蓑虫のように吊られている。何故こんなところに自分はいるのか。バスにいたのに。修学旅行だった。矢で襲撃されて、足止めされて……。

 洞窟の天井から逆さ吊りされているのは人間の死体だった。全裸で胸腹部を縦に裂かれ、内臓を抜かれているようだ。首筋に傷がある。皮一枚で胴と繋がっているのもあった。何のために。血抜き、という言葉が急に浮かぶ。小さな明かりに照らされ首と顔、バンザイ状態の腕を黒っぽい液体が伝っている。

 ふと気づいて床についていた掌を見る。黒っぽい液体。血だ。洞窟内は血の海だった。それを意識すると濃厚な臭気が感じられるようになった。むせてしまいそうだ。

 解体され吊られた死体には奈美の同級生もいるかも知れない。自分も同じ末路を辿るのだろうか。真鉤は助けに来てくれるだろうか。もし洞窟が入り組んでいたら。そもそもあの雪男は何処に行ったのか。自分はパニックになってはいない。奈美は確認する。ここは雪男の住処だ。或いは食糧庫。自分も食糧にされるのか。死ぬ覚悟は出来ている。でもなるべく苦しまないような殺し方にして欲しい。ああ、それにしても寒い。真鉤は奈美のことを探してくれているだろうか。助けに来て欲しい。真鉤君。

 怖い。パニックになってはいない。体も震えてはいない。しかし底冷えするような恐ろしさを奈美は感じていた。

 逃げることは出来ないだろうか。奈美は薄暗い洞窟内を見回す。天井は五メートルくらいはあるだろうか。逆さ吊りの死体は鉤つきの鎖や針金、蔓などで足を結ばれている。奈美が立ち上がったら死体の手や頭に触れてしまいそうだ。一メートルほどの間隔で並んでいる。

 後ろを見る。すぐそばに蹲る肉塊に気づいて死体かと思ったが、呼吸をしているし手足も揃っているし大した怪我はしていないようだ。若い女性。

 クラスメイトの市川香澄だった。一緒に攫われたのだった。揺り起こそうかと思ったが状況を確認するまで待つことにする。彼女は冷静でいられないかも知れない。

 風の音以外にも何か聞こえる。少し離れた場所でズリ、ゾリ、という音。布を破るような音も混じる。ズビ、と肉の裂ける音。重く柔らかいものを落とす音。

 ここからは見えないが、雪男はいる。解体作業中らしい。

 私は、パニックになってはいない。

 モゾモゾと動く気配がある。炎の下。死体から剥ぎ取った衣服が山のように積まれている。古い着物はいつの時代のものだろう。服の山が動いている。

 女性の顔がこちらを見つめていることに、奈美は漸く気づいた。服の山に埋もれ顔だけを出している。元々は綺麗な女性だったと思うが、恐怖と苦痛が染みついたようにひどくやつれ、汚れている。その瞳が何か言いたげに奈美を見ていた。口が動くが微かに吐息を洩らすだけだ。女性が衣服の山から這い出して全身を現した。

 女性には手足がなかった。上腕も太股も半ばほどまでで、断端は丸まっている。切断されてかなり経つのだろう。この女性はこの洞窟で生き延びてきたのか。どうして殺されずに。

 女性は全裸だった。腹が妙に膨れている。肥満ではない。まさか、妊娠しているのか。彼女が一年以上ここにいるのだとすれば……。

 自分達が生きたまま攫われた理由を奈美は悟った。選ばれたのだ、怪物に。ゾワリ、と全身に鳥肌が立っていた。死ぬ覚悟は出来ているつもりだった。死ぬより悪いことはないと思っていた。だがそれは存在したのだ。手足を切り落とされ、死体に満ちた暗い洞窟で怪物に犯される自分を想像する。自殺することも許されない。食べ物は何なのか。まさか人肉を食べさせられるのか。猛烈な吐き気が襲ってきた。酸っぱいものが喉元まで込み上げるが奈美はなんとか耐えた。そのうち胃の辺りに鈍痛が始まり、極限を超えて治まった時には内臓が空っぽになったような虚ろな感覚に変わっていた。

 手足のない女性は口を動かして何かを訴えかけている。「逃げて」と言っているのか、「助けて」と言っているのか。それとも……。

 市川香澄が身じろぎして「うふうぅ」と声を洩らした。作業中の雪男を刺激しない方がいい。市川が目を開けたのを確認して奈美はその口元を左手で押さえた。しまった。血で濡れていたのだった。右手人差し指を伸ばし自分の口の前にやり沈黙のポーズを作る。市川は目をパチクリさせていたが奈美に気づいたらしい。しかし彼女は奈美の手を力ずくで払いのけた。

「何、これ」

 市川が言った。奈美は慌ててその口を塞ごうとするも抵抗される。

「何処、これ、どうなってんの」

「黙って」

 奈美は小声で鋭く告げた。市川は身を起こして周囲を見回す。

「静かにして。あいつが近くにいるのよ」

 顔を近づけて囁いた奈美を市川は突き放した。その表情には戸惑いだけでなく奈美への嫌悪があった。確かに仲が良い方ではなかったけれど、この状況であんまりではないか。奈美は苛立ちを覚えた。

 薄暗い洞窟を見渡して、吊られているものが何であるかを理解した市川香澄は、予想される中で最悪の行動を取った。

「ヒッ、ギャアアアアアアアア、アアアアアッ」

 全力で絞り出された悲鳴に奈美は耳が潰れるかと思った。綺麗な顔を歪め、息継ぎを挟んで更に市川は叫ぶ。奈美は彼女の顔を引っぱたきたくなったがもう遅い。悲鳴が木霊して凄いことになっている。この洞窟はかなり広いらしい。

「アアアアアアッ、キャアアアアッ、助けて誰か助けてえええっ助けて助けて、アアアアアア助けてえええええっ」

「タスケテタスケテ」

 悲鳴の合間に奇妙な声が聞こえ、市川も口をつぐんだ。

「タスケテ、オネガイ、タスケテ」

 舌足らずでイントネーションのおかしな、アニメのキャラクターのように可愛らしくも感じられる声だった。

 手足のない女性は喋っていない。信じたくもないが、誰が発した声なのかは明らかだった。

 ベチャリと湿った何かが落ちる音。鎖の音が鳴る。液体の滴る音が続く。

 ペタ、ペタ、と、足音が、近づいてくる。

 薄闇の奥、吊られた死体達の間に巨大なシルエットが浮かび上がった。身長二メートルを超える毛むくじゃらの怪物。右手にはあの大鉈でなく包丁らしき刃物を握っている。解体作業に使っていたのだろう、先端から雫が垂れている。

「タスケテ、イタイ、キャー」

 感情が全く篭もっていない。おそらく雪男は言葉の意味を知らないのだろう。犠牲者の叫びを覚えていて鸚鵡返しに使っているだけなのだ。

 手足のない女性の方を見る。逃げ道を示してくれることもなくただ瞳を絶望に染めていた。

 覚悟が必要だ。覚悟しかない。

 私はまだパニックになっては、いない。奈美は心の中で繰り返した。

 雪男がのっそりと近づいてくる。市川はただ凍りついていた。喘息の発作みたいにヒューヒューと呼吸音をさせている。奈美は逃げようとしたが足に力が入らない。腰が抜けてしまっているらしい。情けない。死線をくぐってきた筈なのに。必死に両手で岩を掻き後ずさりした。岩が血で滑る。雪男がこちらを見たような気がして奈美は動きを止めた。

「ヒイイイイイイッ」

 突然市川が悲鳴を再開した。それで雪男が彼女を向いた。いかつい肩が当たって逆さ吊りの死体が揺れた。

 雪男が市川香澄の前にしゃがみ込んだ。背にある大鉈の先端が床に当たりコツンと音を立てた。包丁を置いて彼女の右足を掴む。スカートがめくれ太股が露わになる。何をする気なのか。悲鳴が更に大きくなった。雪男は左手に紐の束を持っていた。手作りかどうかは分からない。

 市川の右太股に、雪男が紐を巻きつけ締めた。爪の伸びた大きな手で器用に結ぶ。

「痛い痛いいいっ」

 市川が泣き叫ぶ。紐が肉にきつくめり込んでいた。雪男は続いて左足も締める。次は腕だろう。

 床に置いてある包丁。あれを拾えないだろうか。奈美は考える。でも拾ってどうなる。あの大鉈でバスも切り裂く怪物に敵う訳がない。自殺くらいなら出来るかも。自分の喉か胸を刺して。いや、でも最後まで戦うべきではないのか。ああ、そもそも足が思うように動かない。

 真鉤君。

 雪男は市川の手足を全て締め終えた。彼女は泣いている。仰向けのまま手足をバタつかせるが逃げることは出来ない。雪男は包丁を手に取った。左手は市川の左足を押さえる。奈美は、目を逸らすことが出来なかった。

 ズトン、と、包丁があっけなく市川の左足を切断した。紐を巻いた部分のすぐ先で。紐は大量出血を防ぐためだったのだ。奈美の心臓がドクンと鳴った。

 市川が凄い悲鳴を上げた。これまでの悲鳴はまだ人間としての体裁を保っていた。だが今の悲鳴は動物としての、絶対の危機に瀕した獣の叫びだった。

 奈美には何も出来なかった。助けられない。「やめて」とも声が出ない。何も出来ない。ごめんなさい。ごめんなさい。涙が溢れてきて薄暗い視界が歪む。

 次に右足が切断された。断面から血が滲み出している。市川は叫びながら泡を吹いているようだ。狂ったようにのた打ち両手を振り回す。

 その手が雪男の毛むくじゃらの顔を引っ掻いた。雪男が太い腕で乱暴に払いのけた。

 抉り取った薄い皮膚が市川の爪から垂れ下がっている。彼女の爪は長かった。雪男に一矢報いた。奈美の心に湧き上がったのは歓喜ではなく恐ろしさの方だった。

「グワオオオオ」

 雪男が吼えた。さっきの幼児のような声とは違い、怒り狂った野獣の声で。顔をちょっと引っ掻かれただけ、大した傷ではない筈だ。だが君臨する捕食者のプライドは傷ついたらしい。

 雪男が片手で市川の胸倉を掴み上げた。カーディガンとセーラー服が少し裂けたが両足のない市川はあっさり持ち上げられる。雪男の剣幕に市川は悲鳴も忘れていた。その目がふと泳いで奈美の方を見た。奈美には何も出来なかった。

 雪男が市川を投げた。その先には壁があった。吊られた死体の間をうまい具合に抜けて市川が頭から壁に激突した。グシャリ、という嫌な音がした。

 市川香澄の体がずり落ちていく。壁に血の染みをつけながら。彼女の頭は潰れ、厚みを殆ど失っていた。爪の長い彼女の指がヒクリ、ヒクリと動いた。それが彼女の最期の動作だった。

 洞窟に静寂が戻った。雪男は包丁と残りの紐束を拾い、奈美の方へ向き直った。

「い……嫌……」

 奈美の口から掠れ声が洩れた。他人が喋っているように実感がなかった。自分の番だ。自分もきっと泣き叫ぶだろう。痛みと恐怖で失禁してしまうかも知れない。ショック死すれば楽に済むのに。舌を噛んだら死ねるだろうか。意外にあまり死なないという話も聞く。呼吸が勝手に速くなる。考えが回るばかりで何も出来ない。何も出来ない。何も出来ない。真鉤君。真鉤君。

 雪男が奈美の前に屈み込んだ。雪男の生臭い吐息を奈美は感じた。

「イタイ、タスケテ」

 奈美が言うべき言葉を雪男が囁いた。嘲笑するように。いや、そんな知能はないのかも知れないが。

 左足を掴まれ引っ張られた。凄い力に握り潰されるかと思った。「あううっ」と声が出てしまう。めくれたスカートを押さえようとして腕に払いのけられる。白い毛は硬かった。犬や猫の感触とは全く違う。太股の半ばから少し上を紐で締められる。植物の蔓だろうか、肉に食い込んで痛い。そこから先の感覚が鈍くなってくる。血が回らなくなってしまう。当然だ、そのために結んだのだから。足を切り落とすために。逃げられなくするために。続いて右太股も結ばれた。達磨という都市伝説を思い出した。日本人旅行者が中国で手足を切断され見世物にされているという話。ああ、助けて。真鉤君。真鉤君。右腕を結ばれる。付け根辺りを制服ごと。そして左腕。私は一生ここに閉じ込められ怪物に犯され続け、怪物の子供を産まされるのか。死んだ方がましだ。市川さんみたいに顔を引っ掻いてやればあっさり殺してくれるだろうか。それとも舌を噛むべきか。でも体が動かない。情けない。市川さんの方が勇気があったのだろうか。動けない。何も出来ない。真鉤君。真鉤君。左足を掴まれた。「オネガイ」包丁が振り上げられる。

「真鉤君っ」

 奈美は叫んでいた。左太股にゴツンと硬い衝撃があった。最初は叩かれただけかと思った。だが左足は太い断面を晒して転がっていた。自分の足。間違いない。自分の断面が見えている。信じられない。でも現実だ。痛みがじわじわと強くなってくる。足が。もう歩けない。

 雪男が奈美の右足を掴んだ。

 その時、怒りの咆哮が洞窟を揺るがせた。幾重にも木霊して何処から聞こえているのか分からない。

 雪男が包丁を止めた。奈美の右足を離して立ち上がる。雪男には仲間がいる筈だが、周囲を見回す様子からは予期せぬ来訪らしい。仲間なら意味もなく吼えることはしないだろう。

 咆哮は人間の怒号にも似ていた。

「真鉤君」

 奈美は叫んだ。彼がこの場所を見つけてくれるように。早く駆けつけてくれるように。足の痛みは吹っ飛んでいた。

 やがて、カツンカツンと硬い音が聞こえた。壁の向こう。

「真鉤君、ここ、ここにいるから……」

 音が消えた。洞窟が入り組んでいるとしたら、向こうの空間とこちらとは直接繋がってはいないのかも知れない。だとすればすぐにここに駆けつけられないかも……。

 バグォンと派手な音がした。洞窟の震動を奈美は感じた。何かを岩に叩きつける音。何度も続く。どんどん激しくなっていく。パラパラと天井から岩の欠片が落ちる。

 雪男が包丁を放り捨てた。右肩から突き出している長い柄を右手で握る。ジャジャー、と金属の擦る音をさせて大鉈が引き抜かれていく。

 壁から岩の塊が飛んだ。穴が開いている。向こうから掘ってきたのだ。穴の向こうで気配が動く。また岩が飛び穴が大きくなる。人間の足が見えた。分厚い岩を蹴り崩してきたのか。邪魔な出っ張りを大きな刃が削り落とした。

「彼女に触るな」

 真鉤の声が告げた。低い声だったが今にも爆発しそうな怒りが込められていた。真鉤君が来てくれたのだ。私を助けに。急に何も気にならなくなって、これでもう死んでもいいと奈美は思った。

 雪男が壁の穴へ走り大鉈を振り下ろした。ガギンッ、と火花が散って凶器同士が打ち合わされ弾かれる。真鉤が素早く飛び出してその全身を現した。

 真鉤は雪男のものと同じ大鉈を握っていた。おそらく一体を倒して凶器を奪ったのだ。繋ぎの作業服に大きなリュックを背負い、ボロ布のマントをつけていた。タオルを巻いて顔を隠しているのを見て奈美は吹き出しそうになった。救出にやってきたヒーローは凄くかっこ悪い姿だった。でも笑ったら悪いので奈美はこらえた。極限状況で自分はおかしくなっているのかもと奈美は思う。

 そんな奈美を真鉤が一瞥した。切り落とされた左足も見たろうか。だがその僅かな隙に雪男が襲ってきた。袈裟斬りの大鉈が吊られた死体を両断しながら迫る。真鉤はスルリと前のめりに身を沈めて躱した。同時に彼の大鉈が低く薙いだ。スコンと軽い音がして雪男の右足首を通り過ぎる。

 雪男が吼えた。身をひねると右足首が外れて転がった。やった。奈美は心中快哉を叫ぶ。怒り狂った雪男が大鉈を振り回す。吊られた死体が切れて落ちる。時に火花を散らして大鉈がぶつかり合う。衝撃で真鉤が少しよろける。足首を切ったからといって終わった訳ではないのだ。雪男は右足首の断端を平気で床について迫る。斬り合う二人に押されて死体達が揺れる。

 奈美は邪魔にならぬよう後ずさりしようとした。両手が痺れてあまり力が入らないが、なんとか少しずつ移動出来る。置き去りにした自分の左足と離れていく。

 死体がブツ切りになって次々と床に落ちる。それを雪男が踏んづけていく。真鉤がしゃがんで鉈を躱しながら、誰かの生首を拾って雪男に投げつける。生きるか死ぬかの闘争に死者の尊厳など無意味だ。

 奈美は真鉤と日暮静秋が殺し合うところを見たことがある。薄暗い病院の廃墟で繰り広げられた殺人鬼と吸血鬼の戦いは、真鉤の力と日暮の技の戦いであったと思う。今、この薄暗い洞窟で行われているのは雪男の力と真鉤の技の戦いのように見えた。スピードはやや真鉤の方が速いが、雪男は障害物の死体ごとぶった切って凄い勢いで大鉈を振り回す。それをうまく避けながら真鉤も大鉈を振る。足を狙っているが最初で懲りたのか雪男も用心しているようだ。大鉈同士がぶつかり合う。真鉤が高く跳ぶ。待ち受けた雪男の大鉈は空を切った。真鉤が死体の鎖を掴んで落下を遅らせたのだ。大上段から襲った真鉤の大鉈を雪男は後ろに下がって避けた。再び火花。真鉤が後ろに弾かれ倒れそうになった。

 真鉤の鉈のスピードが鈍っていることに奈美は気づいた。どうしたのだろう。奈美の目には見えなかったが攻撃を食らったのかも知れない。雪男の腹が裂けて、はみ出した腸が膝辺りまで垂れ下がっている。だが雪男は少しも弱ったように見えなかった。

 真鉤の左手が大鉈の柄から離れ、腕が力なく下がった。右手だけで武器を振るようになり更にスピードが落ちる。もしかして、ここに来る前にもダメージを負っていたのかも知れない。

 落ちていた死体に足を取られたか、体勢が崩れたところに横殴りの一撃を受けて真鉤は吹っ飛ばされた。奈美の横を過ぎて背後の壁に叩きつけられる。ゴギッと骨の砕けるような音がした。

「逃げろ」

 血の絡んだ声で真鉤が言った。真鉤の首が曲がっている。首から血が流れている。彼は弱っている。真鉤を置いて逃げたり出来ない。このままだと彼は雪男に殺されてしまう。なんとかしないと。どうにかして……。

 追い討ちをかけるべく雪男が近づいてくる。短い片足を平然と岩について。真鉤がよろめきつつ壁から離れる。雪男が大鉈を振り上げて奈美の横を過ぎる。怪物にとって奈美など虫けらのようにちっぽけな存在なのだろう。

 思考ではなかった。何か稲妻のようなものが体を走り抜けて、奈美は雪男の右足にしがみついていた。痺れる手で精一杯爪を立てて足首の傷口や皮膚を掻きむしる。市川香澄がやったように。

 雪男は一瞬動きを止めた。そして奈美を見下ろした。市川の時のように吼えたりはしなかった。ただその大鉈が奈美に向かって……。

 実際には凄いスピードだったと思う。しかしその場面だけは、奈美にはスローモーションとなって見えた。血塗れの大鉈が奈美に向かい下りてくる。鈍く輝く刃。その表面を慣性で逆向きに流れていく血糊。下りてくる。奈美は自分の頭頂部を意識する。きっとそこに刃は降ってくるだろう。下りてくる。後一メートル。九十センチ。いやもう七十センチかも。即死という言葉が浮かぶ。真っ二つ。脳が。

 だが視界の隅に別の輝きが映った。やはり血塗れの刃。もう一本の大鉈。雪男のものとは違い、奈美の頭上を横殴りに動いている。真鉤の鉈だと気づいたのは奈美の感覚では五秒後くらいだった。

 奇妙な静寂の中、大鉈を振り下ろす雪男の右腕に、真鉤の刃が食い込んで、スルスルと、切り進んでいき、完全に、通り抜けた。切り離された腕が、握った鉈ごと奈美の上を過ぎ、後方へ、すっ飛んで、いく。

 ジョギャッ、という切断音と共に時間の流れが元に戻った。飛んだ大鉈が岩にぶつかる硬い音。雪男の右腕断端から噴き出した血が奈美の服にかかった。いや首筋からも噴いている。真鉤の鉈は同時に首も裂いていたのか。

「ヴオオオオオン」

 雪男の咆哮は悲鳴のようでもあった。雪男が後ろに倒れかけ、右足を掴んだ奈美も引っ張られそうになった。その肩に真鉤の手が触れ引き戻される。

「危なかった……」

 真鉤の声は震えていた。彼自身でなく奈美のことを言っているのだった。真鉤の鉈が少しでも遅れていたら、奈美は真っ二つになっていたのだ。でも真鉤のその一言が、その声の震えが奈美には凄く嬉しくて、ああこれで幸せに死ねると思った。

 雪男は倒れずになんとか踏み留まっていたが、首と腕からの出血が続いている。そして右足首からも。真鉤は左手をゆっくり上げて、大鉈を握る右手に添えた。

「オネガイ、タスケテ」

 雪男が幼児の声で言った。皮肉なことに、意味を知らぬままの台詞は状況に合っていた。

「断る」

 真鉤は冷たく、簡潔に答えた。そして大鉈を振り下ろした。

 刃は雪男の左肩から右脇へと抜けた。大鉈の先端が岩にぶつかり火花を散らした後で、斜めに切れた上部が後ろへ転げ落ちていった。胸から下の部分は前のめりに倒れ、ドシャリと湿った音をさせた。

 真鉤は更に一歩近づき、刃の向きを変えて叩きつけた。グシャリと何かが潰れる音。念のために頭を潰したのだろう。

 大鉈を落とし、真鉤は右手で自分の頭頂部を押さえた。大きく吐いた息はまだ湿った音がした。それから振り向くと、奈美に歩み寄って彼は言った。

「遅れてごめん。洞窟が深くて迷ってた。大丈夫かい」

 タオルで顔を隠したまま真剣な口調で問う真鉤に、奈美はまたちょっと可笑しくなった。

「うん。大丈夫。足は、切れちゃったけど」

 言い終えた途端、急に目が熱くなった。麻痺していた感覚が怒涛のように押し寄せてきて、奈美は込み上げるものをこらえきれず吐き出してしまった。

 それは泣き声の形となった。

 奈美は大声で泣いた。涙がどんどん溢れてきて、色々な感情も一緒に溢れ出た。奈美はそれらを浮かぶままに口走っていた。怖かった。真鉤君はなかなか来てくれなくて。市川さんは殺されちゃって。でも来てくれた。来てくれると信じてた。大好き。痛かった。凄く痛かった。でも大好き。あの時は夢中でしがみついたの。真鉤君が生きてて良かった。足がなくなって。手足も全部切られるとこで。足がなくなったら真鉤君に嫌われると思った。でも来てくれた。凄く怖かった。怖かった。

 泣きながら早口でまくし立てる奈美を、真鉤は両手で抱き締めてずっと頷き続けた。

 奈美が少し落ち着くのを待って真鉤が言った。

「足は大丈夫だ。切り口が綺麗だからきっと繋がる」

 真鉤は散らばる肉塊を探し回り、「これかな」と一本持ってきた。靴を履いた左足。確かめるように奈美の太股に近づけてみる。

「断面の高さが違うね」

「これ、市川さんのだと思う。私の足はこんなに太くないし」

 真鉤はタオルの奥で苦笑したようだった。今度は正しい足を持ってきてくれた。両腕と右足に巻かれていた紐も解いてもらう。冷えて感覚の鈍くなっていた手足に熱が戻ってきた。

「左足の紐は外さない方がいい」

 真鉤が言った。そこで奈美は手足のない女性のことを思い出した。

「そうだ、もう一人、ここに……」

「分かってる」

 真鉤は気づいていた。隅に積もった衣服の山に隠れ、あの女性が顔だけ出してこちらを見守っていた。戦いの最中にも声を出さなかった彼女は今、満足とも虚脱ともつかぬ微妙な表情になっていた。口がゆっくりと動く。四文字、先程と同じ台詞のようだ。

 数歩近づいて、真鉤が冷静に言った。

「声帯を切られているね。頷くか首を振るかで答えて欲しい。あなたは『殺して』と言っているのか」

 奈美は驚かなかった。最初から自分は悟っていたのだと思う。奈美が彼女の立場だったら、やはり同じことを希望したかも知れない。今更助けられたところで何も戻ってはこないのだ。

 女性は頷いた。続けて真鉤が問う。

「お腹の子は鎌神の……あの怪物の子か」

 またも頷く。

「怪物は、全部で何体いる。僕はこれで二体殺した。まだいるのか」

 頷き。危機は去った訳ではないのだ。気の緩んでいた奈美に緊張が戻ってくる。

「後何体いる。一体か」

 頷き。真鉤は数秒の沈黙の後、問うた。

「もう一度聞く。あなたは本当に殺して欲しいのか。いずれ警察や救助がやってくる。あなたは助けられ、病院に収容され、ひとまずは文明社会に戻ることが出来る。生きていれば、気持ちが変わってくることもあるかも知れない。それでも殺して欲しいのか」

 真鉤は優しく、丁寧に念を押した。奈美には少し意外だった。かつて口封じのためにクラスメイトさえ殺した真鉤が。

 女性は、しっかりと、頷いた。

 真鉤もまた頷いた。

「そうか。なるべく苦しまないように、あなたを殺します」

 奈美には、声をかけることが出来なかった。どんな言葉も偽善になりそうな気がした。同時に自分はやっぱり意気地なしだと思った。

 真鉤が女性のそばに屈み込んだ。手袋を填めた両手の指先で首の辺りを押さえる。数秒後に女性の目が裏返り、瞼が閉じた。柔道などで『落ちる』と言われるものか。

 真鉤は一旦手を離し、左手を開いて狙いを定め、横から女性の首を叩いた。ポスッ、と軽い音がした。それだけだ。

 立ち上がり、真鉤は言った。

「延髄の呼吸中枢を潰した。洞窟を出よう」

 女性は二度と目を開けなかった。

 真鉤は衣服の山からダウンジャケットを拾い奈美に着せた。死人の持ち物だけど贅沢は言っていられない。真鉤は背中のマントとリュックを下ろした。良く見ると真鉤の服は大量の血が染みついていた。拾った別の上着を間に挟んで奈美を背負う。片足しかない奈美がずり落ちないようベルトで胴を固定する。奈美の左足はリュックに入れて肩掛けした。自分の足なのに物みたいだと奈美は思う。真鉤は奈美の上からコートをかぶせ、両袖を前で結んだ。厳重な寒さ対策。これから吹雪へ戻らないといけないのだ。

「出口は分かるの」

「色々歩き回ったけど多分大丈夫だ。風も参考になる」

 真鉤は最後に大鉈を一本手に持ち、死体で溢れた洞窟を歩き始めた。

 所々に小さな炎が燃えている。缶の中に濁った油が入っている。何の油なのか奈美は敢えて聞かなかった。

 暫く歩いても吊られた死体は続いていた。生臭い匂いがせず乾いているようだ。

「死体の肉を燻製にしている。鎌神は冬の間だけ出るそうだ。多分、冬に食糧を確保して次の冬まで洞窟で暮らしていたのだろう」

「鎌神って」

「村の人はそう呼んでいた。何百年も前からいたらしい。村は鎌神の仕返しが怖くてずっと隠蔽していたんだ」

 薄闇を歩きながら真鉤が説明を始めた。奈美には内容はどうでも良くて、真鉤の声を心地良く感じていた。

 真鉤の背は温かかった。

 

 

  二

 

 山辺伊蔵は雪の中を駆けていた。右手に剣鉈、左手にスコップを持ち、肩掛けした猟銃が揺れている。

 山辺は乱杭歯を剥いて笑っていた。その頬に血がついている。袖で拭う。熊の毛皮のジャケットは既に大量の血糊で汚れていた。そこに雪がへばりつきまだらになっている。

 斜面に建つ古い民家が見えてきた。降り続く雪に逆らうように煙突から煙が昇っている。五十代くらいの男が立って山の方を見上げている。猟銃を持ち、尻ポケットから携帯無線機のアンテナが伸びていた。山辺は笑みをやめて減速する。男が山辺に気づいた。

「おう、伊蔵。どうじゃ」

 山辺は黙って歩み寄る。

「こっちは誰も来ん。村長から連絡がないが、どうしとるんか」

 山辺は二メートルの距離で立ち止まった。屋内から赤子の泣き声が聞こえている。

「村木。俺のお袋が生きとった頃、おのれは良う夜這いに来おったの」

 いきなりの罵倒に男は面食らったようだった。

「な、何や伊蔵、その口の利き方は」

「抵抗出来んお袋をさんざ犯した。三人、四人がかりで来たこともあったのう。その間俺は外に蹴り出されとった。おのれには何百発も殴られたのう」

 山辺の低い声に憎悪が滲んでいた。男は精一杯威厳を取り戻そうとして荒い声になった。

「今更何を言うとっか。そん代わりお前らを養のうてやったろうが。何も出来んサチが役に立つっつうたらそんくらいしかなかろうが。このガキャ何を逆恨みしよっとか」

「お袋はずっと死にたがっとった」

 剣鉈とスコップを握る山辺の両手は垂れたまま動かない。髭の濃い顔が、ニッと凶暴な笑みを浮かべた。

「貴様っ」

 男が猟銃を向けようとした瞬間、長柄のスコップが斜めに跳ね上がった。ヒュコン、と音がして皿のようなものが飛んでいった。

「き……さ……」

 男の右側頭部から頭頂部までが綺麗に削げ落ちていた。脳の断面にじわりと血が滲む。

 山辺は踏み込んで剣鉈を振り下ろした。刃は男の頭頂部から顎の下まで食い込んだ。男の目がメチャクチャに動いている。山辺は男の胸にブーツで蹴りを入れ、剣鉈から引き剥がした。

 剣鉈を鞘に収め、死体から猟銃を取り上げる。山辺は弾を確認して家へ歩いた。玄関に鍵は掛かっていなかった。掛かっていても蹴破っただろうが。

 女性の悲鳴が聞こえた。そして銃声。赤子の泣き声が大きくなる。銃声。

 泣き声はやんだ。

 新たな返り血をつけて山辺が出てくる。二挺の猟銃を肩に掛け、道沿いに歩き出した。次第にペースを上げ駆け足となる。その先には別の民家があった。

 山辺は鬼のような笑みを浮かべていた。

 鬼の去った家は、煙突以外の場所からも煙が洩れ始めた。炎が屋根を破り次第に広がっていく。

 

 

  三

 

 吹雪は一向にやまず、夕闇の訪れに伴い更に視界は悪化していた。真鉤夭にも今自分達が何処にいるのか掴めない。

 風を頼りに見つけた洞窟の出口は入った場所とは別だった。おそらくは山の中腹より上だと思う。バスや道路を探すよりスキー場の方が近いかも知れない。だがいずれにせよ山を下りて病院に向かわねばならない。或いは日暮静秋との合流を期待するか。

 地面も木々も雪に覆われ獣道も見つけられない。真鉤は大鉈を片手に斜面を下りていく。あちこちに罠が仕掛けられており急ぎ足は危険だった。落とし穴に二度、トラバサミに一度遭遇した。雪の中にワイヤーが埋まっていたこともあった。真鉤には大したダメージにならなくても、背負っている藤村奈美には致命傷になるかも知れない。

 日暮は今何処にいるのだろう。もう山には到着しただろうか。それともまだ新幹線の中なのか。この吹雪で真鉤を見つけられるのか。やはり道路沿いに歩いた方が良いだろう。しかしその道路も見つからない。

 切断された奈美の足は時間が経つごとに再接合の見込みが薄くなっていく。気温の低さは細胞の保存には適しているだろうが、何時間持つだろうか。真鉤には常人の体のことは良く分からない。不意に狂おしい焦りに駆られる。だが冷静さを保っていなければならない。鎌神がもう一体残っている。彼女に焦りが伝わって不安にさせたくもない。

 真鉤は時間を確認しようとして腕時計が壊れていたことを思い出した。

「藤村さん。今何時かな」

 真鉤は背中の奈美に尋ねた。

「……。ん。何」

 奈美の反応は鈍かった。声が眠たげだ。

「時間は分かるかい」

「んー」

 真鉤の首に回した腕を僅かに動かして、奈美が言った。

「五時二十六分……かな」

 真鉤が警察に通報して二時間弱経ったことになる。もうそろそろ何らかの動きがあってもおかしくはない。村が握り潰していなければ。住民達は雑貨屋の老婆の死体を発見して何を思っただろう。警察に自分の本名を言うべきではなかったか。しかし嘘をつくと逆に後でまずいことになる可能性もあった。いや、とにかく今は生き延びることだ。彼女を連れて。

 奈美の体温が下がりつつあるのが真鉤は気になっていた。元々体力がないところに足を切られ、体温を維持するだけのエネルギーが足りないのだ。もっと重ね着させておくべきだった。真鉤は後悔する。

「大丈夫かい」

 真鉤は尋ねた。少し間を置いて返事が戻る。

「うん。大丈夫。……足は、痛いけど」

「ちゃんと繋がるよ。きっとね」

「でも、ちょっと変な感じ。……切れたところじゃなくて、その先の、ない筈のところが、ジンジンしてる」

「なくなった手や足の感覚が残ってることがあるらしいね。痒みの場合は掻く場所がないのだから苦しくてたまらないとか」

「ふふ」

 奈美は何故か可笑しそうに笑った。

「なんだか私、やっぱり足は繋がらないような気もするな」

「そんなことない。繋がるよ」

 真鉤は内心の焦りを隠して保証する。

「繋がらなかったら、ごめんね。片足になっても、付き合っててくれるかな」

「繋がるよ。でも、万が一繋がらなくても、もし君の手足が全部なくなっても、僕の気持ちは変わらないよ」

「気持ちって、どんな気持ち」

 問いかける奈美は微笑しているようだった。真鉤は仕方なく、どうにも落ち着かない気分で言葉にして告げた。

「僕は、君が好きだよ」

「ふふ。ごめんね。こんな時に言わせちゃって」

「僕こそごめん。これまで言葉にしたことがなかった。大事なことは、軽々しく口にしてはいけないような気がしていた。でも、大事なことは、ちゃんと言葉にしておくべきだった」

「そうだよ。今目の前にいるうちに、伝えとかないと」

 そんな台詞が奈美の詩の中にあった。文芸部が作った文化祭用の冊子に、彼女が載せた詩。幽霊部員で、まともに完成した作品はこれだけだと彼女は笑っていた。

「ごめんね。私、こんなに弱くて。いつも、足手まといになってばかりで……」

 奈美の声は囁き程度になっていた。真鉤の声も聞こえているのか分からない。

「……謝るのは僕の方だ。僕みたいな怪物に付き合ってくれて……」

 自分のような、定期的に人を殺さないと生きていけない化け物に。両親を殺し、口封じのためクラスメイトさえ手にかけた悪魔に。自分の安全のために、島谷紀子の体中の骨を砕いて丸め、ビニール袋に詰めて天井裏に隠したのだ。死体を発見した母親は何を思ったことだろう。

 そんな真鉤に、自己嫌悪に陥り自殺を試みた真鉤の顔に、奈美は平手打ちを食らわせたのだ。あの時の彼女の怒った顔と涙を真鉤は覚えている。

 彼女を、こんな血みどろの世界に巻き込んでしまったのは自分なのだ。真鉤は声に出さずに心の中で繰り返す。彼女だけは守らねばならない。自分はどうなっても、彼女だけは……。

「どうした、泣いてんのか」

 前方から声がした。真鉤は驚いて棒立ちになってしまった。動きを止めるのは良くない。矢で射抜かれる危険が増す。いつの間にか注意力が散漫になっていた。敵だったらまずかった。

 声は聞き覚えのあるものだった。

「その先ワイヤーが張ってるぞ。気をつけろ」

 指摘通り、五十センチ先に細いワイヤーがあった。もし触れても罠が発動するほど深く食い込むつもりはない。でもそれが負け惜しみであることも真鉤は分かっている。真鉤は慎重に跨ぎ越した。

「夜の視力は俺の方が上だな」

 雪混じりの闇に人影が浮かび上がってきた。ロングコートを始め黒ずくめの服装に黒い目出し帽。うっすらと赤く光る二つの瞳。

 日暮静秋は虎ほどもある大きな狼を連れていた。高齢らしく毛並みは灰色で、知的な瞳が静かにこちらを見据えている。

 目が合った瞬間、密やかだった狼の気配が変質した。圧倒的な力が見えない壁となって真鉤の全身を叩く。それは殺気ではなく特別な色合いを含んでもいなかったが、ただ一つのことを真鉤に実感させた。

 この狼は、いざとなればあっさり真鉤を殺せるだろう。真鉤も簡単に殺されるつもりはないが、歴然とした力量差を感じ取っていた。

 真鉤だけに向けられた気配はすぐに元の控えめなものに戻った。警告だと真鉤は理解した。日暮の敵に回ることを許さないという意味の。

 本来の真鉤なら、強敵の間合いに入ることは出来る限り避けたろう。だが真鉤は動かずにいた。今は自分の安全よりも大事なことがあった。

「またやったな、じいや」

 うんざりした様子で日暮が言った。

「悪いな、真鉤。うちのじいやなんだが、過保護で困ってる。手は出させないから気にしないでくれ」

「初めまして真鉤夭さん。お噂は坊っちゃんからお聞きしておりますよ」

 狼は老人の声で喋り頭を下げた。日暮の家に電話した時に同じ声が応対したことがある。執事だと名乗っていたが、どうやら人狼であるらしい。

「こちらこそ初めまして」

 真鉤も慎重に挨拶を返す。

「それにしても真鉤、凄えかっこ悪い格好してるな」

 日暮が言った。目出し帽の下でニヤついているようだ。

「かっこ悪い格好というのは言葉がかぶってる。それに、君のマスクもかなりかっこ悪いよ」

 真鉤は言い返したがタオルの下でニヤつく余裕はなかった。

「ありがとう。急に呼び出してすまなかった」

「仕方ないさ。これで貸しは二つだからな」

 歩み寄りながら日暮が問うた。

「背負ってるのは藤村さんか。左足はどうした」

「鎌神に切り落とされた。一緒に持ってきている」

「切れてどのくらい時間が経った」

「三十分くらいだと思う」

「なら大丈夫だな。出せ。繋げてやるよ」

 真鉤が日暮に期待していたことの一つがこれだった。屈んで奈美を下ろす。彼女は眠っているようだった。呼吸は乱れていない。リュックから左足を取り出した。冷たくなり始めている。

 広げたマントに寝かせ、「失礼」と日暮は奈美のスカートをめくり左太股の断面を露わにした。血が固まって赤黒くなり、縛った部分から先は白っぽくなっている。

「少し俺の血を入れるぜ。別に吸血鬼になったりはしないから安心しろ」

 奈美は目を半開きにしたが聞こえてはいないようだ。狼もすぐそばで見守っている。

 十五センチほどの隙間を空けて足を配置した。日暮は右の手袋を外し、親指の爪で人差し指の腹を浅く裂いた。血の雫が膨らみ、そのまま真下に伸びて枝分かれする。数十本になった細い血の糸が二つの断面に潜り込んでいった。日暮は瞬きもやめて集中している。

 ズズ、と、切れた足が少しずつ移動を始めた。血の糸に引っ張られるように元の位置へ近づいていく。日暮は左手で足に触れて角度を微調整している。

 二つの断面の距離が五センチほどになると、網状になった血が大腿骨に染み込み始めた。距離が一センチになると、血管と神経に触れた血の糸は毛よりも細くなり、引っ張られて肉から少し顔を出したそれらは本来の相手と正確に再接合した。血管の壁にずれがないように、神経繊維の一本一本にまで間違いのないように。そして肉同士がくっつき、細い血の糸が皮膚を緻密に縫い上げて、足は完璧に繋がった。

「坊っちゃん、お見事でございます」

 狼が嬉しそうに褒め上げた。

 手袋の左手は足に触れたまま、右手人差し指の赤い糸が止血の紐に触れた。パツンとあっけなく切れて足の血流が再開する。白い足に少しずつ赤みが戻ってくる。余った血の糸は人差し指から離れて雪に落ちた。左手を離さず日暮が言った。

「後五分くらいは血栓が出来ないように調節しててやる。神経も血管も大事なところは間違いなく繋げた。毛細血管は自然治癒で行けるだろう。骨は俺の血で固めて補強したが三日は左足に体重をかけるな。一週間すりゃ走っても大丈夫だろう。皮膚を縫ったのは本人の血だ。丁寧にやったし多分傷痕は残らねえよ」

「ありがとう。君が来てくれて、本当に良かった」

 真鉤は心底そう思っていた。一流の外科医でもこんなに綺麗には治療出来なかったろう。傷痕も残らないなら奈美が気にしなくて済む。

 目出し帽から僅かに覗く日暮の眉が、自慢げに少し上がった。

「体温がちょっと下がってるな。三十二度くらいで意識が鈍ってるがこれ以上冷えなければまあ大丈夫だろう。早いところバスに戻って救助を待とうや」

「ここが何処なのか僕には分からない。君達はどうやって僕を見つけたんだ」

「匂いさ。スキー場から血の匂いを辿って下りてたんだが、途中で女の子の匂いが届いたから引き返した訳だ。と言っても匂いを嗅いだのはじいやだが。風上にいて良かったな。俺達より風下だったら気づかなかった」

 斜面を上から下に風は吹いていた。

「それにしてもそいつは鎌神とやらの鎌だろ。俺が到着する前にやっつけちまったのか。案外元気そうだし、俺の役目は治療だけか」

 嫌々来た割に日暮は少し残念そうでもあった。

「二体は殺した。だがもう一体……」

 風に別の音が混じった。バネ仕掛けのような勢いで跳ねた狼は口に細いものを咥えていた。木製の矢。斜面の下方から飛んできたのを人狼が咥え止めたのだ。狩人は風下から襲ってきた。

 折れた矢を落として人狼が吼えた。真鉤も大鉈を握るが狼は既に射手の方へ駆け去っていた。

「おい、じいや、俺に出番を残し……」

 奈美から手を離せない日暮は諦めて首を振った。すぐに二つの咆哮が絡み合った。五十メートル以上先だろう。人狼の凄まじい脚力。真鉤は奈美と日暮を庇う位置に立つが、矢はもう飛んでこなかった。吹雪のため戦いの様子は見えない。

 数秒で咆哮は途切れ、静寂が訪れた。

 人狼が雪の闇から戻ってきた。丸い肉塊を咥えている。

 顔に火傷の残る、鎌神の生首だった。噛みちぎられたものらしい。色素を持たぬための赤い瞳はまだギョロギョロと真鉤達を見回していたが、次第に動きが弱くなり、完全に止まった。

 四百人を恐慌に陥れ四十人以上を殺した射手は、人狼にあっさり始末された。

 捧げ物のように生首を日暮の横に落とし、人狼は誇らしげに尻尾を振った。

「ご安心下さい。静秋坊っちゃんを邪魔する者は私が残らず片づけますからね」

「だからじいやを連れてきたくなかったんだよなあ」

 日暮が溜め息をついた。

 

 

  四

 

 午後五時四十分、立ち往生のバスに日暮静秋と人狼が到着した。威圧感を与えぬよう、人狼は普通の狼程度の大きさに戻っている。ちょっと見には犬と間違えそうだ。ボロ布で包んだ藤村奈美を抱えるのは日暮だった。真鉤夭は離れた場所で周囲を警戒している。

 手近なバスに乗り込み、怯える生徒達の前で「ほれ」と奈美を通路に横たえた。

「怪我してる奴はいるか。応急処置くらいはしてやってもいいぞ」

 黒ずくめで黒い目出し帽の日暮に、恐る恐る男子生徒が聞いた。

「あの……君は、誰」

「通りすがりのヒーローだ」

 大真面目に日暮は答えた。

 事前の話し合いで催眠術は出来るだけ使わないことにしていた。全員に術を掛けて日暮達についての記憶を消すことも可能だが、いずれ警察の聴取があった際に矛盾が生じるかも知れない。ならば最初から正体を隠していた方がいい。

 バスから逃げ出した生徒達も大部分は戻ってきていた。罠に掛かったとちぎれた指を持って泣いている生徒もいた。日暮に指示され、生き残りを探すために人狼は闇に消えた。

 日暮の応急処置は止血程度の簡単なものだったが、女子生徒の怪我には傷口の丁寧な縫合まで施した。血の糸を操る日暮に一人が言った。

「凄い。超能力なの」

「違うな。愛の力だ」

 やはり大真面目に日暮は答え、泣いていた少女達も微妙な笑顔になった。

 日暮はバスを移りながら治療を続けた。負傷者の中には天海東司もいた。寝かされたシートが喀血で汚れ、顔は血の気が失せている。

「肺に刺さった肋骨を戻して止血した。これだけやっときゃ死なんだろ。しぶとそうだしな」

 告げた後で天海の耳元に顔を近づけ、日暮は囁いた。

「『お前の正体を知ってるぞ』って言いたげな顔だな」

「いいや、知らないね」

 天海は答えた。

「命の恩人のことは詮索しない主義だ」

「いい心がけだ」

 日暮は離れた。

 人狼が負傷者を咥えてバスに持ち込んできた。「あーあ、面倒臭え」とヒーローらしからぬ愚痴を零しながら日暮は応急処置を続ける。

 バスの負傷者は八組の数人が最後だった。後は人狼が見つけてきた負傷者を治療する。低体温で錯乱している者もいたが、殴って気絶させてからバスタオルで包んだ。

 いつの間にか雪は疎らになっていた。風の勢いも弱まっている。ただし既に闇が落ち、道は積もった雪に覆われバスは車輪を失ったまま身動きが取れない。

「僕達、助かるのかな」

 男子生徒が言った。

「多分な。もうじき救助も来るだろ」

 日暮は答えた。

「なんで、こんなことに……修学旅行で、スキーをするだけだったのに」

 別の男子生徒が涙を拭いながら言った。

「男が泣くな。人生色々あるのさ。生きてるだけましだと思えよ」

 日暮は答えた。

 人狼がバスに入ってきて日暮に言った。

「坊っちゃん、負傷者の回収はほぼ完了しました」

「その坊っちゃんはやめろって言ってるだろ」

 日暮は恥ずかしそうに声を荒げた。喋る狼に目を丸くしていた生徒達は、奇妙なやり取りに声を上げて笑った。

 

 

  五

 

 修学旅行のバスを目指し一直線に駆け上がり、丁度小さな丘を乗り越えたところで山辺伊蔵は足を止めた。

 雪を踏む音もさせず、幽鬼のように脇の木陰から現れた真鉤夭が進路に立ち塞がったのだ。

 バスまで百数十メートルの場所で、二人は対峙した。

 山辺は血塗れの顔に鬼の笑みを張りつかせていた。毛皮のジャケットも赤く染まり、鞘に収めた剣鉈も血肉でドロドロになっている。左手には猟銃を持っている。

 山辺の右手は刃渡り一メートル二十センチ近い大きな鉈を握っていた。鎌神のトレードマーク。こちらの血糊は剣鉈と違い乾きかけている。

 真鉤は大量の血が染みた作業服に靴下と軍手、そして顔にタオルを巻いて目の部分だけに穴を開けている。覗く瞳は冷たく無感動でさえあった。

 真鉤の右手も鎌神の大鉈を握っていた。

 互いの得物と姿を観察し、やがて、山辺が言った。意外に声音は穏やかだった。

「体臭がねえな。警察に通報した学生はおめえだろ。種茂の婆さんも始末した」

 真鉤は答えなかった。

 山辺は続けた。

「鎌神を殺したのもおめえだな。奴らのねぐらに行ってみたら死骸が転がっていた」

 山辺の持つ大鉈はそこで拾ってきたのだろう。彼は鎌神の住処を知っていたのだ。

「一体は別だが、二体は僕が殺した」

 真鉤がタオル越しのくぐもった声で答えた。

「何モンだ。人間じゃねえな」

「自分が何者なのかなんて僕にも分からないが、今はそんなことは問題じゃない。お前は加馬下村の刺客か」

「加馬下村はもうない」

 山辺はククッ、と低く笑った。

「村の百七十人ちょい。俺が皆殺しにしてきた」

 真鉤の目が細められた。山辺が続ける。体の奥の苦いものを吐き出すように。

「俺のお袋は鎌神に攫われ、二年後に村に戻された。手足を落とされ舌を抜かれ、身篭らされてな。……三頭のうちどいつが俺の親父だったのかは分からんよ。奴らは獣じゃったが、村のモンも似たようなもんじゃ。クックッ。お袋は俺が五才の時、桶に顔を突っ込んで自殺した。……俺はずっと、こうしたかったんじゃろうな。村も鎌神も、何もかも、な。もっと早くこうしときゃ良かった」

 短い沈黙が落ちた。真鉤の瞳は何も映さない。同情も、憐憫も、何も。

 ただ真鉤は聞いた。

「それで、どうしたい」

「知らんな。皆ぶち殺してしまいたいだけだ。修学旅行のガキ共も、鎌神を始末したおめえも、スキー場の奴らも全部な。後のことは知ったこっちゃねえ。もう、どうでもいいんだ」

「スキー場は全滅している。鎌神がやったらしい」

 真鉤は告げた。

「それから、村人を皆殺しにしたことには礼を言っておく。さもなければ、僕がやらないといけなかったかも知れない。迷っていたんだ」

「ククッ。お前も同類って訳だ」

 山辺は笑った。

 真鉤は淡々と続けた。

「僕は……後のことを、考えている。敵を殺し、生き延びて、彼女達を守り、元の日常に戻らないといけない。そのためには何が必要で、誰を殺さないといけないのかを……」

 銃声が二つ続いた。山辺が左手の猟銃を発砲したのだ。

 真鉤の上体が僅かに揺れた。それだけだ。作業服に幾つも小さな穴が開いている。散弾による傷。血が少し滲み、やがて止まる。

「どうしてよけなかった。おめえなら余裕だろ」

 猟銃を捨てて山辺が尋ねた。

「理由は二つある。まず、万が一にも流れ弾がバスに当たるのが嫌だった」

 真鉤は左手を右手に添え、両手で大鉈を構えた。

「それから、その程度の銃では僕を殺せない」

 ククッ、とまた山辺が笑った。彼もまた両手で大鉈を握り、大きく上段に振りかぶる。斜面の途中にある小さな丘で、両者の距離は五メートルほどだった。

 山辺が聞いた。

「生まれてきて、いいことなど一つもなかったよ。おめえはどうだった」

 少し考えて、真鉤は答えた。

「幸福だったとは言えない。でも、守りたい人はいる」

 その時、山辺の体がミシミシと軋みを上げた。血みどろの顔が戸惑いを浮かべる。毛皮のジャケットが裂けた。二メートルを超える体が更に膨張を始めている。

 山辺の頭髪と髭が白く変わっていく。他の部位の皮膚も白い毛で覆われていく。乱杭歯がミチミチと音を立ててせり出した。ジャケットもズボンも破れ落ち、ブーツが裂けて毛むくじゃらの足が飛び出した。

 色素を失い血の赤みを帯びた瞳は何かを悟ったようだった。人間であることを放棄したため、人間でないものに変わろうとしているのだ。鎌神の血脈はそうやって何百年も保たれてきたのだろう。

 鎌神への変貌が八割方達成した頃、突然真鉤が跳んだ。

 予備動作のない攻撃に応じて山辺も跳躍した。足元の雪が爆ぜる。二振りの大鉈が絡み合い激しい音を立てた。

 互いの位置を入れ替えて二体の怪物は着地した。

 真鉤は素早く振り向いた。左脇腹が浅く裂けているが、構わず大鉈を振りかぶる。

 山辺は振り向かなかった。白い毛に覆われた左首筋に何かが突き立っていた。血の線が噴き上がり肩を濡らす。

 それは出刃包丁だった。バスのそばの戦いで投げたものを回収し、予め右足の指で握り込んでいたのだ。

 山辺は大鉈を落とした。致命的なダメージではなかった筈だ。彼は自分の意志で武器を離したのか。

 真鉤も大鉈を止めた。

「そうか……」

 山辺は人間の声で言った。真鉤の答えに対する返事。

「それは、いいな……」

 山辺の手が出刃包丁を掴んだ。それを引き抜かず、握ったまま抉り、水平に動かした。ブジッ、と肉の裂ける音がした。

 噴き出した血が霧のように闇に溶ける。山辺は自分の喉を裂いたのだ。二本の頚動脈もまとめて。

 白い怪物は倒れ伏し、動かなくなった。雪に染みていく血潮を、真鉤は黙って見つめていた。

 

 

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