プロローグ

 

 ヘリコプターの風防越しに白く凍った景色が見下ろせる。雪に覆われた畑、雪に覆われた家屋。道路にはタイヤの細い筋が残るが車の往来は殆ど認められない。

 前方の白い山を眺め、大柄な男が言った。

「加馬神山ってのは意外に小さいんだな」

「あまり高い山にスキー場を作っても不便でしょう。まあ、今回はそんな山で大殺戮が起こってしまった訳ですが」

 後部シートの男が応じる。大きな濃いサングラスで目元を隠していた。

「スキー場のそばに降ります」

 操縦士が言った。加馬神山を上る道はパトカーが並び赤い光を明滅させていた。立ち往生したバスの列が見える。大勢の警官が周囲を捜索している。

「ハハッ、あれ見ろよ。バスのケツが引っ剥がされてる。どうやったのかね」

 下界を指差して笑った後、大柄な男は付け足した。

「おっと失礼。あんたにゃ見えないんだったな」

 薄っぺらな謝罪に、サングラスの男は僅かに口元を歪めただけだ。

 男達を乗せたヘリは山頂に近いスキー場のホテル裏地に着陸した。風圧で雪が舞い上がるがそれほど多くはない。

 鎌神の殺戮から一夜明けた午前十時二十分、二人の男は加馬神山に降り立った。共にスーツと地味なロングコート姿だった。

「ふうう、寒い」

 サングラスの男の息は白かった。

 中年の男が駆け寄って敬礼した。

「お待ちしておりました。現場を任されております秋田県警の笹貫と申します」

 大柄な男が応じる。

「マルキのルールは分かってるな」

「存じております。秘密厳守と絶対服従、ということで」

 笹貫の態度には緊張が滲んでいた。

「問題の死体は」

「三つ共回収してひとまずヴァンに積んでおります。ご覧になりますか」

「そうして下さい」

 サングラスの男が頷いた。両掌を前方に向けて歩き出す。

「手をお取りしましょうか。それとも杖か何か……」

「いえ、大丈夫です」

 サングラスの男はやんわり辞退した。笹貫を先頭に三人はホテルへと歩く。サングラスの男も特に危なげな様子はなかった。

「マスコミはシャットアウトしておりますし、救助した生徒とも今のところ接触させておりません」

「そりゃあ雪男に襲われたなんて広まったら大変なことになるからな。ハハッ」

 大柄な男が笑う。と、急に振り返って空を指差した。他の二人も立ち止まり、笹貫は男の指先を追う。

 晴れ渡った空に白い点が見える。笹貫が目を凝らすうちにそれは白いヘリコプターに変わった。こちらに向かっているようだ。

 大柄な男が言った。

「報道ヘリだ。東進テレビとなってるな」

 まだかなり距離があったが、男の視力は相当なものらしい。

「も、申し訳ありません。急いで引き返させますので」

 笹貫が慌てて部下を呼びつけた。大柄な男はヘリに右手人差し指を向けたまま言った。

「撃ち落としてやろうかね」

「えっ」

 笹貫が聞き返した。

「冗談と思うか」

 笹貫の怪訝な顔が青く変わっていく。サングラスの男がうんざりした様子で告げた。

「いい加減にして下さい。行きますよ」

 サングラスの男は先に歩き出す。大柄な男はニヤニヤしながら腕を下ろして後を追った。笹貫が曖昧な愛想笑いを浮かべそれに続く。

 裏手からホテルに入るとサングラスの男は急によろめき始めた。上体を屈め吐き気をこらえるように口元を押さえている。

「大丈夫ですか」

 駆け寄って笹貫が声をかけた。

「大丈夫です。……しかし、ひどい。逃げるのを残らず追いかけて、子供まで……獲物としか思っていない……」

 廊下や壁には大量の血痕が残っていた。鑑識が歩き回る中を三人は進む。

 ロビーに着いた時、サングラスの男はとうとう嘔吐した。朝食抜きだったらしく胃液しか出ない。床が汚され鑑識が露骨に嫌な顔をする。

「し、失礼。もう大丈夫ですから」

 サングラスの男はハンカチで口を拭い、笹貫に支えられてなんとか歩いた。

 ホテルの建物を抜け正面玄関脇に警察のヴァンは停まっていた。窓はカーテンで塞がれ、前後をパトカーで固められている。

「開けろ」

 笹貫に命じられて警官が後部ハッチを開けた。最前列の座席以外取り払ったスペースにビニールシートが敷かれ、毛むくじゃらの死体が転がっていた。

 縦に真っ二つに割られ、左手首が切り離されたもの。

 頭部のちぎれたもの。

 喉が水平に裂け、出刃包丁が刺さったままのもの。

「ふうん。でかいな。二メートル二十くらいある」

 大柄な男が言った。隅に集められた鎌状の大鉈や弓矢を指す。

「あれは」

「死体の近くにあったものです。目撃した生徒によると雪男が使っていたようですが」

「へえ。雪男って道具使ったかな。まあ、日本じゃこれまで発見されてなかったし。ヒバゴンは別かな」

 大柄な男は苦笑する。

「コーカサスのアルマスは使うらしいですよ。弓矢や罠まで使うかは知りませんが」

 少し復活してきたサングラスの男が言った。

「で、何か分かったかい」

「その死体ですが」

 サングラスの男は首のちぎれた死体を指差した。

「首は食いちぎられたものです。大型の狼……多分、人狼だと思いますが。歯形からある程度大きさが推定出来るでしょう」

「雪男に狼男か。で、そっちは」

 大柄な男は喉に包丁の刺さった死体を指した。異様な会話に笹貫は目を白黒させている。

「それなんですが……どうも、自殺のようです」

「へえ。雪男が自殺かね」

「この一体は元人間のようですよ。憎悪と……絶望を、強く感じます。村を襲ったのも彼かも知れません」

「何に対する憎悪かな」

 大柄な男の問いに、サングラスの男は振り向いてから答えた。

「全てです」

「じゃあ最後のは」

 大柄な男が真っ二つの死体を指差した。

「ここにある武器のどれかで殺されたことは間違いありません。……ですが、何者が殺したかについては掴めませんね。どうも、存在感が薄いです」

 サングラスの男は、場所や物から情報を読み取るサイコメトリー能力者のようだった。

「自殺した雪男がやったって線は。全て憎んでたんだろ」

「うーん。どうでしょう」

 サングラスの男は考え込む。笹貫が慎重に口を出した。

「あのー。生徒の証言ですが、雪男とチェーンソーで戦った男がいるそうです。布で顔を隠していたとのことで正体は不明ですが」

「うーん。取り敢えず、次に行きましょう」

「次はどちらに……」

「洞窟です。彼らの住処ですよ。多分入り口は分かります。あ、これらはマルキの方に回して下さい。鑑識はこっちでやりますから」

 サングラスの男は長いロープの準備を指示した。マルキの二人と笹貫、それに三人の警官がついて合計六人で雪の斜面を歩いていく。先頭はサングラスの男だ。

 歩きながら笹貫が現状を説明する。

「昨日スキー場にいたのは従業員も含め三百人程度と推測されます。ひどい吹雪のためキャンセルした客も多いようですが、スキー場に電話を入れようとしても既に繋がらない状態だったとのことで。皆殺しとなった加馬下村の方は、二人の住民が旅行中で難を逃れており、また出身者で大学の寮に入っている者もいます。怪物については彼らからある程度情報を得られるかも知れません。また、白崎高校の生徒達ですが、スキー帽で顔を隠した少年に怪我人が治療を受けています。触れるだけで出血が止まったとか、指から出る赤い糸で傷を縫ったとか。実際に医師が縫合の痕を確認しています。少年は犬を連れていたそうです」

「犬じゃなくて狼だったかもな。狼男さ」

 大柄な男が言った。サングラスの男が継ぐ。

「少年は吸血鬼かも知れませんね。吸血鬼が人狼を従えていることは良くありますし。まあ、吸血鬼や人狼自体は希少な種でもなく、うまく社会に溶け込んでいることも多いですからそれほど問題にはなりません」

 警官達は互いの顔を見合わせていた。大柄な男が尋ねる。

「あの雪男を殺したのは吸血鬼かね」

「それはまだ分かりません。私は断片を拾うだけですから。そう言えば警察に通報した学生はどうなったんでしょう」

「保護されました。通報した後同級生が心配で、歩いてバスまで戻ったそうです」

 笹貫が答えた。大柄な男が眉をひそめる。

「白崎高校って聞いたことあるんだよなあ。大館が学生を拷問したのってあそこじゃなかったかね」

「確かそうです。連続殺人事件を嗅ぎ回っていたようですが。勝手に抜けておいて、警察にはまだマルキの名も出していたそうですよ。困った男です」

「ハハッ。『嗅ぎ回る』か。奴にはピッタリだな。でも暫く噂を聞かないし、くたばったんじゃないのかね」

 一向はゲレンデを外れ林に入った。サングラスの男が時折罠の存在を指摘して避ける。雪を踏み続けて二十分ほど経ち、低木の陰の穴に辿り着いた。

「出入り口の一つです。中は複雑に入り組んでいますので迷わないように気をつけて下さい」

 警官が木の幹にロープの一端を縛り、帰り道への命綱とした。サングラスの男を先頭に一向は洞窟を進む。警官達が懐中電灯で奥を照らした。

 最初は古い衣服の切れ端が落ちているくらいだった。サングラスの男が右へ左へと道を選ぶごとに落とし物を見かけることが増えていった。そのうちに白い骨の破片が見つかった。その向こうには頭蓋骨が幾つか転がっていた。

 サングラスの男の様子がまたおかしくなっていた。呼吸が荒くなり苦しげに上体を屈める。よろめきかけた肩を大柄な男が掴む。

「どんな感じだ。近いのか」

「うう……これは、ひどい。怖い……これ以上は、私には無理です。右に進めば、そのうち見えてくると思います。……ひど過ぎる……うう」

 サングラスの男はその場に蹲って呻いた。体が震えてサングラスが落ちた。男には目がなかった。瞼も眼窩も眉もなく、のっぺりとした皮膚だけだった。声をかけようとしてライトの光を当てた笹貫は、見てはいけないものを見てしまったことを悟り口をつぐんだ。

「右だな。了解了解」

 大柄な男はどんどん先へ進む。笹貫らは蹲る男を置いてついていく。目のない男は「怖い、怖い」と子供のように繰り返していた。

 闇を進むうち、笹貫と警官達が顔をしかめた。

「この匂いは……」

「どんな匂いかな。俺は嗅覚がないんでな」

 大柄な男が問う。

「生臭い、腐ったような……それに、ビーフジャーキーみたいな匂いもします」

「なるほど、ビーフジャーキーか。確かに沢山ぶら下がってるな」

 十数秒後、懐中電灯の光がそれに届いて笹貫らを凝固させた。

 洞窟の天井から無数の肉が吊られていた。内臓を抜いた燻製肉は長さ八十センチから一メートル五十センチ程度で、うなだれたように下がっている。

 それらは全て人間の死体だった。衣服は剥ぎ取られていたが毛髪がある程度残っているものは多かった。眼球を抜かれた眼窩と歪んで開いた口が虚ろな闇を湛えていた。

「う、うわああああああああ」

 警官達が叫び出した。二人はその場に吐き始めた。大柄な男は燻製を掻き分けて奥へ進む。揺れる肉に怯えながら笹貫がなんとかついていく。

「向こうはまだ生だな。血抜きの終わってないのもある」

 面白そうに大柄な男が言い、我慢していた一人を嘔吐させた。笹貫は自分が失禁していることに気づいていないようだ。

「ふうん」

 大柄な男は立ち止まった。

 細いくびれを過ぎて広がった二十畳ほどの空間には、数ヶ所で小さな炎が燃えていた。缶を満たす油は粘調で濁っている。

 逆さ吊りにされた死体は試し切りに使われたように肉塊を落としていた。洞窟の床は血でぬめっている。

 白い毛皮の死体が転がっていた。胴体が斜めに断ち切られ、頭が潰れている。

「ここにも一つ雪男の死体があるぞ。誰が殺したのかね」

 大柄な男の声が洞窟を木霊した。後方にいる相棒の返事はない。多分まだ震えているのだろう。笹貫は痴呆のように口を開けたまま立ち尽くしていた。その手から懐中電灯が落ちる。

「仲間割れじゃなかったらやっぱり吸血鬼かも知れんなあ。白崎高校はきちんと調べた方がいいぞ。……んー。何だこりゃ」

 大柄な男が衣服の山に歩み寄った。手足のない女の死体が横たわっている。目を閉じた安らかな死に顔だ。

 女の腹が大きく裂けていた。

 ゴソリ、と動く気配に大柄な男はゆっくりと顔を向けた。

 隅で肉塊を齧っている生き物がいた。体重は五キロ程度だろう。手足の形状は人間に似ていたが、全身が白い毛で覆われていた。

 栄養と酸素の供給が途絶え、胎児は怪物として生きることを選択したのだ。

 視線に気づいたらしく赤い目が大柄な男を見上げた。生え揃った牙を剥いてフシャーッと威嚇音を発する。

 大柄な男は右手人差し指を伸ばして小さな怪物に向けた。ビキュッ、と奇妙な音がして怪物の肉が飛び散った。胴に大きな穴が開いて背中まで抜けている。

 怪物は後ろ向きに倒れて痙攣していたが、やがて動かなくなった。

「あ、生かしたまま持ち帰った方が良かったな。もう遅いけど」

 大柄な男は苦笑した。人差し指の先端に小さな穴が開いていた。まるで銃弾が飛び出した跡のように。

「白崎高はどうしようか。小型のボディを作ったとこだし、あれを試してもいいか」

 『マルキ』は政府の秘密機関・希少生物保護管理機構の通称だった。

 

 

  一

 

 母親に見送られて出発し、いつもの通学路を歩きながら藤村奈美は空を見上げた。今日は日本晴れで青く澄み渡っている。あの時の白く淀んだ空とは大違いだ。

 あれから二ヶ月が過ぎて三年生としての新学期が始まっていた。歩いても足は痛まない。吸血鬼・日暮静秋が繋いでくれた左太股は傷痕も残さず完璧に治っているが、修学旅行の殺戮は奈美の心に刻印を残している。

 死と苦痛の暗い刻印ではあったが、それは同時に別の輝きも奈美に与えてくれた。生きる、という決意。現実は理不尽だが、嘆いてばかりはいられないのだ。

 体調は悪くない。薬物治療も一旦終了し、再発も今のところない。慢性的な倦怠感は薬の副作用だけではなく気持ちの弱さもあったのだろうか。

 奇妙な形をした屋敷が見えてくる。真鉤夭の家。荒れ放題だった庭は春になって少し手入れされている。花の種を蒔いたそうだけれど、ちゃんと育つのか心配なところではある。花に水をやる真鉤の姿なんてあまり想像出来ない。

 玄関の呼び出しボタンを押して腕時計を見る。六秒後に真鉤が現れた。前に時間を測ってみたらドアが開くまでがいつも五秒だったので奈美が指摘すると、真鉤は苦笑してそれからはまちまちな時間になった。

「真鉤君、おはよう」

「おはよう」

「はい、お弁当」

 大きめのハンカチに包んだものを奈美が手渡すと、真鉤は照れたような微笑を浮かべて受け取った。

「ありがとう」

「今日のオカズは何か聞かないの」

「そうだね。何だろう」

「教えない。お昼までのお楽しみ」

 奈美が笑うと真鉤も苦笑した。彼は弁当を鞄に収め、ドアの二つの鍵を掛けた。

 並んで歩きながら真鉤の頭の位置が気になった。肩の高さも以前と違っているようだ。

「真鉤君、もしかして背が伸びた」

「少しね。高校生の平均身長が伸びたみたいだから、制服を買い替えたついでに調節した」

「身長を自分で伸ばせるんだ」

「ある程度は体格を変えられる。顔の形もね。目立たないように平均的なものにしてる」

 奈美は真鉤の顔を見る。見慣れているがどんな顔だと言われるとあまり特徴はない。目鼻立ちのバランスは悪くないが美男子というほどでもない。印象に残るものは翳りのある穏やかな瞳くらいだろうか。その瞳が時に恐ろしく冷酷になったり、膜が張ったように虚ろになることを奈美は知っている。

「じゃあ、真鉤君の本当の顔ってどんなふうなの」

 真鉤は不意を衝かれたように目を瞬かせた。

「……どうなんだろう。ずっとこうしていたから。元々の顔なんて分からなくなってしまった」

 なんだか彼のアイデンティティにダメージを与えてしまったような気がして、奈美は慌てて修復を試みた。

「今の顔もいいと思うよ。真鉤君に合ってると思うし。いや、合ってるっていうのは悪い意味じゃなくて……」

「ありがとう。取り敢えずこのままで行くよ」

 ふと思いついて奈美は尋ねる。

「もしかして、凄いハンサムにもなれたりする」

 真鉤はまた苦笑した。

「今の顔でいいって君に言われたばかりなんだけど」

「いや、可能性の話ね。聞いてみただけだから」

 奈美は手を振った。こんな他愛のない会話を楽しめるのは幸せなことなのだろう。顔を変えるのが他愛のないことかどうかは別にして。

 やがてちらほらと同級生を見かけ、互いに挨拶を交わす。明るい笑顔で応じる者も元気なく手を上げる者もいる。彼らの表情やちょっとした仕草に、奈美は自分と同じ刻印を認めることがある。良くも悪くも加馬神山の事件は全員に影を落としている。きっと皆、毎年雪が降るたびに思い出すのだろう。

 学校の桜は既に散ってしまい、道端に汚れた花びらが僅かに残るだけだ。グラウンドでは朝練を終えた野球部が片づけをやっている。奈美も文芸部だが幽霊部員だ。最上級生になったのだからそろそろ顔を出しておいた方がいいのかも知れない。

 二年の時は十クラスあったクラスが、三年になり一クラス減った。死亡者が六十三名、大怪我や精神的ショックで退学・休学となった者が三十名弱。あんな目に遭わされて残り三百余名が通学を続けているのはちょっとした奇跡のような気もする。保護者や遺族は学校に責任を追及してゴタゴタしているようだ。減った生徒数を補うため、他校で休学や不登校になっていた人達も積極的に編入させてなんとか一クラス三十七、八名を確保している。ただし、実際にはそれぞれのクラスで二、三人は休んでいるようだ。

 クラスメイトもかなりシャッフルされたが奈美と真鉤は同じ四組のままで、それだけは学校に感謝している。出来るだけ長い時間を真鉤と共に過ごしたかった。全滅した一組に移った人達はかなり嫌がっていた。一組を欠番にしようという案も出たけれど、やっぱり不自然だという反論があってこうなったらしい。

 教室は七割方の生徒が揃っていた。顔見知りと挨拶しながら自分の席に座る。同じく移動のなかった伊東実希がすぐ前の席で、早速話しかけてきた。真鉤の席は奈美の斜め後ろなので、授業中に彼の顔を見ることは難しくなった。次の席替えに期待しよう。

 新しいクラスになってまだ二週間ちょっとしか経っていないせいもあるだろうが、教室の空気は何処かぎこちなかった。それともやはり加馬神山の刻印のせいか。または休学のまま姿を見せない生徒の空の机のためか。編入してきた見知らぬ生徒達のせいか。四組には男子が三人、女子が一人他校から入ってきていた。男子はもう周りと打ち解けている人もいるが、女子の転入生はずっと暗い顔で俯いていることが多かった。なんとかしてやりたいけれど奈美も積極的に話しかけることは出来ずにいる。

 でも、それらの理由だけでこの違和感を説明出来るだろうか。感情のない、爬虫類にでも見つめられているような不気味な感覚。真鉤の視線とは違う。何かが変だ。クラスの落ち着きのなさは、皆それを本能的に感じているのかも知れなかった。

 ホームルームが始まっても席は五つほど空いていた。担任は二年の時と同じ二ノ宮で、以前より髪の生え際が後退したのは仕方のないことなのだろう。一夜で完全な白髪となって退職した教師もいる。

 二ノ宮はカウンセリングの参加者名を告げた。生き残った生徒の精神的なケアのため、学校は四月からカウンセラーを雇っていた。希望者は授業を休んで受けることが出来るが、そうでなくても全員一度は受けることになっている。

 今日の参加者リストに奈美の名前も入っていた。いつ終わるか分からないし、真鉤には先に帰ってもらおうと奈美は思う。もしカウンセリングが早めに済んだら部室に寄ってみよう。

 昼休みになり奈美は真鉤の机に自分の椅子を持っていく。周りの目を気にせずお揃いの弁当を開く。

「今日はニラと椎茸の卵とじを作ってみました。尚、コロッケは冷凍ものでございます」

 奈美は恭しく品目を読み上げて賞賛の言葉を待つ。真鉤は深々と頭を下げて礼を述べる。

「ははあ、いつもながら大変お手間をおかけ下さり、素晴らしいお弁当をありがとうございます」

 そうして一緒に「いただきます」と唱えて食べる。作る時にも味見したけれどなかなか良いんじゃないかと奈美は思う。ちなみに奈美が弁当を作っている時、母は何かにつけて「あんなパッとしない子」とケチをつけている。

「どう、美味しいかな」

 奈美が尋ねると真鉤は微笑して「美味しいよ、ありがとう」と答える。いつも奈美はホッとするのだけれど、こんな時の真鉤の微笑は心なしか申し訳なさそうな、なんとなく頼りないものになる。自分がこんな幸せでいいのかと戸惑っているような。

 いいのです。私が許すから遠慮なく幸せになって下さい。それは私のためでもあるんだから。

 そんなことを自信満々に考えて、真鉤が全く別のことで悩んでいるんだったら自分は馬鹿だな、と奈美は笑ってしまった。

 放課後のカウンセリングについて奈美が話を向けると、意外なことに真鉤は待つと言った。

「でも、いつまでかかるか分からないし」

「大丈夫だよ。どうせ早く家に帰ってもすることもないし」

 そう答えた後、真鉤は何気ない口調で付け加えた。

「それに、あのカウンセラーの先生のこともちょっと気になるからね」

 奈美は心臓に誰かの冷たい手が触れたような感じがした。真鉤はちょっとしたことに『ちょっと気になる』なんて言葉を使わないのだ。カウンセラーは男の先生で、始業式に皆の前で自己紹介したのを見たきりだ。普通の人だと思ったけれど、真鉤がそんなことを言うからには何かあるのだろうか。これまで色々なことがあった。でもそれは、これからは何もないということではないのだ。

 教室で深い話をする訳にも行かず、奈美はこの話題を打ち切った。『ちょっと気になる』程度なのだからあまり奈美が心配することではないのかも知れない。でも真鉤は奈美が何を考えているか分かっている筈だ。

 授業は淡々と流れ、放課後となった。奈美は荷物をまとめて出発する。ひっそりと真鉤がついてくる。

「やっぱり待っててくれるの」

 奈美が尋ねると真鉤は黙って頷いた。緊張している様子はないが、彼のポーカーフェイスぶりを奈美も知っている。

 カウンセリング室は一階で、職員室の横にある第二応接室を改装したものだ。前の廊下に長椅子が二つ置かれており、既に他クラスの生徒が二人座っていた。ドアに近い方から順番になっているようなので奈美は隣に腰を下ろす。真鉤は座らず壁際に立っていた。

「まだ空いてるし座ったら」

 奈美が言っても真鉤は静かに首を振る。

 カウンセリング室のドアが開いて男子生徒が出てきた。何か納得行かないような、狐に摘ままれたような顔をしている。待っている生徒達も意外そうだった。

「次の方どうぞ」

 スクールカウンセラーの声がした。落ち着きのあるなめらかな声音。先頭の生徒が入り、ドアが閉まった。二番目の生徒と奈美は尻をずらす。

「なんか早かったよね」

 二番目だった女子生徒が言った。出てきたばかりの男子が答える。

「うん。早かった。ムッチャあっさりしてる」

 男子が去り、予定の生徒が数人やってきて奈美の横に座る。面倒臭そうな男子もいればちょっと緊張している女子もいた。

 そのうちに向こうから大きな男がやってきた。百八十センチ台後半の身長にがっしりした体格の持ち主。右目に髑髏のアイパッチを当てた男は天海東司だった。

「よーう」

 天海は右手を上げて奈美と真鉤に挨拶した。片足を引き摺るのは殆ど目立たなくなった。彼は結局制服の両肘を切ったまま冬を越してしまった。左手には小型の魔法瓶を持っている。

「天海君も今日カウンセリングだったの」

「そう。必要ないと思うんだけどな」

 答えながら天海は長椅子にどっかと腰を下ろす。奈美の後の生徒達が立ち上がって天海に順番を譲ろうとしたが、天海は「気を遣うなよ」の一言で彼らを座らせた。

「真鉤も座りなよ。どうせ空きがあるんだ」

 それで真鉤はおずおずと天海の隣に座った。私の言うことは聞かなかったのに、と奈美はちょっと嫉妬を感じる。

「ところでそれってもしかしてお酒。職員室の前通って大丈夫なの」

 魔法瓶を指して奈美が尋ねると天海はニヤリとしてみせた。

「これは先生方のためでもあるんだぜ。缶チューハイやウイスキーの瓶を剥き出しで持って歩いてたら注意しない訳には行かねえだろ。俺なりの優しさって奴だ。それになあ、初めてカウンセリングなんて受けるもんだから、少しくらい酔ってないと緊張しちまってやってられんのさ」

「全然緊張してるように見えないけど」

 奈美が突っ込むと皆声を上げて笑った。あ、私も元気になったなあ、などと奈美は自分で思う。

 天海が魔法瓶の中身をチビチビ飲んでいるとドアが開いて生徒が出てきた。今度は五分くらいだったろう。意外に早く帰れるかも知れない。

 奈美は次の番となった。天海が隣の真鉤に何やら耳打ちしている。真鉤は表情を変えずに頷き、「僕もそう思う」と言った。

「何の話」

 奈美が聞くと天海は即答した。

「いやな、奈美ちゃんのスリーサイズについて難しい議論を戦わせていた訳だ」

 ぐぬっ。それはかなりストレートにセクハラだと思うのですが。真鉤が慌てて「いや、違うから」と手を振った。

 ドアが開いて生徒が出てきた。三分も経っていなかったと思う。三分のカウンセリングなんて、一体何を話しているのだろう。

「次の方どうぞ」

 声が聞こえ、奈美は立ち上がり部屋に入った。天海が片手を振って見送り、真鉤は軽く頷いていた。

「失礼します」

 奈美は後ろ手にドアを閉めた。

 カウンセリング室は事務机を挟んで背もたれつきの椅子が向かい合わせに一対あり、隅に予備のパイプ椅子が畳んであった。壁際の高級な棚が第二応接室の名残りとなっているが中は殆ど空っぽだ。机の横にあるキャスターつきチェストは鍵が掛かるようになっている。カウンセリングした生徒のファイルはそこに保管しているのだろうか。窓はブラインドが下りている。

「こんにちは、まあ座って。クラスと名前をお願いします」

 机の向こう側でカウンセラーが言った。

「三年四組の藤村奈美です。よろしくお願いします」

 奈美は一礼して腰を下ろす。

「ふむ、四組の……藤村さん、と」

 カウンセラーはチェストの引き出しからファイルを出した。多分全員分用意されているのだろう。それを机に開いてからカウンセラーは微笑しつつ自己紹介した。

「初めまして。スクールカウンセラーの楡誠です」

 楡誠は三十才くらいに見えたが老成した雰囲気からはもっと年を重ねているかも知れない。痩身で多分背も高い。スーツとネクタイは特別洒落ている訳ではないがうまく調和している感じだ。長めの髪は左右対称で、顔立ちは男性モデルのように整っているがあまり心動かされるものがないのはどうしてだろう。

 唐突に奈美は理解した。この楡という男からは、人間の気配が感じられないのだ。微笑していても意志や感情が伝わってこない。接客用のロボットを前にしているような気分だ。他の皆も同じように感じるのだろうか。真鉤や日暮など特殊な存在と関わったため奈美の感覚が鋭敏になっているのだろうか。

 ただ、何も伝わってこない分、危険な感じもしなかった。確かに真鉤の言う通り、ちょっと気になる存在、という訳だ。

 楡は早速ファイルを開き、万年筆で何やら書きつけ始めた。奈美の位置からは読めないが凄く速い動きだ。まだ何も喋ってないのに。

 ふと顔を上げて楡が尋ねた。手はずっと動いている。

「何か悩み事はありますか」

「いえ、別に……」

 悩み事がない訳ではないけれど、わざわざ他人に相談するほどでもない。というか相談出来ない内容だ。

「そうですか」

 楡は奈美の顔を見つめている。善意も悪意もない透明な視線。何かを書き続けている。

 長い沈黙に耐えきれず奈美が「あの」と言いかけた時、楡の手が止まった。

 ニコリと笑って楡誠は告げた。

「よし、特に言うことはありません。頑張って下さい」

「は、はあ……」

「何か相談したいことがあればまた来て下さい」

「分かりました。ありがとうございました」

 奈美は立ち上がり、一礼して部屋を出た。楡の目は笑っていなかったような気がした。

 長椅子で天海東司が腕時計から目を離して言った。

「二分十六秒。まあまあ長かったかな」

「どうだった」

 真鉤が立ち上がって尋ねるので奈美はさっきの生徒と同じ感想を告げた。

「うーん、なんだか、凄くあっさりしてる」

 多分真鉤も壁越しに会話を聞いていたのだろうけれど。

「じゃあな、最近は物騒だから気をつけなよ」

 天海が軽く片手を上げ、奈美と真鉤は挨拶を返して校舎を去った。天海は放課後も暫く学校にいてトレーニングなどをしている。彼はあのカウンセラーとどんなやり取りをするのだろう。今度会った時に聞いてみよう。

 帰り道を並んで歩きながら、奈美は真鉤に尋ねた。

「天海君は何て言ってたの」

「出来るだけ驚かずに聞いて欲しい。それから大きな声も出さないで」

 真鉤は自然な口調で言った。

「うん。驚かない。それで」

 まさか私のスリーサイズのことじゃないでしょうね。

「校内の百ヶ所以上に隠しカメラが仕掛けてある」

「えっ」

 奈美は思わず立ち止まってしまった。真鉤に促され歩きを再開する。

「もしかするとマイクもついているかも知れない。校内だけじゃない。通学路にも数十個ある。生徒を監視しているのだろうけれど、学校側が仕掛けたんじゃないと思う」

「じゃあ、誰が……」

「新学期になって妙な男が三人入ってきた。天海君も気づいている。……一人はカウンセラーの楡先生だ」

 通行人とすれ違う間は黙り、周囲の人に聞かれない程度の声で真鉤は言った。

「あの先生、何者なの。ちょっと変な感じで、感情がないみたいな」

「何者かは分からない。少なくとも敵意は感じないから今のところ様子を見ている。問題は別の二人だ。はっきり僕を意識している。おそらく隠しカメラは僕に向けたものだ。屋敷の周りにも十七ヶ所に仕掛けられている」

「ど、どうして今になって真鉤君が」

 言ってから奈美は思い当たった。修学旅行の襲撃事件。真鉤は警察に通報する際に名乗っていたのだ。

「あの時から嫌な予感がしていた。鎌神同士の仲間割れと判断してくれればいいと少し期待していたけれど、やはり甘くはなかったみたいだ。僕は疑われている」

 真鉤が雑貨屋の老婆を殺したことを奈美も聞いている。隠さず話してもらうことを奈美が望んだからだ。警察に通報しなければ救助の到着は遅れていたかも知れないし、偽名を使うと信用されない可能性もあった。村の事情を知らなかった段階で細かい判断は困難だったろう。また、真鉤が鎌神と戦ってくれなかったら奈美を含めて学年丸ごと皆殺しにされていただろう。

 表向きの報道では山辺伊蔵という男をリーダーとしたカルトグループが洞窟を根城として、スキー場から村まで襲ったことになっている。警察の事情聴取は奈美も受けたが、攫われた間は気絶していて覚えていないと繰り返すとあまり厳しい追及もなくやり過ごせた。真鉤もしらを切り通したようだ。雪男に襲われたとか雪男と鉄球チェーンソー男が戦ったという生徒達の証言はニュースに出ることはなく、インターネット上で噂になっている程度だ。時が経つにつれてあやふやな伝説の一つとなっていくのだろう。

「じゃあ、真鉤君を監視してるのは、政府ってこと」

「そうなるね。全く別の組織の可能性もあるけれど、多分、政府だと思う」

「どう……どう、するの」

 以前真鉤を追っていた偽刑事は化け物だったが、倒した後には日常が戻ってきた。でも、学校に入り込んだ者達を殺しても益々疑われ、敵が増えるばかりとなる。政府を倒すことは幾ら真鉤でも不可能ではないか。

「分からない」

 真鉤は寂しげに微笑した。

「どうしようもなくなれば、逃げることになるかも知れない。体格と顔を変えてね。でも、出来る限りここにいたいと思ってる。君と約束したからね」

 約束とは、奈美のために生きる、ということだった。胸の奥が急に熱くなる。そして心の隅で冷静な自分が釘を刺す。

 真鉤夭は不死身の殺人鬼で、現在も定期的に人を殺し続けているのだと。

 それでも奈美は、彼のことが好きなのだ。

「電話は盗聴されているかも知れないから、こういう話は場所を選んだ方がいい」

 真鉤は言った。

「そうだ。別の二人って、誰と誰」

 奈美が尋ねると真鉤は少し迷っているようだった。

「知ってしまうと態度に出てしまって逆に危険かも知れない。……でも、用心のためには知っておいた方がいいだろう。君一人だけで彼らの相手をしないように気をつけて」

 そうして真鉤は敵の名を告げた。

「同じクラスの式一三と、五組の担任の清川だ。清川はまだまともだけど、式の方は多分……あの体は作り物だ」

 「えっ」と聞き返そうと思ったが、結局奈美は黙って歩いた。色々なものを見てきた。きっとそんなことも、あるのだろうな、と納得している自分がいた。

 

 

  二

 

 痰の絡んだような水っぽい呼吸音が続いている。時折軽い咳き込みと唸りが混じる。

「駄目だな、こりゃ」

 横たわる少女を見下ろして清川庸平が言った。世界史の教師としてこの春に赴任した彼は三十代半ば、身長は百八十センチを超えスーツ姿よりジャージが似合いそうな体格をしている。髪も整え身だしなみはきちんとしているが、無感動な瞳から酷薄さが滲んでいる。襟で微妙に隠れているが首筋に長い傷痕が残っていた。刃物で切られた傷だろう。

「やっぱり生徒は何も知らんようだな」

 マンションの空き部屋に転がされているのは三年の女子生徒だった。元二年十組、雪男とチェーンソー男の対決を見たと供述した生徒。下校時に声をかけ、そのまま拉致してきたのだ。全身に汗をかき、苦しげに息をしているが見開いた目は虚ろだった。

「吸血鬼の催眠術はかなり深いとこまで効くらしいからね。もう一本打ってみたら」

 壁に背をもたせて立つ学生服の少年が言った。式一三。身長百七十センチ前後でやや肥満体型だ。特に指が太い。ふっくらした丸い顔はずっとニヤついていた。

「吸血鬼の記憶操作は完璧だと聞いた気がするな。痕跡も残さないとか。そうだったら追加打っても意味がないんじゃないか」

「でも打っても損はないでしょ」

 あっさり式は言う。

「死ぬかも知れんぞ」

「いいんじゃない。それはそれで」

「ならそうするか」

 清川は手に持っていたプラスチックのケースを開いた。注射器と、透明な液体の入った小瓶が二個。液体を注射器で引いて、通常の針よりも細い毛のような先端を少女の首に刺した。スムーズに中身を押し込んでケースに戻す。

「それにしてもなんか喋りがガキっぽくなったな」

 清川が片頬だけ歪めて苦笑する。式は両眉を上げてみせた。

「高校生だからね。ボディがそうだと気持ちも若返るよ」

「あまり高校生っぽくも見えないが。デブだしな」

「仕方ないよ。色々詰め込まなくちゃいけないからね。十年後くらいにはもっとコンパクトになるよ」

 女生徒の呼吸が荒くなってきた。見開いた目がせり出してきて零れそうになっている。瞳孔は散大と縮小を緩やかに繰り返していた。

「そろそろいいか」

 清川が女生徒に冷たく質問を落とした。

「雪男とチェーンソーで戦っていた奴は何者だ」

「……ゴフッ。分かりません……」

 女生徒は口角から小さな泡を噴いた。

「どんな格好をしていた」

「……マントを、着ていました。顔は……見えませんでした」

「チッ。やっぱり同じか」

 清川は舌打ちして質問を続けた。

「そいつは何か喋ったか」

「いいえ……聞いていません」

「天海東司が話しかけたと言ったな。天海は何と言っていた」

「聞こえ……ませんでした……」

「狼を連れて怪我人の治療をした男は何者だ」

「……分かり……グヒュー……ません」

 女生徒の声が小さくなってきた。

「そいつは何か喋ったか」

「……通りすがりのヒーローだ。……気にするな、と……言って……」

「狼を連れた男とチェーンソー男は同一人物か」

 女生徒はもう答えなかった。ブゴッヒュッ、という音を最後に呼吸が止まる。眼球が裏返り、ゆっくり戻ってきた時には瞳孔が完全に散大していた。

「やっぱ駄目だったな。蘇生させとくか」

「いや、もういいよ。そろそろ揺さぶってみようかと思ってたんだ」

 式は傍らに置いてあったブルーシートを床に広げた。

「その女、真ん中に立ててくれないかな」

 清川は女生徒の死体を引き起こしてシートの中央に立たせた。左手首を片手で握って吊り下げる。不自然な姿勢で楽々と。かなりの筋力だった。

「こんなもんでいいか」

「そう。じっとしてて」

 式は両拳を握り締め、二秒ほどで開いた。手の中に小さな灰色の粒が幾つも乗っている。式は両腕をコンパクトに振った。

「俺に掛かってないか」

 清川が尋ねた。

「大丈夫。離していいよ」

 清川が死体を解放して離れた。死体は力なく崩れ落ちる。

 式が両手を引いた。ピュルッ、という微かな音が聞こえた。

 最初は何の変化もなかった。そのうちに、死体の顔や首筋に、斜めの赤い線が浮き出してきた。制服も数ヶ所で綺麗に裂けている。

 赤い線が次第に太くなり血の玉となって流れ落ちた。清川は大きな黒いビニール袋を用意し始めた。

 顔を横切る筋がパクッと開いて肉の溝を覗かせた。鼻が割れて空気の通り道が見える。溝は深くなっていき骨と脳を見せ、やがて完全に輪切りとなった頭部がゴロリとシートを転がった。ほぼ同時に首も外れ、続いて割れた胴から腸が顔を出してくる。両足も太股部分で断ち切られ、右腕も上腕と手首で分かれていた。

 式がブルーシートを畳んでバラバラ死体をまとめた。袋を開けて清川が尋ねる。

「これをどう使う。真鉤の家に投げ込んでみるか」

「そうだなあ、まだ真鉤と特定された訳じゃないし。ま、折角だからのんびり行こうよ。これが片づいちゃったらまた違うとこに飛ばされるんだから」

 ブルーシートに包んだ死体をビニール袋に収める。清川が袋の口を結んだ。

「そう言えば伊佐美の奴はまだ入院してるんだって。人肉の燻製ってそんなひどかったのか」

「僕は面白かったけどね。伊佐美は精神が脆弱なんだよなあ。あいつがまともだったらここの仕事も一日で終わってたよ」

「今んとこ一番怪しいのが真鉤で、後は天海か。鎌神に火を点けて追い払ったって奴。あ、それから楡ってカウンセラーも妙だよな。奴の身元は調べてるか」

「楡が来たのは四月だから修学旅行には行ってないよ。本命真鉤、二番手が天海ってとこでいいんじゃないかな。じゃ、また明日」

 式一三は部屋を出ていった。

「後始末は俺かよ」

 清川は舌打ちして携帯電話を取り出し、管轄の警察署に連絡を入れた。

 

 

  三

 

 宿題をやっていると敷地に入ってくる者がいて真鉤夭はちょっと驚いた。午後七時十五分。道を歩く気配は若い女性のもので、藤村奈美ではなく南城優子の気配でもない。相手は緊張しているようだ。

 気配は玄関の前に立ち、ためらいと思われる十数秒の後に呼び鈴のボタンを押した。

 どうすべきか。無視するのは不自然だろう。屋敷は隠しカメラで監視されている。真鉤は普段着の長袖シャツとズボン姿で何も持たずに階段を下り、玄関に歩いた。

 ドアの向こうの不安が真鉤にも伝わってきた。新聞や宗教の勧誘ではあるまい。

 もしかして、同級生なのか。その思いつきは不気味な予感となって真鉤の心を腐蝕していく。

 真鉤はロックを外してノブを回し、ゆっくりとドアを開けた。

「……こんばんは」

 遠慮がちに少女は言った。

 白崎高の制服で、同じクラスになったことはないが見覚えのある顔だった。直接話したことは一度もない筈だ。伏し目がちなところは自信のなさと内向性を感じさせる。化粧はしておらず、それなりに整った顔立ちは笑うときっと可愛らしいのだろうが今は緊張と決意のようなものを漂わせていた。

「何ですか」

 これが一番自然な台詞だろうと思いながら真鉤は言った。

「あの……私、小守っていいます。小守沙也香です。六組の」

 真鉤は黙って次の言葉を待った。

「あの……二年の時は、五組で……。ちょっと、真鉤君に、話、というか……あの、修学旅行の……」

 瞬間的に危険を感じ、真鉤は片手を上げて小守を制した。小守は面食らって目を瞬かせる。

「上がって話しませんか」

 真鉤は穏やかに告げた。奈美以外の他人を家に入れたくはなかったが、カメラで撮影されている状況でこの話はまずい。録音されている可能性もあるのだ。

 小守の瞳に不安の影が強くなった。しかし同時に別の感情も浮かんだことを真鉤は見逃さない。それは、期待、だろうか。

「……お邪魔します」

 靴を脱いだ小守を居間へ案内した。二人掛けのソファーに座らせ、真鉤は斜め前の一人掛けに腰を下ろす。コーヒーを勧めたりはしない。

「あの、ご家族は」

 室内を見回して小守が尋ねる。

「いません」

 真鉤の答えを彼女はどう解釈しただろう。

 静かだった。遠くで犬の鳴き声が聞こえている。

「それで」

 真鉤は続きを促した。小守は俯いて、時折上目遣いに真鉤の表情を窺いながら話し始めた。

「修学旅行の……あの、バスでの、ことだけど。あの時、藤村さんは、雪男に攫われて……犬を連れた男の人、その人、覆面してたけど……その人が、藤村さんをうちのクラスのバスに運んできて……。藤村さん、目が覚めた後で、パニックみたいになってて、変なこと言ってたの」

 嫌な予感はかなり明確な形を取りつつあった。吸血鬼・日暮静秋は催眠術を使ってくれた。しかし……。

 小守の声は震えていたが、途切れがちではなくなり弱々しい印象も薄れていった。

「藤村さん、『真鉤君は何処。真鉤君が助けてくれた』って。『真鉤君が雪男を殺した』とも言ってた。その後で、我に返ったみたいで真っ青になって。覆面の人が戻ってきて、藤村さんは慌てて相談して。覆面の人は『仕方ないな』とか言って。バスにいたみんなに『ちょっと俺の目を見てくれ』って言って、私も目を見て。目が赤く光って、私は気持ち悪いって思った。覆面の人は『彼女がさっき真鉤について喋ったことは忘れろ』って言った。『彼女を助けたのは真鉤じゃなくて俺だ。真鉤はただ助けを呼びに歩いて山を下りて、警察に通報してきただけだ』とも言ってた。みんななんだかぼんやりした感じになって、黙って頷いてた。私は良く分からなかったけど黙ってた。後になって皆が話すのを聞いてたら、真鉤君が藤村さんを助けたって話は皆忘れてるみたいだった。皆あの時催眠術に掛かったんだなって、私分かったの」

 吸血鬼の催眠術も完璧ではない。非常に稀だが掛からない者もいる。日暮の恋人・南城優子のように。そして、目の前にいる彼女のように。

「警察にはこのことは言ってないわ。誰にも言ってない。それから、ずっと考えてた。鉄球とチェーンソーで雪男と戦ったのって、真鉤君じゃないのかって」

 小守沙也香は今、真っ直ぐに真鉤の顔を見据えていた。

 殺すか。

 真鉤の頭にまず閃いた思考はそれだった。かつて真鉤の殺人を目撃した島谷紀子を始末したように。だがすぐに打ち消す。もうあんな真似はしたくない。まずは、冷静に状況を把握しなくては。

 彼女は敵という訳ではない。しかしこの話を周りに洩らされると真鉤の立場は危険になる。雪男を倒しただけならヒーローだが騒ぎがそれだけに留まる筈もない。注目を浴びてマスコミや警察が調査すれば真鉤の闇の面も明らかになってくるだろう。

 やはり、確実なのは口を封じてしまうことだが。再びこの考えが頭をもたげてくる。監視されている状況ではここで殺す訳には行かないし、帰した後で殺してもやはり疑われるだろう。ああ、どちらにせよやはり駄目だ。同級生の失踪を藤村奈美にどう説明すればいい。平然と彼女に嘘をつくことは、もう出来ない。

 日暮を呼んで再度術を掛けてもらうか。いや、一度掛からなかったのなら決して掛からないと思った方がいい。日暮を危険に巻き込むだけだ。全てを捨てて逃げるしかないのか。顔と体格を変えて遠くの町へ。

 いや、とにかく、まずは、危機回避の努力をすべきだろう。真鉤は動揺を表に出さず言った。

「藤村さんは寝惚けていて勘違いしたんじゃないですか。攫われてからずっと気絶していたと言っていましたし。僕は歩いて麓の店まで下りて110番して、警察がすぐに来なかったしバスが心配だったので、何時間もかけて歩いて戻りました。それだけのことです」

 暫く、沈黙が続いた。小守は再び俯いて動かなくなった。彼女の押し殺したような息遣いを真鉤は感じていた。動揺はしていない。真鉤がしらを切ることも想定はしていたのだろう。事件から二ヶ月、充分に時間はあった。

 やがて、少女は言った。

「勘違いだったら、覆面の人がわざわざ催眠術とか使う必要もないんじゃないかな。考えたんだけど、もし雪男と戦ったのがうちの高校の人だとしたら、あの時真鉤君以外は全員バスにいたのよ。二匹目の雪男が現れてからはうちのクラスも殆どの人が外に逃げちゃったし、他のバスからも逃げたみたいだけど、チェーンソーの人はその時もう戦ってたのよ」

 話しながら少女は真鉤の表情を観察していた。真鉤はどんなそぶりも見せずに切り返す。

「チェーンソーの人は全くの部外者じゃないんですか。覆面の人だって犬を連れていたんだし、修学旅行に犬を連れてきた人はいませんよね。僕は雪男と戦えるほど強くないですよ。思い込みで過大評価されても困ります」

「……。覆面の人だけど……私、声に聞き覚えがあるの。たまに、真鉤君、北高の人達とダブルデートしてるでしょ。私、通りかかったことがあるの。真鉤君の友達、声も喋り方も、覆面の人とそっくりだったわ。あの人、真鉤君に頼まれて、秋田の山の中まで助けに来たんじゃないのかな」

 心が機械のように冷えていくのを真鉤は感じた。それとも、自分でそう思おうとしているだけかも知れない。少女の首を手刀でへし折るイメージが何度も浮かんだ。駄目だ。そもそも彼女が警察やマスコミに情報を流さず直接やってきたのは意味がある筈だ。

「君の考え過ぎだと思います。でも、もしもの話ですが……」

 真鉤は言った。

「もし、万が一、僕がチェーンソー男だったとしたら、そのことを隠しているのは何か理由があるんじゃないですかね。有名になるのが嫌だとか、そんな単純な理由じゃなくて、正体を知られるととても困る事情が。ひょっとすると僕の人生そのものや、命にさえ関わるかも知れない。僕が君の立場だったら、そんな相手の正体を詮索したりしませんね」

「天海君を助けたの、真鉤君でしょう」

「……」

「天海君が暴力団に捕まって殺されそうになった時、誰かが乱入して四人殺してる。凄い力で頭が潰されたりしてたって。雪男と戦える人ならそのくらいは力ありそう。天海君とは仲がいいもんね。騎馬戦も一緒にやったりしたし。雪男と戦っただけならいいけど、人を殺したことがばれたら困るよね」

 小守の声には情念が滲んでいた。彼女は何を求めているのだろう。何故こんなことを真鉤の前で話すのか。

「通り魔で五人殺されたのも、真鉤君の家の近くだったよね。コンビニの裏で五人が殺されたのも、もしかしたら真鉤君……」

「コンビニの五人は違う」

 反射的に言ってしまって真鉤は後悔した。やはり冷静ではなかったのだろう。唇を噛むがもう遅い。

 小守は目を見開いて僅かに首を仰け反らせた。思い詰めていた表情が泣き笑いのようなものに変わる。

 多分、真鉤の目つきは険しくなっていたのだろう。小守が聞いた。

「私を、殺すの」

 一番痛い言葉だった。以前藤村奈美にもそう聞かれた。

「殺したりはしない。でも、君はどうする」

 丁寧語を使う余裕がなくなったことを真鉤は自覚する。

「警察には言わない。というか、誰にも喋ったりしない。その代わり……」

 この時が、最も彼女が緊張した瞬間であったろう。小守沙也香は顔を赤らめて、一生分くらいの情念をかけて言葉を吐き出した。

「私と、付き合ってくれませんか」

 真鉤は自分がどんな表情をしているのか分からなくなった。何故そうなるのか。金を要求するでもなく、真鉤の力を使って何かをさせるでもなく、何故、そういう話になるのか。

「僕は藤村さんと付き合っている」

「知ってます。藤村さんとも付き合ってていいから、私とも付き合って下さい。週に一度でもいい。たまにでもいいから」

 彼女は秘密を大上段に振り翳して藤村奈美と別れろとは言わなかった。あくどい人間ではないのだろう。小守は生真面目で、懸命だった。

 しかし真鉤の答えは決まっていた。

「それは出来ない。藤村さんを裏切ることになる。それに、脅して恋愛を強制するのは間違ってる」

 監視の件も含めて、既に真鉤が完全にコントロール出来る状況ではなくなっていた。何をやっても危険を拭い去れないのなら、正直に生きるべきだ。

「でも私は真鉤君好きなんだもん」

 小守の声が大きくなった。

「ずっと前から、一年の頃から気になってて、でも一度も声もかけられなくて、こんな口実が出来るまで何も出来なくて。私なんでこんな馬鹿なんだろ。藤村さんの前に告白してたら、もっと違ってたかも知れないのに……」

 小守は泣き出していた。

 真鉤自身は小守を強く意識したことはなかった。背後から向けられる視線の中に混じっていたのかも知れないという程度だ。彼女は想いを内に秘めたままどんな二年間を過ごしてきたのだろうか。殺人鬼の本性を隠して生きる真鉤とはまた違っていたのだろう。

「すまない」

 真鉤はそれだけ言った。

「……せめて……キス、だけでも……」

「出来ない。すまない」

 小守は俯いて暫く泣いていたが、「帰ります。ごめんなさい」と小さく言って立ち上がった。涙を拭いながら彼女が出ていくのを、真鉤はソファーから動かず見守っていた。

 これで良かったのか。真鉤には分からない。藤村奈美を裏切りたくなかった。そのために別の人の心を踏みにじってしまった。母を裏切り父を裏切り、皆を騙してきた自分が、これまでにない後味の悪い思いを抱えている。

 彼女は誰かに話すだろうか。或いはまたやってくるだろうか。それも分からなかった。

 本当に、逃げ出す準備をしておいた方がいいかも知れない。

 

 

  四

 

 それがいつから置いてあったのか誰も知らなかった。朝練に来た野球部の一人が見かけたのが午前六時十五分。午前六時に二つの門を開けた用務員はそこを通らなかったため確認出来ていない。

 白崎高の正門から校舎へアスファルトの道が続いているが、道沿いに植えられたツツジのそばにそれはあった。

 黒い学生鞄と大きな黒いビニール袋。鞄は白崎高指定のもので、ビニール袋の方には何の表示もなかった。内部にはうっすらと青い色彩が見えた。

 登校時にそれを見かけた生徒達も教師も、グラウンドで練習している誰かが置いているものだと考えていた。

 百人近くが何もせず通り過ぎた午前八時、一人の男子生徒が二つの品の前で立ち止まった。

 大柄な体格に肘で切った制服、右目に髑髏マークのアイパッチを当てた男は天海東司だった。それまで他の生徒と気楽に挨拶を交わしていたのだが、ビニール袋に向けられた左目は細められていた。

 そばに近寄り、しかし触れはせず、ふと周囲を見回し、再びビニール袋を見下ろす。顔つきが、次第に厳しいものになっていく。

「どうした、天海」

 通りかかった男性教師が声をかけた。

 天海は振り向かず、ビニール袋から目を離さなかった。隣に教師が並ぶ。

「先生、これ、いつ誰が置いたか分かんねえだろうなあ」

 天海の声は苦かった。

「ん。なんでだ。生徒のだろ。こっちの袋はゴミかね」

「……。警察を呼んだ方がいい。多分、中身は死体だ。信じられないなら開いて確認してもいいが、俺は遠慮しとく」

「おいおい、嫌な冗談やめろよ」

 教師は笑ったが、天海の表情に気づき「おい、本当か」と顔を青くする。

 天海は返事をせず暫く腕組みをしたまま考え込んでいた。そのうち周りに人が増えてくる。何人か教師の姿もあった。

「うん。やっぱり確認すべきだ」

 天海は言った。

「え、なん、なんでだ。本当に死体だったら、触らない方がいいじゃないか」

 男性教師は腰が引けていた。

「嫌な予感がする。なんか事件にされないままうやむやになりそうな気がするんだ。きっちり目撃者を残しといた方がいい。えーっと、皆さん方、これからビニール袋を開けるが、多分中身は死体だ。見たくない奴は離れててくれ。女の子は特にな」

 教師達も顔を見合わせるだけで天海を止めることは出来なかった。十数人集まっていた生徒は女子を含めた半数近くが去った。残った男子には野次馬根性丸出しの一年生もいたが、天海と同じように厳しい顔をした三年生が多かった。修学旅行を生き延びた者達。

 女子生徒が離れたのを見届けて、天海は黙って黒いビニール袋を開けた。

 天海の言った通りだった。

 

 

  五

 

 藤村奈美は真鉤夭と一緒に登校し、裏門から入って昇降口の辺りで皆のざわめき具合がいつもと違うことに気づいた。

 正門側から来た生徒が「パトカーが来てる」とちょっと興奮した様子で言った。昇降口から正門の方を見ると、何人もの警官が桜とツツジの並木付近で何かを調べていた。生徒達は近づけずグラウンドを通ってこちらに歩いてくる。

 ゾクリ、と嫌な予感が生ぬるい感触となって背中を撫でていった。振り返ると真鉤は眉をひそめていたが、特別な何かを表すことはなかった。

「何だろう」

 奈美が言うと、真鉤は首を振った。

「分からない」

 教室に着くとすぐ状況は判明した。死体がビニール袋に詰めて置かれていたのだという。天海東司が発見したそうで、立ち会った者がクラスメイトにもいた。

 一緒に置かれていた鞄は、三年の尾崎恵子のものだったという。天海が死体の顔を見て、本人だと確認もしたらしい。

 死体はバラバラだったそうだ。

 名前には覚えがなかったが、転入ではなく修学旅行を経験した内の一人らしい。加馬神山の殺戮を折角生き抜いたのに、こんなひどい死に方をするなんて。人の死には慣れた筈だが、奈美にもやはりショックだった。

 ふと体育祭の熱気を思い出した。奈美がアナウンス役を務めたのだ。あの日は楽しかった。その日を共に過ごした人達が、既に何十人も死んでいるのだ。奈美よりも先に。

 何者の仕業なのか。どうして学校の敷地内に置かれていたのか。奈美は一応真鉤のことを考えてしまう。でも彼がこんな派手なことをする筈がないし余程のことがない限り同級生を殺すことはないと思う。ではやっぱり真鉤を監視している側か。でも何故彼女を殺す必要があったのだろう。

 騒ぎを起こして反応を見るためか。もしそうだとしたら、たったそれだけのために無関係の同級生を殺したのだとしたら、彼らは悪魔だ。

 奈美は真鉤の方を見た。真鉤は視線に気づいて、黙って首を振った。何処までの意味が込められていたのかは分からないが、少なくとも彼が殺したのではないことは直感出来た。

 教室はバラバラ死体の話題ばかりだったが、賑やかとは程遠い陰気なヒソヒソ話だった。皆暗い顔で、もう涙ぐんでいる女子もいた。共に加馬神山を生き抜いたという連帯感が皆にあったのだ。転入生は一緒に悲しんでみせてはいるが、まだあまり実感はなさそうだった。死を間近に感じたことはないのだろう。

 転入生の中に式一三がいた。

 あまり意識してはいけないと思いつつも奈美はつい見てしまった。身長は平均的だと思うけれど割と太っている方だ。弛んだ丸顔からはあまり大したことない相手に見えてしまう。

 だが悲しみに沈む教室で式の口元は薄い微笑を浮かべ、無感動な視線が真鉤に向けられていた。

 奈美は突然違和感を覚えた。これまで人間だと思っていた相手が全く異質な生き物であることに気づかされたような。何がどうという訳ではない。表情や姿勢、或いは気配のようなものか。スクールカウンセラー・楡の奇妙さともまた違っていた。それとも真鉤に教えられて先入観を持ったためにそう感じているだけなのだろうか。

 奈美はすぐに目を逸らした。真鉤は他の男子と話をしたり窓の外を見たりして、式と直接目を合わせることはなかった。

 予想した通り、一時間目は潰れて体育館で全校集会となった。まだニュースにはなっていないし警察も現場検証を続けている段階だったが、校長は尾崎恵子の死をはっきりと告げた。これまでと同じように、我が校の生徒が亡くなったことに悲しみを表明し、全校生徒に黙祷させた。今日の授業はこのまま中止とするので生徒は全員下校すること、この先警察の聞き込みがあるかも知れないが正直に答えること、明日は学校にマスコミが押しかけてくるだろうが無視するように告げた。後ろの壁際で警察官が数人と刑事らしい男が見守っていた。

 真鉤がこの学校に入学しなければ、こんな残酷な死が繰り返されることはなかったのだろうか。奈美はつい考えてしまう。いや、でも真鉤がいなければ奈美はバスの事故で死んでいたし、修学旅行で雪男に一学年皆殺しにされていただろう。物事は単純には行かないものだ。

 端に並ぶ教師達の中に清川の姿があった。五組の担任で世界史の教師。噂に聞いた限りでは教え方はあまりうまくないらしい。名目だけの即席教師とすれば納得は行くが。

 校長が話している間、清川の目は冷ややかだった。

 カウンセラーの楡誠もいた。彼は悲しむ様子もなく、かと言って状況を楽しんでいる訳でもなく澄ましている。彼が犯人という可能性もゼロではないのだけれど、どうも存在感が薄いので奈美は頭の中で除外した。

 校長の話が終わったと思ったら、「ちょっといいかな」と生徒の中から手を上げた者がいた。

 列の前に出てきたのは天海東司だった。もう警察の事情聴取は終わったのだろうか。

「折角皆が集まってるから、ちょっと話をさせてもらっていいですか。大事なことなんで」

 天海が大胆なのはいつものことだが、全校集会で目立つ行動に出たのは初めてのことだ。

 校長も話の分かる人で、早速天海を壇上に呼び寄せてマイクを手渡した。天海は一礼する。

 尾崎恵子の話をするのかと奈美は思っていたが、片目で場内を見渡して天海は言った。

「新学期からずっと気になってたんだが、校内そこら中に隠しカメラが仕掛けてある。百個以上な」

 いきなり核心に触れる話だった。真鉤が言えなかったことを暴露してくれた天海に奈美は痛快だと思ったが、同時にそれを言って大丈夫なのかという不安も感じていた。

 生徒達がざわついた。後ろで聞いていた校長も驚いている。教師は互いの顔を見合わせる。清川は苛立たしげに目を細めていた。

 天海が続けた。

「俺は学校を信用してるから校長先生の指示とかじゃあなくて、部外者がこっそり仕掛けたんだと思う。何のためにやってるのか分からなかったが、死体が置いてあった場所もカメラで監視されていた。仕掛けた奴らは誰が死体を置いてったのか見てる筈だ。だがそいつらが警察に教えてくれるとは全く思えないね。どちらかと言うと、そいつらが彼女を殺してわざとカメラの前に置いたんじゃないかって気がする」

「ちょ、ちょっと待った」

 学年主任が大声で割って入った。

「それは本当か。証拠もないのに勝手なことを喋ってもらっては困るぞ」

 天海は制服のポケットに手を入れて、細い線の繋がった小さな機械を取り出した。皆に見せるようにゆっくり腕を振り、机に置いた。

「グラウンドの横の木に仕掛けてた奴だ。幹に埋め込まれてた。ピンホールレンズと光ファイバーで小さな穴からでも覗ける。グラウンドに渡り廊下、教室にもこの体育館にも仕掛けてある。念のため言っとくが、女子トイレはチェックしてないぜ」

 天海の冗談に笑う者はいなかった。事態の異常さを悟って館内は静まり返り、僅かな囁きが洩れる程度だ。

「天海君、君はどうやって隠しカメラに気づいたんだ」

 後ろから校長が尋ねた。

「勘がいいもんで」

 天海は平然と答えた。同級生ならそれを疑う者はいない。加馬神山の襲撃前に彼が引き返すよう主張したという話は広まっている。

「で、隠しカメラのことはこれから警察の皆さんが調べてくれるだろうが、多分誰が仕掛けたかは永久に分かんねえだろうな。警察にも都合があるからな」

 辛辣で、挑戦的な台詞だった。天海も監視者を政府の人間と考えているのだろうか。奈美が後ろを振り返ってみると刑事達は苦い顔をしていた。彼らの内に潜む後ろめたさを奈美は感じ取った。同時にゾッとした。だとすると、本当に、政府が……。

 天海が続けた。

「だが、仕掛けた奴らもあまり大騒ぎになると困る筈だ。殺人事件じゃなくて、組織ぐるみの大掛かりな陰謀ってことになればな。……だからそいつらに、俺は言っておく。もうこの辺で、手を引け。色々あったが、俺達は自力で生きていく。余計な邪魔すんじゃねえ」

 天海の声には怒りが篭もっていた。隠しカメラの向こうではなく、この館内にいる犯人に呼びかける口調だった。その違和感にまた生徒達がざわめいた。

「俺はてめ……」

 更に何か言いかけたところで、急に天海は口をつぐんだ。片目を細め、厳しい表情を見せた後で、声のトーンを落として彼は言った。

「皆も用心してくれ。問題が片づくまで、なるべく何人かで固まって行動しろ。昼間でも油断すんな。暗い夜道に一人で歩くなんてのは自殺行為だ。気をつけろ。以上。ありがとうございました」

 最後は校長に礼を言ってマイクを返し、天海は壇を降りた。

 館内は重苦しい空気に包まれていた。奈美にはこれからどうなるのか想像出来なかった。監視者は無関係の同級生を殺して揺さぶりをかけ、天海はカウンターパンチを食らわせた。そして、次は、どうなるのだろう。真鉤はどう思っているのだろう。

 新たに隠しカメラの問題が持ち上がったため、明日通常通りの授業が出来るかどうか、この後職員会議を開いて結果を出すということになった。教頭が集会の終了を告げようとしたところで、今度は教師達の列から手が挙がった。

「ちょっとすみません。今言っておいた方がいいと思いますので」

 教頭からマイクを受け取ったのはスクールカウンセラーの楡だった。このタイミングで何を言い出すつもりなのだろう。

「ええ、折角ですから今日も何人かカウンセリングをさせて下さい。そんなに時間はかかりませんから」

 平然と話す楡に奈美は呆れていた。こんな時にどういうつもりなのか。こんな騒ぎなど関係ないと思っているのか。あまりにも生徒を馬鹿にしてはいないだろうか。

 そして楡は本日受けて欲しい人達の名を読み上げた。

 五人の名の中に、真鉤夭と式一三が入っていた。

 どういうつもりなのか。奈美はさっきと同じことを思ったが意味合いは全く違っていた。この奇妙なカウンセラーは、何をしようとしているのか。

 そう言えば、昨日天海は楡先生とのカウンセリングでどんな話をしたのだろう。

 教室に戻ってから皆、この学校で何が起こっているのかについて憶測を並べていた。去年の島谷紀子の事件辺りからおかしくなったと男子が言った。メチャクチャな殺人事件が続いて。修学旅行の件かも、と女子が言う。はっきり雪男を見たのにニュースではそんなこと出なかったし。今も俺達は撮られてるのかな、と男子が天井のあちこちを指差した。トイレで隠し撮りされてたかもと涙ぐんでいる女子もいた。そんなことより命の心配が先なんだけど、と奈美は思う。これからどうなるのだろうか。真鉤はいつもの顔でぼんやり窓の外を見ていた。式一三がどんな顔をしているか気になったが、奈美は怖くてそちらを見ることが出来なかった。

 十五分ほどで担任の二ノ宮が教室に戻ってきた。隠しカメラについては警察が校内全てチェックする予定で、明日授業が始められるかどうかはまだ分からない。休校になるなら今日中に生徒に連絡を回すということだった。生徒達が一刻も早く帰りたがっているから、会議も急いだのだろうと奈美は思う。

「それからカウンセリングの件だ。うちのクラスは式と真鉤、やっぱり楡先生は今日やりたいそうだ。嫌なら帰ってもいいそうだが、どうする」

「受けます」

 真鉤が言った。

「僕も受けますよ。折角ですから」

 続いて式が言った。奈美はその時式の顔を見た。口の両端を吊り上げて、彼は嫌な笑みを浮かべていた。きっと、こいつらが同級生を殺したのだ。奈美は急に憎しみが込み上げてきて、拳を握り締めた。

 それで今日は解散となった。真鉤が奈美のそばに来て言った。

「悪いけど、今日は先に帰って欲しい」

「やっぱり受けるんだ、カウンセリング」

 奈美が言うと真鉤は頷いた。奈美は待っていようかと思ったけれど、あの式とも居合わせることになるのでやめておく。

「一人では帰らない方がいい。天海君に頼めば一緒に帰ってくれると思う」

「分かった、そうするね。でも、ヤキモチは焼かないでね」

 真鉤はキョトンとしていたが、数秒してやっと意味を理解したようで苦笑した。

「焼かないよ」

 真鉤は言った。

 取り敢えず一緒に教室を出ると、すぐに天海の長身が見つかった。真鉤が手を上げかけたところで天海も気づいてこちらに歩いてくる。

 奈美を家まで送って欲しいことを真鉤が伝え、天海はあっさり承諾した。ほんの二言三言のやり取りだった。天海は気をつけろなどと余計なことは言わなかった。

「ほんじゃ、奈美ちゃん、帰ろうか」

 天海が両眉を上げて微笑を見せた。ちょっとおどけた、優しい笑みだった。

「じゃあ」

 真鉤が軽く手を振った。彼の微笑も優しかった。

「うん。また明日ね。それかあさって」

「そうだね」

「後で携帯に電話してくれる」

 詳しいことは電話で話さなくてもいいけれど、彼が無事であることだけは確認したかった。

「そうするよ」

 真鉤は頷いた。そして背を向けて職員室に近い方の階段へ歩き去っていった。

 皆急ぎ足で昇降口へと向かう。奈美も天海も黙って階段を降りる。校舎の内外を何人もの警官が歩き回っていた。隠しカメラを探しているのだろう。全部見つけるのにいつまでかかることやら。携帯で呼んだらしく校門の前で待っている父兄もいた。全く関係のない生徒でも殺される可能性はあるのだ。

 警察の発表はまだのようで、マスコミは来ていなかった。明日は沢山来るかも知れない。

 門から出た生徒達は数人ごとに固まって去っていく。明日にはまた誰か死んでいるかも知れない。奈美はそんな嫌な予感を覚えた。

 暫く歩いて、周囲に通行人が少なくなってから奈美は無難な話を向けた。

「そう言えば天海君、最近煙草喫ってないね」

「体力の衰えを感じてなあ。やっぱり煙草は駄目だぜ。体に悪いわ」

「ふうん、真面目になったんだ。ならお酒もやめたら」

「流石の俺でも一度に二つは無理さ」

 天海は苦笑する。

「それで天海君、私の家知ってるの」

「ああ。俺は可愛い娘のことは良く知ってるんだ」

「ふふっ。前にも同じようなこと言ったよね」

 奈美は笑った。そして尋ねた。

「どうなるのかな」

「……。分かんねえ」

 天海は正直に答えた。

「だがこのままだと人死にが増えそうだったからな。集会ん時後ろに刑事がいたろ」

 奈美が頷くと天海は表情を変えず声だけ小さくした。

「あいつらグルだな。隠しカメラのことまで知ってたかどうかは分からんが、少なくとも誰が殺したかは知ってる筈だ」

 まさかという気持ちとやっぱりが同時に浮かんだ。奈美の心は益々重く沈んでいく。

「じゃあ、やっぱり政府ぐるみでやってるってこと」

「多分な」

「じゃあ、どうすればいいの」

 奈美はまた同じことを聞いてしまった。

「分からん。とにかく奈美ちゃんも気をつけてくれ。今日は家から出るなよ」

「そうする」

 奈美は頷いた。でも、これからどうなるのだろう。また思考は堂々巡りだ。

 また暫く沈黙が続いたが、天海が、ポツリと、言った。

「……あん時……危ねえとこだった」

「え」

「あん時、俺は名指ししてやるつもりだったんだ。腹も立ってたしな」

 隠しカメラの件を暴露して、余計なことをするなと言った時のことだ。

「もし名前を出してたら、多分あの場で百人以上死んでたぜ。清川はともかく、式はヤバい。あれは……狂ってやがる」

 式の体は作り物だと真鉤は言った。サイボーグ、ということなのだろうか。普通の人間相手とはいえ、百人も殺せるほどの力を持っているのか。それほどの狂気を。もしそうなったら、真鉤はどうしていただろう。

 奈美は第三の男のことを思い出した。

「楡先生はどうなの。あの人は何者。政府の人間なの」

「んー。あの人は分からんな」

 天海は首をかしげて唸った。

「だが、悪い人じゃないぜ。いい人かどうかも分からねえが。……というか正直なとこ、人なのかどうかも分かんねえんだけどな」

 天海は気の抜けた苦笑を見せた。

 

 

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