六

 

 カウンセリング室は職員室の隣にある。廊下の長椅子に座っているのは真鉤夭だけだった。

 警官達が探知機らしいものを天井に当てている。生徒の姿は少なくなり、教師達は職員室でずっと話をしている。隠しカメラなんて訳が分からない、この学校はどうなってるんだ、こんなことがニュースになったら益々学校の評判が落ちる、私達も狙われているんじゃないか。そんな話し声が真鉤の耳に届いている。清川の声はないようだ。

 真鉤はふと小守沙也香のことを思う。今日は登校していないようで全校集会でも姿が見えなかった。死体が見つかったと聞いた時、小守ではないかと気になったのだが、別人だと知りホッとしていたのだった。殺された尾崎恵子には悪いけれども。

 小守は昨夜のやり取りでショックを受けて休んでいるのだろうか。単にそれだけであればいいのだが。この町は死が日常茶飯事で、その一端を担っているのは真鉤だった。

 階段を下りてきた生徒の一人が式一三だった。教室でのんびりしていたようだが何を考えているのかは真鉤にも分からない。学生鞄を左手に持っている。

 式の体内で響く微かな機械音を真鉤の耳は捉えていた。彼の体重が百五十キロを超えていることも廊下の軋みから知っていた。

 式はこちらに歩いてくる。カウンセリングを受けるために。シャク、とこれまでと違う音がした。金属のすれ合う音。廊下には警官が二人、まだ天井を調べている。昇降口に向かう生徒も数人いる。隣の職員室には大勢の教師がいる。

 いつものニヤニヤ笑いを浮かべながら、式が右手を上げて話しかけた。

「順番は君が先だね」

 鞄を持つ左手から何かが伸びたのを真鉤は見た。二ミリほどの金属製の礫。極細のワイヤーが繋がっている。親指の先の小さな穴からワイヤーは伸びている。常人なら決して気づかないほどに小さく、細く。

 それは真鉤の首筋を掠め、皮膚に触れることなく回り込んだ。真鉤の首を絞めるかのように。

 真鉤は咄嗟に首を曲げ頭を下げた。礫とワイヤーが上を通り過ぎる。巻きついて引っ張られたら、首が切断されていただろう。

「へえ」

 式が感心したように言った。キュルキュルとワイヤーが親指へ引き戻されていく。

 こいつは……。真鉤は全身に力が入りそうになるのを抑えた。本気で真鉤を殺すつもりだった。随分と軽い、しかし確かな殺気だった。何人も目撃者がいる場所で。

「やっぱり君かあ」

 式がニヤつきながら真鉤の隣に腰を下ろした。ギシリと長椅子が軋む。次の攻撃がないのは真鉤の正体を確認するのが目的だったのだろう。だが、避けきれぬ常人ならあっさり死んでいた筈だ。

 真鉤は動かず無表情を保った。今から瞬時に数発の打撃を入れることが出来る。材質によっては首がちぎれるだろう。

 しかし、やはり真鉤は動けなかった。やれば皆に完全に知られてしまう。警察だけでなく教師にも。そうすれば後は全てを捨てて町から逃げ出すしかなくなる。藤村奈美の暮らすこの町から。

 真鉤の鼻にある匂いが届いた。日暮静秋ならもっと早く気づいただろう。

 隣の式から微かに血臭がした。

 式が馴れ馴れしく話を続けた。

「参ったよ。隠しカメラが見つかるなんてひどい学校だね。それにしてもあの天海ってのは妙ちきりんな奴だね。良くカメラに気がついたなあ。袖も切っちゃって、あの髑髏のアイパッチなんかもさ、大昔の番長みたい」

 その時ドアが開いた。

「どちらが先かな」

 カウンセラー・楡誠が二人を見下ろして言った。

「先に座っていたのは」

「僕です」

 真鉤は答えて立ち上がる。

「じゃあ、話の続きは後だね」

 式がわざとらしく手を振ってみせた。楡は微笑しつつ室内へ戻った。

「失礼します」

 真鉤は部屋に入りドアを閉めた。

「まずは座って。四組の真鉤夭君だね」

 机の向こうの椅子に腰を下ろして楡が言う。

「はい。よろしくお願いします」

 真鉤も手前の椅子に座った。楡はキャスターつきチェストから真鉤の名が書いてあるファイルを出して開く。

「改めて初めまして。スクールカウンセラーの楡誠です」

 楡誠が何者か真鉤には分からない。ただ、彼は目の前にいても存在感がなかった。空気中に投影された立体映像のような、或いは表面だけの張りぼてのような。そして、あまり抑揚がなく感情の篭もらない声。

 楡は万年筆を手に取り、ファイルに書き始めた。手の動きからは文章ではなさそうだが。

「それで真鉤君、何か悩み事はありますか」

 楡は書きながら尋ねた。

「いえ。細かい悩みはそれなりにありますけれど、自分でなんとかやっていこうと思っています」

 真鉤は慎重に答える。

「そうですか。私には大きな悩みのように見えますよ」

 そう言って楡は微笑した。自分が良く浮かべる誤魔化しの微笑がこんな感じかも知れない、と真鉤は思う。

「はあ」

 それで会話が進まなくなった。楡は真鉤の顔を見据えたままずっと書き続けている。やはり文章ではない。絵を描いているのか。真鉤も退屈な時は授業中ノートに落書きすることもあるが、カウンセラーが仕事中にやることではないだろう。

 相手の本性が掴めない状況で油断は出来ない。真鉤も楡をずっと見返していた。感情を込めず、穏やかに。

 何分経ったろうか。藤村奈美の時は二分ちょっとだった。それよりは長いようだが。

 紙をめくることなく黙って書き続けていた楡が手を止めた。

 万年筆に蓋をして、ニコリと笑って楡誠は告げた。

「よし、大体のところは分かりました。まず言っておきますが、ここでの会話は部屋の外に洩れることはありません。今防音処理をしましたから。それで……」

 楡は何を話すつもりだ。防音処理などと本当に信じていいのか。昨日の楡と奈美の会話は壁越しに聞こえていた。防音処理を今したとはどういうことか。真鉤が迷っていると楡は机の引き出しを開けて奇妙なものを引っ張り出した。

「この人達は君を狙っているようですが、心当たりはありますか」

 それは表面がキラキラしてビニールのように見えた。雑誌を開いたくらいの大きさで、厚みは数センチほどか。適度な柔らかさがあり楡が片手で吊るしていると下部の曲がりが伸びてくる。

 中には肉が詰まっていた。衣服の一部も見える。グチャグチャという訳ではなくそれなりの繋がりを保ったまま圧縮されているようだ。

 真鉤に向けられた側に人間の等身大の顔があった。

 押し潰されやや変形してはいるが、新任の世界史教師・清川庸平の顔だった。開かれた眼球は裏返り鼻の厚みは失われ、めくれた口から歯列が覗いている。

 楡誠が見せているのは清川庸平の真空圧縮パックだった。

 真鉤は一瞬飛び出そうかと思った。少なくとも椅子から跳び下がって距離を確保すべきだと。しかし真鉤はそうしなかった。ここが学校だという意識もあったが、何より、あまりの異常事態にあっけに取られたというのが正しいだろう。楡はどうやってこんなものを作ったのか。自分の表情はどうなっている。真鉤は自分の顔に触れてみたかったが動けなかった。

「この清川先生ですが、尾崎恵子さんを殺した犯人の一人ですから私はカウンセリングを受けてもらおうと思ったのです。ついさっき、トイレで話を向けたら襲ってきましてね。それで、こんなことになりました」

 楡は圧縮清川を机の上に置いた。清川の全身が詰まっているような重量感はなかったが、それは楡も同じことだ。

「両掌に注射針を仕込んでいますね。即効性の毒液と麻酔薬の二種類があります。後は薬物の継続摂取による精神安定と筋力増強、主要骨格の人工物との置換、電子機器のインプラントなどですね。彼は『マルキ』の構成員です」

 楡はどうやって清川の体内事情まで把握出来たのか。楡は「ついさっき」と言った。緊急職員会議が終わって今までそれほど時間は経っていない筈だ。精々十五分くらいではないか。

 真鉤の聞いたことのない言葉が出たため、それについては質問することが出来た。

「『マルキ』というのは何ですか」

「おや、知りませんでしたか」

 楡はちょっと意外そうな上っ面の表情を見せた。

「正式名称は希少生物保護管理機構。政府の秘密機関です。防衛省、警察庁、文部科学省など幾つかの省庁が予算を出して構成されています。役割は一般の枠組みを超えた希少生物の捕獲と管理・研究ですね。特に優先される対象は人を殺したり騒動を起こしたりして社会に悪影響となるような生物です。加馬神山の雪男や、君みたいな、ね」

 楡は全てを見透かしているのか。どうすべきか。正体を知られたのなら始末するのか。いや、必ずしも敵とは決まっていない。それに、もう式にはばれている。

 流れに乗るしかない。真鉤は覚悟を決めた。

「先生は、何者なんです」

「そうですね、最初の質問に答えてもらう前に自己紹介しておくべきでした。私の本職はトラブルシューターや解決屋などと呼ばれる類のものです。生徒に死人が続いたので校内の安全管理と生徒達の保護を依頼され、カウンセラーという名目で雇われています。私の力について詳しく話すつもりはないですが、一般人とは少し違うものを見て、少し違うことが出来ると思って下さい」

 人間一人を圧縮パックにした男としては控えめな表現だった。

「それで、僕をどうするつもりですか」

 真鉤が尋ねると楡は微笑んだ。

「それをこれから相談したいと思っているんですよ。私の役目として、生徒を危険に巻き込むような要素は取り除かないといけません」

「なら僕を殺しますか」

 真鉤は同じ口調で聞き、楡も同じ口調で答えた。

「問題は、君自身もこの高校に所属する生徒だということです。君としては校内でトラブルを起こすつもりはないですよね」

「はい。目立ちたくないですから」

「しかし、白崎高の生徒を殺したことはありそうですが」

 楡は何処まで真鉤のことを把握しているのか。真鉤は正直に答えた。

「四人、殺しました」

 下校途中で絡んできた上級生二人。彼らを殺すところを目撃した島谷紀子。そして、天海を殺そうとした柿沢信夫。

「やむを得ない状況でもあったようですが、困りましたね。ただ、君は加馬神山の事件では雪男と戦って生徒を守っています。ですから過去はひとまず置いて、未来のことを考えましょう。君は今後、白崎高の生徒を殺さないと約束出来ますか」

「……。そのつもりですが、式一三のような人が相手になると難しいかも知れません」

「そうですねえ。確かに。ただし、式君をうちの生徒と解釈して良いものかどうかも微妙な点です。生徒として形式的には籍が入ってますが勉強するために来ている訳ではありませんし、実情は五十代のマルキ構成員ですから」

 楡は式一三のことも分かっているらしい。それにしても式の中身が五十代とは。全身が機械なら中身が七十才でも高校生に見せかけられる訳だ。

「それでも、生徒が皆無事ならそれに越したことはないですからね。マルキに目をつけられているのが君だけなら、最も平和的な解決法は君が町を逃げ出して失踪するということになります。それについてはどう思いますか」

 真鉤も考えていた選択肢を楡は告げた。

 だが真鉤は首を振った。

「出来ればここを離れたくありません」

「それは藤村奈美さんのためですか。確かに彼女はもう何年も持たないでしょうし、貴重な時間を一緒に過ごしていたいということですね」

 楡誠はあまりにも、さらりと、言ってのけた。

 真鉤はいきなり全身をマグマに浸け込まれたような熱さを感じた。いや、その熱は体の内部から来ていた。彼女の人生が多く残っていないことはきっと事実だ。だがそれを楡が口にする権利はあるのか。そんな冷静な、態度で、断定する、権利が。

「おっと、失礼しました。でもこれは本当のことで、私が嘘を言っている訳ではありませんよね。君も分かっていると思いますが」

 楡の涼しげな微笑が憎らしかった。

「分かっています。でも、あなたにそれを言って欲しくはありません」

 真鉤の声には殺気が篭もっていたかも知れないが、楡の表情は変わらなかった。

「なるほど、君は彼女を愛しているのですね。改めて謝罪します。感情の機微に疎いもので」

 謝罪にも実感は乏しかったが、この男なりに本気なのだろうと真鉤は思った。自分で言うように、元々そういう人間なのだ。真鉤は冷静さを取り戻していた。

 楡が続けた。

「藤村さんも白崎高の生徒であり、彼女の精神の安定のためにも君はここに留まった方が良さそうですね。それなら一つ提案があります。普通に式君を殺してもマルキの追及は続くでしょうから、ルールを取り決めようと思うのです」

「……。どういうルールですか」

「所謂タイマン勝負ですね。君と式君で一対一で戦って、式君が負ければ今後マルキは君に手を出さない、ということでいいのではないでしょうか。勝負は学校の外で行うことと、他の生徒を巻き込まないことは約束してもらわねばなりません」

 この男からタイマンなどという言葉が出るのは意外だった。

「僕にとってはありがたい提案ですが、式が約束を守りますか」

「百パーセントの保証は出来ませんが、私はある程度の抑止力にはなれると思います。政府の上層部にもマルキにも私の力を知っている者はいますから。国会議事堂か首相官邸を瓦礫に変えると伝えれば納得してくれるでしょう」

 おそらく楡は本気で言っている。そして脅し通りのことをたやすくやってのけるだろう。そんな底知れなさが楡にはあった。

 だが真鉤の中に疑問が浮かんできた。

「先生は、どうしてそこまでしてくれるんですか。失礼ですが、政府を敵に回しても割に合うほど、ここの報酬が良いとは思えないんですが」

「報酬などはどうでもいいのですよ」

 楡は言った。

「人と関わっていたいだけです。それで、もし式君が承諾すれば、君もこのルールを受けますか」

 奇妙な男だが、楡誠を信用しても良いと真鉤は判断した。式との交渉が失敗に終わるとしても、ここで断る理由もない。真鉤は頷いた。

「受けます」

「もし君が勝負に勝ったとしても、今後この学校の生徒達に危害を加えないこと。特別な事情がある場合は私に相談して下さい。それでいいですか」

「はい」

「勝負の日時ですが、早い方がいいと思いますので今夜辺りでどうでしょう」

「僕もその方が都合がいいです」

「分かりました。では次は式君と面接してみます。結論が出るまで廊下で待っていて下さい。ひとまず今日の面接は終わりですが、何か聞きたいことはありますか」

 別にありません、と言いかけて真鉤は思いつく。楡は独自の視点で真鉤について把握しているらしい。ならば、これも分かっているのではないか。

「一つあります。あの……僕は、一体、何者なんでしょうか。どうしてこんなふうに、生まれてしまったんでしょう」

 楡はまた微笑した。現実感には欠けるが優しい笑みに見えた。

「物事には、実は原因などは存在しないのですよ。全ては結果の連続に過ぎません。結果として君は存在し、宿命を背負ったまま生きていかねばなりません。それが出来なければ、結果として死ぬだけのことです。それでも君が答えを知りたいのなら、自分で見つけるしかありません。全ての人に言えることですけれどね」

 期待していたような答えではなかった。だが、真鉤は納得した。そう、原因より、この先が大事なのだ。

「ありがとうございました」

 真鉤は礼を言って立ち上がった。机の上に開いてある真鉤のファイルが見えた。

 波打つ曲線と精緻な直線が入り混じった、複雑な幾何学図形が描かれていた。一見メチャクチャなようで、何処か秩序立っているような、微妙なバランスを感じさせた。文字は一つもなかった。きっと楡本人にしか解読出来ないだろう。

 部屋を出ると長椅子で式一三が待っていた。他に待っている生徒はおらず、カウンセリングを受けずに帰ったらしい。ただ、おそらく楡の目当ては真鉤と式の二人だけだったろう。

「次の方どうぞ」

 楡の呼びかけに式は立ち上がり、あの嫌なニヤケ顔を見せながら室内へ消えた。ドアが閉まり、内部の音が全く聞こえなくなった。楡の言ったことは本当だったようだ。

 時計を確認する。真鉤の面接は十二分ほどだった。長椅子に座って式が出てくるのを待つ。廊下を警官が行き交い、通りかかった教師が真鉤に「お前もそろそろ帰れ」と言った。真鉤は軽く頷いたが静かに待ち続けた。

 ドアが開いて式一三が出てきたのは七分後だった。いつものニヤケ顔のまま、真鉤を見下ろして言った。

「ハハッ、驚いたな。まさか『ミキサー』の楡だったとはね。全然それっぽくなかったから気づかなかったよ。いいぜ。タイマン勝負、受けてやるよ」

 少し口調が変わっていた。

「そうですか」

 他人に会話が聞こえていないか気にしながら真鉤は応じた。

「今夜零時、場所は……そうだな、正門側から少し行ったとこに建設中のビルがあるよな。あそこにしようや」

「分かりました」

 真鉤が答えると式は唇の両端を極端に吊り上げ、ピエロのような笑みを作った。人間離れした表情になった。

 すぐにそれが消え、式は廊下を歩き去っていった。

「ドアを閉めてくれませんか」

 部屋の中から声がした。真鉤は立ち上がりドアに触れながら奥を覗いた。

 楡誠が分解されていた。顔と首、胸部が斜めに切断されて隙間が空いている。式がワイヤーでやったのだろう。分離した部分は支えもなく浮き上がり、血も出ていない。僅かに見える断面は肉ではなく灰色の闇だった。

 彼は人間ではないのか。一般の生物とも構造が違うのか。なら、どうすれば殺せるのか。自分が戦わねばならない場合を思い浮かべ、真鉤の皮膚が粟立っていた。滅多にないことだった。

「話はつきましたよ」

 分かれた上顎と下顎で楡は普通に発音した。机に置いてあった清川の圧縮パックを手に取り折り畳む。何の抵抗もなく厚みがなくなり、二度畳むと消えてしまった。

「ありがとうございました」

 真鉤は一礼してドアを閉めた。

 

 

  七

 

 午後四時。白崎高校長・峰厳太郎は校長室の窓から外を眺めていた。警察官がグラウンド沿いの木を一本一本調べている。隠しカメラを全て発見するまではまだまだかかりそうだ。

「君は……前から気づいていたのかね。隠しカメラを」

 校長が尋ねた相手はソファーで姿勢を正して座っていた。

「はい。最初から気づいていました」

 楡誠は平然と答えた。式一三に切断された体は傷も残さず元通りになっている。

 校長は深い溜め息をついた。

「そうか。……折角君を雇ったのに、こんなことになってしまったなあ」

「力不足で申し訳ないとは思っています。残念ながら、私でも生徒全員の校外活動を把握することは不可能です。それに、相手が相手ですから慎重な対応が必要と思っていました」

「……。君は犯人を知っているのか」

「はい。知っていますが警察に言っても無駄です。尾崎恵子さんを殺したのも隠しカメラを仕掛けたのも政府の組織ですから。全て揉み消されます」

 峰校長はゆっくりと自分の椅子に腰を落とし、放心したように呟いた。

「そうか。政府なのか。どうして政府がうちの生徒を……」

「詳しい事情はお話ししない方がいいと思います。あなたのためにも」

「しかし、政府だとすると……政府の組織が、そこまでするのか。こんなひどい殺人を」

「はい、します。国家は全体を守るために平気で一部の国民を切り捨てるものです。あなたも学校を守れるのなら、生徒が一人くらい死んでも構わないと思いますよね」

「……いや、私はそうは思わない」

 校長が苦い顔で返すと、楡は立ち上がり歩み寄ってきた。両手で校長の顔を掴み、自分の顔を近づける。面食らう校長の顔を数秒観察していたが、やがて手を離し解放した。

「本気のようですね。これは失礼しました」

 楡は元のソファーに座りまた姿勢を正した。

「でもうまく行けば今夜のうちに解決するかも知れません。生徒が一人減ることにはなりますが、これは避けられないことです。結果が出た後で、隠しカメラは全て処理しておきますね」

「そうか……。それにしても、楡君。私は君を噂でしか知らないが、人間には不可能なことが色々出来るらしいね。そんな男が、どうして僅かな報酬と安月給でこの仕事を引き受けてくれたのかね。私にはそれが不思議でならない」

「金など私には何の意味もありません」

 楡は言った。

「物理的には不足ないのです。しかし私には決定的に何かが足りないのですよ。その何かを私はずっと探しているのです」

「……そうか。私には良く分からないが、どうかこの一年、よろしく頼む」

 校長は頭を下げ、楡も丁寧に礼を返した。

「いえこちらこそよろしくお願いします。ちなみに世界史の教師は後任を探しておいた方がいいですよ」

 

 

  八

 

 真鉤夭は自宅に戻るとすぐ藤村奈美に電話をかけた。伝えたのは楡先生が手助けしてくれることになったということだけだ。タイマンの殺し合いについて話すのは明日でいい。余計な心配をさせたくないし、今夜真鉤が死ねば必要もなくなることだ。

「明日も会えるよね」

 心配そうな奈美の声に真鉤は答えた。

「そのつもりだよ」

 真鉤は死ぬつもりはなかった。式に勝ったとしても、マルキという組織が本当に手を引いてくれるかは分からない。だが真鉤のやるべきことは決まっている。

 夜間の活動となるため黒っぽいシャツとズボンを選ぶ。武器は剣鉈と鎌をシャツの下に隠した。覆面は……既に正体はばれているが念のためタオルを畳んでポケットに入れた。必要となれば目の位置に穴を開けてマスクとして使えるだろう。加馬神山でそうしたように。

 昼食も食べずに真鉤はすぐ出発した。幾つもの隠しカメラで監視されていることを自覚しながら。事が終わったら取り除く予定だ。

 少し歩いてカメラの監視から外れると、真鉤は方向転換し奈美の家に向かった。真鉤が最も心配しているのは彼女の安全だけだ。式が楡との約束を破り、勝負の始まる前に彼女を拉致したり殺したりしないとも限らない。

 奈美の家は平屋で低い塀に囲まれている。直接挨拶に伺ったことはないが屋敷の構造もある程度把握していた。周囲に人がいないのを確認して素早く塀を乗り越える。庭はそんなに広くない。屋敷の横手、外部から見えない壁と塀の隙間に入って気配を消す。

 奈美の部屋からは少し離れているが彼女が健在であることは確認した。勉強でもしているようだが集中出来ないらしくページが進まない。母親が台所で昼食の用意をしている。奈美は一人っ子で他の家族は父親だけだが勿論仕事に出ていていない。

 ストーカーそのものだな。真鉤は自嘲する。

 真鉤は何時間もじっと動かなかった。敵意のある気配が近づく様子もなく、警官も来ない。式一三だったら独特の歩幅と重量感で識別出来るだろう。

 他の生徒に被害が及ぶ可能性もゼロではない。しかし真鉤にはそこまで手は回らない。天海東司はどうしているだろう。隠しカメラを暴露して報復されていないだろうか。彼は勘がいいから多分大丈夫とは思うけれど。日暮静秋に助けを求めた方が良かったろうか。いや、やはり政府を相手にした無謀な戦いに彼を巻き込む訳には行かない。既に借りばかり作っているのだ。

 特に異変もないまま時は過ぎる。真鉤は腕時計を確認する。午後六時を過ぎた。奈美の母親は夕食の用意をしている。奈美はリビングでニュース番組を見ている。事件の経過が気になるのだろう。

 尾崎恵子がバラバラ死体で発見された件は流れたが、学校に隠しカメラが仕掛けられていたことは言及されなかった。

 報道規制がかかったのだろうか。あまり白崎高の評判が悪くなっても困るので真鉤は別に構わなかった。奈美はどうも落ち着かない様子で室内を歩き回ったりしている。「どうしたの」と問う母親に「別に。なんとなく」と奈美は答える。真鉤は奈美を可愛らしいと思う。しかしやはりこの状況は変態のストーカーだ。

 辺りは暗くなり、父親が帰宅して三人で夕食を食べる。父親も事件のことで心配していた。二週間くらい休学してみたらという父に奈美は「大丈夫よ」と返した。不安を隠した声音だった。

 電話機のベルが鳴る。母親が応対し、奈美に明日は学校があることを告げた。「休んでもいいのよ」と言う母に奈美は「いや、ちゃんと行くから」と答える。真鉤の留守番電話にも学校からのメッセージは入っているだろう。

 奈美がトイレや浴室に入った時は注意を逸らし、真鉤は紳士であろうと試みる。遠くでサイレンの音。あれは消防車だ。警察は学校の隠しカメラを全部見つけるだろうか。通学路のカメラはどうなるだろう。

 奈美はまたリビングでニュース番組を見ている。父親は別のチャンネルが良さそうだが娘に遠慮している。やはり隠しカメラの件が報道されることはなかった。圧縮され消された清川はどういう扱いになるのだろう。諸事情により退職ということで事件となることもないのだろう。

 午後十一時を過ぎる。特に異常はない。式一三の指定した建設中のビルまでは真鉤の足なら数分で着く。用心のため真鉤はぎりぎりまで待つつもりだった。

 奈美は自分の部屋に戻り勉強机に向かう。何度も携帯電話を開く音。着信を確認しているのだろう。奈美の呟きが聞こえた。

「真鉤君、大丈夫かな」

 大丈夫だよ。また明日会えるさ。その努力はしてみる。

 午後十一時五十五分。真鉤は動き出した。奈美はまだ起きていたが窓から覗いてみるようなことはせず、塀から屋根へと音を立てず上がる。月のない闇夜は都合がいいが、街灯などはあるから高層マンションからの視線に注意しなければならない。真鉤はヤモリのように屋根から屋根へと伝い走る。人気のない暗い道に下りて駆けながら軍手を填める。まだ凶器は抜かない。

 建設中のビルは八階建てくらいだろう。全体がシートで覆われているがまだ骨組みばかりのようだ。明かりもなく闇に溶けている。

 天辺に立つ人影があった。真鉤の目はその姿を正確に捉えている。学生服姿の式一三。

 ビルまではまだ百メートル以上ある。少し離れた場所に十数階建てのマンションがあり、その屋上から跳んで奇襲出来れば……。

 だが、式一三が首を動かしてニヤケ顔をはっきり真鉤へ向けた。

「時間ピッタリだな。上がって来なよ」

 大声ではなかったが真鉤の耳には充分届いた。式も分かっているのだろう。

 ビルのそばに人の気配がある。複数。一対一ではなかったのか。秘密組織マルキの別メンバーか。しかし強者の気配ではなかった。真鉤はタオルを出して目の位置を破り、顔を覆って後頭部で結ぶ。

「おやおや、かっこ悪いぜ」

 式の声が笑った。

 真鉤は走るスピードを緩めた。ビルに近づくごとに血の匂いが漂ってくる。何だ。誰の血だ。

 敷地への扉は開いていた。正面に八人の男が真鉤を待っていた。警察官。そして、今朝の全校集会にも立ち会っていた刑事が一人。彼らは緊張と畏怖と嫌悪感の入り混じった顔で真鉤を迎えた。彼らは来訪者の正体をどう聞いているのだろう。白崎高の真鉤夭であることも知っているのだろうか。だがもう流れに任せるしかない。

 刑事が無言のまま目でビルの方を示した。真鉤は彼らの間を黙って抜ける。その気なら背中の鉈と鎌を使って一瞬で皆殺しに出来ると考えながら。

 シートに包まれた内部へ足を進める。天井・床はまだほぼ素通しで、所々に鉄板や木の板が渡されている。奥にエレベーター用らしい枠組みがあるがまだ中身はない。右手に鉄の階段が出来ており、真鉤はそこへ歩いた。

 上から物の落ちる気配があった。複数。真鉤は足を止め、それが何なのか見極めようとした。

 鉄骨にぶつかりながら落ちてくるのは生首だった。少年のもの、少女のもの。苦悶と恐怖をこびりつかせた顔が、鉄骨に激突して少量の血を散らしながら真鉤の足元に次々と転がった。極細のワイヤーによるものだろう、首の断面は鋭利なものだ。

 九個の生首は、白崎高の生徒達だった。

「あの天海が折角警告してたのによう、こいつら馬鹿だぜ。ツルんで遊びに出たとこを警察が連行して俺が処刑って訳だ。ハハッ、今の時代警察なんか信用しちゃ駄目だよなあ」

 ビルの上で式が言った。

「楡との約束なんて知ったこっちゃねえさ。国会議事堂が潰れようが俺には関係ねえもんな。俺は楽しけりゃいいのさ、どうだって」

 真鉤は身を屈め、生首の一つを拾い上げた。顔をこちらに向ける。

 小守沙也香の顔だった。

「ああ、それね。それは特別。お前の彼女の方にしようかと思ったんだけどさ。お前が家の壁にへばりついて守ってたからこっちにした。隠しカメラだけと思ってもらっちゃ困るんだよね。日本にもスパイ衛星ってもんがあるんだから。昨日やっと使用許可が下りたんだが、もっと早けりゃ死人も少なくて済んだかもなあ。いやあ、全く気の毒なこったぜ」

 真鉤が奈美の家を守っていた間に小守は襲撃されたのだ。真鉤は奈美の命を優先して、小守を見殺しにしたことになる。

「真鉤の件で話があるって言ったらすんなり家に入れてくれたよ。丁度親もいなかったしな。まあ、気にすんなよ。俺も急いでたしさ、拷問なんかかける暇なかったから。手足をちょん切って胴を輪切りにして首を落としただけさ。な、大したことないだろ」

 小守は目を閉じていた。頬に涙の痕を残し、苦痛にしかめた顔は、悲しみに耐えているようでもあった。

 真鉤は彼女に何もしてやれなかった。もしかするといずれは互いに言葉を交わすくらいにはなれたかも知れない。彼女にある程度は納得の行く区切りをつけることが出来たかも知れない。彼女に笑顔を与えるくらいは出来たのかも知れない。或いは、彼女もいずれ他に好きな相手を見つけて幸せに生きることが出来たかも知れない。

 ただ一度、話しただけで彼女は死んだ。死はいきなり訪れて彼女の全てを終了させた。これが、死だ。

 真鉤は何もしてやれなかった。

 せめて、キスだけでも。あの時、そう彼女は言った。

 真鉤は小守沙也香の生首を顔に近づけた。タオルをめくり、冷たい唇に口づけした。血の味のするキスだった。

 これが彼女が救われる訳でもない。ただの、みっともない、感傷だ。

「ハハッ、なるほどねえ、死姦趣味かよ。これまでも死体相手に散々やってきたんじゃねえのかい」

 式が笑った。

 真鉤はタオルを戻して小守の生首を地面に置いた。

 熱い怒りが真鉤の全身で沸き狂っていた。この薄汚い快楽殺人者め。彼女が無残に殺されるだけの何をした。彼女が何故こんな理不尽な仕打ちを受けねばならない。糞野郎。こんな奴の生存を許す訳には行かない。

 しかし、同時に、冷水を浴びせられるような恐ろしい感覚が、心の奥底から這い上がってきたのだった。

 式一三のやったことと、真鉤がこれまでやってきたことはどう違うのか。自分も快楽殺人者で、多くの人を惨殺してきたではないか。真鉤が殺した相手は殺されるだけのことをしてきたと言うのか。真鉤の自分勝手な都合で、彼らはかけがえのない人生を、あっさりと、奪われたのだ。

 式一三の姿は、鏡に映った真鉤夭自身の姿でもあるのだった。

 猛烈な自己嫌悪を抱え、それでも真鉤は動き出した。手近な場所に積まれていた細い鉄筋の束を拾い、片手に数本ずつ持って階段を駆け上がる。式一三は天辺から悠然と下りてくる。真鉤は素通しの床を跳んで抜け、鉄骨を蹴って上へ加速していく。

 だが真鉤は四階で急停止した。慎重に鉄板に着地する。

「やっぱり目はいいんだな。普通だったらそこで真っ二つだよ。単分子ワイヤーって奴でね。金属だって切っちまう」

 六階に下りた式一三が言った。

 建築中のビル内に、極細のワイヤーが張り巡らされていた。鉄骨から鉄骨へ。その幾多の糸の端は何処に収束するのか。式一三の両手は開かれていた。

 式はまだ下りてくる。真鉤もワイヤーの間をくぐって鉄板に上った。

 地上五階で真鉤は式と対峙した。距離は七メートルと少し。

 真鉤は式の力を推し量る。彼の存在自体から特別な強さは感じない。全身が機械だが、十トントラックを押し転がせる真鉤にはさほどの脅威とはならない。問題は、そのボディにどんな最新兵器を内蔵しているかだった。

 式が言った。

「俺の目もなかなか解像度はいいんだ。一億画素のISO一万二千八百ってとこだ。脳の視覚野に直接電極を繋いでるんだが、どうもな、リアリティに欠けるんだよなあ。色合いがね、フィルターかかってるみたいでさ」

 式の両目がカメラであることに真鉤は最初から気づいていた。両手に鉄筋の束を握ったまま真鉤は張り巡らされたワイヤーを探る。見える範囲で三十本以上。位置を覚えておいた方がいい。

「俺は元々技術者でね。三十年近く地道にサイボーグとかロボットの研究ばかりやってたんだが、爆発事故で体が吹っ飛んじまった。自分の研究成果を自分で試すことになった訳だよ。もうマルキの前線で大活躍さ。化け物共を殺しまくってな」

 式はこらえきれぬようにキシシと笑った。その表情は自分で意図して作ったものなのだろうか。

「サイボーグってのは厄介でね。感覚が生身と違う。宇宙服越しに触ってるみたいな感じかな。被験者が文句言ってたが、自分がなってみて初めて分かったよ。舌も人工物だから味もしねえ。学校では食べてたけど胃の代わりにビニール袋があるだけさ。後で中身を捨ててたよ。ああ、触覚ってのは素晴らしいぜ。なくしてから分かった。女の肌の感触も、女の唇の感触も永遠におさらばさ。こうなる前にもっと触っとけば良かったぜ」

 真鉤は静かに殺人鬼の独白を聞いていた。式は歪んだ笑みのまま語り続けた。作り物の舌と唇を動かして。

「だからさ、どうしても、物足りなくなるんだ。普通じゃあな。普通に殺したくらいじゃ何も感じねえ。もっと残酷に、残虐によう。手足がぶった切れて内臓ぶち撒けるくらいじゃねえと、俺は何も感じねえんだ。真っ二つになった脳味噌が飛び出すくらいじゃねえとな」

「良かったですね、君にも脳があって」

 真鉤は初めて言葉を発した。自分でも冷え冷えする声音だと感じながら。

「自分の脳が真っ二つになる感触を、君も味わえますよ」

 表情制御を忘れたのか、式の顔が弛緩して顎が垂れ下がった。

 やがて式は口の両端を極端に吊り上げて大声で笑い始めた。

「ハハッ。面白い奴だな。ハハハッ。あー、面白い。久々に本気で笑ったよ。ハハハッハッ」

 機械の体から殺気が高まっていくのを真鉤は感じ取った。そろそろ来る。来るっ。

 唐突に電子音がメロディを奏でた。携帯はマナーモードにしていた筈だ。真鉤はドキリとする。

「おっと。ちょっと失礼」

 式の携帯だった。右手を制服のポケットに突っ込んで携帯を取り出し片手で開く。腕の動きに釣られ周囲の鉄骨がキシリと鳴った。

「ほいよ、どうした」

 携帯を耳に当てのんびり式が聞く。サイボーグなのだから通信装置も内蔵すればいいのにと真鉤はつまらないことを思う。

 真鉤の耳は相手の声をほぼ完全に聞き取っていたが、内容が信じられなかった。警察を押さえ、無関係の人間まで平気で殺しまくる組織が、こんなにあっさりと……。

「そうかよ。まあ、しゃあねえ。了解だ」

 式は電話を切ってポケットに戻した。

「悪いな。ここからは手を引くことになった。吸血鬼の横槍だ。あいつら政財界にかなり食い込んでやがるからな」

 日暮静秋の関連だろうか。バラバラ殺人のニュースからマルキの活動を察し、日暮に被害が及ばないように圧力をかけたのか。加馬神山の事件から吸血鬼の影をフォローしていたのか、日暮の住む町に近かったからなのかは分からない。

 吸血鬼というのは、政府の秘密組織にまで及ぶ力を持っていたのか。

「命拾いしたな、おめでとさん。ほんじゃ、そゆことで」

 あまりにも気軽に式は言って、階段へ歩いていく。

 拍子抜けしたのは一瞬だった。すぐに安堵に変わり、それは更に別の感情に変質していった。電話の内容が本当なら、自分は政府の組織に追われる心配がなくなり、元の日常が戻ってくることだろう。だが、そのために殺された人達はどうなる。強制的に人生を中断させられた、小守沙也香は。完全な、無駄死にか。彼らを殺したこの殺人鬼を放置して良いのか。

 殺人鬼は一人で充分だ。

 真鉤は式の背中へ駆けながら鉄筋の一本を投げつけた。予想通り反応が遅い。ボディは機械でも操るのは常人の脳だ。鉄筋が学生服を破り式の背中に突き刺さる。だが式は倒れずに振り向きながら両腕を振った。

 キュキュ、キュバッ、という微細な音が四方から近づいてきた。鉄骨も鉄板もぶった切り数十本のワイヤーが迫る。鉄をも切る単分子ワイヤー。足場の鉄板が落ちていく。

 真鉤は跳びながら鉄筋の束を振った。極細のワイヤーを絡め取り……いや、抵抗は感じるが鉄筋の方が削れている。それでも少しはワイヤーのスピードが鈍る。

「ハハッ」

 式の笑い声。足場が崩れかけだったため跳躍が弱い。真鉤は前のワイヤーに削れた鉄筋の束を乗せ、踏みつけて空中で跳んだ。鉄筋がまとめて切れる感触。そして靴が。

 十本近いワイヤーが真鉤の体を削った。左足首が切断され、右太股の肉が削がれ胴に迫るワイヤーを残った鉄筋で払ったが右肩が削れた。背中から抜いた鎌で左からのワイヤーに切りつけるがあっさり刃が折れる。左肘が切断された。右頭頂部がゴソリと削り取られた。厚みは三、四センチか、脳を少し失ったが致命傷ではない。血と肉を散らしながら真鉤は剣鉈を抜いて式に到達……。

 式の体が爆ぜた。轟音と共に真鉤は吹き飛ばされていた。全身に散らばる新たな痛み。無数の何かが体に潜り込み肉を抉ったらしい。

 真鉤は鉄柱に激突した。ずり落ちるが無事な鉄板の床があって地面への落下は免れる。切れた鉄骨が幾つも落ちていきガラガラと派手な音を立てた。折角のビルがメチャクチャだ。周りの住民が見に来なければいいがと真鉤は思う。地上の刑事達が慌てている。

「自動小銃とか機関銃の連射なんて、命中率はあんまし期待出来ない訳。特に動きの速い化け物相手なんかだとさ、弾幕くぐられちゃうからね。命中率を上げるために最も有効なのは、全方向への一斉散弾発射って訳だ」

 式の制服の前面に二十ヶ所以上の穴が並び、微かに煙を昇らせていた。両肩と上腕にも同じ穴がある。おそらくは背中にもあるのだろう。内蔵された散弾発射装置。

 張り巡らせていたワイヤーをキュリキュリと掌に巻き取り終えて、式は右手人差し指を伸ばして真鉤へ向けた。先端に穴が開いている。

 真鉤は低い姿勢で跳んだ。篭もった銃声は指の仕込み銃のものか。衝撃は背中を掠め、真鉤は剣鉈を振りかぶる。

 だが再び轟音がして真鉤は飛ばされていた。鳥獣用の散弾ではなくかなり大型のものだろう。弾頭に細工もしているかも知れない。真鉤は鉄骨になんとか足を引っ掛けてビル外へ落ちるのを防ぐ。体はもう穴だらけだ。顔面にも弾を食らい、右目が潰れて見えない。弾は脳も荒らしたようだ。

「いい根性してるよ。手足ちぎれても悲鳴も上げやしねえ。でもそれだけさ」

 仕込み銃が火を噴いて、動かぬ真鉤の胸に痛みが抉り込まれた。心臓が破壊される。

「鎌神を殺した怪物が、なんともあっけないもんだぜ。まあ、これが人類の知恵って奴だがな」

 式が歩み寄りながら何度も撃ってくる。また心臓、次に腹。潰れて変形した弾丸が内臓をグチャグチャにしていく。戦場で使われる弾丸はフルメタルジャケットと呼ばれ人体を貫通させるものだ。だが式が使っているものは致命傷を与えることを目的としていた。化け物相手の兵器だから当然か。

 頭部に来た。額の中心から後頭部へ抜ける感触。脳の半分ほどが破壊されただろう。真鉤の気が遠くなる。右手の力が抜けて剣鉈が離れる。

「あーあ、終わり」

 横たわる真鉤の目の前に、式一三は立っていた。

「あっけねえよなあ。でもまあ、お返しはしとかないとな」

 式は背中に右手を回して、刺さっていた鉄筋を引き抜いた。勿論血はついていない。

 式は鉄筋を逆手に持ち直し、大きく振りかぶった。真鉤の頭から胸部まで刺し貫くつもりか。

 真鉤が素早く起き上がって反撃したことは、完全に式の予想外だったろう。

 体重を乗せた右掌で式の顔面を叩いた。ギシリ、と金属の軋みを上げて式の首が反り頭が揺れた。配線の切れる音も。

「あ゛られいあ」

 式がノイズ混じりの奇妙な声を出した。もう一発。真鉤が式の頭を叩くと同時に轟音が爆ぜた。全身に散弾を食らって後ろに飛ばされるが鉄柱に背中が当たって止まり、すぐ駆け戻る。切れた左足首で鉄板を蹴って。

 勢いをつけて三度目の打撃。同じ角度から同じ場所を狙い、式の首が反る角度は大きくなっていた。また内部のコードが切れる音。カクンと式の左手足の力が抜け、左へ倒れ込む。鉄板の横から落下しそうになるのを真鉤が右手を掴んで止めた。モーターの空回りするような微かな震動を感じる。式の右手足も無意味な往復運動を繰り返すだけだ。

 常人の生身の脳。神経と接続した電極。命令を伝達する電子回路。強い衝撃によってそのどこかにダメージを与えられると真鉤は見込んでいたのだ。

 式の体を鉄板の上に転がし、真鉤は落ちていた剣鉈を右手で拾い上げた。横たわる式の目は真鉤を追っていた。まだ意識はあるようだが、機械の目はどんな感情も伝えられない。

 予告通り、真鉤は剣鉈を式の頭に振り下ろした。ギャジッ、と硬い音をさせ、右側頭部から入った刃は頭部の半ばほどまでめり込んで根元で折れた。

 そのうちに刃を伝って透明な液体が零れ、鉄板に滴り落ちた。嗅ぎ慣れた、脳脊髄液の匂い。

 式一三は、もう、動かなかった。

「君の勝ちです」

 なめらかな声がした。真鉤が振り返ると楡誠が立っていた。いつからいたのか。真鉤にも気配を感じさせずに。

 楡の足は、何の支えもなく宙に浮いていた。

「式君がルール違反をしたので少し手助けしようかとも思ったのですが、その必要はありませんでしたね」

 真鉤自身はルール違反をしていない。勝負の約束をして、マルキ側が一方的に撤退しようとしたが結局勝負は行われ、決着はついた。後のことは、楡と吸血鬼の影響力次第だろう。

 楡に近い鉄板の上に幾つもの肉塊が載っていた。鋭利な刃物で削ぎ落とされた肉と、一本の腕と中身の入った片方の靴。

 切断された真鉤の部品だった。

「どうぞ。拾っておきましたから」

 楡は微笑した。真鉤は足を引き摺ってそちらへ渡り、体の部品を元の場所にくっつけていく。濁っていた意識も回復し、心臓の鼓動も再開していた。相変わらず、自分は化け物だと真鉤は思う。

「それではまた明日。学校生活が平和であればいいですね」

 楡がそう言って背を向けた。空中を歩いて遠ざかり、夜の闇に溶けていく。真鉤は声をかける気にもなれなかった。

 ただ、冷えた心で、真鉤は自分のパーツを繋ぎ合わせた。式の死体も含めてこの後始末はどうなるのだろう。マルキが全て片づけるのだろうか。

 階段を歩いて地上に下りる頃には、真鉤の右の視力も回復していた。

 小守沙也香の生首はそのままあった。それを持ち帰る訳にも行かない。真鉤は心の中でさようならを告げた。情けないことに、彼に出来るのはそれだけだった。

 覆面のタオルも服もズタズタの怪物を、刑事達は呆然と見守っていた。予定にない結末に彼らは動揺しているが、逃げ出すことも出来ないようだ。それが職務なのだろう。

 黙って去るつもりだったが、気が変わった。

「あなた達は人殺しを手伝った。警察として恥ずかしいとは思いませんか」

 真鉤の問いに警官達は黙って目を逸らした。刑事が弱々しい声で言った。

「分かってるが、仕方がないんだ。逆らったら消されてしまう。養ってる家族もいるんだ。生きるためには、仕方がない」

「生きるためには仕方がない、ですか。僕と同じですね」

 真鉤は刑事達を置いて闇の中へ駆けた。

 

 

  エピローグ

 

 国会議事堂が倒壊したことを真鉤夭は朝刊で知った。午前一時頃に生じた亀裂が建物全体に広がっていき、午前二時丁度に粉々になって崩れ落ちたという。

 楡誠は宣言した通りのことをやってのけたのだ。得体の知れない男だが、彼のことは特に問題ではない。

 問題なのは、真鉤自身のことだ。

 真鉤は地下室で大型の焼却炉を見つめていた。今は何も入ってはいない。隠しカメラが仕掛けられてからは自宅に犠牲者の死体を運び込むのを控えねばならなかった。四月中旬のノルマは休日にJRで別の町に行き、ヤクザの男を一人殺した。死体は林に埋め、まだ発見されてはいない。

 昨日式一三を殺したので、また二週間持たせることが出来るだろう。

 だが……。

 真鉤は式のことを思い出す。あの快楽殺人者に真鉤は殺意を覚えた。こんな奴を生かしてはおけないと思ったのだ。

 でも、その式一三と自分と、何処が違うというのか。

 建設中のビルの倒壊と轟音については小さく記事があるが原因不明となっているだけだ。転がっていた生首については記載がなく、どのように処理するのかはまだ分からない。マルキの新たな襲撃もなく、やはり追及は中止されたのだろう。

 でも、この真鉤夭は、この世から消し去るべき存在ではないのか。

 再び焼却炉を見る。ここで焼くべきは犠牲者の死体ではなく、真鉤自身ではないのか。両親を殺し、大勢の人を殺してきた殺人鬼。焼却炉に入り、灯油をかぶって自殺を試みたのはいつのことだったか。

 玄関の呼び鈴が鳴った。藤村奈美が到着したのだ。真鉤と一緒に登校し、いつもの学校生活を送るために。また真鉤の分の弁当も作ってくれているだろう。

 彼女に平手打ちされたことを思い出した。焼却炉が開いて光が差し込んできたのだ。燻っている真鉤を見る奈美の顔は、本気で怒っていた。真鉤を叩いたあの手。熱かっただろうに。

 真鉤は小さく息をつき、階段を上っていった。奈美を出迎えなければならない。

 そして彼女と、日常を生きよう。

 

 

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