第一章 屍獣の島

 

  一

 

「緊張しているのかね」

 闇の中から声が響いた。ゾクリとするほどになめらかで、完璧に調整された声音。威圧的ではないが、聞いた者は余程鈍感でない限り、湧き上がる畏怖に魂を震わせるだろう。

「はい」

 真鉤夭は正直に頷いた。右隣のシートに座る日暮静秋も同じらしく、浮かべた苦笑は幾分ぎこちない。奇妙なことだ。闇の奥にいる存在は、日暮の実の父親だというのに。

 だが、それは本当に、生き物、なのだろうか。

 日暮家が所有する自家用ジェット機は殆ど揺れずに高速飛行を続けていた。丸い窓の外を白い雲海が流れていく。機内は広く、真鉤達と向かい合う相手との間には、仕切りがある訳でもカーテンで遮られている訳でもない。電灯も点いているし実際のところ、今はまだ昼間だった。

 ならば、日暮冬昇を包むこの闇は何処から来ているのだろう。

 挨拶はしたが姿が見えない。気配は闇に溶けて正確な位置も分からない。身長も体重も推定不能。年齢も不詳だ。吸血鬼は長命らしいから、ひょっとすると千年以上生きていたりするかも知れない。もし戦わねばならないとしたらどうやって倒すのか、真鉤は想像がつかなかった。

「得体の知れない相手だと、思っているだろうね」

 真鉤の心を読んだように闇が言った。真鉤が否定も肯定も出来ずにいると、闇が続けた。

「しかし、実際には私を包むこの闇は、私の弱さの証なのだよ」

 声は僅かに苦笑しているようだった。

 下手に取り繕うのは危険だと判断し、真鉤はやはり正直な感想を述べた。

「でも、全然弱そうには見えないですけれど。……あ、見えないではなくて、感じない、ですが」

 言ってから真鉤は右隣の日暮静秋の表情を確認する。彼は意味ありげに片眉を動かしてみせたが、それがどういう意味なのか、真鉤にはさっぱり分からなかった。日暮はいつもなら軽口や皮肉を飛ばすのに、今は父親の前で窮屈そうだ。いや、もしかすると真鉤が緊張しているために、日暮の目配せの意図を読みきれないのだろうか。

「……年を取るごとに、日光に弱くなってしまってね。だから昼間は常に闇を巻いている」

 闇が言った。

「一度など、不注意で日光に晒した腕が丸ごと溶けてしまった。元通りになるまで二百年ほどかかったな。人工的に照射された紫外線では問題ないのだ。太陽の光に何か特別な成分が含まれているのか、今も研究中だ。或いは、心理的な要因かも知れないとも思っている。夜の生物の自覚、太陽に対する根源的な恐怖が、自分の細胞を傷つけているのではないかとね」

 二百年か。とすると実際に生きた歳月はもっと長いのだろう。伝説の通り、吸血鬼は永遠に生きるのだろうか。日暮静秋もそうなのだろうか。そしてやはり日光に弱くなっていき、太陽を肉眼で見ることが出来なくなるのだろうか。

 ふと真鉤は気づく。日暮の恋人は普通の人間だ。当然彼女の方が先に死ぬ。日暮はその後の人生を、ずっと独りで生きることになるのだろうか。

 真鉤は藤村奈美のことを思う。彼女は遺伝的に悪性腫瘍が出来やすく、おそらく長くは生きられない。真鉤はその後、どうすればいいのだろう。彼女のために生きると決めたのだから、彼女を失ったなら自分は一体何のために生きればいいのか。真鉤は急に焦燥感に突き上げられる。

 それにしても日暮冬昇は自分の弱点をあっさり話してくれた。初対面なのに。真鉤が敵になっても軽くあしらえると思っているためか。それとも、息子の友人ということで信用してくれているのだろうか。

 真鉤は一つ、尋ねてみたくなった。

「不躾で申し訳ないですけど、聞きたいことがあります」

「何かね」

「吸血鬼でいることを、辛いと感じることはありますか。普通の人間に生まれれば良かったと、思うことは」

「ないな」

 闇は即答した。声音は腹を立ててはおらず、感傷に浸る様子でもなかった。

「やりたいことをやるのに夢中でね。そんなことを考えている暇などないな。私は幸福だよ。出来のいい息子にも恵まれたしね」

「褒められると後が怖いな。とんでもない仕事をやらされそうだ」

 日暮静秋が父親に精一杯の皮肉を述べた。

「そうだな。今日のとは別に一つ案件があった。近いうち、夏休みの宿題として静秋にプレゼントしてやろう」

 とんだ藪蛇になってしまい、日暮は顔をしかめた。こんな冗談を飛ばすところを見ると、冬昇は意外に気さくな人なのかも知れない。……いや、冗談交じりだが本気でやるつもりなのだと真鉤は気づいた。

 やりたいことをやるのに夢中、か。前向きな単純明快さが真鉤には心地良かった。

 しかし、真鉤が前を向いたところで、先に何があるというのだろう。

 闇が言った。

「真鉤君。静秋は友達の少ない子だから、どうか末永く仲良くしてやってくれないか」

「なるべく、そうなればいいと思っています」

 当の日暮がどう思っているかは別にして。

「静秋とは一度やり合ったそうだね。引き分けだったとか。いい関係じゃないか」

 闇がまたさらりと問題発言をする。二人が病院の廃墟で戦ったことを知っているらしい。あの時、藤村奈美と南城優子が止めに入らなかったら、どんな結末になっていたろうか。

「原因は僕の方にありました。それと、引き分けというか……決着がつく前に中止になりましたので」

 真鉤の後で、ぶすくれ顔の日暮が念を押した。

「俺は言ってないからな。どういう情報網を持ってんのか知らんが、大概のことはバレちまってんだよなあ。親父殿は、俺のキープしてる血液提供者の美人ランキングまで勝手に作ってくれる始末さ」

「息子を温かく見守るのは父親の役目だからね」

 闇の中で、彼はどんな顔をしてそんな台詞を吐いているのだろう。

 主な情報源はあの人狼の執事じゃないのかと真鉤は思う。幸いにというべきか、今日は執事が同行していない。日暮がお守りつきを嫌がったのもあるが、自力でやらせようというのが日暮冬昇の趣旨だった。

 真鉤は尋ねてみた。

「あの、今回協力すれば、貸し借りなしの和解成立ということでしたね。でも、もし僕らが失敗した場合はどうなりますか」

「それに関しては心配無用だと言っておこう。絶海の孤島だからね。相手が海を泳いで逃げない限り、失敗は即ち君達が死亡したということだ。死んでしまえば後のことを心配する必要はないだろう」

 ひどいことを言っているという自覚が彼にはあるのだろうか。長く生き過ぎたために人の死が日常化してしまったのかも知れない。その意味では、真鉤と同類ではある。

 闇が続けた。

「万が一海に逃げられた場合は、君達の責任ではない。改めてマルキと協議することになるだろうな」

「そうですか」

 出来れば今回だけで後腐れなく片をつけたいが。

「マスター。八久良島が見えました」

 操縦士が報告する。

「そうか。お二方、到着のようだ」

「さあて、いよいよか。父親によって死地に放り込まれるなんて、スパルタ教育はきついね」

 日暮の愚痴に、苦笑を含む声で闇が応じた。

「逞しく育って欲しいという愛情故だよ。獅子は仔を谷底に突き落とし、這い上がったものだけを育てるというだろう」

「いやそれ違うから。あれは自分の仔じゃないのを始末して、雌に自分の仔を産ませるためらしいよ」

「そうか。しかし安心しなさい、静秋。君は私の子だよ」

 闇にまぜ返され、日暮は溜め息をついた。真鉤はやり取りを見守るうち、これはこれで良い親子関係になっているような気がしてきた。

 少なくとも、殺し合うような親子関係よりはよっぽどましだ。

「ではそろそろ出たまえ。左の昇降口を開ける」

「えっ……と」

 何か表現がおかしくないか。真鉤は横の日暮を見る。向こうもげんなりした顔で見返してくる。

「島には飛行機の発着場もなくてね。飛び降りるしかないのだよ。帰りはマルキが船で送ってくれるだろう」

 平然と闇が告げた。力なく日暮が尋ねる。

「パラシュートは」

「ほう、要るのかね」

 闇はわざとらしくとぼけてみせた。これは相当のスパルタだ。とんでもないことに巻き込まれたものだと真鉤は思う。

 いや、この状況は真鉤の自業自得なのだ。巻き込まれたのは日暮の方だった。

「扉をアンロックしました。気をつけて下さい」

 コックピットから操縦士が伝えた。ジェット機は雲を抜けて降下しているようだ。少し減速も感じるのは操縦士の配慮だろう。

「では、色々とありがとうございました」

 真鉤は立ち上がって日暮冬昇に一礼した。

「うまくいくことを祈っているよ」

 闇の中から届く声に、真鉤はほんの僅かだが優しさを感じ取っていた。

「海なら少しはましか。替えの服を持ってくりゃ良かったぜ」

 日暮が左の壁に歩み寄り、昇降口のドアを開けた。気圧差で生じた風に彼の髪が激しく踊る。日暮冬昇を包む闇は揺らぎもしない。

 真鉤も近づいて昇降口から顔を出し、進行方向に目を向けた。深い青色に煌めく海に、三日月形の小さな島が浮かんでいる。陸地の大部分は森林だ。右端に港があり小さな漁船が幾つか停泊している。少し離れて大型の白い船も見える。巡視船だろうか。

「お先にどうぞ。花道は譲ってやるよ」

 日暮の台詞に真鉤はつい苦笑した。

「じゃあ、そうさせてもらおう」

 真鉤は昇降口の縁を蹴り、荒れ狂う風へ飛び込んだ。

 姿勢を保つつもりだったが一瞬で裏返る。視界の隅に離れていくジェット機と、優雅に空中へ踏み出す日暮静秋が見えた。回転しながら真鉤は思う。自分は落ちているのだろうか、それとも飛んでいるのか。飛行機の速度があるのだからわざわざ跳んだりせず、日暮みたいに普通に降りるべきだった。

 着水の衝撃で死ぬことはないだろうが、減速した方が無難だ。真鉤は手足を広げて空気抵抗を強めようとした。何度かフラついた後で俯せ状態を維持出来るようになった。風が体の前面と鼓膜を叩く。前に飛びながら次第に降下していく。島は左前方に見えた。まだ遠い。一キロほどか。青い海面が迫ってくる。このまま着水すべきか迷う僅かな時間の後、真鉤は身を丸めて海中に潜っていた。背骨の軋む衝撃と飛沫の上がる爆発音。音はすぐに水中の篭もったものに変わる。海水は意外に冷たかった。

 すぐに目を開ける。海は深く暗く、真鉤は父親に沈められた時のことを思い出した。旅行中だった。寝ている間に手足を縛られて、冬の湖に投げ込まれたのだ。体の芯まで凍りつきそうな冷たさと、濁った水の奥で木に藻が絡んでいたのを覚えている。あれはいつのことだったのだろう。小学二、三年の頃か。あの時と違い水を飲み込んではいないし、小さな魚の群れが動いているのも見える。真鉤は上を目指して手足を掻いた。

 海面から顔を出すとビジャジャジャッ、と水音がした。丁度着水した日暮が海上を跳ね転がっていくところだった。かっこ良く落ちるつもりだったのだろうが、水平に投げた石が水面をバウンドしていく現象を人体でやってしまっている。手足や顔を水面にぶつけながら二十メートルほども転がり滑った後、日暮は漸く沈み始めた。後でからかうネタが出来たなと真鉤は思う。

 衣服が海水で濡れてへばりつく。動きに支障はないが不快だった。島へ向かって泳ごうとして、真鉤は船が接近していることに気づく。

 船の甲板から男達が手を振っていた。投げ落とされたロープつきの浮き輪を真鉤は掴んだ。

 

 

  二

 

 ヘリコプター搭載型巡視船『いざなみ』は、実質的にはマルキの海上活動船だった。拾い上げられた真鉤と日暮は客室に案内されてまずシャワーを浴びた。携帯してきた剣鉈は真鉤が持っていたいと言うと、無理矢理取り上げられることはなかった。信用されているらしい。

 衣服は乾かされてすぐに返却された。同時に提供されたものは黒いプロテクトスーツだ。衣服の下に着込める薄さで手首足首までを覆い、防弾・防刃・保温効果があるという。ただし、ライフル弾までは防げないらしい。真鉤は不要な気もしたが、折角なので着ておいた。マルキと和解するために来たのだから、こちらも相手を信用していることを示さなければならない。

 プロテクトスーツは肌触りがなめらかで、蒸れることもなかった。

 案内と説明をしてくれた船員はやはりマルキの構成員なのだろうが、まだ若く、穏やかな口調で話す普通の人に見えた。これまで真鉤はなんとなく、邪悪で冷酷な相手を想像していた。マルキのサイボーグ・式一三は、クラスメイトとして真鉤の高校に入り込んで不必要に何人も惨殺した。そういう狂った組織がマルキだと思っていたのだ。

「コーヒーでも飲むか」

 日暮は勝手に棚を漁っている。彼は黒いTシャツに黒ジーンズという服装だったのだが、プロテクトスーツがシャツの袖からはみ出してしまうため、船員に言って白い長袖シャツを貸してもらった。身長百八十一センチ、痩せ型だがちょっとした動作のそれぞれがしなやかで力強さを感じさせる。いざとなれば彼が豹よりも素早く動くことを真鉤は知っている。艶のある黒髪をナチュラルに泳がせ、西洋の血を引いた白く彫りが深い顔は、整っているが何処か危険な暗さを含んでいた。そんなつもりはないのだけれど、真鉤も日暮の容姿にはついコンプレックスを感じてしまう。そして、日暮は誇り高い吸血鬼で、真鉤の方は定期的に人を殺さずにはいられない、薄汚れた殺人鬼だ。

 真鉤は自分の体格から顔立ちまである程度調節出来る。目立たぬように平凡に、何年も前からいじってきたから、もう自分が本来どんな顔になる筈だったのか分からない。『狩り』の間だけ顔と体型を変えていれば、万が一目撃されても身元がばれる可能性は低くなるだろう。だが、頻繁に顔を変えてうまく戻せなくなるのも怖いので試したことはない。

 中肉中背、何処にでもいそうな特徴のない顔の、地味なファッションの男が真鉤夭だった。それでいい、そんな生き方しか出来ないのだからと、思ってはいるのだけれども。

 人の気配が近づいて、ドアがノックされた。

「どうぞ」

 真鉤は剣鉈を背中に戻して返事する。革製の鞘はシャツの中で斜め下向きに固定し、右手を腰に回せば一瞬で引き抜けるようになっている。

 顔を出したのはさっきの若い船員だった。

「そろそろよろしいですか。現場責任者がお待ちしております」

「コーヒー飲んでからでいいかな」

 日暮が言うと、船員は微笑した。

「飲み物と菓子も用意しておりますので」

「そうか。なら行こう」

 日暮は泰然とした態度で頷く。着水時のあれを思い出して真鉤は吹き出しそうになったが、心を読まれたみたいに日暮からきつい視線を送られる。多分、日暮もあれを気にしていたのだろう。

 案内された先は応接室だった。地球儀や風景画が飾られているが豪華というほどでもなく、それほど広くもない。

 三人の男が待っていた。一人は最初からソファーの横に立ったままで、座っていた二人のうち一人は立ち上がって真鉤達を迎えた。

「よく来てくれましたね。私はマルキの現場調査官・伊佐美界です」

 その男は四十才前後だろう。虚弱で繊細な印象で、戦場の指揮官としては不相応に思えた。地味なスーツを着ているが、普通のサラリーマンと違うのは大型の濃いサングラスが目元を覆っていることだ。

 そのサングラスの奥にあるべき目も眉もなく、平らな皮膚になっていることを真鉤は見通していた。傷が癒合した痕もないので生まれつきのようだ。視覚の代わりに特殊な力を持っているのだろうか、微かながら、チリチリとした奇妙な感触の何かが伊佐美から発せられていた。

 伊佐美の隣に座っていた中年男は黒い制服に肩章がついていた。多分この船の船長だろう。ソファーの横に立つ男は隙のない佇まいで、船員より殺し屋という雰囲気だ。高校教師として潜入したマルキの構成員・清川を真鉤は思い出した。

「日暮静秋だ。正直なとこ俺はマルキが大嫌いでね。歓迎会は要らないぜ」

 日暮は言いたいことを言ってさっさと手前側のソファーに座り、伊佐美を苦笑させた。船長らしき男は口をへの字にして渋い表情だが、これが地顔かも知れない。

 少し首をかしげて伊佐美が尋ねた。

「残念ながら歓迎会をする暇はありませんね。それで、真鉤君は今どちらに……」

「真鉤夭です」

「えっ」

 真鉤が名乗ると伊佐美は面食らったように一瞬首を反らせた。両腕を真鉤の方に伸ばす。真鉤は握手を求めているのかと勘違いしたが、掌を探るように向けてくるのは何か別の意図があるようだ。

「……なるほど。現実にも感知出来ないんですね。あ、失礼しました。どうぞかけて下さい。まだ立っていたらですが」

 手を下ろして伊佐美が言った。

「はあ」

 真鉤は頷いて日暮の横に座る。伊佐美も元の位置に腰を下ろした。

 意識して気配を絶っているつもりはなかったが、伊佐美の驚き様は真鉤にも意外だった。感知出来ないとはどういう意味だろうか。

「私はサイコメトラーと呼ばれるタイプの超能力者です」

 伊佐美が解答を告げた。

「物や場所に記録された過去の出来事や、関連した情報の一部を私は読み取ることが出来ます。マルキにおける私の役割は、危険な生物が目撃された現場や犠牲者の死体を調べ、対策を立てることです。加馬神山の鎌神についても、事件の翌日に私が調べました」

 サイコメトラーについては真鉤もテレビで見たことがある。行方不明者の捜索や殺人事件の犯人特定を要請され、どんな場所にいるとかいつ発見されるとかを曖昧に説明するのだ。番組では尤もらしく演出していたが、真鉤はヤラセではないかと思っていた。本当にそういう超能力があるのなら、世の中に未解決事件などないだろうし、真鉤もとっくに捕まっているだろうから。

 しかし、この伊佐美という男が本物であるのなら。鎌神という言葉を聞いて真鉤はドキリとした。修学旅行のバスを襲った人食いの雪男達。真鉤達の学年が一クラス減ったのは奴らのせいだった。

 伊佐美は弱々しく苦笑して続けた。

「……あの洞窟で、神経をやられましてね。私が入院していなければ、島本らが君の高校で無用な殺人を犯すこともなかったのでしょうけれど。その意味では色々と、申し訳ないと思っています」

 あの洞窟とは、鎌神達が食料を蓄えていた場所か。殺した人間を逆さ吊りにして燻製を作っていた。藤村奈美を攫われ、真鉤はあの薄暗い血みどろの洞窟で鎌神と殺し合ったのだ。

「島本とは」

 聞き覚えのない名前だったので真鉤は尋ねてみた。

「ああ、高校では偽名を使っていたでしょうからね。サイボーグの男です。少年タイプのボディで学生として潜入していた筈です」

「式一三、ですね」

 真鉤は頷いた。

「君達に分かって頂きたいのは、マルキは殺しを好む悪の組織ではない、ということです。ただし、マルキに要求される業務は過酷で危険なものです。結果的に、ああいったタガの外れたような者達でないと生き残るのが困難ですし、長くやっているうちに歪んでいく者も多いのです」

「で、マルキの構成員がいずれマルキの捕獲対象になる、と」

 日暮の皮肉に、伊佐美はまた陰鬱な苦笑を浮かべた。船長らしき男と立っている男は無表情のままやり取りを見守っている。

「確かにそういう事態も皆無ではありません。構成員の一部は自身が希少生物として登録されていますしね。様々な問題を抱えていますが、マルキの活動は社会の安定には必要なものなのです」

「罪もない人を何人も惨殺しても、社会のためになっているということですか」

 伊佐美の最後の台詞にピリッと反発を覚え、真鉤はつい口に出していた。和解しなければいけないというのは分かっているのだけれど。

 同時に真鉤は後ろめたさも感じていた。自分自身も罪もない人達を殺してきたのだから。それも社会のためでなく、自分が生きるために。

 目元の表情というものがないため、伊佐美の内面は読み取り辛かった。数秒の沈黙の後、彼は答えた。

「その通りです。マルキは社会に役立っています。汚れ仕事ですが、綺麗事を言うだけで何もしないのでは社会は守れませんからね」

「いっそのこと公開しちまったら。この世界には吸血鬼もいますよ、雪男も狼男も人食い鬼も超能力者も、サイボーグだっているんですよってね」

 少々投げ遣り気味に日暮が突っ込む。

 伊佐美は首を振った。

「今の段階ではそれは不可能です。『普通の人間』の劣等感というものを、君達は想像出来ないでしょうね。自分達より優れた種族、強い生物の存在を大半の人間は許さないでしょう。恐怖し、疑心暗鬼に陥り、彼らを全力で排除しようとします。人間社会に混じってひっそりと暮らしていた者達も迫害され、虐殺されるでしょう。また、そういう規格外の存在、特別な存在が好き勝手に生きていると思えば、人は社会のルールを守って真面目に働くのが馬鹿らしくなるでしょう。ドングリの背比べの中で、努力すればそれなりに報われると信じているから、人は自分を支えていられるのだと思いますね。まあ、今の日本は格差社会になりつつありますが」

「そんなもんかねえ」

 日暮はソファーにだらしなく背を預け、自分の顎を撫でる。

「そんなものですよ。国際的な協定もありますから日本だけが勝手に公表することも出来ませんし。ちなみに日暮冬昇氏もこの協定に関与していた筈です。……それから、マルキは特殊な生物を手当たり次第に殺害している訳ではありません。調査の結果、無害と判断して経過観察としたり、緩い制限と監視下で生活してもらっているようなことも多いのです。今回、真鉤君にはそんな立場になってもらいたいのですがね」

 真鉤を経過観察、という訳ではないだろう。制限と監視、ということか。更には、マルキの手先としてこき使われることにならないか。今回の件でうまく縁が切れればいいのだが。

「話を戻しましょう。私が鎌神の死体を調べた時、鎌神を殺したというチェーンソー男に関する情報を殆ど感じ取れませんでした。今、現実に君を前にしても、やはり君に関する情報は感知出来ません。存在を隠蔽するような、特殊な才能を君は持っているようですね」

「はあ……」

 真鉤は気配を絶つことは得意だが、サイコメトラーにもばれずにいられるとは知らなかった。だが、目の前にいても全く読み取れないとすればそれは異常であり、伊佐美は真鉤を常人と見分けられることになる。

 ドアがノックされ、若い船員が盆を持って入ってきた。紅茶と菓子をローテーブルに並べていく。日暮は早速自分のティーカップに角砂糖を入れた。

「さて、ではそろそろ本題に入りましょう。ああ、どうぞご遠慮なく」

 伊佐美は言いながら自分もティーカップを持った。すんなり取っ手に指を入れるところを見ると、サイコメトリー能力で物の位置なども把握出来ているらしい。

「八久良島の警察から緊急事態の通報がなされたのが二日前の十三時です。警視総監経由で出動要請があり、いざなみの出港準備をしている間に偵察機を飛ばしました。十七時時点で確認されたのは、島を徘徊する種別不明の大型獣と、不気味に痙攣している住民達の死体でした」

「痙攣してるならどうして死体なんだ」

 日暮の突っ込みに、伊佐美は穏やかに答える。

「首がないのに生きているとは呼べませんからね。また、腕や足だけで動いているものもありました」

「ゾンビ、ですか」

 真鉤は尋ねた。吸血鬼や狼男がいるのなら、ゾンビが実在してもおかしくないだろう。

「どうでしょうね。ゾンビにも幾つかタイプがあります。ハイチの魔術師などが薬物を使って操るタイプは医学的には生きていますし、感染することもありません。死体に霊的なものが憑依して一時的に動き出すことはありますが、これも集団発生することは考えにくいですね。感染するタイプ、一般の人が描くゾンビのイメージに近いものも存在はします。体内で増殖した細菌が中枢神経系を支配して、動くものを襲わせ噛みつかせるのです。ただ、感染者が死亡後も動き回れるのは精々数日ですし、頭部を失っても動き続けることはありません。今回は感染源の獣もいますから、未知の現象と捉えておくべきでしょう。暫定的にこの獣を『未特定1854』と呼んでいます。ビデオを」

 伊佐美の指示に、立っていた男がリモコンを操作した。棚に収まっていた大型の液晶テレビが映像の再生を始める。島を上空から撮ったもので、住宅街とそれを貫く広めの道路が映っている。

「これは昨日の午後四時にヘリで撮影したものです。死体もまだ動いています」

 伊佐美の説明する通り、路上を幾つかの影が動いていた。その一つにカメラがズームする。ランニングシャツを着た男だった。倒れているのに歩くように足を動かし続けている。アスファルトですり切れた足首に血がついていた。

 男の胸部から上は、左肩付近を残して消失していた。十メートルほど離れた場所に大量の血痕が残っているのを見ると、死んだ後でここまで移動したらしい。血痕は乾きかけていた。右腕の上腕半ばから先はちぎれて近くに転がっている。これもヒクリヒクリと肘と手首の曲げ伸ばしを繰り返していた。

 カメラは一旦引いて、街並みを映しながらヘリが移動していく。人間の残骸がポツポツと転がっている。五体満足なものはなく、大型の獣に食い散らかされた後のようだが、それぞれがヒクヒクと無意味に動いているのが不気味だった。

 映像内の死体は二十以上あった。獣は複数いるのか。一頭だけだとすれば、相当の大食いということになりそうだが。

 編集されたものらしく突然映像が切り替わる。森の中からピンク色の何かが現れて、ノソノソと民家の間を歩いていく。

「これが未特定1854です」

 見えていない筈なのに、伊佐美はタイミング良く告げた。

 それは、動く肉の塊だった。幅三メートル、体重は一トン以上あるのではないか。アメーバというほどにドロドロではなく、丸く膨れた胴体に頭部と脚が識別出来る。ただ、明らかにおかしいのは、頭の形も、脚の生えている位置も左右非対称でデタラメなことだった。

「デッサンが狂ってるな」

 日暮が感想を述べた。

 獣に体毛はなく、皮膚はケロイドのような凹凸があった。色は一定でなく、ツギハギしたみたいに部分部分で微妙に違っていた。脚は六本、いやうち一本は尻尾だろうか、ウネウネと揺れる先端には鉤爪のようなものがついていた。脚は先だけでなく途中からも爪が生えている。

 半開きの大きな口は、頭部をはみ出して短い首を経て胴体まで続いていた。どういう顎の構造になっているのだろう。歪んだ口から鋭い牙の列が見えた。

 この歪んだ獣を見ていると、真鉤は不快な記憶が呼び起こされるのを感じた。人間の皮を脱ぎ捨てて、腕を増やして戦った男。ヌラヌラと湿った肉の塊の怪物。

 日暮がそれを口に出した。

「あいつを思い出すな。あの偽刑事」

「大館のことですか」

 伊佐美が反応した。

「やはり彼は君達のところに行ったのですね。ということは、彼は死にましたか」

 もしかして、とは思っていたが、大館千蔵もマルキだったらしい。執拗に真鉤を追い、目的のためには手段を選ばなかった男。それも正義のためではなく、自身もまた化け物であるという同族嫌悪のためだった。

「ええ。僕の友人を拷問にかけて片目を潰すようなクズでしたが、自分も燃えカスになりました」

 真鉤はつい憎悪を滲ませてしまった。日暮がチラリとこちらを見る。

 伊佐美は表情を変えずに言った。

「そうですか。ご友人はお気の毒ですが、大館の活動はマルキの指示ではありません。マルキの構成員でしたが、モンスターを残らず抹殺すべきだと主張して、勝手に組織を離脱した男です。……矛盾ですね。人外を皆殺しにしたところで、自分が人間になれる訳でもないのに」

 皮肉ではなく、伊佐美は本心からそう思っているようだった。見下している感じでもないのは、伊佐美も自身を人外だと認識しているためだろうか。

 当時の大館がマルキでなかったというのは、ひとまず信用して良いかも知れない。マルキの指示であったのなら、「必要だからやった」とさっきのように淡々と語れば済むことで、伊佐美は敢えて誤魔化したりしないだろう。だが、真鉤はやはりマルキに対する嫌悪感を拭い去ることが出来なかった。

「失礼しました。再生を続けて下さい」

 一時停止して待っていた男に伊佐美が告げた。

「戦闘向けのエージェントを四人、島に投入しました。三人が通常の戦闘用サイボーグで、一人はユニオン・タンクです」

 場面が切り替わっていた。やはり空からの視点だが、大柄な男達が同じ方向に走っていく。それと一台の、饅頭のような形の小さな装甲車。幅は縦も横も二メートルほどで、悪路対策だろうか、キャタピラではなく球形の特殊なタイヤだった。窓らしきものは見えないが、車体には幾つも小さな穴や出っ張りがある。

 伊佐美が説明した。

「人が乗り込むタイプの戦車ではなく、これ自体が一人のサイボーグです。人間の形に似せることを放棄した代わりに、強力な兵器を搭載することが出来ます。ただし、体性感覚が人間と全く異なり特殊な情報処理を必要とするため、殆どの人間は適応出来ません。成功しているのは彼一人です」

 三人と一台、いや四人は互いに微妙な間隔を保ちながら走っている。おそらくユニオン・タンクはもっとスピードが出るのだろうが、仲間に合わせているようだ。カメラが動き、彼らの先を逃げる肉塊を映した。

 と、未特定1854が突然反転して、マルキの追っ手へ向かっていった。サイボーグ達は扇状に散開しながら待ち受ける。伸ばした人差し指を獣に向けているのは、式一三のように銃が内蔵されているのか。

 標的との距離が二十メートルほどになった時、サイボーグ達は少しずつタイミングをずらして攻撃した。ヘリから距離があるため音は聞こえないが、指先からの小さな煙が発射を示す。獣がそのまま直進してくるのを確認して、一人が抱えていたバズーカ砲のようなものを発射した。飛び出して瞬時に広がったのは網だ。獣は一瞬怯んだかと見えたがすぐに駆け出し、全身を網に包まれた。

 転びかけた獣に容赦なく弾が撃ち込まれていく。ユニオン・タンクからは全金属製の銛が何本も発射され、獣の胴を貫いた。銛とタンクはワイヤーで繋がっていた。タンクが後退して獣を引き摺り倒す。

 クッキーを食べていた日暮が「おっ」と言った。

 網に絡みつかれたままで獣が立ち上がったのだ。大口径弾による幾つもの傷口から血を流していたが、獣が弱っている様子はなかった。

「この時点で既に麻酔弾が五発命中しています。一発でも数秒でアフリカゾウを昏倒させる威力なのですが……」

 伊佐美が喋っている間におかしなことになっていた。網は強靭な材質らしく、ちぎれずどんどん肉に食い込んでいく。その網で切られた肉が、はみ出した部分でまた繋がっているようなのだ。この怪物の体はどんな構造になっているのか。

 鉤爪の生えた脚の一本が網目をすり抜け、二本抜け、三本目が抜けた時にタンクから何かが発射されたようだ。派手に血と肉片が散り、獣の胴に大穴が開く。

「ここでエージェント達は生きたままの捕獲を諦め、対象を戦闘不能にすることを最優先としました。構成員を無駄に死なせる訳にもいきませんので、現場が危険と判断すれば臨機応変に方針を切り替えられるようにしています。しかし……」

 サイボーグ達がよろめいた。一人は人形のように後ろざまに倒れる。ユニオン・タンクの側面にも大きな凹みが出来ていた。刺さっているのは白い骨らしきもの。

 それが獣の肉から飛んだのを真鉤の目は捉えていた。同様のものはサイボーグ達にも飛び、鋼鉄のボディを貫いたのだ。

 網を絡ませたまま獣が走り出す。倒れた一人はもう動かない。残り二人の体が少し揺れた。スーツのあちこちに穴が開いて煙が昇っているのは、全方向性の一斉散弾発射か。素早い化け物相手には有効なのだと式一三が言っていた。

 幾つかは命中しただろうが、獣の動きに停滞はなかった。下がろうとした一人に飛びかかり、太い前脚が横殴りに襲う。その脚は六本目か七本目か。さっきまではなかったような気がする。

 サイボーグの首がちぎれ飛んだ。金属の軸とコード類の断面を晒し、生首は無表情な顔で転がっていく。獣の口がバガリと開いた。幅一メートルもありそうな歪んだ顎に大小の牙が並ぶ。真鉤は『寄生獣』という漫画を思い出した。人間の頭部を乗っ取り、肉体を自在に変形させて人を食う怪物が登場するのだ。巨大な顎がサイボーグの胴に齧りついた。ゴリゴリと音が聞こえそうな勢いで鉄の塊を削っていくが、食料にならないことに気づいたらしく、すぐに放り捨てる。牙の何本かは折れて散らばっていた。

 タンクから光の線が二筋踊り出し、左右から獣の胴を薙いでいった。分厚い肉ごと網があっさり切れるのを見ると、強力な熱線だったのだろう。生き残りのサイボーグも巻き込まれ、片腕が切断されて落ちる。サイボーグが何か言っているようだが上空までは声が届かない。

 光の刃は獣の胴の半ばほどまで深く切り裂いていた。ベラベラになった肉が揺れ、触れ合った数秒後にはもう繋がっているように見えた。また獣の胴が破裂する。しかし獣の突進は止まらない。

 獣がユニオン・タンクに取りついた。何本もの脚で締め上げつつ齧りつく。厚い装甲は流石にちぎれまではしなかったが、爪と牙が食い込んで変形していく。再び爆発。血みどろの獣がアスファルトを転がっていく。

 タンクも横倒しになっていた。ボディが大きく陥没しており、中の生身と機械が無事かは分からない。撤退指示が出たのか、残った一人のサイボーグは走ってその場を離れていく。

 そこに獣が襲いかかり、散弾を受けながらもあっさりサイボーグの体を引きちぎって戦闘は終了した。

 ワイヤーのついた銛は自然に抜け落ち、未特定1854はノソノソと歩いていく。その先にはちぎれた自分の脚があった。太い爪の生えた、関節が三つもある脚が、ピクリピクリと勝手に動いている。最初の映像で見た動く死体のように。

 拾い上げて元通りに繋げるかと思ったが、獣は大口を開け、自分の脚を食べてしまった。無数の傷は既に塞がって出血も止まり、網は大半が肉に埋まり込んで獣の一部になっていた。

 歩き去る獣をカメラが見守り、再びエージェントの残骸に画面を戻したところでビデオは終了した。

「生き残ったのはユニオン・タンクの一人だけです。回収したタンクと未特定1854の肉片、住民の死体などからある程度の情報を得ました」

 伊佐美が言った。

「死体が動いているのは微生物の活動によります。どうも感染した筋肉組織の内部に独自の神経系を構築するらしいのです。まだ腐敗していない死体が勝手に動いているのはそのためです。そして、この微生物と未特定1854は所謂共生関係にあります。未特定1854は、獲物の肉と直接結合し、神経を繋いでそのまま自分の肉体としているようなのです。おそらく本体の神経系も微生物が構築したものなのでしょう」

「食ったものを消化して太るより、そのまま使った方が手っ取り早い訳だ。拒絶反応とかを無視出来るんなら」

 日暮は自分の菓子を全部食べてしまった。真鉤も取り敢えず紅茶を飲んだ。高級品なのだろうが、飲み慣れていないため味はよく分からない。やっぱり砂糖を入れるべきだった。

 伊佐美は頷いて続けた。

「未特定1854の行動原理は単純です。自己の生存のため獲物を捕食し、自分の肉として取り込み、傷を治す。また狩りをする。それだけの繰り返しです。しかしマルキが今使える戦闘員では対応が困難なのです。銃弾にも爆薬にも耐え平気で再生し、急所がありません。脳はおそらくあるのでしょうが非常に小さいか、体内の複数の場所に分散していると思われます。鋼鉄をへし曲げるパワーがあるため檻に閉じ込めることも出来ません。麻酔は効かず、この後に毒入りの銃弾と毒ガスも試しましたが駄目でした」

「毒ガス、ですか。島の人達への被害は大丈夫なんですか」

 真鉤は流石に気になったので尋ねた。

「上空から局地的に散布しただけですから、長時間広範囲に被害が及ぶ心配はありません。既に屋外を歩く住民は認められなくなっていましたしね。ただ、私達は必要と判断すれば住民の安全よりも危険生物の駆除を優先します」

「……今、島に生存者はどのくらいいるんです」

「八久良島の住民は三百十六名でした。船に乗って逃げた者と、マルキが救出した者を合わせると三十八名です。残りのうち、固定電話や携帯から警察に連絡し、生存の確認が取れた者は二十二名となります。それ以外については不明です。……私達が最も危惧しているのは、未特定1854が海に逃げることです。今のところ島内を徘徊していますが、餌がなくなり飢えを感じれば泳いででも新天地を求めるかも知れません。特に、海中を潜って移動されると私達には攻撃手段がなく、本土に上陸されてしまえばもう手に負えません。最悪の事態に至る前に、核ミサイルで島ごと焼き払うという選択肢も考慮に入れる必要が出てきました」

 核ミサイルか。話を聞く限り、マルキならそのくらいやってもおかしくないだろう。それでも真鉤は聞いてしまう。

「本気ですか。核ミサイルって」

「飽くまで最悪の場合です。それを避けるために君達に来てもらったのですから」

 伊佐美は淡く微笑した。

「プレッシャーをかけてくれるねえ。マルキのサイボーグでも勝てなかった化け物を、俺達に狩れ、と」

 日暮が皮肉った。伊佐美は平然と返す。

「期待していますよ。では、折角ですので回収した肉片サンプルも見て行って下さい」

 伊佐美達が立ち上がった。真鉤は紅茶の残りを飲み干して後を追う。日暮は真鉤の分の菓子を指差して「食わないのか」と聞いた。

「あげるよ」

「なら遠慮なく貰っとくぜ」

 日暮は真鉤のクッキーを全部掴み取り、ズボンのポケットに仕舞った。個別包装になっているので汚れることはない。

 船長らしき男を先頭にして一行はゾロゾロと階段を下りる。廊下を進む途中で格納庫らしき広い部屋が見えた。

 ビデオで見たユニオン・タンクがそこにあった。ひしゃげた外殻が取り外されて転がっている。中身と思われる機器の塊は台の上に置かれ、今も整備士が配線をいじっている。中にいる筈の人間はどうなっているのだろう。手足はなくて頭と胴体だけなのだろうか。それとも脳と一部の内臓だけとか。

 機械群の中央に、灰色の円筒形容器があった。あの中に収まっているのだろうか。肉体を失ってサイボーグとして生きるのはどんな感じなのだろう。真鉤は式一三を思い出す。触覚の大切さがなくしてから分かったと言っていた。そして式は狂ったのだ。

 真鉤は視線を感じた。同行者ではなく、格納庫の方から。作業に従事している数人のスタッフはこちらを向いてはいない。視線……とは少し違っていたかも知れないが、少なくともこちらを意識しているのは感じ取れた。それも、敵意が含まれているような。

 日暮も気づいたらしく、あからさまに口にしてみせた。

「どうもこの辺に、俺達を殺したがっている奴がいるようだが」

 伊佐美が立ち止まり、苦笑しつつ説明する。

「すみません。ユニオン・タンクの操縦者です。悪感情は君達に対してだけではありませんので、気にしないでもらえるとありがたいですね。須能は特殊な生まれで……」

 話の途中で伊佐美は黙り込んだ。少しして、ちょっとぎこちない口調になって彼は言った。

「失礼しました。今回の件とは無関係の話でしたね」

 デリケートな問題なのだろうか。真鉤は質問するのは差し控えた。伊佐美が掌を前に向けて歩みを再開する。

 真鉤は後を追いながらもう一度ユニオン・タンクを見た。灰色の円筒容器は何も語らない。ただ、コードで繋がれた機器のうち、台の上に据えつけられた小さなカメラが真鉤の方を向いていた。

「ここから先はバイオハザード・エリアになりますが、今回はそれほど神経質になる必要はありません」

 伊佐美が言い、船長が先に立って扉をくぐる。左右から風が吹きつけ真鉤達の埃を落とす。

「でも感染するんじゃないのか」

 日暮が尋ねた。

「空気感染はしません。感染者の体液か血液が傷口に入らなければ大丈夫でしょう。細菌学者に調べさせていますが、抗生物質も効く可能性が高いそうです。出発前に君達にも服用してもらいます」

 清潔そうな部屋に幾つも透明なガラスケースや検査機器らしきものが並んでいた。白衣のスタッフ達が振り向いて一礼する。

「まず、未特定1854の肉片サンプルを」

 命じられて年配の一人が案内した。台の上に置かれたガラスケース。その中に四個の肉塊があった。昨日の戦闘の際に回収したものなら約一日経っていることになるが、まだ二秒に一度くらいのペースで微かに動いていた。大きさは二、三十センチほどでどれも円形に近く、一つはほぼ球体になっている。

「少なくなっていますね」

 掌をケースに向けて伊佐美が言うと、年配の白衣が説明した。

「回収した時点では二十六個の肉片でしたが、互いに融合していきこのような状態となりました。球形に近づくのは体液と熱の流出を少しでも防ぐためと思われます」

 続いて白衣は別の大きなケースへ進んだ。こちらには十数体の人間の死体があった。観察のためだろう、服を剥がされ転がされている。ビデオで観た、胸部から上のない男の死体もあった。だが今は微動だにせず、ケースから洩れる腐臭を真鉤は嗅ぎ取っていた。

 白衣が言った。

「未特定1854から分離したものと違い、こちらは回収後十七時間内に全ての筋肉の活動が停止し、腐敗も始まっています。まだ推測にしか過ぎませんが、新たに構築される神経系は、未特定1854と繋がってから初めて本来の機能が発揮されるのではないかと。それを未特定1854が行っているのか細菌自体の仕組みなのかはまだ分かりません」

「とすると、削り取った肉片がまた合流しないように注意する必要がありますね」

 伊佐美の台詞は真鉤達に向けたものだろう。日暮は冷静に死体を観察していたが、左手の親指と人差し指で顎を挟むように撫でながら言った。

「ふうん。相手のことは大体分かったが、こんな奴と俺達がどうやって戦えばいいのか、作戦は出来てるのかい」

「では、君達用の武器をお見せしましょう」

 伊佐美はあっさりバイオハザード・エリアを出ていった。廊下を戻って格納庫らしき部屋の向かいの扉を開ける。

 そちらは武器庫になっていた。ライフルや大型の重機関銃、更にはロケットランチャーまでが棚や台にずらりと並んでいる。

「銃とかは扱ったことがないので……」

 戸惑いながらそこまで言って、真鉤は右の壁に掛かっているものに気づいた。背中をゾワリと嫌な感触が撫でる。

 鎌神の大鉈がそこにあった。

 刃渡り一メートルを超える、鎌のようにエッジ側へ緩く湾曲した凶器。先端は少し丸まっているが、この重量に勢いを乗せればコンクリートにでも突き刺さるだろう。柄は五十センチほどで、前に見た時よりも長いような気がする。石突に指数本が入る輪もついていなかった筈だが。

「それは……」

「どれですか」

 伊佐美が聞き返し、真鉤は指差してから相手が盲目であることを思い出す。

「壁に掛かっている大鉈です。鎌神のに似てるようですけれど」

 伊佐美は頷いて、自ら大鉈へ歩み寄った。

「回収した鎌神の武器をマルキがデザインし直した試作品です。鎌神刀と名づけました。両手で持てるようにして全長と重量もアップさせています。サイボーグでも振り回せないことはないですが、本当の意味で使いこなせるのはマルキのメンバーでもごく一部ですね。……これが、真鉤君の武器です」

 鎌神についてはあまり思い出したくもないのだが、この武器を受け入れるしかなさそうだ。自分のやったことはずっと後までへばりついてくる。マルキとの関わりも含めて。

「どうぞ、手に取ってみて下さい」

 勧められ、真鉤はその通りにした。これから使わなければならないのだから。柄を握って壁から外すとズシリと来た。十キロ近い重量がありそうだ。常人が使うことなど全く想定していないらしい。

 だが真鉤は、この異様な武器を扱うのに充分な筋力があった。片手で柄の半ばを持って軽く手首を返してみる。柄は縄巻きで、滑らずに済みそうだ。峰がやたら分厚く、よく見ると刃はなまくらに近かった。次は輪に指二本を通すが、全長がやたら長いため腕を上げないと刃先が床についてしまう。吊り上げて何度かゆらゆらさせ、振り回す時の感覚を予想する。

「使えそうです」

 真鉤は言った。

 伊佐美は少し嬉しそうに微笑した。嫌味な感じではなかったが、殺人鬼にはこれがお似合いだと言われたみたいで、真鉤は暗い気分になった。

 

 

  三

 

 真鉤と日暮はヘリコプターに乗せられ、巡視船いざなみを出発した。自動車が入りそうな広さの荷室で、二人だけが向かい合わせに胡坐をかいている。

 ヘリの騒音と震動を感じながら、真鉤は前に鎌神刀を横たえ、右手で柄を握っている。

 日暮は足の上に不格好な兵器を乗せている。自動小銃より銃身が太く、幅広の銃口は水平の細長いスリットになっている。ワイヤーガンと呼ばれる特殊な銃で、一メートルもの長さの細いワイヤーを高速で撃ち出すものだ。日暮が操作法のレクチャーを受けながら試し撃ちするのを見たが、なんとか目で捉えられても避けることはほぼ不可能な速度だった。コンクリートブロックがあっさり切断され、その向こうの鉄板に食い込んでいた。有効範囲は狭いが強力な切削兵器だ。相手がすぐに肉の繋がる化け物でなければだが。

 伊佐美の提案した戦術は単純なものだった。肉が再びくっつかないように気をつけながら、刀とワイヤーで未特定1854を削っていくこと。不死身といっても保持する肉とエネルギー量には限度があり、新たな材料がなければいずれは力尽きる。その作業を死なずに完遂出来るだけの体力、攻撃力、防御力を持ち合わせているのが真鉤と日暮、という訳だ。

 楡先生ならばそんな苦労をせずともあっさり片づけられるかも知れないな。日暮ののっぺりした顔を見ながら真鉤は思う。生き残りの住民に見られても大丈夫なように、人工皮膚のマスクを貼りつけていた。本来の顔の特徴は消され、マスクであることはよく見ないと分からない。真鉤も同じものを着けている。二人共、左耳には小さな通信機を取りつけていた。互いの通信と、船内の伊佐美との連絡用。

「どうかしたか」

 小窓から外の様子を眺めていた日暮が真鉤に聞いた。

「いや。うちの高校の、カウンセリングの先生のことを思い出しただけだ」

「いい先生なのか」

 そう言いながらも日暮の口調は素っ気ない。

「いい先生かどうかはちょっと……。楡誠って人で、おかしな力を持っている。『ミキサー』と呼ばれてるらしい」

 日暮の片眉が動いた。ちょっと興味を持ったらしい。

「『ミキサー』ってのは聞いたことあるな。なんでお前の学校でカウンセラーやってるんだ」

「鎌神の件とかで大勢死人が出たから、生徒を守るために学校が雇ってくれたらしい。マルキとの交渉でも間に立ってくれたし」

 大勢の死人の中には真鉤が殺した生徒も入っているのだけれども。また、式一三とのタイマン勝負で片をつける筈だったマルキとの対決は、手を引くと言った式に真鉤が無理矢理仕掛けたことと、楡が国会議事堂を破壊したことでややこしくなってしまい、改めて日暮冬昇が介入した経緯となる。

「ふうん。いい先生じゃないか」

 日暮は本気かどうか分からない感想を述べた。

 通信機はオンになっているから、今のやり取りも伊佐美達に届いているだろう。楡のことは既に関わっているから構わないが、あまり余計なことは喋らない方がいいかも知れない。

 前の方から操縦士の声が聞こえた。

「島の上空です。用心のため着陸せずに地上二十メートル程度でホバリングしますから、そこから降りられますか。縄梯子も下ろせますが」

「縄梯子は要らん。飛んでるジェット機から飛び降りるよりは百倍もましだろ」

 日暮が答える。

「そうですか。では、気をつけて下さい。未特定1854に撃ち込んだ発信機は全て抜け落ちてますから、位置が掴めません。我々は上空から監視を続けます。何かあったら連絡しますので。……はい、ドアを開けて構いませんよ」

 操縦士の指示に従い真鉤はドアを開けた。下は疎らな民家に挟まれた広い道路で、見通しの良い場所を選んだのだろう。細長い島の中央付近に下ろすという話だった。

 確かに、ジェット機から飛び降りるよりはましだな。真鉤は鎌神刀を握り締め、ヘリから飛び降りた。アスファルトに着地する際に膝を軽く曲げて衝撃を殺す。すぐ横にワイヤーガンを抱えた日暮が降りた。

 周囲に生命の気配はなかった。死体も見当たらないが、平屋の玄関の扉が折れ曲がり、ガラスの破片と共に乾いた血痕が散っていた。向かいの塀に軽自動車が衝突したまま放置され、フロントが潰れていた。真鉤は慎重に歩み寄って中を覗く。死体はない。

 動くもののない島の風景。吹く風に潮の香りが混じる。それと、僅かに死臭が。遠くで蝉が鳴いている。アブラゼミとミンミンゼミ。今は六月だからちょっと早い気がする。

「さて、どっち行きゃあいいんだ」

 日暮の問いは通信機に向けたものだ。午後のきつい陽光を浴びて吸血鬼の彼は気だるげだった。それでも汗を掻いていないのは流石だ。

「ひとまず北の方に向かって下さい。十五分前に林の中を歩く姿が確認されています」

 ヘリの操縦士の声が真鉤の通信機にも届いた。船にいる伊佐美は目が見えないのだから、咄嗟の細かい指示は無理だろう。

「じゃ、そうするか」

 日暮が真鉤に目配せした。先を歩けということらしい。不死身度の高い方が矢面に立つのは当然のことだ、と自分を納得させながら真鉤は歩き出した。

 ここはもう戦場だ。真鉤は死ぬつもりはないが、一瞬の判断ミスで即死する危険があることも理解している。いきなり頭を食いちぎられ取り込まれれば終わってしまうだろう。

 また、噛まれたら感染する危険もある。ビデオで見た怪物の筋力からすると、マルキに貰ったシールドスーツも紙のように食い破られるだろう。抗生物質がちゃんと効いてくれるかも知れないし、実際のところ、真鉤はこれまで風邪を引いたことも病気をしたこともない。しかし、病原菌を持ち帰るリスクは出来る限り避けたかった。

 真鉤は周囲に気を配りつつ進む。道路を外れて民家の間を抜けたらもう林になっていた。膝上まである草が生い茂り、真鉤でも完全に無音で歩くのは無理だ。

「生き物がいないな。犬や猫もいやしない」

 見回しながら日暮が言う。

「蝉はいる」

 真鉤は返す。蝉の鳴き声で草の音が紛れてくれればいいが。あの怪物の感覚はどのくらい鋭いだろうか。適当な造形からはあまり繊細そうではないが。

「化けモンが見つかるまで延々と歩き回るのか。どっちかが囮になって騒いでみるのはどうだ」

「君が囮をやってくれるのならいいけど」

 真鉤は苦笑してみせるが、貼りついたマスクが微妙に邪魔をして、どんな表情になったのか自分では分からなかった。

 上空からヘリのローター音が聞こえている。木々の間から見上げると、地上百メートルほどの高さをうろついている。島の全体を監視しているのだろう。

 林は意外にあっさり抜けてしまい、向こう側はまた住宅地になっていた。やはり生命の気配はない。

 死体がいた。小さな家屋の裏庭に、ズボンを履いた男の下半身が転がっていた。まだそれほど時間が経っていないのか、腐敗臭はあまり感じない。

 他の部品は見当たらなかった。あお向け状態でゆっくりと足をバタつかせる死体を見て、日暮が言った。

「どうして中途半端に食い残すんだろうな。胃袋に収まらなくても丸ごと取り込めるんだろうに」

「どうだろう。何か制約があるのかも知れない。一定以上の大きさにはなれないとか。それか、いざという時の非常食として、半分残しておくのが癖になっているのかも」

 そう答えつつ、我ながらひどい会話だと真鉤は思う。

 軽い溜め息をついて、日暮が空を見上げた。丁度ヘリの影が日暮にかかっている。

「上の方。まだ奴は見つからないのか」

「今のところ見当たりません。……あー、ちょっと待って下さい。……車が動いてますね。生存者がいるようです」

 生存者か。ヘリからの報告に真鉤は一瞬良かったと思ったが、今関わっても邪魔になるだけだと冷静な考えも浮かぶ。しかし、放置する訳にもいかないだろう。真鉤はそういう思考に自己嫌悪を覚える。

 日暮が真鉤を一瞥した。人工皮膚のマスク越しだが考えを読まれたかも知れない。また、日暮の表情もマスクのせいで読み取れなかった。

「どっちにいる。取り敢えず行ってみるか」

 日暮が言った。

「東に一キロほど先です。そちらに向かってますから丁度出会えるかも知れませんね」

 操縦士の声に、船にいる伊佐美の声が割り込んだ。

「気をつけて下さい。未特定1854が車を動かしている可能性もゼロではありませんからね」

 これは冗談のつもりなのだろうか。日暮はマスクを歪めて苦笑している。伊佐美が取り繕うように付け足した。

「いや、未知の生物と接触する際には細心の注意を払うべきなんですよ。大型の狸と思って近づいたら毒ガスを撒き散らされ、エージェント五人が全滅したようなこともありましたから」

「ふうん。で、その狸は車を運転したのかい」

 日暮の皮肉に返事は来なかった。操縦士の指示が飛ぶ。

「車が別の道に入りました。林を戻って最初の地点に向かってくれませんか。少し急いだ方がいいかも知れません」

「分かりました」

 真鉤は来たルートを引き返し、林に入った。日暮も後をついてくる。今のところ敵の気配はない。蝉の鳴き声に混じって左前方からエンジン音が聞こえる。あまりスピードは出していないようだ。木々の向こうを走る影が見えた。赤いワゴン。運転しているのは男で、助手席にも人がいる。

 二人は早足となって先回りを試みた。急いでいる時に襲撃を受ける可能性もあるので警戒は怠らない。

 百メートル以上の余裕を持ってワゴン車の前方に到着した。向こうからも二人が見える筈だが、巨大な刀と奇妙な銃を持つ得体の知れない男達が立ちはだかっているとなれば、Uターンして逃げたくなってもおかしくはない。真鉤は顔を晒していることを意識するが、のっぺりした仮面で隠しているので大丈夫だと独り頷く。

 ドライバーは四十代の男だった。疲れきった顔を怯えに歪め、一旦車を減速させる。助手席にいるのは中学か高校くらいの少女だ。青ざめた顔だが目には希望の光があった。島が獣に襲われたことは知っていて、真鉤達を救助隊と思ったのか。

 日暮が銃を下ろして手を振った。真鉤も安心させるためそれに倣う。ワゴン車は減速したままだが方向転換はしなかった。

「動きが……南、すぐ近くに、来てますっ」

 ヘリからの報告。気配。微かに足音。真鉤は鎌神刀を持ち上げ右を向くがまだ見えない。建物の陰か。殺気は感じない。少なくともこちらには。

「危ねえぞっ」

 日暮の叫びはワゴン車まで届いただろうか。

 平屋の上から躍り出た影は屋根を蹴ったのか、それとも飛び越えたのか。象ほどもある巨大な生き物がワゴン車に襲いかかったのだ。ドライバーはこちらを見ていて襲撃者に気づいた様子はなかった。獣はワゴンの後部にぶち当たり脚をめり込ませ、一緒に横転していく。

 今ので死んだかも知れないな。半分諦めながらも真鉤は走る。日暮は少し距離を取って真鉤の左後方にいた。真後ろからワイヤーガンを撃てば真鉤も巻き添えとなるからだ。

 道路から草地へ外れたワゴン車は、一回転の後で右側面を下にして止まった。車体のねじれた後部を獣の巨大な顎が食いちぎる。

 ピシュゥ、と鋭い音が鳴った。日暮が発射したワイヤーが飛んでいく。高速で撃ち出されたワイヤーの両端に小さな錘がついている。獣の丸々とした胴の端が厚さ十センチ、幅五十センチほど削り取られていった。胴の中心だと食い込むだけで止まってしまうだろうし、狙って削ったとすれば日暮のコントロールは大したものだ。

 モソリ、と獣が身を起こした。全体的な形は手足が生えた洋梨かソラマメという感じで、頭と胴体の区切りがない。丈は五メートル近くある。やはりビデオで見た時より大きくなっている。胴体の半分ほどが鰐の顎のように開いたメチャクチャぶりで、その先端で二本の足が踊っている。人間の、男の足。頭から丸呑みされたのだ。最後まで呑み込むかと思いきや、顎が完全に閉じてギョゾリと足がちぎれ落ちる。

 ワゴン車内から少女の悲鳴。まだ生きていた。獣は巨大な顎をモゾモゾ動かしながら再び車内へ体を突っ込もうとしている。そのまま二人目を食う気か。駆けつけるのが間に合わない。

 真鉤は息を吸い、渾身の力で咆哮した。

「おああああああああああっ」

 真鉤の筋力と肺活量による大声は、本気でやれば数メートル先の窓ガラスを割ることも出来る。ワゴン車のボディが震えるのが見えた。同時に真鉤は鎌神刀を左手に持ち替えつつ、右手で背中の剣鉈を抜く。柄でなくブレード半ばを持ったオーバースローにより、剣鉈は無回転で槍のように飛んだ。

 耳はあったらしい。真鉤の雄叫びに反応して獣はこちらを向き、その肉の中心に剣鉈が深々と突き刺さった。獣は悲鳴も唸りも上げず、殆どダメージはないようだ。しかし、ターゲットをこちらに切り替えたらしく、のっそりと歩き出す。これで取り敢えず、少女は助かった。

「いざなみ船長の高野だ。伊佐美が気絶した。次に叫ぶ時は予告して欲しい」

 通信機に渋い声が入った。真鉤の大声にやられたらしい。謝っている暇はなく、真鉤は全速力で駆ける。日暮の笑い声が聞こえた。

 未特定1854の濃淡まだらになった皮膚は、融合した犠牲者由来だろう。その下で筋肉の瘤がグネグネと動いていた。筋肉や骨格の構造は効率が悪そうだが、結果的に凄まじいパワーを発揮している。四メートルもの胴の幅に比べると、それぞれの脚は細めだった。多関節で節々から爪のような牙のようなものが生えている。おそらくは取り込んだ骨の一部を使っているのだろう。最初のワイヤーで削ぎ落とされた部分は、ピンク色をした筋肉の断面からジワジワ出血しながらも新たに肉が盛り上がって傷を塞ごうとしていた。

 真鉤の方に向けられた正面……腹と思われる広い場所に、適当な配置で三つの目が並んでいた。一つは人間の瞼そのままで眉もあり、真鉤の不快感を強めた。取り込んだ感覚器もそのまま使えるのだろうか。目の一つはこちらを向いている。

 まずは脚だ。脚を切り落として動けなくする。外れた部品は遠くに蹴り飛ばすなどして再接合を防ぎ、新しく生えても切り落とす。やるべきはそれだ。

 距離が十メートルを切った時、獣の腹に斜めの亀裂が生じた。傷じゃない、新しい口か。並んだ牙が見える。ブフゥッ、という奇妙な音がして、反射的に真鉤は身を竦ませた。

 腹と左こめかみに痛み。一瞬クラッと来たが立て直す。ビデオでもやっていたように牙か骨を撃ち出したらしい。筋肉の力で飛ばしたのか、吹いたのか。噛まれたくなかったのに早速やられてしまった。刺さったものを抜いている暇もない。真鉤はもう獣のすぐ前にいた。圧倒的な質量とパワーの塊。腹についた目が真鉤を見ている。獣の獰猛な殺意は感じなかった。巨大な爬虫類を前にしているような感覚。

 真鉤は鎌神刀を振り下ろしながら、地面を強く蹴って左へ方向転換した。巨体の横を掠めるように過ぎ、脚の一本を切り落とす。刀の重量のせいで予想より抵抗は少なかった。ただし勢い余って刃が地面に食い込んでしまう。駆けながら引き摺り持ち上げたところで、風圧を感じ真鉤は前に跳び伏せた。上を太い腕が通り過ぎていく。いや脚だ。尾かも知れない。長さが三メートルほどもあり、先端に何本も爪が生えていた。

 獣はやはり叫んだりしなかった。発声器官がないのかも知れない。フシュ、シュフッ、という呼吸音が聞こえる。肺は自前か、それとも取り込んだ獲物のものか。

 向き直ると巨体が物凄い勢いで迫っていた。さっきまで男を食らっていた顎が大きく開いて、真鉤を丸呑みしようとしている。胴の半分を占めていそうな口腔が見えた。肋骨の一部を使ったような牙が内壁にも乱立している。

 上顎の内壁に男の死体が張りついていた。服ごと何度も噛み砕かれて潰れかけ、血みどろになっている。厚みが半分になった元頭部から、眼球が一つ垂れ下がっていた。呑み込みはするが消化せず、砕いて融合するのがこいつのやり方なのか。

 まともに対抗すれば食われる。真鉤は全力で横っ跳びしつつ刀を振る。閉じかけた巨大な顎を刃が切り裂き、ゴジ、ゴギジュと骨牙をぶち折っていく。血が撥ねるが少量だ。着地してすぐに駆けながら、こめかみに刺さっていたものを抜く。脳漿の絡みついたそれは上腕骨の上半分に似て、折れた端が尖っていた。脳のダメージは常人なら即死していただろう。

「追ってきてるぞっ」

 日暮の警告。迫る足音から真鉤も分かっていた。これは辛い戦いになりそうだ。ピシュリという音はワイヤーガンのものだ。全力で駆けて距離を取り真鉤は振り返る。

 未特定1854の上顎は、真鉤が切った箇所が細長い肉の帯になり、根元だけで本体と繋がってベラベラと揺れていた。そこにもう一度刀を叩きつけて完全に切断し、すぐ横に跳んで避ける。

 相手の知能は低そうだが、単純なパターンを繰り返していれば捕まるかも知れない。早いところ脚を全部落としてしまいたいが。長い尾が鞭のようにしなって襲う。真鉤はそれを鎌神刀で切り飛ばした。更に踏み込んで脚を狙う。一本切断。巨体が少しよろめいた。そのまま勢いを駆ってもう一本。切り抜いた、と思った瞬間頭に衝撃を感じた。

「大丈夫か」

 真鉤は船長の声に起こされた。頭が痛い。何をしていたんだったか……と、真鉤は我に返った。

 骨の飛び道具を受けたらしい。ほんの僅かな時間だが意識が飛んだようだ。背中に何かが食い込んでいた。脚か尾か。触覚に少し遅れて激痛が来た。逃げなければ、しかし、足が地面に触れない。宙に浮かんでいるようだ。浮遊感。

 首を曲げて後ろを見ると獣の顎がすぐそばにあった。大きく開いて丸呑みの態勢になっている。潰れた男の先客に仲間入りすることになるのか。背中に刺さった脚を切らねば。武器を振ろうとして真鉤はゾッとした。手の中に鎌神刀がないのだ。気絶した時に落としたのだろう。真鉤の反撃手段がなくなった。こんなことで死ぬのか。視界が回り、逆さになった真鉤の左右に巨大な顎の内壁が見えた。

 いや、まだやるべきことはある。

 真鉤は両腕を広げ、指を揃えて伸ばし手刀を作った。顎はあっけなく閉じ、世界が赤く変わった。デタラメに並んだ牙が真鉤の全身に食い込んでいく。シールドスーツなどまるで役に立たない。同時に真鉤の手刀も上下の顎に突き刺さっていた。渾身の力で抉り進め、腕を振る。

 巨獣の筋肉は厚く凄い力だったが、材料の多くは人間由来の筈だ。真鉤の筋肉は人間とは質が違っていた。自分の全身の肉が破られる感触と共に、真鉤は自分の手が獣の肉を引き裂く感触を捉えていた。噛み直すために顎が一旦開き、真鉤は手を離さなかったので口腔内壁が更に裂けた。

「おー、生きてるな」

 通信機の音声と重なって日暮の肉声が割と近くで聞こえた。心配して駆けつけてくれたのだろうか。あのワイヤー発射音がして顎の一部が削れ飛ぶ。傾く感覚は獣を支えていた脚がワイヤーで落とされ減ったのか。

 再び左右から顎が迫ってきた。潰れた男の死体と顔をぶつけ合うが真鉤に愚痴る余裕はない。ここで力尽きれば本当に男とも融合してしまう。全身に刺さる牙をそのままに、真鉤は両手を裂けた肉に深く突っ込み、激しく引っ張った。右手はうまく骨格を掴め、ゴギリと折る感触があった。

 真鉤は天を向いた両足を一旦折り畳み、身をひねりながら巨大な顎の片方へ全力の蹴りを食らわせた。バギバギッと骨が連続して砕ける音。赤い世界に割り込む光が広がった。真鉤は何度か蹴りを加え、並んだ牙を掴みながら顎からなんとか這い出した。真鉤の全身は穴だらけになり血みどろだが、まだ戦える。

 どうも激しく揺れると思ったら、真鉤を乗せたまま獣は走っていた。先にワイヤーガンを持った日暮が見える。獣は真鉤を食べたつもりになって標的を変更したらしい。真鉤は降りようとして、獣の胴に刺さったものに気づく。最初に投げた剣鉈だ。筋肉に押し出され抜けかけているのを、真鉤は這い降りながら掴んだ。すぐ近くにあった目が真鉤を睨んでいた。睫毛の生えた人間の瞼。真鉤は獣の胴に逆さに張りついた姿勢で剣鉈を突き刺し、その眼球を周囲の肉と一緒に抉り取った。他にも目があれば潰したいが。と、尾のようなものが襲ってきて真鉤は叩き落とされた。先端についた牙で肩の肉を食いちぎられる。

 真鉤は四つん這いで着地した。獣は真鉤を置いてけぼりにし、日暮を追って草地を走っている。その脚は四本に減っていた。傷ついた顎が獣の動きに伴いベラリベラリと揺れている。いずれ再生するだろう。まだその体積の五分の一も減らせてはいない。

 鎌神刀は三十メートルほど離れた場所に落ちていた。剣鉈では弱過ぎる。刀を拾うべきか、先に日暮を助けに割り込むべきか。日暮が高い木の幹を駆け登っている。手を使わずに足の蹴りだけで、常人には不可能な芸当だ。これなら刀を先にしても大丈夫か。と、驚いたことに獣が木を登り始めた。脚の爪を幹に食い込ませ、どんどん登る。しかし重量のため木が軋み、傾き始めていた。

「先に刀を拾えっ」

 日暮の声が飛んだ。そこで真鉤は向き直って鎌神刀へと走った。剣鉈は再び背の鞘に差し戻す。途中、地面で蠢いていた獣の脚は遠くへ蹴り飛ばした。

 木の倒れる音。刀の長い柄を掴んで真鉤は振り返る。不様に落ちた巨獣がもがきながら身を起こすところだった。日暮の方は別の木の枝の上に立っていた。跳んで逃げたらしい。

「血を入れた。三百cc」

 日暮が言った。血の流れを操るという吸血鬼族の中でも、彼の才能は際立っている。自分の血を鞭のように伸ばして相手の体内に潜り込ませ、血管や神経を破壊することが出来るのだ。ただし、うまく制御するにはある程度敵に近づいていないといけない。

「それから目を二つ潰した。お前も一つ潰したろ。残りは三つか四つってとこだ。体内にストックがなけりゃあな」

 裂けた筋肉は繋ぎ直せても、繊細な構造の感覚器を再生するのは簡単ではないだろう。最初からその戦術の方が良かったかも。いや今はやるべきことをやらねば。

 真鉤は鎌神刀を持って駆ける。獣の側面から肉が盛り上がって突出していき、新しい脚を作ろうとしているようだ。不格好な肉の怪物は日暮のいる木へ突進し、体当たりで幹をぶち倒した。だが直前に日暮は跳んでおり、その左手首から赤い糸が伸びた。三メートルもの長さになった血の糸の先端が、獣の背に触れてツルリと吸い込まれていく。日暮の手首から離れても蛇のように踊りながら完全に獣の体内へ消えてしまった。

「プラス五百cc。これ以上は俺が貧血になるからやめとく」

 着地して日暮が言った。五メートルほどの距離をキープして、回り込みながらワイヤーガンを撃っている。ジャガイモの皮を剥くように、少しずつ獣の表面が削げていく。半分ほどの皮膚が失われ、血みどろの肉を晒していた。ブシュッ、と空気の弾ける音がして巨体のあちこちが膨らみ、十本近い牙が飛んだ。日暮は素早く伏せて避け、真鉤は鎌神刀を翳して防いだが一本が右太股に刺さった。構わず走る。

「目をもう一個潰した」

 日暮が淡々と告げる。巨大な肉塊から大きな眼球がボロリと落ちた。潰したというより押し出したという感じだ。内部に潜り込んだ日暮の血液がやってのけたらしい。

「それから心臓見つけた。……と、もう一個あるな。取り敢えず一つ潰しとく」

 このまま日暮に任せていればうまく進みそうだ。真鉤は日暮に伝える。

「間に立って盾になるから、僕を撃たないでくれ」

「了解。じゃあ俺ももう少し近づくぞ。潜った血を暴れさせるには近い方がいいからな。こいつ、心臓が幾つもある。取り込んだ奴のも使ってるのか」

 日暮がワイヤーガンの銃口を下ろし、彼と獣の間に真鉤は割り込んだ。相棒の位置に気をつけながら鎌神刀を振り、脚を切断していく。獣の動きは明らかに衰えてきていた。心臓をやられたのが効いたのか、日暮の血が神経系を破壊しているのか。

「出来れば生け捕りにして欲しいんですがね」

 通信機に伊佐美の声が入る。気絶から覚めていたらしい。

「研究材料にするのか。そうやって生かしたばかりに研究所で暴れて逃げ出すってパターン、よくあるよな。所員を皆殺しにしたりしてな。……と、脳があったぞ。割と小さいな。犬くらいか。心臓は一個だけ残して全部潰していいよな」

 二本脚となった獣は重い巨体を支えきれず地面に伏した。念のため真鉤はその脚も切り落とす。相手は完全にダルマとなり、真鉤を噛み砕いた禍々しい大顎も今はゆっくりと開閉を繰り返すのみだ。弱った相手に多少の罪悪感を覚えながら、真鉤は鎌神刀を振って獣の身を削ぎ続けた。同情する余裕などない。断ち切る肉と骨は、その殆どがこの島の住民のものだったろう。

「脳は無傷で回収させて下さい。無力化されたと判断した時点でヘリから網を投下させますので」

 伊佐美が念を押す。あまり中心に刃を落とせば脳に刺さってしまうかも知れない。真鉤がそう思った時、突然獣が破裂した。幾つかの大きな肉片が飛び、血飛沫が霧となって視界を遮る。一瞬日暮が血を使ってやったのかと思ったが、霧の中から気配が素早く飛び出してくる。真鉤が横殴りに振った刃はその胴を斜めに断ち切った。ヒヒュッ、と細い悲鳴、或いは呼吸音。

 草の上にひっくり返ったのは、剥き出しの筋肉で出来た百足のような代物だった。幅約十五センチ、切れた部分を合わせた全長は五十センチくらいだ。何十個もの脚は短い肉団子のようなもので、それがワシャワシャと高速で蠢いている。身をねじ曲げて走り出す前に、真鉤は剣鉈を突き刺して地面に縫い止めた。膨らんだ頭部の先端に眼球が一つあり、ギョロギョロと動いていた。

「これが本体か」

 真鉤が言うと、日暮は首をかしげ答えた。

「ううむ。残った肉の残骸にも別の脳があるぜ。どっちが本体かは分からんな。取り敢えずこっちは、脱出用のコアファイターってとこか」

「コアファイターというのは」

 日暮はマスクの眉をひそめる。

「ガンダムの腹の部分だよ。ガンダム知らないのか」

「ガンダムは知ってるけど、ちゃんと観たことはないな」

「初代は観るべきだな。『坊やだからさ』と言えるようになるぞ」

「……言えなくてもいいような気がする」

 通信機から小さな忍び笑いが聞こえた。意外なことに、あの不機嫌な顔の船長が真鉤達のやり取りを聞いて笑っているらしい。

 真鉤は体の節々に軽い痺れを感じていた。侵入した細菌が勝手に神経を作ろうとしているのか。しかし動きに支障はないし、真鉤の体が負けることはないだろう。家に帰る前にきちんと殺菌はしておきたいが。

 体に刺さった骨を抜いていると、日暮が真鉤の後方を指差した。

「そういや生存者がいたな」

 横転したワゴン車から這い出した少女が、地面にへたり込んでこちらを見守っていた。額が切れて血が流れている。いつからそうしていたのだろうか。戦闘に集中していたため気づかなかった。

 少女は怯えた表情をしていた。怪物に襲われるという異常事態で、平静でいられる筈もない。

 いや。真鉤は、彼女の怯えの対象が自分達であることに気づいた。怪物に立ち向かい、平然と倒してみせた二匹の怪物が、真鉤達なのだ。

 日暮がポケットに手を入れて、個別包装のクッキーを二つ取り出した。高く掲げて少女に声をかける。

「おーい。クッキー要るかい」

 少女はビックリした顔の後に、泣き笑いのような表情を作った。それから彼女は声を上げて泣き始めた。

 

 

  四

 

 未特定1854は捕獲された。研究所に持ち帰り、慎重に調査を進めるそうだ。マルキは島に散らばった肉片も回収し、同時に生存者に呼びかけを行い保護していった。薬物で記憶操作して、島は自然災害に見舞われたことにするそうだ。真鉤は倫理的にどうこう言うつもりはない。マルキが生存者を始末せずに対応してくれるのなら、ありがたいとさえ思ってしまう。

 真鉤と日暮は船内で念入りに消毒液のシャワーを浴び、再び抗生物質を飲まされた。日暮も幾つか傷を負っていたが、血を操る能力によって細菌を隔離排除出来るため、感染の心配はない。

 それから血液検査を打診された。未知の細菌であるため、念のため血液内に残っていないかチェックしたいとのこと。それ以外の目的に使われるのではないかと真鉤は内心嫌な予感がしたが、伊佐美が言った。

「正直なところ、真鉤君には遺伝子検査をさせて欲しいのですよ。君の両親は普通の人だったようですし、どのような突然変異によって君のような存在が生まれたのか、マルキとしては知っておきたいのです。現代の生命科学は、一般に公表されているよりかなり詳しいところまで解析出来るようになっています」

 単刀直入な提案だった。真鉤としてはこの先また敵に回るかも知れない組織に、必要以上に自分の情報を渡したくない。遺伝子情報で細かい能力や弱点まで分かるとすれば尚更。

 しかし、逆に考えれば、自分がどうして不死身の殺人鬼なのかという長年の疑問も解けるかも知れない。そして、殺人衝動を抑える方法も分かれば、真鉤の苦悩も終わらせられるのでは。

 真鉤が迷っていると、伊佐美が付け足した。

「君の付き合っているクラスメイト……藤村という名前の子ですね。いや、脅迫などではありません。彼女は、多発性悪性腫瘍のハイリスク因子を持っているとか。既に一度白血病に罹患したそうですね」

 真鉤の胸の中に気持ち悪い吐き気のようなものが広がっていった。マルキはそんなことまで把握しているのか。もうこいつらの手の中から逃れることは出来ないのでは。こいつらは彼女の情報をどう使うつもりなのか。

「遺伝子治療が出来るかも知れませんよ」

「えっ」

 予想外の台詞に、真鉤はあっけに取られていた。治療出来ると言ったのか。治せる、と。

「予算や倫理的な問題などでまだ表に出せない最先端の医療は、一般の医療レベルの二十年先を行っていますから。マルキもその恩恵に浴しています。それで藤村さんの病気が百パーセント治るという保証はしかねますが、検査した上で治療可能ということになれば、マルキの関連病院に入院してもらうことも出来ますよ」

 出来るのか。日暮は彼女の血をチェックして根本的な治療は不可能という結論を出したし、担当医も諦めている様子だった。『ミキサー』楡誠も、彼女はもう何年も持たないと言った。そして真鉤自身、彼女に纏わりつく死の翳りをずっと感じていたのだ。

 それが消せるのなら。もし彼女が長生き出来るのなら。

「ただしこれは交換条件です。マルキとの和解は今回働いてもらった分で成立しましたから、これとは関係ありません。真鉤君の遺伝子解析をさせてもらうことを条件に、藤村さんの遺伝子解析を引き受けるということになります」

 日暮は口を出さず、静かにやり取りを見守っていた。真鉤はちょっと混乱気味に考える。これが罠という可能性は。いや、感染チェックのための採血ついでに遺伝子検査もやってしまえば済む話なので、わざわざ藤村奈美のことを持ち出す必要はない。うまい話を出して真鉤を組織に取り込もうということか。これはあるかも知れないが、万が一にでも彼女が完治する望みがあるのなら、真鉤自身は何を犠牲にしようとも構わないではないか。

 ならば、答えは一つだ。

「分かりました。お願いします」

 真鉤が答えると、伊佐美の口元は淡い微笑を見せた。

「それから、飽くまでこれは提案ですが、真鉤君、マルキのエージェントになるつもりはありませんか」

 これまたストレートな勧誘だった。

「いや、僕は……」

 マルキには恨みがありますし、こういう組織は大嫌いなので。流石にそこまで正直には言えない。

「マルキの構成員が君の高校の生徒を何人も殺していますから、憎む気持ちも分かりますよ。ただ、既に説明した通り、マルキは社会のために必要な組織です。過酷な職務に精神を病むエージェントもいますが、君がマルキの暴走を嫌うのならば、君自身が現場に立って状況をコントロールすればいいのです。それが、君の生きる最適な道だと思いますよ。……まあ、返事は急ぎませんので、考えておいて下さい」

 伊佐美の言葉を、真鉤は黙って噛み締めた。

 マルキとの手打ちは成功した。今後真鉤が余程大きな事件を起こさない限り、マルキは干渉しないし、業務を真鉤に押しつけることもない。また、真鉤が偶然マルキの活動に出くわした場合も、マルキに干渉はしない。複雑な事情で互いの利害が衝突したり、真鉤の正体がばれぬようにマスコミをコントロールする必要が出てくれば、その都度条件について話し合いを行う。そういう取り決めだった。

 巡視船いざなみは暫く八久良島の港に停泊することになり、真鉤と日暮は別の小型船で本土に帰ることとなった。

 二人だけの船室で、日暮がボソリと言った。

「今回の目的は、別だったっぽいな」

「どういう意味だ」

 真鉤は尋ねる。

「今回の化け物だが、本当にマルキの手に負えないってほどでもなかったんじゃないか。それほどマルキの層は薄くない筈だ。まあ、すぐ使えるメンツが足りなかったのかも知れんが。……マルキは俺達のデータを採ってたんだ。俺達の戦闘力を見ることが、今回のマルキの目的だったんじゃないか。それが本当の、手打ちの条件だったって訳だ」

「いざという時に始末しやすいように、ということかな」

「さあ、そこまでは分からんがね。自分の息子を差し出して、親父も何考えてんだか」

「……。君を巻き込んで、済まなかったな」

 日暮はマルキとは直接関わっていなかったのに。

「気にすんなよ。どうせ、うちの親父の気紛れだろうさ」

 日暮は組んだ両手を首の後ろに回し、背もたれに体を預けて目を閉じた。

 真鉤は藤村奈美のことを思った。今回の手打ちについて、ある程度のことは彼女にも教えている。携帯があればメールででも無事を伝えたかったが、どんな荒事になるか分からなかったので家に置いてきていた。

 無事に帰ったらメールするように言われていたのでそうする予定だ。この分だと翌日の朝になりそうだが。

 治療出来るかも知れないことについては黙っておくつもりだった。期待させておいて駄目な結果だったら、余計な絶望を味わわせることになる。

 真鉤は伊佐美の勧誘を思い出す。高校卒業後はどうしようかと思っていた。奈美が大学に行くなら自分もそうするつもりだ。だが、その後はどうするのか。

 真鉤は溜め息をついた。そんな先のことはじっくり考えればいい。まずは、殺し合いから平和な日常に戻ることだ。平凡な高校生としての生活に。

 船窓から覗く夜の海は、何処までも暗く淀んでいた。

 

 

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