第二章 平凡な日常

 

  一

 

 藤村奈美は朝の光を感じて目を覚ます。枕元の時計を確認する。六時十分。アラームが鳴るまでまだ二十分ある。ありがたい。起きるまでもう少しのんびりしていられる。奈美は再び目を閉じた。

 最近、自然に早く目覚めることが増えたようだ。

 風が窓から流れ込んでくる。少し湿っぽい。昨日はひどい雨だった。今日はどうなのだろう。瞼に当たる明るさからは晴れのような気がする。晴れだったらいい。奈美はぼんやりとそんなことを考える。

 体のだるさを感じる。まだ眠気が残っているせいだろうか。体調が悪化してはいないだろうか。それが少し、気にかかる。夏バテは……まだ早過ぎる。病院の定期検査は大丈夫だった。だから心配することはない。過敏になっているだけだ。

 よし、元気を出そう。楽しい一日にしよう。奈美はエネルギーを溜めるイメージを思い描く。ゆっくりと息を吸うたびに、体に力が満ちてくる、ような気がする。思い込みでいいのだ。暗示の力を舐めてはいけない。精神状態は自律神経や内分泌の働きを左右して肉体に影響を与えるのだと、テレビでやっていた。沢山笑っていれば癌も治りやすくなるのだと。奈美は目を閉じたままニッと笑ってみる。すぐに自分が馬鹿なことをやっていることに気づき、笑みをやめた後で今度は苦笑してしまった。

 よし。生きる。私は生きる。私は元気だ。

 時計を確認したら六時十五分。五分しか経っていない。今起きるのは勿体ないし、残りの十五分を元気一杯に待つのも変なので、奈美はもう一眠りを試みる。ベッドに沈み込むような感覚。そのまま眠りに落ちるような浮かんでいるような、ユラユラした感じが心地良かった。

 目覚まし時計のアラームが鳴り出した瞬間、奈美は素早く手を伸ばして天辺のボタンを叩き、停止させた。よし。

 着替えや洗顔などを済ませて台所に行くと、母はもう料理を始めていた。

「もう少し寝ててもいいのに」

 母は言う。

「でも、お弁当は自分でちゃんと作りたいし」

 奈美は答えてから大きな欠伸をする。今日のレシピを確認。そうだ、ハンバーグだった。弁当のためにわざわざ朝にこんな手間のかかるものを、という気もするけれど、折角作り方を教わったのだから真鉤にも食べさせてあげたいのだ。

「みじん切りは済ませたから、ボウルで混ぜてくれる」

「ごめんね。全部私がやる予定だったのに」

 母に礼を言いながら、これで彼には母の手の入ったものを食べさせることになってしまうなあと思った。そんな細かいことまで気にすると、お米を磨いでいるのも母なのだけれど。

 ハンバーグのタネを混ぜ捏ねていると、母が言う。

「冷凍にしてたら朝はレンジでチンするだけでいいんだけどねえ」

「そうかも知れないけど、その日に作った方がきっと美味しいでしょ。……多分」

 まだ味の方はあまり自信がないし。出来るだけの努力はしておくべきだろう。

 小さめに形を整え、フライパンに並べて焼く。火が通るのを待つ間に隣のバーナーで卵焼きに挑戦する。これまで何十回も作っているのに、どうしても形が崩れたり焦げたりしてしまうのだ。

 卵にみりん、料理酒、砂糖、醤油、塩を加え、よく掻き混ぜたものを四角い卵焼き器に流し込む。あっ、ちょっと入れ過ぎたかも。三回に分けて焼く筈だったのに。横で母がニコニコして見守っている。

 表面がブクブクと泡を立てる。そろそろ返すべきか。いや、上の方は全然固まってないし。でも待っていたら下の方は焦げてしまうかも。迷いながらも奈美は菜箸を入れた。四隅を切ってからひっくり返す。いつもここでグチャリと崩れてしまう。

 ……今回も失敗した。

 なんとか形の修整を試みた後で空いた場所に追加を流し込む。出来るだけまともなところを真鉤用の弁当に入れよう。

「まあ……多少崩れたって、味は変わんないよね」

 奈美が言うと、母は「多分ね」と曖昧に相槌を打った。

 ハンバーグをひっくり返す。小さく作っているので火の通りが早い。

 でもこれだけ手間をかけて作っても、食べるのはあっという間なのだ。奈美は自分で料理を始めてから母の苦労が分かった。それでも母が料理を手抜きしないのは、やっぱり愛情なんだろうな。

 奈美は真鉤のことを思う。何年も食事の楽しみを拒絶してきた彼が、美味しいと思って笑顔になってくれるのなら、ああ、やっぱり奈美はこの程度の苦労くらい何でもないのだ。

「なるほどね。料理はやっぱり愛情なんだな」

 奈美がしみじみ呟くと、母はギョッとした様子でこちらを見た。

「それにしても……」

 母が溜め息混じりに喋り出す。ああ、あれだな、と奈美は気づく。

「あの真鉤って子の、何処がそんなにいいのかねえ……」

 この台詞を三日に一度は聞いているような気がする。奈美はお決まりとなった台詞を返す。

「すっごくいいとこあるんだから。お母さんには一生分かんないかも知れないけどね」

 分からない方がいいのかも。真鉤の本質を知る人は少ない方がいいのだ。

 ハンバーグと、一緒に焼いたミックスベジタブルにもケチャップをかけて、ちょっと失敗した卵焼きも弁当箱に詰めて、今日の昼食は完成した。なかなか豪華なお弁当になったのではないかと奈美は思う。湿気が篭もるのを防ぐため、暫く蓋は開けたままにしておく。

 朝食は母の作った味噌汁と、シイタケとニラの卵とじで、食べていると父が起き出してきて眠そうに「おはよう」と言った。

 よし。いつも通りの朝だ。

 奈美は母に見送られ、二人分の弁当を持って出発する。空は晴れていた。今日はいいことがあればいいな、と奈美は思う。

 真鉤夭の屋敷は上から見ると多分五角形か六角形になっていそうな、ちょっと妙な形の建物だ。壁はくすんでいるけれど、この間洗ったそうで少しはましになっている。でもなんとなく陰気な感じがするのは、奈美がこの地下室にある焼却炉のことを知っているせいだろうか。

 庭にはアジサイが咲いていた。淡い紫色の花。それから、白・赤・ピンクのホウセンカが広い範囲を陣取っている。ホウセンカを選んだことについては、子供の頃近所の空き地に生えていて、実を触ると弾けるのが面白かったからと真鉤は言っていた。花言葉が「私に触れないで」であることを彼は知っているのだろうか。

 ちなみにアジサイの花言葉は「移り気」なのだが、まあ、そんな細かいことを気にしていたら何も植えられなくなってしまうし。

 玄関の扉は二ヶ所に鍵がついている。呼び鈴のボタンを押すと、数秒して真鉤夭が顔を出した。

「おはよう」

「おはよう」

 奈美が先に挨拶し、真鉤は穏やかな微笑を浮かべて応じる。それから彼はちょっと慣れない感じで社交辞令を述べた。

「今日はいい天気だね」

 何故か奈美はプッと吹き出してしまった。

「変だったかな」

 真鉤は不思議そうな顔をする。それがまた奈美にはおかしくて、笑いをこらえるのに必死だった。

「いや、なんとなくだから。ごめんなさい。気にしないでね」

 手を振って謝り、真鉤が何か言う前にハンカチに包んだ弁当箱を手渡した。

「はい、お弁当ね」

「……ありがとう」

 真鉤は苦笑しつつ受け取った。

 扉の二ヶ所の鍵を掛け終わると、二人は並んで学校へと歩く。通い慣れた道。この道で真鉤が人を殺した雨の日を、奈美ははっきり覚えている。それでも奈美は、真鉤と一緒に歩けるこの道が好きだった。

 真鉤はいつも穏やかな顔をして派手な感情表現をしない。口数も少なめで、自分から話題を振ってくることもあまりない。彼がいきなり芸能人やスポーツの話なんか始めたら、やっぱり奈美は吹き出してしまうだろう。何事も控えめに、目立たぬようにというのが真鉤のポリシーなのは、分かっているのだけれど。

 でも、私達は付き合っているのに、キスをしてくれたのが一度だけっていうのは、ひどくないかな。

 真鉤が奈美のことを、愛して、くれて、いるのは知っている。大切にしてくれているし、いざとなったら命懸けで守ってくれることも経験済みだ。でも、自己主張しない、自分から敢えて接近してはこないこの奥手の朴念仁を、どうすればいいのだろう。

 自分から「キスして」なんて言えないしなあ。そんなことをモヤモヤと考えながら、奈美は顔に出さないように気をつけている。

 そうだ。奈美はこの間から考えていたことを口にした。

「夏休みになったら海に行きたいなあ」

「そうだね」

 真鉤の返事があまりにもあっさりしていたので、奈美は念を押した。

「あのね、真鉤君とだよ」

 真鉤は歩みを止めて奈美の顔を見返し、何度か目を瞬かせた。やっぱり理解してなかったらしい。ちょっと慌てた感じで真鉤は言った。

「そ、そうだね。夏休みになったらね」

 よし、言質を取ったぞ。奈美は内心快哉を叫んだ。次の週末には新しい水着を買いに行こう。

 そろそろ同じ白崎高の生徒を見かけるようになる。自転車で登校しているクラスメイトと二人は挨拶を交わす。久々の晴れの日で、皆の顔も明るく感じられた。

 珍しいことに、学校の門の前に楡誠先生が立っていた。

 彼がただのカウンセラーではなく、特殊な能力を持つ解決屋であることは真鉤から聞いている。マルキ……希少生物何たら機構との和解に関わってくれたことも。そして、その気になれば人間で真空圧縮パックを作り、国会議事堂を瓦礫の山に変えられることも。

 長身に折り目正しいスーツを着て、長い髪は左右対称の真ん中分けだ。男性モデルみたいに整った顔立ちだが、奈美は楡に魅力を感じることが出来なかった。意志や感情が欠落した、動くマネキンを前にしているような奇妙な違和感。それは楡の正体を聞いてから益々強くなっていた。

 楡は中身のない微笑を浮かべ、登校する生徒達に挨拶する。皆も楡に対して普通に接しているが、既に「ちょっと変な先生」という評価になっていた。カウンセリングの内容がまともでないのも一因だが、学校の敷地内で時折妙な振る舞いをしているのだ。花壇に一輪だけ咲いていた花をじっと睨み、グルリと周辺を巡り三百六十度から観察して「このキンセンカは出自が間違っていますね」と呟いたり、塀の一点を指差して「おかしいですね。このブロックは上下逆です」と生徒に説明したり。ブロックには上下の違いなどないのだけれど。いつの間にか体育館の屋根に腰掛けて校庭を眺めていることもあった。

 それからたまに、生徒の何気ない一言に対し、いきなり顔をズズイと寄せてきて瞬きもせずに観察し、面食らっている相手に「なるほど。これは冗談でしたか」と頷いてみせたりするのだ。

 しかし、悪い人ではない。生徒に害を及ぼしている訳ではないし、もしかすると今も陰でこっそり生徒を守ってくれているのかも知れない。そう思うとあまり無下にも出来なかった。

「おはようございます」

 二人でタイミングを合わせて声をかけると、楡は判で押したような微笑を浮かべてこちらに歩いてきた。奈美は思わず一歩引いてしまう。

 楡は真鉤の前に立ち、微笑をそのままに顔を覗き込む。真鉤も人目を気にしてちょっと迷惑そうだ。顔と顔の距離が十センチくらいしかなくて、うわあ、これってどういう図なんだろうと奈美は思った。

 数秒で顔を遠ざけて、楡は頷いた。

「確かに、うまくいったようですね」

「お陰様で。先生にもご迷惑をおかけしました」

 真鉤は当たり障りのない表現で礼を言う。奈美もマルキとの和解の顛末は真鉤から聞いていたし、平気で人を殺すような工作員がもう来ることはないと知り、ホッとしていたところだ。八久良島の住民が大勢殺されたことについては、今のところ全くニュースになっていない。マルキの圧力でそのまま有耶無耶にしてしまうのだろう。

 あまり詳しいことは話してくれなかったけれど、真鉤は島では誰も殺さなかったようだ。怪物も生け捕りにしたそうだし。その分、近いうちに誰かを殺さないといけないだろう。奈美はいつの間にか、真鉤の周期を感じ取れるようになっていた。常に柔らかな物腰を保っているけれど、人を殺したらしい日の後は返事するまでの時間も喋り方も少しゆっくりになる。それから十日くらいすると段々早口になり、ちょっとした反応や動きも速くなってくるのだ。本当に微妙な変化なので気づいているのは奈美だけだろう。いや、もしかすると天海東司は分かっているかも知れないが。

 真鉤が何処で誰を殺す予定なのか、また、何処で誰を殺してきたのかを奈美が尋ねることはない。この前の轢き逃げ犯が『飛び降りた』件などから推測出来ることはあるけれど。

「詳細は電話でお話しした通りです。放課後にカウンセリング室に伺うつもりだったのですが」

「いえ、もう充分です。また何かあったら相談して下さい」

 真鉤と楡とのやり取りはそれで終わった。

 三年四組の教室。今の生徒数は三十四人だった。マルキのエージェントであったサイボーグ・式一三の抜けたのに加え、休学状態だった二人がそのまま退学してしまいこの人数となった。ちなみに式一三は親の仕事の都合で転校したということになっていた。巻き添えで式に殺された九人の生徒については、行方不明という扱いになっている。騒ぎをこれ以上大きくしないようにというマルキの配慮だったようだ。真相を知らされず子供の帰りを待ち続ける遺族のことを思うと、奈美はいたたまれない気持ちになる。

 バラバラ殺人と失踪騒ぎに怯え、全学年合わせて五十名近い生徒が退学や転校をしていった。それも仕方ないことだろう。ただ、残った生徒達にはある種の連帯感のようなものが出来上がっていた。

 クラスメイトの伊東実希が声をかけてくる。どちらかというと母親同士の方が仲が良くて、彼女が一方的に奈美を慕ってくる感じだが。真鉤は奈美と目を合わせると淡く微笑み、自分の席に着いて、背景に溶け込んだ。

 こうして奈美の学校生活は始まる。授業内容の多くはテキストの終盤に入っており、受験対策がメインになってきていた。休み時間にはクラスメイトと前回の模試の結果や夏休みの予定などを話す。来週末にも模試があり、折角の休日が潰れるのは嫌だったけれど、奈美も一応受けるつもりだった。

 昼休みには、真鉤と向かい合わせになって弁当を食べる。

「どうかな、ハンバーグ」

 丁寧に食べる真鉤の様子を見て、奈美は尋ねる。

「美味しいよ」

 真鉤は微笑して答える。でも社交辞令かも知れない。

「遠慮せず、正直なところを言ってね」

「正直に美味しいです」

 真鉤の微笑は苦笑に変わる。それで奈美は、報われたなと思う。

 放課後、定期機関紙の予定もあるのでたまには文芸部に寄ってみたかったけれど今日はやめておく。奈美自身の作品の目処が全く立っておらず後ろめたいのだ。机に向かっても何も浮かばず、つい他のことに逃げてしまう。短い詩でもいい。心の奥底から絞り出すような想いを、卒業までになんとか一つ、書いておきたいのだけれど。

 卒業したら、どうしようか。奈美は考える。一応大学には進むつもりで勉強もしているが、自分が他の人と同じように大学生活を送り、希望を抱いて社会に出ていく姿が想像出来なかった。きっとその前に死んで……いや、前向きになろう。前向きに、生きよう。

 帰り道を一緒に歩きながら、奈美は尋ねてみた。

「真鉤君は、大学はどうするの」

 これまでも何度か尋ねてきたが、はっきりした答えは返ってこなかったような気がする。彼も自身の未来を実感出来ていないような、そんな感じだった。

 今日の真鉤の反応は違っていた。

「藤村さんは何処にするのかな」

 ドキリ、とした。奈美の中で曖昧に漂っていた道筋が、明確な形を取り始めた。

「ええっと、ね、一葉大にしようかな、って。家からも通えるし、倍率もあまり厳しくなさそうだし……」

「なら僕もそうするよ」

 真鉤は即答した。

 胸の奥に熱いものが込み上げてきて、奈美は一瞬自分が泣いてしまうかと思った。泣く代わりに奈美は手を伸ばして、真鉤の腕に自分の腕を絡めた。両腕を絡めようとすると鞄が邪魔だなと思ったら、真鉤が「鞄を持とうか」と言ったので、奈美はつい笑ってしまった。

 

 

  二

 

 土曜日の昼過ぎ、いつものメンバー四人がトワイライトに集合した。繁華街から離れて隠れ家のようにひっそりとある、小さな喫茶店。シックなデザインの内装に、控えめな音量でクラシックが流れている。客も多くないので、陰を生きる者達が一休みするのに丁度いい。

 真鉤夭はベージュの長袖シャツに深い緑色の綿パンという服装で、サンドイッチを食べている。

 その隣の藤村奈美は白シャツに薄青色のスカートで、化粧は淡い口紅だけだ。苺のショートケーキを半分ほど食べたところで、彼女はアップルティーに口をつける。

 テーブルを挟んで真鉤の向かいにいる日暮静秋はどんな季節でも彼なりのスタイルを通し、Tシャツとズボン、靴下からスニーカーまで黒で統一していた。腕時計のGショックも黒モデルだ。足を組んでちょっとふんぞり返り気味の姿勢で、ジンジャーエールを飲んでいる。

 その隣の南城優子は赤いTシャツの上に薄手のジージャンを掛け、ダメージドジーンズという格好だ。茶色のソバージュ・ヘアにファッションモデルのような美貌だが、力強い眉の形や時折見せる視線の鋭さに本質が表れている。レアチーズケーキを食べてしまった彼女は今、腕組みをして悩ましげな溜め息を洩らしていた。追加を頼むべきか迷っているようだ。

「テストも無事終わったんだろ。追試なしで」

 日暮が白崎高の二人に言う。

「はい、大丈夫でした」

「なんとか」

 奈美が、それから真鉤が答える。日暮が目だけ左右に動かして両者を見比べ、真鉤の方に聞いた。

「あんまり良くないのか、成績。目立ったら困るから本気出してないとか」

「そういう訳じゃない。ただ、元々それほど勉強熱心でもないからね」

 真鉤は表情を変えず日暮のからかいに耐える。そこに奈美が突っ込みを入れた。

「でも真鉤君、ノートは凄く綺麗につけてるよね」

「いやあれは、僕の性分であって、勉強が好きって訳じゃ……」

 真鉤が流石に苦笑する。

「不死身なら記憶力もいいかと思ったんだが、脳味噌の質ってのは別かね。それか、頭をやられるたびに脳細胞は再生しても、記憶は飛んだままとか」

 喋りながら日暮はジンジャーエールのグラスに人差し指を向けてクルクル回す。触れてもいないのに、中の氷がカラカラと小さな音を立てて回っている。

「記憶が飛んでるような感じはしないな。自然と抜け落ちてるのはあるけれど。三日前の夕食のこととか」

「今思ったんだが」

 冗談なのかどうかよく分からない真鉤の台詞を無視して、日暮が立てた人差し指を上に向ける。

「『意識の座』ってのは脳味噌の何処にあるんだろうな。首が切れたら感覚は頭だけになるから、意識が頭にあるってのは分かってるんだが。例えば、脳天から顎まで縦に、正確に二等分になるように割られたとしたら、感覚はどっちについてくるのかね。右目で見えるのか左目で見えるのか、興味があるな」

「それを僕で試したい、と」

 真鉤は冷めた視線を返す。日暮は薄い唇の端だけ持ち上げてニヤリとしてみせた。

「普通の人間じゃあ答えを聞けないんだ。真っ二つにした時点で死んじまうからな。お前なら大丈夫だろ」

「なら、言い出しっぺの君がまず試すべきだな。君の感想を聞いてから僕がやるよ」

 物騒な軽口の応酬を聞き流していた南城優子は、「ううーむ」と唸ってから決心したように手を挙げて、カウンターへ声をかけた。

「マスター。追加注文お願いね。カキ氷一つ、イチゴ味で」

 マスターが微笑しながら頷いた。彼は顎髭を綺麗に切り揃えた中年男で、ノンフレームタイプの眼鏡で目はやや下を向いていることが多い。無口だが無愛想ではなく、彼自身も店の一部となってリラックス出来る空間を提供していた。ここでは客が互いの詮索も干渉もしない。

「夏に向けてダイエットするんじゃないかと思ってたんだが」

 日暮に突っ込まれるが、優子は平然と返した。

「カキ氷なんて殆ど水分なんだから別にいいでしょ。それに、若いうちから無理なダイエットをすると体に良くないって話だから」

「まあ、そうだけどな。優子の体重がこの一ヶ月で二キロ増えたことなんて、俺は気にしてないぜ」

「な……」

 優子が顔を赤くして、それから一秒後にはいつもの行動に移った。

「なんであんたが知ってんのよっ」

 上体をひねって打ち込んだ右拳が日暮の顔面に吸い込まれ、ゴヅンとひどい音が鳴った。日暮は少し首を反らせただけで目を閉じもしない。もしかすると首を反らせたのは、まともに受けて彼女の拳が傷むのを心配したのかも知れない。

「彼女の拳が愛情表現であるのなら、それを受け止めてやるのが俺の愛ブフッ」

 得意げに喋る日暮の顔にもう一度拳が入り、彼は目を白黒させた。

「ほんと、おかしな男よね」

 優子が使った拳の埃を落とすかのようにフッと息を吹く。

「そのようですね」

 真鉤は同意した。

「はい、また愛情一本入りました」

 冗談めかす日暮もちょっと弱々しくなっていた。真鉤と奈美は声を出さずに笑う。真鉤は翳りのある控えめな笑みを。奈美は、一見明るく、そして儚げな微笑を。

「それで……そろそろやっとくか。藤村さん。いいかな」

 日暮はジンジャーエールを飲み干してしまうとコップの水も飲んで口腔内を洗い流し、ショルダーバッグから金属製ケースを取り出した。中には待ち針と百円ライターと、密封された試験管のような小さな容器があった。待ち針をライターで軽く炙って消毒する。

「お願いします」

 奈美は掌を上に向けて左手を差し出した。その薬指を日暮は丁寧に摘まみ、待ち針の先端で指先を浅く突き刺した。慣れているため奈美は顔をしかめもしない。

 刺さった場所にゆっくりと、血の玉が浮き上がってくる。その径が五ミリ程度になったところで日暮は針を抜いた。

「よし、いいぞ」

 ついてきた血の滴を舐め取ると、待ち針とライターをケースに戻す。

 ケースを閉じる際、いつの間にか試験管状のガラス容器に数ミリリットルの血液が揺れていた。血を操る日暮の能力により、針の陰を細く伝わせて手の中に隠した奈美の血液。今回は見かけよりも多く採血していたのだ。

 日暮と真鉤はほんの一瞬、視線を絡める。知っているのはこの二人だけだった。

 口の中の血を味わって暫く吟味し、日暮は頷いた。

「大丈夫だな。今のところ再発もないし、新たな悪性腫瘍も出来てないようだ」

「ありがとうございます」

 奈美は笑顔で礼を述べた。やはり何処か儚げな笑みだった。

 カキ氷が到着した。優子はスプーンで山を崩しながら、決まり悪そうに言い出した。

「あの、それで、期末テストの話なんだけどさ。……私、食らっちゃったのよね。追試二つ」

「えっ」

 日暮が心底驚いた顔で恋人を振り向いた。

 

 

  三

 

 天海東司は校舎の屋上で腕立て伏せをやっている。土曜日なのにわざわざ学校に来てこんなことをしているのは、筋トレを毎日欠かさず続ける必要があり、そして、天海にとって筋トレに都合の良い場所がここであったためだ。

 夏でも冬でも吹雪の日でも、天海はここで筋トレを敢行してきた。流石に雨の日は空手部の道場を借りたりしたが。今は曇っているものの雨が降ってはいない。ただ、梅雨が明けるのはまだ先になりそうだ。

 腕立て伏せも五百回を過ぎてくると左腕に痛みを覚える。偽刑事によってねじり折られた前腕。重心を右側に寄せて庇うと、六百回目くらいから右手の指が痺れ始める。粉々になった指の骨に筋肉が巻きついてしまい、握力が低下しただけでなく何かを握り締めるたびに激痛が走るのだ。天海がそれを顔に出すことはないが、ペンは左手で持つようになった。

 七百回。左肘が痛み出す。八百回。体中の古傷が悲鳴を上げ始める。何処かを庇えば別の箇所に負担がかかり、そこを庇えばまた更に別の箇所が、という負の連鎖。天海はいつの間にか歯を食い縛っている。それでも腕立てのペースは落とさない。

 天海は、人間の肉体に限界があることを知っている。奇跡を起こせたとすれば元々それだけの素質を持った怪物か、一億回に一回の希少な幸運であったかだ。

 しかし、ほんの少しだが、精神力の割り込む余地があることも天海は信じている。そうでなければ人間という生物の存在に、人生に、意味などないではないか。

 古い漫画で読んだことがある。逆療法という奴だ。交通事故で再起不能になった男が、無茶なトレーニングを繰り返して体を苛め抜くことで、驚異の復活を遂げたという話だ。なるほど、俺好みのいい話じゃあないか。その程度の奇跡なら、俺にだって起きても許されるだろう。天海は歯を食い縛りながらも独りで笑みを浮かべた。

 千回。更に駄目押しの五十回を足して、天海はひっくり返って休憩した。息が相当に荒くなっている。終盤は地獄だったがそれを通り越すと光が見えてくる。それが本物の希望であることを天海は期待している。

 生徒達のかけ声が聞こえる。天海はのっそりと立ち上がり、息を整えながら柵に肘を乗せ、グラウンドを見下ろした。

 野球部とサッカー部が練習していた。特に野球部は甲子園の予選を前にして気合が入っている。うちは強豪ではないが、頑張って欲しいものだと天海は思う。ひどい事件が続いたから、生徒達に何か希望を持たせるような出来事が必要だった。

 端の方では陸上部が走っている。タンクトップに短パンの女子生徒の肢体が生き生きと動いているのは、実に……眼福じゃあないか。

 カウンセラーの楡誠の姿があった。あっちは女生徒の肢体を堪能している訳ではなくて、アスファルトの地面を見つめながら正門から昇降口までのラインを歩いている。どういう理由で何を観察しているのか、天海にはさっぱり分からなかった。土曜は仕事がない筈なのに、楡も何故か学校をうろついていることが多い。

 回復してきたのでそろそろ腹筋に移らねばならない。天海は空を見上げる。黒雲が迫ってきている。もうじき雨が降ってくるかも知れない。そうなれば天海も部活の生徒達も引っ込むしかなくなる。

「はあー。いつになったら梅雨は明けんのかね」

 天海は呟いた。

「この地域では七月十四日か十五日になります。ただし三パーセントの確率で十六日にずれ込みますね」

 いきなり返事が来て天海は驚いた。屋上には彼しかいなかったのに。しかもこの声は……。

 左横、三メートルも離れていないところに楡誠が立っていた。数秒前まではグラウンド横の道を歩いていたのに。楡は無表情にグラウンドを見下ろしていたが、ふと気づいたように天海に顔を向けて言った。

「もしかして、私への質問ではありませんでしたか」

「ま、答えを貰えたのはありがたいんですがね」

 天海は苦笑した。訳の分からない超能力を持った男だが、天海が恐怖を覚えることはなかった。この男から敵意や邪悪さを感じないからだ。ただし、善意も感じられないのだけれども。

「さっきは何やってたんです。地面をじっと見てた、あれは」

 天海は聞いてみた。まともな答えが返ってくるとも思っていなかったが。

「未来の痕跡を辿っていたのです」

「ははあ、なるほど。そうなんだ」

 暫く待っても次の台詞が来ない。楡は今のだけで説明したつもりになっているらしい。

「ええっと……で、どういう意味です」

「私の役目は生徒達を守ることですから。この先発生する可能性のある脅威を把握しておきたいのです」

 楡は人形のように同じ表情で語る。天海はとっとと切り上げた方が良さそうな気がしてきた。

「ははあ。で、脅威ってのはやっぱりやってきそうですか」

「ええ、来ますよ。死人も出るかも知れませんね」

 楡は微笑さえ湛えていた。天海は一瞬その顔を殴りつけたい衝動に駆られた。どう返すべきか。グラウンドを見ながら考え込み、ふと気づいた時には楡誠はいなくなっていた。

「死人は出させねえよ」

 呟いても楡は戻ってこなかった。

 天海は屋上の床に横たわり、腹筋を開始した。千回こなしたらぬるくなった缶コーヒーを飲むつもりだ。

 

 

  四

 

 雨が降り出した。

 真鉤夭はあまり雨が好きではない。確かに足音や気配を紛らせてくれるメリットはある。しかし、真鉤は雨でなくても足音と気配を完璧に消せるので関係ないし、体から滴る水が、屋内では明確な侵入者の証拠として残ってしまう。取り敢えず今日は下見なので、雨が強くなったら帰るつもりだった。水曜に一人殺したばかりだ。

 JRで六駅分離れた町。暴力団の事務所がある。構成員は多くないが、みかじめ料を払うのを拒否した飲食店に放火したり、暴力団排除を訴えていた住民代表の自宅に銃弾を撃ち込んだりと、悪評の絶えない組だった。

 ありがたいことだ。こういう殺してもいいクズがいるから、僕は生きていられる。

 物陰で真鉤は腕時計を確認する。安物のデジタル時計に雨粒が当たる。午前零時二十二分。

 三階建てのビルが街灯によってぼんやりと浮かび上がっている。周辺の民家は退去するか、塀を高くして関わらないようにしている。隣には建設会社のビルもあるが、関連企業らしかった。

 玄関の上に監視カメラが取りつけられている。それと屋上にも一つ。四か月ほど前に構成員を一人殺したのだが、特に警戒が厳しくなっている様子でもなかった。

 ありがたい。ここはいざという時用のキープだな。死体を隠蔽して事件化させなければ、鶏舎を襲うイタチのようにじっくり一人ずつ狩り殺せるかも知れない。うまくすれば半年くらい持つじゃないか。不埒な想像に、体の奥からゾク、ゾク、と快感が上ってくる。

 いけないな。もう帰った方がいい。まだ予定の日まで一週間以上あるのに、我慢出来なくなってしまいそうだ。真鉤は自分のすぐそばに、魔界への扉が開いていることを知っている。ほんの一歩で簡単に踏み入ることの出来る距離だ。しかし一旦向こうへ渡ってしまえば、二度とこちら側には戻ってこれないだろう。今でも逸脱した殺人鬼だが、なんとかぎりぎりのバランスで真鉤は『人間』を保っているつもりだった。

 ビルの窓から明かりが洩れ、人影が動いていた。真鉤は目を逸らし、来た道を引き返す。

 歩いてここまで来たし、歩いて帰るつもりだった。不慣れな場所は予め地図帳で確認し、持ち歩かずに内容を暗記する。万が一職務質問された場合を考えると、出来る限り余分なものは携帯すべきでない。

 真鉤は今、人工皮膚のマスクを装着している。顔の特徴が消され、一見しただけではマスクとは分からない。適度な粘着力で顔の皮膚に密着し、破れない限りは繰り返し使える。マルキが土産に一ダースもくれたので、相当長く利用出来そうだ。マルキの恩恵を受けるのは嫌だったが、定期的に殺人を犯さねばならない真鉤にとって、自身の安全の方が重要だ。

 雨がひどくなってきた。真鉤は人気のない道を選んで塀際を駆ける。今は特に急ぐ必要もないので屋根を這ったりはしない。帰ってシャワーを浴びて寝よう。明日からはまた学校だ。

 雨の音に、押し殺した誰かの苦鳴が混じった。若い女の声。公園の方だ。

 真鉤は方向転換してそちらに近づいた。小さな公園で、人影は見当たらない。

 広めの公衆トイレに三人の気配が動いていた。荒い息遣い。真鉤は虫のように姿勢を低くして木の陰に滑り込み、内部を覗く。

 二人の男が若い女の服を剥いでいるところだった。ブランドものらしいバッグと開いたままの傘が転がっている。三人共ずぶ濡れで、女の顔は恐怖に歪んでいた。そして、唇に血が。

 残業か飲み会帰りのOLが強姦に遭っているという図か。真鉤は躊躇しなかった。近くに落ちている手頃な石を二つ拾い、右肘から先だけの力で投げる。一年前の自分ならどうしただろうと思いながら。

「ぐっ」

「だっ」

 短い悲鳴を洩らし、二人の男が意識を失って崩れ落ちた。後頭部と側頭部、狙った通りに命中した。ここで殺すまでやる必要はないだろう。運が悪ければ頭蓋骨にヒビが入ったかも知れないが。

 女は動かなくなった男達を見てあっけに取られている。女の視線がさまよってこちらを見る前に、真鉤は公園から出ていった。

 これで一人の人生を救ったことになるだろうか。真鉤の罪も、少しは、相殺されて軽くなっただろうか。いや、そんなことを期待してはいけない。何百人も殺した罪の重みは、これからも一生背負い続けねばならないのだから。

 血液検査の結果はどうなっただろう。真鉤は藤村奈美のことを思った。昨日、日暮にこっそり採取してもらった彼女の血液は、マルキのエージェントに回収してもらった。結果が出るまでどのくらいかかるか分からないが、良い結果が出て欲しい。

 しかし、今でもふとした拍子に見えるのだ。彼女の顔から滲み出る、黒い靄のような死の刻印が。

 人は必ず死ぬ。ただ、奈美の死が近い将来でないことを、真鉤は祈るのみだ。

 後方で若い女の悲鳴が聞こえた。安堵の混じったもの。誰かが警察を呼んでくれるだろう。真鉤は静かに雨の中を駆けていった。

 

 

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