第三章 反乱

 

  一

 

 梅雨が明け、スカッと暑い夏がやってきた。というか暑い。とにかく暑い。焼ける。焼け死んでしまう。藤村奈美は七輪で焼かれる秋刀魚を連想する。あんな感じでチリチリと焦げていくのだ。香ばしい煙を上げて。

 とかなんとか内心げんなりしているのは奈美だけで、他のメンバーは元気だった。……いや、日暮静秋は干からびた蛙みたいにグッタリして、早速パラソルの下で体を丸めている。吸血鬼の彼は夏の日差しが相当に辛いらしい。

 友人に対してちょっと嫌なたとえを使ってしまった。しかしこれは仕方ないのだ。真鉤と二人きりで行く筈だったのに、いつものメンツが加わってダブルデートみたいになってしまったのだから。真鉤のせいだ。日暮達の前で海の話題を出したものだから食いつかれてしまった。奈美は敢えて黙っていたのに。後で真鉤に文句を言ったけれど、彼はどうして怒られているのか分からない様子だった。この朴念仁め。

 ビーチは海水浴客で一杯だった。そこかしこでスイカ割りやらビーチバレーやらやっているし、浅瀬も泳いでいたらすぐ誰かにぶつかりそうだ。ある程度覚悟はしていたけれど、人を見に来たのか泳ぎに来たのか分からなくなる。それでも皆、やっぱり海に行きたがるのだ。鮫が現れてくれたら皆逃げ去ってくれるだろうに。その後で真鉤と日暮が鮫をやっつけて、四人だけでビーチを独占するのだ。奈美は不謹慎なことを考えてしまう。

 日暮の背中は茹でたみたいに赤く焼けて痛々しかった。痩せていて一見貧弱だが、皮膚の下では異様に引き締まった筋肉の束が並んでいる。奈美は古い映画『燃えよドラゴン』のブルース・リーを思い出した。

「だから俺は海なんか行きたくなかったんだよなあ」

 日暮が愚痴る。

「なら来なきゃ良かったじゃないですか」

 本当に。

 日暮は丸まったまま首だけで振り返り、弱々しく苦笑した。

「男って奴は、自分の女には逆らえないようになってるんだ。キスしかさせてもらってないけどな」

 ああ、南城さんが聞いてたら拳が飛んでるだろうなと奈美は思う。

「それにな、やっぱり水着姿ってのは見とくべきだろ。夏の唯一の美点はそれだよな」

 この人もちょっと欲求不満なのかも知れない。

 真鉤はまだ来ない。奈美もパラソルの陰に入っておこうと思った時、背後から声がかかった。

「彼女、暇してるんならさぁ、一緒に泳がない」

 若い男、二人組だった。よく日焼けしていて筋肉隆々だ。片方はサーフボードを持っている。こういうことに慣れている様子で余裕たっぷりの愛想笑いを浮かべている。

 ナンパだ。海ではそういうことはいかにもありがちなのだけれど、ナンパされた経験は初めてなので奈美はドギマギした。いや別に二人が好みのタイプだったとかいう訳ではなくて、こういう気軽にナンパするようなチャラチャラした男は嫌だし、そもそも自分には真鉤がいるのだから、でもこういう時ってどうやって断るのが無難なのだろう。妙に絡まれたりしても困るし。

「いえ、あの、私は……」

 奈美が口ごもっていると、グッタリ姿勢のままで日暮が助け舟を出した。

「やめときなよ。お前らが手をつけていいような相手じゃないぞ」

 二人の視線が日暮の方に向かう。侮蔑の表情が浮かんだのは、自分達よりも貧弱だと判断したのだろう。

「何だ。彼氏いたんだ」

「俺は彼氏じゃない。彼氏は、紳士の俺なんかより十倍は恐い男だ」

 日暮が要らぬ挑発をする。男達はニヤニヤしていた。サーフボードを持っていた方が奈美に尋ねる。

「へえ。君の彼氏って、ヤクザとか」

「いえ、違いますよ」

 答えたのは真鉤夭本人だった。いつからそばに立っていたのだろう。真鉤は普段の冷静さで、網で吊ったスイカを日暮の横に置いてから、奈美と男達の間にスルリと割り込んだ。奈美はホッとしたのと同時に、真鉤をかっこいいと思う。

「ふうん。君がこの子の彼氏」

「はい。そうですが、十倍までは恐くないですね」

 真鉤は穏やかな態度を崩さなかったが、奈美は嫌な予感がした。ちょっと早口になっている。まずいかも。ここは奈美達の住む町からは遠いし、知り合いに見られていることも多分ないだろう。真鉤がちょっと本来の力を見せようと考えても不思議はない。それが勢い余って、ついでに殺人のノルマをこなそうとなったら……。いや、大勢の人がいるのだしそんなことにはならない筈だけれど。

 奈美は雪の日のことを思い出した。絡んできた三人組を、真鉤はあっさり始末してマンホールの下に隠したのだ。

 無意識に、奈美は真鉤の左腕に触れていた。紫外線のダメージとは無縁の日焼けしない肌は、しかし、熱かった。真鉤は振り向いて奈美の表情に気づき、ビクリ、とした。

「ごめん」

 奈美の懸念を悟ったらしく、低い声で真鉤は頷いた。それから二人の男に向き直る。

「失礼しました。彼女とは僕が付き合っていますので、お引き取り下さい」

 真鉤は軽く一礼までしてみせた。丁寧だけどちょっとおかしな台詞だ。男達は吹き出して、サーフボードの方が馬鹿にしたように言った。

「なんだ、恐いとこは見せてくれないのか」

 ああ、この二人も馬鹿だ。

「見せた方がいいですか」

 真鉤が口調を変えずに問い返す。また悪い方向に傾いてきた。

「ああ、見てみたいな」

 サーフボードが言う。奈美がハラハラしていると、真鉤がニコリと笑って頷いた。

「分かりました」

 風圧を感じて奈美は目を瞬かせた。その時には既に、サーフボードの男はクニャリと崩れ落ちていた。

「……。えっ」

 もう一人は数秒してやっと状況を理解したようで、相棒と真鉤の顔を交互に見ている。相棒は白目を剥いて、完全に気絶していた。倒れかけたサーフボードを真鉤が掴む。

「軽い脳震盪くらいで、命に別状はないと思います。だから、騒ぐ必要はありませんよ」

 後半の台詞には微妙な圧力が篭もっていた。真鉤は変わらず微笑していた。

 男は何か言いかけてやめ、それから途方に暮れた顔で周りを見回した。海水浴客達の一部は事の成り行きを黙って見物していたが、彼らの表情は何故かちょっと嬉しそうだった。

「では、お引き取り下さい」

 真鉤はサーフボードを男に渡し、倒れた相棒の腕を掴んで引き起こすと、男にもたせかけてやった。

 大人しくなってしまった男は何も言わず、相棒を引き摺って去っていった。

 真鉤は多分、目に見えないくらいのスピードで相手の頭か顎を叩いたのだろう。あっさり気絶させる技術を真鉤は持っているらしい。その時奈美は真鉤の左腕に触れていたのに、彼が動いたことに気づかなかった。

 怪我はさせていないし、ひとまずは平和的な解決だろう。真鉤は振り向いて、奈美に尋ねた。

「これくらいなら許してくれるかな」

「許すっていうか……うん、許す」

 奈美は苦笑しながら頷いた。

「てっきり傷をつけずに内臓破裂くらいさせると思ったんだがな。それか骨の五、六本折るとか」

 日暮がまた余計なことを言っているが、構っている暇はない。もっと大切なことがあるのだ。

「えーっと、ね。どうかな、水着」

 聞いてから奈美は顔が熱くなった。初めて着るビキニ。このために勇気を出したのだから、褒美があってもいい筈だ。

 真鉤はちょっとキョトンとした様子から、我に返ったみたいに何度か瞬きをした。それから真剣な顔で奈美の上から下までじっくり見る。奈美は恥ずかしさで体がチリチリと焼けるような感じがした。

「似合ってるよ」

 真鉤は左掌で自分の頬を押さえながら言った。 

「ええっと、出来ればもう少し、詳しい感想が欲しいんだけど……」

 奈美が必死の追い打ちをかけると、真鉤の押さえた頬がちょっとだけ赤らむのが見えた。

「そうだね……似合って、あ、いや……ええっと、綺麗で……セ、セクシー、です」

 苦しげに言葉を搾り出す真鉤におかしくなって、奈美は笑いながら真鉤の肩をバンバン叩いてしまった。

「はい、合格ね」

「それは良かった」

 真鉤は赤い顔のまま曖昧に微笑する。彼は普通の藍色の海水パンツで、日暮ほど痩せてもないけれど筋肉質でもない。でも彼が強いことを奈美はよく知っているし、充分にかっこいいし大好きだった。

 上体を伏せたままこちらに顔を向け、日暮が言った。

「うん、似合ってるな。プロポーションもなかなかバランスが取れてるし。スリーサイズは上から八じゅ……」

 真鉤がとんでもなく素早く動いて日暮の口を塞いだ。日暮は奈美のスリーサイズを知っているのか。女性を見慣れているから一目見ただけで分かるとか。奈美はあっけに取られ、続いて怒りが湧いてきた。当てずっぽうかも知れないので最後まで聞いてみたいけれど、いや、やっぱり喋らせたくない。

 日暮の首辺りでグギッ、という音が聞こえた気がしたが、錯覚ということにしておこう。真鉤は平然と戻ってくる。

「そういえば南城さんはまだかな」

 奈美が言うと、日暮が立てた親指で後方を示した。

「漸くお姫様の登場だ」

 そちらに目を向けると、大勢の人込みが左右に割れ、空いた道の中央を南城優子が歩いてくるのが見えた。まるでモーゼみたいに。

 奈美は思わず「うぐっ」と声を洩らすところだった。

 南城の水着は腰巻のついた茶色の布ビキニで、それ自体は特に過激なものではない。ただ、そのボディが、何というか、グラビアアイドルもかくやと思われるくらいに、ああ、こんなの反則だ。普通ならもうちょっとここがこうだったらとか小さな欠点の一つや二つはあるのに、普段着の時もスタイルいいとは思ってたけど、胸大きいなとは思ってたけど、南城さんって着痩せするんですね、とかなんとか奈美の思考は混乱気味だ。健康的な色気といえばそうなのだけれど、レベルが高過ぎて、これは男の人の目は釘づけになるだろうなと思う。女でも釘づけになる。奈美はもうショックを受けて、自信喪失してしまって、このまま逃げ帰ろうかと思ってしまったほどだ。

 羨望と欲情と畏怖の混じった大勢の視線を、南城は全く気にしていないようだった。奈美達に気づいて手を振ってくる。

「俺はなあ、ちょくちょく考えるんだ」

 日暮の台詞は何故か溜め息混じりだった。

「こんな凄い体をしておいて、どうしてこの女はキスしかさせてくれないのか。しかもキスを迫っても三回に一回は殴られる始末だ。もしかすると俺が紳士なのがいけなくて、彼女は押し倒されるのを待っているんじゃないか、とか……」

 南城が近づいたため日暮は黙り込んだ。その背にドッカと腰を掛け、彼女はニコリと笑って言った。

「じゃあ、泳ぎましょうか。あ、その前に日焼け止め塗らないとね」

「では、お塗りしましょうか、お姫様。じっくりまったり丁寧に」

 恋人の尻の下で日暮が提案する。ちょっと嬉しそうな声になっていた。奈美の日暮に対するイメージが、今日で随分変わってしまった。

「いや自分で塗るから。まあ、背中くらいは塗らせてあげてもいいけどね」

 真鉤は南城をどんな目で見ているんだろう。奈美は隣に立つ彼の顔を確認してみたが、いつも通りの控えめな微笑で見守っているだけだった。何も感じてないのかな。それはそれで物足りないような気もする。なかなか表情に出さないからなあ。

「ええっと、私もまだ日焼け止め塗ってなかったし。真鉤君……」

 しかしその時には真鉤は顔を真っ赤にして飛びすさり、スルスルと素早く逃げ走って人込みの中に消えてしまった。

「そっちはそっちで大変そうだな」

 日暮が椅子状態のままで同情を示した。

「藤村さんには私が塗ってあげるね」

 南城が無邪気に言った。

 クリームを塗り終えたらいつの間にか真鉤は戻ってきていた。それから四人で泳いだり、焼きソバを食べたり、スイカ割りをやったりした。ちなみに棒を振らされたのは奈美で、命中はしたけれど少し凹んだだけで、止めは南城が刺した。人の脳天も叩き割れそうな勢いだった。断面はちょっと崩れてしまったし冷えてなかったけれど、とても美味しかった。それから夕陽に染まる海を眺めて、花火をやって、輝きを失って落ちる線香花火を見てしんみりしたりした。

「楽しかったな」

 夜になって元気が出てきた日暮が言い、皆も頷いた。奈美もいい思い出が出来たなと思った。海水浴なんて、これがもう最後かも知れないけれど。奈美はそれを口に出したりはせず、帰りの電車の中で、ずっと真鉤の手を握っていた。

 

 

  二

 

 真鉤夭が二週間に一度のノルマを終え、帰宅すると留守番電話にメッセージが入っていた。

 誰からだろうか。藤村奈美ならおそらく携帯のメールの方に入れるだろうし。学校からの連絡だろうか。三日後に登校日だが何かあったのか。それとも楡先生からとか。

 先週の海水浴は楽しかった。自分が普通の人間で、普通に青春を満喫しているような気がした。

 だが実際には真鉤は薄汚い殺人鬼だった。今日殺したのは小さな放火を繰り返していた男で、連続する不審火のニュースを見てから自力で探し当てたものだ。別に正義のためとか社会を守るためではない。どうせ誰かを殺さないといけないのなら、相手は悪党がいい。それだけのことだ。だからガソリンを入れた缶とマッチで民家に火を点けるところを見ても捕まえなかったし、自分の周期ぎりぎりまで待ったため四日間放置することになった。それまでに新たな放火が二件。もし死者が出ていたら、真鉤にも責任があったろう。また、死体の処理が面倒だったので、階段から転げ落ちたように見せかけて頭を割った。別に惨殺しなくても殺人欲求はクリアされるので、最近はこんな殺し方が増えている。

 人を殺すことで、生命エネルギーを吸い取っているのだろうか。定期的に補充しないと生きていけない欠陥体質という訳だ。そう考えると吸血鬼にも似ている。ただし、吸血鬼は人を殺さなくていいので、余計な罪悪感を背負わなくて済むのだが。

 そんなことを考えながら自宅の点検を終え、真鉤は電話機の前に戻った。再生ボタンを押す。メッセージが一件あると電子音声が伝え、聞いたことのある男の声が喋り始めた。

「こんばんは、マルキの伊佐美です。この間の件の結果が出ましたので、電話を頂けませんか。教えておいた番号で、私の名前を出してもらえれば結構です。午前二時くらいまでは起きていますので」

 盲目のサイコメトラー・伊佐美界からだった。丁寧で、ちょっと親しみすら感じられる口調だった。

 とうとう来たか。真鉤は身を固くした。八久良島の件から一か月以上が経ち、そろそろではないかと思っていた。巡視船内で採られた真鉤の血液と、喫茶店でこっそり日暮静秋に採取してもらった藤村奈美の血液。自分の体質について何か分かれば少しは気持ちの整理もつくかも知れないし、奈美の遺伝子治療が可能だったら、彼女にへばりついた死の影も消えるかも知れない。それなら、彼女は他の普通の人達と同じように、平凡で幸福な人生を歩めるかも知れないのだ。

 もうそうなったら、彼女の人生に自分は不要かも知れないな。ふとそんなことを思い、真鉤は胸の奥が痛くなった。包丁で心臓を抉られたのと同じくらいの痛みだ。心という奴は、相当に厄介なものらしい。

 メッセージは午後八時のものだった。時計を見ると午前零時半。まだかけて良い時間だ。明日まで待つことも考えたが、先延ばしにしても何も進まないので真鉤は覚悟を決めた。携帯に登録してあるマルキの番号に初めてかけてみる。

 二度のコール後に相手が出た。若い男の声で「はい、親愛動物センターです」と聞こえた。カムフラージュに受付ではこう名乗っているのだろう。

「夜遅くにすみません。真鉤といいます。伊佐美さんは起きていらっしゃいますか」

 真鉤も取り敢えず丁寧語を使う。数秒の沈黙の後、同じ口調で声が返ってきた。

「ではお手数ですが、下のお名前も含めてもう一度名乗って頂けますか」

「真鉤、夭です」

「……はい、声紋で本人確認取れました。では伊佐美調査官にお繋ぎします」

 保留の音楽が流れ出した。声紋を確認したということは、八久良島の件で会った時に会話を録音されていたのだろう。この手の組織ならやって当然か。

「こんばんは、伊佐美です」

 音楽が切れて伊佐美が出た。繊細さと脆弱さを感じさせる声。

「夜分すみません、真鉤です。留守電のメッセージを聞きましたので……」

「はい、ひとまず結果が出ました。それから、未特定1854についてもある程度のことが分かりました。折角なので聞いておきますか」

 真鉤はなんだか本題前にはぐらかされたような気がした。だが、性急に結果を尋ねるのも自分の弱みを見せるようだし、確かに八久良島の顛末も気になっていたのだった。大勢の島民が死んだことも全くニュースにはなっていない。

「では、そちらからお願いします。生き残った人達は無事でしょうか」

 口封じのため、マルキに始末されませんでしたか。察したらしく、苦笑する気配があった。

「大丈夫ですよ。今は普通に島で生活しています。マルキ系列の監視員が駐在として入っていますがね。それで、未特定1854ですが、リゾートマンションを建てるために古い神社を潰し、基礎工事を始めたところであれに当たってしまったようですね。栄養不足のため仮死状態となり、五百年以上は地中で眠っていたようです。それを封印する目的で神社が作られたかどうかは分かりませんでした。島にも特に伝説は残ってませんでしたし。ちなみにうちの研究員は、微生物の方が未特定1854の本体ではないかと言っています。今後も研究を進めていきますが、ひょっとすると臓器移植の免疫反応抑制や、失った四肢の再生などに役立ってくれるかも知れません」

「そうですか」

 今後の医療に役立つのなら、それはそれで良いことなのだろう。真鉤はふと軍事利用の可能性を思い浮かべた。感染させ巨体にした凶暴な獣達を敵領地に放つのだ。悪の科学者組織なら考えそうなことだが、真鉤は流石にそこまで突っ込むつもりはない。この手の特殊な生物を表沙汰にしないように国際協定で決まっているそうだし。

「今はまだ便宜的にヤクラ菌と呼んでいますが、近いうちに細菌の名称を決めることになります。『ミート・コネクター』と『ボディー・マージャー』が今の候補ですね。あ、マージというのは併合するとか溶け合わせるという意味です。真鉤君も何か良い名前の案があれば受けつけますよ」

「……いえ、特には」

 あまりセンスのないネーミングだと思ったが、真鉤は言わないでおいた。

「それで、本題です。君の結果と、藤村奈美さんの結果。どちらを先に聞きたいですか」

 さらりと尋ねられ、真鉤は急に心臓の鼓動を感じた。いよいよか。自分のことも早く知りたいが、知ってしまうのも怖い気がする。いや、それより大切なのは、彼女のことだろう。結果がどうだろうと、彼女のことを先に聞くべきだ。

 真鉤は言った。

「藤村さんの方を先にお願いします」

「分かりました。念のため言っておきますが、この結論は現時点の医療・生物科学レベルでの話ですから、今後変わっていく可能性もあります」

「分かっています」

 答えつつ、真鉤は少々混乱している。こんな前置きをするということはどういうことか。良い結果であればこんなことを言う必要はないのでは……。

 伊佐美の声が告げた。

「藤村奈美さんは、残念ながら、今の治療レベルでは根治的な治療は不可能です」

 ああ、やはりそういうことか。期待させておいて元の木阿弥に……。

「複数の要素が絡んでいますが、全細胞の働きに関わる酵素の異常は致命的です。遺伝子治療で補える代物ではありません。全細胞の総入れ替え、となれば、それはもう、本人ではなくなってしまいますから」

 猛烈な怒りは誰に対してか。伊佐美は感情を抑えた口調で、いかにも他人事のようではあるが、下手な同情などが含まれていたら真鉤は殺意を覚えていただろう。伊佐美に落ち度はない。真鉤が怒るべきは、ただこの理不尽な現実に対してなのだろう。生きていれば必ず死ぬ。それは自明のことなのに。

「……そうですか」

 真鉤はそれだけを言った。

「新たな悪性腫瘍が発生していないかの定期的なフォローと、対症療法的な治療は可能です。少なくとも一般病院の治療よりは数段レベルの高いものが提供出来ると思います」

「そうですか。その際は、よろしくお願いします」

 真鉤は事前に彼女に知らせていなくて良かったと思った。本当に、良かった。しかも今後最先端の医療が受けられるのならば、それはそれで良いことではないか。最善の選択だ。そう、状況が悪くなった訳ではない。真鉤はそう思い込もうとした。

「それから、君自身の結果です」

 伊佐美が言った。その声音に含まれる微妙なニュアンスに、真鉤は意識を引き戻される。彼らにも予想外の結果だったのだろうか。真鉤は耳を澄ませて次の言葉を待った。

「真鉤君の血液からは、何の異常も認められませんでした」

「はあ……えっ」

 どういう意味だ、それは。異常なしとは、いいことなのか。

「ゲノム解析によって、DNAのどの部分が人間のどの性質を決定するかある程度判明しています。肉体的な素質から性格傾向、精神病の素因まで分かるのですよ。君の遺伝子は普通の人間のもので、突然変異と取れるようなものはありません。つまり君は所謂ミュータントではありません。念のため細胞内のミトコンドリアも調べましたがこれも正常でした。ただし、細胞のDNA以外にも個体の性質を決める要素は存在します。君の血液を、クロマトグラフィーに電子顕微鏡、放射線照射や細胞培養などあらゆる手段を用いて解析しました。結果、特に異常はありません。君は、ごく一般的な、普通の人間です」

「で、でも僕は殺人鬼で、筋力とか、傷がすぐ治ることとか……」

 真鉤は伊佐美が嘘をついているのかと思った。何か画期的な結果が出てしまい、勿体ないから真鉤に知らせず極秘に研究を進めるつもりなのかと。しかし、それでも真鉤に嘘を言う必要があるだろうか。

「分かりません。それが今の最先端の科学の、結論です」

「でもそれだと僕は……」

「肉体の方に何もなくても、魂の方にはあるかも知れません。君が幽霊の存在を信じているかは知りませんが、私は少なくともそれに近い現象に触れたことはあります。まあ、ESPやサイコメトリーなどもまだ科学では解明されていない訳ですからね。……ということで、今回はお互いに残念な結果となりましたが、出来ればこの先も良好な関係を続けていきたいと思っています。……真鉤君、大丈夫ですか」

「……はあ……」

 真鉤は自分の口が動くのを感じ、自分の声を聞いたが、意味は分かっていなかった。伊佐美の声も遠くなっていた。

 異常はなかった。遺伝子の異常はない。遺伝子のせいではなかった。

 何も異常はなかった。

 蝉が鳴いている。前から聞こえていたっけ。そもそも蝉は夜中に鳴くものだったか。

 真鉤の前に、虚無がポッカリと口を開けていた。浮遊感覚に囚われる。真鉤を支えるものがなくなってしまったような。恐ろしい、暗い虚無が待っている。

 いつの間にか携帯は切れていた。もう蝉の鳴き声も聞こえない。何も聞こえない。

 無音の中で、真鉤は力なく、蹲る。

 

 

  三

 

 真鉤夭への報告を終え、伊佐美界はデスクトップパソコンに向き直る。キーボードの上に右掌を掲げ、人差し指をキーに落とす。盲目を補うのはサイコメトリー能力か、それとも慣れか。

 テキスト朗読プログラムが、落ち着いた女性の音声でファイルの読み上げを再開した。

「構築された神経に沿って新たな血管が新生されるが、それまでの間は元の組織由来の血管も一部使用される。血流回復後は全体のバランスに応じてその部位のリモデリングが行われる。筋肉の配列修整から骨格の再構築、また、心臓、肺、肝臓などの重要臓器の体内深部への移設は、休眠中に数時間で、或いは段階的に数日をかけて行われる。複数の生物由来の組織が混じり合うが、拒絶反応は皆無である。ヤクラ菌から分泌される蛋白質が白血球の受容体をブロックし、免疫系の働きを抑制することが判明しているが、他にも複数の経路を遮断していると思われる。外部からの他の細菌やウイルスの侵入には、現時点で明確な防御機構は認められない。ただし、血液と組織内に増殖・充満したヤクラ菌それ自体が細菌の壁を作り、他の細菌の定着を防いでいるとも考えられる」

 未特定1854の細菌に関するレポートだった。伊佐美は高級オフィスチェアに背を預け、動かずに聞いている。

 伊佐美のいるマンションは人里から離れた山の上に建っている。山を含めた広大な敷地を希少生物保護管理機構が所有しており、頂上と麓、そして岩盤をくり抜いた地中にも研究実験施設が築かれていた。マンションは研究員と一部の現場活動班のためのもので、伊佐美は用がない時はここにいることが多かった。ベランダからの眺めは良いが、盲目の伊佐美がその恩恵に与ることはない。彼に割り当てられた3LDKは、雑多な品で埋め尽くされていた。彫像や壷などの美術品から子供向けのような縫いぐるみの人形、脚の折れた椅子や焦げた麦藁帽子など役に立たないものまで、統一性なく棚に並んでいる。額縁入りの絵画までが棚に突っ込まれていた。これらに金銭的価値はない。伊佐美はサイコメトリー能力によってお気に入りの品々の付加情報を観賞し、精神の安定を図るのだ。

「……捕獲した個体の脳は十三個であったが、取り込まれた人間の脳も含めて一定の改変を受けており、実際に機能していた部分は脳幹部と大脳辺縁系、そして独自に構築された巨大神経束程度と思われる。この巨大神経束は体内に複数存在する脳同士を繋ぎ合わせ、連携して機能させる役割を負っている。複数の脳のうち、どれが主軸となって機能しているか、記憶のバックアップが複数の脳に保存されているかなどについては、今後の……」

 伊佐美はキーボードに触れ、読み上げを停止させる。背もたれから上体を離し、考え事をするように伊佐美は凝固している。濃い色のサングラスの下で、眉も目もない皮膚が僅かに動いた。

 受話器を取り、短縮ダイヤルでコールした先は地下研究所だった。捕獲したばかりの生物を隔離し、危険な実験を行うマルキの最重要施設。

 呼び出し音が十度鳴っても相手は出なかった。伊佐美は諦め、別の短縮ダイヤルにかけ直した。二十四時間常に誰かが詰めている、マンションの管理人室。

 呼び出し音を五度聞いて、伊佐美は受話器を置いた。

 机の上で充電中だった携帯を取り上げ、伊佐美は隣の部屋へ歩きながら操作する。手探りで下、右、下、そして通話ボタンを押す。

 登録された名称は「緊急」となっていた。

 相手に繋がる前にすぐ切った。携帯を閉じて廊下を歩く。伊佐美はトイレに入る。ドアを閉め、ズボンを履いたまま洋式便器に腰を下ろした。上着の中に手を入れ、小型の拳銃を抜いた。リボルバー式で装填数は四発しかないが、強力な炸裂弾が収まっている。

 ドアの向こうで、ゴソリ、と、音がした。伊佐美は撃鉄を起こして両手で拳銃を構える。

 メシ、メキ、バジ、と板の割れる音が続く。廊下の床が破れたらしい。伊佐美の銃口は下を向いていたが、ゆっくりと、水平に持ち上がる。

「いつ、きがついた」

 舌足らずでイントネーションのおかしな声がドア越しに届いた瞬間、伊佐美は引き金を引いていた。二発。発射音よりドアの爆発音の方が激しかった。破片と幾らかの肉片が散り、伊佐美のスーツにかかる。サングラスにもかかるが、伊佐美は拭おうとしなかった。

「いつ、きがついた」

 同じ声がした。

 ドアに空いた大穴の奥に、赤い肉の壁があった。流れていた血はすぐに止まり、剥き出しの肉を周囲から皮膚が寄って完全に塞ぐ。炸裂弾による傷はあっという間に回復してしまった。

「ほんの三分前ですよ。床から読み取ったんです。官舎の住民が全員死んでいると」

 伊佐美が答えた。緊張して顔は青ざめているが、声は震えなかった。

「けんきゅうじょの、ほうも、みなごろしに、した。とっぷすりーが、いなくて、ざんねんだったが、まあ、いいさ。たのしみは、あとのほうが、いい」

「君の反抗心は把握していましたが、行動に出るのはもっと後かと思っていましたよ。須能君」

「ちょうどいい、ものがてに、はいったからな」

 台詞の後で、ドアの向こうの気配は不気味な音を立てた。グビュィッ、ゲビュッ、という歪んだ呼吸音は、笑い声、なのか。

「ヤクラ菌は、今後の改良を待った方が良かったのではありませんか。君自身の脳が侵される危険もあるんですよ」

 少しの間、奇妙な沈黙があった。

「……おれは、だいじょうぶだ。こいつを、つかう、しかくがある」

 人間離れした声音のせいで、込められた感情の変化は隠されていた。

「根拠のない自信に酔うのもいいですが」

 伊佐美の青い顔には脂汗が浮いていたが、それでも決め台詞を吐いてみせた。

「そんな人は大概早死にしますね」

「ためして、みろ」

 ドアの向こうの気配が言った。

 伊佐美は引き攣った笑みを浮かべ、拳銃の残弾二発を発射した。爆発でドアが粉々になり、奥から怪物が飛び込んできた。人間と羆をかけ合わせたような全裸の巨人。所々に密集して生えた体毛は人間の毛髪で、その近くには人間の顔の皮膚がマスクみたいにへばりついていた。殺して取り込んだ研究所員達の肉で、この怪物は構成されているのだ。蓄えた肉量で胴は異様に太く膨れ、二メートル近い腕の先端には折れた骨が何本も突き出していた。相手の肉を引き裂いて細菌を打ち込むための、爪の代用品。

 幅一メートルもありそうな巨人の頭部に、三つの顔が埋まり込んでいた。断末魔のように歪んだままの皮膚。一つは上下逆さで、片目が潰れている。残り五個の無事な目が伊佐美を見つめていた。

 伊佐美は拳銃を捨て、便座の側面にある隠しボタンを押した。巨大な二つの腕が伊佐美の体に触れる寸前、ボシュゥッ、という破裂音がした。トイレの奥の壁が消し飛んで、その向こうは暗い夜空が広がっていた。

 便座に腰掛けた状態で伊佐美は空中に射出されていた。非常時用の緊急脱出装置。貯水タンクに見せかけたものの左右から、プラスチック製のアームが伸びて伊佐美の胴を固定している。射出一秒後、透明な薄い膜が広がって便器と伊佐美を完全に包み込み、シャボン玉のように膨らんでいった。防弾・耐衝撃の特殊素材で、地上一キロから落下しても中の人員を守るシステムだった。

「それでにげられると、おもっているのか」

 破れた壁の際に立って怪物が言った。頭部についた顔の一つが、歪んだ表情のままで喋っているのだった。その台詞が飛んでいく伊佐美まで届いたかは分からない。既に二百メートル以上離れていたのだ。

 怪物が身を屈めた。太い足はどれだけの跳躍力を発揮するか。或いは山を駆け下りて伊佐美を追うつもりなのか。

 だが次の瞬間、マンション全体が爆発した。怪物の姿は爆炎に呑まれ、マンションはあっという間に倒壊して瓦礫の山に変わった。

 伊佐美を包んだカプセルは緩い放物線を描いて落下していく。二番目の隠しボタン……爆破スイッチから指を離し、伊佐美は呟いた。

「大変なことになりました……。これで始末出来ていればいいのですが、おそらくは……ゴフッガフッ」

 何度か咳き込んで、口元を覆った手には鮮血がついていた。アームで固定された伊佐美の胸に二本、細長い骨が突き立っていた。自分の骨ではない。マンションから脱出した瞬間に、怪物が撃ち出したのだ。未特定1854が八久良島でやってみせたように。

「抗生物質を……飲まないと……ゲフッ……ゴボッフッ……」

 伊佐美は湿った咳を繰り返す。その顔から益々血の気が引いていく。カプセルが何処かに着地した。激しいバウンドに揺られながら、伊佐美は意識を失った。

 

 

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