第五章 怪物のノスタルジー

 

  一

 

 その男は暫く前からベンチに座っていた。

 九月。数日前に二学期が始まったばかりの白崎高校。その正門が見える場所にあるバス停に、男はいた。バスが到着しても男は動かない。少し待ってから扉を閉じ、バスは去っていく。そんなことを何度も繰り返していた。

 男は木製のベンチに寄りかかって、眠っているように見えた。乾いた土のついた麦藁帽子が斜めに鼻の下までを覆っている。大柄で、肥満体だった。二百キロを超えているかも知れない。薄汚れたランニングシャツの腹はでっぷりと膨れ、ベージュのカーゴパンツは脛の辺りが破れていた。

 男の胸腹がゆっくりと動き、同じペースで呼吸を続けていた。それ以外の部分は、ピクリとも動かない。

 停留所に屋根はなく、少しはましになったとはいえ夏の強い日差しを男の体はまともに受けている。しかし男は汗を掻いていなかった。時折吹く風に麦藁帽子が揺れ、少しずつ、ずれていく。たまに通りかかる人も、男を一瞥するだけだった。

 終業となる少し前の、午後三時四十五分。またバスが到着し、去った時にはスーツの男が立っていた。バスから降りるためのドアは開かなかったのに、何故か彼は唐突に、そこに出現したのだ。

 スーツの男は髪を真ん中分けにしていた。整った顔は涼しげな微笑を浮かべているが、それ以外の表情変化が殆どなく、何を考えているのか内面を窺わせないところがあった。彼は黙ってベンチの前に立ち、麦藁帽子の巨漢をじっと見つめていた。

 両者共動かぬまま、数分が過ぎた。

 次のバスが到着し、腰の曲がった老婆が降りた。向かい合う二人を見向きもせずに、杖をついて去っていく。

 老婆の姿が曲がり角の陰に消えてから、スーツの男が呟いた。

「おかしなものがいますね」

 少しして、麦藁帽子の下から声が返った。

「俺が見えるのか、『ミキサー』。お前にとっては、そこらの石ころと同じに映るかと、思ったが」

 抑揚の少ない、ゆっくりした喋りだった。

「石ころにもバラエティがありますよ」

 『ミキサー』楡誠は平然と答え、改めて尋ねた。

「何者ですか」

「……須能神一」

 巨漢は麦藁帽子を外さない。

「ふむ。生徒の一人から話を聞いています。マルキを離脱したとか。目的は何です」

「答える義務は、あるのか」

「義務などは特にありません。不確定要素は排除するだけです」

 脅すような口調でもなかった。楡は必要と判断すれば、本当にあっさりと実行するだろう。

「パトロールは、学校の敷地内だけかと、思ってたが。気の利かない奴だという、噂だったからな」

「確かによく言われますね。人の心が分からないとも。しかし、少しずつ学んでいるつもりです」

 楡の微笑は揺るがなかった。

 男が言った。

「今の目的は……そうだな、練習と実験、というところだ。試行錯誤してここまでなるのに、一ヶ月かかった。まだ上達したいな」

「練習と実験を、白崎高校の近くで行う必要もないのでは」

 楡が突っ込む。その時強い風が吹いて、麦藁帽子が揺れた。顎に申し訳程度にかかっていた紐も外れ、帽子がずり落ちた。

「どうせお前には、分からんさ」

 巨漢は口を動かさずに答えた。

 露わになった巨漢の顔は、上半分が存在しなかった。大きな獣にでも丸ごと齧り取られたように、鼻梁の途中から頭頂部までがゴッソリ抉れていたのだ。断面は薄い皮膚で覆われて、骨と空洞に沿った僅かな凹凸が見て取れる。

 声はそこから出ていたのだろう、クレーターの中心部に丸い穴が開き、血走った眼球が一つだけ覗いていた。麦藁帽子の網目越しに、楡を見据えていたのだろうか。

 男の異形に最初から気づいていたらしく、楡は無反応だった。彼はただ告げた。

「では、強制的に排除し……」

 楡が喋り終わらないうちに、ボブォッ、と、突然巨漢が破裂した。爆炎も煙もなく、ただ勢い良く血肉が飛び散ったのだ。ベンチもアスファルトの地面も、バス停の標識もドロドロにコーティングされた。丁度前を走っていた軽自動車は左側面が真っ赤に染まり、女性ドライバーが大口を開けた凄い形相でフラフラと通り過ぎていった。車の窓が開いていれば絶叫が聞こえただろう。

 男の痕跡は、ベンチにへばりついた背・尻の肉板と、背骨と手足の骨格だけになっていた。

「なるほど、自爆するための構造だったのですね」

 楡は独り呟いた。彼の顔もスーツもベッタリと肉片で覆われ、十数本の骨が突き立っていた。肋骨もあるが腕の骨らしきものも何本かあった。ベンチの残骸にも腕の骨は残っており、爆裂した男は数人分の材料を使っていたのだろうか。

 血みどろの麦藁帽子がコロコロと歩道を転がっていき、女子生徒の足元で止まった。正門から出たばかりだった彼女は、あまりの惨劇を目の当たりにして声も出せずに立ち竦んでいる。

 楡は骨の刺さった顔を彼女の方に向け、ニコリと笑いかけた。それが相手に笑顔と判別出来たかどうかはさて置き。

「私がやったのではありませんよ。ちゃんと掃除しておきますから、安心して下校して下さいね」

 女子生徒は呆然と、頷いた。

 

 

  二

 

 楡が人間爆弾を片づけている間に、裏門から別の部外者がフラリと入り込んでいた。

 身長二メートル近い、大きな男だった。肉も厚く、体重は百五十キロくらいありそうだ。筋肉も脂肪もそれなりについた体を、Tシャツとジーパンで包んでいる。

 髪は整髪料でベタベタに撫でつけていた。やや面長で、間延びした顔。年齢は二十代半ばであろうか。少し眠たげにも見える表情で、男はゆっくり周囲を見回しながら白崎高の敷地内を歩いていた。歩き方も妙にもっさりとして鈍臭い。

 校舎から生徒達が出てくる。仲間同士でお喋りしながら下校する彼らを、男はボンヤリと見守っている。生徒達は奇妙な来訪者にちょっと怪訝な顔ですれ違う。「プロレスラーじゃねえ」「でもちょっと弱そうじゃん」など小声で言い合いながら。

 男は歩きながら花壇を眺め、校舎を見上げる。並んだ教室の窓の向こうで、生徒達が帰る準備をしていたりまだ携帯をいじったりしている。課外授業もあるのだろうか、生徒がまだ席についている教室もあった。トランペットを外に向かって吹いている吹奏楽部員。一年生だろう、まだ下手糞な響き。美術室でキャンバスに絵筆を振るう女生徒もいた。図書室。小説を読んでいる者もいればノートを広げて勉強している者もいる。クーラーが効いているらしく窓は閉じていた。

 男は校舎を回り込み、グラウンド側に出る。野球部員達がトンボで土をならしている。「早うせんかっ」と怒鳴る監督。陸上部員が柔軟をやっている。女子部員のタンクトップ姿を男は見守っている。

「君は、生徒の父兄かね」

 男に中年の教師が声をかけた。男はゆっくり振り返り、軽く一礼する。

「はい。三年生の真鉤の兄です。真鉤はまだ学校にいますか」

 男の喋りはちょっと遅かったが、態度は自然だった。

「さあ……もしかしたら課外に出てるかも知れんしな。大事な用件なら呼び出すかね」

「いえ、結構です。待ちますので」

 また一礼して男は自分から離れた。その大きな背を見送りつつ、教師は首を傾げる。

「三年の真鉤か。身寄りがないって聞いてた気もするが」

 男は体育館へと歩く。開いた扉から中の様子が見える。部員達がオレンジ色のボールをつきながら喋っている。

「バスケ部か。バレー部はないのかな」

 男は呟いた。

 ジャージを着た若い教師が男に気づき、近づいてきた。不審の目を男に向ける。

「学校の関係者ですか。お名前は」

「生徒の兄です。真鉤といいます」

「真鉤……。どうかな。身分証か何かありますか。すみませんが、この学校は色々あったもので、用心深くなってるんです」

 教師は真鉤の名を知らなかったようだ。尋ねながら男の上から下まで観察している。いざとなったらどう取り押さえようかと考えているように。

 バスケ部の部員達もお喋りをやめてこちらを見ていた。

「身分証ですか。ちょっと待って下さい」

 男はジーパンのポケットを探る。そのうちに教師が顔をしかめ、こめかみを押さえ始めた。

「あ、たた、たたたたた」

「おや、大丈夫ですか」

 男はのんびり聞いた。「先生」と部員達が駆け寄ってくる。

「僕は何もしていませんよ。何も」

 男は言った。ポケットから抜いた右手は、何も持っていなかった。

「あいたたたた」

 ジャージの教師は頭を押さえて座り込む。心配そうな生徒達を置いて、男は歩き去った。

 

 

 その少し前から、空手部の道場ではちょっとしたことが起きていた。

 今日の授業が終わって十数名の部員達が部室で着替え始めていた。そこへ「よっ」と片手を上げて天海東司が入ってきた。

「使わせてもらってるぜ」

 天海は冷蔵庫を開け、側面にマジックで「天海」と書かれた缶コーヒーを取り出した。学校の前の自販機で買って、朝から入れておいたものだ。彼がこれから屋上に行って独りで筋トレすることを、部員達は知っている。

 空手部主将の谷倉がシャツを脱ぎかけた姿勢のままで声をかけた。

「天海、筋トレ終わってから取りに来れば良くねえか。結局、ぬるくなっちまうだろ」

 谷倉は県大会の高校生部門で準優勝したこともある実力者で、身長は天海より少しだけ低いがみっしりと筋肉の張った体つきをしていた。髪は短く刈り、顎の左側に小さな古い縫い傷があるが、本人は喧嘩ではなく小学校時代に自転車で転んだ時のものだと主張している。精悍な顔立ちは、天海に笑みを向けた時には人懐っこいものに変わる。

 天海はニヤリとして答えた。

「鍛えるためさ。のんびりやってたらぬるくなるから、早く終わらせようって頑張れるだろ」

「焦って回数誤魔化したりしそうじゃねえ」

 谷倉が混ぜ返し、そこにいた部員達は皆大声で笑った。

 いや、笑っていない者が一人いた。背は低いが体躯も腕も太い、吉井という一年生。まだあどけなさの残る顔は硬い表情になっていた。

「あの、なんでこの人、部員でもないのに勝手にうちの冷蔵庫使ってるんですか。シャワーとかも」

 部室が一瞬、白けたような空気になった。他の部員達は気まずそうに互いの顔を見合わせる。天海の方はまるで動じずに、缶コーヒーを天井すれすれまで投げ上げては落ちてくるところを受け止めるというのを繰り返している。

 谷倉が言った。

「そうか。一年の奴らは知らないんだよな。天海はな、いいんだよ。こいつは特別なんだぜ」

「伝説は聞いてますよ。ヤクザと喧嘩したとか雪男と戦ったとか、本当だったら凄い話ですけど。先輩方が尊敬してるってのは分かりますけど、だからって好き勝手やっていい訳じゃ……」

 吉井は口を尖らせた。生真面目で、ちょっとしたことにも融通が利かない性格なのだろう。

 だが、彼の台詞は谷倉を含めた三年生達の目の色を変えさせた。谷倉が吉井の道着の胸倉を掴み上げ、額が触れ合うくらいの距離から睨みつけた。

「おい、今、『本当だったら』って言ったか。俺達は雪ん中、何時間もバスに閉じ込められてよう。矢とでっかい鉈で、六十三人も殺されたんだぜ。へえ、それが、『本当だったら』って訳か」

 谷倉の目には殺意に近い怒りが燃え狂っていた。吉井は黙って硬い視線を返す。二年生達はオロオロして何も出来ずにいた。

 谷倉の肩に手を置いたのは天海だった。

「まあまあまあまあ、やめとけやめとけ。あれはな、俺達だけのもんだ。他の奴らがどう思おうが、そんなこたぁどうだっていいだろ」

 天海は続いて吉井の方に目を向けた。右目は髑髏のアイパッチで塞がっているが、左目は穏やかで、優しささえ含んでいた。

「俺は部外者だし、お前さんの言うことも一理ある。だが空手部の伝統としては、勝った方の言うことを聞くってのも、アリじゃねえかな」

 つまり、これから試合をしようということだ。

「おい、天海」

 谷倉もちょっと慌てた様子で振り返る。部員でない者との試合というイレギュラーを問題視したのではない。彼が口に出さなかった懸念を吉井が形にした。

「大丈夫ですか、天海先輩。体がもうガタガタって話、聞いてますよ。今だって、ずっと足引き摺ってるじゃないですか」

 天海が拷問を受けて手足を折られたというのは皆知っている。アイパッチはその証拠の一つだし、途中が少し曲がった左前腕や、ちぎれた右耳を縫い合わせた痕などもあからさまだ。また、修学旅行では太股を矢で射られ、肋骨を折った。どれほどのダメージを背負っているのか、皆が心配するのも無理はなかった。

「心配かい」

 天海の態度には相変わらず余裕があった。

「ならハンデが要るかな。俺は攻撃は右手しか使わねえからさ、それならやれるかい」

 天海は右手を開いたり閉じたりしてみせる。いびつに変形し、一部の指は少し短くなっている。粉砕骨折で、完全に元通りには治らなかった。

「おい、それって……」

 谷倉も驚いている。彼らの心配とは丸っきり逆方向のハンデだ。馬鹿にされたと思ったのか、吉井は目を細めた。

 と、谷倉が大声で笑い出した。吉井からも手を離す。

「ハハッ、ハハハッ。お前らしいな。吉井、やれるか」

「押忍」

 吉井は空手部らしい答え方をした。

「先生はまだ来てないよな」

 部員の一人が教師用の部屋を覗き込み、「いません」と報告する。

「よし、ならやろう。天海、道着貸してやるよ」

「あんがとさん。ならコーヒーはもう暫く冷蔵庫だな」

 それで天海は道着に着替えた。彼の肉体美に部員達の視線が集まる。そして、傷痕に。いつも見えている肘の傷に比べ、左太股の抉れた傷痕と、人工関節の入った右膝の大きな縫合痕はひどいものだった。腹に残る四つの小さな傷も、天海の噂を知る者なら銃創であることが分かる筈だ。

 谷倉の道着は丁度良かった。天海と吉井は道場の中央で向かい合い、他の部員達は離れて見守る。

「じゃ、始めっ」

 二人に間に立った谷倉があっさり合図して数歩下がった。吉井はすぐに構えを取り、天海はゆったりと自然体を保っている。

 数秒が経つ。吉井はタイミングを計るように軽く左右にステップし、天海はその場から動かない。谷倉がニヤニヤしながら言った。

「吉井、気をつけろよ。右手だけと言って足が来たりするからな」

「おいおい、それをバラされたら計画が……」

 天海が谷倉に向かって苦笑する。その瞬間、吉井がつっかけた。足の悪い天海に容赦せず、鋭いローキックを放つ。

 ペシュッ、と軽い音がして、吉井がグニャリとその場に崩れ落ちた。部員達がどよめいた。

 吉井のローキックは空振りだった。天海がキックを跨ぐようにぎりぎりで躱して踏み込み、右の掌底を吉井の顎に見舞ったのだ。フックに近い、平手打ちにも似た打撃だった。

「あれっ」

 倒れた状態で吉井が言った。

「あれっ、あれっ」

 起き上がろうとしてもがくが、手足が無駄に宙を掻き、やがてグッタリと動けなくなった。

「速えぇ」

「なんでそんなうまく決まるんだよ」

 部員達は顔を見合わせて驚嘆していた。

「勝負ありだな」

 谷倉は告げ、大きく深呼吸した。吐く動作で体が震える。彼の顔は興奮で上気していた。

「天海、お前、全然弱くなってないじゃねえか。心配して損したぜ」

 天海が両手を軽く上げて、ウインクみたいに左目を閉じてみせる。

「その分トレーニングしてるからな。実はな、夏休みから禁酒してるんだぜ」

「お前が禁酒かあ。ワッハハッ」

 大声で笑った後、谷倉は急に真顔になった。

「なあ、俺ともやってくれねえか」

 天海は即答した。

「いいぜ。随分と久々だな。これまで気を遣ってたのかい」

 谷倉は正直に頷く。

「ああ。だが、お前が弱くなってないなら、やっぱり、決着はつけたいわな」

「お前さんの五十連敗だっけ」

「五十七連敗。負けた方はちゃんと、覚えてるんだぜ」

 喋りながら谷倉は部室へ消えた。自分の予備の道着を着て戻ってくる。その間に他の部員達が、吉井を道場の端まで引き摺って休ませていた。

「試合時間は三分でいいか」

 谷倉が確認する。

「いや、五分でいい。折角だしたっぷりやろうや」

「そうか。投げ・関節ありでもいいぞ」

「いや、空手ルールでいい。空手部だしな。ま、正直なとこ、こっちの握力がダメなんで、投げも関節もちょいときついんだわ」

 天海が右手をニギニギしてみせる。

「またまた」

 谷倉は笑った。

「じゃあ、いいですか。……始め」

 三年の一人が両者の間に立ち、開始を告げて下がった。

 五分後に、息を切らせて尻餅をついているのはやはり、谷倉の方だった。

 試合中谷倉が倒れたのは七回だった。終始攻勢だったのは谷倉だが、ダメージとなる打撃は殆ど当てられず、良いように躱され、凌がれた。天海は防御主体で、手を出した時には必ず谷倉に膝をつかせるか、ダウンさせた。傍目にはフェイントや捨て石の攻撃などなく、真っ正直な攻撃に見えた。それでも魔法のように命中してしまうのだった。

「やっぱ……強えな。天海。手加減、してたろ」

 大の字に寝転がり、途切れ途切れに谷倉が言う。

「ああ、割とな。だが、谷倉も強くなってたぜ」

 天海は正直だった。

「ハハッ。悔しいが……嬉しいぜ。やっぱ、お前は、強いままでいるべきなんだ。お前は、ヒーローなんだからよ」

 天海は静かに首を振る。

「残念ながら、俺はヒーローじゃあない。ヒーローだったら同級生も、あんなに沢山死なずに済んだ」

 だが、谷倉も対抗して首を振った。

「それでもお前はな、俺ん中じゃあヒーローなんだよ。あの時、お前はなあ、雪の中、駆け摺り回って、皆に発破かけて……あんなでけえ化けモンに、立ち向かってよう……俺は、何も出来なかった……ああ、畜生……俺にもっと、勇気があれば、よう……」

 谷倉の目には、涙が滲んでいた。他の部員達も、黙って彼の言葉を聞いていた。

「だから、天海。お前が強いままで良かった。もうじき俺も引退だが、最後にお前とやれて、良かったよ」

 天海は優しい笑みを浮かべて頷いた。手を伸ばし、谷倉がそれを掴むと引き起こしてやる。

 着替えるために部室に進みかけ、急に天海は眉をひそめた。それから目を剥いて道場の出口を睨む。

「おい、そこ閉めろ」

 鋭い指示に戸惑いながら、部員の一人が扉に向かう。と、天海が今度は逆のことを言った。

「いや、下がれ。危ねえぞっ」

 部員は訳が分からない顔で振り返り、それから数歩退いた。

「空手部かあ。高校によっては、あるんだなあ」

 男の声がした。足音が近づいてきて、出口の向こうにTシャツとジーパンの巨体が見えた。背が高過ぎて、顔の上半分が切れている。

「入ってくんじゃねええっ」

 天海が信じられないくらい大きな声を出した。谷倉も含めて部員達は驚いて身を凍らせる。天海の怒鳴り声は隣の建物まで響いただろう。

「いやいや、入ってきちゃうよ。折角だしね」

 男は身を軽く屈めて道場に入ってきた。その足はスニーカーを履いたまま。男の傍若無人ぶりにも部員達は怒ることが出来ない。見知らぬ大男がいきなり入ってくる非日常に混乱している。

「誰だあんた。OBじゃないよな」

 谷倉が聞いた。男は答えず別のことを言う。

「今、試合してたよね。音が聞こえてたから。どっちが強いか、比べっこしてたんだよね。青春だなあ」

 男の長い顔は眠たげで、空手部員達の敵意の篭もった視線にも平然としていた。男は続けた。

「僕も、参加していいかな」

「出てけ」

 天海の声は今度は低かった。谷倉が天海の方を見る。

 天海の皮膚は、首筋から手の甲まで、鳥肌が立っていた。

「ねえ、試合しようよ」

 男は土足で歩いてくる。

「おいっお前っ」

 部員達が男を取り囲もうとした。そこに天海が警告する。

「下がれっ、そいつ危ねえっ」

 部員達は弾かれたように男から離れた。男が緩い笑みを浮かべる。

「君、いい目してるよ。片目だけど。僕、強いんだ。だから、試合する資格、あるよね。ほら」

 男が身をひねり、左の壁に右のパンチを食らわせた。バギャッ、と木造の壁があっけなく破れた。腕を引き抜くと、綺麗な風穴から外の景色が見えていた。

 部員達は息を呑んだ。一人が助けを求めるように出口を見ながら呻く。

「せ、先生を……」

「道着を着たおっさんだよね。四十才くらいの、天辺禿げの」

 男が笑みを深めた。何処かずれた、ロボットのように虚ろな笑み。

「なんか手足が逆向きに折れ曲がって、トイレに転がってたよ。誰がやったんだろうね。ひどいことをする奴もいるもんだなあ」

 部員達も、漸く真の意味で状況を理解した。この男は彼らをメチャクチャにしていくつもりなのだ。ひょっとすると、殺すまでやるかも知れない。

「帰ってくれねえかい。空手部はこれから瞑想の時間なんだ。毎日一時間はこれをやらねえと、力が出ないんでね。本来の力が出せない相手を叩きのめしたって、面白くないだろ」

 天海が言った。彼の鳥肌はもう収まっていた。

 男は笑顔で返した。

「君は面白いなあ。でもね、瞑想の時間は短縮出来そうな気がするよ。例えば一人の首をひねるごとに十分くらいは……」

「分かった。俺がやる」

 天海が即答した。その肩に谷倉が触れる。

「おい、天海、俺が……」

「任せろ。なんとかする」

 天海は振り返り、男からは見えないように谷倉に目配せした。出口側への視線。谷倉は僅かに頷いて了解を表明する。

 だが男が逃げ道を封じた。

「あー、試合中にね、誰かが逃げちゃったりしたら、逃げ遅れた人全員殺すから。それからね、携帯もいじったりしない方がいいと思うよ」

 天海は目を閉じた。長く息を吐き、彼は振り返り、言った。

「試合時間は二分でいいか。一度倒れたら負け。俺が勝ったらとっとと帰ってくれや」

「そうだねえ。僕としては、時間制限なしで、『参った』と言った方が負けということにしたいな。君が負けたら、次の人に代わってもらうから」

「……。あんたのルールに乗らにゃ、しゃあないんだろ。ところで、あんたの名前は」

「そうだね。名乗っておくべきだろうね。須能神一。あ、それから、道着は要らないからね。僕に合うのもないだろうし」

「俺は天海東司だ」

 須能はのっそりと、天海の前に立った。長身の天海だが今は相手を見上げている。

 谷倉が厳しい顔で両者の間に立った。数秒待ち、「始めっ」と言って下がる。

 その瞬間、天海が背を向けて道場の壁へと走り出したのだ。完全に予想外の動きに部員達が声を洩らす。

 須能は悠然と天海を追う。両手を開いて軽く前に出した姿勢は格闘家の構えではなく、フランケンシュタインが歩いているようでもあった。

 天海が突然反転した。壁を蹴った勢いで加速し正面から須能に打ちかかる。須能が天海の体の中心を狙って右拳を見舞った。下手糞だが威力は証明されている。

 その手首を天海の左手が掴み、引っ張った。須能も前に進んでいたところで勢い余ってよろめく。

「チェイアッ」

 裂帛の気合を発し、天海の右掌底が須能の馬面をぶっ叩いていた。スピードと体重と、渾身の力を込めた打突だった。ゴギョッ、と不気味な音を部員達は聞いた。

 須能がそのまま前のめりに転んだ。だが彼の顔は上を向いていた。部員達は目を見開き、一人は「うわっあっ」と叫んだ。

 須能神一の太い首が真後ろに折れ曲がっていたのだ。後頭部が背中にくっつきそうなくらいに。これは死んだ、殺した、と、部員達は思ったことだろう。

 だが天海は止まらなかった。サッカーボールを蹴るような容赦ない右蹴りが、須能の頭部を更に横に曲げた。続いて三度、四度、五度。天海はまだやめない。ジャンプして、全体重を乗せた両足で須能の頭を踏み潰す。

「お、おい……」

 流石に谷倉が天海を止めようと歩み寄る。

 それが停止したのは、須能がのっそりと身を起こし、立ち上がったためだ。

「ブビビ、ボー」

 須能の口が動いて音を発したが、まともな声にはならなかった。彼の頭部はまだ背中側にくっついたままで、右顔面と側頭部が大きく凹んでいた。右目が糸を引いて垂れ下がり、眼窩から血が溢れている。

 その時点で部員の数人は悲鳴を上げ、腰を抜かしていた。失禁して道着のズボンを濡らす者も。出口の近くにいた一年が逃げ出そうとして、天海が怒鳴りつけた。

「逃げんじゃねえっ。お前ら全員の命がかかってんだぞっ」

 それで一年は泣きそうな顔で振り返り、なんとか立ち止まった。最初に天海とやった吉井は今、真っ青な顔で震えながらも立っている。

「何だよこいつ……」

 谷倉も絶句していた。須能は両手を上げ、ねじ曲がり変形した自分の頭を掴む。ひねって戻しながら持ち上げると、ゴキ、ゴキ、と勝手に首が鳴り、皮膚の下の筋肉が踊り始めた。派手に陥没した側頭部も内側から押したみたいに膨らんでくる。折れて砕けた部分が、短時間で修復されていくのだ。

「なかなか、やるね」

 須能の台詞は聞き取れるくらいになっていた。

 その間、天海はずっと同じことを繰り返していた。頭部攻撃での決着が無理と判断し、須能の右膝を蹴っていたのだ。何度も何度も、同じ場所を同じ角度で。ゴジ、ブチ、と骨がずれ、靭帯の切れる音が聞こえた。

 だが須能は痛がるそぶりも見せず、はみ出した右目を自分で摘まんで嵌め戻した。既に出血は止まっているが、眼球は赤く染まっている。左手が天海の道着を掴もうと伸び、天海は素早く数歩下がる。

「そろそろ本気、出していいかな」

 須能が言った。彼の顔は右側が骨格ごと妙に膨れ、左右非対称になっていた。内出血が紫色の染みとなっているが、ダメージにはなっていないようだ。

「もう暫く手加減してくれりゃあ嬉しいんだが」

 苦笑する天海の肌に、冷たい汗が滲んでいた。

「行くよ」

 緊張感のない宣言。踏み出す須能の足は微妙に動きが悪く、体勢が崩れていた。カウンターを食らわせるべく天海が右腕を引き気味に待ち受ける。

 その時、天海がおかしな表情を見せた。目を眩ませたみたいに瞳の焦点を失い、口を開ける。一瞬、構えが解けた。

「おいっ」

 悲鳴に似た谷倉の叫び。

 ブオォンッ、とでも風鳴りが形容出来そうな須能の大振りな一撃。もしその右拳がヒットしていれば、天海の顔面は陥没し、首の骨が折れていただろう。須能がなったように、後頭部が背中についたかも知れない。

 奇跡のように天海はそれをくぐっていた。本能、或いは反射的なものだったかも知れない。咄嗟に上体を屈めたすぐ上を須能の拳が掠っていく。天海の短い髪が数十本抜け、その毛根には血がついていた。

 次の動作に天海は移れなかった。まだ呆然としている彼の胸倉を須能の左手が掴んだ。

「天海いっ」

 谷倉の叫びは、自身の断末魔でもこうはなるまいと思われるほど悲痛なものだった。

「はい、これでお終い」

 須能が再び右拳を振り上げた。天海が我に返ったらしく左の目に光が戻る。その顔面へ須能の右ストレートが飛んだ。

 ガードした左腕ごと天海の頭が揺れた。須能がまた右で殴る。天海がなんとか防ぐ。また須能が殴る。

 天海の左前腕が折れて、骨の断端が肉を破って突き出してきた。既に一度、偽刑事に折られた骨だ。天海は悲鳴を上げなかった。あの時も、今も。彼は道着を掴んだ須能の左手を右手で叩きつつ、須能の分厚い胸板を蹴って宙返りした。須能の手が離れた。

「おおっ凄いな」

 須能が驚嘆の声を洩らす。だが彼は追撃を忘れなかった。見事に着地した天海の腹に無造作な前蹴りを加える。

 天海もこれを避けることは出来なかった。彼の体はワイヤーアクションさながらにすっ飛んで、道場の壁に激突した。

「ガハッ」

 俯せに落ちた天海は、起きようとして血を吐いた。蹴りで胃が破れたらしい。須能の膝が損傷していなければ、背骨まで折れていたかも知れない。

「じゃあ、止めでいいよね」

 本当に殺すつもりなのか。須能は天海に歩み寄ろうとして、行く手を遮られる。

「次は俺がやる」

 立ち塞がったのは主将の谷倉だった。彼は血の気の引いた顔で、体を小刻みに震わせていたが、拳は強く握り締めていた。

「よせっ、殺されるぞ。ゴフッ」

 天海がまた血を吐いて、なんとか身を起こす。左腕を床についたせいで、折れた骨が更に顔を出した。

 須能がのんびり頭を掻きながら言った。

「んー。それでもいいんだけど、まだ、天海君の『参った』を聞いてないからね。だから、彼と続けないと」

「うるせえっ」

 谷倉が怒鳴った。そして正拳突きを須能の腹に見舞った。

 須能は微動だにしなかった。何のダメージも与えていないことは、誰の目にも明らかだ。

「どけ。谷倉。俺がやる」

 天海が立ち上がった。息は荒いが、彼の左目から闘志は失われていない。

「下がってろ天海。今度は俺の番だ。命を張るのは、俺の番だろっ」

 谷倉は天海を振り返らず、絞り出すように告げた。

 須能は微笑していた。谷倉へ手を伸ばしたのは掴むつもりだったのか、それとも邪魔だと押しのけるつもりだったのだろうか。その動きは新たな来訪者の声により、途中で停止した。

「おい」

 それはどちらかといえば穏やかで、小さな声だった。だが、その場にいた者は須能以外、全員総毛立っていた。

 須能神一は、ゆっくりと、出口の方を、振り向いた。

 真鉤夭が、そこに立っていた。

 真鉤は普通の夏服姿だった。彼は空手部でもないし、部員に知り合いもいない。普通なら道場に来る用事はない筈だ。

 真鉤はいつものはにかんだような微笑を消し去って、完全な無表情だった。感情の抜け落ちた力のない瞳が、瞬きせずに須能神一を見据えている。

 その時、部員達は、須能に対する以上の恐怖を覚えたのだ。静かに立つ真鉤から、冷え冷えとした得体の知れない何かを感じ取った。後になってそれを口に出すことはなかったが、彼らはその時確かに、死があっけないくらい近くにあることを実感したのだった。

 真鉤夭は、怒り狂っていた。

「よせ」

 口元の血を拭い、天海が言った。真鉤に言ったものだと誰もが理解していた。

「おやおや。助っ人の登場かな」

 須能が弛緩した笑みを見せた。

 空気が、軋んだ。

 真鉤は両手を自然に垂らしたまま、右足を進めた。一見まるで無防備だが、恐ろしい、不吉さを纏って。

 その時、真鉤の背後からまた別の声がした。

「ふうむ、こちらにもいましたか」

 真鉤さえもが驚いた様子で素早く振り向いた。そこにスーツの楡誠が立っていた。血糊も浴びず骨も刺さっていない、いつもの姿で。

 部員達は、声がするまで楡の存在に気づかなかった。真鉤よりも背が高く、当然見えていた筈なのに。まるで瞬間移動で現れたみたいだった。

 楡は穏やかな表情のままで、ポン、と両手を軽く叩いた。天海がしゃっくりのような妙な呻きを洩らした。部員達がそちらに視線を戻す。

 須能神一がいなくなっていた。彼らの視線は道場を巡るが、何処にも須能の巨体はなかった。

 天海と谷倉は位置的に、楡の方を見ながらも視界に須能が入っていた筈だ。谷倉は、ポカンと口を開けていた。部員の一人が呻くように言う。

「あ、あいつは……あの」

「夢でも見たのではありませんか」

 楡がA4サイズくらいの何かをブリーフケースに詰めながら言った。ビニールに包まれた、真空パックのような何かだ。

 真鉤は目を閉じて、再び目を開けた時には虚ろな冷たさは消えていた。

「天海君。大丈夫かい」

 歩み寄ろうとして真鉤は靴を履いていたことに気づき、慌てて脱ぐ。

「ああ、別にこんなことは慣れっこだしな。どうして来た」

「課外を受けてたんだ。そうしたら君の怒鳴り声が聞こえたからね。大きな声だったよ」

 真鉤は苦笑した。他の大勢の同級生には決して見せない、本物の笑みだった。

 楡が道場に入ってきて、天海の左腕と鳩尾に軽く触れた。

 触れただけに見えたのに、飛び出した骨の断端が引っ込んでいた。

「応急処置しておきましたから。後は医療機関で治療を受けて下さい」

 楡は土足のままだった。皆が突っ込むことも出来ず黙って見守る中、楡はさっさと歩いて道場を出ていった。

 

 

  三

 

 白崎高校の塀から二百メートル離れたファミリーレストラン。隅のテーブルで中年の男が独り、俯いて目を閉じていた。血色の悪い顔で、殆ど身じろぎもしない。

 男のテーブルには、コーヒーカップが一つだけだ。シロップも使っておらず、中身は半分ほど残ったまま冷めきっていた。

 客は少しずつ入れ替わっていくが、中年男はコーヒーを飲み干しもせず、ずっと俯いたままだ。眠っているのかも知れない。店員が時折男の方をチラ見していく。

 午後四時過ぎ、男は目を開けた。

「やられた。あっという間だな。訳が分からん。噂には聞いていたけれど」

 男はしわがれ声で呟いた。テーブルを見据える瞳は乾燥し、白目部分は黄色く濁っている。

「でも、『ミキサー』の方も僕を捕まえられなかったから、おあいこだな。奴を狙ってる訳じゃないんだし。先に、蠅の方を叩いとくか」

 男はコーヒーの残りに手をつけぬまま、再び目を閉じた。

 それと同時に目を開けたのは、百数十メートル離れたマンションの非常階段踊り場に蹲る男だった。白いロングコートがかぶさって饅頭のようになっていたのだが、ゆらりと立ち上がり、歩き出す。

 男は手入れしていない蓬髪で、顔の肉は薄く、頬骨が浮いていた。この暑さにも汗を掻いていない。眠たげな目がゆっくりと周囲を確認し、男は足音を立てずに階段を上っていった。

 すぐ屋上に着いた。ドアの鍵は掛かっていない。十四階建てのマンションで、ほぼ町全体が見渡せる。特に、正面方向に白崎高校のグラウンドが見えた。

 男は柵から身を乗り出して真下を覗いた。少し下のベランダから何かがはみ出している。

 十三階のベランダから、誰かが双眼鏡を使っているのだった。

「『ミキサー』が建物から出てきました。……はい、すぐです。ブリーフケースを持っています。破裂した男と話していた時には持っていませんでしたが」

 双眼鏡の使用者はマルキだった。白崎高を監視していたらしい。携帯電話で誰かに報告している。

「真鉤は……まだ、出てきません。楡が出ましたから、トラブルは片づいたと思いますが。……はい、大きな男も出てきません。あれが須能だったかは、分かりませんね」

「こっちにいますよ」

 屋上から男が告げた。マルキの監視員は驚いてベランダから顔を出し、見上げようとする。

 そこへ屋上の男が飛び降りてきたのだ。コートが翻って男の上半身が見えた。シャツを着ておらず、裸の胸腹部は縦に裂けてガッパリと開いていた。男の胴は心臓と小さな肺らしきものを除いてほぼ空洞だった。大きな口のように開いた裂け目の縁から、牙のように尖った肋骨が伸びている。本来は腹である筈の場所からもそれは生えていた。

「うわっ」

 叫んだ監視員に男がしがみつき、巨大な口が頭部に齧りついた。ブヂブヂッ、と嫌な音がしてコートに血の染みがつく。落ちる勢いをそのままに、コートの男と監視員は絡み合ったままベランダから転げ落ちていった。

 ドヂャリ、と、二人分の肉塊が地面に激突した。通りかかった主婦が悲鳴を上げる。二人の手足は折れ曲がり、片方の男の顔は地面に完全に密着して、平らになってしまっていた。重なり合った胴体を血染めのコートが覆っている。モゾリ、ウゾリ、と、布の下で肉が動いている。

 大学生くらいの若者達が携帯を取り出して、その様子を撮り始めた。

「先に救急車呼んだ方が良くねえ」

「ならお前呼べよ」

「もう助からねえだろ。顔もベチャ潰れてるじゃん」

「なら救急車呼べとか言うなよ」

 彼らがそんなことを気軽に喋っているうちに、一台の大型ヴァンが制限時速を大幅に超えるスピードでやってきた。急停止すると、数人の屈強な男達が飛び出してくる。

 その男達がたたらを踏んだのは、転落した二人が、立ち上がっていたためだ。

 いや、立ち上がったのは一人で、もう一人はそれにくっついていたというべきか。折れていた両足で立つコートの男の顔面は、完全に潰れていた。ゴリゴリュ、グギュ、と骨がずれる音が響く。血に埋もれていた眼球の片方がせり出してきて、男達の方を向いた。

 男達が拳銃を抜いた。プシュ、プシュ、と軽い空気音がして、棒立ちの標的に小さなガラス製の杭が突き刺さる。注入されるのは麻酔薬ではなく、高濃度の抗生物質だった。

 コートの男はゆらゆらと揺れながら、歩き出そうとした。そこに無数の細い糸が絡みつき、巻きついていく。絹のように光を反射する糸により、男は蜘蛛に捕らわれた蝶のようにグルグル巻きにされてしまった。足を取られて転んだところで引き摺られ、ヴァンの中へ吸い込まれていく。

 男達はヴァンに戻っていく。一人が若者達の方へ駆け寄り、「撮るな」と命じた。素早く携帯を奪い取る。

「な、何すんだよっ」

 喚いた若者の顔面に容赦なく拳が叩き込まれる。唇を切り、折れた歯を吐いて若者が泣き出した。男は急ぎ足で乗り込んで、大型ヴァンが発進した。

 車内には風鬼がいた。灰色のロングコートに無表情な仮面の魔人。彼の白い髪が回収した二人分の肉塊を巻きに巻いて、大きな繭を作り上げていた。

「こいつが須能か」

 風鬼が言った。

「ならば、『ミキサー』の前で爆裂した男と、高校の敷地に入り込んだ男は何だ。どうもおかしい」

 後部の荷室に転がされた白い繭がモソモソともがき、中から声がした。

「この体、ダメだね。最初から抗生物質飲んでたろ。吸収出来ない」

「風鬼さん」

 男達の一人が不安げに風鬼を見る。助手席に座る風鬼は、前を向いたまま答える。

「気にするな。俺の髪は生身では切れん。こうなってしまえば脱出不可能だ」

「どうします。このまま研究所まで運びますか」

 運転している男が尋ねた。

「まずは黒淵と合流する。こんなにあっさり片づいたとは思えない」

「朧は来てないのか」

 繭の台詞に、ザワリ、と、風鬼の髪が逆立った。朧は「おぼろ」と発音された。

「朧が来てないのなら、随分と舐められたもんだな。最重要施設をぶっ飛ばした俺を、二位と三位だけで処理出来るのかなあ」

「黙れ」

 人間の顔をした硬い仮面は表情を作れない。ただ、風鬼の声には怒りが篭もっていた。

 繭は静かになった。男達の一人が携帯で連絡している。相手は黒淵のようだった。それが終わると、車内は重い静寂で満たされた。大型ヴァンは目立たぬ程度のスピードで大通りを進む。

 数分後、信号待ちのヴァンの左隣に青い大型トラックが並んだ。荷台は幌で覆われて何が積んであるのかは見えない。

 トラックの運転手は野球帽をかぶった三十代の男だったが、窓を開け、ヴァンへ向かってにこやかに手を振っている。

「関係者か」

 風鬼が仲間に問う。

 後部座席の男がトラックを確認し、首を振った。

「いえ。マルキの所属ではありません」

「なら、青になったら飛ばして振り切れ」

 風鬼が告げた。

 だが、信号が青になった途端に、急加速でぶつけてきたのはトラックの方だった。ヴァンの左側面が凹み、乗員が揺れる。荷室の繭は勢いで転がるが、もがきはしない。トラックの運転手はニヤニヤしていた。

 フラつくヴァンにもう一度トラックがぶちかました。男達が荷室から大口径ライフルを取り出した。窓を開けてポイントする前に、トラックの幌が内側から破れ、何かが飛び出してきた。

 それは、巨大な肉の塊だった。数本の太い触手が指のようにヴァンに食い込み、トラックの荷台から本体が転げ落ちる。幅二メートル、長さ十メートル近い肉の芋虫。太い触手は十数本あった。犬や家畜も材料となったか、肉の表面には様々な色の毛皮も混じっていたが、人間の顔が凹凸もそのままに多く取り込まれていた。一部は開いた目がギョロギョロ動いており、そのまま感覚器として利用されているようだ。何百体の獲物の吸収・合体を繰り返してきたのか。これまで大きな騒ぎにならなかったのは、須能が充分に用心して捕食してきたということか。

 ヴァンは変形し潰れ、ねじ曲がって横転した。歪んだドアの隙間から男達の悲鳴が洩れた。荷を下ろしたトラックはコントロールを失ったみたいにそのまま蛇行して歩道に乗り上げ、建物に激突した。

 触手の生えた巨大芋虫は、尻に自動車が追突しても気にする様子はなく、グギュリギキュリと大型ヴァンを締め上げていく。最終的には容積五分の一のスクラップにしてしまった。中の乗員は残らず圧死しただろう。隙間から染み出た血がアスファルトに滴っていく。

 大勢の通行人と、少なくとも二十台以上の車の乗員が、巨大芋虫を見ていた。これを隠蔽するのはマルキでも難しかろう。

 仕事を終えた巨大芋虫は触手を這わせ、トラックの方へズルズルと移動した。行儀良く荷台に自分の体を収めてしまう。幌の破れた部分を内側から触手で引き合わせ、なんとか化け物の存在を誤魔化せる程度になった。

「さて、と」

 たった今まで突っ伏して動かなかったトラックの運転手が、ムクリと顔を起こした。ハンドルにぶつけたのか、額が割れて血が流れている。

 トラックはバックした。フロントガラスが割れ、ライトも壊れているが、ちゃんと動くようだ。道路に戻り、何もなかったようにトラックは発進した。

 トラックが走り去った後に、三階建てのビルの上から風鬼が飛び降り、音もなく地面に着地した。

 ヴァンが触手に捕らわれる寸前、繭との連結を自分で切り、彼だけ助手席のドアを開けて脱出していたのだ。

 人々の騒ぎを知らぬげに佇む風鬼の前に、新たな大型ヴァンが到着した。スクラップになったものと同じタイプだ。ドアが開き、滑るように風鬼が乗り込む。ヴァンはすぐに動き出す。

「どうなった」

 後部座席に一人で腕を組んでいた、黒淵が尋ねた。彼は赤い鍔なし帽に人工皮膚のマスクといういつもの姿だった。すぐそばに全長一メートル七十センチの鎌神刀を寝かせている。

「須能を捕えたと思ったら別から攻撃を受けた。全長十メートルの芋虫だ。須能は複数の体をコントロール出来るのか」

 淡々と風鬼が報告する。

「聞いてないな。奴はこれまで通常のサイボーグかユニオン・タンクに組み込まれて活動していた。ヤクラ菌の方も、別個体が連携して動くような機能はない筈だ」

「推定だが、五体は須能が自分の意志で操っていたように思える。『ミキサー』の前で爆裂したデブと、白崎高校の敷地に入り込んだ大男。マンションから高校を監視していた係を殺した個体。それからトラックを運転して俺の乗ったヴァンにぶつけてきた男と、トラックの荷台にいた芋虫の化け物だ。須能が幾つも体を用意していて好きなように操れるなら、厄介なことになる。作戦を立て直すか。朧も呼んだ方がいいかも知れない」

 朧の名が出たところで、ヒクリ、と黒淵の鼻の辺りが引き攣った。ガラガラ声に嫉妬と怒りを隠し、黒淵は言った。

「面白くなってきたじゃないか。このまま追う。ヘリは上がってるな」

「はい。トラックを捕捉しています。三百メートルほど先で、充分追いつけますね」

 ヴァンはスピードを上げる。高高度を監視用の無音ヘリが飛んでおり、運転手のイヤホンに方向を指示している。

 風鬼が言った。

「気をつけろ。罠かも知れんぞ。監視にも気づいていたなら相応に準備していたとしても不思議はない」

「構わんさ。あの三百四十グラムのチビっ子がどれだけやれるか、見せてもらおうじゃないか。小細工で俺達を殺せると思ってるのなら、訂正してやらんとな」

「……。真鉤達にも協力を要請すべきでは」

 黒淵は答えず、ただ細い目がゆっくりと横へ動き、隣の風鬼を睨みつけた。それで風鬼はこの話題を打ち切った。

 パトカーのサイレンが聞こえてきた。こちらに近づいているようだ。

「この区の警察署には不干渉の指示は通っていたな」

 風鬼が運転手に確認する。

「はい。マスコミにも周知していますからある程度はブロック出来る筈です。万が一写真や映像がネット上に流れてもコラージュやCGということになります」

 運転手が喋っているうちに数台のパトカーとすれ違った。前方に青いトラックが見えてくる。側面はなんとか幌で隠れているが、後部は巨大な肉塊が見えていた。今は荷台でじっとしている。

 トラックの運転席側の窓から腕が出て、軽く手招きをした。マルキのヴァンが追いついたことに気づいたらしい。

「接近しますか。この方向だと海岸に出ますが」

 運転手が尋ねる。黒淵は手袋を填めた右手で鎌神刀の柄を握った。

「後ろか横につけてやれ。向こうが仕掛けてくるなら応じてやってもいいが、出来れば町を出てからにしたい」

 トラックは大通りを進む。ヴァンが右隣に並ぶと、トラックの男はにこやかに手を振った。黒淵はククッ、と低く笑う。ヴァンの窓は偏光ガラスで外からは覗けない。

「ヘリの支援は受けられるか。対戦車ミサイルを搭載していたと思うが」

 風鬼が聞く。彼らはいつでも飛び出せるよう、シートベルトを装着していない。

「可能です。ヘリの高度を下げさせます」

 ヴァンの運転手が答えた。

 併走しながら、トラックは攻撃を仕掛けてはこなかった。ただ、運転している野球帽の男はヴァンに向かって何か言っている。

「窓を開けてやれ」

 黒淵が命じ、ヴァンの運転手は助手席側の窓を下ろした。

「どうもー」

 トラックの男が薄ら笑いを浮かべ、声をかけてきた。

「黒淵はいるー。待ってたんだけど」

 瞬間、黒淵は車内で鎌神刀を振った。先端が後部左の窓をぶち破り、黒淵と風鬼の姿を露わにする。

「二流戦闘員風情が、俺を呼び捨てにするな」

 黒淵が告げる。トラックの男は大きな声で笑った。

「ハハッ。相変わらずだねえ。その二流戦闘員に、研究所を潰されたんだから、マルキって意外に、レベル低いんじゃないかな。……おや、風鬼もいたんだ。さっき車ごと、潰したと思ったのに、やっぱり逃げ足は、速いんだねえ」

 トラックの男の見た目は普通の人間と変わりない。微妙に下手糞だがトラックを運転して、交通ルールも守っている。荷台の巨大芋虫も動かなかった。

 風鬼が尋ねた。

「喋りのテンポがおかしいな。遠隔操作しているのか。お前の本体は何処にいる」

 トラックの男の薄ら笑いが消えた。十数秒、前を向いて運転を続け、やがて男は言った。

「……。本体は何処にいる、と来たか。伊佐美から、聞いてないんだ。もしかして伊佐美も、知らなかったのかな。知ってたら、最初から朧を呼んでたろうしね」

「どういう意味だ」

 風鬼が重ねて問うが、トラックの男は答えなかった。今度は黒淵が風鬼を押しのけて左側に寄り、声をかける。

「今始めるか。それとも、俺達をおびき寄せたい場所でもあるのか」

「そうだねえ。別にここでもいいけれど、折角だし、あれを見せてやろうかな。もう少ししたら、海だし。海は好きだろ。あー、あんたは、川の方だったな」

 トラックの男はわざとらしくニヤついてみせる。黒淵の鼻辺りがヒクリと動く。人工皮膚の下で、彼の素顔はどんな表情をしているのだろうか。

 繁華街からは離れ、建物も疎らになってきた。真っ直ぐ伸びる道路の先に海が見える。

「そろそろいいよ」

 トラックの男が言った途端、ヴァンの左ドアをぶち破って黒淵が飛び出してきた。石突の輪に右手の指一本を通し、頭上で鎌神刀を高速回転させる。破滅の円は水平でなく、黒淵の前面を守るように斜めに傾いていた。瞬時に荷台の幌が裂け、ブバッ、と粉々になった血肉が飛散した。黒淵は見事なバランスで、併走するトラックの荷台に飛び移った。鎌神刀によって削り取られ、黒淵が立てるだけの空間が既に出来上がっていた。

 大穴を穿たれて漸く巨大芋虫が動き出した。繋ぎ合わされていた幌は全てぶっ飛び、折り畳まれていた十数本の触手が黒淵に襲いかかる。

 ボバババババッ、とその全てが鎌神刀のプロペラに触れ破裂した。黒淵は体の向きと右腕の角度を調節して、あらゆる方向からの攻撃にうまく対応していた。巨大な肉塊を凄い勢いで削りながら、鎌神刀のスピードは全く衰えない。黒淵はそのまま荷台上を歩き、どんどん芋虫の体積を減らしていく。恐ろしくあっけない破壊劇だった。飛び散る血肉はトラックから舞い上がり、道路をドロドロにコーティングしていく。一部それなりの大きさの肉片はピクピクと蠢いて仲間と合流しようとしていた。

「おい、この程度か」

 黒淵が笑った。

 と、後ろ半分だけになった芋虫がもがいて荷台から転げ落ちた。完全に始末すべく黒淵も飛び降りる。走るトラックから着地しても体勢を崩すことはなかった。芋虫の肉断面から数十本の尖った骨が飛ぶ。八久良島の映像を見て知っていたのだろう、黒淵はすぐさま鎌神刀の回転軸を傾けて全て弾いた。

「止めますか。それともトラックを追いますか」

 ヴァンの運転手が風鬼に問う。

「止めろ。トラックはヘリに追跡させておけ」

 ヴァンが停車すると風鬼は素早く降りた。しかしその時には大勢は決していた。芋虫は触手の殆どを失い、体をうねらせて逃げるにも既にそれだけの体長がなかった。ただグネグネと蠢く、血みどろの巨大な肉の塊があるだけだ。

「拍子抜けだな」

 残った肉塊をバラバラにしながら黒淵が言った。

「だがトラックはそのまま走っていったぞ。これだけで終わるとも思えんが」

 風鬼が指摘する。プルプル震えていた五十センチほどの大きさの肉塊を、細く長い白髪が縛り上げ、包み込んでいく。

「ならそっちが本命か。こいつの後片づけは処理班に任せる。抗生剤も散布しておけ」

 ヴァンの運転手が早速本部へ連絡する。芋虫の残骸を十秒ほどで解体してしまい、黒淵が乗り込んだ。血の海の前後では渋滞が起き、先頭の運転手は真っ青な顔でUターンしようとしていた。この騒ぎをどうやって収拾するか、警察とマスメディアの力量が問われることだろう。

 風鬼が続けて乗ると、ドアの破れたヴァンは周囲の混乱を知らぬげに進み出す。

 運転手が言った。

「トラックが海岸で止まったそうです。運転していた男は今のところ出てきません」

「さて、どうなるかな」

 黒淵が楽しげに言った。彼は殆ど返り血を浴びていなかった。鎌神刀の血糊もない。回転の遠心力で飛んでしまうらしい。

 浜辺に停車するトラックが見えた。港の近くで海水浴に適した場所でもなく、普段着の一般人が数人いる程度だ。彼らは壊れかけのトラックに驚いて、遠巻きに見守っていた。

 三十メートルほどの距離でヴァンは停車した。風鬼と黒淵が降りる。砂の上を影がゆっくりと滑っていく。上空で薄青色のヘリが飛んでいた。マルキの日中監視用ステルスヘリ。必要があれば戦闘ヘリと同様の装備が搭載可能だった。

 風鬼の袖から髪が伸び、トラックに絡んでいく。特にタイヤとドア、割れたフロントガラスを重点的に。逃げられないようにするためだ。

 トラックはエンジンを切っていた。不用心というべきか、絶大な自信故か、黒淵はあっさり歩み寄り、ドアに左手をかける。窓の下がった枠を掴んでドアごと引き剥がすという乱暴なやり方で、乗り手の全身を露わにした。

 トラックを運転していた男はうなだれて動かなかった。目は閉じていて、ゆっくりと一定のペースで呼吸しているだけだ。

「寝てるのか」

 黒淵が目を細めた。流石にこのままぶった切る気になれなかったか、少し離れて見守る風鬼と視線を交わす。

「何もないなら、回収して帰るしかない」

 風鬼が言った。

 十秒ほど、誰も動かぬままだった。黒淵の武器を見た人達は、足早に浜辺を離れていく。

「……と、悪かったね。待たせちゃって」

 トラックの男が目を開けた。既に彼の手足も胴も、風鬼の髪に縛られて身動き出来なくなっていた。

「見せたいものがあるという話だったな。あれはハッタリか」

 黒淵が尋ねる。

「そうだなあ。最強の哺乳類って、何だと思う。……虎とかライオンとか、イメージしたかな。それとも、象とか。キリンの蹴りもなかなからしいね。カバも、かなり凶暴とか。でもね、盲点があるんだよね」

「何が言いたい」

 黒淵が冷たく先を促す。

「最強の哺乳類は、シャチだよ」

 トラックの男が目を閉じた。黒淵と風鬼は素早く海の方を確認する。小さな波が寄せてくるだけで、綺麗な海面に乱れはない。

 次の瞬間、砂浜が爆発した。トラックもヴァンも含めた、径五十メートルを超える広範囲だった。砂の下から巨大な何かが現れる。黒淵が鎌神刀を振り、トラックの屋根ごと男の胴を斜め斬りにした。風鬼が咄嗟に跳躍し、それは七、八メートルほどの高さにも達する凄まじいものだったが、迫ってくる壁に叩かれて姿が見えなくなった。ヴァンの運転手の悲鳴は砂に呑まれた。

 それは分厚く巨大な肉の絨毯だった。全体としてはデコボコしつつも皮膚はなめらかで、白と黒の色彩がグチャグチャに絡み合って続いていた。表面から尖った骨が生えている。何千本も、或いは何万本も。モゴモゴと蠢いて砂を落としながら、巨大絨毯は風呂敷を包むように端からめくれ上がり、二台の車両と男達を包み込んで中央へまとまっていく。

 ドゥグボバッ、と持ち上がった肉壁表面の一部が爆裂し、黒淵が飛び出してきた。厚さ五メートルほどもあった肉の壁を鎌神刀のプロペラ回転でぶち抜いたのだ。流石に砂と血を浴びているが、黒淵は殆ど負傷していないように見えた。

 黒淵を逃した巨大絨毯はそのまま中央上部でくっついて、巨大な饅頭と化した。少しずつ小さくなっていくのは内部の空洞を潰しているのだろう。トラックもヴァンも、人も一緒くたに。

 肉饅頭に次々とミサイルが命中した。上空のヘリから発射されたものだ。爆発と共に肉壁が抉れるが、全体の質量に比べれば殆どダメージになっていないだろう。

「おーい」

 声がした。

 黒淵が頭上で鎌神刀を回転させながら、巨大な饅頭を回り込む。

 白黒まだらの壁の半ばほどに、そこだけ人間の顔らしきものが埋まっていた。

「あー、悪いね。小回りが、利かなくてね」

 人の顔らしきものが言った。二つの目が黒淵を見下ろしている。周囲に同化しており表情は作れず、声も舌足らずだった。

「面白いだろ。ただ、怪獣ほどに、複雑な形は、作れなくてね。それでも、大したもんだろ。クジラとかも、混じってるが、材料は主に、シャチだ。次々食いついてくるのを、片っ端から、取り込んでね。何千頭になるか、分からんね。ただ、あまり長持ちは、しそうにないんだ。スイッチを切ってれば、暫く持つんだけどね」

 事前に海からここまで泳ぎ着いて、砂中に身を隠していたのだろう。巨大饅頭の表面が蠢くたびに、へばりついた砂がパラパラと落ちる。

 黒淵は告げた。

「大したものだ。大したデクノボウだよ。でかけりゃ俺に勝てると思ったのか」

 肉に埋まる顔が言う。

「ハ。ハ。流石の黒淵様だ。風鬼とは、違うねえ。実は、もう一つ、見せたいものがあるんだ」

「見せてみろ」

 自信満々に言い放った黒淵に、おかしなことが起きた。口を半開きにして目が縮瞳する。鎌神刀の回転が緩み、軸が傾いて地面を削った。

 巨大な肉饅頭が上から押し潰されたみたいに縮んでいく。二秒後、それは巨体を震わせて十数メートルも跳ねた。底面には無数の骨棘が生えていた。

 固まる黒淵の真上から、十万トンを超える肉塊が降ってきた。

 地響きと、舞い上がる大量の砂。肉饅頭は中心部から開いて、元の絨毯に戻っていく。

 マルキのステルスヘリは何も出来ず、上空から見守るだけだった。絨毯から空に向かって何十本もの槍が吹き出された。シャチの背骨に肋骨などを束ねた数メートル長の槍。

 一本がヘリのメインローターを破壊し、羽を失ったステルスヘリは海へ落ちていった。

 

 

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