第六章 不確かな中で確かなもの

 

  一

 

 天海東司は歩いて病院へ向かった。付き添いは要らないと笑ってみせたが、どうしてもついていくと空手部の主将が言い張ったため、結局二人で出発した。出しゃばる訳にもいかず、真鉤夭はそのまま教室に戻ることにした。

 詳しい事情は聞かなかったが、侵入者が須能神一であろうことは容易に想像出来た。彼が何故直接真鉤のところに来ず、わざわざ空手部の道場までやってきて暴れたのかは分からない。負傷した天海には申し訳なかったと思いながら、真鉤は皆の前でそれを口にすることが出来なかった。かなり際どい状況で、命が懸かっていたことを道場の空気から察していた。須能が現れたのは真鉤のためであり、もし天海が死んでいたら、真鉤は悔やんでも悔やみきれなかったろう。

 その須能が瞬時に真空パックと化して、楡誠のバッグに収まるところも真鉤は見た。これで問題が片づいた……とは真鉤には思えなかった。何かおかしい。殺人鬼としての感覚が、相手は死んでいないと告げていた。真空パックになっただけで生きている、という訳でもないと思うが……。楡に尋ねたかったが彼はさっさと立ち去ってしまった。

 課外中の教室から黙って出ていったのだが、自然に後ろの扉からだったので教師もトイレだと思っただろう。道場に駆けつけたことは後で空手部員から洩れるかも知れないが、そういうことをいちいち気にしても仕方がなかった。

 真鉤が出ていったことに気づいていたのだろう、藤村奈美がこちらを振り向いて何か言いたげな顔をした。真鉤は小さく頷いて応じる。帰り道に一通り、説明することになりそうだ。

 だが課外授業が終わるとすぐ、担任の二ノ宮が教室に顔を出して真鉤を呼んだ。

「ちょっと校長室に来てくれんか」

 嫌な予感。奈美が不安そうに真鉤を見る。彼女だけ一人で帰すのも危険な気がしたので、「ちょっと待っててくれるかな」と伝えた。

「分かった」

 奈美は慎重に頷いた。それだけのやり取りで、彼女に真鉤の内面を読まれたような気がした。通じ合っているということがある意味心地良く、しかしこの手の異常事態を共に経験してきたということが、真鉤の心に痛みともなった。

 校長室には苦い顔の校長と、マネキンのように涼しげな楡誠がいた。

「わざわざすまないね」

 校長の峰が言った。

「いえ」

「不審者が勝手に校内に入り込んだことは、もう聞いているかな」

「はい、一応は」

「その男なんだが、君の兄を名乗ったそうだ。二人の教師が報告してきた。しかし、君は一人っ子だ。入り込んだ男に心当たりはあるかね」

 真鉤の内心で怒りと恐怖が渦を巻いた。須能神一は、陰湿な嫌がらせをしてきたらしい。真鉤の立場を脅かすつもりか。マルキは警察とマスコミを抑えてくれるだろうが、真鉤の正体が校内に知れ渡ってしまえばもうこの町にはいられなくなる。奈美とも離れて何処かでひっそりと暮らすか、マルキの構成員として飼われるしかない。

 しかし、今の時点では、まだそこまで追い詰められてはいない。

 楡誠を雇ったのが校長だということを真鉤も聞いている。生徒として入り込んだ式一三の件もある程度事情を知っているだろう。今回も、深くは追究しないのではないか。楡はある程度のアドバイスを校長に与えているだろう。

 また、こちらを見る目に怯えや警戒の色はないので、真鉤が殺人鬼であることを校長が知っているとも思えなかった。

 教師が報告してきたため、形式的にでも質問しておく必要があったということか。

「心当たりはありません」

 真鉤は簡潔に答えた。

「そうか。わざわざ呼び出してすまなかったね」

 校長が言って、あっけなく面接は終わった。ただし、その後に楡が付け加えた。

「須能神一というのは、何人もいるみたいですね」

 楡は相変わらず上っ面な微笑を浮かべていた。

 どういうことだ。問い質したかったが、校長の前ではまずい。真鉤は「失礼しました」とだけ言って、校長室を出た。

 奈美は廊下で待っていた。

「どうだったの」

「後で説明するよ」

 真鉤は答えた。

 天海はもしかすると手術中かも知れない。受診する予定の病院名も聞いている。様子を見に行きたかったが、状況を把握するため一旦帰宅したかった。マルキも動いたかも知れないし、日暮の方にも訪問があったかも知れない。

 須能が何人もいるという楡の言葉が気になる。まずは、帰ってマルキに確認の電話だ。

 いつもの道を並んで歩きながら、真鉤は奈美に須能神一の乱入の件を説明した。マルキの脱走者である須能が真鉤と日暮を狙っていること、マルキの監視がついていることは既に伝えてあった。

「天海君、また入院になるのかな」

 心配そうに奈美が言った。

「分からない。楡先生が骨を繋いでくれたみたいだし、命に別状はないと思う。後で携帯に電話しようと思ったんだけれど、考えてみると僕は天海君の番号を知らないんだ」

「そういえば、そうだね。私も知らないし。もしかしたら天海君、携帯持ってなかったかも」

 奈美も淡く苦笑した。

「入院になったらお見舞いに行こうね」

「そうだね。……今回の彼の怪我は、僕のせいだ。楡先生がいるのを相手も知っていると思ってたから、わざわざ学校まで押しかけてくるとは思っていなかった。余計な危険を、皆に押しつけることになってしまった」

 奈美は黙って首を振り、真鉤の左腕に自分の腕を絡めてきた。彼女の体温と湿った汗の感触に、真鉤は妙にドキドキしてしまう。

 だが、自分の家に近づいた時、真鉤の心は緊張のため急速に冷えていった。

 人の気配がある。しかも屋内に。鍵をこじ開けたのか。須能が来たのか。真鉤を待ち伏せするつもりで。余計な者が入ってこないよう、日暮に結界を張ってもらっているが、真鉤の家を明確に意識している相手には効かないのだ。

「どうしたの」

 立ち止まった真鉤に奈美が尋ねた。

「遠回りしよう。最初に君を家まで送る」

 真鉤が答えた時、家の方から声がした。

「警戒は無用だ。待っていた」

 聞き覚えのある声だった。掴みどころのない気配も覚えがある。マルキの風鬼。

「あまり時間がない。黒淵が、話をしたがっている」

 気配が二つあることに真鉤は気づいていた。生臭い匂いでも黒淵の存在を確認出来た。そして、彼の気配が弱々しくなっていることも。

 奈美を一人で帰らせるか。少し迷った末、真鉤は彼女に言った。

「マルキのエージェントだ。僕の少し後ろをついてきてくれ」

 奈美は頷いた。

 いつもより歩くペースを落とし、慎重に近づく。屋内の気配は動かなかった。風鬼の位置も今は明確に感じ取れる。敵意がないことを示すためだろう。

 玄関のドアが内側から開かれ、風鬼が顔を出した。ちょっと驚いたことに、彼の服もあちこちが裂け、硬質な白いマスクも亀裂が入っていた。背後で奈美の緊張する気配。真鉤は目を凝らして、風鬼の体から髪がこっそり伸びていないことを確認し、振り返って奈美に告げた。

「大丈夫だと思う」

「彼女はそのまま帰して構わん」

 マスクの口は動かぬまま、風鬼が言う。

「あなた方がこうなっているということは、危険な状況なんでしょう。安心して彼女を一人で帰せません」

 真鉤が答えると、風鬼は少しの沈黙の後、「じゃあ、入れ」と言った。

 黒淵はリビングにいた。奈美には「こちらの部屋でちょっと待っていて」と応接室に案内する。父が死んでからは使うことのない部屋だったが、掃除はしていた。風鬼は廊下にひっそりと立っている。彼は土足だった。

 真鉤の視線に気づいて風鬼が言った。

「すまん。後で部下に掃除させる」

「いえ、自分でやりますから。余計な人を入れないで下さい」

 抑えたつもりだが、多少刺々しい口調になったかも知れない。

 リビングのソファーに、黒淵は仰向けに横たわっていた。暗赤色の血が服に絡みつき、胴や手足から何本も骨が突き出している。自前の骨ではなさそうだ。真鉤は八久良島での戦闘を思い出す。飛び道具として射出された骨を食らったか、巨大な顎に挟まれて牙が刺さり残ったか。

 人工皮膚の薄いマスクが破れ、素顔が半ばほど見えていた。暗い緑色の湿った皮膚。短いクチバシに似た硬質な唇。

 赤い帽子が外れ、平らな白い頭頂部も見えた。皮膚が削げ落ちて頭蓋骨が露出しているのではない。多孔質のザラザラした表面で、陶器に似ていた。破れたシャツの背中側に、亀の甲羅のようなものが見えた。

 黒淵は、河童だった。

 初めて会った時、緑色の皮膚と生臭さから、真鉤もなんとなく予想はしていた。吸血鬼や狼男、雪男がいるのなら、河童がいてもおかしくはない。赤い帽子は半分に裂けたものが床に転がっている。裏側は鉄板が張ってあった。頭の大事な皿を守るためのものだったのだろう。

 ゴヒュー、ビビュー、と、湿った弱い呼吸を黒淵は繰り返していた。角膜が乾いてきている。かなり危ないな、と真鉤は思った。

「早く治療した方がいいのでは」

 真鉤が言うと、廊下とリビングの境に立つ風鬼が答えた。

「もう助からん。皿が割れてしまったのでな。こいつの種族はそうだ。ここに連れてきたのは、本人の希望だ」

 確かに、頭頂部の皿には大きな亀裂が入り、端の方は欠けていた。その下は骨になっているようだ。人間なら頭蓋骨骨折でも手術で治すが、河童の皿はそうはいかないということか。

 虚ろに天井を見ていた黒淵が、ゆっくりと、真鉤に目を向けた。

「今の。お前の、彼女か」

「……」

「今、チラッと、見えた。お前の彼女か」

 ねじくれたガラガラ声で、黒淵は繰り返し問う。仕方なく真鉤は答えた。

「そうです」

「美人だな」

 死に際に何を言っているのか。真鉤には黒淵の意図が分からなかった。

「座れよ」

 ここは僕の家なんだが、と思いながらも真鉤は斜め向かいの一人掛けソファーに腰を下ろした。風鬼は動かず見守っている。

「羨ましい奴だ。人間の格好しやがって、あんな彼女までいやがる」

 またこれか。真鉤は別の話題を出した。

「須能神一にやられたんですか」

「あれは、化け物だぞ」

 黒淵は横たわったまま、口だけ動かした。

「楡先生が、須能神一は何人もいると言ってました」

「奴は、幾つも体をストックして、乗り換えてやがる」

「そんなことが出来るんですか。あの細菌で」

「実際にやってたんだから、グダグダ言ってもしょうがねえだろ。リアリティなんて、本物のリアルの前には吹っ飛んじまう」

 それはそうだ。真鉤も訳の分からないものを見てきた。楡誠の超能力とか、自分の周囲を闇で包んでしまう日暮冬昇とか。真鉤自身も、遺伝子的には普通の人間らしいのに不死身の殺人鬼なのだ。

「おい、あれを見たか。地響きくらいは聞いたか。ニュースにはならないだろうが、あれを見た民間人もいる筈だ。噂は必ず伝わって、いずれ、都市伝説になる」

 地響き。思い当たることがあった。課外授業を受けている時に、ほんの短い間だったもののビリビリと建物の震動を感じた。地震が来るかと思ったが、本格的な揺れはなかった。

「何のことです」

 真鉤は尋ねた。

「怪獣さ。クヒッ。怪獣じゃなくて、饅頭の化け物だったか」

 黒淵はおかしげに笑った。風鬼が補足する。

「幅が何十メートルもある肉の塊だった。数千頭のシャチを繋ぎ合わせたらしい。須能は砂浜にそれを隠しておいて俺達を誘い込み、丸呑みしようとした。俺はぎりぎりで逃げられた。黒淵は一旦呑まれた後、砂の中を這って逃げてきたので俺が回収した」

 数十メートルの大きさの肉塊。饅頭のような化け物、か。真鉤は具体的なイメージが湧き辛かった。大館千蔵がもっと不格好になって巨大化したようなものか。自分がそんなものとどうやって戦うか想像出来ない。幾ら斬りつけたところでダメージにはならないだろうし。

 風鬼が続けた。

「俺達が逃げた後、肉の塊は砂に潜って動かなくなったようだ。須能はストックしてあるどれかの体を動かす間、他の体は眠らせているらしい。今、マルキが現場を隔離して調査中だ。もしまたあれが動き出したら、逃げるしかなさそうだが」

「気をつけろ。須能は、妙な力を使った。それがなけりゃ、俺は勝つ自信があったんだ……」

 黒淵がそこまで喋った後で、ケフッ、ケフッ、と乾いた咳をした。全体的に、彼の体が乾いてきたように見える。皿が割れたせいなのだろうか。

「……光だ。眩しい、と思ったら、我に返った時には潰されていた。多分、一時的に感覚を乗っ取られたか、押しつけられたか。防ぎ方は分からんね。短い時間だ。ほんの三、四秒だ。あれさえなかったら、俺は勝てた……」

 黒淵は、真鉤に警告するためにわざわざここに来たのか。初対面の時は自信満々で、真鉤にどす黒い敵意を向けた男が。

 しかしこの状況は、つまり、マルキの手には負えないということではないか。

「それで、これからどうなります」

 真鉤が尋ねると、風鬼があっさり言った。

「俺は須能の件からは手を引く。俺の力では対処出来ない。おそらく、上は朧を呼ぶだろう」

 風鬼が「俺達」でなく「俺」と言ったのは、黒淵の死を計算に入れているためだ。

「朧というのは誰です」

「朧幽玄。マルキで最強の戦闘員だ。いるような、いないような男だ。お前と顔を合わせる可能性は低い。現れた時は大概、終わっているからな」

「別名『チーズ職人』だ。クヒュッ」

 黒淵が付け足して、弱々しく笑う。訳が分からない説明だが、朧幽玄というのが得体の知れないということは分かった。

「おい」

 黒淵が真鉤に言った。垂れ下がった右手が力なく床を掻く。

「これをお前にやる」

 彼が何を拾おうとしているのか、真鉤には分かっていた。ソファーの下に横たえられているのは、血の絡みついた鎌神刀だ。

「要りません」

「新品がいいのか。だが、俺のをやる。まだ使って半年未満だ」

「僕にはその武器は合いませんから」

「ビデオは見たぞ。八久良島でのな。うまく使ってたじゃないか。俺ほどじゃあ、ないが」

「そういう意味じゃなくて、そんなものを持って出歩いたら目立ってしまうんです」

「気にするな。お前が何をやっても、マルキが揉み消してやる。俺が、保証してやるよ」

 これから死ぬ者の保証など意味がないのだが。それにしても不思議だった。黒淵の掠れ声には、真鉤への親愛の情さえ含まれているように感じられた。

「……。どうして僕に、譲りたいんですか」

「俺の人生に、意味があったと思いたいからだ」

 黒淵は答えた。

「四十七年、戦い続けたが……俺には、何もなかった。何も残らない。一族でも異端扱いで、家族もいない。歴史に残るようなことを成し遂げた訳でもない。……だが、お前が俺の刀を受け取ってくれるんなら、少しは意味があったってことだろう。殺人鬼の幸福に、俺も貢献出来たって訳だ」

 同類が故か。真鉤はそんなことを思った。

 同類だからこそ、強い愛憎を覚えるのだ。偽刑事・大館千蔵のように。また、真鉤が日暮静秋に対して複雑な感情を抱くように。

「分かりました。使う機会はないかも知れませんけれど、頂きます」

 真鉤が頷くと、黒淵の緑色の頬に薄い皺が寄った。笑ったのだろうか。

「使ってくれよ。ああ、そうだ。奴の血がついているから、後でマルキに滅菌してもらえ。風鬼、頼む」

「伝えておく。補充のメンバーもじき、来る筈だ」

 風鬼が応じる。

「よし。これで、用事は済んだ。じゃあ、な」

 最後の挨拶は、風鬼と真鉤、両方に向けたもののようだった。黒淵は目を閉じて、静かに弱い息を吐いていった。それから駄目押しに、「羨ましいぜ」と呟いた。

 パキィッ、と、乾いた音がした。黒淵の頭頂部の亀裂が大きくなって、皿がその部分でずれた。

 脳漿が流れ出ることはなかった。黒淵の皮膚はみるみる乾いていき、ちょっとしたミイラみたいになってしまった。

「死んだ」

 風鬼がポツリと言った。

 これが、一つの末路か。乾燥した河童の死体を見ながら、真鉤は思った。

 好きな相手ではなかった。自信過剰の戦闘マニアという印象しかなかった。だが、真鉤はこの男に親近感のようなものを抱き始めていた。

 自分もいずれ、こんなふうに、死ぬことになるのだろうか。

 それはそれで、いいのかも知れない。

 エンジン音が家の前で停止した。多分大型ヴァンかトラックだ。

「部下が来たようだ」

 風鬼が言った。それから普通の顔をしたマルキの構成員が上がり込み、黒淵の死体を運び出した。消毒液に浸したモップで念入りに床を掃除し、黒淵が寝ていた二人掛けソファーはそのまま持っていかれてしまった。

「弁償しますので」

 マルキの男が言った。昔、父も座っていたソファーだった。一瞬、ソファーで酒を飲んでいる父の後姿を真鉤は思い出した。その後頭部に、真鉤は斧を叩きつけたのだ。

 マルキには、奈美にも監視をつけてくれるように頼んだ。須能は彼女の情報も持っているかも知れず、真鉤も常に彼女のそばにいることは不可能だ。何か異変があればすぐ連絡を貰い、駆けつけられるようにしたい。黒淵達が敗北した動揺もあるのだろうか、構成員はすんなり了承してくれた。

 真鉤が帰宅してから全て片づくまで、二十分かそこらだったろう。彼らが去っていき、消毒された鎌神刀が残った。真鉤は取り敢えずそれを地下室に置いて、応接室のドアを開けた。

「待たせてごめん」

 真鉤が言うと、奈美は「ううん」と首を振った。

「大丈夫」

 真鉤の顔を見て奈美は尋ねる。真鉤は自分がどんな表情をしているのか分からなかった。

「マルキの戦闘員がここで亡くなったよ。これからまた、大変かも知れない」

「……そう」

「それから、僕はどうやらリア充らしい」

 真鉤の台詞に奈美はちょっとびっくりしたような顔をして、それから優しく微笑んだ。

 翌朝、彼女はいつもの時間に来なかった。

 あまりにもあっけなく、彼女は攫われた。

 

 

  二

 

 カターン。カタターン。

 藤村奈美は揺られている。リズミカルな震動を感じている。

 電車。

 いつの間にか寝てしまったらしい。シートに座っていて居眠りをしてしまったようだ。

 何処に向かっている途中だったか。買い物……かな。でも……あれ、今日は、学校じゃあ、なかったかな。

 奈美が目を開けると、やはり列車の中だった。真向かいのシートに一人の男が座っている。それ以外に乗客はいなかった。男の背景、窓を景色が動いていく。平原と海。あまり見覚えのない、景色だった。

 目的地は何処だったろう。

 奈美は自分の服を見る。夏用の、学生服。鞄も横にあった。腕時計を見る。アナログの針は九時十五分くらいを示している。

 液晶表示部分にある「WED」という文字。水曜日。平日だ。夏休みは、もう終わっている。二学期だ。おかしい。やっぱり、学校に行く筈では。どうして電車に。

 ということは、夢なのだろうか。

「訳が分からないと、思うだろうね」

 向かいのシートに座る男が言った。

 大きな男だった。まだ夏なのに、黒いロングコートを着てきちんと前を合わせていた。奈美はよくある変態の図を思い出した。夜道を歩く女性の前に立ちはだかり、コートを開いて裸を見せつけるのだ。

 だが目の前の男はそういうのとはちょっと違っていた。顔は……普通の顔、というべきだろうか。三十代だろう。少し頬の丸い、目は眠たげだが無表情な男だった。胴体は大きくて膨れているのだが、相対的に手足は細く見える。バランスがおかしかった。

 カタターン。カタターン。景色は流れていく。やっぱり夢なのかな。奈美は取り敢えず、喋ってみることにする。

「ええっと……」

「本当に、人生は、訳が、分からない」

「夢かな、と、思って……」

「夢だったら、良かったよね」

 男は表情を変えずに告げた。

 急に、ゾワワ、と、奈美は鳥肌の立つ感覚に見舞われた。ついもう一度腕時計を見てしまう。水曜日。午前の九時、十六分。

 おかしい。これが現実だとすると、おかしい。

「藤村奈美さん、だったね」

 男が言った。

「君は、拉致されちゃったんだよ」

「えっ」

 意味が分からない。シチュエーションが。ああ、自分は寝惚けているのだろうか。

「分からないかな。誘拐、です」

「え、でも……」

「僕が、誘拐しました。君が家から、出てきたところにね、後ろから近づいて、『オーバーフロー』をかけた。固まっているところに、首を絞めて、落とした。大丈夫、柔道の絞め技でね。後遺症とかは、ないと思うよ」

 オーバーフローとは何のことだろう。

 そういえば……。奈美は思い出した。家を出発して、急に強い光が見えたのだ。眩しい光で、何も分からなかった。そして、気絶させられて、電車に乗せられているらしい。

 本当に、誘拐されたのだ。奈美は理解した。目の前の男が自分を誘拐した。でもあからさまな悪意は感じられず、それが逆に不気味さを強めた。

「どうしてわざわざ、電車かっていうとね。特に意味はないんだ。なんとなくそっちの方が、面白いような気がしてね。気絶させて車に乗せるのが、簡単だったんだけどね。どうせなら、自分のやりたいように、やりたいよね」

 この男は気絶した奈美をどうやって電車に乗せたのだろうか。背負って改札を通ったのか。駅員に止められなかったのか。それに、他の乗客がいないのはどういうことだろう。

 奈美は左右を確認した。隣の車両にはちゃんと乗客がいた。それなりに、多く。連結部のドアは閉じていたが、窓越しにこちらを見ている男もいた。その顔に浮かぶのは、怯え。

「僕は、須能神一です」

 向かいに座る男が名乗った。

 ああ、やっぱり、そういうことか。マルキの脱走者。真鉤を狙って学校にまで押しかけてきた男が、その彼女である自分を攫ったという訳だ。人質にして、真鉤を呼び出すつもりだろうか。それとも、真鉤を怒らせるために、奈美を殺すつもりだろうか。

「本当はねえ。日暮の方を狙ってたんだ。吸血鬼の、日暮静秋。あいつの方が澄ましてて、調子に乗ってたからね」

 須能は無表情に話を続ける。

「でもね、結界っていうのかな。どうも、近づけなかったんだよね。あいつの学校にも、家にも。あいつの彼女も、駄目だった。無理に近づこうとすると、なんか気持ちが、萎えちゃうんだよねえ。多分、そういう結界なんだろうね。吸血鬼はそういう小手先技、得意だよねえ。だから、真鉤の方にしたんだ」

 ああ、そういうふうに、簡単に狙われてしまうんだなあと奈美は思った。別に恨みとかではないのに、簡単に、標的になってしまう。理不尽に。

 列車が減速していき、停止した。車内アナウンスが駅名を告げる。名前は聞いたことがあるが、通ったことのない路線だった。

 須能は、奈美を何処に連れて行くつもりなのだろう。

 扉が開いて、待っていた客が乗り込んできた。奈美は一瞬、駆け出して逃げることを考えたが、それが不可能なことも予感していた。

 須能が客に言った。

「ここは貸し切りだ。隣へ行け」

 素っ気ない、威圧感もない口調だった。

 入ってきたのは中年の男だったが、いきなりな台詞に戸惑ったようで、ポカンとして立ち止まっている。

 須能が急に立ち上がり、コートの前を開いた。

 彼は全裸ではなかった。少なくともズボンは履いていた。ただ、彼の上半身は、尖った白い骨らしきものが密集して生えていた。まるで剣山みたいに。胴体が妙に膨れていたのはこのためだった。訳の分からない、体の構造だった。

「出ていけ。三秒だけ、待ってやる」

 須能が告げた。

 中年の客はまだ固まっていた。ふと後ろを振り返るが、ブザーが鳴って扉が閉まる。

 急いで隣の車両に歩けば、彼も死ぬことはなかったのだろう。

「はい、時間切れ」

 まだ三秒までは経っていなかったような気がするが、須能は容赦なかった。ジュビッ、という不気味な音がして、中年男の顔面と胸に、深々と長い骨が突き刺さっていた。

 男は前のめりに倒れ、列車の床に押されて貫通した骨の先端が、血を絡みつかせて背中から現れた。顔に刺さった分もおそらくは脳の奥深くまで入ったろう。

 奈美は緊張に身を強張らせたものの、悲鳴は上げなかった。上げた方が良かったかも知れないと後で思ったけれど、既に、色々なものを経験し過ぎていた。

「ううん。これは、死んじゃったっぽいね」

 須能が無表情に言った。胸腹に生えた百本以上の骨のうち二本が、男に向けて銛のように発射されたのだった。須能はまたコートの前を閉じた。

 列車が進み始めた。

「この人の体には、菌が入っちゃったね。独立した死体だから、菌が全身に回るのは、数時間かかるな。心臓が潰れてたら、そのまま腐っちゃうこともあるけど、大体半日くらいで、僕が操れるようになる。まあ、今更面倒臭いし、後始末はマルキに任せるよ」

 カターン、カターン。転がった死体など知らぬげに、電車は進む。

 奈美は座席から動けぬまま、須能の顔を見つめていた。この魔人は、自分をどうするつもりなのだろう。

「この細菌は取り敢えず、ヤクラ菌と呼ばれてる。正式名称をどうするかは、まだ協議中だったみたいだ。ミート・コネクターとか、いう案があったみたいだけど、ちょっとセンスを疑っちゃうんだよねえ。僕だったら、グールズ・カンパニーってつけるな。グールってのは、死体を食う化け物のことでね。カンパニーは、仲間とかという意味もあるけれど、軍隊の、中隊って意味もある」

 奈美は隣の車両を見る。こちらを見ていた前の車両の乗客が、真っ青な顔で凍りついている。後ろの車両には人の姿を見かけなかった。駅で降りたのか、殺人を目撃して更に奥の車両へ逃げてしまったのかも知れない。

 奈美自身は、逃げられないことを悟っていた。もし隣の車両へ駆け出したりしたら、すぐに骨が飛んでくる筈だ。

 奈美は尋ねた。

「私をどうする気ですか」

「意外に、冷静だね。ちょっと見直したよ」

 須能は言った。

「取り敢えず君は、人質だ。餌、というべきかな。真鉤にはもう、連絡を取った。君の携帯でね。一人で来るように、伝えてるよ。マルキの方にも、警告は入れた。僕の邪魔をしたら、国内の八十四ヶ所で、菌に感染した怪物が、暴れ出すってね。マルキは、条件を呑んだよ。結局真鉤は、生け贄みたいなもんだよなあ」

 不穏な台詞。マルキは真鉤を見捨てたというのか。奈美は自分の顔が強張るのを感じる。どういう状況に、なっているのだろう。

「グールズ・カンパニー……この細菌はね、色々な機能を持っている。共生関係、というらしいね。自分が生き残るために、感染した宿主にも得になるような、ことをする。宿主の意志は別にしてね」

 須能は勝手に語り続ける。

「一つは、宿主の肉でも他の個体の肉でも、とにかく触れた肉を、どんどん繋げてしまう。拒絶反応も起こさせない。二人分や三人分を組み合わせて一人の大男に、したり出来るし、何千体も繋げたら、怪獣を作ることだって出来る。……まあ、だからといって、ゴジラとかキングギドラを作るのは、無理っぽいんだけどね。制約があるんだ」

 奈美は須能の口調に、楽しげな響きを感じ取った。自分の薀蓄を誰かに聞かせたくてたまらないらしい。これまで、聞かせる相手がいなかったのだろう。

「この細菌は、宿主の持っている神経系とは別に、独自の神経網を作る。それぞれの個体の、本来の性質を無視して、勝手に動かせる訳だ。どんなふうに神経を作って、どんなふうに体を作っていくかは、その時の条件によって分かれるみたいだな。幾つかテンプレートみたいな、基本の形はあるみたいだけれどね。僕は、自分の意志でそれを、コントロールしている」

 須能の口調には、自負のようなものが感じられた。

「それから、冬眠機能だ。捕まえた獲物は、すぐに取り込んで、自分の体の一部にして、自分を更に大きく、強くするようになってる。その分、食べて消化するって機能は、弱いみたいなんだよね。周りに獲物が見当たらなかったら、こいつは仮死状態になって、冬眠するようになってる。八久良島で、土の中で寝てたのもそういうことだった、みたいだね。……僕はその機能を使って、こいつらの体をオンにしたり、オフにしたり出来る。スイッチ一つでって、感じかな。勝手に動かれるのも困るんで、コントロールしてる体以外は、全部、オフにしてる」

 須能の説明を、全部理解出来る訳でもなかった。ただ奈美は、どうやったらこの状況を打開出来るか考えていた。

「ええっと。何処に向かってるんです」

「二十重坂町。もう、次の駅だね。ここで準備したんだ。五日かそこらでそれなりに、整ったよ」

 大きな町ではない。名前は知っているという程度だった。同じ駅名を告げる車内アナウンスが流れ、列車が減速を始めた。

 降りたらどうにか人込みに紛れて逃げられないだろうか。しかしそれをやると、須能は無差別に攻撃してくる可能性もあった。自分のせいで、他の大勢も危険に晒すことになる。

 異常事態に駅員は気づいているだろうか。でも気づいていても、何も出来ないだろう。やはり骨の突き刺さった無残な死体が並ぶだけか。

 列車が停止した。

「じゃあ、行こうか」

 須能がのっそりと立ち上がる。乾いた威圧感に当てられ、奈美も仕方なく立ち上がった。学生鞄を手に取る。そういえば弁当がない。真鉤の分も作っていたのに。攫われた時、道端に置き去りにされたのだろうか。勿体ないことをした。この状況で、奈美はそんなことを思う。

 須能が待っている。奈美は彼の横に並び、一緒に電車を降りる。すれ違いに乗り込んできた客が、横たわる死体を見て凍りつく。

 降りてから二歩進んだ時、右隣の須能がいきなり「うむっ」と呻き声を洩らした。

 見ると、須能の顔面からバネのようなものが生えていた。

 

 

  三

 

 伊佐美界からの電話に応じながら、真鉤夭のはらわたは煮えくり返っていた。

 一つはマルキの無能に。もう一つは自分の間抜けぶりに。

 真鉤は用心したつもりだった。マルキに藤村奈美の警護も依頼しながら、自分も夕食を済ませるとすぐ彼女の家に張りついていた。以前、式一三との決闘前にやったように。誰にも気づかれず庭に蹲って、敵らしき人物が近づいてこないか警戒していたのだ。

 朝まで何も起こらず、真鉤が自宅に戻ったのが午前七時半だった。八時過ぎに何食わぬ顔で、彼女を迎えるつもりだったのだ。

 その隙に、奈美は誘拐された。

 彼女が家を出るまで張りついているべきだったのだ。最初から制服を着て、彼女が真鉤の家に着くまでついていくべきだった。ずっと張りついていたことがばれても別に構わなかった筈だ。彼女は既に、真鉤のことを充分知っているのだから。

「真鉤君。聞いていますか」

 伊佐美が呼びかける。彼の繊細で神経質な声音が真鉤の心を逆撫でする。更には病み上がりらしく弱々しさまで加わっていた。

「聞いています」

 真鉤は冷たく返した。

「須能は君に一人で来るように言ったんですね。一人で、二十重坂町まで」

 ほんの数分前に入った連絡だった。奈美の携帯からで、嫌な予感を抱きながら真鉤が出ると、相手は須能神一と名乗ったのだ。

 道場で会った大男の声とは違っていたが、スローペースの平板な喋りが似ていた。奴は簡潔に、奈美を預かったことと、午前十時までに二十重坂町駅に一人で来るようにと告げたのだ。駅に着いたら彼女の携帯に電話するようにとも言った。次の指示があるのだろう。

 真鉤が急いで「彼女を傷つけるな」と言うと、「なら、指示に従うべきだね」と須能は返してあっけなく通話が切られた。

 楡先生や日暮に相談する選択肢を真鉤は除外した。マルキへの協力要請などは論外だ。何よりも、奈美の安全を優先すべきだった。

 そして、今、伊佐美からの電話だ。こいつは介入するつもりではないだろうな。必要とあれば何人でも平気で殺す。奈美もまたマルキにとってはただの一般人でしかない。

「こちらにも同じことを伝えてきたようなので、念のための確認です」

 真鉤の懸念を察したのだろうか、伊佐美が説明した。

「……ええ。二十重坂町です。協力はお断りします」

「君がそれを望むのであれば、そうしましょう。ただ、朧幽玄が既に動いています」

 マルキ最強の男か。しかし奈美が攫われたこの状況で勝手に暴れ込まれるのは危険過ぎる。真鉤は再び噴出してくる怒りを抑えるのに必死だった。

「奴は僕一人でと言ったんですが。止めて下さい」

「残念ながら、それは無理です」

 伊佐美は力なく言った。この糞野郎が。

「朧に今連絡をつけるのは不可能ですし、私の頼みを聞くこともありません。彼は、別ルートで動いていますので。君には申し訳ないのですが、私にそこまでの権力はないのですよ」

 伊佐美の声音には自嘲めいた響きがあった。

「ただ、マルキが須能に手を出すことのペナルティは、日本各地で眠らせている怪物を暴れさせることで、藤村奈美を殺すことではありません。勿論、彼女に危険が及ぶ可能性もゼロではありませんが」

 八久良島と同様の騒ぎを全国で起こすということか。それはそれで最悪に近い事態だが、今の真鉤にはどうでも良かった。

「用事はそれだけですか。もう行きますので」

 真鉤が切ろうとすると、伊佐美は慌てて続けた。

「伝えておくことがあります。私は昨夜緊急要請があって退院して、封鎖された研究所跡を調べました。黒淵が殉職し、風鬼が敗北宣言したため、改めて須能の弱点を探る必要があったのです。君も船の中で見た筈です。ユニオン・タンクの中心に、円筒形の容器があったのを」

「ええ、見ましたけど」

 須能の敵意を感じた。あの灰色の容器の中に、須能の生身の部分が入っているようだった。単なるサイボーグだと思っていた。それがどうしてこんなことに。

「瓦礫の中からあの容器が見つかったのです。中身は空でした」

「……それは、抜け出したということですか。細菌に感染した肉と繋がって」

「違うんです。どうやら、あの容器の中には、ずっと前から、須能の本体がなかったのです」

 何。どういう意味だ。

「なら、奴の本体はどうなってるんですか」

 須能が複数の体を操るとしても本体は一つだ。だからその本体を潰せば勝負はつくと、真鉤は思っていたのだ。

「須能の本体というものは、存在しないのかも知れません。もし朧が仕留めきれなかったら、須能神一を殺す手段は、マルキにはもうありません」

 本体がないとはどういうことか。須能は殺せないのか。真鉤にはよく分からなかった。

 分かっているのは、自分が何をすべきかということだ。

「そうですか。では失礼します」

 真鉤は電話を切った。手早く普段着に着替え、マルキに貰った人工皮膚のマスクを貼りつける。武器を持ってくるなとは、須能は言わなかった。ならば、用意しておくべきだ。折れた剣鉈の代わりに、ホームセンターで買った手斧をシャツの下に隠しておく。刃渡り十二センチ。まだ誰にも使っていない。

 だがこれだけでは心許ない。やはりあれを持っていくべきか。真鉤は少し考えて、地下室に下りた。

 黒淵の遺した鎌神刀。少し刃欠けがあるが、元々鋭利さに頼るような武器ではない。全長百七十センチ、十キロ近い重量のそれを、真鉤はシーツで包んだ。

 まだ時間はあるか。真鉤は高校に電話を入れた。風邪を引いたので今日は休みます、という内容。やはり楡誠に連絡はしない。しかし、もし奈美を瞬時に保護出来るとすれば、楡だけだろう。だがもし失敗したら……。真鉤は自分の判断が正しいのかどうか分からなかった。

 ふと気づく。十時までに駅に着けばいいといっても、それまで奈美が無事だとは限らないのだ。肉塊に取り込まれ、埋まった彼女の虚ろな顔を思い浮かべ、ゾッとする。

 大切なものを守るためには全力を尽くさねばならないのに。どうして自分はこんなに間抜けで、弱いのだろう。

 力が欲しい。

 真鉤は鎌神刀を携えて出発した。

 

 

  四

 

 須能神一の顔面から生えた金属は、コルク抜きを大きくしたようなものだった。血が絡みついている。須能の背後に人影があった。薄い青色の服。

 奈美がよく見ようとすると人影は消えていた。一瞬で。幻だったみたいに、正面に向き直るといなくなってしまった。

 奇妙な金属も消えたが、須能の顔面の傷は現実だった。ボドリ、と、落ちたのは円柱型の肉塊だ。直径五センチ、長さ二十センチほどの肉塊。大部分はピンク色で、後端には髪の毛がついている。

 これが何なのか認めたくなかったが、奈美は須能の顔を改めて確認した。眉間の少し上辺りに、直径五センチの穴が開き、後頭部まで綺麗に打ち抜かれていた。本当に、額から後ろの景色までが見えている。

 須能は無表情のまま、ゆっくりと、崩れ落ちていった。そのままピクリとも動かない。

 死んだのか。何者の仕業か。真鉤でないのは確かだ。ならばマルキか。楡誠だったら同じことが出来るかも知れない。彼は一瞬で人を圧縮したり出来るらしいから。しかし、あの青い人影は……。それにしても、これで、奈美は助かったのだろうか。

「む……うぅ……」

 呻いたのは須能ではなかった。

 ホームのベンチに座っている男……うなだれて眠っているようだったのが、呻いた後で大きく息を吸い、ゆっくりと、顔を上げた。

 五十才くらいだろう。顔色が悪く、開いた目は黄色く濁っていた。それを見た瞬間、ああ、駄目だと奈美は悟った。

 中年男は奈美を見て、「うん、危なかった」と言った。

「死んだかと思ったよ。一瞬、気が遠くなった。朧だね。朧幽玄」

 自然に話しかける。さっきまでの須能の喋りの続きみたいに。別人で、別の声だったが、口調は同じだった。

「朧っていうのはね、マルキの戦闘員の、ナンバーワンさ。『いるような、いないような男』と、呼ばれてる。君も見えたかな、一瞬。正面からだと、見えなくなる。視界の、隅の方に現れるんだ。見えたと思ったら、終わってる。奴は、狭間に生きているらしい。僕も詳しいことは、知らないんだけどね」

 確かに奈美も見た。青い人影。しかし顔も服装も、しっかり見る前にいなくなっていた。

 それにしても、須能神一という男はどうなっているのだろう。幾つもの体を使い回せるという話は真鉤からも聞いていた。何処かに本体が隠れていて、電波を飛ばして操っているみたいなものだろうか。

「奴の作った死体を、見てきた側としては、『チーズ職人』って綽名の方が、しっくりくるな」

 中年男の須能は倒れた須能の肩を掴んで引き起こし、後頭部の穴を指差した。奈美はそれで、チーズ職人と呼ばれる理由を理解した。その綺麗な風穴を、『トムとジェリー』に出てくるような穴開きチーズに例えたのだろう。

「朧と『ミキサー』は前にやり合って、決着がつかなかったらしいね。なんか互いに、力が丸っきり噛み合わなかったって。世の中には、とんでもない化け物もいるもんだねえ。……でも、朧に穴を開けられて、僕はちゃんと生きてるんだから、これは勝利宣言をすべきかも知れないな。奴は僕を殺せないということだから。一度現れたら、その日はもう出てこないとも聞くから、今回のイベントで邪魔される心配も、ない訳だ。この体はメイン脳がやられちゃったけど、修復は出来そうだな」

 新しい須能は喋りながら、抜け落ちた肉円柱を拾って元の場所に押し込んでいく。

「そうだ。こうやって、僕を殺そうとしたんだから、ペナルティを与えるべきだね。有言実行しないと。そうだな、四十ヶ所くらいでいいかな。全国に寝かせてる奴らから、適当に選んで起こすか。後でマルキにも連絡しておこう」

 新しい須能は何かに集中するように目を閉じた。指示を何処かにある別の体に飛ばしているのだろうか。スイッチを、オンにする訳だ。

 奈美はふと気づく。これって、逃げるチャンスなのでは。須能が他のことをやっているうちに、こっそりと。

「あ、もしかして、今、逃げられるかも、なんて思ったかな」

 目を開けて須能が言った。奈美はゾクリとして動きを止める。

「やめた方がいいと思うよ。左腕を見てごらん。自分の左腕、内側にある」

 どういう意味だろう。奈美は自分の腕を見る。何もない……いや、あった。小さな傷が。蚊に刺されたみたいに少し腫れているが、中心は切れていた。もう血が固まっている。

 ゾワゾワゾワ、と、闇の底から這い寄ってくるような恐怖が、奈美を侵蝕していった。

「君が気絶してる間に、もう、細菌は感染させてるんだ。今は、静かに神経網を作ってる段階だね。でも、君が逃げたら、コントロールを解除して、暴走させちゃうよ。そうすると、君の体はどんな、化け物になっちゃうんだろうね。変形していって、いずれは脳も変質して、何も考えない獣になって、他の生き物を襲って同化して」

 ああ、もう駄目だ。もう、どうしようもないのだ。奈美は耳を塞ぎたくなった。

「よし、行こうか」

 新しい須能が向き直った。胴体の膨れた古い方の須能は、額が少し出っ張っていたけれど、一応中身は嵌め戻されていた。

 そのコートのポケットから切符を取り出して、中年の須能が一枚を奈美に渡す。彼の体は何かあった時のためにホームに待機させていたのだろう、自分の切符も持っていた。中年の須能が先を歩くと、驚いたことに、古い方の須能もヨタヨタと頼りない足取りながら、ついてくるのだった。ゾンビみたいな、不気味な光景だった。

「そろそろ僕の話を、しておこうかな」

 駅員に咎められずに改札を抜け、先頭の須能が言った。駅員の顔は強張っていたが、事情を知っているのだろうか。マルキの通達が回っているのかも知れない。マルキは警察も支配している。

 奈美は濁った目をした後ろの須能に近づきたくなくて、先頭の須能の斜め後ろを歩く。彼は何処へ向かおうとしているのだろう。

「僕はねえ、一般人だった。当時の名前は、須能貴行。僕は、自分がそうだと、思ってたんだよねえ」

 最後の台詞は意味が分からなかった。須能はどんどん歩いていく。周囲の通行人にどう見られているのか気にしながら、奈美も歩く。

「普通だったよ。勉強はそこそこ出来たけど、顔はそんなにイケメンでも、なかったな。大学もそこそこ、だった。彼女もいてね。割と可愛かったよ。僕はねえ、彼女と、結婚するつもりだった」

 中年男の顔で、須能は少し懐かしげな表情になった。

「二十一才の時だね。就活の大変だった、時期さ。脇腹が痛くなって、医者に行って、CTまで撮った。そうしたら、腹の中にできものがあって、テラトーマって言われたんだ。聞いたことあるかい、テラトーマ。奇形腫とも言うね」

 振り返って須能が尋ねる。奈美は首を振った。

「ああ、そうだ。有名なのがあるね。『ブラックジャック』のピノコ」

 それで奈美は分かった。双子の兄弟の体内で育ってしまった人間のカプセル。ブラックジャックはそれを取り出して、足りない部品を補ってピノコを作ったのだ。

 奈美が頷いたのを見届けて、須能が話を続けた。

「母親の胎内で、双子の片方が、もう片方の体の中に、入り込んじゃうんだね。袋になってね。割とある話らしい。それで一応栄養が届くから、細胞としては、まあ、生きてるっていうんだろうね。あ、でも、ピノコほどじゃないよ。脳っぽいのと、内臓っぽいのが少し、入ってたみたいで。色々検査したら、どうやら、脳波が出てるらしいって。もしかしたら、脳が活動してるかもって、言われてね。その時の僕は、気持ち悪いとしか思えなかったね」

 奈美だったら、双子の姉妹が自分の体の中で眠っていると知らされたら、どんな気持ちになるだろう。また、その眠っている姉妹はどんな夢を見ているのだろうか。歩きながら奈美は考える。

「お偉い医者まで出てきて、手術で取り出そうと言った。取り出したものは、研究材料として使いたいってね。僕も同意したよ。体の中に余計なものがあって、それで僕は痛い思いをして、損をしている。生きてたって何にもならない、小さな兄弟を取り出して、僕が健康になるんなら、それでいいじゃないか。ってね。それで、手術した。別に危険な手術じゃなかった。それですっきりして、目が覚めると思ってた。……違ってたんだよ。僕が、目が覚めたら、培養槽の中だった。僕はそれまで、気づいてなかったんだ。奇形腫なのは、僕の方だったんだ」

「えっ」

 奈美は思わず立ち止まった。その背にコートの男が当たる。今はゾンビみたいに虚ろな顔でついてくるだけだが、額の傷は塞がってきているようだ。出血も殆どない。

 男の後方に数人の男女が歩いていた。通行人にしては奇妙な感じがする。エプロンを着けたままの主婦らしき人もいた。須能が先を歩いていくので、奈美は彼らをよく確かめる暇もなく後を追った。

「僕はねえ、自分が、須能貴行だと思っていた。須能貴行の中心にいて、自分の意志で動かしていると、思っていた。ガンダムのパイロット、みたいな感じかな。それがねえ。実際には、パイロットは、僕じゃなかったんだ。僕は、パイロットの隣の補助席に座っていて、自分がパイロットになったつもりの、大馬鹿者だったって訳さ」

 奇形腫を邪魔と思って手術で取ったら、自分の方が奇形腫だった。そんな不条理なことがあり得るのか。須能は楽しげに語る。

「僕を引き取ったのは、マルキだったよ。色々と、研究と実験を、されたみたいだ。テラトーマの、僕の体はね。三百四十グラム、だった。脳味噌は八十四グラムだったかな。それだけでも、ちゃんと意識があって、思考していた。それが奴らの、お気に召したみたいだね。この四年ほどは、サイボーグをやっていたよ。小さな脳に電極繋いでね。これが割と、動かせるんだな。マルキの戦闘員と一緒に、人外を狩ったりしていたね。あんまり役には、立たなかったけどね。でも、まあ、こんな人生もありかなって、思うようにはなってきてたんだ。仲間もいて、ちゃんと仕事をして。自分なりの生き方として、これでいいのかな、ってね」

 ならどうして須能はマルキを裏切ったのだろうか。

 いつの間にか後方の気配と話し声が増えていた。奈美はちょっと立ち止まって振り返ってみる。

 百人以上の人がこちらに向かって歩いていた。

 おかしい。彼らはスーツ姿だったり大学生っぽかったり、制服を着た中学生だったりした。普段着の中年の男女も、それからエプロンを着た女性はさっきもいたような気がした。ということは、ずっと同じ道を歩いてきたということか。

 更に異様なのは、彼らの表情だった。頭に穴の開いた元須能のような虚ろなものではなく、戸惑いや恐怖に顔を歪め、泣きそうになっている者も多かった。彼らは必死に口をパクパクさせているのに、話す声は囁き程度に小さかった。

 奈美が耳を澄ませると、彼らは、「助けて」と言っているのだった。

「助けて……助けて」

「体が……勝手に……言うことを……聞かない」

「助けて……体が……おかしい……勝手に……」

「どうなってる……の……誰か……止めて……」

 彼らは大声を出すことが出来ず、毎回吐く息に合わせてなんとか喋っているようだった。体が勝手に動くと彼らは言っていた。自分で動かせるのは首から上だけということなのか。

 ここは地獄なのだろうか。ゾンビ映画みたいに、世界の終りが来て死者達が行進している。

「彼らはね、僕の兵隊だよ。君と同じようにね、こっそり、感染させた。この準備に、五日かかったって訳さ」

 須能も立ち止まって説明した。薄ら笑いを浮かべながら。

「本人も気づかないうちに、神経の根を張ってね。新しく作られたミニ脳が、首から下を、乗っ取っている。実際は、目も借りてるけどね。僕がね、スイッチを入れて、簡単な指示を飛ばすと、ミニ脳が彼らの体を動かしてくれる。僕についてくる、進む、止まる、指定した相手を襲う、くらいは出来るね。……君達、ご苦労さん。今、どんな気持ちかな。普通の人生を送っていたのが、いきなりこんなことになって。ビックリしてるかな」

 須能は緩い笑顔で意地の悪いことを言った。停止した司令官にある程度の距離まで近づいて、ゾンビ達は立ち止まる。どの程度状況を理解しているのだろう。彼らは泣き顔で、やはり「助けて」などの同じ言葉を繰り返すだけだ。

「人生は、理不尽だよねえ」

 須能は再び歩き出した。首から下を支配された人々も悲しげについてくる。ゾンビのようにもっさりした足取りで。少しずつ、その人数が増えていた。町中にこっそり感染させた人達が、須能の指示に従って合流しているのだ。もう数百人規模となっていた。

 奈美の体にも、同じ細菌が感染しているという。須能の気分次第で、奈美自身も彼らの仲間入りをすることになるだろう。

 殺したと思っても体を乗り換えて、感染させた人達を操る。須能神一はとんでもない怪物だった。真鉤がどうやって、この男に勝てるというのだろう。

「この菌とシンクロして、一ヶ月くらいになるかな。色々と上達したよ。試行錯誤もしたしね」

 須能は喋りながら赤い鳥居をくぐった。その先は小さな丘になっていて、石段が高く伸びている。神社だろう。

「この人達を、どうするつもりですか」

 こらえきれなくなって、奈美は尋ねた。

 須能は振り返って、血色の悪い中年男の顔で答えた。

「兵隊というのは、戦わせるから兵隊なんだよね。当然だろう。真鉤が来るんだから、それなりの態勢で、迎えてやりたいよね。殺人鬼に相応しい、ね」

 この魔人は、意識のある一般人と、真鉤を殺し合わせるつもりなのか。

「どうして、そんなことを。どうして真鉤君に、そこまでするんですか。関係ない人達を巻き込んで」

 下手に刺激するのも怖かったけれど、奈美の声には怒りが篭もっていたかも知れない。

「さあ。どうしてなんだろうね」

 あっけなく、須能は言った。

「どうしてなのか、自分でもよく分からない。筋違いなのは、分かってるよ。……ただ、ね。やっぱり、納得いかないんだよね。どうして僕の人生はこうで、真鉤の人生は、ああなんだろうって」

 「こう」と「ああ」の実際のところは奈美には分からない。真鉤の人生がどうだというのか。人生はそれぞれだし、真鉤も彼なりに苦悩しながら生きている。須能も自分の人生を生きればいいじゃないか。わざわざこんな嫌がらせのようなことをしなくても。

「そうそう、話が途中だった。僕がマルキで働いていたって、ところまでだったね。サイボーグとして」

 須能が石段を上っていった。

 首から下を奪われた人々も、奈美の横を抜けてゾロゾロと上っていく。奈美も仕方なくついていった。

「僕の担当の、研究者がね。こっそり、ね。上にも知らせず、勿論僕にも知らせずにね。こっそり、やってたんだ。僕の本当の体は、小さな脳味噌と、尻尾みたいな脊髄と、肝臓の欠片みたいなものだけ。心臓もなかった。彼は、思ったみたいだ。こんなに小さくても心はある。なら、人間の精神活動に最低限必要なものは、何だろうってね」

 のんびりした口調の奥に、奈美は不吉なものを感じ取っていた。彼はおそらく、怒っている。

 その研究者は、須能に何をしたのか。

 須能が言った。

「彼はね、定期的に少しずつ、僕の体を削っていったのさ。薬で眠らせている間に、カプセルを削って、肝臓を削って、脊髄を削って。そうして、ほんの少しずつ、僕の脳を、ね。僕は全然、気づかなかったよ。自分の体が少しずつなくなっていることに、気づかなくて、普通に、マルキの一員として、頑張ってたんだ。最終的に、ねえ。……最終的に、どうなったと思う」

 奈美の返事を求めていないことは分かっていた。石段を上り終えて境内に入ると、須能は振り返って両腕を大きく広げた。完全なお手上げのポーズ。

「須能神一の体は、なくなっちゃった。細胞一つも残さず、完璧にね。三百四十グラムが、ゼロになった。僕は、空っぽだった。生命維持タンクの中は、空っぽだった。自分がそこにいると信じて、僕は戦っていたのにねえ。相当後になって、奴の目を借りた時にたまたま、研究レポートを書いてやがったのさ。その時になって、やっと僕は、自分のことに気づいたんだ。そして今、何もない僕は、タンクでなく細菌にシンクロして、感染させた体を操ってる。好きなように、乗り換えてね」

 それは、得体の知れない感覚だった。想像すると虚空を落ちていくような頼りなさを感じる。自分の体がない。でも本人は心があって、ちゃんとサイボーグとして動いていたという。

 なら、一体、人間の心は何処にあったんだろう。

「なら……あなたは、何なんですか」

「何なんだろうね」

 中年男の顔で、須能はニッコリ笑った。虚ろで、悲しげな笑みに見えた。

「幽霊……なのかなあ。君は、どう思う」

 幽霊。確かにそう考えればしっくりくるかも知れない。呼び出された真鉤は必ず奈美を助けに来るだろう。しかし、幽霊をどうやって倒せばいい。無限に自分の体を増やせて、弱点となる本体は何処にもなく、その気になれば国中を化け物で溢れさせ、社会を崩壊させることも出来る。須能神一は、そういう化け物なのだ。

 だが、同時に奈美は、閉塞した闇の中で、温かい一条の光が見えたような気がしていた。体がなくなっても生きている、そんな幽霊みたいな存在が許されるのなら……。

「なんだか、嬉しそうだね」

 須能が尋ねた。

 泣き顔のゾンビ達に囲まれながら、奈美は、自分が微笑していることに気づいた。

 この相手にならば、言っても良いのかも知れない。

「もし本当に幽霊がいるんなら、人間にはちゃんと魂があるってことだから。私も死んだ後で、幽霊になれるかも。そうしたら、真鉤君ともずっと一緒にいられると思って。そういう希望も、ちゃんとあるんだと思って」

「……。まだ若いのに、自分が死ぬことを前提にした解釈だね」

 そうか、この人は、知らなかったんだな。

「私は癌が出来やすい体質で、長く生きられないみたい。楡先生にもそんなふうに言われたし、真鉤君も、私の顔に死相が見えるみたいだから」

 奈美自身は、他人に言ってしまって少し楽になったような気がした。

 須能は表情を変えず、少しの間そのままの姿勢で突っ立っていた。

 やがて、彼は「ふうううう」と長い息を吐いた。

「なるほどね。それはそれで、考え方としては、ありかも知れないね」

 これまでの粘質な悪意の篭もった口調ではなかった。奈美は何故か急に、目の前の須能神一がちょっと弱々しく、疲れているように見えた。

 

 

  五

 

 二十重坂町駅のホームは微妙な緊張感に包まれていた。何かあったのだろう、とは思う。死人の出るような非常事態が起きたか。しかし真鉤夭にとってはそんな細かいことより奈美の安全が第一だった。

 時間は九時四十分。改札を抜けるとすぐに携帯を出し、奈美の携帯にかける。

 刑事だろうか、鋭い目つきの男が真鉤を見ていた。真鉤が左手に持つ長い包みを気にしているようだが、近寄って話しかけてはこない。シーツを巻いているから危険物とは見られなかったか、それとも既にマルキの指示が回っているのだろうか。

 七、八回のコールで相手が出た。

「はーい。駅に着いたかな」

 やはり奈美ではなかった。また体を乗り換えたのか、須能神一の声音は別人のものになっていた。

「二十重坂町駅だ。これからどうすればいい」

「そうだねえ。こちらも一通り、準備は出来たから、もう来ていいよ。北口から出てくれないか」

 真鉤は素早く見回して、北口への方向指示板を認める。そちらに急ぎながら続けて問う。

「出たら何処に行けばいい」

「んー。真鉤君。もしかして、焦っているのかな。大事な彼女がもう死んでたり、肉の塊の、化け物になってるかもって、思ってる」

 真鉤は歯を食い縛り、叫び出したいのをなんとか堪えた。

「ハハッ。大丈夫だよ。心配は無用さ。まあでも、心配くらい、幾らやっても損はないよね。本当に大切なら、ずっと手元に置いて、守ってやるべきだったよね」

 須能の嫌味は正しいが故に、真鉤の心を深く刺した。彼女を守るために、もっと細心の注意を払うべきだったのだ。

 不思議なのは、須能のとぼけた口調に、本物の怒りが潜んでいるように感じられたことだ。自分で攫っておいて、何を怒っているのか。

「北口を出たら、右の方に丘があるよね。鳥居が見えるんじゃないかな。そっちに進むと石段があって、丘の上に神社がある。そこで、待っているよ」

 須能の指示に真鉤は駆け出していた。人工皮膚のマスクを貼りつけているため人に見られることを気にせずに、全速力で走る。シーツを剥ぎ捨て、全長百七十センチの鎌神刀を握り締めて真鉤は走る。いつでも何でもぶった切ることが出来るように。道を歩いていた人がビックリした顔で真鉤を見ていた。

 真鉤は静かに駆ける。屋根の上や塀の陰ではなく、夏の陽光の下、道の真ん中を。近づいているのが須能に見えるように。こっそり忍び寄るような、おかしな真似をしていないというアピールでもあった。

 鳥居の先に人の列が見えた。数十名。参拝客か。いや、平日のこんな時間にそれはないだろう。ならば何か。彼らの姿勢、歩き方が妙だった。皆一様に同じ方を向いているし、のっそりとして、類人猿のような……。何が起こっているのか。

 少し離れて人々を見守るスーツの男。彼だけは他の人達とは違うようで、戸惑い顔をふとこちらに向けて細い悲鳴を上げる。真鉤の勢いと武器に驚いたらしい。

 構わず真鉤は横を通り過ぎる。のっそりと上る人々の話し声が聞こえた。囁くみたいに小さな声で、彼らは「助けて」とか「体が」とか言っていた。不気味だが、真鉤はそれも無視して石段を駆け上る。人々は真鉤に気づかないみたいに同じ調子で動いていた。

「来たね」

 百段くらいある高いその天辺に腰掛けた男が真鉤を見下ろしていた。須能か。黒いロングコートを着た大柄な男で、手足と胴体の大きさがアンバランスだ。額に丸い傷痕がある、その顔が緩い笑みを浮かべた。道場で見たのと同質のもの。真鉤の全身が熱くなる。

「斬ってもいいよ」

 須能が立ち上がり、コートの前を開いた。上半身の前面にぎっしりと並ぶ尖った骨。散弾みたいに飛ばすつもりか。真鉤はスピードを落とさぬまま姿勢を低くして、鎌神刀は担ぐように上段に構えた。射出してくるタイミングを見極められるか……。

 

 

  六

 

 二十重坂町の隣町にそびえる電線塔の上に、二人の男が立っていた。

 気だるそうに双眼鏡を覗いている学生服の少年は、日暮静秋。

 涼しげな微笑を湛えているスーツの男は、楡誠。

 二人は今日が初対面だった。マルキから連絡を受けた日暮が取り敢えず町の外からでも見守ろうとしたところに、楡の方から声をかけてきたのだった。

「楡誠です」

「ああ、あの『ミキサー』ね」

 最初に交わした挨拶は、この程度だった。

 今、双眼鏡で石段を駆け上る真鉤を確認して、日暮が呟く。

「どうも、始まったみたいだな」

「そうですね」

「楡さん。あんたはどう思う。真鉤は勝てると思うかい。あんな化け物をどうやって倒せばいい」

 日暮の声音には少しだけ、楡への敬意が入っていた。

「分かりません。私自身、須能神一の本質を掴めませんでしたから。掴めないということは、私には殺せないということですし、藤村さんの保護もリスクを伴います」

 深刻な内容だが、楡の口調はあっけらかんとしたものだ。日暮は双眼鏡を離し、楡の顔を見る。

「とするとやっぱ、こうして見てるしかない訳だ。マルキも今は慌てて総動員で全国回ってるらしいな。須能が四十ヶ所で獣を解放したとか」

「そうですか」

 楡の表情は変わらない。

 日暮は何も言えずに再び双眼鏡を覗いた。その顔に汗が滲み、顎の先から滴り落ちていく。

 

 

  七

 

 ジュビャッ、という湿った射出音と共に全ての骨が飛んだ。瞬間、真鉤は石段に伏せる。風が真鉤の背中を掠る感触、それと少し遅れて右肩に痛みが。一本刺さったか。脳でなければすぐ動ける。

 人々の声。「痛い」「助けて」という弱い呻きと怨嗟。彼らはおそらく、須能に操られている。しかし悲痛な呻きは精神を完全に支配されてはいないということか。須能は味方の安全など考慮せず無差別に骨を飛ばした。いや、味方とは違うか。

 真鉤は顔を上げる。顔や胸に骨の刺さった人々は、よろめきながらもまだ石段を上ろうとしていた。真鉤はすぐさま加速して須能へ突進する。十メートルと少し。一瞬で届く。骨を撃ち尽くした須能の上半身は、ほぼ赤い空洞になっていた。その顔の笑みは健在だ。

 真鉤は大上段に振りかぶった鎌神刀を下ろさずに、須能の横を抜けた。神社の境内。左右に狛犬。人の群れ。泣きそうに顔を歪めているがゾンビのように虚ろに突っ立っている。境内に千人以上がひしめき合っている。彼らは皆須能の方を向いていた。

 社の手前、賽銭箱の横に藤村奈美がいた。制服のままの、学生鞄を脇に置いた彼女のその顔。不安げだが、絶望した瞳ではない。手遅れではなかった。真鉤はちょっとだけ安堵しつつ、須能の方へと振り返る。

 上半身空洞の須能もまた真鉤へと向き直った。動きはまるで素人で、殺し合いの得意なそれではない。しかし須能神一は別の能力で脅威を体現していた。こいつの本体は何処だ。伊佐美が言ったように、こいつの本当の体が存在しないとすれば、どうやって殺せばいい。

「斬らなかったね」

 須能の代表が言った。こいつは斬って欲しかったのか。真っ二つにしてもまた別の体が喋り出すところを見せたかったのか。

「まずは彼女の無事を確認してからだ。叩き斬ったら中に彼女がいたなんてことにならないように」

 真鉤はこの肉の魔人に、そういうことをしかねない不気味な悪意を感じていた。

「ハハッ。言うねえ」

 空っぽの男が虚ろに笑う。

「惜しいとこ行ってたね。本当はね、君の彼女と君を、殺し合わせるつもりだったんだ。首から下を操ってね。僕の細菌は、感染させるとそういうことが出来る」

「……。彼女に感染させたのか」

 奈美には抗生物質を飲ませておくべきだった。予防的に。マルキに頼めばくれた筈だ。自分が大丈夫だから失念していた。

「させたよ」

 この糞化け物が。

「ただね、今は成長を止めさせたから、ミニ脳までは作ってない。またスイッチをオンにして、手を離せば、どんな化け物になるかは分からないけどね」

 真鉤は一瞬奈美の顔を振り返る。彼女は静かに頷いて、須能の話を肯定した。縛られたりはしていないが、だから逃げられないのか。須能の気分次第で時限爆弾が起動する。

「それで、どうしたい」

 真鉤は須能に問うた。彼女の安全のためには、どんな条件でも呑むしかなかった。

「そうだねえ。取り敢えず、アノニマスクは外さなくていいよ。そのマルキの、マスクさ。武器も、捨てなくていい」

 そういえば真鉤はマスクをしているのだった。奈美がすぐに自分を真鉤と認めたことを不思議に感じたが、考えてみるとこの状況で凶器を持って乱入する男は真鉤くらいか。

 須能が続けた。

「僕はねえ、グールズ・カンパニーを感染させた後、どのように成長させるか、ある程度コントロール出来る。この人達はねえ、僕の兵隊さ。首から下だけはね。意識はあるから、勝手に体が動いてるのも分かってるし、痛みも感じるみたいだね」

 グールズ・カンパニーとはヤクラ菌のことだろう。石段を上り終えた人々が境内に到着し、須能の近くに並ぶ。顔や胸に骨の刺さった人達も普通に立っていた。ただし、脳をまともに損傷したと思われる男は表情が弛緩して俯き、瞳孔の開いた目だけを須能に向けていた。本人はもう死んでいるのだろうが、細菌が無理矢理体を動かしている。

「それで、僕を襲わせるのか」

 意識のある一般人を真鉤に殺させて嫌がらせしようというものか。本気で真鉤を仕留めるつもりなら、一般人そのままの形よりもっと強力な体を組み上げるべきでは。砂浜にシャチを繋げた巨大な怪獣を作ったとも聞いているし。それとも、真鉤が無関係の人々を殺せないと思ったのか……いや、それはないだろう。人々の泣き顔を見ながら真鉤は考える。彼らは相変わらず「助けて」と囁き続けていた。残念ながら、全てを投げ打って彼らを助ける者はいない。

「そうだねえ。彼女を襲わせて、君がそれを片っ端から殺すとこも、見てみたいんだけど……そうだね、ちょっと違うね。君が、彼らを皆殺しにすべきなんだ」

「何を言っている。僕を殺すんじゃなかったのか」

 訳が分からない。ならどうしてわざわざ兵隊として彼らを感染させたのか。

「段階があるからね。本命は別に、用意してある。だから遠慮なく、皆殺しにしてあげなよ。千人以上いると思うよ。正確な数は、面倒だから数えてないけどね」

 須能の言葉を聞きながら、境内に集められた人々が真鉤を見ていた。その悲痛な顔。まさか私達を殺すなんて、しないよね。そんな救いを求めるような視線が、真鉤に突き刺さる。マスク越しでも真鉤は痛みを覚えていた。

 こいつの言うことを聞かねばならないのか。奈美を守るために、真鉤は無意味な虐殺を……。

「一応ね、彼らを君にけしかけてやるよ。僕なりの、優しさかな。それでも君がやらないというなら、彼女を……」

 真鉤は鎌神刀を振った。横殴りの一閃で、近くに立っていた三人の首が飛んだ。「うああ」「いいい」という悲鳴のような吐息が他の人々から洩れた。首を失った胴体が噴き上げる血液は勢いが弱く、すぐに止まりそうだ。兵隊達が両手を前に伸ばして真鉤へ進み出す。須能はテレパシーみたいに、細菌を介して指示を伝えられるのだろうか。首を失った体も同じように動いていた。ミニ脳とやらは胴体の方にあるのか。真鉤は踏み込んでまた鎌神刀を振った。五人の胴を半ばほどで両断する。

 須能。もしかして、僕がためらうとでも、思ったのか。真鉤は内心で呟く。

 僕が、罪悪感に、苦しむとでも。無実の人を殺す重さを引き摺るとでも。

 彼女の命は全てに優先する。

 真鉤夭にとっては、藤村奈美の幸福が、全てに優先するのだ。

 「助けて」「うああ助けて」など言いながら人々が殺到してきた。掴みかかろうとするように手を伸ばしている。ゾンビ映画みたいに。それで真鉤をどうするというのか。それで真鉤を殺せると思っているのか。

 真鉤は素早く体の向きを変えながら、鎌神刀を燕返しに往復させていった。黒淵みたいに石突の輪に指を通して回すような、器用なことは出来ない。しかし、動きの遅い彼らにはこれで充分だ。鎌神刀は役に立つ。一振りで五人の首を刎ね、返す刀で胴を輪切りにする。零れた内臓と血が境内の土を汚し、首のない胸部が肘の断たれた腕を掻く。下半身だけの体が足をバタつかせている。転がる生首は弱々しい怨嗟を染みつかせたまま固まっていた。死体の部品達はいずれ繋がるかも知れない。八久良島の怪物がそうしたように。真鉤は出来るだけ多くのパーツとなるように相手を解体する。

 そう、これは解体だ。筋力は多少強化されていたとしても、元一般人が不死身の殺人鬼に敵う筈もない。

「嫌だ」

「やめてくれ」

「助けて。やめて」

 哀願しながら迫りくる人々を、真鉤は容赦なく叩き斬っていく。肩を掴まれる。素早く振り向いて払いつつ、回転の勢いを利用して鎌神刀で輪切りにする。足首を掴まれた。地面に倒れていた上半身の仕業。その腕を蹴り潰す。続けて鎌神刀を叩き下ろし、転がる死体達をまとめてカットした。地面は人体のパーツで埋まる。生首とちぎれた手足と腸とまだ動いている心臓が血の海に浸っている。その上を走る真鉤の靴もズボンの裾も血で湿っていた。

 無実の人々を殺しまくりながら、真鉤の心は固く冷えていた。上半身が空洞の黒コート、須能神一が今メインにしている体は薄笑いを浮かべて見ている。その反対側、賽銭箱の横から動かずに、奈美が見守っている。彼女は目に涙を滲ませていたが、泣き叫んだりはしていない。「やめて」とも言わない。真鉤が一般人を殺戮することを止めるため、自分の舌を噛んだりはしない。そういう葛藤の時期を、彼女は既に通り過ぎてしまった。遠くない自らの死の受容と共に。彼女をそんなふうにしたのは真鉤だった。その冷たい痛みを、真鉤も固く、受け止める。

 もう何人殺したか分からない。一人一人の断末魔の表情を見届ける暇もない。境内にひしめき合っていた千人以上の群れを一個の生物として捉え、減ってきていることを確認する。そして地面に散らばる肉塊の海。まだ動いているし、足を取られるかも知れない。真鉤は敵を斬り払いながら移動する。踏まれた血肉がグヂャグヂャと音を立てる。彼らも仲間の肉を踏んで真鉤に追いすがる。歩くように走るように。そしてバラバラの肉塊に変わる。真鉤の服も返り血でひどいことになっていた。手首までしかない腕を真鉤へと伸ばしてくる女性。エプロンを着けていた。真鉤は鎌神刀を振るい、エプロンごと胴が二つになる。泣き顔が倒れていく。少しだけ余裕があったので、真鉤はその頭部を叩き斬って即死させた。唐竹割りにしたと思った男が左右に分かれずまだ動いている。背中辺りがまだ繋がっているらしい。他の人と一緒くたに横に斬り払った。と、血肉の泥で足が滑る。十キロ近い凶器を渾身の力で振り回しているのだから仕方のないことか。後ろへ転ぶ。何十本もの手が真鉤を掴もうと近づく。真鉤は左手一本の力で強く地面を突いて上に跳んだ。三メートルの高さから鎌神刀を振り、数人の首を刎ねる。左手がぬめる。地面の血肉のせい。鎌神刀の柄が縄巻きで良かった。

 人々の哀願と怨嗟のざわめきは少なくなっていた。その分転がる肉塊が増えた。「痛い、痛い」と地面からの声。まだ死んでいなかったか。上半身だけの女が空に向かって手を伸ばしている。他を斬り伏せるのに忙しかったので、真鉤は移動するついでに女の頭部を蹴り飛ばした。

 おそらく、十分も、かからなかったと思う。

 首から下だけを操られた全ての襲撃者はバラバラになって転がり、境内は真鉤と奈美と、黒コートの須能だけとなっていた。まだもがいている肉塊があるが、もういいだろう。人々の嘆きは聞こえなくなり、ただ、蝉の声だけを真鉤は意識した。

 真鉤は血みどろで、しかし受けた傷はなかった。最初に須能が撃った骨もとっくに抜け落ちている。左目に血が入って少し見にくいが、どうということはなかった。細菌は真鉤の体に入ったかも知れない。しかし真鉤の体が負けることはないだろう。遺伝子的には普通の人間と、全く変わらないというのに。

 須能が尋ねた。

「感想は」

 真鉤は応じた。

「特にない。次はどうすればいい」

「……。割り切ってるね」

「割り切っていないのはお前の方だろう」

 嫉妬だけでこれだけの惨事を引き起こすのだから。

 須能の緩んだ笑みが、数瞬、固まったように見えた。やがて彼は空元気みたいに、乾いた笑い声を発した。

「ハハッ。そうだね。割り切れてないのは、僕の方かも知れないな」

「次はどうする」

「そうだね。……この細菌を使って、僕は色々と試行錯誤した。何処まで大きなものを作れるかも、試した。海に入って、シャチやらクジラやら繋げて、五十メートル以上にまでしてみた。でもあまり大きいと、駄目だね。動きもトロいし、栄養が足りなくて、どんどん縮んでしまう。まあ、スイッチオフで冬眠状態には出来るんだけどね。で、戦闘力と、活動維持のバランスを考えて、本命を作ってみた」

「それと戦わせたいのか」

「そうだね。戦わせるというか、戦うというか。僕もそっちのコックピットに、移るから」

 単に指示を出すのとは違って、意識をそちらに乗り換えるということか。

「それを片づけたら、彼女を解放するか」

「……そうだね。最初の予定とは違うけれど、もうそれでいいような、気がするね。まあ、君が生きていられたらの話だけどね」

 喋り終えると須能は目を閉じた。そのままクタリと崩れ落ち、丸くなってしまう。呼吸はしているらしく、僅かに胸郭は動いていた。小さな肺で。

 唐突に気配が生じた。神社の、社の中に。それまでは眠らせていたので真鉤も気づかなかったのか。

 大きい。数十メートルもの怪獣ではないが、象かカバくらいはありそうだ。真鉤は八久良島で対峙した怪物を思い出す。元々あの程度の大きさが最善ということか。

「早くそこを離れてっ」

 まだ社の前で立ち尽くしている奈美に真鉤は告げた。彼女は我に返ったみたいにヨロヨロと歩き出した。こちらに来ようとするのを手で制する。この血みどろの体で抱き止めることも出来ないし、須能が自分を襲ってくる筈だから。

「出来るだけ離れて。もしかしたら流れ弾が飛ぶかも知れない」

 奈美は頷いて、血肉の海を避けて回り込んでいく。社の奥の気配が動き出した。ミシ、ミシリという床の軋みを真鉤は聞き取った。

 それがバギャ、ゴギャリに変わり、社の正面扉を枠ごと吹き飛ばして茶色の塊が現れた。上部がつっかえて、社を更に壊す。

「主成分は、羆二十頭分ってとこかな」

 須能の新しい体が言った。全身を毛皮に覆われた、ずんぐりした巨人のようなもの。直立した丈は五メートルほどで、足は短いが腕が異様だった。幅が一メートルほどもあり、自身の背丈よりも長い。羆の筋肉をこれだけの量使えばどれほどのパワーを発揮するだろうか。

 更にその腕の先端から、長大な金属が生えていた。握っているのではなく、肉で包み込んで融合しているようだ。左手のものには見覚えがある。真鉤自身も今握っている、全長百七十センチの鎌神刀。もしかしたら島で真鉤が使ったものかも知れない。

 右手から生えたものも鎌神刀に似ていた。両刃の剣に近いが、先に行くにつれて刀身が分厚く、幅広になり、先端分は一応尖っているが、左右にも突き出して菱形みたいになっていた。長さは鎌神刀よりも少し長く、おそらく重いだろう。刀身に細かな傷が多く、かなり使い込んでいるようだった。

 真鉤の視線に気づいたらしく、須能が言った。

「これね。チケムリツムジ。血の煙に旋風って書くんだけどね。黒淵が、前に使っていた武器だよ。研究所から持ってきたんだ。正確には、研究所の隣にある宿舎から」

 そういうことか。なら、その血煙旋風の石突部分は輪になっているのだろう。指を入れて回せるように。

 須能の新しい頭部は羆一体分のそれの中心に、人間の男の顔が埋まっていた。きちんと機能しているようで目は真鉤を見据え、喋りにくそうだが声はその口から出ていた。喋るために人間の顔も使ったのか。

「黒淵は長い間、こっちを愛用してたらしいんだけどね。無関係の子供をね、斬っちゃったんだって。勢い余っちゃった、ってね。だからもっと軽くて扱いやすい、鎌神刀に替えたんじゃないかってね。仲間内では、噂になってたよ」

 須能の言葉が本当なら、あの純粋戦士のような黒淵にも人間らしいところがあったのだろう。河童を人間らしいと呼ぶのは、人間の視点からの傲慢な表現かも知れないが。

 賽銭箱を蹴り飛ばしてのっそりと血肉の海に足を踏み入れ、須能は続ける。

「野生の獣のパワーっていうのは、凄いよ。でもね、破壊力はやっぱり、武器には敵わない。だから、こういう工夫をしてみた。北海道から、トラックでここまで運び込むのは、ちょっと大変だったな」

 須能の人間の顔部分が人間の顎を使って喋る。その下に羆本来の上顎があり、牙が覗いているのは異様な光景だった。毛に隠れているが、腹部に縦の筋がある。いざとなったら開いて骨が飛ぶかも知れない。

 それよりも気をつけるべきは、両手の二本の刃だった。あれだけの筋肉量による斬撃をまともに食らったら、真鉤の体は両断されるだろう。そうなったら回復する前に微塵切りにされて終わりだ。

 ただ、真鉤にはそれを食らわない自信があった。幾つもの修羅場をぎりぎりでくぐってきた。こいつの反射神経は鈍い。この鎌神刀で両腕を斬り落とし、繋ぎ合わせる暇を与えずに解体する。なんだ、須能と戦術は同じか。真鉤は内心苦笑する。

「じゃあ、始めようか」

 羆の顔の中心で、人間の顔が告げた。

 真鉤は喋らず、血塗れの鎌神刀を上段に構えた。黒淵の形見。これがあって良かった。小さな武器では役に立たなかった。

 奈美の視線を感じる。そちらを向くことはしないが、彼女の全面的な信頼と、しかし忍び寄る不安を真鉤は感じ取ることが出来た。それが錯覚ではないと、信じたいものだが。

 羆を合成した巨大な殺戮生物が、武器を構えた。右腕の血煙旋風を、天を突くように真上に翳す。左腕の鎌神刀は、真鉤の胴を薙ぎ払うつもりか、大きく横に引いて溜めを作る。まずは腕だ。真鉤は考える。腕のどちらかを切り落とす。

 日差しがきつい。まだ夏だった。陽光を浴びて須能の毛皮が光っている。光り過ぎる。妙に、眩しい。

 それから急に、真鉤の視界が光で埋まった。何が起きた。何も見えない。何も聞こえない。自分の体の感覚も、分からない。そういえば黒淵が言っていた。眩しくて……。

「真鉤君っ」

 奈美の叫びが聞こえた。自分は何をやっていたのか。戦っていた筈だ。須能神一と。巨大な羆の化け物と……。

 激烈な痛み。右の胸と、頭。真鉤は両手に握った鎌神刀を水平にして頭上に翳していた。無意識にやったのだろうか。脳天への斬撃を弾いたのだろうか。それよりも右胸。食い込んでいる。今も鋼の塊が真鉤の胸に、横から食い込んでいる。須能の鎌神刀。深い。が、背骨はなんとか無事のようだ。背骨と脊髄まで切れていたら危なかった。

 神社の境内。前に須能。さっきより近い。持ち上げられる。鎌神刀が食い込んだままだ。このまま叩きつけられたら胴が両断されるかも。真鉤は左手で分厚い刃を摘まみ、押し外す。刃が抜けて真鉤は落下する。肉泥に足をつく。まだ体は動く。何処も麻痺していない。

 さっきの光は何だったのか。一時的に意識を失っていたみたいだ。黒淵が……。考える暇もなく須能の右腕が迫っていた。十メートル以上もの高さから斜め斬りに。真鉤は転がって避ける。野獣のパワーを乗せた血煙旋風は鈍い音を立てて地面に食い込んだ。深く食い込み過ぎて抜くのに苦労している。

 その隙を真鉤は逃さなかった。大上段から渾身の一撃。真鉤の鎌神刀は須能の太い右腕を切断した。筋肉内に幾つも骨を詰めていたのだろうか、凄く硬い感触だったが、真鉤の筋力と鎌神刀の重量で一気に断ち切った。横殴りの、須能の鎌神刀。真鉤は身を沈めて躱す。背中を風が過ぎていく。

 よし、次は左腕だ。と、また視界が明るくなり……真鉤は咄嗟に鎌神刀を前に翳しながら後ろへ飛びのいた。全てが光に包まれて、気づいた時には背中が地面に触れていた。意識が飛んだ時間はさっきよりは短かったようだ。足。右足の激痛。切れたか。真鉤は素早く起き上がり自分の足を確認する。右膝に須能の鎌神刀が食い込んでいた。これは切断されたな。刃が引いた後で、膝から離れた自分の足が見えた。後で拾おう。

 真鉤は起き上がり、片足で立つ。歩み寄る須能の巨体。その人間の顔は笑っているようでもあり、何処か悲しげでもあった。広い腹が蠢いている。開くか。来るか。

 光。おそらく須能の能力で、相手の感覚を封じているのだろう。しかし三度目にもなると効き目は弱まって、眩さの中にも薄く景色が見えた。逆に真鉤の感覚が適応したということかも知れない。腹が開いた。ズラリと並ぶ骨が一斉に射出される。その前に真鉤は仰向けに転がって避けていた。青い空が見えた。今日は晴れている。

 空に割り込む刃と茶色の太い腕。倒れた真鉤を叩き斬ろうとしているらしい。真鉤は跳ね起きて、須能側に片足で踏み込んだ。

 左下から掬い上げた一閃は、上から落ちてくる須能の巨大な左腕に、勢い良く食い込んでいく。左足だけにかかる衝撃の重さに膝が曲がり、右足の断端が地面についた。それでも真鉤は潰れず鎌神刀に力を込め続ける。ビキリ、と真鉤の背骨が鳴った。

 硬い感触だが、双方のスピードが破壊力となり、幅一メートルもの腕を、ほぼ切断してのけた。僅かに肉と毛皮が残って引っ掛かる。真鉤は「フンッ」と駄目押しの力を加え、最後まで斬り抜けた。血が。断端から血が散っていく。

 四度目の光は来なかった。須能は強力な両腕を失い、それでも断端を振り回して真鉤を叩こうとした。真鉤は鎌神刀で迎撃し、更に肉を斬り飛ばした。

 真鉤が冷徹な解体作業を始めても、須能は悲鳴を上げたり、愚痴を零したりはしなかった。勿論、こいつをバラバラの肉塊に変えたところで須能を殺せないことは分かっている。それでも、羆の頭に埋まった人間の顔は、何処か投げ遣りで、気だるげに見えた。羆二十体分の怪物は、時折真鉤に体当たりしようとしたり、開いた腹の縁に生えた牙で噛みつこうとしたりした。だが真鉤は油断なくそれを躱し、須能の体を削り取っていった。片足だけでも、武器を失った相手に立ち回りは充分だった。足を斬られ倒れた須能の、血みどろの腕が血煙旋風を回収しようとしている。真鉤はその腕を更に短く刻み、血煙旋風に繋がった肉塊を遠く蹴り飛ばした。

 須能の頭部が起き上がろうとする。それを脳天から真っ二つにすべく、真鉤は上段から渾身の力で、鎌神刀を振り下ろした。

 片足のため威力が足りなかったのだろう。刃は、羆の頭部の半ばほどで停止した。中心にある人間の顔の、鼻梁を割りかけている。

 その顔が真鉤を見据え、疲れた溜め息をついた。

「あーあ。僕は、何やってんだろうなあ」

 それから須能が目を閉じると、手足のない羆の合成怪物は、動かなくなった。

 真鉤は鎌神刀を引き抜いて、更に何度か斬撃を加えた。しかし怪物がもう反応しないのを確認して、真鉤も攻撃をやめた。須能は勝負を諦めて、この体を放棄したらしい。

 終わった。

 どうやら、終わった。

 須能の気配はもう感じられなかった。あの粘質な、悪意の篭もった視線はない。血肉の海で蠢いていたバラバラの部品達も、何故か一斉に動かなくなっている。須能が『スイッチをオフに』していったのだろうか。

 静寂の戻った境内に、蝉の声だけが変わらず続いていた。

 足を拾わなければ。しかし真鉤は先に、奈美の姿を求めて見回した。

 彼女は狛犬の横に立って、真鉤を見つめていた。返り血も浴びておらず、化け物になってもおらず、無事だった。

「大丈夫かい」

 真鉤は尋ねた。喋ると同時に肺から血が上がってきて、真鉤は喀血した。右胸を深く斬られていたことを忘れていた。もしかすると呼吸を止めて戦っていたのかも知れない。

「大丈夫。でもね」

 奈美は寂しげな微笑を浮かべ、首を振った。

「私って、やっぱり、嫌な人間なんだって、分かっちゃった」

「どうして」

 真鉤は不思議に思い、素直に尋ねる。

「だってね。沢山の人が殺されてるのに……無実の人が沢山殺されてくのを見て、私は、嬉しいって、感じちゃったんだ。真鉤君が、私のために戦ってくれて、私のために、罪を背負ってくれて……それを、嬉しいって」

 奈美の目に涙が滲んでいくのを見て、真鉤は彼女を美しいと思った。

「愛してるよ」

 真鉤はそれだけ言った。本心からだった。

 奈美の言葉は、そのまま真鉤を肯定してくれるものだったから。

「帰ろう」

 真鉤が告げると、奈美は泣きながら頷いた。

 

 

  八

 

 電線塔の上から見守っていた日暮静秋は、双眼鏡を下ろして呟いた。

「なんとも……ひでえ結末だな」

「そうですか」

 楡誠があっさりした口調で返す。

 日暮は眉をひそめて楡を振り返り、その顔が涼しげな微笑を浮かべているのを確認して、疲れた溜め息をついた。

 

 

  九

 

 猛暑と言われた夏も漸く緩みを見せたようで、滲む汗の量も少なくなってきた。暑さ寒さの感覚が鈍いため、別段苦痛でもなかったのだけれども。

 須能神一は携帯をいじるふりをしながら、離れた場所にある小さな屋敷の玄関を眺めている。今使っている体はただの一般人一人分で、余計な改造は施していない。宿主の脳機能はほぼ停止していて、呼吸や汗、内臓などを管理しているだけだ。もしかすると、宿主の意識は残っていて、勝手に動く自分の体を不思議に感じているのかも知れないが。

 須能が見ているのは、かつては自分の実家だったところだ。ここで育ち、ここから高校に通い、大学生になって出ていった。それでも年に何回かは帰っていた。

 でも、それは須能神一ではなくて、須能貴行の方だったのだけれど。

 須能が自分だと信じていた須能貴行は、こちらの存在などまるで知らないだろう。補助席で一緒に人生を歩んでいた、双子の兄弟のことなど。摘出された奇形腫の行方などに興味は持たない。須能貴行とその家族にとって、須能神一はそもそもいない人間なのだ。

 マルキの一員としてサイボーグになり、自分の意思を明確に伝えられるようになってからも、須能が元家族との面会を希望したことはなかった。もう二度と戻れない別世界だと思うようにしていた。研究所を破壊して脱走してからも、帰ろうと思ったことはない。

 その気持ちが変わったのは、どうしてなのだろう。

 須能は、藤村奈美という少女のことを思い出した。須能の境遇を聞いて、彼女は喜んだのだ。人間には魂があるということなのだから。彼女はそう言った。

 須能はあの時、ちょっと、救われたような気がしたのだ。

 そう、魂は、あるのだ。

 今になって考えてみると、須能貴行の行動にも、須能神一の意思は影響していたのかも知れない。割合としてはほんの十分の一か、百分の一くらいかも知れないが。コックピットの補助席にも、予備の操縦桿くらいはついていたかも知れない。或いは、実際に操縦していたのは奇形腫の神一の方で、貴行は見ているだけだったのかも。摘出の後は性格がガラリと変わっていたりしてな。そこまで考えておかしくなり、須能は低い声で笑った。

 自動車が、家の前に停まる。両親の車ではない。両親の顔は既に何度か見た。六年前より少しだけ老けていたが、元気そうだった。それより見たいものがある。もう何日も待った。

 車から降りてきた二十七才の須能貴行は、驚いたことにちょっと額の生え際が後退していたが、それなりに快活そうな男になっていた。多分社会人として、うまくやっているのだろう。

 助手席から降りた女性を見て、須能は心臓の辺りが熱くなった。これは本当の内臓感覚なのだろうか。それとも魂の……。

 当時と髪型が違い、化粧も少し濃くなっていたが、森尾桐子は変わらず美しかった。

 須能は彼女の左手薬指を凝視して、指輪が嵌まっているのをみた。それから、須能貴行の手にも。須能桐子となっているらしい彼女は、何か言いながら貴行に向かって笑いかけた。

 須能はそこで踵を返した。

「お幸せに」

 彼女と、もう一人の自分へ小さく言葉を送り、須能は歩き出した。

 これで区切りをつけた、ことになるのだろうか。分からないが、多分、そうなのだろうか。

 須能神一は自由になった。何処にでも行けるし、グールズ・カンパニーを感染させれば何にだって乗り移れる。もし天然痘みたいに撲滅されても、また別の何かに意識をシンクロさせれば、おそらくは活動を続けられるだろう。幽霊のように、永遠に。

 ただ、須能には行くべき場所もないし、やりたいこともなかった。

「僕は永遠に、この世をさまようのかな」

 須能は呟いてみた。

「まあ、いい。飽きたら眠るさ」

 前方に幾つかの人影を認め、須能は立ち止まった。

 車椅子に座る男と、それを押す男と、更に二人。全員がスーツ姿だ。

 彼らが待ち構えていたことを悟り、須能は下手な舌打ちをする。須能が元実家に来ることは予測済みだったのだろう。この体に戦闘能力はなかった。しかし体を殺されても死ぬことはないので、須能は会ってみる気になっていた。向こうはそのままこちらに近づいてくる。

 十メートルほどの距離になったところで、車椅子に座るサングラスの男が言った。

「気をつけて下さい。朧幽玄がいます」

 須能は瞬間ドキリとするが、余裕を示すため緩い笑みを浮かべてみせる。

「あいつは僕を殺せないよ」

 脳を抉られても、別の体に乗り換えるだけだ。

「朧を舐めてはいけません。あれは意識と無意識の隙間から入り込み、何でも殺すことが出来ます」

「『ミキサー』は殺せなかっただろ」

「しかしあなたを殺せない訳ではありません。常に意識しておいて下さい。強く意識している間は、朧は入ってこれません」

 車椅子の男・伊佐美界は言った。サングラスの奥に何もないことを須能は知っている。しかし彼に目が必要ないことも、須能は知っているのだ。

 他の男達は黙ってやり取りを見守っていた。マルキの構成員。緊張している様子もないから荒事向けに薬物投与されたエージェントだろう。

「それで、何の用かな」

 須能は尋ねた。

「まずは、謝罪です」

 伊佐美は言った。

「山根があなたの体に行っていたことを、私は把握していませんでした。あなたの生命維持装置に触れる機会は何度もあったのに。私の責任です。サイコメトラーとして、私がもっと早く気づいていれば……」

「気にしていないよ」

 須能は告げた。伊佐美を襲撃した時の会話で、なんとなく分かっていたことだ。

「あんたは間抜けだが、僕は別に恨んじゃあいないな。山根も、もう殺したしね。それで、他に用事は」

 伊佐美が何を思うのか、須能は読み取ることが出来ない。集中すれば伊佐美の感覚に同調出来るだろうが、思考や感情までは分からないし、この体の方のコントロールも弱まってしまう。

 伊佐美はいつもの弱々しい微笑を浮かべた。

「マルキに戻ってきてくれませんか」

 少しばかり、意外な提案だった。

「……今更だね。研究所を潰して何十人も殺したし、そちらも僕を始末せずには、いられないんじゃないかな」

「関係ありません。マルキには有能なスタッフが必要です。あなたのお陰で弱体化しましたが、逆にその穴をあなたなら埋められるでしょう」

「でも、朧が僕を狙ってるんだろう」

「私が上を説得します。直接朧に命令する権限はありませんが、あなたが承諾してくれたらなんとか上を説得してみせます。メンツなどより、実利を優先する組織ですから」

「……。提案は、まあ、ありがたいけどね。折角自由になったんだから、好き勝手に遊ぶつもりさ」

「行くところがないのなら、戻ってきて下さい」

 伊佐美の指摘は須能の心臓に痛みの感覚を与えた。

「こちら側に戻ってきて下さい。ここがあなたの居場所です。私達は、あなたを受け入れます」

 病み上がりの伊佐美は、車椅子から立ち上がらんばかりに、心底から言葉を絞り出しているように見えた。須能は初めて、この虚弱な超能力者に好意を覚えた。

 だが、既に、あんた達と僕の世界は、違うんだ。

「じゃあね」

 須能は再び歩き出し、彼らの横を通り過ぎた。エージェント達は行く手を遮ることも武器を抜くこともなかった。

 視界の左隅に青い人影が見えた。近いと思った瞬間、須能の頭に激痛が走った。朧だ。朧幽玄だ。視界が暗くなる。やられた。

 前回刺された時とは桁違いの激痛だった。朧も本気らしい。これはヤバいかも。須能は死を実感する。

 いや、ここで死んでたまるか。こんなところで消えてたまるか。根性で耐えて、別にストックしている体に移動すれば持ちこたえられる筈だ。須能は精神力を奮い起こす。

 でも、生き延びたとして、その後は何をすればいいのだろう。

 須能神一は闇へ落ちていく。深く、深く、何処までも深い闇へと。

 

 

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