梅雨入りから四日連続で降り続いている雨は、町全体を嫌な湿気で覆っていた。大きな雨粒はアスファルトを跳ね返り、傘を差して歩く人々の足を濡らす。歩道に出来た水溜まりを、学生服のカップルが用心深く飛び越えた。だが既に靴の中は雨水で一杯のようで、歩くたびにグショグショと音がする。
人々の多くは傘の下で何処か陰鬱な顔をして、重い苛立ちを溜めているようでもあった。運に見放され、良いことなど一つもないというように。梅雨が明けるまで彼らはそんな顔を続けるのだろうか。
荒いエンジン音が近づいてきた。こんなひどい雨の中を飛ばしている。人々が振り向くと、ドジャッ、という鈍い響きと共に大きな塊が吹っ飛ぶところだった。それは手足の折れ曲がった人間で、一度派手にバウンドした後、濡れた路面を数メートル滑って止まった。右手は破れた傘をまだ握り締めていた。
若い女だった。まだ二十代前半であったろう。首は斜め後ろへ折れ、顔の左半分はアスファルトで削れ骨が見えていた。カボッ、と弱い咳をして女は動かなくなった。耳と鼻の穴からも流れ出した血を、降り注いだ雨が薄めていく。
唖然とする人々の前を、水飛沫を散らしながら赤いスポーツカーが通り過ぎる。凹んだフロントに付着した血液を雨とワイパーが洗い落とす。女を轢いた車は猛スピードで走り去っていった。
女は横断歩道を渡っていたのだった。信号は青だった。信号無視をしたのは赤いスポーツカーの方だった。近くにいた数人が雨に濡れながらも、転がる女を引き摺って歩道に上げた。
反対側の歩道にいた学生服のカップルは、立ち止まってそれを見守っていた。
「ひどいね……」
少女が言った。高校生だろうが、年齢に似合わぬ上品で綺麗な顔立ちをしていた。色白で、化粧は薄い口紅だけだ。少女の声音は驚きと悲しみの下に怒りを潜ませていた。
「そうだね」
少年の方は控えめに応じた。背丈は同年代の男子の平均より少し高い程度で、あまり特徴のない顔立ちをしていた。美男子ではないが不細工でもない、人の記憶にあまり残りそうにない顔だ。ただ、その穏やかな瞳に宿る翳りに気づく者がいれば、少年に対して違う印象を抱くことだろう。
「真鉤君、車のナンバーは見た」
横に立つ少年に顔を向け、少女が尋ねた。ひどい雨だしいきなりの出来事だったから、それを相手に期待するのは難しかろう。
だが少年は、小さく頷いた。
「見たよ」
「もしかして、顔も見えた」
少女はあまり驚く様子もなく、重ねて尋ねる。
「見えたよ」
轢かれた女は全く動かない。一人が携帯電話で救急車を呼んでいるようだが、おそらく手遅れだろう。
「通報した方が、いいかな」
少女の三度目の問いに、少年は同じ口調で答えた。
「必要ないよ。あの男が何処に住んでいるかも知っているから」
そこまで言った後で、少年はふと何かに気づいたように顔をしかめた。
「ごめん。嫌な想像をさせたね」
申し訳なさそうに少年は言った。
「ううん」
少女は寂しげな微笑を浮かべ、ゆっくりと首を振った。
翌日の朝刊に事件の記事が載っていた。轢き逃げで二十四才の女性が死亡したことと、その犯人と思われる二十二才の男が夜中の一時過ぎ、マンションのベランダから転落死したこと。男の部屋は十二階だった。資産家の息子で本人は無職、二件の暴行の前科持ちだった。
男の遺書はなかったが、警察は自殺と判断した。