第一章 兆し

 

  一

 

 入院になってしまった。ちょっと風邪を引いたと思ったらいきなり四十度の熱が出て食事も喉を通らなくなったので、慌てた両親に病院に連れていかれ、そのまま入院となった。元々通院していた病院だし、主治医も同じ先生だから特に心配はしていない。一晩経ったら熱も下がってきたし。ただの風邪だ。すぐ治る。

 しかし、藤村奈美は思う。この胸の奥のモヤモヤした嫌な感触は何なのだろう。

 やはり、癌……への、不安なのだろうか。いつ何処にどんな悪性腫瘍が出来てもおかしくない癌体質。一度白血病になったし、寿命が短いとはっきり言われたこともある。その覚悟もしているつもりだ。

 でも、今ではない筈だ。まだ大丈夫だと思う。少なくとも高校は卒業出来るだろう。大学の、その先は分からないけれど。今はまだ十二月で、センター試験も始まっていない。

 風邪を引いて気が弱くなっているのだろう。個室で一人だから退屈で考え過ぎるのかも知れない。さっさと良くなって退院しないと。インフルエンザ検査の結果はマイナスだった。主治医は念のためもう少し休んでいくようにと言って、退院は二、三日先になりそうだ。

 もう授業は受験の範囲を終えていて自習になることも多いから、少しくらい休んでも問題はない。登校日数も足りている。ただ、クラスメイトに会えないのはちょっと寂しかった。まあ、彼は見舞いに来てくれるだろうけれど。

 病院食は悪くなかったと思う。でも喉が痛くてあまり食べられなかった。喉の奥がザラつく。鼻水が出過ぎて鼻の奥がツンツンするし、散々だ。

 左腕に点滴の管が繋がっている。金属の針が皮膚に刺さっているのを見ると、奈美はちょっと怖くなってゾクゾクしてくる。もっとひどい目に何度も遭ってきたのに。そう思って奈美は独りで苦笑する。透明で小さな筒の中をポタリ、ポタリ、と滴が落ちていく。あれが私の命になっていくのだろうか、と奈美は思ったりする。

 午後になると母が来た。「まだ寒気はするの」とか「食べたいものはない」とか「この際だから色々検査してもらいなさい」とか、まあ気にかけてくれるのはありがたいのだけれど、ちょっと鬱陶しい。彼が見舞いに来た時に鉢合わせてしまったり、遠慮して病室に入らず帰ってしまうかも知れない。彼とつき合っていることは母も知っている。でも母の目の前でイチャつくのもあれだし……そもそも、イチャつくというほど日頃イチャつけているのかというと……考えるうち、奈美はなんだか腹が立ってきた。

「もう帰ったら。夕食の用意とかあるんじゃない。お父さんも寂しがるだろうし。私は熱も下がって大丈夫みたいだし、ね。私もちょっと、お昼寝しようかなって」

 なんだかんだと理由をつけて追い出しにかかると、母はちょっと不服そうだったが「無理しないでね」と言って帰っていった。本気で心配していることが肌で感じられ、奈美は心の中で「ごめんなさい」と呟いた。

 午後四時半頃に見舞いが来た。予想と違ってクラスメイトの伊東実希だった。特に親しくしているつもりはないのに向こうは一方的に奈美を慕っているようだ。母親同士の仲はいいのだけれど。

「奈美ちゃんは志望校は何処だっけ」

 いや、風邪を引いて入院してる人にそんな話をされても……と思いながら奈美は答える。

「一応、一葉大学を考えてるんだけど。センター試験の結果次第なんだけどね」

「ふうーん。奈美ちゃんの成績ならもっといいとこ狙えるんじゃないの。学部は」

「経済学部……とかかな。実希ちゃんの方はどうなの」

「私は頭悪いし。Fランでもいいから入れるとこなら何処でもいいかなって。出来れば国公立大学に受かってくれって、親には言われてるけど」

 そうですか。ところでもう帰った方がいいんじゃない。もう手遅れかも知れないけれど受験勉強頑張ったら。あなたに長居されると、彼が来ないかも知れないじゃない。

「実希ちゃんも風邪には気をつけてね。試験の日に引いてたら大変だから」

 奈美が何度か咳をしてみせると、伊東実希はちょっと慌てた様子で椅子から立ち上がった。

「そ、そうね。じゃ、奈美ちゃんも早く良くなってね」

 彼女が帰った後、奈美は内心「よし」と呟いた。

 真鉤夭がやってきたのは、その五分後くらいだった。

「やっぱり、実希ちゃんが帰るの待ってたんでしょ」

 奈美の言葉に真鉤は黙って微笑を返した。

 真鉤夭は奈美のクラスメイトであり、恋人であり、二週間に一度は人を殺さないといけない不死身の殺人鬼であり、白馬の王子だった。

 真鉤とはこれまで色々なことがあった。死相を読み取られ、助けられ、吸血鬼を紹介され、殺し合いに巻き込まれ、助けられ、また巻き込まれ、引っぱたいて襲い、またまた巻き込まれたりした。三ヶ月前、肉体を乗り換える超能力者・須能神一に誘拐された時は、奈美を助けるために真鉤は千人以上の一般人を殺すことになった。真鉤の罪の一部は奈美も背負っているのだった。

 奈美は彼を愛していたし、彼に愛されていることも分かっていた。ただ、出来るなら、もっとイチャイチャと……いや、まあ、いいんだけどね。

 真鉤の身長はクラスの中では真ん中よりちょっと上の方だ。どちらかというと痩せているけれど貧弱というほどでもない。彼の筋肉が異様な力を発揮することを奈美は知っている。イケメンではないが、悪い顔じゃないと思う。ただ、あまり特徴はない。人込みに紛れると見つけにくそうな顔。でも、奈美にはすぐにピンと来て見分けがついてしまう。それが何によるのか、奈美自身にもよく分からない。髪は整髪料などは使わず、見苦しくない程度に自分で切っている。頭の後ろは切りにくいだろうからと、一度、奈美が髪を切ってあげたことがある。正直なところ、切り過ぎて失敗だったが、真鉤は笑って許してくれた。その気になれば髪の伸びるスピードも調節出来るらしい。彼の穏やかな瞳。相手の目を直接覗き込むことはあまりない、控えめな視線。その瞳に時折、暗い翳りが宿る。翳りの原因を知る奈美は、そんな時、胸の奥に痛みを覚えながら同時に愛おしさも感じるのだった。

 真鉤は見舞いに桃の缶詰を持ってきていた。

「前に私が入院した時もそれだったね」

 奈美が言うと真鉤は苦笑した。

「見舞いにはこれしか思いつかなくて。今から食べるかい。食べられそうなら、だけど」

「うん。喉は痛いけど、桃缶ならいいかも」

 それで真鉤は持参の缶切りを使って開け、皿の上で丁寧に小さく切ってくれた。奈美が期待しているような目つきだったのだろうか、真鉤はニコニコしてフォークで一切れ刺し、「ええっと、アーンして」と言った。

 桃は柔らかくて、とても美味しかった。

「君が入院したことは、念のため日暮君にも伝えておいたよ。今回は心配ないだろうと言っていた」

「……そう。なら大丈夫だね」

 吸血鬼・日暮静秋は真鉤の友人で、その恋人の南城優子も含めたつき合いがあった。血を吸った相手の体質や病気を読み取る能力があるので、奈美は定期的にチェックしてもらっていた。前回やってもらったのはほんの二週間前だし、その時は癌はないということだったから、確かに心配ないのだろう。頭では分かっていたのだけれど。真鉤にはっきり言ってもらって、奈美はモヤモヤした不安が少し薄れた気がした。

「そろそろ帰るよ」

 立ち上がった真鉤に「キスはしてくれないの」と言ってみたら、彼は珍しく顔を赤くして、個室で他に誰もいないのに背後を確認した上で、キスしてくれた。

 真鉤が帰って数分後に、ニヤニヤしながら天海東司が見舞いに来た。

「危なかったぜ。なんか五分早く来てたら、奈美ちゃんに凄く恨まれてた気がするな。理由は分からんが」

 いや、分かってるんでしょ、多分。奈美は心の中で突っ込みを入れる。天海は恐ろしく勘がいいのだった。

 天海は奈美達と同学年で、白崎高で最も信頼され、尊敬されている男だ。身長は百九十センチ近く、屈強な体格をしているが、その体が幾つもの重いダメージを抱えていることを奈美は知っている。失われた右目を覆うアイパッチには星のマークが入っていた。

「いつもは髑髏のマークなのに、デザイン変えたんだ」

「ああ、二月に凄え流星群が降るって話だから、インスパイアされたのさ。千年に一度とかってな」

「流星雨になるって聞いてたけど。いや、流星群との違いは私もよく知らないんだけどね」

 それは奈美も楽しみにしていたのだった。ふたご座ベータ流星群だったか。奈美もその日は夜更かしして、真鉤と一緒に見る予定だった。

「うん、大丈夫そうだな。のんびり休んでいきなよ」

 天海は適当な雑談の後でそれだけ言って去っていった。見舞いに持ってきてくれたひよこ饅頭は、一個だけ残して天海が自分で食べてしまった。毎度のことながら、芸のつもりなのだろうか。まあ、許せるのだけれど。

 独りに戻った奈美は、天井を見ながら流星群のことに思いを巡らせる。その彗星は太陽の周りを一周するのに三百年ほどかかっていて、更に、地球に接近するのは千年に一度くらいになるとか。その時、彗星の成分と地球がぶつかってどうたらこうたら……まあ、詳しいことは奈美にもよく分からない。日本からしっかり見えるのはこれまた珍しいらしく、自分が生きている時代にそんなものが見られるとは幸運だと思う。

 しかし、一周に三百年か。何もない真空の闇を、彗星は孤独に飛び続けていたのだ。奈美は宇宙の広大さと冷たさを想像する。枕元の携帯に手を伸ばしてみた。

 携帯のストラップとして使っている三角形のペンダント。学校でカウンセラーを務めている楡誠に貰ったもの。ガラス製だけれど内部は黒くて、中心に青い球体が浮かんでいる。楡によると惑星を封じ込めたものらしい。楡は人間の真空圧縮パックを作れるそうだし、星一つをこんな大きさまで圧縮することも不可能ではない……の、かなあ。嘘をつくような人物でもないのだが、本当だとすると逆に怖いので奈美は心の中で曖昧なままにしている。球の表面の白と青の混じり具合が、見るたびに変わっているのも気のせいということにしていた。

 宇宙のことで詩を書こうとしたのだけれど、失敗したんだよね……。奈美は携帯のメモ帳機能で保存しておいた文章を開いてみた。

 

 

  宇宙と私

 

 宇宙はこんなに広く 冷たくて

 その中の無数の銀河の一つ

 更にその中の無数の恒星の一つ

 小さな太陽系 その小さな惑星の一つ

 その表面に住む小さな小さな生き物が私なのだ

 

 宇宙に比べて私はこんなにもちっぽけで ちっぽけで

 私の人生なんて宇宙にとっては何の意味もないのだろう

 

 だけど 私にとっても宇宙の広さなんて何の意味もないのだ

 星が一つ消えても 銀河が一つ滅んでも 私は気にしない

 宇宙の九割が縮んで消えてしまったとしても 私は気にしない

 私が気にするのは この小さな惑星の小さな町と そこに住む人々

 ちっぽけな私にとって 愛する町はとても大きくて

 愛する人達がいて それが私の世界の全てなのだ

 

 だから私は宇宙に向かって言ってやる

 ざまあみろ

 

 

 いやいや、「ざまあみろ」って何なのだろう。変、だよねえ……。奈美は自分で苦笑してしまう。全体的にまだぎこちないし。結局うまく書き直せず、文化祭用の文芸部機関紙にも寄稿出来なかった。まあ、元々幽霊部員だったから声もかからなかったのだけれど。

 文芸部の前部長だった岸田先輩は今、どうしているのだろう。大学に通いながら小説家を目指すということだったが、今もエネルギッシュにホラー小説を書いているのだろうか。色白の文学青年っぽい外見ながら、何処か飄々とした人だった。

 さて、折角だし、このお蔵入りとなっていた詩を完成させてみようか。と、思っていたのだけれど、まだ体調も万全じゃないし、眠くなってきたので奈美は携帯を閉じた。いつもこうやって先延ばししてしまう。先がどれだけ残っているのか、分からないのに。

 強い風の音。病室の窓がカタカタと揺れた。

 十日ほど前に真鉤と行った公園のことを奈美は思い出した。丘の上からの眺めは良かった。でも、風が吹いた後で、若いカップルが消えていたのだ。

 あの二人が見つかったとは聞いていない。真鉤は死相が見えたらしいし、多分、あの時に死んだのだろう。

 でも、愛し合っている二人が一緒に死ねたのなら、それはそれで幸せだったんじゃないか。奈美は眠りに沈みながら、そんなことを思った。

 

 

  二

 

 冷えた空気の中に、真鉤夭は死の気配を感じている。

 真鉤は全長一メートル七十センチの鎌神刀を握り、太い木の幹に背を預けて静止している。森林用の迷彩服に身を包んでいるが、それに頼るつもりはなく真鉤自身の隠形能力を尽くしている。相手に直接見られない限り気づかれることはない筈だ。

 ただ問題は、その相手が何処にいるのか分からないということだ。

 戸万理山の未特定1933。希少生物保護管理機構……通称マルキから依頼があったのは二日前のことだ。人を食う怪物がいるのだが、捕まえられないという。マルキの構成員が何人殉職しようが真鉤は気にならないが、民間人の被害も出ているようだし、須能神一との件で行った大殺戮をマルキに後始末してもらったため、頼まれるとどうも断りにくいのだった。ただ、真鉤をあの状況に追い込んだのもマルキな訳で。それを考えると真鉤は腹が立ってくる。

 サイコメトラーの伊佐美界が死体から読み取った情報と、マルキ戦闘員の遺したビデオから、怪物が擬態を使うことは分かっている。真鉤も映像を見せてもらったが、戦闘員に襲いかかる寸前まで岩壁の一部や倒木の幹だった。動いている間は溶け込んだ背景がグニャグニャと歪み、映画『プレデター』で狩り好きな宇宙人が使っていた擬態に似ていた。あれよりは性能が低そうだが。マルキは赤外線センサーや音波スキャナーも持ち出し、山に多数のトラップも仕掛けたが通用しなかったという。擬態能力に加え、高い知能も持ち合わせている可能性があった。

 今のところ正体が特定出来ず、未特定1933という仮称になっている。伊佐美によると、既知の生物の中で近いものはアフリカのカメレオン・ディアブロとフィリピンのブラック・エイプで、ただし死体の噛み跡から前者は否定される。また、現代では存在が証明されてはいないが、平安時代の伝説に隠形鬼というのがいたらしい。和歌で退散させたとかどうとか。それから、カメレオンの漢字「避役」の元になった中国の幻獣。十九世紀にも目撃情報があり、トカゲに近いらしいが詳しいことは不明だ。伝説と実際が異なることはよくあるのだと伊佐美は言っていた。

 ガサ、と、落ち葉を踏む音。分かっている。囮役の男。全身サイボーグで、外見上はただの大男だが脳は頑丈な胴体内部で保護されている。生物として見られない可能性もあるため、培養成形した肉と皮膚のシートで顔や手の表面をコーティングしているそうだ。真鉤の位置情報は耳に取りつけた通信端末からリアルタイムに送信され、囮の男はその近くをうろつくことになっている。

 鋼鉄のサイボーグでも、謎の怪物相手では生き残れないかも知れない。囮役の男は黙って歩きながら何を思うのだろう。それとも、強制的な薬剤注入で精神の安定が保たれているのだろうか。

 未特定1933の推定筋力はゴリラ程度で、真鉤なら押し負けることはない。しかし不意打ちで首を飛ばされれば終わりだし、擬態以外にも特殊能力を持っている可能性がある。その辺はマルキも分かっていて、生け捕りがベストではあるが危ないと思ったら殺して良いと指示されている。

 風鬼がいれば楽に解決しただろうに。マルキの戦闘員で第三位……今は二位になるのか、強靭な髪の毛を伸ばして自在に操る男。髪をそこら中に張り巡らせて結界を作り、相手が擬態していようが触れたものをとにかく縛り上げればいい。しかし風鬼は別の任務で忙しかったようだ。マルキの人手不足を実感させられる。

 サイボーグの男が木の切り株に腰を下ろす。一度も真鉤の方を見ないのは大した自制心だ。

 ゾワリ、と、死の気配が忍び寄る。怪物が近づいている。ゆっくりと。囮の男と一緒に場所を変えながら四時間が過ぎ、そろそろ陽が落ちそうで心配だったが、明るいうちに出会えそうだ。立ち並ぶ木々、地面の土と落ち葉、所々に転がる岩塊。景色に動きはない。ひそやかな、殺意を感じる。それが囮の男に向けられたものなのか、気配を消しているつもりの真鉤に向けられたものなのか、まだ分からない。具体的な距離も掴めない。背後が気になるが、ここで下手に振り返ったりするのはまずい。

 囮の男は腰掛けたまま動かない。無表情な、作り物の顔。危険が迫っていることを分かっているかどうか。知らせておきたいが、やはり余計な動きをして怪物に気づかれたくない。彼には囮に徹してもらうか。計算の中に彼の死も入っていることを自覚して、真鉤は自嘲する。自分はそういう冷徹な生き物だ。殺人鬼なのだ。

 ゾワリ、ゾワリ、と、更に近づいてきた。これは……十五メートル以内にいるな。ひょっとすると十メートル以内かも。背後……ではなさそうだ。左……だろうか。囮の男は右方を向いているので、背後から襲える。そこを真鉤が襲えばいい。

 しかし、まだ、怪物の姿が見えない。

 怪物の擬態は完璧なようだ。保護色で背景に溶け込んで……いや、立体である限り、保護色に完璧はあり得ない。複数の角度から見れば何処かがおかしくなる筈だ。薄っぺらになって壁や地面に張りついているのなら別だが。真鉤は地面に目を凝らす。木の根が這う隙間を落ち葉が埋め、まばらに土が見える。風で時折葉が転がるが、それ以外の動きはないし、怪しいところはない。

 真鉤は念のため、慎重に首をひねって後方も確認した。やはり怪物の姿はない。

 だが、いる。ゾワ、リ、と、感じる。少しずつだが、近づいている。

「対象が来ていますか」

 左耳の通信機からオペレーターの声が入る。あちこちに仕掛けてある隠しカメラから真鉤の様子が見えているのだ。

 このオペレーターとは顔馴染みで、まだ二十代前半だが言葉遣いが丁寧で真鉤は好感を持っていた。陰鬱だったり残忍だったりする一部の構成員とは大違いだ。しかし彼も血みどろの本当の現場に出れば変わるのかも知れないな。

 喋って答える訳にはいかないので、真鉤は少しだけ頷いてみせた。

「来ているんですね。何処にいるか分かりますか」

 真鉤は横に首を振る。

「かなり近くに来ていますか」

 頷く。まだ景色に異常はない。ゾワ、ゾワ、ゾワ、と死が強まるのを感じる。緊張はしていない。真鉤は握った鎌神刀の重みを意識しつつ、自身も一枚の冷たい刃になろうとしている。

 囮の男は動かない。そちらにもオペレーターの指示は飛んだだろうが無反応を通している。

 ゾワ、リ。来るか。どちらに。囮の方か。それとも真鉤の方か。景色は動かない。落ち葉を踏む音もしない。何処にいる。まだ掴めない。だが、近い。五メートル、くらいか。いや、もっと近いかも、これは。ピリピリした皮膚の感覚。殺意はどちらに向けられている。

「どの辺りにいるか、大体の方向でも分か……」

 瞬間。ドンッ、と気配が動いた。見えた。囮の男の斜め後ろ、二メートル。真鉤も跳んだ。鎌神刀を振りかぶる。未特定1933の姿。落ち葉の塊と木の幹の一部。精巧な保護色だったものが、素早く動いたため新たな背景に合わせるべくグニャグニャと歪んでいく。

 ガギュゥッ。金属のちぎれる異様な音を立てて囮の男の首が飛んだ。断面は金属部品とコードばかりだ。

 空中にいる短い時間に真鉤は観察と思考を巡らせた。グニャグニャの迷彩をまとった怪物。手足は二本ずつ、身長は二メートル半というところか。頭部もある。獲物が生身でなかったのをどう思ったか、いや考える暇もないか、真鉤の方を振り向こうとしている。

 真鉤は鎌神刀を刃面で叩くように打ち下ろした。分厚い筋肉に当たる感触。だがダメージを与えたという手応えはあった。斬らずに叩いたのはまず生け捕りを想定していたためだ。

「ギャブゥウーッ」

 擬態の怪物はザラついた悲鳴を上げた。横殴りに腕が襲い真鉤は身を屈めて避ける。まだ動けるようだ。もう一度叩くか、足を狙って斬るか。でもなるべく五体満足の方が……。

 と、怪物が後ろに跳躍した。逃げるのか。逃走も予想はしていたが早過ぎないか。人食いの怪物のくせに。真鉤は理不尽な怒りを覚えつつ、ポケットから抜いた二本の小型ナイフを投げる。よし、刺さった。同時に後を追って真鉤は駆け出す。

 怪物の姿が消えた。

 歪んだ迷彩状態だったのがいきなり消えた。動きを止めて保護色が安定した、にしては瞬間的過ぎる。これは、おかしいぞ。目印になると思ったナイフも見えない。

「あ、消えっ」

 オペレーターの驚く声。

 気配が完全に消えてしまった。足音もしない。殺意ももう感じない。こいつの隠形の本質は保護色ではなく、存在を丸ごと人の認識から逸らすことだったのか。友人の吸血鬼・日暮静秋は自分の血を使ってそういう結界を張れる。同じことが出来る生物がいても不思議ではない。

 このまま逃がしてしまえば、警戒されて二度と捕まえられないかも知れない。だがすぐにオペレーターの指示が飛んだ。

「北東十二メートル先にいます。真鉤さんからは三十度右方向です。人の歩く程度のスピードで移動しています」

 人の認識やセンサーは誤魔化せても、ナイフに仕込まれた発信器は対象外だったようだ。真鉤は鎌神刀を水平に伸ばして突進した。これで何処かに当たれば良し、当たらなくても相手がビビれば見えるようになるかも。歩く程度のスピードで逃げるということは、それ以上のスピードだと隠形出来ないということじゃないのか。

 予想通り、真鉤が十メートルほど駆けたところで気配が復活した。グニャグニャの背景混じりで現れる。また跳んで離れようとしている。今は鎌神刀の届く距離。足を斬るか、もう殺してしまうか。逃げられるよりは……。

 咄嗟に組みついたのは、生け捕りがベストと言われていたことと、腕力で負けない自信があったからだ。また、隠形からの奇襲がスタイルなら、それ以外の特殊な攻撃はないと踏んでいた。触れたのは怪物の胴だろう。多分背中側。手袋とアノニマスク越しのため細かな感触は分からなかったが、予想していたより硬かった。毛皮じゃなくて皮膚か。

「ヌギャーッ」

 怪物が叫ぶ。真鉤を落とそうとして体を激しく振るが、真鉤は足も絡ませてしっかり張りついた。やはり背中側で合っていたようで腕や牙の攻撃はない。真鉤は鎌神刀を離し、両腕で怪物の胴をきつく締めていった。

「ギヤーッ、ブッ、ヴーッ」

 怪物の必死の悲鳴。まだ走って逃げようとしている。真鉤は絡ませた足を下にずらし、怪物の足に引っ掛けて転ばせた。これでよし。

「網をっ。僕ごとで構いません」

 真鉤が怒鳴って数秒後、バシュッ、という音がして真鉤達は網に包まれた。上空で見守っていた無音ヘリから発射されたもの。強靭な材質で、力ずくで破ろうとしても肉の方が切れる。

 続いて軽い衝撃の連打。何発かは怪物の体に、二発は真鉤に当たった。これもヘリの狙撃手によるもので、強力な麻酔弾だ。ほんの数秒でアフリカゾウを眠らせるという。すぐに眠気が来たが真鉤は耐えた。怪物の抵抗も弱まっていく。後は回収部隊の到着を待つだけだ。

 数メートル後方で篭もった銃声が聞こえ、怪物に命中したようだ。

「心配するな、麻酔弾の追加だ。折角生け捕りにしたんだから殺しはしない」

 伸ばした指先から発砲したのは、囮役をやっていたサイボーグの男だった。首がないままで追いかけてきたのだ。感覚機器やスピーカーが胴体側にもついていたらしい。

「割と無茶をするな、お前は」

 男は言った。

「そちらは大丈夫ですか」

 念のため真鉤は尋ねた。

「たかがメインカメラをやられただけだ。……クックッ。今時のガキには分からんネタか」

 どうやら冗談のつもりらしいが、真鉤は笑っていいものかどうか分からなかった。

 回収部隊が来た時には怪物は完全に眠っていて、擬態でない本来の姿が見えていた。灰白色の皮膚で、体毛は全くなかった。体形はゴリラやオランウータンに近いが、顔は顎と牙がやたら前にせり出していて鰐っぽかった。トレーラーに運ばれ網を解かれ、真鉤の任務は終了した。別のトレーラー内で消毒液入りのシャワーを浴びて自前の服に着替え、念のための血液検査と抗生物質投与を受けた。鎌神刀は職員が拾ってくれていた。洗浄してもらい、持ち帰るため布で包む。

「お疲れ様でした」

 大型バスを改造した移動司令室で、待機していた伊佐美界が真鉤にねぎらいの言葉をかけた。

 伊佐美は四十才前後で、いつも地味なスーツを着ていた。濃い黒の大型サングラスは目元を完全に覆い、目がそもそも存在しないことを隠している。場所や物から関連した情報を読み取るサイコメトリー能力者だが、伊佐美自身は虚弱で繊細な男だった。下手に良識がある分、中間管理職のジレンマを背負っていそうに見える。毎日胃薬を飲んでいるのだろうなあと、真鉤は勝手な想像をしている。

「生きたまま捕獲出来て何よりでした。肋骨が何本か折れていましたが内臓の損傷もなさそうです。生態も含めて充分なデータが得られるでしょう」

「逃がさないように注意して下さいね」

 真鉤が言うと、伊佐美は口元に何ともいえない苦笑を浮かべた。彼の責任ではないが、マルキの研究所は以前須能神一によって破壊され、病原菌ごと脱走されている。

 それから、少し気になったので真鉤は尋ねてみた。

「今回捕まえたのは一体ですけど、家族とか仲間とかはいないんですかね。希少生物で数が少ないのに、繁殖しなかったら絶滅してしまう訳で。でも今の時代まで生きているんだから、ちゃんと子孫を残しているってことですよね」

 前々から不思議に感じていたことだ。不老不死なら一体だけでも納得がいくが、そうでないならどうやって種を存続させてきたのか。吸血鬼は数が多いし人間とも普通につがいになれると聞く。鎌神は人間の女性を攫って子供を産ませていた。河童も一族がいるらしいから種を保てるだけの数はいるのだろう。風鬼はどうだろうか。あんな髪の毛を自在に伸ばして操る生き物が種として存在して、マルキに監視されながらひっそりと生き延びているのか。元マルキの偽刑事・大館は。奴が希少生物に憎悪を燃やしていたのは孤独故ではなかったか。

 伊佐美は答えた。

「勿論、仲間が残っていた場合のことを考えて戸万理山の捜索は続けます。ただ、未特定1933に関しては、その可能性は低いと思いますね。真鉤君の疑問は分かりますよ。あ、どうぞ、遠慮せずに飲んで下さいね」

 伊佐美はテーブルのコーヒーを勧めた。実際は真鉤はもう半分ほど飲んでいた。伊佐美はサイコメトリー能力で他人の気配も読み取るが、真鉤についてはまるで読めないようなのだ。真鉤は「どうも」と言って、わざと軽い音を立ててコーヒーカップを手に取った。

 伊佐美は話を続けた。

「希少生物……と、いっても本当に絶滅寸前のものから、表沙汰に出来ないだけで個体数は数百万単位のものまで様々ですが、それぞれが種の存続のために何らかの手段を持っています。個体数が少なく群れで生活しない種では、ごく微量のフェロモンでも感知したり特殊な超感覚によって遠方の異性を探し当てたりするものが多いですね。また、長命で繁殖可能な期間が長いのも特徴です。雌雄同体であったり相手に応じて性別を変えたり、また、無性生殖によって自分のクローンを産む種もいますね。吸血鬼は人間との親和性が高く、異種交配でも吸血鬼の特性をそのまま受け継ぐことが多いようです。……ただ、それらとは別に、生殖能力に特筆すべき点はないのに極めて稀にしか発見されず、しかし現代まで絶滅せず保たれている種もあります。これは、本来の生息圏が今の我々には到達不可能な秘境にあり、稀に人里に迷い出た個体が希少生物として捕獲されていると解釈されています。今回の未特定1933については、こちらの可能性が高いと思いますね」

 ふうむ。それぞれちゃんと手段を持っているものだな。真鉤は納得したが、秘境という言葉に引っ掛かった。

「現代にも秘境って、あるんですか。その、世間というか普通の一般人にとってではなく、マルキとか、専門家にとっても」

「ありますよ。色々と」

 伊佐美はあっさり頷いた。

「特殊な結界によって近寄れず、認識さえ出来ない森林。地震などの地形変化によって地底深くに封じられた洞窟。水深一万メートルを超える海溝の更に奥。また、宇宙もある意味秘境ですね。隕石が落ちた時は出来る限り回収し、微生物が付着していないか調べることになっています。……それから、異空間・異世界と呼ばれるものがあります」

 真鉤はちょっと驚いた。この世界に色々と特殊な生物がいることは知っていたが、SFみたいな異世界が存在するとは。

「パラレルワールド、と言って良いほどの規模で存在するのかはまだ分かっていません。どれほどの数あるのか、どんな生き物がいるのか、こちら側とはどんな条件で繋がるのか、そんな基本的なことも殆ど検証出来ていないのです。偶然向こう側に渡ってしまった人の大半は帰還出来ず、意識して異世界に渡れるのはごく限られた特殊能力者だけで、しかも、彼らの語る異世界像はまちまちです。君の学校を守っている『ミキサー』ならもっと詳しいことを知っているでしょうね。……そんな異世界からの通路が偶然開いて、向こう側の生き物が紛れ込むこともあるのですよ。私が直接調査した希少生物の中では三例、異世界由来と思われるものがありましたね」

 『ミキサー』とは楡誠のことだ。確かにあの人は突然瞬間移動したりするし、異空間とか異世界とかを行き来しているとしても不思議はない。

 それより今の話を聞いて思い出したことがあった。公園で瞬時に消えたカップル。死体もなかったし、あれは異世界に迷い込んだ、と考えてもいいのではないか。

 真鉤は伊佐美に二週間前の出来事を話してみた。死相が見えたことも含めて。

 人差し指を鼻頭に当て、考え込む仕草を見せながら伊佐美は言った。

「そうですね……。異世界、であってもおかしくはないでしょうが……。そういえば、来年二月に大型の流星群が見えるらしいですね。いや、流星雨、ですか」

 唐突な話題転換に真鉤は戸惑った。

「流星雨と何か関係があるんですか」

「天狗です」

「……。天狗、ですか」

 伝説の妖怪ではあるが、実在するという話は聞いたことがなかった。吸血鬼も河童もいるのだから、天狗がいてもおかしくはないか。

「轟音を立てて飛ぶ巨大な彗星か流星が、天狗の起源であったという説があります。天の狗(いぬ)……吼えながら天を駆ける犬に見立てたのですね。しかし平安時代の天狗は赤ら顔で鼻の長い、山伏姿の妖怪に変わっています。現代に天狗が実在するとしても、勿論彗星や流星そのものではありませんし、伝承とどの程度関わりがあるのかは不明です。マルキにも正式な目撃・捕獲記録はありません。……ただ、ハレー彗星の接近する年や、大規模な流星群の見られる時期には、唐突で手掛かりもない不可解な失踪事件が明らかに多いのですよ」

「天狗の仕業……神隠しということですか」

「この場合は天狗隠しですね。天狗攫いとも呼びます。伝説では失踪者は天狗に連れられ空を飛び、日本各地を巡ったり、隠れ里で召使いをさせられたりした後、数ヶ月から数年で戻ってくることがあります。ただし、私自身は生還者に会ったことはなく、はっきりしたことは何も分かっていません。……つまり、流星雨が近い今の時期、失踪事件が増えるでしょうが、有効な対策は特にありません。自分が被害者にならないように、祈るだけですね」

 特に役に立つ情報でもなかったが、真鉤はこの世界の奥深さに触れたような気がした。或いは、底知れぬ不気味さに。

 帰りの車の準備が出来たと連絡があった。布で包んでいるとはいえ、鎌神刀を抱えて電車で帰るのは目立ち過ぎる。真鉤が移動司令室から退出しようとしたところで、ふと思い出したように伊佐美が声をかけた。

「先程の、希少生物がどうやって種を存続させるかという話ですが。前述のようなまともな生物の系譜とは異なり、全くのイレギュラーに出現するものがいます。哺乳類から昆虫が産まれるような極端な突然変異ならまだましな方で、生殖能力も持たない、幾ら調べても起源の掴めない、下手をすると生物と呼んで良いのかも疑わしい……そういう訳の分からない異常個体が、稀に現れるのです。『ミキサー』もそのようですし、うちの戦闘員の朧幽玄も自分の出自を知らないそうです。何もないところから、神の気まぐれで創られたのか。或いは人間自体が、そういった超人の登場を望んでいるのかも知れない。私はそう考えることがあります」

 神の気まぐれとか人間が望んだとか、真鉤にはちょっと哲学的過ぎる気がした。伊佐美はどの程度本気でそれを語っているのだろう。

 朧幽玄はマルキのナンバーワンで、『いるような、いないような男』とか『チーズ職人』とか呼ばれている。真鉤は朧と会ったことがないので何ともいえないが、『ミキサー』楡誠についてはまあ、納得いくような気もした。楡の体の断面は、肉も内臓もない灰色の闇だった。あの男が母親の腹から産まれたと考えるよりは、神の気まぐれで無から創られたと考えた方がまだ妥当だろう。

「そうですか。色々教えて下さりありがとうございました」

 礼を言って退出し、真鉤はヴァンに乗り込んだ。見かけは普通だが、分厚い鉄板と防弾ガラスに守られた簡易装甲車だ。荷室スペースにはゴタゴタとした機器が積んだままだったが、今は運転手と真鉤しか乗っていなかった。真鉤を送るためだけに運転してくれるのだ。

 運転手は無口な男で、後部座席に座った真鉤は静かに考え事をしていた。伊佐美の最後の発言はどういう意図だったのだろう。真鉤も出自がないイレギュラーだと言いたかったのだろうか。マルキの検査では特に異常のなかった、生物学的には人間と変わりない存在だというのに。真鉤の存在も、神或いは人間が望んだものだと。……いや、どうせ証明など出来ないのだから、考えても仕方のないことだ。この世界には訳の分からないことが色々ある。知っておくべきなのは、それだけだ。

 今日は何も殺さなかったし、仲間も死なずにすんだ。あまりマルキを仲間とは呼びたくないが、一時的にせよ味方として戦ったのだからな。それはそれでいいのだが、真鉤は数日以内にノルマをこなさなければならない。死んでも誰も困らないような悪人を適当に選んで、なるべく事件にならないようにひっそりと殺すのだ。発覚しそうになってもある程度ならマルキが隠蔽してくれるかも知れないが、これ以上不必要な借りを作るのは避けた方がいい。

 藤村奈美のことも気になっていた。今回はただの風邪ということだったが、いつ重症化してもおかしくない気がした。彼女の顔に時折かかる黒い靄。殺人鬼の特殊感覚が見せる、死が定められた者のサイン。彼女のサインを読み取ってから一年三ヶ月ほどが過ぎた。真鉤がこれまで見てきた中では、彼女はかなり長生きしている方だ。しかし彼女はまだ十八才で、まだ高校三年生なのだ。

 あとどれくらい、彼女は生きていられるのだろう。

 明日の日曜に退院の筈だった。今日はマルキの用事で面会に行けないことを伝えていたが、奈美はどう思っているだろう。放置すれば人死にが増えるような案件だし、彼女も理解は示していたが、感情はまた別だ。

 面会時間を過ぎても、会いに行ってみるか。

 奈美へ送るメールの内容を考えていると、ヴァンが真鉤の自宅に到着した。

「ありがとうございました」

「お疲れさん」

 真鉤が礼を言うと、運転手の男はまるで同僚に対するみたいな言葉をかけた。

 殺人鬼を前にしても、彼らは態度を変えたりはしない。

 マルキのキは気違いのキだ、と自嘲気味に語られることもあるが、真鉤がこの先就職するとしたら、おそらくここしかないのだろうなと思った。

 

 

  三

 

 少女は震えている。

 少女は壁を背に、膝を抱えている。強く握った指が、ふくらはぎに食い込んでいる。

 少女は十才かそこらであろう。金髪で白い肌の西洋人。サイズ違いでブカブカの赤いダウンジャケットを着ていた。人形のように整った顔立ちだが、今、その顔は恐怖に歪んでいる。

 少女の青い瞳……その慄く瞳が、男を見上げている。

 大きな血溜まりの中心に、大きな男が立っていた。

 男の身長は二メートル以上あるだろう。プロレスラーのような太い体躯をナイロン地の黒いロングコートが包んでいた。

 天井を向いた男の口から、人間の足が生えていた。

 茶色のスラックスを履いた二本の足、膝から先の部分。片方の靴が脱げていた。まくれた裾から見える脛の太さと体毛の濃さからは男性と思われる。もう死んでいるのか、もがく様子もなかった。

 むぐ、ぐ、うぐ、と、低い呻きを大男は洩らす。信じられないくらいに大きく広がった男の口と膨らんだ喉は、呻きのたびに蠕動し、はみ出した二本の足が短くなっていく。

 男はどうやら、人間一人を丸呑みにしているらしかった。しかし、男の腹部はそれほど膨らんではいない。二メートル超の巨体といえど、他人の体を丸ごと体内に入れ込むのは不可能だろう。

 ただしそれは飽くまで、男が人間であったらの話だ。

 メシ、メチ、ゴギッ、と、骨の砕ける音が、男の内部から響いた。男は人間を呑み込みながら、筋肉で押し潰し、圧縮しているらしかった。まるで、獲物を呑み込んだ大蛇のように。

 男の口から血が溢れ、膨れた喉を伝い落ちていく。男自身の血ではなく、潰れた獲物から洩れたものだろう。

 ぐむ、む、うむっ。

 グギ、ゴキ、メシ。

 獲物の足首までが消え、やがて、靴ごと足先までが全て、男の口に吸い込まれていった。ゴグン、と最後の嚥下を終えると、伸び広がっていた口がみるみるしぼんでいき、薄く頬髭を生やしたまともな顔になった。

 直立したまま人間一人を呑みきった男は、三十代後半くらいの年齢に見えた。肩の辺りまで適当に伸ばしたパーマの黒髪に、浅黒い肌は黒人かラテン系のようだ。ただし、離れ気味の目と薄く広い唇は人種不明の印象を与えた。

 体内で骨を砕く音を断続的に鳴らしながら、男は動き出した。黒い手袋を填めた手で、血溜まりに転がっていた革靴を拾い上げる。獲物の片足から脱げたもの。男は再び人間離れした大きさに口を開くと、血のついた靴を噛まずに呑み込んだ。すんなりと喉の膨らみが下りていき、男の顔は元に戻った。

 次に男はコートのポケットから平たい金属製の容器を出した。酒を入れるスキットルに似ていたが、上蓋を開けるとスプレーノズルがついている。

 男は足元の血溜まりに向けてトリガーを引いた。噴霧された透明な液体は血液に触れると小さな泡を立て始める。男はまんべんなくスプレーし、自分の靴の裏にもかけた。そして、血の筋の残った自分の顎と喉にも。

 赤い泡は少しずつ色が薄れていき、泡が消えた頃には血溜まりは無色透明になっていた。血液を分解する薬剤だったようだ。

 男が少女の方を見た。少女はビクリ、と一際大きく体を震わせた。

「汚したな」

 英語で言って男が歩み寄る。少女は立ち上がることも這って逃げることも出来ず、ただ、救いを求めるように、黙って男を見上げている。

 少女のジャケットの裾が濡れていた。赤い生地に紛れていたが、血液だった。

「世話の焼ける奴だ」

 男は薬剤を噴霧した。赤い泡が立ち、次第に色が薄れていく。

 男は蓋を閉じ、容器をポケットに戻した。

 男は無表情に、少女に右手を差し伸べた。

 少女は数秒の逡巡の後、震える手で男の手を掴んだ。

 男は軽々と少女を引っ張って立たせ、少女の手を掴んだまま歩き出した。少女は特に抵抗もせずついていく。

 二人は誰もいない倉庫を出た。

 大通りに出ると、日曜午後の街はそれなりに人が多かった。少女の手を掴んで無表情に歩く大男に人々は奇異の視線を向けたが、関わろうとする勇気のある者はいなかった。

 少女はもう震えてはいなかった。伏し目がちの青い瞳には、冷たい絶望が宿っていた。

 

 

  四

 

 藤村奈美は日曜日に退院した。真鉤は朝から病室にいて、母親が迎えに来る直前に素早く帰っていった。気を遣ってるなあと、奈美は思う。

「健康第一だからね。勉強はあまり根詰めないで、無理しないでね。一浪くらいしてる人も多いんだから」

「いや別に落ちると決まった訳じゃないんだし。偏差値余裕あるのに」

 母の言葉に奈美は苦笑する。心配してくれているのは分かっているのだけれど。

 母は、娘が大学を卒業するまで生きていられると、信じているのだろうか。

 風邪も治って体調は悪くなかったが、十二月の空気は冷たかった。その日の夕食は鍋だった。母は「もう風邪を引かないようにね」と言って、奈美のいつもの布団にもう一枚上乗せした。重くなった布団に体が潰されそうだと思いながら、奈美は母の愛情を感じていた。

 月曜日の朝、母に手伝ってもらった二人分の弁当を持って奈美は出発した。

 真鉤の家。奈美の家から歩いて十分弱で着く。屋根が互い違いに食い込んだような不思議な構造も、見慣れてしまえば愛おしく感じるものだ。夏にはアジサイやホウセンカの花が庭を彩っていたが、今は寂しいことになっている。春になったらまた何か植えると真鉤は話していた。

 玄関の呼び鈴を押して数秒。奈美の到着に気づいていながら、数秒待ってから真鉤はドアを開ける。

「おはよう」

 穏やかな微笑を浮かべて真鉤が言い、奈美も「おはよう」と笑顔で返した。

「体調はどうかな」

 昨日も会ったしメールでやり取りもしたのだけれど、真鉤は改めて尋ねる。

「大丈夫。寒いけどね」

 そう言って腕を絡めると、真鉤は苦笑していた。

 いつものように二人で歩いて登校し、顔見知りに会えば挨拶を交わす。使うのは裏門だ。家から近い方がこっちだから仕方がないのだが、二人には合っているような気がする。

 表のグラウンドの方から朝練中の人達のかけ声が聞こえる。野球部とサッカー部だろう。もう三年生は引退している。ここの野球部はあまり強くないみたいだが、空手部は県大会で優勝して全国大会まで出たそうだ。天海が嬉しそうに語っていたので覚えている。彼自身が出場した訳ではないのだけれど。

 三年四組。ホームルームを前に、教室はなんとなくざわついている。話題はやっぱり受験のことと、来週から始まる冬休みのこと。最後の思い出にということでクリスマス会をやる人達もいるようだ。奈美は別に羨ましいとは思わない。こっちも予定はあるし。

 昼休み、奈美の作った弁当を一緒に食べた後で、真鉤が席を立った。

「何処に行くの」

「いや、ちょっと楡先生と話すことがあって」

「なら私もついてくね」

 奈美が言うと、真鉤は少し戸惑っているような顔をした。奈美が楡誠を苦手なことを知っているせいだろうか。以前余命が短いと直接言われたから。

 廊下を並んで歩きながら真鉤が尋ねた。

「僕がトイレに行くんだったらどうしてた」

「うん。ついてくよ」

 ニコニコして奈美が答えると、真鉤は珍しく声に出して笑った。

 私って、束縛する女になりそうだな、と奈美は思った。でも、少しでも長く真鉤と一緒にいたいから、仕方がないのだ。

 楡誠のカウンセリング室は職員室の隣にあり、誰でもいつでも入って相談出来るが利用している人はあまりいない。あの人に心のケアなどを期待するのは無理というものだ。

 真鉤がドアをノックすると「どうぞ」と声が返ってきた。

「失礼します」

 二人で中に入る。楡誠は机に何も置かず、背筋を伸ばして客を迎えた。この人は昼食を食べているのだろうかと奈美は思う。この人が食事しているところを想像出来ない。

 楡は動くマネキンのような男で、整った容姿だが人間らしさが感じられなかった。三十才くらいで髪は真ん中分け、スーツもネクタイもいつも同じものだ。特殊な能力を持っているが人の心は分からない。以前天海に殴られた時、頭部がグニャグニャに歪んでいたのを奈美は覚えている。あの時、楡は「痛みを与えて下さい」と天海の足にしがみついたのだった。

「今日は何の用件ですか」

 上っ面の微笑を浮かべて楡が尋ねる。

「最近おかしなことがありましたので」

 そう前置きして、真鉤は二週間ほど前の公園のカップル失踪について話した。やっぱり彼も気になっていたらしい。と、それに付け加えて、真鉤は意外なことを口にした。

「こういう突然の失踪は、天狗の仕業なんでしょうか」

 天狗って。元ネタは知らないけれど、あの「天狗の仕業じゃあ」とかいう有名な台詞があるなあ。奈美はちょっと吹き出しそうになったが、どうやら真面目な話のようだ。

「どうしてそう思うんです」

 顔色一つ変えずに楡が問い返す。

「マルキの調査官の人が言ってましたから。今の時期には原因不明の失踪が増えるということで。天狗が本当にいるかどうかまではマルキも分からないみたいでしたが」

 真鉤は喋りながらふと奈美の方を見た。彼がマルキの依頼をこなすことは、奈美もある程度仕方がないと思っている。色々と深く関わってしまったし、真鉤が奈美のために千人以上を殺した件は、マルキの協力がなければもっと大きな騒ぎになっていただろう。

 でも、マルキは学校にサイボーグを送り込み、生徒を何人も殺した組織だ。彼らの目的が社会を守ることだとは知っているし、真鉤が参加するのは放置すれば一般人に死者が出そうな時だけだ。だから奈美も割りきってしまうべきなのだろうけれど、人間の感情というものはそんなに簡単なものでもない。

 マルキに就職してしまうんじゃないの、と、以前真鉤に冗談で言ったことがあるが、このままズルズルと取り込まれて、本当にそうなってしまうのかも知れないと奈美は思う。大学までは一緒に通ってくれるだろうけれど。殺人鬼を受け入れてくれる就職先なんてマルキ以外にはないだろうしなあ。

 そういう奈美の心中はさて置いて、楡は言った。

「私は天狗については知りません。妖怪に特に興味がある訳でもありませんから。ただ、『今の時期』とはどういう時期のことです。天狗と関係があるのですか」

 真鉤はちょっと違和感のある数秒の沈黙の後、楡に答えた。

「流星雨の時期です。彗星や流星群の時期に、神隠しが明らかに多いとか。天狗とは元々、彗星や流星のことだったそうです。で、そういう時期に失踪が増えるので、天狗の仕業なんじゃないか、とマルキでは言われているみたいで」

「ふむ、そうですね」

 楡は顎に手を当てて、考えているふうなわざとらしい仕草を見せた。

「やはり天狗については何ともいえませんが、大質量同士の接近は座標軸を歪め空間の安定度を下げる傾向があります。それで別の次元と繋がってしまい、人が呑み込まれてもおかしくはないのかも知れませんね。……それで、真鉤君は天狗に興味があるのですか」

「いえ、そういう訳じゃないんですけれど。もし、消えた人達が別の世界に迷い込んでいたのだとしたら、楡先生だったら助けることが出来ますか」

 真鉤はあのカップルを助けたかったのだろうか。それとも、万が一自分達が同じことにになった場合を考えてだろうか。

「状況によりますね」

 楡はあっさり答えた。この魔人は、別の世界に救出に行くことを不可能ではないと言っているのだ。

「私が確実に移動可能な世界は五百十七で、条件次第で可能になる程度のものは十八万弱です。しかし、実際に存在すると思われる異世界の数は最低でもその千倍は超えると思われます。君の言う、流星群の時期に多発する失踪者の行く先が、私が救出可能な世界かどうかは今の時点では分かりませんね」

 あー、なんだかなあ、と奈美は妙に白けた感覚を味わっている。いや、この人の言うことだから本当なのだろうけれど、どうもファンタジー映画の話題でも聞いているような気になってしまう。

「では、無理ですか」

 真鉤はがっかりした感じでもなかった。元々あまり期待はしていなかったのだろう。

「ですから状況によります。そうですね……私の仕事は生徒の安全を確保することですし、念のため生徒全員にアンカーをつけておきましょう。……はい、終わりました。これで失踪することがあってもアンカーを辿ってある程度追跡出来るでしょう」

 アンカーとやらがどんなふうに役に立つのか分からなかったが、真鉤はひとまず礼を述べ、二人は退出した。

「真鉤君、気を遣ったね。流星雨のこと、本当は言わないつもりだったんでしょ」

 教室に戻りながら奈美が言うと、真鉤は頷いた。

「こんな話をしたら、折角の流星雨が純粋に楽しめなくなるかもと思って。それにしても、君は僕の心が読めるのかい」

「読めるよ。愛してるもんね」

 奈美が胸を張って答えると真鉤は淡く苦笑した。すれ違う男子生徒が目を見開いていた。奈美は別に恥ずかしいとは思わない。人前でも遠慮なく、何度でも「愛してる」と言うことが出来る。

 ただ。

 真鉤が楡に聞きたかったのは、本当は少し違うことだったのではないか。奈美はそれを感じ取っていたが、真鉤には指摘せずにいた。

 

 

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