第二章 日常の裏で

 

  一

 

 年が明けた。コタツで両親と一緒に面白くもない紅白を観て、年越しそばを食べて、年賀メールを誰にまで送るか吟味していたらあっさり年が明けた。年越しなんてイベントはそんなもんだよね、と藤村奈美は思う。

 でもひょっとするとこれが最後の年越しになるかも知れないし、もっと大事にその瞬間を味わいたかったと悔やんだりもする。いや、飽くまで可能性の話だ。まだまだ生きるつもりだし。

 明けましておめでとうの挨拶を両親と交わし、「今年は良い年になるといいね」という父のしみじみとした言葉に、妙にジンと来たりもした。それはそれとして、初詣だ。

 親戚との挨拶とお年玉受け取りをすませた元旦の午後、奈美は真鉤達と神社へ初詣に行った。それなりに大きな神社で、勿論あの大殺戮が行われた二十重坂町の神社とは別だ。神社の話題になるとすぐあの場面が浮かんでしまうのだが、奈美はなるべく顔に出さないように努めていた。

 真鉤以外の参加者は日暮静秋と南城優子。クリスマスも喫茶店のトワイライトで同じメンバーだったし、奈美としてはもっと二人きりのデートもしたいのだけれど。真鉤は奥手だから仕方のないことなのだろう。奈美も別に日暮達が嫌いではないし。

 南城は晴れ着姿だった。着物がよく似合っていて、いや彼女は何でも似合って羨ましい。明るくて健康的で、きっと長生きするだろう。……ああ、また嫌なことを考えてしまった。

 参拝客はとても多くて混雑していて、日暮は「だからもう何日か後でいいって言ったろ」と愚痴っていた。

 並んでお賽銭を上げて礼拝をして、心の中で何を願ったのかはお互いに尋ねなかったけれど、奈美は真鉤の願いを分かっているつもりだった。奈美は二つの願い事をした。自分が少しでも長く真鉤といられるようにと、彼が幸せでありますように。百円のお賽銭で頼み事なんて図々しいと、神様は思うかも知れないな。この神社にいるのがどんな神様なのかも奈美は知らないのだし。そう考えて奈美はちょっと苦笑した。

 折角なので奈美は学業成就のお守りを買った。「これもあげるよ」と、真鉤は健康祈願のお守りを買ってくれた。

「ありがとう。なら私も真鉤君に買ってあげるね」

 安産祈願のお守りを買ってあげたら、真鉤はなんとも微妙な笑みを浮かべていた。いや、別に、深い意味はないのだけれどね。

 おみくじも買おうか、二百円のおまけつきのものにしようかと話していたら、そばにいた日暮が真鉤に尋ねた。

「おい。気づいたか」

 表面的には気楽な声音だったが、目つきは鋭く、冷たかった。

「……。いや」

 真鉤も怪訝な顔をした。キョトンとしている南城の手を引いて、日暮は人込みをスルスルと掻き分けていった。仕方なく奈美達もついていく。おみくじが沢山くっついた縄の並ぶ場所で、丁度新しいおみくじを結ぼうとしていた若い男に日暮が声をかけた。

「ちょっといいか。ニット帽の女の子、あんたの連れか」

「えっ。いや、俺は一人で来たけど」

 ダウンジャケットを着たその男は不思議そうだった。奈美にはどういうことか分からない。人は多いけれど、ニット帽の女性というのはこの辺には見当たらない。

「そうか。なら、誰かニット帽の女の子を知らないか。さっきまでいたろ」

 日暮が周りの人々に尋ねるが、答える者はいない。急に、奈美はゾワリとした悪寒を覚えた。まさか……。

 左手に触れるもの。真鉤が奈美の手を握っていた。真鉤は無表情で、でも少し緊張しているのが分かった。

 日暮が身を屈めて、落ちていた絵馬を拾い上げた。歩み寄って見ると、女の子らしい丸文字で「拓くんが志望校合格できますように 美和」と書いてあった。

「どうしたのよ」

 南城が聞いた。日暮は黙って辺りを見回していたが、やがて、軽い溜め息をついた。立ち止まっていた人々も参拝の流れに戻っていった。

 日暮はまた先に歩いていき、拾ったものを絵馬掛に掛けてやった。

「どうしたのよ」

 南城がまた聞いた。

「消えたぜ」

 日暮がボソリと言った。にぎわいの中で、彼の声は妙にはっきり聞こえた。

「見てたのはたまたまだ。ニット帽をかぶった女の子が、瞬きした間に消えてた。錯覚か、ひょっとすると幽霊かとも思ったが、絵馬が落ちてたからな」

「消えたって。どうやって」

 実感が湧かないみたいで、南城はまだキョトンとしている。奈美は真鉤の手を強く握る。握る手があるというのはいいことだと思う。

「さあな。神隠しかな。それとも、天狗隠しって奴か」

 日暮が真鉤の方を見た。公園でカップルが消えた件は、日暮にも伝えていたのだろう。

 さっき、風は吹いていただろうか。吹いていたような気もするが、奈美ははっきり覚えていない。

 絵馬一枚を残して、美和という女性は消えてしまった。多分この人も見つからないのだろう。拓というのは恋人だったのだろうか。一緒に初詣に来なかったとしたら、片思いだったのだろうか。彼女の人生は……。奈美がそんなことをモヤモヤ考えていると、日暮が言った。

「帰るか」

 確かにもう、おみくじを買う気もしなくなっていた。

 これからどうなるのだろう。奈美は自分に出来ることが特にないことを知っているし、自分がすべきことも分かっている。まずは大学に合格しないと。

 でも、これから、どうなるのだろう。

 奈美の自宅まで真鉤は送ってくれた。それまでずっと、真鉤は奈美の手を握っていた。

 

 

  二

 

 天海東司が登校すると、通りかかった下級生が唖然として声をかけてきた。

「先輩、今日センター試験じゃなかったんですか」

 吉井という空手部の一年だった。おかしな男が道場を襲撃した事件以来、彼は天海に最大限の敬意を払うようになっている。

「あっ、ヤベえ、忘れてたぜ。……てな、冗談さ。俺は大学行かねえからよ」

 天海はニヤリと笑って返す。

「そうなんですか。でも、今日は土曜ですよ。って、先輩は休みの日も自主トレしてるんでしたね」

 休日にも空手部は活動している。天海は空手部員ではないが部室の冷蔵庫を使わせてもらっているし、たまに組手に参加することはあった。

「そうさ。トレーニングを一日でも怠ったら、体が衰えちまうからな。一日サボると自分で分かり、二日サボると仲間に分かり、三日サボったら観客にもばれちまうそうだ」

「それってことわざですか」

「何か有名な偉い人の言葉だ。確か、な」

 天海の笑みに誘われるように吉井はアハハと笑い、それから急に真顔になって尋ねた。

「先輩、そしたら卒業後はどうする予定なんですか」

「働くさ。どんな仕事をするかはちゃんと考えてるぜ。うん、考えてるさ」

 自分に念を押すように天海は繰り返した。

 吉井と別れ、天海は校舎の階段を上る。苦笑を浮かべながら内心で呟く。

 考えてはいるんだがなあ。

 屋上の隅には、数日前に積もった雪がまだ残っていた。厳しい冷気が顔や腕に沁みてくる。肘部分で切った制服は、入学してすぐからこれで通してきた。今となってはかっこつけて馬鹿なことをやったと思うが、それでも三年間やり通したというのは自分の糧になったような気がする。なっていないかも知れないが。

 天海は冷たい床に手をついて腕立て伏せを始めた。なるべく重い負荷をかけるため、顎が床に触れそうなくらい深く体を沈め、勢いをつけずに押し上げる。以前は五百回くらいから関節に痛みを感じ始めたが、今は少しレベルアップして六百回を少し越えたくらいからだ。あちこちぶち壊されて再起不能と言われたこともあった。右手は相変わらず握力が弱い。でも、それでも、苦行を続けていれば、得られるものはあるのだ。

 痛みが痺れになり、電気が走るような全身の痛みに変わる。いつの間にか天海は歯を食い縛っている。総入れ歯だが。

 千二百回をこなし、天海は息を荒くして仰向けに転がった。

 少し休んで、次は腹筋だ。腰や背骨は壊れてないから、腕立てよりも楽だった。こちらも千二百回をこなし、連続だったので流石に疲れ果てた。

 全身が熱く、もう寒さも感じない。天海はなんとか起き上がり、置いていた缶コーヒーを開ける。自販機で買った時は温かかったが、今はもう冷たくなっていた。

 柵際に立ち、天海はコーヒーを飲みながらグラウンドを見下ろす。野球部とサッカー部が寒い中頑張っている。既に代替わりして、一年生と二年生だけだ。年は天海と一つか二つしか違わない訳だが、彼らに対してつい微笑ましさのようなものを感じてしまう。頑張れよ、大きく育てよ、というような。

 そして、三年生は巣立っていく。

「色々あったよなあ」

 天海は呟いた。

 色々あったが、これで終わりでもない。皆バラバラにはなりながらも、それぞれの人生を、それぞれの戦いを続けていくのだ。

 天海は亡くなった二年時の担任を思い出す。友田恵(めぐむ)。生徒には「めぐみちゃん」とか呼ばれていたが、天海は「トモやん」と呼んでいた。

 雪男に襲われた修学旅行のバスの中で、彼は死ぬ間際に皆に、「それでも戦え」と言ったのだ。「戦って、生きていけ」と。

 分かっているさ。人生は戦いなのだ。

 冷たい風が天海の顔を叩く。嫌な風だ。何がどう嫌なのか天海自身にも分からないが、どうも嫌な感じだ。最近、時折妙な風を感じることがある。

 何か、おかしなことが起きているのだろうか。

「天海君、卒業後はどうするのですか」

 いきなり横から声をかけられた。左隣、一メートルも離れていない場所に楡誠が立っていた。このスクールカウンセラーは突然現れたり消えたりワープしたりする。毎度のことなので天海も慣れっこになっていた。

「聞いてたんですか、後輩との話」

「ええ、聞いていました」

 楡は平然と答える。感情の篭もっていない、人形のように薄っぺらな微笑。この男が異常な力を持つが中身は空っぽなことを、天海は知っている。そして、楡がそれを自覚して、空っぽな中身を埋めてくれる何かを探していることも。

「それで、卒業後はどうするのですか」

 楡は同じ質問を繰り返した。一度彼を殴って以来、どうもまとわりつかれている気がする。中身を埋める役を天海に期待されても困るのだが。

 答えずにいると延々と同じ質問をされそうなので、仕方なく天海は話すことにした。

「何でも屋になろうと思ってんですよ。家の掃除とか水道の修理とか、ストーカーに狙われてる女の子を護衛するとか……ま、多少の荒事も含めて引き受けようってね。別に、私立探偵でもいいんですけどね」

 言ってて恥ずかしくなってきた。こういうのを語るのが許されるのは中学生までではないか。ただ、天海は自分の生きる道はこれしかないと思っていた。サラリーマンとして窮屈に生きるのは自分には無理だし、ヤクザも嫌いだ。

 まともな人間なら「ええっ、本気ですか」と驚いたり、「へえ……まあ、頑張ってね」と曖昧な笑みを浮かべたりするだろう。だがまともでない楡の反応は、天海の予想を大きく上回った。

「そうですか。……ふうむ。では、私を助手に雇ってくれませんか」

「えっ」

「この白崎高校との契約は今年度一杯で終了ですから、私はフリーになるのですよ。ですから助手の仕事がおろそかになる心配はありません」

「いや、そうじゃなくて……」

「給料は要りませんよ。無給で働かせるのが問題でしたら、月百円でも構いません。物質的には間に合っていますので」

 楡は相変わらず上っ面の微笑だが、目はじっと天海の顔を見続けている。これはマジだぞ。天海は焦りながらなんとか反論を試みる。

「い、いや、星一つ圧縮してペンダントにするような人を、雇うほど大きな器じゃないんで。俺の請け負う仕事はもっとこぢんまりとした……」

「ああ、あの惑星は別の宇宙のものですから大丈夫ですよ。この宇宙には影響ありません」

 ダメだこりゃ。話が通じそうにない。

「いや、そういうことじゃなくて……」

「今結論を出す必要はありませんよ。ただ、考えておいて下さい」

 言い終えた途端に楡の姿は消えた。カウンセリング室に戻ったのだろう。滅多に生徒の来ない部屋に。

 天海は溜め息をついた。自分の将来に暗雲が漂ってきたようだ。

 さて、他の奴らは、今センター試験を頑張っているんだろうな。天海は同級生の面々に思いを巡らす。本番で緊張して力が出ないような人もいるからな。センター試験が終わってもまだ二次試験があるからな。受験生は大変だ。大学に進んでもそこがゴールではない。次は就職だ。結局、人生は戦いなのだ。

 少なくとも、高校生でいる三月一日までは、皆無事であって欲しかった。これ以上おかしな事件が起こらないように、天海は少しだけ祈った後で屋上での筋トレを再開した。

 

 

  三

 

 センター試験の一日目が終わった。英語のリスニングは苦労したけれど、まあなんとかなったと藤村奈美は思う。試験は明日もあるので緊張感を維持しておかないと。

 良い手応えだったのか明るい表情の者もいれば、暗く沈んだ表情の者もいる。同じ学校の顔見知りにも暗い者がいて、奈美はちょっと切なくなる。でも、奈美が助けられる訳でもない。

 試験場の建物を出ると外は暗くなっていた。一度下見に来ただけの場所だったし、帰り道を覚えているか微妙だが、真鉤がいるので心配はしていない。

 違う部屋で試験を受けていた真鉤は、玄関で待っていた。

「どうだった」

 並んで歩きながら、真鉤が尋ねる。

「まあまあ、かな。大きなポカはやってないと思うよ。で、真鉤君は」

「それなり、かな。まだ明日があるけれど、この感じなら一葉大学は大丈夫だと思う。君が志望大学を変えたら難しいかも知れないけどね」

「変えないよ。一緒に行けるとこがいいもの」

 フフ、他愛ない会話だな、と奈美は思ったりする。

 帰りの電車の中も同級生が一杯で、聞こえてくる話題は試験のことばかりだった。互いに牽制するみたいに、難しかった難しかったと言い合っている。奈美は自分の体調を確認する。疲れてはいるけれど、寒気などはないし大丈夫だろう。今夜は早めに寝よう。

 同じ車両内の向こうの隅に、奇妙な外国人の二人連れがいた。

 大きな男と小学校高学年くらいの少女だった。男は黒人で、少女が金髪の白人だから親子ではなさそうだ。

 男はとにかく大きかった。背が高いだけでなく、黒いロングコート越しでも凄い筋肉をしているのが分かる。スポーツ選手……いや、格闘家だろうか。じっと立っているだけで迫力があった。

 少女は赤いダウンジャケットを着ていたが、サイズが大き過ぎて裾が膝まで覆っていた。目は青く、綺麗な顔立ちをしている。

 少女がシートに座り、大男はその正面に吊り革を持って立っている。大男は少女を黙って見下ろしている。

 奈美は少女の表情が気になった。何かビクビクとして、怯えているような感じで俯いている。大男は無表情で、何を考えているのか分からない。

 まさか、誘拐とかじゃないよね。奈美は考える。誘拐なら少女は周りに助けを求めても良さそうなものだし。恐怖に声も出ない、というほどの緊迫感はなかった。なんとなく、諦めているような……。

 奈美は隣に立つ真鉤に小声で言ってみた。

「真鉤君。あれって……」

「うん」

 真鉤の返答はそれだけだった。もっと何か言ってくれても良さそうなのに。真鉤の顔を見ると、穏やかだが何の感情も篭もっていない。信頼していない相手の前で作る顔だ。嫌な予感がした。

 これは、話を続けない方が良さそうだ。奈美は黙って、二人の外国人の方を見ないようにした。向こうがこっちを見ているかも分からなかった。

 駅に着き、電車を降りる。二人の外国人は降りなかったようだ。

 暫くお互い黙って歩いていたが、同じ高校の生徒達も離れた頃、真鉤が言った。

「あれは、関わらない方がいい」

「危ない人なの」

 奈美は尋ねる。

 向こうから歩いてくる人がいたため真鉤はまた黙り、すれ違って少ししてから彼は話を続けた。

「あの男は人間じゃない。平気で人を殺せるし実際に何人も殺している筈だけれど……何か、ちょっと……」

 真鉤は少し眉をひそめて考えているようだったが、やがて、ポツリと低い声で言った。

「多分、プロの殺し屋だ。どうして女の子を連れているのかは知らないが、詮索するのは危険だ。君の人生には、関係ない人達だよ」

「……そうだね」

 奈美は頷く。殺し屋なんて、本当にいるのか。しかも人外の殺し屋。マルキとかがあるのだから、いても不思議はないのだろう。

 この世には色んな悪人がいて、無数の被害者がいて、理不尽なことは溢れ返っている。奈美に出来るのは、自分の人生を頑張ることだけだ。自分の受験のことを優先すべきだ。明日も試験はあるのだし。

 でも、やっぱり気になってしまう。あの怯えた目をした女の子。彼女の人生は、どんなものなのだろう。でも、奈美に何が出来る訳でもないのだし。真鉤に首を突っ込んでもらうのも、間違っている。真鉤はこの世のあらゆる悪と戦う正義のヒーローではないのだ。

 それに、もし真鉤が介入したら、相手は死ぬことになるのだ。真鉤に手を汚させる権利が、奈美にあるだろうか。

 嫌なものを見てしまったな、と奈美は思った。

 

 

  四

 

 神社の境内に数人の外国人がいた。

 アンテナのついた機材を幾つも地面に並べ、眼鏡の男がタブレットの画面を睨んでいた。白いロングコートを着たスキンヘッドの男がゆっくりとその周りを歩いている。他の男達は少し離れた場所で見守り、英語で何やら会話していた。

 日曜の昼。遅ればせながら初詣に来る客もそれなりに多かった。参拝している訳でもなさそうな外国人の一行に、彼らは訝しげな視線を向けつつ通り過ぎる。

 参拝客の誰かが知らせたのだろうか、そのうちに神主が現れ、外国人達に歩み寄ってきた。

「あのー、何をなさっているんですか」

 まだ若い神主は、照れ笑いのようなものを浮かべながら日本語で話しかけた。

 タブレットを持つ眼鏡の男が面倒臭そうに顔を上げた。痩身で、長い金髪を後ろで束ねている。

 眼鏡の男は早口の英語で答えた。聞き取れなかったようで神主は「えー、そのー、エクスキューズミー」としどろもどろになった。

 眼鏡の男は調子に乗って更に早口になってまくし立てる。離れて見ていた仲間はニヤついていた。

 困っている神主の前で、スキンヘッドの男が立ち止まった。顔に皺はないが妙に落ち着いた雰囲気で、年齢不詳で何処か得体の知れないところがあった。

「ちょっとした調査を行っているだけです。ご迷惑はおかけしません。もうすぐ終わりますのでご容赦下さい」

 丁寧な日本語で男が告げ、一礼までしてみせた。

「そ、そうですか」

 神主は足早に戻っていった。その背に眼鏡の若者が「お疲れ様ですー」と声をかけ、見ていた男達が吹き出した。

 やがて、男達の一人が腕時計を確認した。眼鏡の男に声をかける。眼鏡の男はタブレットから目を離し、「ダン(Done)」と短く告げた。

 スキンヘッドの男がまた何やら言い、その後男達は機材を片づけた。神社の外に停めてあったトレーラーに乗り込む。トレーラーのナンバープレートには『U.S.ARMY』とあった。

 トレーラーは別の町に到着する。スキンヘッドの男が最初にうろついて指示を出し、他の男達が機材を配置した。眼鏡の男がタブレットを操作して、後は待つ。スキンヘッドの男が歩き回っている間、他の男達は立ったままハンバーガーを食べていた。

 一時間ほどして眼鏡の男が終了を告げ、スキンヘッドの男が頷くと、彼らは機材をトレーラーに積み込んでまた出発する。

 次は大通りだった。交差点近くの歩道に少し乗り上げてトレーラーを停め、男達は機材を横断歩道の上にまで置き始めた。カラーコーンも並べられて一車線が潰れてしまう。片側二車線の道路なので完全に塞がった訳ではないが、迷惑には違いない。車がクラクションを鳴らしても男達は悠然としていた。

 十五分ほどでパトカーが来た。警官二人が降りて近づいてくるのを、少し離れて立つ男達はニヤニヤして見ていた。

 警官のうち年配の方が眉をひそめて外国人一行を見渡し、日本語で怒鳴りつけた。

「何をやってるんだ。勝手に道路を塞いで。それとも、許可は貰ってるのか」

 眼鏡の男が代表して、また英語でまくし立て始めた。年配の警官は溜め息をついて若い相棒を見る。

 まだ二十代半ばであろう、その警官は明瞭な発音で英語を喋った。年配の相棒が言った内容とほぼ同じだったが、最後に「デタラメな台詞を喋って楽しいのか」という皮肉が追加されていた。

 眼鏡の男はわざとらしく肩を竦め、日本語で言った。

「最近の日本人は進歩したね」

 若い警官は驚いた顔も見せず、即座に日本語に切り替えた。

「すぐに撤去しなさい。それにここは駐車禁止だ。免許証を見せてもらおうか」

 見守っていた仲間の一人が黙ってトレーラーの前面を指差す。米軍の公務車両であることを示すナンバープレート。若い警官がそれを目で追って確認し、向き直ったところで眼前にスキンヘッドの男が立っていた。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。もう少しだけ待って頂けますか。特殊な調査をやっているものですから」

「いや、そもそも許可を……」

 若い警官の反論は途中で止まった。

 スキンヘッドの男の瞳が光っていた。眉毛もなく、細められた眼裂から覗く瞳は薄緑色から灰色へ、そして漆黒へと変化していき、また薄緑に戻った。その間、二人の警官は口を半開きにして固まっていた。

「少しの間見逃して頂けますよう、お願い致します」

 スキンヘッドの男が一礼すると、年配の警官が「ああ、そうだな」と言った。二人の警官は何処か鈍い表情でパトカーに戻り、走り去った。

 二時間以上を経て男達が機材を撤収した時には、既に日が暮れかけていた。

 トレーラー内部には電子機器とモニターが並び、ちょっとしたコンピュータルームとなっていた。ただし、壁に掛かっているのはアサルトライフルやサブマシンガンなどの銃火器だ。隅には仮眠用の小型ベッドまであり、ずっと寝ていた男が仲間の声かけで漸く起き上がった。

 トレーラーは出発した。彼らは据えつけの椅子に腰掛けて、英語で思い思いのお喋りを始めた。

「今日の成果はどうなんだ、タビー」

 タビーと呼ばれた眼鏡の男は、タブレットのデータをコンピュータに移しながら答える。

「やっぱりそこそこ、かねえ。空間の揺らぎは検出されるが、有用なデータには程遠いな。そっちはどうだい、アデプト・M」

 Mというのはスキンヘッドの男のことらしかった。髪も眉も髭もなく、もしかすると全身無毛なのかも知れない。薄緑色の瞳で静かにタビーを見返すが、Mは黙ったまま何も答えなかった。タビーは肩を竦め、他の男達は皮肉な笑みを浮かべた。

 ベッドから起きたばかりの男が大きく伸びをして、仲間達に尋ねた。

「戦闘はなしか」

 タビーが答える。

「ああ、平和なもんだ。指示の変更もなし。あんたには退屈かい、オールダム」

「たまにはいいさ。休暇と思えばな」

 寝起きの男・オールダムは、百五十センチ弱の身長に比べて頭部が妙に大きかった。眠たげな目も見開いた時にはやたら大きく、体型のアンバランスさも加わって、よくある都市伝説の宇宙人……グレイを連想させた。年齢は三十代であろうか。撫でつけた金髪は薄いが禿げているというほどではなく、まばらに顎髭を生やしていた。

「俺達はちゃんと仕事してるんだが。出来れば、近くにいて俺達を守ってて欲しいんだがね。何が起こるか分からんからあんたに来てもらってるんだからな」

「まずい時は呼べよ。Mが危険を予知すれば間に合うだろうさ」

 オールダムの口調には多少嫌味な響きがあった。スキンヘッドのMは無表情の無反応を保っていた。

「夕飯はどうする。スシ・バーに寄れるか。昨日みたいに出前のショボいピザなんかじゃあたまらんぜ。……っと、進んでないな。どうした、ベン。トラブルか」

 男達の一人がコンピュータのそばにあるボタンを押し、マイクに話しかけた。トレーラーはさっきから停止していた。

 スピーカーから運転手の声が返ってきた。

「渋滞だ。事故らしいが、日本って奴は信じられんな。ハイウェイなのに渋滞なんてよ」

「前のカメラの映像をこちらに流してくれ」

 オールダムが告げた。タビーがコンピュータを操作し、モニターの一つに景色を浮かび上がらせた。トレーラーの前面に取りつけられた小型カメラからの映像。ヘッドライトの明かり以外にもデジタル補正されているらしく、昼間のように明るかった。

 前に並ぶ車列。二車線共埋まり、トレーラーは左車線だった。高めの視点から、数十台以上詰まっているのが見えた。

 オールダムは両手の指で軽くこめかみに触れ、それから目を細めた。眠たげな瞳に冷たい悪意が光る。

 画面の中で、トレーラーの前にあったハッチバック車が横に動いた。動いたというより、吹っ飛んだというべきか。見えない巨人の手で叩かれたかのように、突然凄い勢いで右へ飛んでミニヴァンに激突した。ゴジャリ、というクラッシュ音がここまで届いた。二台の車両はひどく潰れ、中にいた人はとても無事ではすまないだろう。

「それ。それ。それ」

 オールダムは右手の人差し指で画面に映る車両を指し、指を横に振ると車両も横に吹っ飛んだ。それを繰り返すたびにスクラップが増えていき、トレーラーの前が空いていった。

「行けよ」

 オールダムの言葉に、運転手の返事はなかったがトレーラーが進み出した。邪魔になる車が見えない力で吹っ飛んでいく。

「後始末が大変そうだな。色々と」

 タビーが肩を竦めた。

 結局百数十台をスクラップに変え、二十台ほどは迫る惨事に慌てて路肩に避け、トレーラーは悠然と渋滞を抜けた。

 死傷者二百六十二人に上った高速道路の出来事は、玉突き事故として報道された。

 

 

  五

 

 センター試験二日目も、特に何事もなく終わった。数学はちょっと辛かったが、まあ、大丈夫だろう。奈美は翌日の新聞に載っていた解答で自己採点した。一葉大学なら医学部とかでない限り入れるだろう。後は、マークシートを一つずつずらして回答してしまったとかでない限りは。

 これからの勉強は二次試験対策になる。一葉大学の過去の問題を解く作業が待っている。

 学校の授業は自習が主になり、一部のクラスメイトは自宅で勉強するつもりらしくて休んでいる。彼らと会うのも残り僅かだと思うと、奈美はふと寂しくなったりもする。

 二次試験を前に、クラスメイト達は重苦しい緊張を振り払うかのように馬鹿な冗談を言い合っている。心底気楽そうに見えるのは既に推薦入学が決まった男子だ。奈美はちょっと羨ましくなるが、一葉大学に推薦枠はなかったし、真鉤と一緒に受験したかったから仕方がない。

 まあ、大学受験なんて一生に一度のことなんだし、体験しておいても悪いことはない。浪人すれば別だけれど。奈美はそこまで考えて内心で苦笑した。

 教室でよく出る話題は二月に来る流星雨だ。日本からが一番綺麗に見えるらしいし、幾ら受験時期でもこれを見逃す人はまずいないだろう。当日が雨にならないことを祈るばかりだ。

 流星雨といえば、天狗だ。いや、失踪事件だ。最近になって少しずつ、テレビや新聞で見かけることが増えてきていた。二、三日に一度はニュースになり、前の失踪の続報かと思ったら新しい事件であることが殆どだ。人の多い場所でいつの間にかいなくなっていたという話もあった。誰かが見ている前で瞬間的に消えたという証言は出なかった。公園でカップルが、神社で女性が消えたみたいな。もしかすると報道規制がかかっているのかも知れない。ネットで調べると、匿名掲示板にはそれっぽい目撃譚もあったが、周りはネタ扱いしているようだ。動画なんかが残っていれば、また違っているのだろうけれど。

 この一ヶ月で、どれだけの人が行方不明になっているのだろう。彼らは何処に行ったのだろう。彼らの人生は。そんなことを考えたりもするけれど、やっぱり奈美は自分の人生を頑張るしかないのだった。そう、結局はそれだ。それだけだ。

 センター試験が終わって三日後、南城優子からメールでダブルデートのお誘いが来た。映画のペアチケットが二枚手に入ったからということ。またこの面子かあ、と思いながらも奈美は受けることにする。もしかしたら、南城は奈美に気を遣っているのだろうか。長生き出来ないことを知っているから。

 メールで真鉤に連絡。すぐ返事が来て、すんなり承諾。彼が断わらないことは分かっている。でもちゃんと勉強はやってるのだろうか。マルキは真鉤が受験だからといって依頼を控えてはくれないだろうし。

 真鉤君、私が死んだらすぐ大学を辞めてマルキに入っちゃうんじゃないの。そんなことを尋ねてみようかと思い、奈美はすぐ首を振る。いけない。とても笑えないジョークだ。

 土曜日の昼過ぎ、集合した四人はまずトワイライトに向かう。繁華街から離れた目立たない場所にある、知る人ぞ知るという感じの喫茶店。上品な内装に小さめの音量でクラシックが流れ、普通の客もいれば、ちょっと怪しげな雰囲気の客がいることもある。中年のマスターは穏やかな物腰で、不必要に話しかけてくることもない。殺人鬼と吸血鬼を含めたこの四人にとっては、安心してくつろげる場所だった。ケーキも美味しいし。

 どうせ映画館でポップコーンも食べるんだけどな、と思いつつ奈美もやはりケーキを注文した。

 予定の映画は『オールキル』という超能力アクションらしく、どういう理由でデートにこれが選ばれたのか奈美にはさっぱり分からない。評判を聞いたこともないし、いかにもB級という感じがする。大体文法的におかしい。本来ならキルオールじゃないのか。

「えー、受験勉強の息抜きに、たまには馬鹿馬鹿しい映画もいいんじゃない」

 南城優子が言った。この人のセンスはちょっと何処かずれている。

「そういう台詞が許されるのは、日頃からちゃんと勉強してる奴だけなんだがな」

 日暮静秋がげんなりした顔で突っ込みを入れる。この人も苦労してるなあ、と奈美は思う。二人は同じ大学に行くとかは考えてないのだろうか。

 ケーキを食べ終えると、日暮は水で口の中を洗い、「指を出しな」と奈美に告げた。奈美は左手を差し出す。日暮は消毒した待ち針で薬指の先を軽く刺す。痛みは殆どない。刺したところから血の玉が膨らんで、ある程度の大きさになったところで日暮が針を抜いた。針についていった血の玉を舐め取り、高級ワインをテイスティングするグルメみたいに澄ました顔で味わっている。もう慣れたので、気持ち悪いと思ったりはしない。

 やがて日暮が言った。

「異常なし、だ。受験頑張りなよ」

「うん。ありがとう」

 月に一度やってもらっている吸血鬼の定期健診。病院の血液検査より早く白血病を見つけられたし、奈美は信頼している。これで大丈夫だ。無事に大学まで行けるだろう。受験に失敗さえしなければ。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 真鉤が言った。上映時間の三十分前。映画館に着いてポップコーンなどを買っていれば丁度いい時間になりそうだ。

 トワイライトを出ると、冷たい風が頬を叩いた。おっと、マフラーを巻かないと。真鉤とお揃いになるため自分で二つ編んで、一つを真鉤にプレゼントしたもの。登下校の際も巻いている。

 風といえば、またあのカップルのことを思い出す。風が吹いて突然消えた、公園のカップル。今吹いた風で、また誰かが消えるのだろうか。奈美の知らないところで。

「おいっ」

 急に強い力で引っ張られ、奈美はよろめいた。何。いきなり、誰。そのまま壁に押しつけられる。

 引っ張ったのは日暮だった。凄く険しい顔をしていた。怒っている。何故。私何か悪いことしたかな。いや、違う。

「消えた」

 日暮の低い声に、奈美の背中がゾワリ、とした。

「優子が消えた。それと、真鉤も。一瞬で、いなくなった」

 え。嘘でしょう。店を一緒に出て……。奈美は見回す。通りには二人しかいなかった。奈美と、恐い顔の日暮。と、あっちの交差点を渡っているのは中年の男。違う。真鉤は。店の中に戻ったとか。曲がり角の向こうに隠れてるとか。いやそんなことは。日暮が消えたと言っているのだからそうなのだろう。いや、でも、そんな筈はない。真鉤が消える筈が。日本中で沢山の人が消えているみたいだけれど、わざわざ真鉤が選ばれる筈が。そんな偶然が。

「真鉤君……」

 口から出た言葉は、彼に呼びかけようとしたものか、単なる呟きなのか、奈美自身にも分からなかった。

 返事をしてくれる筈の真鉤夭は、いなかった。

 嘘だ。信じられない。背中のゾワゾワとした悪寒が全身に広がっていく。

 嘘だ。

 さっきまで、ほんのさっきまで一緒にいたのだ。本当に消えたのか。あの公園のカップルみたいに。あれは普通の人達だ。真鉤は特別だ。普通の人みたいに簡単に、消える筈がない。異世界だって。天狗だって。マルキが言っていたとか。でもそんなに簡単に、あの真鉤が。彼は奈美を守ると言ってくれた。奈美のために生きると。なのにこんなにあっさり、消える筈が……。

「中に入ってろ」

 日暮静秋がトワイライトの扉を開けて奈美を中に押しやった。さっき引っ張られたのは怒っていたのではなく、奈美まで攫われないように下がらせたのか。でも今更……。

「どうかなさいましたか」

 マスターの声。

「大至急で親父に連絡取ってくれねえか。二分以内に戻る。この子は外に出さないでくれ」

 ああ、この店のマスターも日暮の関係者だったのか。だから「黄昏」という意味の店名。いやそんなことはどうでも良くて。

 真鉤がいない。

 そんな筈がない。私の方が先に死ぬと分かっていたのに。彼に見守られながら安らかに死ぬ予定だったのに。彼の方が先に。いや死んだとは限らない。異世界に迷い込んだとか。そういう話だった。でも、戻ってこれるのか。このまま永遠に会えないなんてことは。

「大丈夫ですか」

 マスターの声が近くで聞こえる。目の前が暗くなっていく。自分の顔から血の気が引いているのが分かる。そんな筈はない。これまで色々あった。全て乗り越えてきた。それがこんな、あっけない結末なんて、ある筈がない。

 真鉤君。真鉤君がいなくなったら、私は……。

「私が選ばれたら、良かったのに。どうして私じゃなくて……」

 思わず口から洩れていた。彼女も消えたって。南城優子。どうして真鉤と彼女が。私の方が一緒に消えるべきだった。それなら納得出来る結末だった。どうして……。彼女が私の役を奪ったのか。いや、そんなことじゃなくて……。

 そうだ。楡先生だ。生徒が異世界に迷い込んでも見つけやすいように何か印をつけたとか。そうだ。楡先生ならなんとかしてくれるだろう。きっと。でも、もし駄目だったら。まさか、本当に、これで終わりなんてことは……。

 視界が暗くなる。

「に、楡先生に、連絡を……」

 なんとかその言葉を絞り出したら、奈美は何も見えず、何も聞こえなくなった。

 

 

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