第三章 天狗隠し

 

  一

 

 店を出たら突然景色が変わって、真鉤夭は一瞬幻覚かと思った。それか、夢を見ているのかと。だとするとさっきまでのトワイライトでのことも含めて夢だったことになるが……。

 真鉤は無意味な思考を中断する。これは現実だ。ヒリつくような肌の感覚で分かる。

 真鉤は、虚空を飛んでいた。

 何が起きている。ここは、何処だ。見える光景。広い。緑色だ。地平線が何処までも広がっている。ポツリポツリと細い塔のようなものが立っているのが見える。

 腹に何かが巻きついている感触。背後に大きな気配がある。運ばれているのか。巨大な鳥に捕まって攫われたということか。シンドバッドのロック鳥のエピソードみたいに。真鉤は首をひねって背後を振り返った。壁、いや大きな生き物の胴体らしきものが見える。鳥のような羽毛はなく、なめらかな赤い皮膚だった。分かってはいたが、地球上のまともな生き物ではないな。

 自分の腹部を確認する。黄色い、爪……というほど鋭くない、長くカーブしたものが数本、体に食い込んでいる。服は破れていないしそれほど強い力でもない。引き剥がそうかと考え、その前に真鉤は状況を整理しようとした。

 これは夢ではない。

 さっきまでトワイライトにいて、一瞬で景色が変わった。いきなり気絶させられて実際は何時間も経っている可能性は、ないこともないが、低いと思う。頭を矢で射抜かれても首を切断されても、真鉤は意識を保てるのだから。

 そしてここは、地球ではないみたいだ。

 これがあれか。最近増えている失踪の正体か。天狗隠しか。こいつは天狗か。イメージとは違うが。

 天狗に攫われて、異世界に引き摺り込まれたということなのか。どうして自分が。宝くじの一等が当たるよりも低い確率だと思うが……もう少し高いか。いや、確率はどうであれ、現実を認めないといけない。

 ただ、異世界というのは本当だろうか。異世界が存在するというのはマルキの伊佐美から聞いたし、楡も言っていた。だから異世界は存在する。しかし、ここがその異世界だと簡単に判断していいのか。地球上の秘境かも。それか、宇宙……別の惑星という可能性も。いや、そういう細かいことはどうだっていいのだ。

 異常な場所にいる。謎の生物に攫われた。ここまでは確かだ。問題は、自分がここから元の場所に帰れるのかということだ。

 最近の多発する失踪事件で、無事に帰ってきたというニュースは見たことがない。伊佐美も異世界に迷い込んで帰ってきた人は殆どいないと言っていなかったか。どうやって帰ればいい。

 まさか、このまま永遠に、戻れないなんてことは。真鉤はゾッとする。これまでの人生、これまでの生活、関わり合った人々。全て断ち切られるのだ。藤村奈美の顔を思い浮かべる。さっきまで一緒にいたのに。出来る限り、長く一緒にいるつもりだったのに。それがこんなことで……いや、まだそう決まった訳ではない。来れたのなら帰り道もある筈だ。この怪物に、元の場所に帰すように従わせることも出来るかも知れない。意思の疎通が取れるかはまだ分からないが。

 それで真鉤は改めて周囲を見回し、斜め後方を飛んでいる赤い影に気づいた。

 距離は三十メートルほどか。こちらと同じ方向に飛んでいるから怪物の仲間のようだが。体長は尾の先までで七、八メートルか。セイウチやトドみたいなずんぐりした体形で翼はない。どうやって飛んでいるのか分からないが、そんなことよりそいつが抱えているものを見て真鉤は呻き声を洩らしてしまった。

 南城優子がいた。同時に攫われてしまったのか。他には、いないな。真鉤と南城だけだ。なんとも嫌な組み合わせになってしまった。嫌……というのは違うな。苦手なのだ。

 南城は真鉤と同じように黄色の爪に抱えられ、まだ状況が理解出来ないようでキョトンとしていた。その目がこちらの方も見たが、彼女が真鉤に気づいたかは分からない。

 まずいな。真鉤は自分だけならどんな環境でもそれなりに生き延びる自信があったが、南城は常人だ。ここの空気……息苦しさは感じないので充分量の酸素はあるのだろう。しかし、異世界なら、人間に有害な成分が含まれていても不思議はない。

 見捨てる訳には、いかないだろうなあ。

「……何よこれ」

 我に返ったのか、南城が喋り出した。空気の質が違うのか、彼女の声はよく響く。いや、周りが静かなせいか。

「何よこれ。何処これ。何。放してよ。何よこれ。放しなさいよ。おい、放せええっ」

 最後は怒号になっていた。彼女の右腕は胴体と一緒くたに爪に巻かれて動かせないものの、残りの手足を激しくバタつかせ始めた。まずい。半端に暴れるのは危険だ。あっさりくびり殺されるかも知れないし、逆に解放されても落ちて死ぬ。下の地面が本当に地面なのかは分からないが、試すのはやめた方がいい。

 真鉤はひとまず声をかけた。

「落ち着いて。大人しくしていた方がいい」

「放せえ。放せえええこの糞化けモン。静秋は。静秋っ、何処よ。早く来いっ」

 真鉤の声が聞こえなかったか、南城は彼氏の名前を喚き続けている。振り回した踵が怪物の腹に当たる。まずいな。刺激するのは良くない。

「じっとして。ここから落ちると死ぬぞ」

「放せえええ化け物化け物放せこのボケカスクズッ」

 この女は……。真鉤はいい加減腹が立ってきた。この状況で恐怖に凍りつかない度胸は凄いが、まずは人の話を聞け。真鉤は今度は声を大きくして告げた。

「静かに。生き延びたいのなら……」

「うるさいっ」

 すぐに反応があって真鉤は驚いた。放せと喚いていた時よりも激しく、憎悪に満ちた、拒絶。南城は真鉤の方を見もせず、しかし真鉤に言っているのは間違いなかった。

「話しかけんな。人殺しの糞野郎」

 ああ。そうか。真鉤は心臓を刺されたような気がした。

 分かっていた。彼女が今でも真鉤を憎んでいることを。真鉤は彼女の親友を惨殺したのだから。

 日暮と奈美の前だから、最低限取り繕っていた。日暮と真鉤は友人で、奈美と彼女も友人だから。ただ、皆でいる時も、彼女が真鉤に話しかけることはなかった。真鉤も本当は気づいていた。気づきたくなかっただけだ。

 真鉤は、薄汚れた、殺人鬼だった。

 だが、感傷や自己嫌悪に浸る暇はなかった。南城を見捨てる訳にはいかない。日暮には幾つも借りがあるし、彼女が死ねば奈美も悲しむだろう。もしこれが南城でなく見知らぬ他人だったら、まあ、真鉤も無理して助けはしないだろうが。

 南城がまた喚き始める前に、真鉤は必要充分な声量で感情を込めずに伝えた。

「僕を憎んでいようが今はどうでもいい。ただ、君が死ぬと日暮君は悲しむんじゃないか。だから、生き延びるために、静かにしていてくれ」

 南城は返事をせず、相変わらず真鉤から目を逸らしていた。ただ、もう喚いたり手足をバタつかせたりはしなかった。ここが何処なのか、生きて帰れるのかなど聞きたいこともあったろうが、やはり真鉤と話をする気はないらしい。

 ひとまずはそれでいい。真鉤は現状把握のための観察に戻った。

 二人を運んでいる怪物は胴体に比べて頭部が小さかった。目も口もなく、触角のようなものが十数本生えている。これでは話は全く通じそうにない。胴体の側面に小さなヒレが四つ並び、ウネウネと動いている。あれで体を浮かせるのは無理だろうが、姿勢制御には役立っているのだろうか。大きな尾ビレはビーバーみたいに平たいが分厚く、赤い怪物の体でそこだけ黒かった。

 腹部から昆虫のように節のある細い脚が数十本、ウジャウジャと生えていた。先端が黄色の爪となっており、獲物を抱え込んだ脚以外はうまく折り畳まれている。それにしても、気持ち悪い外見だ。

 下。地上まで数百メートル以上あるだろう。大地も空も緑色で区別がつきにくい。空には太陽も何もなかった。地面は平らで殆ど凹凸がなく、もしかしたら大地でなく水なのだろうか。

 と、どうも高度が下がってきているようだ。目的地が近いのか。それとも自然落下しているのか。このまま着地するのか。または着水か。

 怪物に身を任せていていいのか。爪を振りほどいてすぐ動けるようにしておくべきか。南城の方はどうするか。向こうに飛び移っていた方がいいか。しかし、失敗すればどうなるか。思考が高速で巡るが分からないことばかりで答えが出ない。それでも、決断しないと……。

 南城を運ぶ怪物の尾が腹側に曲がってきているのに気づいて、真鉤は様子を見ることにした。あの尾をうまく使いそうだ。

 念のため確認しておこう。真鉤は腕を後ろに回し、怪物の腹に触れてみた。皮膚はザラザラして硬く、その下にみっしりと筋肉の詰まった感触がある。直感する。普通に勝てる相手だ。

 手袋はしておくべきだろうか。ダウンジャケットのポケットには軍手でなく手袋が入っている。店を出てから填めるつもりだった。人を殺すのではないので指紋は関係ないし、手を保護する意味は、生身の手の方が強いから、あまりない。鋭敏な触覚を保っていた方がいいか。真鉤は手袋は出さずにおいた。

 地表が近づいてくる。やはり平らで、濃淡のない緑一色だ。下手なCGみたいで現実感がない。飛行スピードは時速百キロを超えているか。地面に直接ぶつかったら真鉤はともかく南城は即死だろう。水面でもこのスピードなら同じことだ。真鉤を掴んだ怪物の方が先につく。こちらの尾も腹側にしなっている。

 予想通り、怪物は曲げていた尾を素早く伸ばして地表を叩き、前方へ跳ね飛んだ。音はしなかった。ゆっくりと波紋が広がっていくことから、地面ではなく水面だったようだ。

 南城を抱えた怪物も同じように水面を蹴って跳んだ。再び高度が上昇し、水平飛行に移る。一度の蹴りでかなり飛ぶな。空気の質が……いや、重力が違うのかも。

 広がった視界に、他の生き物も見かけた。やはり赤いトド似の怪物で、牛のような動物を抱えて飛んでいる。かなりの距離があったため、真鉤の目でもそれが地球上の牛なのかまでは確認出来なかった。

 別の場所にも赤いトドがいた。小さなジャンプを繰り返して狭い範囲を行ったり来たりしている。こいつは何も抱えていないようだが……。

 小さなジャンプは更に小刻みになっていき、急に胴体ごと着水したと思ったら今度は大きくジャンプした。

 その爪が黒い触手の集まったものを抱えていた。ウネウネ動いているから生き物だろう。いきなり連れ去られ、戸惑うだけの知能が触手の塊にあるかは分からない。

 赤い怪物達は、こうやって狩りをしているらしい。この水面は別の空間に繋がっていて、彼らは水中の魚を狙うカモメのように、向こう側にいる獲物を掠め取っていくのだ。真鉤達もそうやって攫われたのだ。

 なら、わざと水面に落ちれば元の世界に戻れるのか。真鉤は考える。……いや、ハイリスク過ぎる。あの捕らえられた触手の塊は、真鉤達の世界の生き物には見えない。この水面が複数の異世界に繋がっているとすれば、適当に落ちた先がとんでもない世界になるかも知れない。今のここは呼吸も出来る環境だし、賭けはしたくない。

 望みは、楡誠だ。真鉤は学校のカウンセリング室で相談したことを覚えていた。生徒全員に印のようなものをつけて、何処にいるか分かりやすくすると言っていた。彼は異世界を移動出来るというし、救助に来てくれるかも知れない。行けない世界もあるらしいから成功する可能性がどの程度かは分からないが、他の方法よりはよっぽど見込みがある。

 だから真鉤がやるべきは、とにかく生き延びることだ。楡が見つけやすいようになるべく一ヶ所に留まり、同時に南城も守らなければならない。鎌神刀があれば良かったな、と真鉤は思う。この赤い怪物程度なら素手でなんとか出来そうだが、他に何がいるか分からない。ここでそれなりの武器が見つかればいいが。

 不安や絶望のあまりおかしな行動に出られてもまずいので、真鉤は一応南城にも説明することにした。

「僕の知り合いに超能力者がいる。何処にでも瞬間移動するような人で、僕が行方不明になった時は助けに来てくれることになっている。だから、生き延びていれば救助の目はある」

 異世界という言葉は敢えて使わなかった。南城は聞いているようだったが、特に返事も質問もしなかった。気になるだろうに。ここは何処なのか、救助される可能性はどのくらいなのか、この怪物に運ばれて自分はこれからどうなるのか。まあ、聞かれても、真鉤は答えようがないのだが。

 ああ、南城に対して丁寧語を忘れていた。もう暫く、彼女と話していなかったな。ダブルデートは何度もやったのに。

 怪物が真鉤達を攫った理由は、十中八九、食うためだ。ただ、こいつらには口が見当たらないし、どうやって栄養にするのかは気になるところだ。

 七度の跳躍を経て、行き先の見当がついてきた。塔に向かっている。この世界の所々に建っている巨大な円柱の一つ。高さは数百メートル、幅はそれに比べて狭く、鉛筆を立てているかのようだ。この世界で地震が起きたらあっけなく倒れるだろう。茶色の表面から岩山かと思ったが、多少の凹凸はあるものの人工的に削ったようになめらかに見えた。

 かなり近づいたところで怪物達は水面を一際強く蹴り、茶色の塔の上空まで跳んだ。側面の小さなヒレをくねらせて方向を調節し、塔の天辺に着地しようとしている。

 天辺の様子が見えた。皿状に縁が高く、中央部がやや凹んでいる。赤い怪物はここにも二体、並んで寝ていた。地面の数ヶ所に穴が開いている。下は洞窟で、奴らの巣になっているのではないか。

 中に引き込まれるのはまずいな。よし。真鉤はいよいよ行動に出た。背中に手を回し、真鉤の腹を捕らえている爪の生えた脚を引きちぎる。それなりに頑丈だったが真鉤の筋力の方が上だ。すぐに別の爪が絡んでくるのを蹴り剥がし、真鉤は怪物の体をよじ登った。怪物の背中から頭部まで這い進み、服が汚れるなと余計なことを考えながら、右の手刀を怪物の小さな頭部に突き入れる。頭蓋骨は意外に柔らかく、もしかすると骨ではなく中に脳もなかったのかも知れない。一応グチャグチャに掻き混ぜてから手を引き抜いた。温かい、紫色の粘液が絡みつく。怪物の血か、脳漿か。更に念のため、十数本の触角も引きちぎっておく。どうもうまくないな。弱らせたのは確かだろうが、死の感触がはっきり掴めない。

 怪物は胴体を激しくくねらせたが悲鳴は上げなかった。口がないから当然か。

 真鉤が動いてからここまで二秒くらいだったろう。塔への着地が近い。真鉤は斜め後方を振り返る。仲間の窮地に気づいたのかどうか、南城を運ぶ怪物の動きに変化はない。距離は二十メートルほど。真鉤は怪物を蹴って跳んだ。

 着地寸前に向こうの怪物に届いた。南城を掴んでいる脚を急いで引きちぎり、彼女を奪い取って横に跳ぶ。塔の上に着地し、膝で少しずつ衝撃を吸収しながら駆けた。多少荒っぽかったかも知れないが、南城に怪我はない筈だ。茶色の地面は微妙に弾力のある硬さで、岩ではない。

 屋上の径は三十メートルほどだった。高くなった縁のそばで真鉤は立ち止まり、南城を置いて振り返る。彼女は礼を言わなかったが文句も言わなかった。ただ、真鉤に触れられたのが嫌だったのだろう、眉間に皺を寄せていた。

 南城を運んでいた怪物は曲げた尾をクッションにしてうまく着地していた。仲間が寝ている場所へグネグネと這っていく。獲物を奪われても戦う気はないらしい。頭と触角を破壊した方もまだ生きていたが、無意味に胴をくねらせているだけだ。

 さて、どうなるか。トドに似た赤い怪物達が単なる運び役なら、別の役もいる筈だ。真鉤は辺りを見回すが武器に使えそうなものは落ちていなかった。と、帽子。白い毛糸の帽子が落ちている。南城のではない。前にもここに攫われてきた人間がいたのだろう。この冬のことだろうか。死体はないが……。

 下で動く気配。何かが近づいてくる。地面に開いた穴は四つで径は二メートル弱から四メートル、皆それなりに丸い形をしていた。やはりこの茶色の塔は作られた巣のようだな。蟻塚の巨大版みたいな。何かが擦れ合う音が聞こえる。複数いる。最低でも十体。

 穴の奥に、蠢くものが見えた。

 

 

  二

 

 最初に見えたのは真っ白な触手だった。太さが十センチほどもあり、蛸の足みたいな吸盤が並んでいる。グネグネと動きながらその数が増えていき、長さが二メートル以上あるのが分かり、やがて根元の本体らしき部分が見えた。幅一メートル弱、丈も同じくらいの円柱。皮膚は濃い青。この世界は景色も生物も極彩色だった。円柱一体の上面から数十本の触手が生えている。やはり目らしきものはなく、細い触角が幾つか、胴の側面から水平に伸びていた。

 円柱の底はスカートみたいに広がって地面につき、ゆっくりと這っている。イソギンチャク……だな。赤いトドよりも小型だしあまり強そうには感じられない。だがその向こうにも別のイソギンチャクが見えた。まだ奥にゾロゾロいそうだ。

 真鉤は一瞬振り返って南城優子の様子を確認する。その場にじっと座ってこちらを見守っている。憮然とした表情に浮かぶ不安の影。「安心しろ」とか「大丈夫だ」とかはとても言えない。ああ、鎌神刀があれば良かったのに。

 四つの穴のうち三つから、イソギンチャク似の怪物達が這い出てきていた。上向きの触手をうねらせながら静かに近づいてくるのは不気味な光景だ。先頭と真鉤との距離は五メートルとちょっと。南城の息を呑む気配。

 真鉤は先頭のイソギンチャクに素早く近づいて、左手で白い触手を掴んでみた。ヌラリとした冷たい感触。柔らかそうな外見からは意外なほど強い力で引っ張られる。瞬時に他の触手も呼応して真鉤の腕に巻きつき、ギリギリと締めつけてきた。固い吸盤。

 だが真鉤の力の方が強い。無理矢理引っ張り返すとミチッという音がして、触手の根元の筋肉が裂けると同時に、ダウンジャケットの右袖も破れた。構わず引き抜くと触手の数本がちぎれた。透明な体液が漏れる。怪物は痛がる様子もなく、残りの触手はまだ諦めずに真鉤の腕や足に絡もうとしていた。

 真鉤は更に引きちぎる。イソギンチャクの底は異常な粘着力で地面にへばりついて剥がれない。側面に鋭く蹴りを入れてみた。硬いゴムのような手応えがあってぶち破れない。攻撃力はそれほどでもないがタフだ。

 他のイソギンチャク達が集まってきている。今見えているのは十三体。穴からまだ出てきそうだ。囲まれると不利になる。南城に向かわせる訳にはいかない。

 後方にいるイソギンチャクの一体に、柄が生えていた。触手の生えた辺りに突き立っている。見知ったもの。糸が巻かれ、楕円形の鍔がついている。

 随分汚れているが、日本刀の柄だった。

 昔攫われた侍が持っていたのだろうか。怪物相手に奮戦して力尽きたのか。刀身は怪物の体内にまだ刺さっている筈だ。瞬時の思考の後、真鉤は迫る触手の波を飛び越してそのイソギンチャクに到着し、下手にこじって刀が折れないように気をつけながら柄を掴み、引いた。

 刀身はあった。期待していたほどではなかった。茶色に腐蝕して、幾つも刃こぼれがあり、五十センチほどの長さで折れてしまっていた。だが、使える。

 真鉤はまた跳んで南城を守る位置に戻った。右手に握った日本刀を水平に振る。狙ったのは触手の一本で、刃こぼれの部分で僅かに引っ掛かる感触があったが、すんなりと切断することが出来た。

 いける。真鉤は更に刀を振って触手を切り落としていった。強靭な胴体を無理に斬ろうとして刀が折れても困るし、こいつらは触手を失ったら何も出来ないのではないかという目論みもあった。

 真鉤は一体のイソギンチャクを数秒でただの円柱に変えた。だがそいつは動きを止めず、仲間と共にじりじりと迫ってくる。穴からは後続部隊が現れている。どうもうまくないな。真鉤は次のイソギンチャクの触手を切りながら、何か良い手はないかと考える。

 側面の触角はどうか。細くて先端が丸く、常にユラユラと揺れている。これが目の代わりになってるんじゃないか。真鉤は触角を切り落としてみた。一体につき五本あり、全ての方向をカバーするように等間隔で生えている。全部切ってしまうと怪物の移動が止まった。

 最初からこうすれば良かったのか。真鉤はちょっと拍子抜けしながら、他のイソギンチャク達の触角も切ったり引きちぎったりして片づけていった。触角を一本失うと動きが悪くなり、全部失うと触手も上部に丸まって固まってしまう。うまくやればこいつら自体をバリケードに出来そうだな。

 背後の南城の様子を意識する。彼女は殆ど動かずこちらを見守っている。呼吸が多少荒くなっているのは緊張のためか。彼女と敵との距離は充分に保たれている。真鉤がこのペースで触角を処理出来ていればだが。

 寝ていた赤いトド達も、戦闘から避難するつもりらしく穴の中へ這い落ちていく。空中で真鉤が処理したトドはイソギンチャク達が触手を絡めて穴に引き摺り込んでいた。あれは救助活動か、それとも食糧にするつもりなのか。

 他のイソギンチャク達の動きも変わってきていた。触角を失って丸まった仲間を触手で引っ張って、穴に戻っていく。退却か。これで一段落か。

 真鉤は自分の状態を点検する。疲れは、それほどでもない。もっと厳しい戦いを生き抜いてきた。ただ、先の見えない異常な状況で精神的に消耗しているかも知れない。だが、まだ、大丈夫だ。

 半ばで折れた日本刀。触角を切ればいいと分かってからはそれほど酷使していない筈だ。刀も真鉤の腕も怪物の透明な血に塗れている。毒性がなければいいが。今のところ皮膚が溶けたりはしていない。

 マフラーにも返り血がついている。藤村奈美が編んでくれた白いマフラー。汚してしまった。この服装でいきなり攫われたのだから仕方がないのだけれど、申し訳ないと思ってしまう。それに、もし元の世界に帰れなかったら、このマフラーは彼女の大切な思い出の品に……いや、いけない。真鉤は首を振る。諦めるのはまだ早い。この世界に来てからまだ三十分も経っていない筈だ。

 電子音が聞こえ、真鉤は振り向いた。南城が携帯電話をいじっている。

「電波が届かないって」

 南城が真鉤を見返して言った。流石に彼女も喋る気になったようだ。

 どう返事をすべきか真鉤は少し迷った。「ここは異世界ですから」とか言うのはまずいだろうし。結局真鉤は「そうですか」と短く答えただけだ。素っ気ない口調にならないよう気をつけながら。

 安全な隠れ場所などないか改めて周囲を見回す。四つの穴は奴らの巣になっているから無理だ。塔の側壁に隠れられる窪みなどはないものか。難しいだろうな。もしあったとしてもそこで襲われたら逃げ場がなくなる。特に、南城を連れては……。何もない空の彼方を、巨大な蛇のような生き物が飛んでいる。

「ねえ……。ここは何処なの」

 南城が尋ねた。

 多分、天狗の里です。僕達は天狗隠しに遭ったんですよ。伝説の天狗とは、随分姿が違いますけどね。

 真鉤がどう答えようか思案しているうちに、穴の奥から新たな気配が近づくのを感じた。

 硬いもの同士がぶつかる音が、した。イソギンチャクとは別の敵のようだ。

「次が来ます」

 真鉤は警告しながら、これで答え方に悩まずにすんだと馬鹿なことを考えていた。このままここで死ぬかも知れないのに。不誠実ではないか。

 だが新手が現れるのが見えて、説明する余裕もなくなっていた。

 今度の怪物は、蟹を連想させた。全身が黒い甲殻類。丸みのあるずんぐりした胴体は一メートル以上の幅があり、下部には短い脚が二十本以上生えている。異様なのは二本の大きな腕で、先はハサミではなく鎌状に湾曲した刃になっていた。刃渡りは右が一メートル半ほど、左が一メートル弱あった。あれをまともに食らえば体が真っ二つになるだろう。

 それから、胴の上部からもう一本、おかしなものが生えている。尾と呼んでいいのか、腕よりも細いが関節がやたら多く、三メートル近い長さがあった。先端は大きな丸い塊になっていて、尾は逆U字にしなってそれをぶら下げている。塊の径は四十センチほどか。重量がありそうだが、何の役に立つのだろうか。

 触角が見当たらない。あるのならそこを狙えばいいが……あった。錘つき尾の生えた付近に、硬そうな棘に囲まれて小さな触角が数本あった。棘は触角を守るためのものか。日本刀でも素手でも難しそうだな。

 同様の敵がカチャカチャと音を立てながら穴から這い出し、五体、六体と増えていく。さっきのイソギンチャクは獲物の回収役で、こちらは外敵対策の戦闘部隊のようだ。真鉤は餌でなく敵と認識されたらしい。形態が全く異なるが、複数の種が共生関係にあるのだろうか。それとも女王蜂と働き蜂、芋虫と蝶みたいに同じ種の違う形態なのだろうか。黒い大蟹達が近づいてきたため、真鉤は戦闘に意識を集中した。

 イソギンチャクと違って動きが速い。今いるのは八体で、全てが真鉤に向かっている。南城に殺到されたらまずかった。真鉤は少し回り込んで位置取りをする。一度に相手にするのがなるべく少数ですむように。黒い刃。鎌のような蟹の刃が振り上げられている。チリチリと、怪物達の明確な殺意を感じる。

 真鉤は右手の日本刀を一瞬だけ見て長さを再確認する。集中しなければ。精密な動きを。来るっ。先頭の蟹。右の大きな刃が真鉤へ振り下ろされる。避けなければ左肩から胴へ食い込む軌道。速いがなんとか出来るか。

 狙っていることがあった。真鉤は蟹へ一歩踏み込む。鎌状の刃を振り下ろす腕の、四つの関節のうち、前から三つ目。まだこちらに曲がりきっていない関節の、硬い殻の隙間目掛けて真鉤は日本刀を打ち込んだ。刃筋を立て、渾身のスピードとパワーを乗せて。

 ギュゴッ、と嫌な感触があった。日本刀が折れた。蟹の筋繊維を断ち切ってのけるには日本刀は傷み過ぎていた。だが関節の大半を切った。真鉤は日本刀を捨て両手で蟹の腕を掴む。短い方の刃が横から迫っている。真鉤は斜め前に跳んで避けながら、蟹の腕を完全にもぎ取った。黒く粘っこい体液が洩れる。

 これで、折れた日本刀より強力な武器が手に入った。刃渡り一メートル半、鋭利さはそれほどでもないが頑丈な剣。柄に相当する腕は一メートルほどあって太くて持ちにくい。また、勢いをつけて振ると刃の付け根の関節で曲がって、自分の体を切ってしまうかも知れない。それでも、素手で戦うより百倍もましだ。

 次の蟹が刃を振るう。真鉤は姿勢を低くしてそれをくぐり、手に入れたばかりの大鎌を横に払った。左手で刃の根元付近を、右手で刃の峰部分を持ち角度をコントロールする。重い体を支える短い脚。ゴリュゴギュ、という硬い感触と共に、二十数本のうち半分近くをまとめてぶち切ることが出来た。更に数本は折れた筈だ。

 鎌状の刃に欠けはない。この調子でうまく立ち回れば。蟹達が取り囲んでくる。同時二体の攻撃。真鉤は転がって避け、一体の脚を数本切断する。そこへ降ってくる大きな刃。こちらも刃を下から掬い上げ、腕の付け根で切断する。

 と、急に背後から何かが来るのを感じ、真鉤は咄嗟に前に跳ぼうとした。間に合わなかった。凄まじい衝撃を背中に受け、真鉤は転がりながら吹っ飛んだ。何だ。後ろに敵はいなかったのに。蟹達の真っ只中に飛ばされた。まずい。幾つもの刃が襲ってくる。跳ね起きようとして足に力が入らないことに気づく。一瞬、真鉤は死を間近に感じた。

「あっ」

 南城の声。どうしたと考える暇もなく、真鉤は片手で地面を叩いて腕の力だけで飛び上がった。刃の一つが左肩を掠ったが深い傷ではない。空中で南城の姿を確認する。口元を手で覆ってこちらを見ている。そうか。今の声は吹っ飛ばされた真鉤を心配してのものか。彼女の近くに蟹は迫っていない。落下する真鉤を待ち受ける大蟹は十二体。背中の痛みが今になって来た。刃物によるものではない。ああ、あれか。長い尾のようなものの先についていた丸い錘。あれを振り回されて、死角から食らったのだ。足の感覚が戻ってきた。脊髄を切られてもすぐ治る体質だ。

 こいつら、残らず始末してやる。

 真鉤は集中する。集中する。殺意は何処までも冷たく冴えていく。神経を研ぎ澄ませ、あらゆる方向の敵を感じ取る。最小限の知能しか持たない怪物達の殺気が真鉤の肌をヒリつかせる。数十の刃を、鞭のようにしなる錘つきの尾を感じる。自分の武器を感じる。左手に握った蟹の腕。その一メートル半の刃は今、自分の体の一部だ。殺す。敵の急所を意識する。関節を狙う。

 真鉤は鋭く分厚い、一枚の刃となる。

 着地と同時に鎌状の刃で四本の腕を切断した。すぐ伏せてまた刃を振り、三体の脚をまとめて薙ぎ払った。硬い殻が砕け筋繊維の切れる感触。背中に迫る切っ先を感じる。距離は五十センチ。三十センチ、十五センチ、十センチ。五センチ。上体を屈める。躱した。刃の腕部分を持って振る。リーチの伸びたこちらの刃が敵の腕を切断する。錘が来る。長い尾に操られたハンマー。避ける。叩きつけられた錘の重い衝撃が地面を伝わっていく。回り込む蟹達。取り囲んでくる。蟹の体液で出来た水溜まりを踏んだ。体勢をコントロールして滑ることなくまた跳ぶ。刃を振る。錘をつけた鞭を切断する。脚が散らばる。歩けなくなった蟹の胴を蹴り倒す。降ってくる刃の側面を掌で叩き、必要最小限の動きで躱した。刃を振る。切れた尾を拾い上げて武器にする。振り回して蟹をぶっ叩く。遠心力をうまく乗せると硬い甲羅にヒビが入った。敵の死を感じた。衝撃で内部の急所が破壊されたらしい。また殺した。刃を振る。鞭を振る。敵の刃を右手に、敵のハンマーを左手に持ち、真鉤は冷たい殺戮機械となって動き続けた。

 動きを止めた時、死体と黒い血溜まりの中に、真鉤は立っていた。

 どれくらい戦っていたのか、分からない。何時間も経ったような気もするが、実際には数分くらいだろう。もしかすると一分も経っていなかったかも知れない。

 生きている敵の姿はない。途中で増援があった。戦っていた間は数えていたが、終わったら忘れてしまった。

 冷たい静謐の時間は過ぎ、真鉤はちょっとした充実感を覚えながら、両手の武器を見下ろした。鎌状の刃がついた腕と、先端に丸い錘のついた長い鞭。黒い返り血を浴びて真鉤の服はドロドロだ。ああ、マフラーがひどい有様だ。真鉤は腹が立ち、奈美に申し訳なく思い、そして、まともな思考を取り戻した。

 大切なのは生き残ること。それと、南城を守ることだった。

 南城優子は生きていた。最初の場所から移動していない。戦闘の間、彼女を死なせないように気をつけていたかどうか、真鉤は自分でも分からなくなった。彼女の呼吸を感じた。荒くなりそうなのを、必死に押さえつけているような呼吸音とリズム。真鉤は振り返った。

 南城に怪我はなかった。足元に大蟹のちぎれた脚が転がっていたが。彼女の視線は悪い意味で、真鉤の予想通りのものだった。

 嫌悪感と、恐怖。

 彼女は催眠術などが効かない特殊な体質で、そこらの格闘家ばりのパンチを打ち、吸血鬼の恋人がいる。色々と修羅場をくぐったとも聞いている。でも、やはり、ただの人間だ。殺人鬼の解体ショーを目の前にして平静を保てる筈もない。悲鳴を上げなかっただけでもありがたかった。

 真鉤が戦うところを南城に見られたのはあの時くらいか。病院の廃墟で日暮と殺し合いをした時。彼女は奈美と一緒に、心配そうに見守っていた。

 今は、日暮静秋はいない。

 真鉤は彼女に声をかけることが出来ず、自分の状態を再点検した。幾つも傷を負ったが、既に回復していてダメージは残っていない。疲労も無視出来る範囲だ。異世界でも真鉤は元気だった。

 もう敵は出てこないか。穴の下に生き物の気配はあるが、動かないし殺気も感じない。これで本当に、一段落か。この塔の天辺でじっとして、楡の救助を待っていればいいのか。救助が本当にあるとすればだが。何日後か、何ヶ月後か。それとも、何年か。食糧はどうする。こいつらの死体を食べるのか。真鉤は大丈夫だろうが、南城はそんなことに耐えられるのか。

 真鉤は、穴の奥を確認することにした。奴らの巣はどの程度の広がりがあるのか。どれくらいの敵が隠れているのか。近い方の穴は下がすぐ横穴になっていて奥が分からないが、四つあるうちの大きな穴はどうだろうか。真鉤は南城への不意打ちなどがないよう気をつけながら、径四メートルほどの穴に近づいてみた。

 他の穴と違い、そこはポッカリとした空洞が下に広がっていた。真鉤の目は暗闇でも見通せるが、光源らしきものがないのに奥まで明るかった。そして真鉤は見た。

 巨大な塔の内部は、薄く濁った液体で満たされていた。水面はここから四十メートルほど下。水底が何処まで深いのかは濁りのせいで分からなかった。もしかすると塔の根元まであるのだろうか。

 内壁には幅数メートルの出っ張りがあり、螺旋階段みたいに穴のすぐ下から水中まで緩い傾斜で続いている。奴らはこれを伝って移動しているのだろう。

 水中に、イソギンチャク達がフワフワと浮かんでいた。触手のちぎれたものも、無傷なものも。避難した赤いトドも浮かんでいた。頭を潰され回収されたトドもやはり浮かんでいた。泳いでいるのではなく、ただフワフワと、浮かんでいた。

 それらに混じって、人間の死体が、浮かんでいた。着物姿の女性。だと思う。肉がかなり溶けて、白骨化寸前の状態だった。攫って食べた残りをここに捨てたのか。……いや、この液体の中で溶かされたのではないか。食虫植物のウツボカズラみたいに。獲物だけを溶かして栄養を吸収し、同時に兵隊達に栄養を与えているのでは。

 もう一つ、人間の男も浮かんでいた。体格から多分、男だ。腹部が溶けて破れ、中身の腸がはみ出しそれも溶けかけていた。頭部も髪はほぼ失われ一部は骨が見えた。眼球が白く濁り、しぼんでいる。

 真鉤はゾッとした。

 死体だと思ったのに。

 男の眼球が、ゆっくりと動いていた。それと、溶けかけた指も僅かにヒクついている。水に揺られているためかと思ったが、やはり、明らかに動いている。

 生きたまま溶かされるのか。いきなり異世界に攫われた者達の、これが末路なのか。

 理不尽だ。圧倒的な、理不尽。

 だが、この世がそもそも理不尽であることを、真鉤は既に知っていた。

 男を今から助ける手段はなかった。止めを刺して楽にしてやりたい気もするが、わざわざ赤の他人のために溶解液に飛び込むつもりもない。真鉤は新たな戦闘員が控えているかどうか、薄く濁った水に目を凝らして確認した。イソギンチャクはもう出てこないだろう。蟹は、水面付近で丸まっているのが三体。他には……ずっと下にそれっぽいのが五体見える。その更に下は……。

 真鉤は縦に深い水の奥に、大きな気配を感じた。濁りのせいで見えないが、親玉のようなものがいる。

 その気配が真鉤を認識しているのを感じた。明確な殺意はない。下僕を生んで命令するだけで、戦闘能力はないのかも知れない。

 今のところ、不必要にお前らを殺すつもりはない。だから、お前らも僕達を襲ってくるな。真鉤はそんな気持ちを込めて水の奥を睨んだ。相手に伝わることはおそらく、ないだろうが。

 蟹達は動き出さなかった。真鉤は穴の縁から離れ、南城の近くへ戻った。

「下はどうなってるの」

 南城が尋ねてきた。

「まだ敵がいますが数は少ないです。動かないので暫くは大丈夫だと思います。……見ない方がいいですよ」

 真鉤は言葉を選びながら答えた。生きたまま溶かされてる人がいます、などとは言えない。

「そう。で、ここって何処なの」

 また聞かれた。ある程度は説明しないといけないか。

「最近、人がいきなり消える、というか、行方不明になる事件が増えてましたよね。どうも、攫われてここに運ばれていたみたいです。僕達もそうなったみたいで」

「ふうん。……で、ここは何処なの」

 ……。仕方ないな。

「天狗の里、ということになるみたいです。神隠しじゃなくて、天狗による天狗隠しらしいので」

 真鉤が伝えると、南城は首をかしげて考えている様子だったが、やがて合点がいったような顔で言った。

「あ、そう。天狗のせいだったの。なら帰れるんだ。天狗に攫われたけど帰ってきたって話あるじゃん」

 え、それでいいんですか、と真鉤は思わず聞き返しそうになった。この状況で、そんな楽観的な解釈が出来るのか。絶望して自殺されるよりはいいのだけれど。南城は独り言みたいに続けた。

「でも帰ってくるまで何ヶ月も経ってるって話もあるなあ。受験の時期を過ぎちゃったら困るなあ……」

 この人は心の何処かが欠落しているんじゃないか。さっきまでは確かに怯えていた。真鉤は生きたまま溶かされている人を見て暗澹たる気持ちでいるのに、彼女の方は立ち直ってあっけらかんとしている。何なんだ。

 それから南城はふと思い出したように厳しい顔になって、「あ、今までの会話、忘れてよね。あんたとは喋らないことにしてるから」と言った。

 なんだかなあと思いながら、真鉤は「ええ、忘れます」と頷いた。

 場に静寂が訪れた。真鉤は腕時計を確認した。午後二時十七分。トワイライトを出たのは何時だったか。一時半頃だったと思うが。

 どれくらい経てば、楡は来てくれるだろうか。或いは、永遠に来ないのか。この世界に話の通じる生き物がいれば、自力で帰り道を見つける可能性も少しは出てきそうだが。

 穴の下の気配に変化はない。空は……彼方に飛んでいる群れがあった。三十数体。黄色の生き物で、遠くてまだどんな姿をしているのかまでは分からない。

 その群れが、こちらに向かっているように見える。たまたまか。それとも、増援だろうか。

 増援だとすれば、いつくらいに到着するだろうか。何十分かは猶予があるかな。

 逃げることが出来ればいいのだが、真鉤達はこの塔の屋上しか居場所はない。少しは対策しておくか。真鉤は錘つきの尾を置き、死んだ蟹の胴体を拾い上げた。刃の生えた腕を置かないのは不意打ちに備えてのことだ。

 蟹の死体を引き摺っていき、南城の前に置いた。怪訝な顔の彼女に説明する。

「次の攻撃がありそうなので、バリケードを作っておきます。何もないよりは、少しは安全かと思います」

 死体を目の前にして南城は嫌そうな顔をしたが、何も言わなかった。反対を唱えても自分の生存率が下がるだけだからな。

 真鉤は蟹達の部品を拾っては、隅に座る南城を狭く囲むように積み上げていった。簡単に崩れないよう、脚や腕を互いに絡ませておく。十数体分の蟹の部品で、一応柵らしきものが出来た。高さ一メートル弱で、敵がその気になれば簡単に乗り越えられそうだが、飛び道具などの被害は防げるだろう。真鉤が切り飛ばした腕が彼女に突き刺さるような事態がないとも限らないし。本当は蟹の甲羅をかぶってカモフラージュしてもらうのがベストだったが、真鉤も流石に死体をかぶれとは言えなかった。

 死体の匂いは少しすっぱく、生臭さはない。いざとなったら食べることも出来そうだが……。

 また空を飛ぶ群れを見る。やはり、こちらに近づいているようだ。下の気配はまだ動かない。穴から覗いてみる。蟹はまだ出てきていない。

 さて。後は待つしかないか。真鉤は錘つきの尾を拾い、バリケードのそばに腰を下ろした。

 藤村奈美はどうしているだろうか。いなくなった真鉤のことを心配しているだろうか。楡先生との相談に同席してもらっていて良かった。そうでなければ彼女は完全に絶望していたかも知れない。もう楡先生と連絡はついているだろうか。

 まさか、本当に、救助もなく、ここで一生を、過ごすなんて、ことは……。

 真鉤は何度目かになる疑問を振り払い、正気を保つため他のことを考えようとした。一葉大学の過去問のこととか。数学の問題で解答を見てもさっぱり分からないものがあった。でも、集中しても、その内容を思い出すことは出来なかった。ふと思った。南城の楽観的な発言は、正気を保つために無理して絞り出したものなのかも知れない。真鉤は時折南城を見た。彼女は何か不満そうな顔で、膝を抱えてじっとしていた。

 黄色の群れが塔に着いたのは意外に早く、十九分後だった。それまでに真鉤は敵の詳細を確認していた。黄色のトドが、黄緑色の大蟹を抱えて運んでいたのだ。空挺戦車を飛行機が運ぶみたいに。戦闘員である蟹の数は三十四体。なんとか対処出来ないこともないだろう。

 問題は、更に別の群れがこちらに向かっていることだ。同じようにトドが蟹を運んでいるのだが、こちらのトドは茶色で、蟹は明るい赤……朱色に近かった。こいつらも後数分で着くだろう。そして彼方には第三の群れも見えている。畜生、エンドレスか。

 いいさ、とことんやってやる。

 来襲した黄色のトド達は着地せず塔の上を通過し、黄緑色の蟹を落としてきた。南城に近いものへ真鉤は駆け寄り、敵が着地する前に錘で打ち返した。相手の重量にこちらの速度とパワーが勝り、飛ばされた大蟹はもがきながら塔の外へ落ちていく。もう一体、着地したばかりのところを刃で薙ぎ払い、脚をまとめてぶった切った。

 残りの蟹達の殆どは無事に塔に着地していた。穴の下の気配も動き出す。挟撃だな。集中して、全て殺さないと。と、おかしなことに気づく。黄緑の蟹達の一部は真鉤と南城でなく、穴の方へ向かっているようなのだ。下から出てきた黒い蟹が錘を振るい、黄緑の蟹と打ち合い始める。

 こいつらは仲間ではなかったのか。種は同じでも群れ同士は敵対していたのだ。真鉤がこの塔の群れを殺しまくって弱らせたので、他の群れがチャンスと見て襲ってきたらしい。

 なら、互いに殺し合わせていればいいか。真鉤は防戦主体となり、こちらに向かってくる蟹を処理するに留めた。黄緑の蟹達の約半数が穴の中へ消えていた。下でも戦いが続いているようだが、こっちの蟹は残り少なかったからおそらく負けるだろう。その後はどうなるのだろうか。巣を丸ごと乗っ取るのか、それとも水中のボスらしきものを殺して、食糧として持ち帰るのか。黄色のトド達は蟹を投下した後、塔の周りを跳ねて回っていた。

 真鉤は刃を振り、錘つきの鞭を振り続ける。蟹達は悲鳴を上げないし表情もない。ただ動きが弱って倒れていく。武器を打ち合わせる硬質な音が響くだけの、静かな殺戮だった。

 塔の上にいる蟹は残り九体。穴の中の戦闘は終わったのか、音が聞こえない。バリケードは壊されず、南城も無事だ。真鉤は次に備えて体調を確認する。疲労はまだ浅い。幾つか傷を負い、敵の錘で左腕の骨が折れたがもうすぐ治る。

 新しい群れが到着した。

 茶色のトドに朱色の蟹。これも最初に襲撃した群れとは別勢力のようで、投下された蟹達は黄緑の蟹を襲い始めた。真鉤はひっそりと後退し、乱戦からうまいこと逃れることが出来た。バリケードの中の南城と一瞬目が合う。何か言いたげな顔だが、まあ、いいか。真鉤は蟹の死体のバリケードに背を預けて座り、気配を消した。真鉤の隠形が彼らに通じるかは分からないが、目がないので真正面にいるのにばれない可能性もある。群れ同士の戦闘で餌のことは後回しらしく、南城に向かってくる蟹もいない。

 塔の周りを黄色のトドと茶色のトドが飛んでいる。仲間同士で固まって。蟹達の決着を待っているようで、離脱もしないし互いに戦いもしない。

 更にまた別の群れが近づいてくるのが見えた。いい加減にしろ、と真鉤はうんざりしてくる。この陣取り合戦はいつまで続くのか。元々は真鉤がこいつらのパワーバランスを崩したのがきっかけなのだが、だからといって大人しく食われる訳にもいかなかったし。

 と、その群れの後方に巨大な別の生き物がいた。蛇やミミズみたいに体は細長く、ウネウネとうねりながら空を泳いでいる。トドよりも相当スピードがあり、あっという間に群れに追いついてしまった。トドと比べるとその大きさが分かる。体長は二百メートル以上あった。

 群れはパニックを起こしたのか、バラバラに散って逃げていく。それを巨大な蛇が飛びついて、ラッパ状に開いた先端があっけなく呑み込んでいった。蛇の体は白くて半透明で、トドや蟹達が体内を流れていくのが透けて見えた。

 おい。まさか、こっちに来るのか。

 真鉤の懸念通り、群れを食い尽くした巨大な蛇は、真鉤達のいる塔へ真っ直ぐに向かってきた。速い、ぞ。大蟹を丸呑みするような二百メートルオーバーの相手に、蟹の刃で対抗出来るのか。これは……穴の中へ南城を連れて避難すべきか。

 迷っている間にも大蛇はどんどん近づいてくる。トドと違って水面を跳ねもしない。真鉤は仕方なくバリケードを飛び越し、錘つきの鞭は捨てて南城を抱え上げた。

「何」

 眉をひそめて嫌そうに彼女は尋ねる。

「目を閉じていた方がいい」

 真鉤は早口で告げると、刃と錘を打ち合わせている蟹達の隙間を抜け、一番近い穴に飛び込んだ。

 この先は横穴で、溶解液の池に直接繋がっていないことは知っていた。奥で黒い蟹と朱色の蟹が一対一でやり合っている。真鉤は近づき過ぎないように壁際で身を屈めた。

「下ろせよ」

 南城が乱暴な言葉を吐く。状況が分かっていれば反応は違っただろうに。蟹達も大蛇の接近に気づいたようで、戦闘音が消えて気配が足早に移動している。襲撃側の群れはここから逃げるつもりだろうか。間に合うとは思えないが……。

 風を感じる。巨大な質量の接近。猛然と加速して、来る。ガジャガジャ、と硬いもののぶつかり合う音が上に消えていく。出口へ向かう強い風。これは、吸われているのか。南城の髪が逆立つ。

 真鉤は穴の外を見上げた。茶色の壁に遮られた狭い視界を、半透明の白いものが占めていた。巨大な蛇の、目一杯開いた口の内部。牙や舌はなく、ただおろし金やヤスリみたいなギザギザが内壁をみっしりと覆っていた。獲物は吸い込まれて潰され、あれですりおろされ、消化されるのだろう。トドや蟹達とは違ったシステム。

 風が更に強くなる。大蛇が吸っている。蟹が宙に浮いて口に呑まれ、ヤスリで削られながら奥へ転がっていくのが見えた。真鉤は右手の蟹刃を壁に突き刺し、吸い飛ばされないように努力する。下で液体がざわめく気配。溶解液の池も揺れている。

 蛇の口が近づいてくる。ぎりぎりまで来る。衝撃が伝わってきた。蛇の口が塔の天辺にぶつかったのだ。このまま塔の中身を啜り尽くすつもりか。風圧が……。

「何、こ……」

 南城が言いかけたところでバギャッと凄い音がした。塔の屋上が、筒型容器の上蓋でも取るように剥ぎ取られたのだ。茶色の巨大な板が、蟹達がしがみついたまま舞い上がり、クルクル回りながら砕け削れ大蛇に呑まれていく。

 南城も上を見た。塔に口を寄せて、茶でも啜るように勢いよく吸っている巨大な蛇を見た。彼女の目が見開かれ、表情が固まった。瞳孔が一杯に拡大し、すぐ極端に縮瞳し、また散瞳した。顔からみるみる血の気が引いていく。

 真鉤達を隠していた屋根は完全に失われた。横穴の先も持っていかれて下の池が見える。蟹の群れは既に吸われて殆ど残っていない。溶解液の水面が揺れ、持ち上がっていく。中に浮かぶイソギンチャクがもがいている。

 強く引かれる。しっかり抱えていないと南城も持っていかれそうだ。彼女は瞬きもせず凍りついている。大丈夫か。呼吸は……しているようだが。ちょっとしたショック状態かも知れない。

 踏ん張っていたが真鉤の体も浮きかける。壁に刺していた蟹の刃が抜けそうになる。靴を脱いでおくべきだった。素足なら足の指の力でもっと体を固定出来たのに。そう考えた途端、頼りの壁が丸ごとちぎれ、真鉤達は宙に浮き上がった。

 吸われる。まとめて吸い上げられる。トルネード状になった溶解液が横を昇っていく。大きく広がった大蛇の口が待ち構えている。このままだと死ぬ。崩れた体勢から、真鉤はくっついてきた壁を蹴ってなんとか跳んだ。近くにいたイソギンチャクを蹴り、更に遠くへ。だが大蛇の吸引力の方が強い。引っ張られ、口の中へ。

 真鉤、は、蟹の腕を、伸ばし、刃の先端を、別の壁の破片に、引っ掛け、引き寄せ、蹴り越えた。蟹の胴にまた、引っ掛け、蹴る。吸われる。姿勢を、コントロールし、真鉤は足を、右足を、伸ばす。壁の破片。南城に当たりそうに、なり、避ける。右足が、大蛇の口の、内壁に、ついた。よし。

 真鉤は大蛇の口の裏を駆けた。ヤスリのような尖った出っ張りも滑り止めには都合が良かった。わざと靴を削り潰し、靴下もすぐ破れ素足で出っ張りを掴んで駆ける。飛んできた蟹の部品。脚の一本。避けたら南城に当たりそうだったのでわざと頭をぶつけて受けた。こめかみが裂けたが大した傷ではない。強力な風に引っ張られながら真鉤は駆け、大蛇の口の端へ、蟹の刃を伸ばす。ぎりぎりで届く。届け。

 そこに、別の蟹の刃が飛んできたのだった。バリケードにしていた部品だったか、蟹同士の戦闘でちぎれたものか。このままだとエッジが真鉤の右肘に当たる。だが腕を引っ込めればこちらの刃を大蛇に掛けられず、また口内に吸い込まれるだろう。そうなれば、もう一度脱出出来るかは運任せでしかない。

 瞬間、真鉤は選択した。右腕を伸ばして握った刃の先端を大蛇の口の端に引っ掛け、体を引き寄せる。飛んできた刃はその重量で真鉤の右肘に食い込んでい、き、ぎりぎり残った筋肉で引き寄せに最後の力を込めた。肘がちぎれ、刃は真鉤の前を通り過ぎていった。なんとか、勢いがついた。左腕は南城を抱えているし、もう足しか使えない。これで失敗すれば終わりだ。

 だが真鉤は失敗しなかった。精密なバランスコントロールで足を掛けた。大蛇の口の縁から翻り、その外側、大蛇の体表へ駆け上がった。足だけで壁を登るという常人には不可能な作業も、真鉤は南城を抱えてこなすことが出来た。素足になっていなければ危なかったが。登り、登り、大蛇の頭の上に着く。といっても目も鼻もなく、頭と呼んでいいのかは怪しかったが。触角があった。三十センチほどの長さのものが数メートル間隔で並んでいる。引きちぎるだけの腕も余裕もないので放置するしかない。

 右肘の出血は止まっている。正確には、断端は肘の少し上だ。これでは殆ど役に立たない。以前、ちぎれた指が生えてきた経験があるので再生するのは分かっているが、元通りになるまで何日もかかるだろう。足の裏は肉が削り取られてズタズタになっていた。左足の小指と薬指が欠けている。まあ、食われるよりはましだな。痛み、ああ、そういえば痛いよな。痛みというものに慣れ過ぎて、真鉤にとっては単なる情報の一つになってしまっていた。

 体が半透明のため、真鉤の下、大蛇の内部を転がっていく蟹達の輪郭が見えた。イソギンチャクも。おそらくはあの、まだ生きていた人間の男も吸い込まれただろう。ゆっくり溶かされ続けるよりはましな末路だろうか。塔の方を見る。溜まっていた液体はかなり飲み干されてしまい、底の方に蠢くゼリー状のものが見えた。あれが、群れの長だろうか。灰色の塊で幾つか紫の斑がある。それも結局は吸われ、グジャグジャと変形しながら大蛇の中へ消えていった。

 これでこの塔は全滅か。周囲を飛んでいたトド達もとっくに食われたようで姿が見えなかった。大蛇が塔から口を離す。食い尽くしたので去るつもりのようだ。

 真鉤はまた判断を迫られることとなった。このまま大蛇に乗ってついていくべきか。それとも、飛び降りて空になった塔に戻り、静かに救助を待つべきか。どちらが安全だろうか。今のところ体にへばりついた真鉤達を大蛇が攻撃する気配はないが、飛行中に振り落とされたり危険な領域に突っ込まないとは限らない。右腕がない状態では難易度が高いだろう。だが、今大蛇から離れたら、すぐに餌と認識されてまた吸われるかも知れない。それに、塔を新たな群れが襲撃してこないとも限らないし、大蛇にくっついていた方が他の生き物に襲われるリスクは少ないかも知れない。

 どちらにもリスクはあるが、真鉤としては大蛇に乗っている方が安全な気がした。しかし、南城の様子がおかしかった。大蛇を見てから動けなくなってしまったようで、全身の力が入らずグンニャリしている。目を見開いているが意識はあるのか分からない。発作なのか。何かあるのか。どうも、大蛇から離して休ませた方が良さそうだ。刹那にそこまで考えて決断し、真鉤は大蛇の動きに集中した。長い胴を宙に浮かせていた大蛇は吸引をやめ、口をすぼめていった。目一杯広がっていた口がどんどん小さくなり、巾着を絞ったみたいに完全に閉じてしまった。

 頭を持ち上げ体を反らし、塔から離れていくのを察し、真鉤は南城を抱いて静かに飛び降りた。気配を殺して、ただのゴミが滑り落ちるように。

 真鉤は無事、塔に着地した。大蛇は襲ってはこなかった。大量の餌を呑んだ腹をうねらせながら、悠然と飛び去っていった。

 屋上の床は大部分失われ、残った畳二畳分くらいの出っ張りに真鉤は腰を下ろした。もう生き物はいない。池も空っぽだ。何もなくなってしまった。

「大丈夫ですか」

 横たえた南城に声をかけてみる。

 彼女の目は瞳孔が開いたまま、やはり動かなかった。ただ、口が僅かに動き、小さく虚ろな声を、洩らした。

「ときが……おいつかれた……」

「追いつかれたんですか。何に」

「……にげたのに……しずあきに……たすけ……やっぱり……」

 声は更に小さくなった。普通なら聞き取れないくらいに。だが、真鉤の耳は聞き取っていた。

 彼女は確かに「いけにえにされる」と言った。

 南城の目にじわりと、涙が滲んできた。

 真鉤は彼女に告げた。なるべく優しい声音で。

「大丈夫です。もう敵はいません。日暮君が迎えに来るまで、休んでいましょう。大丈夫ですよ」

 南城の目が、ゆっくりと閉じていき、溢れた涙が顔を伝い落ちた。呼吸が安定し、皮膚の血色も戻ってきた。

 眠ったようだな。真鉤は軽く溜め息をついた。腕時計を見る。午後三時三十八分。この世界に来て二時間以上が過ぎた。腕時計は左手首にある。切られたのが右腕で良かったな。

 空は相変わらず緑一色で、風は冷たかった。

 楡は来てくれるのか。ここで死ぬことになるのか。

 後は、待つしかなかった。

 

 

  三

 

 最初は小さな点だった。緑色の空に小さな黒点が一つ。いつからあったのか分からず、これが広がっていってこの世界に夜が来るのかと真鉤は考えたりした。

 黒点は見ている間に少しずつ大きくなり、黒ではなくなってきた。光が差す。中に景色が見えてくる。直線、人工物のような……。

 と、急に拡大スピードが増して、黒い点だったものは四角の部屋になった。壁一枚だけ取り去られて内部が見える。真鉤はこの部屋を知っていた。真鉤の通う白崎高の、カウンセリング室。

「無事のようですね」

 『ミキサー』楡誠がいつもの上っ面な微笑を浮かべていた。

 片腕がないのを無事と呼んでいいのかは分からないが、生きているのは確かだ。真鉤達は生きている。そして、元の世界に帰れる。その実感が沁み渡ってきて、真鉤は危うく涙を零してしまうところだった。

「ありがとう、ございます」

 真鉤はなんとか、それだけ言えた。

 楡は壁のない、床の縁ぎりぎりの場所に立っていた。床や壁の断端は綺麗な平面で、切断して部屋を移動させたのではなく、空間の繋ぎ方の問題かも知れない。真鉤にはさっぱりだが。

 楡のそば、机に尻を乗せて日暮静秋がいた。彼も楡についてきたのか。わざわざ異世界まで、南城を助けに。

「優子の奴も無事か。取り敢えず、息はしてるな」

 日暮は平静を装っていたが、キリキリと張り詰めた雰囲気から、彼女のことをかなり心配していたことが分かる。

「今は眠っている。ただ……」

 カウンセリング室は空を滑って塔に近づき、距離が数メートルになったところで早速日暮が飛び降りた。音も立てずに着地して南城の首に触れる。

「うん。大丈夫だ。怪我もしてねえ」

 日暮は頷いた。

「巨大な蛇が襲ってきた。いや、どっちかというとミミズっぽかったかな。長さが二百メートルくらいある奴で、それを見て、様子がおかしくなった」

 真鉤は簡潔に説明した。日暮は片方の眉を少しひそめ、南城を抱き上げながらボソリと言った。

「トラウマ……ってより、そういう仕組みが残ってるんだろうな。こいつの家系はな……」

 日暮はそこで口をつぐんだ。

 真鉤は日暮に彼女を紹介された時から、ちょっと不思議な人という印象を持っていた。生命力に溢れ過ぎているような……はっきり言ってしまえば、殺人鬼として妙にそそられるタイプの人間。特殊な家系ということは聞いていたし、日暮が彼女の父親と争ったことも詳しくはないが知っている。だが、それだけだ。真鉤は人の事情に首を突っ込むつもりもなかったし、日暮も話を続けることはなかった。

「真鉤君の右腕と足の指ですが」

 楡が言った。カウンセリング室は塔の端にピッタリと接着していた。

「百三十六個に分解されて他の生物の血肉とも混じっていますね。回収しておきますか」

 真鉤は苦笑して首を振った。

「いえ、いいです。生えてきますから。……それで、僕につけた『印』は、見つけるのに役に立ちましたか」

「アンカーですね。役に立ちましたよ。この世界には来たことがありましたし、特に難しくはなかったですね」

 何でもないことのように楡は話す。この人は、そういう人なのだ。

「ちなみに後二時間到着が遅れたら危険でしたね。この世界の大気は、周期的に電磁波も音波も通さなくなりますから」

 何も見えず聞こえない状態になっていたということか。それで戦うのは真鉤にも不可能だ。この世界の生物に目も耳もなく、おかしな触角だけだったのはそのためだったのか。

「本当に、助かりました。このまま一生帰れないかと。こんなにあっけなく攫われるなんて、思ってませんでした。トドみたいな怪物でしたけど」

「トリーシュデリの狩猟体ですね。昔から天狗と呼ばれていたものが彼らであったのかは分かりません。彼らの爪は空間の境界抵抗を弱める性質があります。君達が自力で元の世界に帰還するのは難しかったでしょうね。無理に境界を越えようとすると構造が破壊されたかも知れません」

 よく分からないようなちょっと恐いようなことを言う。あのトド達はトリーシュデリというのか。と、真鉤は疑問に思う。

「どうしてあいつらの名前を知ってるんですか。命名する人がそもそもいなさそうですけれど」

 真鉤が尋ねると、楡は微笑したまま小首をかしげてみせた。

「生物には元々種別に名前がついていますが」

 これ以上突っ込んだら頭がおかしくなりそうな気がしたので、真鉤は諦めた。助かったのだから、それでいいのだ。

「部屋に入って下さい。元の世界に帰る前に、ここを潰しておきましょう」

 えっ。楡がまた、変なことを言った。

「ええっと、ここというのは……」

「この世界です。世界を丸ごと消し去ることは私にも不可能ですが、空間を圧縮してトリーシュデリを全滅させることは可能です。それで、今後生徒が攫われて食料となるリスクを回避出来ます」

 真鉤は数瞬、絶句する。この世界がどのくらい広いのかは知らないが、楡が可能というなら可能なのだろう。だが、そこまでするのか。そこまでやってしまっていいのか。

 日暮は南城を抱えてさっさとカウンセリング室に上がった。チラリと真鉤に送った視線に、「俺は干渉しないぞ」というメッセージを感じた。

 仕方なく、真鉤は尋ねてみた。

「あの……でも、彼らには彼らの生態系があって……いや、それに、ここの空間を歪めて彼らを絶滅させたら、他のところにおかしな影響は出ないんでしょうか。僕達の世界にも……」

「それは分かりません。しかし、放置すればリスクがあることは間違いありません。どちらを優先するかは自明ではありませんか。もし君が他に良い方法を提案出来るなら考慮しますが」

 真鉤は、楡誠を心底恐ろしいと思った。この人は、ちょっとした思いつきで人類を絶滅させかねない。そして真鉤は同時に、自分のことを情けないと思った。中途半端な倫理観と力しか持たず、綺麗事をほざきながら自分と親しい人達を守ってもらおうなんて。

 真鉤は言った。

「他に良い方法は、思いつきません」

「そうですか。では部屋に入って下さい」

 楡の指示に従い、真鉤は軽く跳んで塔を離れ、カウンセリング室の床に立った。瞬間、空気の質が変わった気がした。この室内は既に元の世界なのだろうか。エアコンは、動いていないようだが。

 真鉤が部屋に入ってすぐ、ペキョン、という感じの軽い音が聞こえた。

 振り返ると塔が消えていた。倒壊した、のではなく、見えない巨大な手で上から押し潰されたみたいに、凄い勢いでクシャクシャと丈が短くなっていくのが見えた。楡が嘗て見せた、人間の真空圧縮パックみたいに。彼方に見える幾つかの塔も同様に潰れていった。空を飛んでいた何か……多分あの大蛇だったのだろうが、水面に叩き落とされるのが見えた。そこでふと、他に攫われてまだ生きている人間がいたかも知れないと真鉤は気づいた。でも、もう遅い。皆死んだ。この世界の生き物は皆、潰れて死んでしまっただろう。

「帰りましょう」

 楡が言った。部屋から見える景色が薄暗くなっていき、完全な闇と化した。

「おや、真鉤君、どうしました。恐怖しているようですが」

 急に楡が近づいてきて、真鉤の顔に自分の顔を寄せた。微笑したままで固まった、人形のような顔。真鉤は反射的に後ずさりしそうになったが、床の端からはみ出ると危険なのでこらえた。

「ふむ……。私の力に恐怖していたのですね。私が人類を滅ぼすのではないかと」

 全く感情の篭もっていない瞳が真鉤を観察していた。恐怖という言葉を口にしながら、この人は恐怖というものを感じたことがないのだろうと真鉤は思う。

「真鉤君、心配は要りませんよ。私は人類の個体数を減らすことはあっても、絶滅させるつもりはありません。私の求めるものを、人類は持っているようですから」

 真鉤は「そうですか」としか言えなかった。日暮と目が合った。南城をお姫様抱っこしたままで、彼は肩を竦めてみせた。

 楡は真鉤から離れ、自分の椅子に座った。部屋を囲む闇は変わらず、動いている感じもないが多分世界間を移動しているのだろう。

「目が覚めたら、全部夢だったと思うかも知れないな」

 眠っている南城の顔を見守り、日暮が言った。

「楡さん、感謝するよ。あんたがいなかったら、こいつとはもう二度と再会出来なかっただろうからな」

「礼には及びませんよ。飽くまで真鉤君を救助するついででしたから」

 楡は澄まし顔で応じる。本気で言っていることを悟ったのだろう、日暮は苦笑を浮かべて呟いた。

「全く、運がいいのか、悪いのか、な……」

 それから彼は真鉤を見て言った。

「ありがとうよ。こいつはお前にひどいことを言ったかも知れんが、よく見捨てないでいてくれたな」

 南城の真鉤に対する憎悪を、日暮も知っていたのだ。

「君には幾つも借りがあったしね。これで一つ分は返せたかな」

「ああ。全部返したことにしてもいいぜ。大盤振る舞いだ」

「それはありがたいな」

 日暮の口調は冗談っぽかったが、真鉤は少し、気持ちが楽になった。

 部屋の外は相変わらず闇だ。もう二分くらい経ったか。元の世界に帰るまでどのくらいかかるだろう。でも良かった。奈美は心配しているだろう。マフラーを汚してしまったけれど。とにかく良かった。

「元の世界に着きましたよ」

 楡誠があっさり告げた。

 お、もうか。真鉤が振り返ってみると闇だった空間に壁があった。

「意外に早かったですね。……ああ、攫われた時も一瞬でしたし」

「ふむ、君達にとってはそうかも知れませんね。実際には行きと帰りで輸送個体数に差がありましたから、着地点がずれているのですが」

 えっ。どういう意味だ。個体数って、真鉤と南城の二人のことか。

 楡誠の背後でおかしなことが起きていた。壁の掛け時計。その短針と長針が凄い勢いで回っている。

「あの、それは」

 真鉤が指差すと楡が言った。

「学校の掛け時計は有線で時刻を自動修正されています。元の空間と繋がったので修正機能が働いたようですね」

「ええっと、その、着地点がずれたというのは……」

「分かりやすく表現すると、タイムラグですね。帰還に百十八時間の遅れが生じたことになります」

「百十八時間……五日間くらいですか」

 攫われてからたった数時間で帰ってこれたと思ったのに、実際には五日かかった訳か。いや、帰ってこれただけありがたくて奇跡みたいなのだから、不満を言える筋合いではない。だが、奈美は大丈夫だろうか。五日間、心配して待ち続けていたのでは。

 腕時計を操作していた日暮が、やがて納得したように頷いた。

「電波時計で時刻を合わせた。今は木曜日の午後三時だ。ちょっとした浦島太郎かな。まあ、五日くらいなら大した影響もないか」

 掛け時計の針も、三時十三分くらいで止まっていた。

 土曜日だったのが、木曜日になってしまったか。真鉤は自分の腕時計を見る。午後五時二十三分。後で合わせておかないと。しかし、今は授業中か。勝手にサボっていることになってしまったな。日暮のポケットで機械の震動。異世界から電波圏内に戻ったため、送られていた五日分のメールが携帯に届いたのだろう。そしてすぐに、眠っている南城のポケットからも着信メロディが。

 真鉤のポケットの携帯が、震え出した。意外なことに、激しい戦闘でも壊れなかったらしい。真鉤は取り出そうとして右手がないことに気づき、左手だけで取り出し、開いた。もう震動はやんでいる。メールの着信。十七通。百通を超えたりはしていなかったので、真鉤はホッとしたような拍子抜けしたような妙な気分になった。真鉤にメールを送るのは奈美か、目の前にいる日暮か、マルキの伊佐美くらいしかいない。

 メールの殆どが奈美からのものだった。他に日暮からのと伊佐美からのが一通ずつ。

 奈美からの十五通のメールのうち、最初のものを開いてみる。新しいメールになるごとに内容が切迫したものになるのではと、ちょっとした怖さを感じながら。

 だが、メールの送り主は、藤村奈美本人ではなかった。

 

 

  四

 

 日暮静秋が執事に電話して、車で学校まで迎えに来てもらった。どれだけ飛ばしてきたのかと思うほど早く到着した老齢の執事は、真鉤のためにコートを用意してくれていた。それと、袖に詰めるための綿と、三角巾。再生するまでこれで右袖を吊り、怪我をしたことにして誤魔化す予定だった。

 日暮家の執事は倖月(こうづき)と名乗った。彼は人狼で、鎌神の件で会ったことはあるが人間の姿では初対面となる。完全な白髪や顔の皺などからは八十才以上にも見えるが、きびきびして無駄のない動作には底知れぬ力が潜んでいた。大事な日暮が無事に帰還した喜びを押し隠し、上品な執事の振る舞いを保っている。日暮を「静秋坊っちゃん」と呼ぶことを除けば。

 だが真鉤にはそんな細かいことはどうでもいい。これも用意してもらった靴を履いて、日暮達と一緒にリムジンに乗せてもらった。楡に瞬間移動で送ってもらえないかとも考えたが、どうやら百十八時間のタイムラグみたいに、生身の他人を送るのはリスクを伴うらしかった。

 かなりの速度で飛ばしてもらい、真鉤は病院の前で降りた。南城の方は念のため、これから日暮家傘下の病院へ連れていくとか。真鉤は礼を言って駆ける。

 狭川総合病院。藤村奈美が定期検査を受けている病院であり、今入院している場所でもあった。

 病棟のナースステーションで病室を教えてもらう。今回も個室だった。ドアをノックする。「はい」と女性の声が応じ、真鉤は「失礼します」と告げてドアを開けた。

 病室には三人いた。ベッドで横になっている藤村奈美と、今椅子から立ち上がった中年の男女。奈美の両親。母親とは何度か直接会っており、父親は真鉤が一方的に顔を知っている。

「真鉤です」

 挨拶する。だが真鉤は彼らの言動より、奈美の顔に気を取られていた。事前に連絡したから、父親経由で真鉤の無事は伝わっていた筈だった。

 彼女は笑顔だった。笑顔で真鉤を見上げていた。直接見て本当に安心したようだった。彼女は微笑んでいた。

 奈美は、今にも死にそうな微笑を浮かべていた。

 彼女の顔に重なる死の影は、一般人にも分かるのではと思えるほどはっきりしたものになっていた。彼女は点滴を受けていた。心電図モニターなどはなかった。呼吸も安定している。だからすぐに死んでしまうことはない筈だ。なのに……。

「ああ、良かった。ちゃんと、帰ってきたね」

 彼女が言った。声音は喜びに溢れていたが力はなく、少し掠れていた。

 ああ、そのまま沈んで、小さくなって、ふ、と、消えてなくなってしまいそうじゃないか。

 真鉤はベッドに歩み寄ろうとした。そこに彼女の父親が立ち塞がった。すり抜けることも出来たが、仕方なく真鉤は止まった。

 奈美の父は四十代半ばほどで、少し前髪が薄く、真面目で誠実そうなところが真鉤の父に似ているような気もした。眼鏡越しに真鉤を見据える瞳は怒っていた。

「今まで何処でどうしていたんだ。君は奈美とつき合ってるんだろう。奈美が倒れている間、私は何度も君に電話した。メールも何度も送った。どうして何日も……」

 異世界に攫われてましたので。そう答えたらどうなるだろうと真鉤は冷たく考える。だが真鉤は無難な言葉を選んだ。

「大怪我をして入院していました。意識が戻って動けるようになったばかりです」

 嘘っぽいと自分でも思ったが、他にうまい説明はなさそうだった。

「都合のいい言い訳だな。こんなわざとらしい……」

 奈美の父は真鉤の右腕を掴んだ。コートの袖に綿を詰め、先端は三角巾で丁度隠れるようにしていた。見た目だけなら違和感ない筈だった。見た目だけなら。

「うぉっ」

 彼は驚いた様子で手を離した。

「き、君、腕が……」

 中に腕がないことに彼は気づいただろう。避けて触れさせないことも出来たが真鉤はそうしなかった。こちらの事情を知らず邪魔をする父親に対して憎しみが湧き始めていた。相手の立場にしてみれば怒るのは当然だと、頭では分かっているのだけれど。

「どいてもらえますか」

 真鉤は感情を込めずに告げた。奈美の母親は何も言えず心配そうに見守っていた。

「ケンカしちゃダメだよー」

 奈美が妙にのんびりした口調で言った。彼女はニコニコしていて、真鉤と自分の父親のちょっとした対決を喜んでいるようにも見えた。

 それで真鉤は軽く息を吐いて、父親に「すみません」と頭を下げた。

「いや……」

 彼は戸惑いの表情を浮かべつつ、横へどいた。

「ちょっとね、父さんと母さんは、出ててくれる。真鉤君と話がしたいから」

 両親は不服そうに出ていき、ドアが閉まった。真鉤が椅子の一つに腰を下ろすと、奈美は微笑して、点滴をしていない左手を伸ばしてきた。真鉤が左手で握る。温かくて、彼女の脈動を感じたが、握り返す力は弱々しかった。

 ほんの数時間のことだったのに。なのに、彼女にとっては五日も経っていて。誰が悪い訳でもなかった。ただ、運が悪かっただけだ。それでも、楡先生のお陰で帰ってこられただけ運が良かった。五日間のタイムラグは不可抗力で、生きて帰れただけでもありがたくて。でも、この五日間、彼女は……。

 真鉤は急に泣きそうになってしまって、嗚咽はなんとかこらえたが涙が滲むのを止めることは出来なかった。

「ただいま」

 真鉤が言うと、奈美は「お帰り」と返してまた笑った。

 色々と話すべき言葉が浮かんではすぐに消えてしまい、結局真鉤はありきたりの台詞を述べることになった。

「どうだい、具合は」

「うん。貧血。食欲がなくてね、毎日点滴してたよ」

 普通の採血以外にも色々検査をしているかも知れない。何か病気が見つかったとしても、まだ彼女には教えていないのかも知れない。それとも、まだ検査では分かっていないのかも知れない。

「でもね、真鉤君がちゃんと帰ってきたからね。元気が出ちゃった。もう大丈夫」

 染みついた死の影を、奈美は自覚しているだろうか。彼女の瞳は綺麗に澄んで、キラキラと光って見えた。

「本当に、心配してたよ……」

 彼女は言った。

「ごめんよ。五日も待たせてしまった」

 極度の悲嘆と焦燥が、彼女を消耗させてしまったのだろうか。真鉤の失踪が彼女の寿命を縮めたのか。トドみたいなあの化け物のせいで。

「うん。でも、もう大丈夫。安心した。真鉤君の顔が見れたからね。もう、いつでも……」

 いつでも死ねるよ。そう言いかけたのではないかと思い、真鉤は胸が痛くなる。

 奈美は続きを言わず、話題を変えた。

「真鉤君はどうだったの。やっぱり、天狗に攫われたの。天狗をやっつけて帰ってきたのかな。フフ」

 彼女は悪戯っぽく笑う。

 真鉤は異世界のことを話した。怪物に攫われたけれど天狗っぽくはなかったこと。南城と一緒に塔のような巣に運ばれて、怪物達と戦ったこと。乱戦になり、巨大な蛇に吸われかけ、やっと楡が救助に来てくれたこと。帰還の途中でタイムラグがあり、真鉤にとってはまだ数時間しか経っていないこと。

 これまで失踪した人達はどうなったのかな、と聞かれ、真鉤は簡潔に、食われたみたいだと答えた。生きたまま溶かされていたとは言えなかったし、彼女も詳しくは尋ねなかった。

「南城さんも帰ってこれたんだね。良かった。私……」

 その時奈美が浮かべた表情がどういう種類のものなのか、真鉤には分からなかった。悔やんでいる、の、だろうか。何を。

「ああ、そうだ。ごめんね。私、真鉤君が消えちゃってすぐ、気絶しちゃったから。日暮君が楡先生に、連絡してくれたんじゃないかな」

「気にしなくていいよ。それに、もしかすると、僕達が何処にいるのか、楡先生はいつも把握しているのかも知れないね」

 それから当たり障りのないやり取りを少しした後、奈美がふと、思い出したように言った。

「異世界に行ってた間、南城さんと浮気とか、してないよね」

「してないよ」

 真鉤は苦笑して即答したが、内心ではとても、怖いなあと思った。

 

 

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