第四章 ボックスメン

 

  一

 

 急性骨髄性白血病、悪性リンパ腫、多発性骨髄腫、胃癌、大腸癌、左卵巣癌。急性骨髄性白血病は二種が同時発症。胃癌は既に胃壁を貫通して腹腔内にばらまかれており、大腸癌と合わせて肝臓、肺、脳などへも転移していた。

 藤村奈美の現在。

 見舞いに来た日暮静秋が確認し、奈美の前で静かに告げた。「後どのくらい生きられそう」と彼女は尋ね、日暮は少しの沈黙の後、「長くて一ヶ月。短ければ、この二、三日で死んでもおかしくない」と言った。奈美が頼んだ通りの、正直な答えだった。

 ベッドに横になったまま、奈美は淡く微笑んで、「そう」と頷いた。

「すまんな。力になれなくて」

 感傷を押し隠し、日暮が言う。

 奈美は首を振る。

「ううん。ありがとう。真鉤君も、ちゃんと帰ってきたからね。だから、いいんです」

 一緒に来ていた南城優子は、何か言おうとして結局言葉に出来ず、涙ぐむだけだった。彼女が最初に奈美と会った時、癌体質だと知って色々と慰めの台詞を並べていた。今はそんな言葉が無意味であることを、繊細さに欠ける彼女も悟っているようだった。

 真鉤は、藤村奈美を、見つめている。

 彼女が死にゆくさまを、見守っている。

 どうしてこんなことになったのだろう。病院の定期検査でも、日暮の吸血チェックでも問題なかったのに。いきなり、こうなった。

 健康だった人間が、希望を失った途端に病気になって倒れるというのはよく聞く話だ。体の抵抗力とか免疫力に、気力が関係しているとかどうとか。真鉤は中学生の頃に読んだ古代中国の話を思い出す。当時の覇者・項羽の参謀だった范増が、敵方の策略によって項羽に信頼されなくなり、怒って職を辞し故郷に帰ることになった。だがその帰途で背中に大きな腫瘍が出来て死んでしまったのだという。ならば、真鉤の不在が彼女の生きる希望を奪い去ったのか。……いや、その解釈は傲慢過ぎるか。ただ、確かな事実として、彼女がもう戻れない道筋へ入ってしまったのを認めるしかなかった。

 奈美の副主治医の診断も日暮とほぼ同じだった。彼はマルキの関係者で、奈美がマルキの傘下病院に転院することを拒んだため、向こうから特別に派遣してもらった人間だ。生まれ育った町に最後までいたいから、というのが奈美の主張だった。彼はまともな医師免許を持ち、裏でどういう交渉があったのかは知らないが臨時雇いとして病院に入り、一般的な最先端医学よりかなり先の知識を持っている。しかしそれでも、奈美を完治させる手段は持たなかった。まだ認可されていない薬で幾つかの腫瘍の進行を止めることは出来たが、それだけだ。

 彼女は死ぬ。藤村奈美は、死ぬ。

 その事実が狂おしい痛みとなって、真鉤の胸を抉り続けている。

 沢山人を殺した。自分の母親も、父親も手にかけた。今でも定期的に、陰でひっそりと、人を殺して生きている。人が必ず死ぬことを知っている。地球上には七十億もの人間がいて、毎日生まれ、毎日死に続けている。

 しかし、彼女は死ぬべきではなかったのだ。

 彼女は特別だった。彼女は真鉤の隣にいるべきだった。真鉤のみっともない人生に彼女は光を与え、真鉤は彼女を全力で守り続ける。その筈、だったのだ。

 藤村奈美は、死ぬ。

 楡誠も彼女の状態を確認に来た。この男にデリカシーは期待出来ないので、彼女の前で直接コメントすることは控えてもらい、後で真鉤が話を聞いた。楡の見解は単純だった。彼女の寿命はもうすぐ尽きる。それだけのことだと。

「楡先生の力でも、治せないのですか」

 念のため、真鉤は問う。

「そうですね。悪性腫瘍の八割を除去することは可能です」

「な、なら、彼女ももう少し長生き出来……」

「しかし、同時に藤村さんのシステムもダメージを受けますから、結果として彼女の残り時間は延びません。脳に転移した腫瘍を除くことで脳圧の上昇を軽減し、最後まで意識を保たせることは出来るでしょうが。或いは、彼女の肉体の分子活動を一時停止させることも可能ですよ。凍結保存みたいなものですね。ただし、長期間になるとやはりダメージを受けますし、その状態を『生きている』と解釈するかは君達の判断に任せますよ」

 特に希望のある話ではなかった。最後まで意識を保っていること。これは、奈美が望むのならいいのかも知れない。ただ、意識があれば、癌の苦痛もあるのではないか。凍結保存については、意味のない先延ばしとしか思えなかった。数十年単位で可能なら、未来の医療技術に期待出来たかも知れないが。

 天海東司も奈美を見舞ってくれた。真鉤がこの世界に帰ってくるまで、彼は毎日見舞いに来て励ましてくれていたらしい。「真鉤はちゃんと帰ってくる。俺の勘は当たるんだぜ」と言っていたとか。真鉤の前で暴露され、天海はちょっと恥ずかしそうに「わっはっはっ」と笑った。

 奈美の病状を、天海も悟っていただろう。しかし彼はそのことについては喋らず、ただ、ひよこを持ってきて食べてみせたり、他愛のない冗談を言って一緒に笑ったりしていた。彼女にとっても、そんな自然な態度が救いになったと思う。

 他にも面会に来るクラスメイトは何人かいた。奈美の顔色を見て心配していたが、彼女は明るく返した。

「そうね、今年の受験は無理みたい。浪人になっちゃうけど、来年は頑張るから、皆も頑張ってね」

 来年が来ないことは、奈美も分かっているのに。クラスメイトに気を遣ったのだった。

 奈美の両親は毎日来ていた。母親は一日の大部分の時間を病室で彼女に付き添って過ごし、父親も午後六時くらいに来て面会時間の終了まで一緒にいた。真鉤が同席していると、微妙にぎこちない空気となってしまう。はっきり口には出さないものの、父親は真鉤を薄気味悪く感じているようだった。仕方がないので、なるべく彼らのいない時を狙って病室を訪れるのだが、そうするとあまり長い時間は会えない。

 「学校にも行ってね」と奈美は真鉤に言う。「学校の皆の様子とかも、聞きたいから」と、ちゃんと理由まで用意してくれて。真鉤は週明けから一人で登校した。その頃には腕は元通りに生えていた。

「何日も休んでたけど、風邪だったのか」

 クラスメイトの男子が声をかけてきた。名前も知っているが、特に親しい訳でもない相手だった。

「ちょっと怪我をしたので。もう治りました」

「そうか。家で勉強してるのかと思ったぜ」

 男子生徒は苦笑した。二月にもなって授業は自習ばかりだし、彼の言うように休んで受験勉強に集中している者もいるようだった。それから彼は言った。

「藤村さんも入院してるんだって。見舞いに行った女子らは、えらく弱ってたって言ってたけど。受験なのに、大丈夫かなあ」

 真鉤に話しかけたのは、これが本題だったようだ。真鉤が奈美とつき合っていることは皆知っている。

「藤村さんって、前にも入院してたよな。体、弱いのかな」

 別にどうということもない、単純に彼女を心配している台詞だった。だが真鉤は急に怒りが込み上げるのを感じた。こいつらにとっては彼女の死は他人事でしかないのだ。いや、怒る筋合いでないのは分かっている。真鉤はただ無表情に沈黙を保ち、相手が気まずい顔をして離れるのを待った。

 自習といっても教科書をなんとなくめくるだけで、頭には入らなかった。もう受験する気もなかった。奈美は「折角だから大学には行ってね」と言ったが、真鉤は「君と一緒に行くよ」と答えた。その時が来ないことは、お互い分かっていたのだけれども。

 真鉤はポケットの携帯を意識する。奈美の容態が急変した場合、副主治医経由で連絡が届くことになっている。今のところ、そういう連絡は来ていない。今のところは。

 授業が終わるとさっさと家に帰る。食事をすませ手早くシャワーを浴び、地味な私服に着替えると、バスに乗って病院に向かう。

 やはり病室には彼女の母親がいた。形式的に挨拶し、母親は遠慮して部屋を出てくれる。しかしあまり長居するのも申し訳ないので、病室で奈美と一緒にする時間は十五分程度だった。ひとまずは。

 奈美は、学校の様子を尋ねる。

 真鉤は、特に変わりなかったことを答える。皆、受験に向けて頑張っているよ。仲の良い同士で卒業旅行を計画している人もいるみたいだね。

「そうかあ。私も、卒業式には出たいな」

 血の気の少し戻った顔で、彼女は言う。高度の貧血対策に昨日輸血を受けていた。薬によってまともな白血球も少しは増えており、今のところ感染予防のために隔離する必要はない。鎮痛剤で、節々の痛みも和らいではいるようだ。

 病院の夕食が届く。胃の状態を考慮してか、ミキサーにかけたようなオカズが目立つ。奈美は悪戯っぽく笑い、真鉤に「食べさせてくれる」と言う。しかしその時には母親が戻ってくるので、真鉤は退散を余儀なくされる。

 そして真鉤は、ほとぼりが冷めるのを待ってこっそりと病室に忍び込む。ベッドの下の隙間に這ってじっとしている。彼女と少しでも長く、同じ場所で過ごすために。

 客観的に考えればとても気持ち悪い行為だった。ストーカーにもほどがある。しかし、奈美自身がそれを許しているというか、希望しているのだから、誰かに非難される筋合いではないのだろう。

 夜になり、彼女の両親は帰っていく。看護婦の巡回もあるので、真鉤が奈美の視界にいるのはやはり限られた時間だ。部屋の電気が消され、闇が訪れる。

 真鉤はベッドの下で、奈美の寝息を聞いている。浅くまどろみながらでも、彼女の存在を感じている。

 たまに彼女は目を覚まし、不安そうに「真鉤君」と小さく口にする。

 「何だい」と真鉤が応じると、彼女は笑う気配と共に、「呼んでみただけ」と言う。それで彼女はまた眠りにつく。

 まだ大丈夫だと、真鉤は思う。まだ、もう暫くは、大丈夫だ。

 朝になり、病棟が動き出す前に真鉤は出発する。登校するため家に帰らないといけない。奈美に「お出かけのキスは」と言われて、苦笑しながらキスすることもあった。

 そんな時の彼女は、とても幸せそうな顔をしている。

 真鉤はそうやって、彼女との日々を積み上げていく。次の一日が来てくれることを毎日祈りながら。

 

 

  二

 

 あの二人組をまた見かけたのは、真鉤が元の世界に帰還したその翌週の金曜のことだった。

 自習メインの授業を終え、家で夕食やら着替えやらをすませてバスで移動し、病院へ歩いているところで彼らを見たのだ。

 浅黒い肌の大男と、オーバーサイズのジャケットを着た金髪の少女。手を繋ぎ、大男が少女を引っ張っている。

 彼らを最初に目にしたのは一月の、センター試験の帰りだったと思う。一緒にいた奈美に彼らのことを聞かれたのを覚えている。あの時の男の印象は、自己抑制の出来る人殺し。マルキの戦闘員かも知れないとちょっと思ったりもした。ただし、真鉤が参加したマルキの業務では会ったことのない顔だし、向こうも真鉤を知っている様子ではなかった。少女の方はどうして連れているのか分からなかったが、特異な気配はなかったしおそらく一般人だろう。諦観しているような表情は、奴隷扱いされている、というほどではなかったが、大切にされている感じでもなかった。

 どちらにしても、真鉤はリスクを冒してまでわざわざ関わるつもりもなかった。真鉤にはもっと優先すべきことがあるのだから。

 ただ、今回、人の多い通りから脇道へ入りかけた二人に、真鉤は不穏なものを感じ取っていた。

 何かを、狙っている。

 大男の視線と意識がそれとなく、道行く人を漁っていた。特定の人物を探している感じではない。手頃な獲物を見繕っているかのようだ。真鉤自身に経験があるから分かる。

 誰かを殺すつもりなのか。もしかして、男は真鉤みたいに、定期的に人を殺さないと生きていけない体質とか。いやそれは考え過ぎか。だが少なくとも、誰かに危害を加えようとしている可能性は高そうだった。

 尾行してみるか。少し迷った末、真鉤は動くことにした。本来は首を突っ込むことではないし、何より奈美と一緒に過ごすことの方が重要だった。だが、奈美のいる病院の近くを危険な存在が徘徊しているなら、その目的を確かめておくべきではないか。深入りするつもりはないが、ある程度観察する必要はあるだろう。

 ある程度の距離を置き、もし相手が振り向いたらすぐ物陰に隠れられる位置取りをして真鉤は二人組の後を追った。

 大きな男。身長は二メートル十数センチ、体重は百五十キロ前後といったところか。ただし、人外だと見た目以上の質量を持っていることがある。黒いロングコートに包まれた肉体は隆々としている。骨格や筋肉のつき方は人間の枠組みを外れてはいない。ちょっとした動作からは相当の筋力と、いざという時の俊敏さを想像させる。黒い革の手袋を填めている。天然パーマらしい黒髪は、編み込んではおらず自然に伸ばしている。目は左右に離れ、唇は薄く広い。黒い瞳は冷徹で、何の感情も映してはいなかった。

 金髪の少女。年齢は小学校高学年くらいだろう。顔立ちは整っていて、成長すればハリウッド女優やモデルみたいな美女になるだろう。赤いダウンジャケットは大き過ぎるが腰回りのバランス的には女性用だった。青い瞳に宿るのは不安、怯え、そして諦め。怪我している様子もなく、虐待とはちょっと違う気がした。逃げようとする意思は感じられない。ただ、サイコパスに監禁され、逃げようとするたびに繰り返し暴力を受けると、逃げる気力もなくなってしまうと聞く。結局のところ、二人の関係はよく分からないままだ。

 他人に見られていないことを確認して素早くポケットからアノニマスクを出し、顔に貼りつける。マルキに貰ったこの人工皮膚は何度でも使え、顔の特徴を消してくれる。万が一見られた時の用心だ。戦うつもりはない。

 マルキといえば、この間のやり取りを思い出す。帰還した夜に一応連絡してみたら、伊佐美は真鉤の無事を喜んでくれたが、同時に異世界のことに興味を持ったようだった。異世界移動が体に影響していないか、近いうちに精密検査させて欲しいし詳しく話も聞きたいとか。もう楡先生によって向こうの生物が皆殺しになったことも伝えたのだけれど。

 二人組は脇道を歩いていく。人通りは少ないが絶えた訳ではない。空は赤らんでいる。もう十分かそこらで陽が落ちるだろう。

 大男の狙いが分かった。こいつも、他人を尾行している。標的は大学生っぽい若い男で、メッセンジャーバッグを肩に掛けている。気の弱そうな顔で、少し疲れた様子で軽い溜め息をついている。この先は飲食店は少ないので、自宅に帰るところだろうか。

 若い男と二人組との距離は四十メートルほど。大男の歩みは微妙に早くなり、少しずつ距離が縮んでいく。少女は引っ張られながら頑張ってついていこうとしている。今のところ若い男は二人組に気づいていない。

 二人組と真鉤の距離は五十メートルほど。気配で分かるので、相手の姿が常に見えている必要はない。こちらは既に足音を消し、気配を絶っている。二人組に気づかれない自信はあった。

 若い男と二人組の距離は二十メートルを切った。まだ若い男は気づいていない。他の通行人もちらほらいる。このまま追いついたらどうするつもりなのか。真鉤は疑問に思いながら尾行を続ける。

 大男が周囲を確認している。顔は動かさず、視線だけで探っている気配があった。真鉤は物陰に寄り、一瞬で隠れられるようにしておく。

 『売家』という張り紙のある建物。店舗兼住宅だったようで、二階建てで玄関は広めになっている。今は誰も住んでいる様子はない。大男は歩きながらその建物を見ていた。

 二人組が若い男に近づく。少女の顔は見えなかったが、動揺している感じでもない。若い男はまだ気づかない。距離は十メートルを切った。通行人。買い物バッグを提げた中年の女が、奇妙な二人組を横目にすれ違う。それで、彼らを見ている者が、途切れた。

 数メートルの距離となってやっと若い男が気づいた。振り向いた男の首に手袋を填めた右手が伸びる。

 グジッ、という微かな音を真鉤の耳は聞き取っていた。気管軟骨が潰れる音。

 気管が完全に塞がれた訳ではなく、ぎりぎり呼吸は出来るが悲鳴を上げられない程度だろう。それを目的に潰したのだ。若い男は最初驚きに目を見開き、それから恐怖に歪みかけたがまだ実感がないようで、奇妙な半笑いのような表情になっていた。こんな街中で、自分が理不尽な暴力を受けたことが信じられないのだ。

 だが半笑いもすぐに消え、若い男はか細い苦鳴を洩らし始める。大男はその肩を掴んで引っ張っていく。片手の力だけで若い男の体はほぼ持ち上がってしまい、靴先が地面を擦る程度になった。大男は右手に若い男を持ち、左手は少女と繋いだままどんどん歩いていく。若い男はもがくが大男には全く通じない。

 やはり行く先は売家だった。建物の横に回り、鍵が掛かっている筈の勝手口のドアを力ずくで引き開ける。蝶番があっさり抜けてしまった。三人の姿が中へ消える。

 何だ、これは。真鉤の中で素早く思考が巡る。若い男は訳が分からない様子だったから、二人組と面識はないだろう。なら、通り魔か。大男は快楽殺人者ではなさそうだが、やはり定期的に人を殺したり人肉を食べたりしないといけないのか。しかし、必要に迫られてのことなら、もっと他人に見られにくい場所で、夜中にやるべきではないのか。外国人だし目立つ組み合わせの二人なのに。以前も見かけたが、こんなことをちょくちょくやっていたのか。警察が怖くはないのか。怖くないとしても、普通はトラブルを避けるべきでは。ニュースにもなっていないが。やはりマルキか。しかしマルキがこんな通り魔をやるか。まあやりかねない奴らではあるが、この町に戦闘員を送るなら、間違いが起こらないように真鉤に話を通しておくのでは。

 どうする。助けに入るか。戦うか。見殺しにして去るか。それとも最後までひっそりと見届けるか。どうする。他人事に関わる余裕が今の自分にあるのか。奈美が衰弱して、死にかけているのに。彼女のことを優先すべきだ。しかしここは病院の近くで……。

 真鉤は動いた。心を決めたら集中は早かった。目撃者がいないか気を配りつつ音を立てずに走り、手袋を出して填めた。アノニマスクのお陰で、まずいことになっても素顔を見られる心配はない。右に小さな公園。滑り台と鉄棒があるだけだ。小さな石が落ちていたので拾う。五個。本気で投げれば常人の頭くらい撃ち抜ける。狙いの正確さにもそれなりの自信があった。

 公園横の家の塀を乗り越えて陰に入る。売家までの距離は四十数メートル。ドアの外れかけた勝手口からも曇りガラスの窓からも内部の様子は見えないが、三つの気配がある位置は大まかながら捕捉出来ていた。

 真鉤は小石の一つを右手に握り、振りかぶって投げた。全力に近い投擲は窓ガラスを貫き、更に屋内の壁一枚を打ち抜く手応えがあった。元々気配に当てるつもりはなかった。一番の目的は警告で、二番目は相手方の反応を見るためだ。真鉤はすぐ塀の陰にしゃがんだ。気配を消したまま更に隅へ隠れつつ、相手の様子を……。

 バゴァンッ、と、コンマ数秒で建物の外壁をぶち破り大男が飛び出してくるとは、真鉤も流石に予想していなかった。

 反応が早過ぎる。メチャクチャ過ぎる。こんな派手な音を立てたら人が寄ってくる。見られることを何とも思ってないのか。

 大男の気配が素早く移動する。犯人を探している。投げつけられたのがただの小石だと分かっているだろうか。真鉤は相手から見つからず、同時に相手の姿を確認出来るよう屋根に移ろうと思ったが、空中を飛び交う視線を感じて諦めた。轟音に驚いた周辺の住民が窓を開けて顔を出してきたのだ。

 さて、大男はどうするつもりか。少女を連れてこの場から逃げるか。襲撃者を探し続けるか。警察も駆けつけてくるだろうし。

 大男の気配はこちらの方へ走ってくる。窓と壁の穴から位置を推測したのだろうが、まだ真鉤には気づいていない。大男は猛烈な殺気を放射していた。見つかったらどうなることやら。真鉤は塀の陰から家の裏へと回り込んだ。更に隣のマンションへ移動しておくか。

 と、大男が方向転換した。「ひっ」と細い悲鳴。歩いてきた通行人が上げたもの。若い女だろう。大男が女へ突進していく。どういうつもりだ。大男の殺気は変わらない。まさか、敵が分からないから手当たり次第に……。

 内心舌打ちしながら真鉤が顔を出した時、大男が右腕を大きく振りかぶるところだった。握り拳はおそらく女の顔面を粉砕し、下手すると後頭部まで貫通するだろう。女の恐怖に歪んだ顔。その手から開いた携帯電話が落ちる。単に誰かと話していただけかも知れないが、大男は女が警察に通報すると思ったのだろうか。或いは動画を撮影していると。

 真鉤は大男の背に小石を投げた。飛来する凶器を感じ取ったか、大男が身をひねって振り返る。その脇腹に小石が突き刺さり、一瞬後にボトリと落ちた。拳銃弾程度の威力はあった筈だが、黒いロングコートは防弾だったか。いや、コートの生地は穴が開いている。僅かに血が滲んでいる。こいつは、筋肉で受け止めたのか。

 大男の目と、家の陰から上体を出す真鉤の目が合った。大男の無表情は変わらぬまま、膨れ上がった殺意が真鉤へと集束する。これで関係ない人が殺される心配はなくなったが、今からでも逃げられたらなあと真鉤はちょっと考えていた。

 大男がこちらに駆けてくる、と感じた刹那、その右足が後方へ跳ね上がった。登山靴のような頑丈な黒い靴が、その靴底が、立ち尽くす女の頭の位置を、通り過ぎた。

 丸いものが高く、高く飛んでいく。ちぎれた女の生首。グルグルと縦回転する。顎が額につくくらいに圧縮され、片方の眼球は飛び出していた。血が、飛沫となって、散る。

 こいつ。どういうつもりだ。今女を殺す必要はなかっただろうに。真鉤を怒らせるためか。女を殺させないために石を投げたのを理解してのことか。それとも単に目撃者を始末しただけか。だがあちこちから悲鳴が聞こえている。マンションの住人や他の通行人、もう目撃者を皆殺しになど出来ない。

 大男が真鉤の方へ駆ける。了解、了解。こちらも逃げないさ。殺してやる。怒りの熱は一瞬で消え、真鉤の心が冷えていく。大男の足は速い。百メートル走の世界記録保持者を余裕で追い抜けるだろう。だが真鉤の本気よりは遅い。両手は何も持っていない。素手で戦うつもりか、それとも何か隠し持っているのか。真鉤は塀の手前まで近づき、そばに設置されていたエアコンの室外機に左手をかける。距離は二十メートルを切った。大男は一直線に向かってくる。視線は合ったまま。十メートル。真鉤は右手の小石を投げる。

 大男が跳んだ。前に出した右足。二人の間にあるブロック塀を蹴破るつもりだ。真鉤はタイミングを計り、小声で尋ねた。

「マルキか」

 相手の反応はなかった。表面的には。だが僅かな揺らぎ、思考の割り込みを真鉤は感じ取った。その隙ともいえない隙。真鉤は左腕に力を込める。室外機を引っ張り上げ、パイプのちぎれたその鉄塊を全力で大男に叩きつけた。

 大男は左腕を掲げて受け止めた。室外機がひしゃげて分解し、中のプロペラが飛び出した。腕にダメージを負った様子は皆無。やはりこいつは相当にタフだ。ブロック塀が砕け、大男の足が伸びてくる。

 真鉤は既に、空中にいた。散った室外機の破片を素早く掴んで再度叩きつける。それをまた大男が左腕で防ぐ。こいつの右手は。コートのポケットに突っ込まれた右手を視界の隅で意識しつつも、真鉤は左手で大男の左腕を掴んだ。感触ではっきり分かった。こいつの筋力は真鉤より強い。あの元マルキの偽刑事・大館と同じくらいだろう。だが素早さはこちらが上だ。真鉤は相手の腕を引っ張り、自分の体を相手に近づけた。

 衝撃。その後に轟音が聞こえた。銃声。左腰。いや股関節。左足の感覚が消えた。ちぎれたか。こいつの右手。拳銃を握っていたのか。だが普通の拳銃の威力ではない。特注品か。

 構わず真鉤は自分の攻撃に集中した。右手。伸ばした人差し指と中指を、大男の左目へ。大男が首を反らして避けようとする。真鉤は上体のひねりも加えてリーチを伸ばし、男の左目に、二本の指を突き入れた。

 コリュッという眼球の感触があり、指先はそれと眼窩の隙間を抉り抜いていく。眼球がはみ出してくる。更に奥へ。手応えは脳に達した。そこで指を曲げて手首を返し、中を掻き混ぜる。腹に衝撃。弾をもう一発食らったようだ。体が後ろに押される。指が抜け、る、その瞬間真鉤は親指と掌で挟んでいた石を相手の眼窩に押し入れた。抜けた人差し指と中指をすぐに折り曲げ、デコピンの要領で石を弾く。石が脳へ抜け、頭蓋骨内でバウンドした筈だ。常人なら死んでいるが……。

 真鉤は着地する。それまでに自分の体の状態は確認出来ていた。左足は繋がっているが付け根部分でブラブラになっている。それと腹の傷。左腹部が吹っ飛んで径十センチ以上の風穴が開いていた。散弾銃でも食らったみたいだ。脊髄がやられなくて良かった。再生に少し時間がかかるし。

「ファック……」

 大男が短く低い呟きを洩らした。声音に込められたどす黒い、粘質な憎悪。はみ出した眼球を左手で掴み、眼窩に押し戻す。

 相手が幾ら頑丈でも弱点はあるものだ。目、脳、耳、口の中、喉と頸動脈、心臓、脇や股間。真鉤は観察していた。戻した眼球がちゃんと見えているか。視神経が切れていなかったから見えているかも知れないが、ちぎれた眼筋は元通りに動くか。そして、脳へのダメージはどの程度か。動きは鈍らないか。この男に、真鉤並の、再生力はあるか。このまま倒れてくれれば楽なのだが。

 黒い目はコンタクトだったようだ。押し戻した拍子にずれ、本当の瞳が見えた。黄色に黒い斑が散らばっている、縦長の瞳。爬虫類の目だった。右目が真鉤を睨むが、左目は連動していない。

 右手の拳銃が動く。銃口の向きを読んで真鉤は右足の力だけで跳んだ。轟音。衝撃波が左肩を掠めていく。躱せた。大男がコートのポケットから出した拳銃は大型の黒いリボルバーだった。銃身が短いのは取り回しの良さを優先したものか。更にもう一発。これも避けた。相手は片目で狙いがずれているのかも知れない。リボルバーの弾数はどれだけだ。普通なら六発だよな。既に四発撃った。

 左足の感覚が戻らない。しっかりくっつけて押さえていれば繋がるだろうが、今はそんな余裕もない。真鉤は塀の破れた部分に飛び込んで陰に回り、と、五発目、ブロックの破片を浴びる。大したダメージではない。使える武器はないか。鎌神刀があれば一発だったのに。準備なしで仕掛けた真鉤の自業自得だ。砕けたブロックの破片を拾う。屋敷を回り込むと庭があり、小さなスコップを見つけた。先が三角形に尖った、全長三十センチほどのもの。真鉤は地面を転がりながらこっそり拾い上げる。轟音。背中に痛み。だが直撃でなく肉を削っていったくらいのようだ。これで六発。

 追ってくる大男はまだ拳銃を構えていた。弾込めする様子はない。まだ弾が残っているのか、或いはブラフか。距離は七メートル。真鉤は相手の右目を狙ってブロックの破片を投げた。大男は軽く上体を反らしただけで、破片はこめかみを掠っていく。皮膚が破れ、その下に赤い筋肉でなく暗緑色の鱗が覗く。やはり人間のふりをした爬虫類系の化け物か。銃口の向き。撃つなら撃て。こちらが動いた瞬間に撃たれると対応出来ない。引き金に掛けた指。曲が、る。真鉤は跳んだ。イメージより自分の動きが遅い。左足が無事ならもっと鋭い跳躍が出来たのに。

 轟音。七発目。衝撃が伝わってきたが痛みはなく、なんとか躱せたようだ。右手を相手の顔に伸ばしながら、真鉤の本命は左手で逆手に握り込んで隠したスコップだった。大男が右手に持つ拳銃。カリッ、と太い弾倉が回転する。八発目が来るっ。

 真鉤は順手に持ち替えたスコップの、三角形のエッジで、リボルバーを持つ男の右手、の、グリップを握る小指から、中指までを、切り裂いて、いった。

 正確に指の関節部に当てていなければ、スコップが負けていただろう。腱を切断し、骨と骨の間に割って入る感触があり、黒い革に包まれた三本の指を切り落とした。リボルバーがぐらつく。そこで銃口が火を噴いた。外れ。よし。

 人間タイプの生き物にとって指は重要だ。これが欠けただけでかなりの攻撃力ダウンが見込める。相手に特殊能力がなく、指が生え戻るだけの再生力もなければ、だが。左目が治る様子もないので期待出来る。

 スコップと拳銃に集中していた分、他がおろそかになっていた。掴まれた。大男の左手が、真鉤の右腕を掴んでいる。そう認識した時にはあっけなく前腕を握り潰されていた。凄い握力だ。そしてそのまま、引っ張られる。

 左手のスコップ。相手の右目と左手の指、どちらを狙うか。真鉤は前者を選択した。両目を奪えば勝負はほぼつく筈だ。引っ張られる勢いに任せ、スコップの先端を大男の右目に突き入れ、すぐに抉った。ちぎれた眼球が宙を飛んだ。よし。

 真鉤がゾッとしたのは次の瞬間だった。大男が笑っている。薄い唇が大きく広がる。信じられないくらいに広がっていく。生臭い匂いを感じた。男の口臭。獣のような、魚のような。

 ドン、と背中を叩かれる。大男の右腕。真鉤は捕らえられたことを悟った。真鉤の右腕を潰した大男の左腕も背中に回ってきて、強く締めつけられる。真鉤の胴と大男の胸板がぶつかった。背丈の違いのせいで真鉤の足は地面から浮いたままだ。

 大男の口が、人間の頭よりも大きく広がっていた。口の裏側は真っ赤な粘膜で、人間らしい歯列と舌はあるものの、広がり過ぎた口腔の真ん中に小さく残っている様子は冗談のように見えた。大男が口を下に向ける。奥の喉まで広く見える。内側の肉の表面がグニグニと波打っている。強烈な生臭さと、すっぱい匂い。胃酸か。

 こいつは真鉤を呑み込むつもりだ。爬虫類っぽさからトカゲを想像していたが、どうやら蛇の方だったらしい。毒腺らしきものは見当たらない。丸呑みで真鉤を殺す自信があるのか。大型のニシキヘビは人間を丸呑み出来るし、物凄い筋力で獲物を締め殺す。だが二メートルを超える巨体とはいえ、人間の形をしたものが人間一人を呑み込めるのか。

 真鉤は右足で大男の股間に蹴りを入れたがびくともしない。無理な体勢からで威力が弱かったのもあるが、硬い筋肉の感触のみでそこに人間のような生殖器はないのかも知れない。右腕は砕けているし、男に胴体ごと抱えられてしまっている。自由な左腕でなんとかするしかないが……。

 口が迫る。真鉤は首を反らして逃れようとしたが大男の食いつきも素早かった。視界が赤で覆われ、すぐ黒く染まった。頭を丸ごと呑まれた。熱い。火傷しそうな熱さだ。大蛇に殺されかけた少年のニュースを見たことがある。全身を締めつけられて凄く熱かったとか。筋肉の発する熱なのか。続いて痛みがやってきた。ミジッ、と頭蓋骨の軋む音。これはまずいぞ。脳が潰されたら終わりだ。締められながら引き込まれる。抵抗して頭を引き抜こうともがき、気づく。この筋力差だと、無理に抜こうとすれば首がちぎれる。

 メジッ、ギジッ、と頭蓋骨が軋む。吐き気が、あ、パギュッ、と、骨の割れる音。まずい。何が出来る。どうやって脱出すればいい。左手。左手のスコップ。真鉤はスコップで男の頭いや首辺りを狙い……。

 意識が飛んだ。飛んでいたと思うがどのくらい経ったか分からない。光が見えた。頭が痛い。目がヒリつく。熱。熱さはさっきよりはましになっている。

 シャグッジャグッザギュッジャクッ。真鉤は自分の左腕が動いていることに気づく。繰り返し繰り返し、叩いている。握り締めたもので相手の体を刺している。スコップ。あの小さな鉄のスコップで刺しまくって、奴の体に穴を開けたらしい。それで締めつけが少し緩んだのだ。意識は失っていたのは短時間だろう。その間も必死に抗っていたのだ。真鉤はもっとやることにした。左手のスコップ。力一杯刺す。抉る。刺す。スコップを刺すたび、光の穴が陰る。もっとだ。穴を広げてぶち破れ。自分の手に余るものを呑み込んだらどうなるか、思い知らせてやる。大男の唸りが口内にある真鉤の頭を震わせた。

 引っ張られる。胴を。真鉤を引き抜こうとしている。ビギッ、と首が鳴る。肩の辺りまで呑まれていなければあっさり首がちぎれていただろう。真鉤は足をバタつかせ、相手の体に右足を絡めた。左手は穴の拡大作業を続けている。右手。砕けた骨が治ってきて力が入る。肩まで呑まれているため腕がなかなか上げられない。相手の手が真鉤を押している。その左腕に、真鉤は自分の右腕を絡みつけた。ミシッ。また骨が軋む。左足の感覚はまだ戻らない。背中を殴られる。多分奴の右腕だ。指を切っておいたので握れないのだろう。背骨が、砕ける。痛みと熱。

 スコップ。真鉤はとにかく左手のスコップを振り続けた。視力が少し戻ってきて、赤い壁を削るスコップがかなり潰れて変形しているのが分かった。それでも、その歪んだ小さな鉄塊を振り回し、抉り、少しずつ傷口を広げていく。滲み出た鮮血が蛇男の口内を更に赤く染める。

 ミギメギッ、と再び圧力が増した。また頭蓋骨の何処かが割れる音。目の焦点が合わなくなる。こいつも全力で真鉤を潰しにかかっている。食うか食われるかの勝負、どちらも死にもの狂いだ。背中の痛みが増す。あっ、下半身が麻痺した。脊髄をやられたらしい。少ない指で、真鉤の背中を抉っている。右腕もひねられ、また折られた。だがなんとかしがみついて離さない。スコップだ。左腕を振る。この蛇男の首、或いは頭かも知れない肉の壁を少しずつ削っていく。こいつの背骨は何処だ。脊髄をやれば勝ちだ。こいつに再生能力がないことは分かっている。あるのかも知れないが、真鉤ほど早くは治らない。メジッ、とまた頭蓋骨が軋む。顎が潰れる。頬骨が凹み、更に目の焦点がずれる。

 スコップだ。削る。背中を抉られる。スコップ。擦って傷を広げる。右腕が引っ張られ、肩から抜けそうになる。とにかくスコップ。スコップだ。光が広がる。ゴジ、ゴリッ、と真鉤の何処かの骨が砕ける。スコップ。首が曲がる。折れそうに……必死で耐える。下半身の感覚が戻ってきた。また背中を抉られ麻痺する。スコップ。頭が歪む。顔が歪む。視界が歪む。スコップ。熱い。焼けるようだ。真鉤は焼却炉を思い出す。自宅の地下の焼却炉。スコップ。光が広がる。骨が軋む。痛み。スコップ。スコップ。右腕がねじれる。スコップ。左腕が掴まれる。真鉤の背中への攻撃を諦めてスコップを止めるつもりらしい。だが少ない指では真鉤の腕には勝てず、足の感覚もまた戻ってきた。右膝で奴の腹に蹴りを入れる。スコップ。スコップ。光が広がる。視界を染める血は真鉤のものか、奴のものか。ハッ。互いの名前も知らず、いきなり血みどろの殺し合いなんて。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。

 スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。スコップ。

 いつしか真鉤の頭を締めつける力も、腕を押さえてくる力も弱くなっていた。スコップ。スコップ。途中で骨にぶつかる感触と、更にその先を抉る感触もあった。脊髄か、他の重要な器官にダメージを与えたのだろう。体が揺れる。真鉤を抱えたままずっと立っていたが、支えきれなくなったようだ。前に倒れる。相手にとっては後ろか。締めつけが更に緩み、真鉤は巨大な口から自分の頭を引き抜いた。ズルッと髪が一部抜ける感触。頭皮が酸でやられていたようだ。

 真鉤は立ち上がろうとして、左足が膝下からないことに気づく。断面はグシャグシャだ。いつの間にちぎれたのか分からない。目はまだヒリついて視界は滲んだままだ。ミチミチ、と頭で鳴る音。歪んだ頭蓋骨が治ろうとしている。両手はちゃんと動く。左手のスコップは、五センチくらいに小さく潰れていた。

 大男は起き上がらない。手足は僅かに痙攣するだけで、意味のある動作は出来ていなかった。広がった口のせいでラッパ状に変形した頭部。潰れた右目と嵌め戻した左目。やはり見えていないのだろう、左目もあっちを向いたまま動かない。

 だが、男の殺意は健在だった。自分をこんなふうにした真鉤への、煮えたぎる憎悪。真鉤の体をズタズタに引き裂いてやるという強烈な意志を感じた。喋れるならきっと呪詛の言葉を吐き散らしていただろう。

 真鉤の心は急速に冷めていく。自分の安全のために、止めを刺さなければ。押さえていた左足の感覚が戻った。膝から下の部分も探したいがこちらが先だ。真鉤は倒れたままの大男に這い寄っていった。出来れば首を切り離しておきたい。

 その時、男の殺意が猛烈に膨れ上がった。単なる呪詛ではない勝利の確信。反射的に真鉤は後ろに跳び伏せる。衝撃。真鉤は派手に吹き飛ばされ、爆発を食らったことを知る。自爆だ。この男は爆弾を携帯していたか体内に埋め込んでいたのだ。追い詰められた時に証拠隠滅出来るように。または、一人でも多くの敵を道連れに出来るように。

 真鉤の体はブロック塀にぶつかりそれを破り、アスファルトを暫く転がって止まった。全身が痛むがすぐに立ち上がる。破片やら何やらがあちこちに食い込んでいる。服は血と肉片がへばりつき大変なことになっていた。

 奴の死体を確認しなければ。破れた塀を越え、両手と片足で他人の家の庭を這い戻っていく。屋敷は爆風を食らって半壊状態で、持ち主には申し訳なく思う。住民が丁度いなかったようなのが救いか。

 庭の隅に真鉤の左足が転がっていた。もしかするとあの拳銃で撃たれてちぎれたのかも知れない。感覚がなかったので分からなかった。拾い上げ、元の場所にくっつける。傷口はグチャグチャで、足がちょっと短くなってしまった。じきに元通りの長さになるだろう。

 つけたばかりの左足になるべく体重をかけないようにして立ち上がる。大男の死体は……それらしきものはあった。背骨にへばりついた肉の塊と、黒いコートの切れ端。残りは爆散してしまったようだ。

 真鉤は急に疲れを覚える。先週は異世界に引き摺り込まれて巨大蟹と殺し合い、今日は蛇男と殺し合い、か。今日の分は自業自得で、馬鹿なことをした。

 悲鳴が聞こえた。何人もの野次馬が、遠巻きにして真鉤を見ていた。銃声もあったし爆発もあった。化け物同士の殺し合いを彼らは見ていたのだ。アノニマスク……半分ほど剥がれていることに気づく。いや、酸で溶けたのか。顔は血塗れでまだ変形しているから、素顔がばれることはないと思うが、早いところ退散した方が良さそうだ。あっという間に落ちた夜の闇に紛れて。

 ただ、ここまで深入りしたからには、確かめておくべきだな。売家に引き摺り込まれた若者と、蛇男に連れられていた少女。若者はまだ生きているか。諦めた目をした少女は解放されるのか。道端の野次馬、マンションのベランダに立つ住民、数十の怯えた視線を浴びながら、真鉤は歩く。血みどろの、ちぎれた足をくっつけて歩く、不死身の化け物。それが真鉤だった。

 溶けた角膜が再生して精細な視力が復活した。売家の壁。蛇男がぶち抜いた穴の奥は暗かったが、真鉤の目は見通している。ただし、今の角度からは二人の姿は見えない。声をかけるべきか迷ったが、真鉤はやめておいた。彼らの人生に責任を負うつもりはない。無事かどうか確認したかっただけだ。

 しかし、建物の中に動く気配がない。これだけの騒ぎがあったのだから、もう逃げ出しているのかも知れない。無駄足かも。いや、それならそれでいいのだが。

 建物内部の床に、血溜まりが見えた。負傷したのか。まさか最初に真鉤が投げた石が当たったのか。それとも……。

 もう一歩、近づいてみる。足が見える。立っている。若者の足だ。ズボンが血に染まっている。大量の血だ。立ったまま動かない。死んでいるのか。あの蛇男は、建物を飛び出す前に若者を始末したのか。

 もう一歩、近づく。ズボンに垂れ下がった腸が見えた。切れている。刃物による傷。切り裂かれた皮膚の断端。ああ、もうこれは、死んでいるな。呼吸もしていない。

 ゾワゾワ、と、不気味な感触が背中を撫でる。これは、まずい。まずい。もう逃げた方がいい。

 だが真鉤は、吸い込まれるように、もう一歩、足を進めていた。

 若者の全身が見えた。棚に背中をつけて立っていた。胴体と顔は血みどろだった。胸と腹は切り開かれ、ズタズタになった肺や肝臓や胃や腸が見えた。心臓がなかった。いや床に転がっていた。綺麗に切り取られている。こういう作業に慣れた者の手際だ。顔。両目が抉り抜かれている。鼻も削ぎ落とされ、頬肉も切り取られて血塗れの歯列が露出していた。死体。こんな状態になっても彼が倒れないのは、二本のナイフで両手を棚に縫い止められていたからだ。

 何だ、これは。どうしてこうなった。誰がやった。あの蛇男にそんな暇はなかった筈だ。あの少女は……。

「バーン」

 楽しげな台詞は銃声と共に聞こえた。真鉤は避けようとしたが既に撃たれていた。両足。天井から撃たれたいや別の棚の上か。銃口が見えた。油断した。いや気を取られていたのだ。死体に唖然としたところを撃たれた。あの蛇男の持っていたのと同じ拳銃。両足がちぎれた。真鉤は倒れる。両手で地面を叩いて跳ぼうとするその腕を撃たれた。右腕がちぎれる。バランスが崩れ右に転がる。このまま銃口から逃げれば、とまた撃たれた。腹。下半身が丸ごと吹っ飛んだかと思うような一撃。実際には背骨がやられただけだ。脊髄が飛ばされた。治るまで、時間が。

 棚の上から降りてきた女。少女ではなかった。若い女だったが少女ではなかった。多分二十才前後。金髪の美人だったが別人だった。いや、でも服が同じだった。オーバーサイズの赤いダウンジャケット。今はサイズが合っている。何が起こっている。女が拳銃を握っている。冷たく笑いながら銃口を向ける。避け、肩を、抉られた。左肩。腕、動くか……。

 女が言った。

「ナイスキル、ジャパニーズ。やるじゃん。パイソンを始末するとはね」

 イントネーションはちょっとおかしかったが、妙にこなれた日本語だった。パイソンとは蛇男のことだろう。女がまた撃った。咄嗟に避けたがまた胴に食らった。心臓が。体が減っていく。

「治るのが早いな。神経までリアルタイムに再生する奴は初めて見たよ」

 女は真鉤と蛇男の戦いを見ていたのか。左手に血塗れのナイフを持っていたが、それを落としてジャケットの内側から素早く拳銃を出した。右手に握るのと同じ型のもの。これで、弾切れに期待することは出来なくなった。おそらく左手でも問題なく撃てるのだろう。

「参ったな。世話係が死んじまったら、誰が死体を片づけるんだよ。だがな、それについては許してやろうと思ってるんだ。なんたって、代わりに何千回でも切り刻めるオモチャが手に入ったんだからな」

 女が喋っている間に隙が出来るのではないかと思ったが、二つの銃口は真鉤の体の中心にポイントされ、殆どぶれなかった。真鉤は俯せに倒れ、左腕を胸の下に畳んでいる。右腕は肘からちぎれ、両足は太股辺りでちぎれているしまだ感覚が戻ってこない。

 真鉤が生き延びるための武器は残り少ない。この左腕をどのタイミングでどう使うか。しかし左肩の痛みが気になる。肩関節が砕けたようで、まともに動かせるか。再生するのを待つか。脊髄が繋がれば短くなった足を動かせるようになるが。

 だが、女がそんな猶予を与えてくれないことも分かっていた。真鉤の状態を冷たく観察している、女の青い瞳。血の愉悦に潤み、薄く充血していた。この女は相当の数を殺してきた殺人鬼で、サディストだった。若者を惨殺したのはこの女で間違いない。しかしあの怯えたような諦めたような目をした少女と、同一人物なのか。変身するのか。狼男みたいに。それで性格も変わるのか。詳しいことは分からないが、今ここで真鉤が動けなくなれば、何処かに監禁され死ぬまで楽しく切り刻まれることは分かりきっていた。いや、死なずに永遠に刻まれることになるのかも。どうにかしてこの場を逃げなければならない。そのためにこの女を殺すことについては、真鉤は特に躊躇はなかった。自分の安全を考えれば殺して逃げるのがベストだ。だが、万全の状態ならともかく、今のズタボロになった体で、やれるか。油断のせいだ。馬鹿め。真鉤は自分で腹が立つ。

 顎の噛み合わせをずらす。ミジミジ、と、上の前歯がグラつき、折れる。三個。音がしないように、相手にばれないように気をつけたが、どうか。女は冷酷な瞳で観察している。口元が笑っているが、目は笑っていない。きっかけを。

 真鉤は、肘までになった右腕で地面を掻こうとした。銃声が弾け、右肩が吹っ飛んだ。体が揺れる。

 今だ。真鉤は最大限の肺活量を注ぎ、口をすぼめて自分の歯を吹き出した。女の顔面、かなり狙い通りに飛んだが女は上体を横に曲げ躱した。真鉤は左腕で跳んだ。売家の屋根へ。肩が痛みつつもなんとか跳べた。女は手練れではあったが屋根にまで追ってこれるほどの身体能力はなさそうだった。後は屋根から屋根へと逃げていけば……。

 ポケットから携帯が、落ちた。真鉤の携帯。ジャケットが破れていた。奈美やマルキの電話番号が収まっている。携帯が、地面に落ちる。

 真鉤は怒りと焦りに焼かれながら屋根の端を叩いて下へ跳ねた。左手で携帯を掴む。その時真鉤は女の前に身を晒していた。銃声が連続した。胴を撃たれたのは覚悟していた。自分の肉が胸から背中へ散るのを感じた。左腕。左腕がちぎれ飛んだ。携帯を持った腕が。前腕部。ちぎれ。真鉤は両肘で地面を掻き、携帯を握り締めた自分の腕を、口に咥え込んだ。銃声。ビシッ、と頭の一部が弾け飛ぶ感触。それでも、真鉤は、両肘で、最後の力を込めて、もう一度地面を叩いた。

 右目が見えなかった。なんとか屋根に届き、瓦を血で汚しながら這い上った。銃弾が内部から屋根に穴を開けたが外していた。吐き気。脳が一部飛んだことを自覚しつつ、真鉤は腕を咥えたまま隣の家の屋根に移った。人々の悲鳴が聞こえていた。サイレン。パトカーが近づいているようだ。暗い方へ。明かりの届かない屋根へと、真鉤はかなり減ってしまった体を引き摺っていく。

 遠くで女の舌打ちが聞こえた。距離は五十メートル以上となった。人々の視線の網からも抜けた。

 真鉤はぎりぎりで、生き延びた。

 

 

  三

 

 「今日は会いに行けない」と電話越しに言われた時、藤村奈美はそれほど驚きはしなかった。逆に、真鉤が無事だったことで安心したくらいだ。

 病室にもあの轟音は届いた。救急車とパトカーのサイレンも。数百メートルくらいの距離らしい。テレビのニュースに流れた。謎の爆発が起きて死傷者が出ているが詳細不明とのこと。銃声が聞こえたという証言もあったとか。でもこの町のことだから、まともな事件や事故ではない気がしていた。マスコミや警察が嘘をつくことを、奈美は知っている。

 奈美はただ、真鉤が巻き込まれた可能性を心配していた。「何があったの」と尋ねると、真鉤の声は少しためらっていたようだが、「直接会った時に説明する」と短く答えた。まあ、いいのだ。真鉤が無事ならそれでいい。

 携帯電話で話している間も見守っていた母は、気を遣っているのか細かく突っ込んだりはしなかった。少し経ってふと思い出したように、「あの爆発、大丈夫かしらね」と母は言った。

 救急車のサイレンが病院の前で止まったから、爆発の負傷者はここで治療を受けているのかも知れない。マスコミも来ているのだろうか。今は携帯やスマホで撮った動画を簡単にインターネットにアップ出来るから、情報統制するのは難しいと思うのだけれど。夏に近くの砂浜で巨大な怪物がジャンプした件。その映像がネット上にアップされていたとか。すぐ削除されたが、今でも都市伝説みたいな形でたまに話題になる。

 まあ、爆発事件は、真鉤が来れないこととは全く関係ないかも知れないのだけれど。

 微塵切りばかりの夕食は味気なくて、やっぱり大半を残してしまった。母はプリンを買ってきてくれたが、二口食べたらもう受けつけなくなった。食べられるなら何でも食べなさいと主治医は言っていた。もう先がないのだから、何も気にしなくたっていいのだ。

 父が仕事を終えてやってくる。母と同じく笑顔だが、気を遣った笑顔だ。ふとした拍子に泣きそうになるのをこらえているのが見える。馬鹿だなあ、と奈美は内心思う。私は別に悲しくはないのに。人は必ず死ぬのだから。ありがたいことに、私は満足して死ねるのだから。

 面会時間が終わり、奈美はまた独りになる。テレビをつけっ放しにしてニュースを探すが、爆発事件の続報はなかった。

 頭痛がひどくなり、奈美は目を閉じる。体の感覚がじわじわと攻め寄せてくる。左腕に刺さった点滴の針。ゆっくりと栄養と薬の成分が入ってくる。体内に散らばった病魔を意識する。奈美の寿命を着実に削り取っていく癌細胞達。人間の寿命が蝋燭で表されている話があった。落語かな。寿命の短い人は蝋燭も短く細くて、溶けて燃え尽きたその時が死ぬ時なのだ。奈美の蝋燭は燃え尽きる寸前なのだろう。小さな小さな炎。今にも消えそうなか弱い炎だ。

 ここで突然奇跡が降ってきて、魔法みたいにあっさり治ったりはしないんだよねえ。フフ、と奈美は誰もいない病室で笑う。

 学校の皆は受験勉強を頑張っているだろうか。もうとっくに願書を出している筈だ。クラスメイトの伊東実希はちゃんと受かるのだろうか。それほど仲がいい訳でもないけれど、悪い訳でもないし、なんとなく頼りない人だから。天海東司は受験しないんだとか。何でも屋になると言っていた。本気なのだろうか。冗談っぽく笑っていたが、多分本気なのだろう。天海らしい。彼がスーツを着て普通のサラリーマンをやっている姿が想像出来ない。いや、でも、意外にうまくサラリーマンをやっていけるかも。そんな他愛のないことを奈美は考える。

 体が沈んでいく。重くなる。奈美はリモコンを操作してテレビを消す。念のため携帯を確認するが、真鉤からのメールはなかった。

 午後十時半。明かりを消して眠りたくなったが、体が重くて壁のスイッチまで歩く気にもなれなかった。日に日に弱っていく。もうじきトイレにも行けなくなるかも知れない。手元にあるナースコールのボタンを押して看護婦に頼んでもいいのだけれど、わざわざそんなことで呼びつけるのも申し訳ない気がする。と、丁度看護婦が点滴のチェックに来てくれたので、奈美は明かりを消すよう頼むことが出来た。点滴は始まったと思ったら二十四時間繋ぎっ放しとなっている。急変した時に薬剤を注入しやすいからだと、副主治医がクールに語っていた。うん、表面的な同情を見せられるよりはそっちの方がいい。

 闇が訪れる。病室の窓から夜空が見える。散らばる小さな星々が見える。奈美は流星群のことを思い出す。いや流星雨だった。何日か前に母が買ってきてくれた雑誌の特集記事によると、来週の水曜の夜に見えるらしい。一番よく見えるのは午後十一時頃から二、三時間程度だとか。ほんの五日後。折角だから、それを見てから死にたいところだ。真鉤と一緒に見たい。その日が雨や曇りでありませんようにと奈美は願う。

 携帯のストラップにしている星のペンダントのこと。封じられた惑星に生物はいたのだろうか。そうだったら、楡誠の謝罪は物凄い数の犠牲を作ってしまったことになる。いや、もしかするとペンダントの中でちゃんと生きているのかも。そんなことを考えながら奈美の意識は重苦しい闇に沈んでいった。

 ふと、目が覚める。

 まだ夜中だ。室内は相変わらず暗く、窓から見える星空もそのままだった。静寂の中で聞こえるのはエアコンの作動音くらいだ。

 どうして目が覚めたのだろう。看護婦が覗いていったのだろうか。それとも。

 奈美はある予感を抱き、小さく呟いてみた。

「真鉤君」

 数秒後、ベッドの下から「遅れてごめん」という低い声が返ってきて、奈美は笑ってしまった。

「大丈夫だったの」

「一応ね。随分ズタボロにされたけれど、なんとか逃げた」

 それから彼は、今日あったことを説明してくれた。センター試験の帰りに見かけたあの外国人の二人組。人を攫ったのでちょっかいをかけたら街中で殺し合いになってしまったこと。大男を殺したら、怯えていた少女がいつの間にか若い女になっていて、メチャクチャに撃たれたこと。結局攫われた若者は切り刻まれて死んでいたし、他にも巻き込まれて死傷者が出てしまったこと。手足がちぎれたけれどなんとか逃げ出して、ある程度回復するまで隠れていたこと。日暮静秋に連絡して車を寄越してもらい、服を着替えてから病院の近くまで送ってもらったこと。

 話している間、真鉤はずっとベッドの下だった。「椅子に座ったら」と奈美は言ってみたけれど、「看護婦さんに見つかったら困るし」と真鉤は答えた。本当は、まだボロボロの状態だから奈美に見られたくないのかも知れない。

 一通り聞いた後で、奈美は言ってあげた。

「ふうん。大変だったね」

 ベッドの下で真鉤は苦笑したと思う。奈美は続ける。

「結局、その二人組は何だったの。マルキとは、関係なかったんだ」

「マルキにも連絡した。騒ぎを起こしてしまったから、謝罪も兼ねてね。マルキのメンバーではないと言っていたけれど、心当たりがありそうな感じだった。マスコミに報道規制をかけて、現場の後始末もやってくれたみたいだ」

 まあ、報道規制も悪いことばかりじゃないのだろう。

「馬鹿なことをした。心配ばかりかけて、ごめん」

 真鉤の声は暗く、苦かった。彼は落ち込んでいる。奈美以外のために命を懸けたことを、申し訳なく思っているらしい。

「でも、人を助けようとしたんだよね。なら、いいことじゃない。結果はまあ、別として」

 沈黙。真鉤が慰めの言葉をすんなり受け入れられてないのが分かる。私って、エスパーみたいだな、と奈美は思ったりする。それとも、皆恋人の心は読めるものなのだろうか。

「僕は……」

 真鉤が、喋り始めた。

「本当は、彼を助けようとした訳じゃないんだ。いや、助けようという気持ちもあったのだろうけれど、一番の理由は、違うんだ。……一番の理由は、腹が立ったからなんだ」

「何に対して」

 奈美は尋ねる。

「……。理不尽なことに、かな。この世界がそもそも。正しく生きていても幸せになれるとは限らなくて、運次第で事故に遭ったり殺されたり……かと思うとあいつらや、僕みたいな、殺人鬼がのさばっていて……ああ、違う。それより僕が言いたいのは……」

 ベッドの下でゴツンと音がした。頭をぶつけたのだろうか。真鉤は小さな呻き声を洩らし、それから溜め息をついて、言った。

「君が、死んでしまうのが、嫌だったんだ。僕が腹が立っていたのは、そういうことだったんだ。結局は、八つ当たりだったんだ」

 フフ。何故か奈美は笑ってしまった。笑ってはいけないのかも知れないけれど、まあ、いいのだ。

「人はいつか必ず死ぬって、真鉤君自身が言ってたのにね」

「そうだね。でも、僕は、君が死ぬのは嫌なんだ」

 そうかあ。それは、嬉しいなあ。

 嬉しいことを言ってもらったので、奈美は彼をどうにかして慰めてあげようと思った。頭は鈍っているけれど、何かうまい言葉を考えないといけない。もうすぐ死ぬ自分が、愛しい男に何を遺せるだろうか。

 そして、奈美は真鉤に告げた。

「私ね、真鉤君には、正義のヒーローになって欲しいな。悪い奴をやっつけて、正しい人を助けてくれる、そんなヒーロー」

「……。僕は、ヒーローにはなれないよ。ただの人殺しの、化け物だ」

「うーん。なら、ダークヒーローってのはどう。影を背負った正義のヒーロー。アメリカのコミックでは、よくあるみたいだし」

 少しの沈黙の後、真鉤が尋ねた。

「僕に、ヒーローの資格はあるのだろうか。僕みたいな、殺人鬼の……」

「大丈夫。私が許すもの。私が資格を与えてあげる」

 ベッドの下で、真鉤の笑う気配があった。

「そうか。君に許してもらえたんなら、安心だな」

「うん。安心してね。……そろそろ寝るね。お休みなさい」

 奈美も安心した。安心したら眠くなってきた。体が重くて、眠りの闇に沈みたかった。

「お休み。また明日来るよ。体が治るのが遅かったらまた夜中になるかも知れないけれど」

「あ、そうだ。来週の流星雨。一緒に見ようね」

「そうか。来週だったね。うん。必ず一緒に見よう。お休み」

 それで奈美は、嬉しい気持ちを抱いて眠ることが出来た。

 

 

  四

 

 希少生物保護管理機構は、防衛省、警察庁、文部科学省などから予算を集めて運営される組織だ。マルキと通称されるのは、関わってしまった職員が見せられる証明書や書類に、丸で囲まれた大きな「希」の赤文字がついているためだった。

 組織のトップは塔村幹彦という男で、総務部長という肩書きになる。年齢は五十代、痩身で顔色が悪く、表情も殆ど動かさないので仮面のような印象を与えた。誰かと話す時も相手の目を見ず、必要最小限のことを事務的に伝えるだけだ。部下を褒めもしなければ、感情的に叱ることもない。塔村はそんな男だった。

 黒塗りリムジンの後部座席で高級シートに体を預けながらリラックスする様子もなく、塔村は黙って前を向いている。

 向かいのシート、塔村の視線から逃げるように端に座るのは現場調査官・伊佐美界だった。大型の黒いサングラスで存在しない目元を隠しながら、彼の唇は緊張に引き結ばれている。

 重い沈黙を抱えてリムジンは進む。窓の外を首都の夜景が流れていく。やがてマイク越しに運転手の声が届いた。

「そろそろ到着します」

 二人は返事をしなかった。ただ、少し経って、伊佐美がピクリと体を震わせて、上司に報告した。

「結界に入ったようです」

「どんな結界だ」

 無表情に塔村が問う。

「シルバー・ゴーストの魔術結界だと思います。敵意ある者の侵入を拒絶するタイプのようです。朧は入れません。無理に侵入させれば負傷するかも知れません」

「朧は帰っていい」

 塔村は言った。特にアクションを起こさなくても、それだけで指示は伝わるらしい。

 リムジンが到着した場所は、赤坂の米国大使館だった。

「お待ちしておりました」

 流暢な日本語を話す職員が二人を先導する。危険物をスキャンするゲートを通り抜け、幾つもの監視カメラに睨まれながら二人は歩く。塔村は完璧な無表情を崩さず、伊佐美は次第に重くなる足を我慢して引き摺っていた。

 VIPルームの扉。職員がノックして数秒、中から「カムイン」という声が応じた。職員が扉を開き、マルキの二人は魔窟の中心に足を踏み入れた。

 豪華な内装に調度品、そんなものに塔村は目を向けたりしない。彼の目は正面奥のソファーに座る男に向けられた。

「座りたまえ」

 今度は日本語で告げたその男は小太りの西洋人だった。年齢は塔村と同じくらいだろう、金髪は後退して薄くなっている。ただ、あらゆる感情を抑制した機械のような塔村とは違い、独特の奇妙な雰囲気を纏っていた。青い瞳から放たれる、相手の本質を覗き込もうとするかのような視線。

 ソファーの後方、部屋の片隅にひっそりと別の男が立っていた。顔色が悪く、目の下にひどい隈がある。屋内なのに白のロングコートを脱がず、客の来訪など何処か他人事のように見守っていた。護衛にしては緊張感がなく、戦闘に習熟しているような佇まいでもなかった。

「希少生物保護管理機構の塔村です。これは調査官の一人で伊佐美です」

 親愛の情の全く篭もらない挨拶をすませ、塔村は男の向かいのソファーに腰を下ろした。間にローテーブルがあるが、ノートパソコン以外は何も載っていない。

「君も座りたまえ」

 男に促され、伊佐美も遠慮がちに塔村の隣に座った。

 それで小太りの男が名乗った。

「ABUL長官のクロス・ホワイトマンだ。塔村君とは三年ぶりくらいになるか」

 ABULは、特殊生物管理局を意味する名称の頭文字を取ったもので、日本のマルキに相当するアメリカの組織だった。主目的は、アメリカの支配域における怪物や超能力者、異常現象の被害を防止し、更には研究管理することだ。必要とあれば軍隊に警察、CIAを含めたあらゆる組織に命令する権限を持っている。

 塔村は黙っている。紅茶も菓子も出さないまま、ホワイトマンが早速用件に入った。

「私の部下達がこの国で活動中に襲撃を受け、有能なエージェントを一人失った。襲撃者が君の部下ではないかという疑いがあってね。何か弁明することはあるかね」

「あれは私の部下ではありません」

 塔村は言った。

「当機構の戦闘活動に協力してもらうことがある、単なる民間人です。機構が彼の行動全てに責任を負っている訳ではありません」

「ふむ……」

 ホワイトマンのコメントを待たず、塔村は続けた。

「ちなみに彼の報告によると、あなたの娘と同行者が一般市民を拉致したために介入したそうです。直接二人に攻撃を仕掛けたのではなく、石で窓を割って警告したと。多くの人の目がある街中で殺し合いになるとは、彼も予想していなかったそうです。そして、これが最も重要な点ですが、今回ABULからは何の事前連絡もなく、無断で日本国内にボックスメンを派遣して活動させていたことになります。以上の点から、当機構が非難される謂れはありません」

 ボックスメンとはABULの実働部隊の綽名だった。予め文章を頭の中で用意していたかのように、淀みなく塔村は喋り終えた。

 塔村の冷たく沈んだ瞳を、ホワイトマンの青い瞳が見据えている。その瞳孔は小さく細く、針の穴ほどになっていた。投げかけた鋭い視線で、塔村を刺すかのように。

 ホワイトマンは言った。

「先月、東名高速道路でエージェントが起こした事件は、事故として処理されたようだが。つまり、日本国政府はABULの国内活動を把握しており、尚且つ黙認していたということではないのかね」

「一つの犯罪行為を見逃したからといって、その者の全ての犯罪を見逃すということにはなりません」

 感情は篭もっていないが、辛辣な台詞だった。

 ホワイトマンは僅かに口元を緩め微笑した。

「確かに筋は通っているな。君の主張が正しい。しかし、理屈としての正しさと現実の正しさが異なることは、君も理解しているのではないかね」

 塔村は答えなかった。

「それでは、君の言う『単なる民間人』の素性と能力についての資料を渡してくれたまえ。娘が彼を気に入っているようでね。娘の言った通りに彼が本当に不死身なら、ABULとしても研究対象に是非確保しておきたい」

 数秒の沈黙。塔村はまだ動かず、隣の伊佐美は膝の上で拳を握っている。部屋の隅に立つロングコートの男は、二人の客を静かに見下ろしていた。

 塔村が、動いた。右手をスーツの内ポケットに入れ、金属製の小さなケースを取り出す。

 ケースの中にはUSBフラッシュメモリが収まっていた。防水防塵でハード的に暗号化される高セキュリティ品だ。

 塔村が手渡そうとすると、ホワイトマンは右手人差し指を立て、左右に振ってみせた。

「違うな。それじゃない。本命は隣の彼が持っている方だ」

 指名され、伊佐美は唇を噛んだ。無表情を保つ塔村に、むしろ優しい口調でホワイトマンは告げた。

「私の目を誤魔化せないことは、君も知っているだろう。それでも試してみたかったのかね」

 ホワイトマンの極限まで小さく絞られた瞳孔。彼はこの目で、相手の欺瞞を見破ることが出来るのだ。この短い応酬を電話でなく直接会ってこなしたのは、そういう理由だった。

 塔村はUSBメモリを引っ込め、伊佐美に「出せ」と命じた。

 伊佐美はすぐには動かなかった。彼は苦渋の滲んだ声で、自分の立場を超える台詞を吐いた。

「手を出せば、破滅が待っているかも知れませんよ」

「なるほど、君がそう思っているのは分かった」

 ホワイトマンは言った。

「しかし、手を出すかどうかを決めるのは私だ」

 それで伊佐美は唇を噛み、黙って自分のポケットから別のUSBメモリを差し出した。

 ホワイトマンはノートパソコンをスリープ状態から復帰させ、USBメモリを挿した。

「パスワードは」

「LLLARSIKEREI、です」

 塔村がそらで読み上げると、ホワイトマンは即座にアナグラムを解いてニヤリとした。

「シリアルキラー(Serial Killer)、か。うむ、通った」

 ホワイトマンの瞳孔はゆっくりと広がっていき、正常な大きさに戻った。彼がファイルを開いて読んでいる間、二人の客とロングコートの男はじっと待っていた。

 何度か眉をひそめたり、唸るような溜め息をついたり、パソコンから手を離して考え込んだりしながら、ホワイトマンが顔を上げるまで二十分かかった。

「幾つか、質問がある」

 ホワイトマンが言った。

「ABULが現在日本で活動している理由を、君達は把握しているかね」

「いいえ」

 塔村は首も振らずに応じる。

「異世界についての調査だ。ここ数ヶ月、世界中で奇異な失踪事件が多発しているが、日本では特に多いのでね。目撃情報から空間が歪んでいる場所を推定し、データを集めていた。空間の安定度、時間経過による変化率、そして、異世界と繋がる可能性。フィラデルフィア実験を初めとして、合衆国は長い間そういう研究を続けている。ここまで教えるのは、君達へのサービスだ」

 ホワイトマンはそこで再び瞳孔を縮瞳させた。

「この真鉤夭という少年は、異世界からの帰還者なのだね。しかし肝心の異世界についての情報が非常に少ない。また、帰還から九日間が経過しているのに彼の精査も行っていない。これはどういうことかね」

 塔村が答えた。

「民間の協力者である彼の意向を尊重したものです。当機構としてはそれほど異世界について執心している訳ではありませんから」

「彼がクラッシャー・ニレの庇護下にあるということも及び腰の理由かな。確認するが、真鉤が楡に守られているのは、白崎高校の生徒を守るという契約を楡が結んでいるためだね。飽くまで契約上、生徒の一人だから守るのであって、それ以上の優先度ではないと」

「当機構が把握している限りはそうなります」

「そうか。なら、やりようはあるか……。それから、真鉤の交友関係だが、日暮静秋との関係はどの程度親密かな。つまり、互いに命を懸けられる間柄であるのか」

「少なくとも、真鉤を守るために父親の日暮冬昇に介入を頼む程度には親密です」

「それは、相当、ということだね」

 ホワイトマンは苦笑した。

「同じく異世界からの帰還者である南城優子のことだが、日暮静秋のガールフレンドなのだね。例えば、ABULが彼女を確保した場合、日暮ファミリーと対立する可能性は高いと思うかね」

「……。非常に高いと思います」

「そうか。分かった」

 ホワイトマンは頷いた。先程の苦笑は今、嫌な冷笑に変わっていた。

「これは蛇足だが。真鉤夭の不死身性についての検査は、特別なことは何も判明せず失敗に終わったとあるね」

 塔村は黙っていた。

「ABULならもっとうまく検査出来る筈だ。うちの魔術師達は魂を覗くことも出来るからね」

 一方的な会談は終了した。

 帰りのリムジンの中で、伊佐美界は疲弊しきった声で上司に問うた。

「本当に、こうするしかなかったんでしょうか」

 塔村は部下を見返しもせず、しかし、珍しいことに返事をした。

「今更だな」

 重い沈黙。

 やがてまた、伊佐美が言った。

「彼らは、やるつもりですよ」

 塔村はもう、何の反応も返さなかった。

 伊佐美は俯いて、ただ、力のない溜め息をついた。

 

 

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