第五章 破綻

 

  一

 

 僅かに揺れる小さな部屋で、少女はぼんやりとベッドに腰掛けている。

 少女は自分の名前がサニー・ホワイトマンであることを知っている。しかし、自分が何故ここにいないといけないのかは知らない。誰も教えてくれない。

 少女はいつもサイズの大きな服を着せられる。ルナのためだ。昔は少し大きなくらいだったが、段々ブカブカ具合がひどくなり、今は大人の服を着させられている。靴は柔らかくて伸び縮みするので、なんとか脱げずに歩くことが出来る。

 少女は友達がいない。もっと小さな頃に、アイスクリーム屋の息子と仲良くなったことがある。彼は少女に不思議そうに「学校に行ってないのかい」とか「なんで大きな服着てるの」とか聞いた。最初は少女と同じくらいだったのに、どんどん彼の背丈は伸びていって、少女よりもずっと年上になった。

 ルナが彼を撃ち殺したらしい。

 両親はいる。母親は優しい人だったがいつの間にかいなくなった。父親は何を考えているのか分からない、ちょっと恐い人だ。たまにしか会わないし、会った時もなんとなく少女を邪魔そうに扱う。父は少女じゃなくてルナの方が好きなのだろう。

 少女はあちこち連れ回される。散歩ということだけれど、別にその気がない時も散歩させられる。散歩係はたまに交代する。前の前の係の男は散歩だけでなく絵本を読んだりもしてくれた。でもいなくなった。死んだという話だった。今の散歩係はとても大きな男で、無愛想だ。だけどこの間、オモチャ屋に連れていってくれて、小さなぬいぐるみを沢山買ってくれた。そのぬいぐるみ達はベッドの周りに並べておいた。ある時目が覚めたら全部首を引きちぎられていた。ルナがやったのだ。

 少女は色んな時間に目が覚める。気づいたら真夜中に廊下で立っていたこともあるし、何十人もの恐い雰囲気の大人達に注目されていたこともある。

 少女はいつの間にか眠っている。いつの間にか寝たり起きたりしている。知らないうちに何日も経っていたりする。普通の人にはそんなことは起こらないと、少女はずっと後になって知った。少女の時間の流れはおかしいらしかった。

 何代か前の散歩係が教えてくれた。少女はルナと、一つの場所を交代で使っているのだと。

 だから少女は、ルナとは会ったことがない。

 部屋が揺れ続けている。少女はここがトレーラーの中だと知っている。よくこれに乗せられて連れ回されたけれど、今回は日本という国に来ていた。散歩中は通りすがりの人達が物珍しそうに少女を見る。でも誰も声をかけてはこなかった。

 少女は、冷たい世界に囲まれていた。

 ドアがノックされる。少女が返事をためらっていると勝手にドアが開いた。いつものことだ。

 顔を覗かせた男は、ここにいるのが少女であることを確認して、ちょっとがっかりした表情になった。そんな反応にも慣れている。

 男はそれから作り笑いを浮かべ、「腹減ってるかい」と聞いた。

 少女は黙って頷く。

「ならちょっと待ってな」

 男はドアを閉め、それほど待たずにまた開いた。

「食べなよ」

 男が手渡したのはテイクアウトのハンバーガーとコーラで、少女が「ありがとう」と言うと、男は今度は自然な笑顔になった。

「あ、あの……。それから……」

 少女は尋ねた。

「どうした」

「あの、あの大きなおじさんは、いないの」

 最近は少女を起こしに来るのはあの散歩係の大男だった。

「いないよ」

 男は答えた。

「あのおじさん、死んじゃったの」

 少女の言葉に男は目をパチクリさせたが、やがて「見てたのかい」と聞いた。

「ううん。でも、なんとなく分かる」

「そうか。……もうすぐ目的の町に到着するぞ。お嬢ちゃんに言ってる訳じゃないがな」

 男はドアを閉めた。

 ハンバーガーもコーラのカップも、アメリカのものより小さかった。冷えかけたハンバーガーにパクついたところで、少女の意識は、途切れ……た。

 少女の体から白い靄が滲み出し、全身を包み込んだ。輪郭が膨らみ、大きくなっていく。

 ほんの十秒程度で靄が薄れて消えると、少女はいなくなり、同じ服を着た若い女になっていた。

 女は持っていた食べかけのハンバーガーに気づくと、皮肉な笑みを浮かべて二口で食べてしまった。氷の溶けたコーラも一気に飲み干す。

 それから女は装備の点検を始めた。防弾チョッキのずれを直し、二挺の拳銃を出して残弾を確認し、両脇の下のホルスターに戻す。専用のベルトに斜めに挿した四本のナイフ。血の汚れはない。背中側には刃渡り三十センチの大型ナイフ。特殊合金製で骨ごとあっさり首や手足を落とせるが、怪物相手には頼りない。

 女は、サニーが勝手に装備を外したりすることを許さない。随分前に部下に躾けさせたら二度とやらなくなった。だが点検しておくに越したことはない。女はサニーと違い、自分がいない間も状況を把握出来るし、特殊な通信機を使って部下に指示も飛ばせるが、情報のクオリティは極小サイズのテレビ電話にも劣る程度なのだ。

 ドアの前に人の気配がある。女はノックされるのを待たず自分からドアを開けた。

「グッドモーニング、ボス。メンツは揃ってますよ」

 挨拶したのは長い金髪を後ろで束ねた眼鏡の男だった。様々な電子機器を駆使して、情報を収集し分析する元ハッカー、タブレン・エイプリル。愛称はタビー。気楽な仕草、笑みの奥に自分への畏怖が潜むことを確認し、女は満足しつつイラ立ちを覚える。

 短い廊下を抜けるとすぐ作戦室となる。狭いスペースにモニターの並ぶテーブルと、据えつけの椅子が並ぶ。タブレン以外にも十人のスタッフが女を待っていた。

 頭部の肥大した小男。髪は薄くなり、顎には半端に髭を生やしている。陰鬱で眠たげな瞳は時折冷たい悪意を帯びる。超能力者のオールダム。女が日本に連れてきていた、ボックスメン最高レベルの戦闘員の一人だった。

 身長二メートル二十センチの巨人。特注のモッズコートで身を包み、フードを目深にかぶっている。人間らしい顔貌はただの仮面で表情を浮かべる余地はなく、体型の異形も隠しきれてはいない。海兵隊から特殊部隊を経てABULに入った男で、既に半身不随だった肉体を捨ててサイボーグになった。最先端の兵器を詰め込んだボディと、薬物によって増した神経の反応速度、それと長い戦闘経験が彼の強みだ。コードネームはマッド・ドッグ。今回のアタッカーは彼とオールダムになる。

 同じデザインのロングコートを着た四人の男達。本来は薄い銀色のローブだが、人目に触れる状況では飾りのない白のロングコートを使っている。魔術結社シルバー・ゴーストから派遣されたアデプト達。彼らはただ一文字のアルファベットが魔術名となっている。アデプト・Mはスキンヘッドで、アデプト・Kは黒髪のオールバックだ。アデプト・Rは左目が白く濁り、アデプト・Sはまだ若く異様な細面だった。彼らは一様に落ち着き払った澄まし顔で、無駄なお喋りをせず互いに念話でコミュニケーションを取る。女は内心彼らが好きではなかったが、師匠筋でもあるし有能なので使わざるを得なかった。今回は随行させていたMに加え、念のため本国から急遽三人呼び寄せた。一人でも『箱』を作れるが、四つの頂点に配置すればより強力な『箱』となるのだ。

 後は最低限の肉体改造を施した普通の戦闘員兼雑用係達。後続のトレーラーにも乗っており、今回の作戦に投入するメンバーは三十人を超える。

 女は血のざわめきを感じて笑みを浮かべた。狩りの前はいつもこうだ。

 揺れる床の上に仁王立ちして、女は部下達に告げた。

「獲物は不死身の殺人鬼だ。生け捕りが目的だが、不死身だから気にしなくていいだろ」

 黙って頷く者、苦笑を浮かべる者、そして無反応の者。部下達はまちまちな態度を示す。

 米軍のナンバープレートをつけた大型トレーラーは連なって進んでいく。三両は同じデザインだが、最後尾の一両の荷室は何のペイントもなく堅牢な造りだった。鋼鉄の壁の厚みは五十センチを超える。後端の扉は電子ロックだけでなく、太い鋼鉄の閂が何本も掛かっていた。

 捕獲した生物を運ぶための特別製コンテナ。彼らが『ボックスメン』と呼ばれるもう一つの理由だった。

 

 

  二

 

 手足は週末の二日間でなんとか再生した。咥えて戻った左腕以外はゼロから生えていったのだから凄いことだ。真鉤夭は改めて自分の生命力に感心させられる。

 あの場に置き去りになった手足はどうなったのか気になるが、マルキが回収したのかも知れない。もしあの女が拾っていったのならどうなるか。指紋を取られるとすれば問題だが、マルキの検査では普通の人間と変わりないと言われたのだし、特に心配する必要はないだろうか。

 いや。そんなこと、もう、真鉤には、どうだっていいのだ。

 土曜と日曜は生えかけの手足を服で誤魔化して、日暮静秋に車椅子で連れていってもらった。一緒に見舞いに行ってくれた南城優子も、真鉤に喋りかけはしなかったが、なんとなく態度が軟化しているのを感じた。しかしそれも、やっぱり、真鉤には、どうだって、いい。

 彼女の。藤村奈美の体は衰弱しているが、意識は比較的保たれている。そういう薬を飲んでいる。もう長く生きないことを前提にした強力な鎮痛作用で、彼女の神経は保たれている。

 彼女は真鉤を見ると微笑んでくれる。今にも消えてしまいそうな儚さを湛えて。まだ生きているのが奇跡みたいに。

 残り僅かな時をずっと一緒に過ごしていたいのだけれど、やはりずっと付き添っている彼女の母親とは微妙に気まずいことになる。互いに気を遣っている。それで奈美は真鉤に任務を与える。ちゃんと登校すること。学校の様子を後で報告すること。了解。何かあったらすぐ駆けつけるからと、真鉤は彼女に伝える。「何か」がどんなことかは、明らかなのに。

 いつものように夜を病室の彼女のベッドの下で過ごし、朝になると彼女に挨拶して出発する。今日はいつもの時間になっても彼女はまだ眠っていて、挨拶するために起こすのも悪いなと考えていたら目を覚ました。

「おはよう」

 頬骨の浮いてきたやつれた顔で、彼女は真鉤に微笑む。

「おはよう。学校に行ってくるよ」

 真鉤は告げ、出発のキスをすませる。

 病室の窓から出るつもりだったが、まだ午前六時なのに廊下を歩く医師の気配があり、真鉤は声をかけることにした。

 奈美の副主治医。マルキから派遣されたこの永井という男は、態度はちょっと冷淡だが医者としては有能なようだった。年齢は三十代の後半くらいか。この病院で奈美以外の患者を診ているのかは知らない。

 永井は奈美の病室の前を通り過ぎた。真鉤は奈美とは目と目で別れの挨拶を交わし、静かにドアを開けて廊下へ滑り出した。

 廊下の突き当たりにある休憩スペース。今はまだ明かりも点かず薄暗い中で、永井は紙コップを取ってウォーターサーバーの水を注ぎ、椅子の一つに腰を下ろした。歩み寄る真鉤と目が合っても驚きはしない。

「おはようございます」

 真鉤が挨拶すると、永井は薄く笑みを浮かべて迎えた。

「多分いるだろうと思ってね」

「……何かあるんですか。彼女のことで」

「いや、藤村さんのことは前に説明した通りだ。いよいよ本当に覚悟した方がいいというのは、君も分かってるだろう」

 ズバリと言われても、真鉤はもう腹が立ったりはしない。事実なのだから。

「それより君に言っておくのは別のことだ」

「何です」

「昨日、上役から電話がかかってね。出向先のこの病院から元の職場に戻るよう提案された」

 彼の所属はマルキだ。真鉤のコネで奈美の治療のためにわざわざ医者を送ってもらったのに、引き揚げるとはどういうことだろうか。

「彼女の治療がまだ終了してないのに、ですか」

「手続きはこちらでやるから月曜はもう出勤するなと言われたよ。詳しい事情は知らないし、私も敢えて聞かなかったが、もしかすると、君は、気をつけた方がいいのかも知れないよ」

 どういうことだろうか。奈美の治療に見込みがないから医者を戻すというのなら、予め真鉤に連絡してくれても良さそうなものだが。そうでないなら、真鉤に便宜を図るだけの価値がなくなったということか。あれからマルキからの連絡は何もないが……。

 もしかすると、あの件か。奇妙な外国人コンビとの殺し合い。

「言いたかったのはそれだけだ。君に黙っていろとは命じられなかったしね。関わってしまったからには、一応、ね」

「……わざわざ、ありがとうございました。それで、もう本当の職場に戻られるんですか」

「いや、ここにいるよ。受け持った患者は、きちんと診ておきたいからね。こんな私でも、それくらいはね。上役にも強く反対はされなかったから、それほどシビアな状況でもないのかも知れないよ」

 彼が本来どのような職務に携わっているのかは知らないが、真鉤は今、この医者に尊敬を込めて心から礼を言った。

 バスに乗って自宅に戻り、真鉤はまず侵入者の痕跡がないか点検する。奈美が入院して以来おろそかになってしまっていた。

 特に異常はなかった。ただ、地下室の焼却炉を目にした時、真鉤は自分が殺人鬼であることを毎回思い知らされる。殺し方がスマートになり、もう死体を持ち帰って焼くようなことは暫くやっていない。

 そういえば、前回人を殺したのはいつだったか。二週間以上経っている筈なのに、体の奥に血の疼きを感じなかった。奈美のことを気にしているせいで殺人衝動を忘れてしまっているのか。そうならば、呪いのような殺人鬼の宿命は、真鉤自身の心の問題だったということに……いや。真鉤は気づく。先週蛇男を殺した分がカウントされているのだろう。あれも一応、人間だった訳だ。

 それから食事。大量に保存していた冷凍肉を焼いては食べ焼いては食べ、今日も五キロ分ほど食べた。昼頃には消化されて自分の肉になってくれるだろう。それでほぼ、元の体重に戻る。

 シャワーを浴びて学生服に着替える。夜間は念のため大型の鉈を鞘ごと背中にくくりつけていたが、流石に学校までは持っていけない。

 あの医師の警告を思い出す。もう一度携帯を確認してみるが、やはりマルキからの連絡は来ていなかった。

 鎌神刀を携帯出来ればいいのだが……。やはり、無理だな。

 いつもより少し早い時間に、真鉤は一人で出発した。もう奈美が玄関の呼び鈴を押すことはないのだと思いながら。

 奇跡は多分、起こらないのだろう。

 不死身の殺人鬼もいて吸血鬼もいて、異世界もあるのに。

 それなのに、彼女は普通に病気で死んでいくのだ。

 空は薄暗く、曇っていた。雪でも降りそうな気配だ。冷たい風が真鉤の頬を叩いていく。今はもう、風と共に誰かが消えるようなことは起きていないのだろうか。楡誠があの世界の生き物を皆殺しにしたから。それとも、また別の異世界とも繋がっていて、危険は消えていないのだろうか。

 白崎高の裏門に近づく頃には同級生の姿も増えてくる。名前を知っている相手もいれば、知らない者もいる。一人で登校する真鉤を見て、ちょっと怪訝な表情になる男子生徒もいる。いつも彼女と一緒に登校していたのに今日はどうしたのか、とでもいうように。真鉤は無表情に歩くだけだ。奈美と知り合う前、自分がいつも無難な作り笑いを浮かべていたことを思い出しながら。

 ホームルームの時間になっても教室の席は半分以上空いていた。既に受験真っ只中で、自宅で勉強している者も多いのだろう。私立大学で今が受験日のところもあるかも知れない。皆緊張と疲労を抱えていたが、明後日の流星雨のことを話題にする者もいた。やはり楽しみにはしているのだろう。真鉤にとっては奈美と一緒に観ることが、今の最大の目標に近くなっている。

 自習ばかりになった授業時間。もうこの先勉強することなんてないのだろうと思いながらなんとなく教科書をめくっていると、クラスメイトの一人が真鉤に声をかけてきた。

「真鉤さー。あのさ」

 先週も話しかけてきた男子生徒だった。奈美のことを聞いてきたので気まずくなった相手だ。

「何ですか」

「お前、大学受けないのか」

 何処でそれを知ったのだろう。願書のことで担任と話していた時、居合わせていたろうか。

「ええ、そうなりますね」

 真鉤が答えると、彼は何か言いたげな顔になった。奈美の入院と関係あるのかとか、これからどうするつもりなのかとか、そんな台詞だろうか。

 だがその男子生徒は少しの沈黙の後、「そうか。頑張れよ」とだけ言った。

「ありがとうございます」

 ちょっと意外だったので、真鉤の礼にも感情が篭もっていたのかも知れない。相手ははにかんだような笑みを浮かべ、自分の席に戻っていった。

 彼とは二年生の時から同じクラスだったが、もしかすると、真鉤と仲良くなりたかったのかも知れない。今更の話ではあるが。去年の体育祭で、昼食時にちょっとした会話を交わしたのも彼だったような気がする。結局はただのクラスメイトの一人で、友人になることはなかった。真鉤は他人との深い関わりを避けてきたから。

 本当に、今更の話だ。

 奈美の弁当もなく、朝にコンビニでパンを買っていく習慣もなくなっていたため、学食で定食を食べる。高校生活で学食を使うことなど、この三年の二月になるまでなかった。正直、味は値段なりだ。それでも何か感慨深くて、真鉤はゆっくり味わって食べた。

 もうすぐ終わる。色々と。

 全て、終わってしまうのだろう。

 そういう静かな諦念が掻き乱されたのは、午後の授業時間になって天海東司が教室を訪れたためだ。

 やはり自習で教師もいなかったが、だからといって他の教室まで遊びに来る者は流石にいない。天海は気楽な微笑を浮かべてみせていたが、左目の奥底は鋭く光っていた。

 ゾッとする。また何か、あるのか。

 もういいだろう。もう終わりだ。なのにまだ、何か、あるのか。

 天海が手招きする前に真鉤は立ち上がっていた。クラスメイトの怪訝な視線。真鉤は気にせず教室を出る。

 歩き始めた天海の横に並ぶ。教室の前を過ぎて階段に近づいた頃、天海がボソリと言った。

「囲まれてる」

「何にですか」

「分からねえ。嫌な感じだが、別に俺達を皆殺しにするつもりでもないっぽい。今のところはな。楡先生だったら分か……」

「何でしょう」

 いきなり目の前に楡誠が出現したので、二人は急停止することになった。なんとなく予想はしていたので真鉤は驚かずにすんだ。

「ストーカーかよ」

「いえ、つきまとってはいませんよ。見守ってはいますが」

 げんなり顔の天海に、楡は微笑を浮かべて答える。

「それで、囲まれているんですか」

 真鉤は尋ねる。

「分かりません。私も全知ではありませんので。しかし、天海君がそう言うのなら囲まれているのでしょうね。詳しくスキャンしてみます」

 楡は天海にかなりの信頼を置いているような言い草だった。以前、奈美が言っていた。天海が楡を殴ったとかどうとか。

 真鉤のポケットが震え出した。携帯のマナーモード。

 一瞬奈美の副主治医からかと思い、慌てて取り出し開いたが登録された相手ではなく、知らない番号だった。それも、日本の市外局番とか携帯の090などとは全く違っていた。

 これは何だ。

 戸惑う真鉤の顔を見据え、天海は指を振って行き先を示した。早足で移動し、職員室の隣のカウンセリング室に到着する。ここなら邪魔は入らない。楡も自然についてきていた。

 電話に出ない訳には、いかないだろう。真鉤は覚悟を決めて通話ボタンを押した。まず、自分からは喋らない。

 一秒後、向こうの声が届いた。

「遅かったな。もう少しで切っちまうとこだったぞ。校内放送で呼び出させても良かったんだぜ」

 伝法な口調ながら、声は若い女のものだった。誰なのかすぐに分かった。

 蛇男と一緒にいた、金髪の女だった。怯えた少女ではなく、人殺しの若い女の方。真鉤の手足を撃ち飛ばした女。

 予想していた中でも最悪に近い展開だった。電話番号を知られている。学校のことも。とすればもう名前も住所も知られていると考えるべきだ。あの場所に真鉤の素性を示す材料はなかった筈だ。真鉤のことを知っているのはマルキくらいで……。

 マルキが、情報を洩らしたのか。連絡した時の伊佐美は、二人組はマルキのメンバーではないと言っていた。しかし、関連組織ということはあり得るのだ。

 真鉤の方に連絡せず、情報を向こうに渡したとすれば、マルキはもう真鉤を見捨てたということか。彼らともそれなりに、うまくいっていると、思っていたのだが。だが、マルキはそもそも、人の命など平気で使い捨てる組織だった。

「どなたですか」

 真鉤は尋ねた。

「ボックスメンと言えば分かるだろ。お前が分からなくてもクラッシャーなら分かる筈さ。クラッシャー・ニレ。いるんだろ。日本ではミキサーだっけか。マコト、ニレ・マコトだよ」

「代わりましょうか」

 楡が言った。携帯からの音量はそばに立つ二人にも充分届くほどだったが、そうでなくても楡は聞き取っていただろう。

「楡に代われ。今からお前をどうやって引き渡すかについて決めるんだからよ」

 真鉤は楡に「すみません」と言って携帯を手渡した。

「楡誠です」

 変わらぬ微笑を湛え、楡は電話の相手に言った。

「ボックスメンですか。ならば既にこの場所は結界に包まれているということですね」

「そーいうこと。あんたには過去に相当痛い目に遭わされたらしいからね、うちも対策してんのさ。ナイストゥーミーチュー、ミスター・クラッシャー。あたしは今のリーダーをやってるルナ・ホワイトマンだ」

 ボックスメンとは組織かグループの名前のようだ。楡とも関わったことがあり、どういう性質のものか分からないが結界を張れるらしい。

「真鉤君を引き渡せということでしたか。どういう理由でしょう。私は白崎高校の生徒を守る役目を負っていますから、正当な理由なく彼を渡す訳にはいきませんね」

「そのガキがあたしの部下を殺したのさ。不死身の殺人鬼を捕獲するには正当な理由だろう」

「ふむ。真鉤君、どうですか」

 楡が真鉤に目を向け、釈明を求める。

「彼らが通行人をいきなり攫ったので、出来れば助けようと思ったんです。石を投げて警告するだけのつもりでしたが、殺し合いになりました」

 楡にはまだこの件は話していなかった。話しておくべきだったろうか。しかし楡はすぐに悟ったようだ。

「先週金曜日の爆発事件がそうですか」

「はい。相手が自爆しました」

「ふうむ。結果的にトラブルを引き起こしたのだとしても、真鉤君の行動原理は日本社会の倫理的に間違っていないようですね。ならば、非があるのは君達ということになります。彼を引き渡すことは出来ませんね」

 台詞の後半は電話の相手に向けたものだった。

 電話の向こうから返ってきたのは、嘲りの低い笑い声だった。

「クックッ、クッ。それがどうしたよ。倫理とかどっちに非があるかとか、この世界の現実には何の関係もねえだろ。強い奴がやりたいようにやる。それだけだ」

「では、君達にその力があると」

「少なくとも今回、あんたは弱点を抱えてる訳だ。生徒を守る仕事なんだろ。校内にいる生徒全員と、生徒のふりした殺人鬼一人。どっちが大事だよ」

「可能ならどちらも守りたいですね。真鉤君は『ふり』ではなく実際に白崎高校の生徒ですから」

 気遣いなどというものを持たない楡誠が、自分を生徒の一人と認めてくれている。そのことに真鉤は妙な感慨を抱く。同時に、自分の行動が高校丸ごとを危険に晒したことに罪悪感を覚えている。これはどうやら、終わりだ。終わりが来たのだ。既に真鉤の心の一部は冷えていた。

 女の声が言った。

「今、学校の敷地全体を『箱』で包んでいる。中の一般人はあたしの指示一つで皆殺しに出来るぜ。脳の血管を破るか心臓を止めるのが手っ取り早いだろうが、別に生きたまま全身を腐らせたっていいんだ。クラッシャー、あんたに『箱』が見えないことは、分かってるんだぜ」

 楡誠は人間を一瞬で真空パックにしたり異世界を移動したり、本人の言うことを信じるなら惑星を圧縮してペンダントにしてしまったりする、神のような力を持っている。しかし、彼が全知全能でなく一部の感性が欠落していることを、真鉤は知っていた。ボックスメンという奴らは過去に楡と関わった経験から、対抗するすべを学習したらしい。

 真鉤は楡に言った。電話の相手にも聞こえる程度の声量で。

「いいですよ。僕は出ます。皆に迷惑をかける訳にもいきませんし。ただし……」

 携帯に顔を近づけ、冷たく、冷たく、告げた。

「僕が姿を現したとして、ちゃんと捕まえられるかどうかはそちら次第ですが。自信があるみたいですし、自分で手足を縛って出てこいなんて、みっともないことは言いませんよね」

「ハハハッ、ハハッ」

 電話の女は弾けるような笑い声を上げた。

「いいねえ。獲物は活きがいい方が面白いわな。痛みに泣き喚く面を見るのが楽しみだよ」

「では、ルールを設定しましょう」

 楡が言った。

「現在の状況は、君達が結界を使って全校生徒を人質に取り、私が真鉤君を助けないようにした、ということですね。ならば、結界を張っている魔術師は戦闘自体には介入しないということでよろしいですか。ボックスメンなら優秀な戦闘員を揃えている筈ですが」

 真鉤は式一三のことを思い出した。鎌神事件の後で、生徒として学校に潜入したマルキのサイボーグ。楡の仲裁で、式とは『タイマン勝負』で決着をつけることとなったのだ。

「いいぜ」

 女は意外なほどあっさり承諾した。

「こっちからは二人出す。そっちは真鉤、一人で来な。クラッシャー・ニレは手を出さない。その分、うちのアデプト達も介入しない」

 もしかすると女は、楡相手に最初から落としどころを想定していたのかも知れない。そのためのお膳立てで、結界ということなのだろう。真鉤には結界などまるで感じ取れないが、天海が感じたのなら多分本当だ。彼は異常に鋭い勘を持っている。

「では真鉤君と戦うのはその二人ということですね。他の魔術師も戦闘員も手出しはしない、と。それで真鉤君が二人に勝てば、ボックスメンは手を引く。真鉤君が負ければそのままボックスメンに確保される。その条件でよろしいですね」

「いいさ。皆の見てる前でよ、ウエスタンみたいに対決といこうぜ」

 少しだけズキリ、と来る。この女は、生徒達に見せるつもりなのだ。同級生が怪物と殺し合う、いや、怪物同士が殺し合うショーを。マルキは最低限、超能力者や怪物の存在を世間に知られないように配慮していた。だがこいつらにとって、そんなことはどうでもいいのか。

「それで、もし君達がルールを破った場合ですが」

 人形のような微笑にいつもの穏やかな声音で、楡は付け加えた。

「そうですね、ホワイトハウスを瓦礫に変えましょうか。自由の女神像でもいいですね。いや、両方というのも、いいかも知れません」

「ククッ、勝手にしなよ」

 女の声音に動揺する様子はなかった。

「さて」

 電話を切らぬまま、楡は真鉤に向き直った。

「僕は今の条件で構いません」

「勝負を始める前に、確認しておきましょう。君はボックスメンが何者なのかを知っていますか」

「……。知りません」

「ボックスメンとはアメリカのABULの実働部隊のことです。ABULも表には存在しないことになっている組織で、正式名称の日本語訳は特殊生物管理局ですね。マルキのアメリカ版のようなものです」

「こっちがオリジナルだがね」

 電話の女が補足する。

 なるほど。そういう組織な訳だ。真鉤は大体理解してしまった。

「君は三日前に彼らと戦った時、自分の素性がばれるような証拠を現場に残しましたか。例えば生徒手帳とか、カードの入った財布とか」

「いいえ。素顔も見られていない筈です」

「では、マルキが君の情報を渡したと考えた方がいいでしょうね。今後マルキと正式に敵対することになるか、そういう判断は後回しにしましょう。ボックスメンという名称の由来の一つは、捕獲した生物を運ぶための鋼鉄の箱です。ここにも持ち込んでいるでしょうから、君が敗北すればその箱に入ることになります。由来のもう一つは、所属する魔術師が使う結界です。シルバー・ゴーストという魔術結社はABULとの関わりが深く、何人も魔術師を派遣しています。結界は四角形で、いや、上下の厚みもありますから直方体ですかね、その空間に一旦封じられると、生物は様々な影響を受け弱体化させられ、脱出も困難になります。六十年ほど前から対策されているようで、私には結界の詳しい機能を認識することは出来ませんが」

 吸血鬼は自分の血で独自の結界を張り、人に見つかりにくくしたり出来る。ボックスメンの結界は、女の言うことを信じるとすれば、結界の中の人間を簡単に殺せるらしい。これから行われる戦闘には介入しないということだったが、結界の影響が真鉤にも及ぶ可能性は考えておくべきだろう。

「ボックスメンには魔術師だけでなく、マルキと同様に特殊能力者や戦闘用サイボーグも備えています。サイボーグの技術はマルキより数段上ですね。後は……そうですね。彼らは目的のためには手段を選びませんし、犠牲など気にしません。相手が外国人なら尚更でしょうね。他に聞きたいことはありますか」

「いえ、充分です。ありがとうございました」

 真鉤は礼を言った。

「じゃあ、グラウンドに出てきな。顔は隠さなくていいぞ」

 女が指示する。真鉤は従うしかない。

「それから、これを渡しておきましょう」

 楡が差し出したもの。いつの間にか彼の右手に握られていたのは、長い鉄の塊だった。

「君の自宅の地下室から取り寄せました、鎌神刀です。向こうは準備万端でしょうから、これくらいは許されるのではありませんか」

 鎌神刀。一メートル二十センチの分厚い刃は鎌のように湾曲し、鋭利さではなく重量で叩き斬るように作られている。刃と一体化した鋼鉄の柄は五十センチ以上の長さがあり、縄巻きで手が滑るのを防いでいる。柄の後端・石突部分は丸い輪になっており、指を入れて振り回すことが出来るのだが、重量十キロに近いこれを回転させながら自在に操るのは真鉤には無理だった。

 雪男の鎌神が使っていた大鉈を元にデザインされ、マルキが製作した殺戮凶器。マルキのナンバー・ツーだった黒淵から死の間際に譲られたもの。既に罪もない人を千人以上も斬り殺した、血塗られた凶器だが、真鉤が最も頼りにしている武器ではあった。

「気が利くじゃねえか。鎌神刀のことは知ってる。いいぜ。そっちの方が楽しめるからな」

 電話の女もOKを出し、それからすぐに付け加えた。

「まあ、楽しむ暇もないかも知れんがな」

「では切りますね」

 楡はあっさりと携帯の通話を切り、真鉤に返してくれた。鎌神刀と一緒に真鉤は受け取る。病院のあの副主治医からいつ連絡があるかも分からないし、携帯は自分で持っていた方がいい。

 自分は、勝つつもりなのだろうな。真鉤はそれに気づいて内心苦笑した。

「色々ありがとうございました。それと、ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

「いえ、今回君は特に間違ったことはしていないようですから」

 楡がそう言ってくれたのなら多分そうなのだろう。真鉤は少しだけ、救われた気分になった。

「では、行ってきます。天海君も、学校にも、迷惑をかけて、ごめん」

 ずっと黙って見守っていた天海東司は、フッと笑って首を振った。

「気にすんなよ」

 真鉤はカウンセリング室を出た。職員室に入ろうとしていた教師が真鉤の持つ鎌神刀を見て、ギョッとした様子で立ち止まった。

「真鉤、お、お前、何だそれ……」

 真鉤は微笑して一礼し、何も言わずに通り過ぎた。

 同時に、この瞬間本当に、真鉤の日常が壊れたことを実感した。長い間、取り繕ってきた、守り続けた、日常が。

 もう元には戻れないだろう。もし日暮静秋が協力してくれて、催眠術で皆の記憶を改変してくれればなんとかなるかも知れないが、数百人、下手すれば千人全員の記憶を操作するのは無理ではないか。真鉤は今の素性を捨ててこの町を去るしかなくなる。

 それでも構わない。真鉤はもうこの地の生活に執着はない。ただ、奈美に最後まで付き添える時間だけあれば。

 なのに、こいつらは、それを邪魔するのか。

 ボックスメン、か。マルキから真鉤の情報を得ているのなら、自宅の場所も知っている筈だ。どうして自宅を急襲せずわざわざ学校を包囲したのか。分かる気がする。

 その方が面白いからだ。

 殺人鬼共め。実に、僕が戦うのに、相応しい相手じゃないか。

 静かに湧いてくる怒りを抱え、真鉤は廊下を歩く。だがすぐ驚いたのは、天海が並んで歩いていることだ。

 真鉤の視線を受け、天海は言った。

「別に手伝うつもりはないぜ。手伝えるほどの力もねえ。だが、ちょっとな、相手を見るまではさせてもらうぜ」

「危険だよ。あっさり殺されるかも」

 天海は片眉を上げ、ニヤリとしてみせるだけで止まらなかった。言っても聞かないことを悟り、真鉤は諦めた。本来はぶん殴ってでも止めるべきなのだろうが、天海にはそれをさせない雰囲気があった。

 普通の人間なのに、不死身でも何でもないのに。ボロボロになりながら天海は、真鉤の血みどろの高校生活に、つき合ってきたのだった。

 廊下を歩いていた生徒がやはり驚いてこちらを凝視している。違うクラスなので名前は知らなかったが同学年だ。真鉤は無視して歩く。もう自分がどんな表情をしているのか、分からなくなっていた。

 昇降口で靴に履き替え、真鉤達は校舎を出た。ありがたいことに体育の授業はなかったようで、グラウンドは空だった。三人の男女を除いて。

 二人の男が並んで立ち、その十メートルほど後方に女が立っている。

 あの女だった。電話口では何とか、ホワイトマンと言ったか。戦闘服に着替えている訳でもなく、あの時の赤いダウンジャケットのままだ。手には何も持っていないが、いざとなれば素早く拳銃を抜き、高威力の弾丸を撃ち出せるだろう。

 美容には無頓着らしく長い金髪は所々ほつれ、化粧も口紅程度だが美人ではあった。ただし、既にこちらを捕捉している青い瞳は殺しの欲望で濁り、真鉤の同類であることを直感させる。赤い唇が浮かべた笑み。真鉤をどのように解体して楽しむか、頭の中で色々と想像しているのかも知れない。

 蛇男に連れられていた儚げな少女の面影は、欠片ほども残っていない。同一人物なのか。あの気弱で諦念を抱えた少女もこの女の一面なのかも知れないが、真鉤にはそんなことに配慮する余裕はない。ただ、真鉤が戦う相手はこの女の部下達であり、女本人ではない。だから殺さずにすむのだろう、多分。

 二人の男。大男と小男のコンビ。どちらも一目で強者と分かった。

 真鉤から見て右に立つ大男。身長は二メートルを優に超え、ダークグリーンの大型コートに包まれた肉体はバランスがおかしかった。足が短く、腕が太く長い。フードの陰にある無表情な顔は人工物だろう。異形は人外の生物であるためか。いや、遠目にも感じられる金属の重量感からサイボーグだと思われる。手袋を填めた両手は何も持っていない。得物は体の中にあるということか。

 静かな殺気が真っ直ぐに、真鉤に向けられていた。快楽殺人者ではない。落ち着いているが、油断していない。かなりの場数を踏んでいる雰囲気があった。

 左の小男は、その場に立っているだけでも面倒臭いというように、気だるげな表情だった。白いセーターに青いジーンズ。身長は小学校高学年くらいか。手足は細く、対照的に頭が妙に大きい。年齢は三十代だろう。薄く顎髭を生やし、眠たげな昏い目はその辺の石ころでも眺めるような視線を真鉤に向けていた。完璧に、舐められている。いつでも真鉤を殺せると思っている。

 こちらの男も手ぶらだった。銃を隠し持っている様子もなく、銃撃戦どころか格闘も得意には見えない。なのにここにいて、自信満々に立っているということは、かなりの特殊能力を持っているのだろう。

「天海君、もういいよ。これ以上は危ない」

 真鉤は横を歩く天海に告げたが、彼はまた首を振った。

「もう少しだ」

 三人との距離が近づいていく。真鉤は右手に握る鎌神刀の重みを感じる。

「えー、スクールカウンセラーの楡です。暫くの間、教室のカーテンを閉めていて下さい。放射線に被曝する恐れがあります」

 校内放送。穏やかな楡誠の声が敷地内に響き渡る。不謹慎な冗談に思えるが、被曝すると言われれば生徒達も半信半疑ながらカーテンを閉めるだろうか。殺し合いを見せないようにとの、らしくない楡の気遣い。……いや、冗談ではないのかも知れない。核爆弾内蔵サイボーグなんて、アメリカなら作ってもおかしくはない。楡のアナウンスを聞いて、女は口の片側だけを吊り上げて冷たく笑った。

 距離が縮まる。天海はまだついてくる。チリチリと、緊張感が高まっていく。相手方、今のところ攻撃してくる気配はない。いつ始める。「ウエスタンみたいに」と言った通り、真っ当に対決するつもりか。生徒を人質に取るような、糞汚い組織が。

 真鉤は自分の中の殺意が高まっていくのを感じる。定期的に生じる狂おしい衝動とは違う、何処までも冷たく冴えた意志。自分は落ち着いている。怒っているが、落ち着いている。

 人の皮をかぶった偽刑事・大館千蔵と戦った時は、血の快楽に狂っていたような気がする。鎌神と戦った時はどうだったか。同級生を守るため、奈美を守るためにただ必死だった。やはり彼女のために、須能神一に操られた千数百人の一般人を殺戮した時は。やはりあの時も、冷めていたように思う。殺していることには変わりがない。だが、自分の殺人鬼としての本質が、変わってきているのだろうか。

 奈美のことを思う。彼女は今も病室で、死の足音を聞いている。起きているなら、真鉤のことを考えているのだろうか。

 こいつら。もう少し待っていてくれたなら、大人しく捕まってやったかも知れないのに。殺されても良かったのだ。

 もう、絶対に、負けてはやらない。

 真鉤達は同じペースでグラウンドを歩く。三人は動かない。大男の気配が戦闘態勢に近づいていく。小男は相変わらずどうでもいいような顔をしている。女の視線が値踏みするように天海に触れ、すぐ真鉤に戻った。右手の鎌神刀を見ている。左手に握り込んだものには気づいていないようだった。

 背後からの視線を感じる。校舎から。教室の方から、複数。カーテンを閉めろと楡は放送してくれたが、好奇心からグラウンドを覗く生徒もいたようだ。

 その中には真鉤のクラスメイトもいるかも知れない。振り向いて確かめることは、敵に隙を見せる危険があるためやめておいた。……いや、本当は、確かめるのが怖かったのだろう。真鉤は冷めた心で自嘲した。

 二十メートルほどまで近づいた時、女が口を開いた。

 

 

  三

 

「一人で来ると思ったんだがね。その雑魚は」

 真鉤と天海は同時に立ち止まった。真鉤が答える前に天海が答えた。

「ただのセコンドだ。戦闘が始まる前にリングから降りる。だが、アドバイスくらいはさせてくれてもいいだろ」

 相手の強さと異常さを感じ取っているだろうに、天海は度胸が据わっていた。彼はいつもそうだ。

「ふうん。アドバイス、出来るんだ」

「そっちは人質も取ってるし、自信があるんだろ。なら雑魚のお喋りくらい大目に見なよ」

 それで、ムッとしているのか笑っているのか分からない顔をして、女は黙った。真鉤は天海をかっこいいと思う。自分が不死身でないただの人間なら、天海と同じことは絶対に出来ない。

 殺し合いの相手二人は名乗らなかった。真鉤のことは単なる処理対象だと思っているのだろう。

 天海は左目を細めて三人を観察した。最初にリーダーの女を、次に小男に視線を移し、それから大男となる。また小男に戻り、最後にまた女。合計で十秒にも満たなかったが、女を見つめていた時間が一番長かったと思う。

 女は皮肉に唇を歪め、腕組みして待っていた。大男は微動だにせず、小男は校舎やグラウンドのあちこちを適当に見回したりしていた。彼らは、天海のことを何とも思っていないようだった。

 天海は真鉤の耳に口を近づけて、ぎりぎり聞こえるくらいの小声で告げた。

「一発死にがあるぜ。お前でもな。二人共ヤバいが、特に小さい奴だ。気をつけるのは……目だ。出来るだけ、奴に見られるな。隠れるものもないここだと難しいがな」

 一目見ただけでそこまで分かるのか。だが真鉤は信じた。天海が何かを断言した時、間違ったことはなかった。

「でかい方。お前も分かってると思うが、サイボーグだな。飛び道具を内蔵してる。銃だけじゃなさそうだ。式の奴より、相当硬いぜ。……それから、脳味噌は、頭じゃなくて胴体の方にあるっぽいな」

 真鉤は頷いて、「ありがとう」と言った。だが、天海のアドバイスには続きがあった。

「あの女は嘘つきだ。いざとなったら何でもやる。気をつけたって、どうしようもないかも知れんがな。俺はこれから下がるが、女は十中八九、後ろから俺を撃つ」

 真鉤は思わず天海を見返した。天海は微笑していた。覚悟している顔だったが、死ぬつもりの顔ではなかった。

「お前を動揺させるためだろう。だが俺のことは心配するな。よけるからよ。その隙にお前は小さい奴を狙え。チャンスは多分、そこだけだ」

「分かった。ありがとう」

 無事でいてくれ。言ってしまえば悟られるので、真鉤はその言葉を呑み込み、改めて礼を言った。

 冷たい風が吹く。その風よりも更に冷たく、緊張感が鋭さを増していく。校舎からの視線。もう気にする余裕もない。大男の、気配が変わった。

「アドバイス終わりだ。セコンドはリングを降りるぜ」

 天海が気楽な口調で片手を上げ、背中を向けた。

 瞬間。女が俊敏な動作で拳銃を抜いた。銃声。天海っ。真鉤は心中で叫びながら、しかし天海の方を見ず姿勢を低くして駆け出した。右手の鎌神刀を横に振りかぶる。向かう先は左の小男。大男が動く。ジョグンッという機械音。視界の隅で、大男の両手首が外れて折れ曲がり、何かが飛び出すのが見えた。サイボーグ。女の様子は。唖然とした顔。視線の先は真鉤ではない。天海の駆けていく気配。天海は銃弾を躱したな。凄いぞ。女は二発目を撃つだろうか。と、女は後方に飛びすさっていく。よし。

 素早い突進に小男は驚いたようだった。その視線が本格的に絡む前に、その目へ真鉤は左手の暗器を放った。手の中に握り込んでいたのは数枚の硬貨。百円玉が四枚と五百円玉が一枚。握り込んだまま親指を曲げて指先で引っ掛け、伸ばす力で一枚を弾き飛ばしたのだ。石よりも威力は低いが投擲動作に気づかれにくく、真鉤の筋力なら相手の頭蓋骨を陥没させることも不可能ではない。

 だが百円玉は跳ね返った。何にぶつかったのか、打ち返されたのか。硬貨は正確に、小男の左目を抉る軌道だった。なのに顔の前で跳ね返った。

 小男の動揺。この時漸く何かが飛んできたことに気づいたらしい。意識して防いだのではないのか。なら見えない壁があるのか。防弾ガラスとか。いやそんなものが置いてあれば気づく筈だ。ならこいつの能力と考えるべきか。

 突然、真鉤の体が動かなくなった。麻痺したのではない。見えない巨大な手に掴まれたように、強い圧力が真鉤の体を包んでいるのだ。何だ、これは。小男の視線が、真鉤を捉えていた。細めた目。冷たい瞳。この結果を当然と思っている瞳。

 念力か。サイコキネシスとも呼ばれる。直接手を触れず、離れた場所にあるものを操作する超能力。吸血鬼に出来る者がいるのは知っていた。日暮静秋も水限定だが出来る。だが、ここまで強力な念力を使える者がいるとは。真鉤は必死に抗ったが、見えない壁は恐ろしく硬質でびくともしない。

 ……いや、手足と胴を固定されているものの、手の指や足首はある程度動かせる。念力のパワーは凄いが大雑把なようだ。そのまま真鉤を潰したり、ねじり殺したりもしないのは出来ないのか、それとも生け捕りにするためか。靴が宙を掻いている。真鉤の体は地面から浮かせられているのだ。

「ミューティレィト」

 小男が英語で何か相棒に告げた。やれ、ということか。

 大男の両手首から光の筋が伸びていた。

 ビームサーベル。レーザーブレイド。そんな感じの、白昼にもギラギラと輝く光の棒。長い。二十メートル以上あるのでは。余裕で真鉤に届く。届き過ぎる。

 大男が両腕を振る。左腕を水平に、右腕は斜め上から袈裟懸けに。必要以上に振りかぶらず、スピードも容赦ない。二本の光線が真鉤の体に迫る。ヒリつくような死の気配。これは、切れるぞ。食らったらあっさり体が両断される。一発死に、だ。あっけなく。

 鎌神刀を振りかざしても刀ごと切られるだろう。そもそも動かせない、刀を上げられない。だが、左手首から先は動く。真鉤は親指で、もう一枚硬貨を飛ばした。さっきより弱く、小男にも分かるくらいのスピードで。

「おっ」

 硬貨はまた見えない壁に弾かれたが、小男が怯んだ。瞬きをして、顔を庇うように両手を上げる。その一瞬、見えない力の呪縛が解けた。

 浮かんだ足が着地するのを待っていたら死ぬ。真鉤は近づく死の光線を意識しながら、なんとか空中で、体勢をコントロールする。体を水平に、腕を曲げて、二本の光線の隙間をくぐ、り……。

 ゾリッ、と、右足の踵を熱が通り過ぎた。削り落とされた。骨ごと、足首の一部も一緒に。それから鎌神刀の柄。十センチほど、熱線で何の抵抗もなく切られた。石突の輪が取れた。どうせ使わないから。後は、どうにか、くぐった。

 即死は避けられたがどうすればいい。小男を守る見えない壁は常に張り巡らされているのか、目を閉じたら消えるのか。分からないが少なくとも小男の視線を避ける方法はある……。

 と、右腕の感覚が消えた。首に熱さを感じる。熱線が、真正面から首を貫いている。大男の顔から三本目の光線が伸びていた。切られたのか。いやいきなり貫かれたのだ。このまま横に振られたら、首がちぎれるのでは。ゾッとする瞬間。

 光線だから握って止めたり引き抜いたりも出来ない。首を曲げて光線から外れないと。左足が地面に着いた。真鉤は上体をひねる。なるべく光線が背骨に触れないよう、右肩を後ろに。光線は首を裂いて抜けた。肉の焦げる匂いを嗅いだ気がした。焦げるどころか瞬時に蒸発したようだが。真鉤の反応に少し遅れて光線が動く。大男のフードが脱げて人工の顔が露出していた。額部分が左右に開き、電極っぽい突起とレンズが見えた。光線はそこから伸びていた。両手首も同じ構造だろう。

 三本の光線が真鉤を切り刻もうと追ってくる。光線の食い込んだ地面が、熱でガラスの溝と化す。踵と足首を削られた分、右足の利きが悪い。しかし真鉤は地面を這い走り転がり光線をくぐり抜けた。光線以外のものが土を削る。右手の鎌神刀が引き摺られている。まだ右手の感覚がなかったが離さずにいてくれた。光線の太さは三センチほどだった。蒸発した神経が戻るのはちょっと時間がかかるか。

 小男との距離はまだ七、八メートルあった。小男が上げていた手を戻し、力の視線を真鉤に当てようとしている。飛んでくる硬貨に目をつぶってから約一秒半。修羅場をくぐり慣れていればもっと早く立ち直れたろうに。強過ぎて命の危険を感じたことがなかったのか。真鉤は低い姿勢のまま地面を蹴り、ヘッドスライディングみたいに小男へ滑り寄った。追ってきていた光線の一本が真鉤の胴に食い込む寸前、停止した。

「フール、ミジェットッ」

 大男が口を動かさずに罵倒した。肉声っぽいが抑揚が少ないから電子音声だろうか。三本の光線は真鉤を挟みながらも一定の距離を取った。

 真鉤は、大男から見て小男の陰に回っていた。同時に小男の背後でもある。ここが最も安全な位置取りだった。小男の見えない壁が熱線までブロック出来るならそれでいいし、出来ないとしても、小男ごと真鉤を切る覚悟がないなら問題ない。「ウェイッ(Wait)、ウェイウェイッ」と小男が慌てて叫ぶ。ということは熱線は防げないのだろう。

 小男は振り返って真鉤を見ようとする。真鉤はまだ硬貨を握った左手を小男の肩に伸ばしてみる。コツン、と硬いものに触れた。小男の体から数十センチのところに壁はあった。素早く手探りした感じでは表面が緩くカーブしており、小男の体をカプセル状に包んでいるようだ。いや、カプセルというより宇宙服みたいな包み方かも知れない。

 力を込めて押してみる。壁は全く凹む様子はなく、鎌神刀でも斬り破れそうになかった。理不尽過ぎるほど完璧な防御。だがすぐ気づく。小男が押されて前に傾き、よろめいたのだ。破れなくてもカプセルごと動かせる。手応えは意外に重く、二百キロ以上ありそうだったが真鉤には大したことではない。殻が幾ら硬くても、丸ごとぶん投げたら中身も無事ではすまないだろう。突破口が見えてきたか。

 真鉤達を挟んでいた三本の光線が消えた。終わり、の筈がないな。次はどうするつもりだ。大男の顔。三本目の光線を放っていた額部分の蓋が閉じ、代わりに下顎がガクンと外れた。口内には舌でなく短い銃身があった。大口径。何が出る。真鉤は小男の陰になるべく全身を隠した。右腕の感覚はまだ、戻らない。鎌神刀を左手に持ち替えるべきか一瞬悩む。いや、小男の視線対策に硬貨は持っておくべきだ。

 射出されたものが広がる、のを見てすぐ真鉤は小男から離れ後ろに跳んだ。網だ。幅十メートルくらいまで広がった目の細かい網が小男を覆い絡みつき、あっという間に全身に巻きついてしまった。離れなかったら一緒に絡め取られていた。マルキのサイボーグも捕獲用に網を使っていたが、簡単に破れる材質ではないだろう。

 網に覆われ、小男を守る見えないカプセルの輪郭がはっきりしてきた。宇宙服よりも更に丸っこく、腕に応じたなだらかな出っ張りはクリオネを思わせる。小男が悪態をつき、両手の人差し指で宙を掻き分けるような仕草をすると、覆っていた網があっけなく裂けていく。

 真鉤はその時、反転してまた小男に突進していた。小男が真鉤以外のことに気を取られている、この短い時間がチャンスだった。走る。加速する。全速力で。

「ウォッチァウトッ」

 大男の警告が飛ぶ。半ばまで網を裂いたところで小男が慌てて振り返ろうとした。その顔が、視線が、右から巡ってくる。カプセルごと持ち上げる、そんな暇はない。

 真鉤は、突進の勢いに渾身の力を加えて、右足で小男を蹴り飛ばした。グシャリと自分の足首が曲がり潰れる感触。既に熱線で削れていたことを忘れていた。

 小男が飛んだ。ラグビーボールみたいにグルグルねじれ回りながらぶっ飛んだ。右足首が傷んでいたせいで少し軌道がずれたが、小男のカプセルは大男に向かって飛んでいた。

 受け止めるか、弾くか。それとも反応しきれずぶつかるか。大男の行動はそのどれでもなかった。滑るような水平移動で避けたのだ。足が動いていないのに横に滑った。土埃が舞うところを見ると、ホバークラフトのように足の裏から空気を噴射して体を浮かせているようだ。再び両手首から熱線の長い剣が伸びる。異様なリーチと破壊力を誇る武器に、対抗出来るのか。だがもう突っ込むしかない。このタイミングで右手の感覚が戻りつつあるのが唯一好材料だ。縄巻きの柄のザラつく感触。

 真鉤が驚いたことに……いや、大男も高速のやり取りで失念していたのだろうか。小男を包む網が、大男の口と紐で繋がっていたのだ。捕獲した相手をそのまま引っ張れるから便利ではあるが、相手の力が強過ぎたら自分が引き摺られることになる。と、紐が切れた。いや自切する機構があったようで切り離した。だが切るまでのほんの一瞬だったが、ぶっ飛んでいく小男に引っ張られ、大男の上体がよじれた。右足が浮き、靴の裏の空気噴射孔が見えた。

 まさに、千載一遇の、好機。今を逃がせばもう次はない。乾坤一擲の、全力の、一撃を。

 真鉤は駆ける。突進する。右足首のダメージも構わず加速する。右手の握力、まだ感覚が弱い。鎌神刀を左手に持ち替える。振りかぶる。右手は添える程度で。目一杯振りかぶる。走る。この全力を。

 サイボーグの何処を狙う。首は論外だ。脳がないとか。腕か。いややはり胴か。しかし鎌神刀でぶった切れるか。鋼鉄の塊を。ただの鉄屑とは違う。なら足か。それで一旦動きを封じて。いやここで決めなければ。大男が姿勢を立て直そうとしている。両手首から伸びる光線。必殺の熱線。こちらは鎌神刀。右手の握力。全身の筋力を一振りの凶器に乗せて。乗せろ。

「ぉああああああっ」

 気合いなのか雄叫びなのか。真鉤は自分が叫んでいることに気づく。刃筋だ。刃筋を立てろ。向こうも鋼鉄だ。叩きつけるのでなく斬るのだ。振れ。右上段から左下へ。左腕の筋力と、右肩で刀の峰を押して全体重と筋力を乗せる。右手の感覚。斬る。チリチリチリチリ。殺気。死が迫る。二本の光線。三本目。大男の額から伸びた光線を避ける。顔が向いたので分かっていた。ただ左耳を掠めて削れた。頭蓋骨は無事だ。多分。腕からの光線。迫る角度は真鉤が即死するダメージにはならない。集中する。刃筋を。

 ギャジャッ。

 全力の鎌神刀が、サイボーグの腹部を、斜めに輪切りにした。

 鋼鉄をひしゃげさせながらぶった切る、重い感触。大男の二つに分かれた体が地面に叩きつけられる。

 真鉤はよろめいた。通り過ぎた熱線で右膝が切断されていた。相手の方はどうだ。両断したがまだ生きているか。断面は分厚い金属の装甲と機械部品ばかり、脳は何処だ、どっちだ。やっぱり上の方か。

 大男の上半身。その首が動いた。惰性でない、意思のある動きだった。巡ってくる額の光線を真鉤は避ける。大男の目。人間の瞳とは違う、カメラの目。額も口も開ききったマスクは表情を作ることが出来ないが、真鉤はサイボーグの殺意を感じた。何かするつもりだ。どんな仕掛けがある。

 一旦距離を取るべきか。いや、今ここで仕留めておかないと。ぶっ飛んでいった小男が戻ってくる前に。

 真鉤は鎌神刀を杖代わりにして片足で姿勢を整え、再び鋼鉄の凶器を振り上げた。目一杯振りかぶる。今度は胴を縦に割る。それで多分殺せる。

 その時、視界が暗くなった。

 突然闇夜になったみたいに、いや、おかしくなったのは真鉤の目だ。頭がクラクラする。内臓がゾワゾワと軋む。突然の頭痛。眼球が飛び出しそうな痛み。ビシッ、と首の後ろが鳴った。手足の感覚が消える。これは、変だ。何が起きた。暗い景色が動く。倒れ、かけている。体に力が入らない。

 そのまま真鉤は前のめりに倒れ、額をグラウンドの土に打ちつけた。上体の感覚が戻ってきて真鉤は必死に前を向こうとし、すぐまた感覚が鈍る。

 何だ。毒か。毒ガスでも撒いたのか。それとも気づかないうちに毒針に刺されたか。大抵の毒は効かないと思っていたが。いや、まさか魔術師か。脳や心臓を直接攻撃出来るとか。真鉤は神経を切られてもすぐ治るが、脳の運動中枢にダメージを受け続けていれば治る暇がない。もし魔術師というのがそれほどピンポイントで狙えるのなら……。手を出さない筈じゃなかったのか。だが天海が言っていた。あの女は嘘つきだと。

 すぐそばで大男の声が聞こえる。

「イッツアンフェア」

 彼の言葉が誰に向けられたのかはすぐに分かった。あの女の怒鳴り声が響いたからだ。

「ドゥーイットッ、カワード。ミューティレートッ」

 状況が大体分かった。真鉤の優勢を見て、女が結界を張る魔術師に指示を出したのだろう。それを大男は非難したのだが、女は聞く耳を持たないようだ。

 闇は回復せず、黒い輪郭となった大男が動く。腕を振り上げているようだ。光線で斬るつもりか。まあ、そうだよな。真鉤は内心苦笑する。彼らは化け物処理業者で、化け物相手に正義とか約束なんてものは無用なのだ。

 体が動かない。頭痛が続く。このままだと本当に。負けるぞ。負けて、たまるか……。

 動けっ。

 大男の輪郭が腕を振り下ろした。

 

 

 真鉤は立っていた。

 いつの間にか、立ち上がっていた。

 暗かった視界が戻っていた。グラウンドがある。拳銃を片手にあの女がこちらを見ていた。

 何か、おかしかった。

 景色がくすんでいる、ような……。いや、くすんでいるのではなく、色がないのだ。世界がモノクロになっている。魔術師の力のせいで、まだ脳にダメージが残っているのだろうか。

 それから、女の様子が変だった。口を開けている。何か叫ぼうとしているようにも見えるが声は聞こえない。目は真鉤を見ていると思っていたのだが、どうも、視線が微妙にずれているようだ。

 っと、上半身だけの大男が動いている。真鉤の近くにいた。光線の伸びた腕を振り下ろす。不思議なのは、その動きが妙にゆっくりしていたことと、振り下ろす先が真鉤の立っている場所ではなかったことだ。

 光線が地面に食い込んだところで大男は腕を止め、首を回した。何をしている。右へ、左へ、行ったり来たりさせている。光線が余裕で届く距離なのに、真鉤には攻撃してこない。

 これは……変だぞ。もしかして、真鉤が見えていないのか。

 一瞬、真鉤は死んでしまったのかと思った。死んで霊魂になったので他人には見えないのかと。だがそれなら真鉤の死体が地面に転がっている筈だ。真鉤は自分の体を確認する。右足は膝部分でちぎれたままだし、手には鎌神刀を持っている。生身の体だと、思うのだが。何故か自分と鎌神刀だけは本来の色があった。魔術師の、せいなのか。いや、彼らは真鉤を見失っているのだから、こんな現象を意図していた訳ではないだろう。

 なら、これは、何だ。

「ナニヲトマドッテイル」

 声がした。それで初めて真鉤は、物音が全くしていなかったことに気づいた。

 ひどく掠れた、抑揚の乏しい声だった。真鉤は声の主を探して振り返った。予想よりかなり遠い場所に、相手を見つけた。

 塀の向こう、学校の敷地の外にそびえる高層マンション。その屋上に人影が立っていた。声の主だと分かったのは、この白黒の世界でそいつだけが青かったからだ。鉄柵に片腕を乗せているようだが、青い靄が人の形っぽくなった感じで姿も輪郭もぼやけていた。

 ただ、垂らした左腕らしき場所の先に奇妙な道具がついていて、これだけははっきり見えた。細長い金属が螺旋を描いた、大きなコルク抜きのようなもの。四十センチくらいの長さがある。幅は五センチくらいか。コルク抜きよりも鋭利に作られているようだった。あれは、武器なのか。刺して使うのか。丸いトンネル状の傷になりそうな……。

 ああ。真鉤は思い出した。『チーズ職人』という綽名の男。奈美が須能神一に拉致された時、須能がいきなりそういう傷を負わされたのを見たと言っていた。『いるような、いないような男』という綽名もあった。

「ハジメテナノカ。セカイヲズレルノハ」

 青い靄が言った。

「誰だ。どういう意味だ」

 真鉤はつい尋ねていた。正体の方はほぼ分かっていたが。

「オレハオボロユウゲン。イシキトムイシキ、チツジョトコントンノハザマニスムモノダ」

 青い男は名乗った。かなり遠くで、掠れ声だったが彼の言葉はよく聞き取れた。ここでは他の音が全くしなかったから。

 朧幽玄。マルキの戦闘員で最強と目されている男。噂は聞いていたが会うのは初めてだ。なにしろ、マルキのメンバーも彼を直接見た者は殆どいないらしいのだ。姿を見た時は死ぬ時だとか。

「イマハオマエノテキデモミカタデモナイ。イマハ、ナ。ミテイルダケダ。マジュツシドモノケッカイノセイデ、コレイジョウチカヅケナイシナ」

 話に聞いていた朧は得体の知れない男というイメージだったし、姿も不気味だが、意外によく喋る。特に殺気も感じなかった。それで真鉤は口調を切り替え、改めて尋ねた。

「それで、ええっと、これはどうなってるんです。世界をずれる、って……」

「オマエカラハ、オレハドウミエテイル」

 逆に朧が問うてきた。

「それは……青い靄みたいな、霧みたいな……人の形っぽいですけど。コルク抜きみたいな武器だけははっきり見えますが」

「ナラバオマエノジゲンハ、オレノジゲントハコトナルノダロウ。ハザマデアルコトニハチガイナイダロウガ」

 朧幽玄は言った。

「オマエガイマイルノハ、セカイノナカデハナイガソトトイウホドデモナイ、オマケノヨウナバショダ。セカイヲイチマイノオオキナエニタトエルナラ、エノウラガワニアタル。アルイハ、ブタイノソデダナ。イマフウニイウナラバ、コミックノワクガイカ。ホトンドノモノガソノソンザイヲシラズ、イッショウカカワルコトモナイ。オマエハソンナハザマニズレコンダ」

 どうも声音に抑揚が少ないので分かりにくいな。

 異世界とは違うのか。世界の中ではないが外でもない場所。全く別の世界ではなくて、少しずれた、ということなのか。で、真鉤からは世界の様子が見えるが、向こうからは真鉤は見えない、と。

「イセカイニワタッタケイケンガ、オマエトモトノセカイトノツナガリヲヨワメタノカモシレナイ。ゼッタイノキキヲカンジタトキ、オマエハノガレルタメセカイカラズレルコトヲエランダノダロウ」

 そうなのか。これは真鉤が自分でやったことなのだろうか。世界からずれて、こんな空間に逃げることが、そんなに簡単に出来るものなのだろうか。というか、そもそもこの狭間の住人という朧はどういった存在なのか。

「あなたはずっとここに住んでいるんですか」

「セイカクニハオマエノイウココデハナイガナ。オレハナンビャクネンモハザマニトラワレテイル。キットエイエンニ、ブタイニアガレルヒハコナイノダロウ。ダガソレヨリ、マダセントウチュウダゾ」

 っと、そうだった。サイボーグがまた動き出した。真鉤が見つからず、当たれば幸いとばかりに両腕の光線をメチャクチャに振り回している。スピードは遅く、真鉤は片足で軽く跳んで躱した。ここは時間の流れが違うのだろうか。相手の動きがかなりゆっくりに感じられた。

 サイボーグは諦めたようで光線を引っ込めた。その首が後ろに反り、胴体からカクンと外れ後頭部が背中についた。首のあった場所に大きな穴が開いている。何かするつもりだ。魔術師の介入がある前に切り札を使うような気配があったが、改めてそれをやるつもりか。

 首の穴から何が出るか、見届けるつもりはなかった。右手の握力も復活している。真鉤は左足で跳んでサイボーグに近づくと、両手で鎌神刀を握り締めて大上段に振りかぶった。

 少し、後ろめたさを感じる。見えないところから必殺の一撃を食らわすことに。だが先に卑怯な手を使ったのは向こうだし、真鉤はここで負けるつもりもなかった。

 刃筋を立てることを意識して振り下ろした重い刀は、名も知らぬサイボーグの胴を縦に割り地面に食い込んだ。瞬間爆発を予感したがそんなことはなかった。左右に分かれた胴の断面にはタンクのようなものがあって液体が零れ出した。それがただの燃料なのか、サイボーグの切り札だったのかは真鉤には分からない。念のため、距離を取った方が良さそうだ。

 脳は結局見えなかったが、相手の死を真鉤は感じ取った。これで一人。今のうちに超能力者の小男も片づけるか。そう思った時、朧が言った。

「ヤッタシュンカンモ、モドラナカッタナ」

 朧が言った。

「どういう意味です」

 戻らなかったとは。確かに世界はモノクロのままだが。

「ハジメテニシテハ、ドウモデキスギテイル。セカイヲズレルコトニナレテイルノカ。……イヤ、モシカスルト、オマエハモトモトズレテイタノカモシレナイナ。ウマレツキ、セカイカラズレテイタノカモ。オマエガテイキテキニヒトヲコロスノハ、セカイトノツナガリヲタモツタメ、セカイノヨウソヲトリコムタメダッタノカモシレナイ。ダトスルト、ナンノコトハナイ、オマエハサイショカラ、ヨソモノダッタトイウワケダ」

 元々、ずれていたと、いうのか。

 生まれつき。人を殺すのもそのためだと。

 真鉤はここで初めて朧の悪意を感じた。狭間に囚われたまま表の世界に出られない男の嫉妬。

 だが、朧の指摘は当たっているのかも知れなかった。

 自分がどうしてこうなのか、真鉤はずっと分からなかった。マルキで検査をしてもらっても異常は出なかった。存在が世界からずれているというのは、抽象的過ぎて結局何なのかよく分からない。しかし、その答えになっていないような答えが、真鉤には妙にしっくり来るような気がした。

 生まれつきの、よそ者。

 いや、とにかく今やるべきことをやらねば。あの超能力者の小男。飛んでいったのはどっちだったか。真鉤は周囲を見回した。見回して、校舎の方も目に入った。

 楡誠の校内放送に従って、多くの教室の窓はカーテンが閉じていたが、開いているところもあった。窓から覗いている生徒達もいた。

 彼らの顔は、不安と恐怖で歪んでいた。楡の警告に好奇心が勝り、彼らは戦いを見物していたのだ。真鉤が小男を蹴り飛ばし、鎌神刀でサイボーグを両断するところも見たのだ。

 カーテンの開いた窓の一つは、三年四組、真鉤のクラスの教室だった。真鉤のクラスメイトが見ていた。男子が五人、女子が二人。白く凍りつく顔、顔。

 彼らにとって真鉤は目立たない地味な生徒から、片足になっても平然と長大な凶器を振り回す、化け物に変わったのだ。

 よそ者。

 彼らの怯えた視線が真鉤の心臓を貫いた気がした。それから今の自分が彼らには見えていないことを思い出した。いや、だからといって……あ、色が、戻って……。

 バァンッ。重い銃声と共に真鉤の意識は途切れた。

 

 

 頭が痛い。

 気絶していたのは何秒くらいだったろうか。それとも数十秒か。楡誠の声が聞こえた。意外に近い。

「戦うのはボックスメンの戦闘員二人だけだった筈ですが」

 真鉤に言っているのではない。相手はあの女か。早速返事があった。

「そっちも手を出したろクラッシャー。そのガキを隠して、マッドドッグをバラしやがった」

 女の声音は興奮しているようだ。いや、緊張しているのかも知れない。

「それは私ではありません。何が起こったのかは私にも認識出来ませんでした。しかし真鉤君が消える直前、中枢神経系と内臓にダメージを与えたのはシルバー・ゴーストの魔術師ではありませんか。君達はルールを破ったことになりますね」

「さあな。だが仮にうちのアデプト達がやったとして、どうやってそれを証明する。あんたにはどうせ見えないだろ」

「確かに私には魔術師の姿もその力も見えませんが、少なくとも君がマイク越しに指示を出すのは聞こえましたよ」

 女の沈黙。

 視界が、少しずつ戻ってくる。

 真鉤はグラウンドに倒れていた。色がついている。目に血が入っているようで、視界が赤っぽい。

 楡の声が続く。

「君が真鉤君を撃ったことについては、そうですね、取り決めに君自身が攻撃しないという条件は入っていませんでしたね。ただし、魔術師は干渉した訳ですからペナルティを与えましょう。自由の女神とホワイトハウスでしたね」

 そうか。撃たれたのか。真鉤は理解した。あの大口径の拳銃で、あの強力な弾で頭を撃たれたのだ。体の感覚がおかしいし、なんとか動くのは右手ぐらいだ。あ、右目が見えていない。脳がかなり吹っ飛んだかも知れない。それなのにちゃんと意識が戻るのだから本当に化け物だな、と真鉤は自嘲する。

 右手に荒縄の感触。鎌神刀の柄を真鉤はまだ握っていた。まだ戦える、だろう。最期の瞬間まで、きっと。

 だが状況は変わっていたようだ。真鉤のそばに楡が立っているのが見えた。それと対峙する女。二十メートル以上の距離があるが、楡誠に距離の概念は全くの無意味だ。

 アメリカの象徴を破壊されることに、流石に女の顔にも動揺が浮かんでいた。その歪んだ口が言い訳や恫喝を紡ぐより早く、楡が告げた。

「はい、両方破壊しました。人的被害がないように丁寧に崩しましたが、ホワイトハウスの方では何人か負傷したかも知れません。……おや、その表情は、驚いているのですか。君は取り決めの際に『勝手にしなよ』と言いましたよね。取り決めを了承したのですよね。それなのに驚いているのですか。不思議ですね」

 楡の言葉は煽りではなく、本気で言っているのだろう。だが、これからどうなる。魔術師の結界はまだ張られているのでは。女がヤケになって全校生徒を皆殺しにさせるのでは。楡はそれを防ぐことが出来ないからこんな勝負になった訳で……。

 だが、楡が付け足した。

「ところで、学校の敷地の周辺で死者が出ているようですが、あれは君の部下達ではありませんか」

 楡の指摘の前に女が眉をひそめたから、もしかすると通信があったのかも知れない。女は「ファック」と短く吐き捨てると、急にその姿が陽炎のように揺らぎ、薄れて見えなくなった。

「魔術師による結界の効果の一つですね。こうなると私にも認識出来ません」

 振り返って真鉤を見下ろし、楡が言った。

 あの小男はどうなった。超能力者の。

「あーえあ……」

 真鉤は「もう一人の敵」と言いかけて殆ど喋れないことに気づく。

「まだまともに喋ることも動くことも無理でしょうね。君の脳の八十七パーセントが破壊されていますから。……脳の破片を集めましたので返しておきます。少しは回復も早まるのではありませんか」

 楡の掌の上に、薄ピンク色のドロドロした塊が乗っていた。それはちょっと、おい、やめろよ。真鉤の抗議は声にならず、楡は微笑を浮かべたままそれを頭に押しつけてきた。頭の中にグニョグニョした気持ち悪い感触があって、真鉤は頭蓋骨もかなり吹っ飛んでいることを自覚した。

 校門から入ってきた生き物が凄い勢いで駆けてくる。犬……ではなく狼だった。あの巨体には見覚えがある。鎌神の出た雪山で……。

 日暮家の執事を務める人狼は、生首を二つまとめて咥えていた。頬に縦皺のある若い男と、オールバックの男の、食いちぎられた生首。知らない奴らだが敵だったのだろう、多分。

 真鉤達の前で人狼は見事な急制動で停止し、二つの生首を地面に落とした。

「シルバー・ゴーストの魔術師達です。四人がかりで結界を構築していたと思われますが、残り二人は主要メンバーと共に逃げおおせたようです」

 年老いた男の声で人狼は言った。校舎の窓から一般の生徒が見ていることも気にしていないようだ。

 日暮家の執事がどうしてやってきたのか。助っ人に来てくれた、ということらしいが、誰が呼んだのか。楡誠にこういう機転が利くとは考えにくいが。

 人狼は真鉤から楡に視線を移し、軽く頭を下げた。

「楡様、お久しゅうございます」

「日暮家の執事の方でしたね。七十年ぶりくらいになりますか」

 楡は相変わらずとんでもないことを平然と言う。

「それで、手助けに来られたようですが、どうやって状況を知ったのですか」

 楡が尋ねる。やはり呼んだのは彼ではなかったようだ。

「匿名の通報がございまして。それから奇襲組には当家の坊っちゃんも参加しておられますので、じきに来られる筈です」

 日暮静秋も来てくれたのか。それはありがたいが、良かったのか。アメリカの秘密組織を敵に回すことになるのでは。

 真鉤の懸念を読み取ったように、狼はこちらを向いた。

「当家とシルバー・ゴーストは元々以前より対立関係にありますので、心配はご無用です。それに、真鉤さんには坊っちゃんの配偶者となられる方を助けて頂いたのですから、この程度のことは何でもありません」

 日暮と南城はもう婚約していたのか。真鉤は驚いた。あ、いや、執事の勝手な暴走のような気もするな。でも、多分、あの二人は結婚するのだろうな。

 その後はあっさり事が進んだ。ボックスメンのあの女と超能力者の小男は逃げおおせ、魔術師二人と下っ端の戦闘員十数名が死体で残った。日暮静秋以外にも何人か吸血鬼が来てくれており、敷地内にいた一般人全員の記憶操作をしてくれた。相当な手間だったと思うがなんとかなったようだ。

 天海東司は、あの時楡のすぐ後ろにいた。動けない真鉤を背負ってカウンセリング室まで運んだのも彼だ。怪我していないか、撃たれなかったか、片言で聞く真鉤に、天海は繰り返し「大丈夫だ」と返した。実際には学生服の左肩に血が滲んでいた。真鉤が気づいたのを知って、天海は「掠り傷だ」と言った。

「あの女は頭か心臓を狙うと分かってたからな。掠っただけだ。肉は抉れてねえよ」

「すごい、な。きみは」

「ああ、凄いぜ、俺は」

 天海は優しい笑みを浮かべて頷いた。彼はずっと真鉤を見守っていてくれた。

 休んでいる真鉤を日暮静秋が見に来て、「あれあれ、頭が空っぽになったな」と面白そうに言った。

 その頃にはそれなりに喋れるようになっていたので、真鉤は「受験中じゃなかったのかい」と聞いた。

「明日が滑り止めの私大だ。帰って飯食ってちょっと勉強して、早めに寝るわ」

 日暮はそれだけ言って、別れの挨拶に片手をヒラヒラさせて去った。その背に真鉤は「ありがとう」と感謝を投げた。

 真鉤はソファーベッドに寝かされていた。カウンセリング室にそんな家具はなかったと思うが、気にしてもしょうがないのだろう。手足の感覚は戻ってきたが、まだまともには動かせない。ちぎれた右足は繋いでもらっている。ただ、熱線で溶けた踵と足首は、再生までもう少し時間がかかるだろう。それ以前に、まだ頭蓋骨に大穴が開いたままだ。自分でもどんな姿なのか見たくないくらいだが、天海は平然とつき合ってくれている。

 部屋の主である楡誠は、校長に説明するために場を離れていた。どんなふうに誤魔化すつもりかは分からない。いや、楡のことだから隠さず丸ごと説明してしまうのかも知れない。これまでそれで通ってきたのなら、まあ、心配ないのだろうけれど。いざとなったらまだ残っているっぽい吸血鬼が校長の記憶も操作してくれるだろうし。……何でもそれで片づけられるとしたら、簡単だが恐いな。

 クラスメイト達の顔を思い出し、ズキリと来る。窓から覗く、あの、恐怖に凍りついた顔。化け物を見る顔。日暮達は彼らの記憶を綺麗に修整してくれただろうか。またこれまで通りに、彼らと当たり障りのない関係を続けていけるのだろうか。全てを捨てる覚悟を決めていたのに、つまらない未練だな、と真鉤は思う。どうせもうすぐ卒業で、彼らとの縁も切れるのに。彼女がいなくなれば、この町に留まる理由はないのだ。

 藤村奈美。まだ彼女は大丈夫だろうか。意識はあるだろうか。起きているとしたら何を思っているのだろう。今日も面会に行かなければ。この体を、早いところ治さなければ。

 撤退した奴ら。ボックスメンという組織。真鉤の素性を知っていた。マルキが売り渡したのだ。これで手を引くとは考えにくかった。あの女の憎々しげな表情を思い出す。奈美は大丈夫か。病院は襲撃されないか。護衛を頼んだ方がいいのかも知れない。楡先生に相談しないと。

 そういえば、あの時。世界からずれた時、見ていたマルキの男は……。

 真鉤が思い出しかけた瞬間、その瞬間、視界の隅に青い人影が映った。

 あっ、と言いかけた。金属が見えた。青い人影が突き出した螺旋状の刃物。コルク抜きのような凶器。それが真鉤の首筋に向かっていた。

 凶器を受け止めたのは天海東司だった。咄嗟に左掌で受け止めた。ねじれた刃に抉られて彼の手がメチャクチャになるのが見えた。天海は怯まず苦鳴も洩らさず、もう一方の手を、右の拳を、全力で突き出した。

 青い人影は消えた。さっき見えたのが錯覚だったかのように。錯覚でないのは分かっていた。天海が自分の左手を押さえていたから。血が滴る手。ボトリと落ちたのは、彼のちぎれた指。

「誰かいるような、変な感じがしてたんだよな」

 痛みに歯を食い縛り、それでも天海は、笑みを浮かべて言った。

「天海君……」

 起き上がりかけた真鉤を、天海は右手を上げて制した。血のついた右手を。傷ついた左手は背中に隠して。

「どうだい。俺は、凄いだろ」

 天海は言った。

「ああ、君は凄い。凄いよ」

 真鉤は堪えようとしたが、つい泣いてしまった。

 天海は確かに、凄かった。

 天海東司は、確かに、朧幽玄をぶん殴った。

 

 

  四

 

 藤村奈美は重苦しいまどろみの中にいる。

 痛み。痛み。体中の痛み。軋み。溶けている。分からなくなる。

 夢を見る。いつの間にか奈美は教室にいて授業を受けている。先生の話は頭に入らない。

 ただ、窓際の席を見ると真鉤がいた。真面目な顔でノートに書き込んでいる。どうやら黒板の字を書き写しているのではなく、絵を描いているようだ。奈美は声に出さずに笑う。眺めていると真鉤は振り返り、微笑を返す。

 何度も教室の夢を見る。やはり真鉤はひっそりと座ってノートに書いている。奈美が見ていると振り返って微笑する。それで奈美は安心する。振り返ってくれなかったらどうしようと不安になったりする。振り返ってくれるので安心する。その繰り返しだ。

 テストを受ける夢も見る。大学の入試試験で難しい問題に焦ったりする。途中でふと気づく。自分は大学受験はしないのだと。もう勉強する必要はないのだと。解放された気がして楽になるが、同時に切なさに胸を掻き立てられる。

 真鉤と並んで歩く夢。雪の日。奈美が編んだお揃いのセーター。雪。あの修学旅行の場面に繋がる。バスの中で皆で怯えていた。バスが大きな鉈で破られ、雪男が入ってくる。洞窟。暗い洞窟。死体が逆さ吊りになって並ぶ洞窟で、雪男は無造作に、奈美の足に包丁を振り下ろす。あれはどっちの足だったっけ。切られた足を忘れるなんて、恐怖に混じり、急におかしさが込み上げる。足が。切断される。左足。痛い。痛い。夢なのに痛い。

 突然の咆哮に雪男の動きが止まる。真鉤がやってきたのだ。助けに来た。ほら、助けに来た。もう安心だ。いつ死んだっていい。いつ死んだっていいのだ。真鉤君さえ生きていてくれれば。

 いつの間にか場面が変わり、闇の中に焼却炉が浮かび上がっている。真鉤の家の地下にある、死体を焼くための大型の、焼却炉。煙突が曲がりくねって壁から天井へと這っている。ゴトン、と、音がした。中で動いている。焼かれながら動いている。

 心がざわつく。奈美はゆっくりと、焼却炉へ歩み寄る。中に誰がいるのかは分かっている。またあの焼け焦げた顔を引っぱたくことになるのだろう。

 でも、近づきながらあの光景も思い出す。首の曲がった誰かの死体。中にいるのが真鉤ではないかと心配して開けたのだ。勝手に地下室に下りて。ずっと後悔している。思わず口から出たあの言葉。私も殺すの、なんて。馬鹿なことを。

 奈美が焼却炉の蓋に手を伸ばしたところで、場面は切り替わり、中がどうなっていたのかは分からなかった。

 ペンダント。宇宙空間ごと封じ込めた惑星のペンダント。奈美は暗い宇宙に独り浮かび、惑星を見下ろしている。それ以外に何もない世界。寒い。世界は果てしがなく、自分はちっぽけだ。冷えていく。隣に真鉤がいてくれたら良かったのに。彼は今何処にいるんだろう。

 目の前に母親の顔があって、奈美はふと我に返る。心配そうな顔に、無理矢理微笑を浮かべている。奈美の手を握っていてくれたりする。細くなった、奈美の手。

「私……どれくらい、寝てた」

 尋ねる自分の声の掠れ具合に、奈美は随分弱ったなあと思う。部屋に心電図のモニターがついたのはいつからだっけ。心臓の鼓動が、波形となって見える。まだ生きていることを奈美は実感する。

「そうね、割と寝てたわね」

 母は曖昧に答える。

「真鉤君、もう来てたかな」

「今日はまだ来てないわね」

 まあ、いいか。夜には来てるだろうし。今は何時だろう。窓を見る。空はまだ明るかった。そもそも今日は何曜日だったか。

「そうだ。流星群……じゃなかった。流星雨は、いつだっけ。まさか、寝てる間に、過ぎたりは、してないよね」

「流星雨はあさっての夜よ。天気予報では雲もなくてよく見えるだろうって。夜更かししてたらこの窓から見えるかも」

「ううーん。真鉤君と、一緒に、見るのを、楽しみにしてるんだけど、ね」

 奈美が言うと母は苦笑した。

 そしていつの間にか、奈美は再びまどろみに引き戻される。入院して何日が経ったのか、今がいつなのか、自分が元々考えていた人生設計がどんなものだったのか、分からぬまま……。

 人の気配がする。ふと目を開けると、病室の扉近くに、若い男が立っていた。真鉤……ではない。痩身で、色の白い男だ。年齢は二十才前後か。

 無表情に立つので部屋を間違って入ったのかと思ったのだが、見ているうちに知った顔のような気がしてきた。

 あ、そうか。岸田部長だ。文芸部の。いや、今は卒業して大学に行っている筈だ。もうずっと会っていなかった。文化祭用の機関紙に詩を載せられたのは岸田の促しのお陰だった。奈美は慌てて起き上がろうとしたが体が重くて、声だけかけることになった。

「岸田先輩……すみません。結局、新しい詩が、出せなくて。書きかけで……宇宙の……。すみません。幽霊部員で……」

 岸田は気にするなというように片手を振り、フッと笑みを浮かべた。見覚えのある、少しニヒリズムが混じりつつも飄々とした、笑みだった。

「人はねえ。必ず死ぬんだよ」

 彼は言った。

「苦痛と死はね、人生において必然なんだ。絶対に逃れられない。僕がスプラッター小説ばかり書いていたのは、そういうことだったんだろうなあ」

 病室の扉近くから動かず、岸田は話を続けた。

「いざその時が来てしまえば意外となんとかなるもんだよ。だから君も安心して、こちら側に来るといい」

 こちら側って、どういう意味だろう。考えていると、岸田はいなくなっていた。

 扉を開けた気配はなかった。どうやって出ていったのか。もしかして今、意識が短時間飛んでいたのか。いや、そうではなくて……。冬なのに、妙に薄着だったし……。

 扉を開けて、母が戻ってきた。

「岸田先輩、さっき来てたけど、お母さんも、見たかな」

 奈美が尋ねると、母は怪訝な顔で首を振った。

「誰も見てないわよ。下の売店に行ってきただけだから、十分も経ってないと思うけど。……それから、あなたの携帯にメールが届いてたみたい。真鉤君からじゃないの」

 夢だったのだろうか。そうかも知れないが、そうじゃないかも知れない。暫く文芸部には顔を出していなかったから、岸田の消息は知らなかった。

 自殺、だろうか。いや、やっぱりあれは夢で、岸田は今も大学に通いながら元気にホラー小説を書いているのかも知れない。いや、でも……。先程の岸田の台詞には、妙にしっくり来るところがあった。なら、彼は……。

「私ね、さっき、幽霊に会ったみたい」

 母は、どう答えたらいいか分からないような戸惑った表情になった後、いつものぎこちない微笑で返した。

 さて、真鉤からのメールを読もう。奈美はそう思うのだが、手に力が入らず、携帯をなかなか開けなかった。

 今日は遅くなるが必ず行くという内容だった。また何かあったのだろうか。

 学校に行くように言ったのは自分だけれど、そろそろ、一日中つきっきりでいてくれても、いいんだけどね。そろそろ、本当に、まずそうな、気がする。

 とにかく流星雨だ。二日後だったか。真鉤と一緒に観るのだ。

 それまではなんとか、生きていよう。

 真鉤のことを考えながら奈美は再び眠りに就いたのだが、その日のうちにまた新たな見舞い客がやってくることは予想していなかった。

 

 

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