第六章 流星雨

 

  一

 

 その男は何処か、おかしかった。百九十センチ近い身長に、腕も胴体も太い。ただし、あまり鍛えている感じではなく肥満体に近かった。眠たげな目に、微笑を浮かべているように見えないこともない緩んだ口元。年齢は三十代だろう。安物のダウンジャケットを着ているが腹が大き過ぎて前を合わせられない。この寒さにも手袋をせず、血色の悪い指をむき出しにして平然としている。ボサボサの髪を、ニット帽をかぶることでなんとか誤魔化していた。

 のっそりと歩く巨体に、他の通行人が一瞥を投げていく。威圧感を与えないせいか、それほど注目を集める訳でもなかった。

 男は道を確かめるように時折見回しながら、大通りを進んでいった。その先には病院があった。

 狭川総合病院。

 病院の近くに花屋がある。男はまずそちらに入り、店員に頼んだ。

「適当に選んで、花束にしてもらえますか」

 やや舌足らずだが、丁寧な言葉遣いだった。

 ポケットから出した財布にカード類はなく、万札が二十枚以上詰まっていた。

 買った花束を片手に男は病院の玄関をくぐった。ロビーの案内板の前で立ち止まり、内科病棟の階を見つける。再び歩き出したところで年配の警備員に呼び止められた。

「入院患者様へのお見舞いですか」

「ええ、そうです」

 男は笑顔になって返す。口元が笑みの形に曲がる様子は、妙にゆっくりしていた。

「相手の方の病室番号はご存知ですか」

 警備員の物腰は柔らかだが、目つきはやや鋭かった。

「はあ、僕は、不審者と思われてる訳なんですねえ」

 男がのんびり言った。

 その反応をどう解釈するか、迷っている様子だった警備員は、急にぼんやりした表情になった。口を半開きにして固まってしまった警備員を尻目に、男は歩き去っていった。

 十数秒後、警備員が我に返った時には、男は既にエレベーターに乗っていた。

 内科の病棟に到着し、ナースステーションに寄らず男は廊下を歩いた。男子トイレを見つけて早速入る。洋式トイレのスペースに入って扉を閉め、男はズボンを下げずに腰掛けた。

 男は目を閉じると、眠るように上体を丸め、動かなくなった。

 共同部屋の患者や見舞い客、病院のスタッフが時折トイレを出入りするが、ずっと使われている洋式スペースを気に留めることはなかった。

 男が動き出したのは三十分以上が経ってからだった。顔を上げ、自分に聞かせるように小さく呟いた。

「あの医者……。マルキの、ドーピング担当だったよな。真鉤の奴も、マルキに泣きつくことになったか。……あんまり、役に立ってないようだが」

 それから男は立ち上がり、トイレを出た。すれ違う看護婦に平然と挨拶し、向かった病室の表札は『藤村奈美』となっている。

 ノックして、返事を待たずにドアを開けると彼女は目を覚ましていた。付き添いの母親は院内の食堂に行っている。それを確認して男は動いたのだ。

「誰」

 尋ねる奈美の声はか細く、力のない瞳は男でなく別の遠くを見ているようでもあった。

 血色が悪く、頬のこけた彼女の顔を、男は予め母親の目を借りて知っていた。それでも込み上げてくるものを表面に出さないだけの精神力と肉体操作能力を、男は持っていた。

「久しぶりだね。僕は須能。須能神一。覚えてるかな。数か月前、夏の終わりくらいに、君を攫った」

 須能神一。双子の兄弟の体内に紛れ込んだ三百四十グラムの奇形腫として生まれ、長年自分が兄弟の方だと勘違いをしていた男。マルキに所属していたが研究所を壊滅させ、彼は今も逃げ続けている。既に本体を持たず、代わりに幾つもの予備の体を全国あちこちにキープしている。それを可能にするのは須能が『グールズ・カンパニー』と呼ぶ特殊な細菌で、感覚を同調させる彼の特殊能力によって細菌群と繋がり、感染させた肉体を自在に動かせるのだ。

 須能は嘗て真鉤の通う高校を襲い、更に奈美を拉致して真鉤に大量殺人を敢行させた。それは、人生を失った者の、かりそめでもまともな生活を送る殺人鬼への嫉妬だった。須能も自覚していた筈だ。羆を合成して作った巨体で真鉤と殺し合った後、須能は二人の前に一度も姿を見せていなかった。

 奈美は眠たげな表情で暫く考えた末、「ああ、お久しぶり」と言った。彼女の顔が嫌悪や恐怖に染まらないのを見届けて、須能、或いは須能が操る肉体はベッドのそばの椅子に腰を下ろした。

「もしかして、また、攫いに来たとか」

「そうじゃないよ。単なるお見舞いさ」

 須能は緩く苦笑した。

「ふと、君のことを思い出してね。家の近くまで行ったんだけど、君はずっといないし。いや、別に、ちょっと見るだけの、つもりだったのさ。君の母親が暗い顔で出てきたから、後をつけて、病院を見つけたんだ。それが、四日くらい前かな。……迷ったのさ。僕が見舞いに行っていいものか、ね」

「遠慮しなくても、良かったのに」

 奈美も笑った。儚さを通り越して、死相の滲む笑み。

 須能は花束を差し出したが、奈美が「ありがとう」と言いながらもなかなか腕を上げられないので、須能は床頭台の上に置いた。既に幾つも花束があった。

 それから、少しの、沈黙。

 やがて、須能が聞いた。

「僕のことを、恨んでないのかい」

「んー。別に、恨んでないと、思うな」

 奈美は微妙な息継ぎを挟みながら答える。

「僕のせいで、大勢ひどい死に方をしたんだけどね。君も嫌なものを、見させられただろ」

「そうだけど、ね。割り切るように、してるの。そうじゃないと、真鉤君とは、つき合えないものね」

 奈美はまた笑う。

「そうか。確かに、そうだね」

「それにね、あなたには、いいことを教えてもらったし。感謝、してるんだ。魂がちゃんと、あるんだって。だから、体がなくなっても、大丈夫なんだって」

「……そうかい」

 須能は短く答え、また、沈黙が落ちた。

 奈美は少し意識が薄れたのか、トロンとした目になっていたが、ふと気づいたように言った。

「私ね、幽霊を見たよ」

「へえ」

「高校の先輩の、幽霊。安心して、死んでいいって。だから私も、きっと、幽霊になれると思うな」

「そうかい。僕は幽霊を見たことはないけどね。僕自身が幽霊みたいなもの、ってのは置いといて」

 須能の台詞に、奈美はフフ、と吐息のような笑い声を漏らす。

「ちゃんと、幽霊になれるように、頑張るから。その時は、あなたも手伝ってくれる、かな」

 須能の鈍く緩んだ顔は、彼の心情をほぼ完璧に隠し通した。彼はただゆっくりと笑みを深め、死の淵に立つ少女に言った。

「分かった、善処するよ。……いや、まあ、努力してみるよ。僕なりに、ね」

「ありがとう。多分、もうすぐだから」

 奈美は言った。言い終わって長い息を吐く間に瞼が閉じていき、そのまま彼女は眠ってしまった。

 須能は無表情に奈美を見守っていたが、数分後、「じゃあ、また」と小さく呟いて立ち上がり、病室を出ていった。

 同じ頃、須能がスキャンしなかった二階下の病棟では奇妙な邂逅が果たされていた。

 

 

  二

 

 天海東司は左の目を鋭く細め、不意の見舞い客を見返していた。負傷した左手の手術を終えたばかりでまだ点滴が続いているが、彼は起きてベッドに腰掛けている。シーネと包帯に覆われていても、左手が元の形を留めていないのは明らかだった。

 数メートル離れて椅子に座る客は、色の濃い大きなサングラスを掛けていた。痩身に地味なスーツ。金属製の杖を今は膝の間に立てかけている。

 初対面となる見舞い客は、希少生物保護管理機構・通称マルキの現場調査官である伊佐美界だった。

「で。あんたが政府の秘密組織の人間ってのは分かったが、俺なんかに何の用だい。まさか、これまでのことを謝罪に来たって訳でもないんだろう」

 マルキは嘗て学校にサイボーグと工作員を潜入させ、生徒を何人も殺している。今回ボックスメンに学校が襲撃されたのも、マルキが真鉤の情報を売り渡したせいだ。マルキを恨む正当な理由にはなるだろう。

 だが、天海の口調に刺々しさはなかった。出会ってほんの数分、自己紹介をすませたばかりで、それでも二人は互いの本質をある程度悟っていた。

「組織を代表して謝罪する権限を私は持っていません。今日は同僚の提案で、君という人間を確かめに来たのです」

 伊佐美は声音に抑制を利かせながらも、神経質そうに自分の膝を擦っていた。滲み出る不安、に、天海は気づいていただろう。

「その同僚というのは」

「朧幽玄という男です。真鉤君から聞いているのではありませんか」

「ああ、聞かなかった。俺はただの一般人だ。余計なことには首を突っ込まないことにしてるんでな」

 今日も首を突っ込んだ男が言う。

 伊佐美は少し首をかしげ、何かに聞き入るような仕草を見せる。

「『そんな冗談は笑えない』だそうです」

 その台詞の意味を、天海は問い質したりはしない。伊佐美は話を続ける。

「朧幽玄とは、今日君の手をそのようにした男のことです。ABULのボックスメン……真鉤君を捕獲しようとしているアメリカの秘密組織ですが、彼らが失敗した場合には、朧が真鉤君を行動不能にしてボックスメンに引き渡す手筈になっていました。ABULから直接指示された訳ではありませんが、マルキとしてはABULに協力的に動いているとアピールする必要があったのです。残念ながら、ABULとマルキという二つの組織の力関係は、アメリカと日本という国の力関係をそのまま反映しています」

「ふうん。大変だね。で」

 興味なさげに天海は返す。ただ、彼の目つきは更に鋭くなっていた。その視線は、伊佐美には、向けられていない。

「朧はマルキの最強の戦闘員です。やり過ぎたため他の有力組織には対策されてしまいましたが、現在でも世界で五本の指に入る暗殺者でしょう。彼は『いるような、いないような男』と呼ばれています。常人には姿が見えず、多くの場合、見えた瞬間には殺されているのです。その朧が言うには、殴られ……」

「おい、やめろ」

 天海が急に点滴の繋がった右手を上げた。声が少し荒くなっていた。

「流石に俺も、右手まで潰す気はないぜ」

「殴られたのは初めてだ、そうです。……やはり、見えているのですか」

「見えてはいない。なんとなく分かるだけだ。俺は勘がいいんでな」

 天海はその時、自分の左横を見ていた。その視線がゆっくりと前に動き、伊佐美の顔へ戻った。鋭い目つきが和らいだのは、朧の気配が遠ざかったのか、それとも殺気が消えたということなのか。

「勘、ですか」

 本当に勘だけですか、とでも問いたげな言葉の響き。

「ああ、勘だ」

 天海は揺るがず、当然のように答える。

「では、話を進める前に、君の手を触らせてもらってもいいですか」

「……いいぜ。っと、その杖は俺に向けないでくれよ」

「あ、失礼しました。これは護身用です。道中、いつ襲われてもおかしくない状況でしたので」

 伊佐美は杖を椅子に立てかけてから天海の方へ歩み寄った。金属製の杖は角度のついた握りの内側に、浅い彫金の模様にうまく紛れてボタンが一つあった。握りをひねってボタンを押せば、杖の先端から弾が出る仕組みだった。

 天海は右手を差し出す。その手を、伊佐美は両手で包み込むように、触れた。

 一秒、二秒。突然伊佐美はビクリと身を震わせ、苦痛に顔を歪める。それでも彼は手を離さなかった。

 三秒、四秒。天海は黙って伊佐美の様子を見守っている。

 五秒、六秒、七秒。伊佐美は手を離し、ゆっくりと、疲れた息を吐き出した。

 元の椅子に戻り、伊佐美が喋り出した。

「もう気づいているようですが、一応言っておきます。私は、サイコメトリー能力者です。近くにあるものや触れたものに関連する様々な情報を読み取ることが出来ます」

「そうかい」

「……。この若さで、随分と修羅場をくぐっているのですね」

「素人にしては、ね。お陰で体はガタガタさ」

 天海は握力の弱った右手でアイパッチを掻いてみせた。

「少し、考えをまとめさせて下さい」

 伊佐美はそれから暫く黙り込んだ。

 この先の流れを予測しているのかどうか、天海はただ、静かに、待っていた。

 やがて、伊佐美が口を開いた。

「朧幽玄なのですが、君に殴られたことを、自身の敗北と捉えています」

「俺の方がダメージはでかいんだけどな」

「朧自身が負けを認めているのですから、それでいいのだと思いますよ。そして、彼は負けたからには、君の下につきたいということです。君の部下になりたい、と」

 天海は苦笑した。声には出さなかったが、彼は口の中で「またかよ」と呟いていた。

「俺はただの高校生だぜ。すぐ卒業だが、何でも屋をやる予定なんだ。従業員を雇う余裕はなさそうだな」

「朧の方も、後九十年ほどは日本政府のために働く契約となっています。ですから、君がマルキに入って下さい」

 流石に意外な提案だったらしく、天海は眉を上げて呆れた顔になった。

「気楽に言ってくれるな。だがそっちに入って俺に何の得がある」

「メリットは幾つかあります」

 伊佐美は続けた。

「まずは、君の体をマルキの技術で治療することが出来ます。失った右目の代わりに高性能カメラを埋め込み、脳神経と直接繋いで本物の目以上の視力を得られます。変形した骨格を合金で置換し、お望みなら人工筋肉も加えて常人の数倍のスピードとパワーを発揮出来るでしょう。人体改造が好みでないなら自分の細胞を培養して組織を作り、欠損部位を再生することも可能です」

「へえ。そりゃあ、大した技術だ。それだけの技術があるのに、一般には公開しないんだな。あんたらの技術があったら奈美ちゃんも……いや、それはないか。あったら真鉤が頼んでる筈だよな」

 天海は辛辣な口調になりかけて、すぐに改めた。彼は、真鉤が藤村奈美のためなら全てを投げ出せることを知っている。

「ええ。残念ながら。今もマルキの医師が治療に関わってはいるのですが。すみません。話を続けます。二つ目のメリットは、君が加入することで、真鉤君を助けられるかも知れないことです」

「……どういうことだい。なんで俺が入ったら助けられる」

「今日はボックスメンの襲撃をなんとか撃退出来ましたが、彼らは諦めないでしょう。メンツにかけて真鉤君を捕らえようとしますし、そのためには手段を選びません。マルキは真鉤君の詳しい情報をボックスメンに渡しましたから、彼らが次に人質として狙うのは……」

 答えを悟って天海が舌打ちした。

「奈美ちゃん、か。彼女はもうあんな状態、なのに、それでも狙われるってのか」

「狙うでしょう。そしてマルキはボックスメンに協力せざるを得ません。マルキの現在のトップは元官僚の一般人で、強い圧力には感情を殺して従うだけの人物ですから。君が入ってくれればマルキもアメリカの組織に迎合するのでなく、真鉤君達を守って対等に渡り合えると思います」

「だからどうして、俺が入ったらそんなことが出来るようになるんだ」

 多少のイラ立ちを込めて天海が問い直す。彼はすぐ後に返ってくるであろう答えに、嫌な予感を覚えていたのかも知れない。

 そして伊佐美は答えた。

「君にマルキのトップになってもらうからです」

 絶句。天海は左の目を見開いて、暫くしてから目を瞬かせた。何か言おうとして口を開けるが、言葉が出てきたのは十秒以上後だった。伊佐美の口元が僅かに微笑を浮かべている。してやったり、と思ったのかも知れない。

「そこまでやるか。ただの高校生を、いきなり国の秘密組織の、頭に据えようってのか」

「ええ、そこまでやるつもりです。朧の君への評価は高いですし、私も君にはその能力があると感じています。また、『ミキサー』楡誠も君の部下としてマルキに加入してくれるでしょう。これまでのパワーバランスがひっくり返ります。そういう打算も、あるのですよ」

 楡が天海に雇って欲しいと言ったことも、伊佐美は読み取っていたらしい。

「……。だが、実際のところ、出来るのか。あんたは別に人事権とか持ってないんだろ。俺をいきなりトップに据えると言ったって、誰も賛成しないんじゃないのか」

「出来ます。おそらくは。そのためには幾つかの、その、条件をクリアする必要がありますが」

 伊佐美は断言したが、台詞が続くにつれて微妙に自信のないものになっていく。

「その条件ってのは……いや、そもそも、あんたは組織の人間なのに、なんでそんなことを勧めるんだ。朧の希望ってのにわざわざあんたが協力する義理もないんじゃないか。そうまでして真鉤を助けたいのか」

 尤もな天海の問いだった。伊佐美も、国の治安のために淡々と、或いは嬉々として人を殺す組織の一員なのだから。

「真鉤君を助けたい気持ちもありますが、それだけではありません。私は、正しいことがしたいのです。少なくとも、自分に出来る範囲で。結果として、私は既に後戻り出来ないところまで足を突っ込んでしまっています」

 伊佐美はまたソワソワと手を動かし、何かにすがるように膝の間の杖に触れた。

「今日のボックスメンの襲撃で、最後に助太刀が入りましたよね。彼ら……日暮家に、ボックスメンの襲撃を密告したのは、私なのです」

「……あんたはもう、自分の組織を裏切っちまった訳か」

「これは、マルキのためでもあるのです。ボックスメンは日暮家の関係者を拉致することも予定していました。それを協力していたとなると、日暮家の長はマルキを許さないでしょう。彼は、その気になればマルキの全員の首を挿げ替えることが出来るほどの有力者です。……ただ、マルキのトップは私の行為を裏切りと解釈するでしょう。ABULへの詫びに、私の首を持っていくことを選んでもおかしくはありません」

「で、護身用、か」

 天海は伊佐美の杖を見て頷いた。

「必要なことは説明しました。……いや、後一つありました。天海君、君はマルキの工作員が君の学校に潜入して生徒を殺した時、怒りましたね。どうしてこうも、理不尽なことを平気で行う奴らがいるのか、と」

「……」

「ならば、君がなんとかして下さい。理不尽を君の力で覆して下さい。それを可能にするだけの権力を、君は手に入れられるのですから」

 伊佐美の穏やかな声音に情念が滲んでいた。彼自身が熱望しながら、得られなかった力。

「天海君、どうしますか。申し訳ありませんが、考える時間はあまり残ってい……」

「やる」

 天海は即答した。

「あの二人には、残りの時間を静かに過ごして欲しいからな。理不尽云々ってのは、まあ、じっくり考えるさ。だが、なあ……」

 溜め息をついて、天海は続けた。

「何でも屋に、なるつもりだったんだけどなあ」

「枠としては公務員ですが、申請すれば兼業も出来ますよ」

 伊佐美は微笑しながら、本気なのか冗談なのか分からないことを言った。

「早急にアポイントメントを取ります。君が会うべき相手は日暮家の長・日暮冬昇です。彼の同意が得られれば事はスムーズに運ぶでしょう。同意が得られなければ、最悪の場合、死ぬことになりますが」

 死ぬと言われても天海は平然と返す。

「それはいいんだけどな。ついでに、上の奴に声かけてくれるか。今、藤村さんの病室に見舞いに来てる奴。どうも、知った相手のような気がするし、味方になってくれそうだからな」

 天海の指摘に、伊佐美はハッとした様子で掌を天井に向ける。

「……。須能神一ですね。元マルキの構成員で、過去に君の学校で暴れたこともあったようですが。やはり、君は……」

「勘がいいんでな」

 天海は先回りしてダメ押しした。

 

 

  三

 

 藤村奈美は眠っている。

 真鉤夭は彼女の顔を眺めている。ずっと、見ている。

 彼女の寝息を聞いている。彼女の心臓の鼓動を聞いている。薬剤の入った点滴が、チャンバー内を一滴、一滴、と落ちていく音を、聞いている。

 薄闇。ベッドのそばのモニターが彼女の心臓の動きを波形にして表示し続けている。

 奈美は、眠っている。

 彼女の母親は遅くまで付き添っていた。今は院内の家族用仮泊室で寝ている筈だ。明日からは父親もずっといるつもりのようだ。

 真鉤が病室に忍び込んでから、奈美は一度も目を覚ましていない。昏睡状態に、近づいていることは、呼吸の調子で分かっている。

 もしかすると、このまま二度と、目を覚まさないかも知れない。

 もう、見つめ合うことも、言葉を交わすことも、ないのかも知れない。あの微笑みを、見ることも。

 終わりが来ることは分かっていた。真鉤は、理解している。

 だが、何故、今なのだ。もう少し、もう少しだけ、先でも、良かったのでは。

「奈美さん」

 真鉤は口の中で小さく、その名を呟いてみる。これまで恥ずかしくて、滅多に下の名前では呼ばなかった。

 奈美は、眠っている。

 真鉤は闇の中で、ずっと静かに彼女を見守っている。

 

 

  四

 

 正午。予定時刻に一秒の狂いもなく、待合室のドアがノックされる。

「はい」

 応じたのは伊佐美界。ドアが開かれ、スーツの老人が顔を見せた。

「お待たせ致しました。旦那様のお部屋までご案内します」

 伊佐美が向き直り、正面のソファーに座る天海東司に頷いてみせる。

 彼にしては非常に珍しいことに、天海は袖のある学生服を着ていた。潰れた右目を隠すアイパッチも、星マークでなく黒の無地だ。左手は包帯で分厚く保護されたまま。治療が終わっていないのに無理を言って今朝、退院した。

 天海は黙って立ち上がった。伊佐美がそれに続こうとすると、老人が穏やかな声音で制した。

「申し訳ありませんが伊佐美様にはここでお待ち頂いて、旦那様へのご面会には天海様お一人で臨まれますよう。旦那様は天海様の人となりを見たいと仰せですので」

 伊佐美の手が不安げに膝を掻く。天海は動揺を見せず、「なら、行ってくる」と伊佐美に告げて部屋を出た。

 老人は日暮家の執事・倖月だった。物腰からちょっとした身のこなしまでが上品で、洗練され、そして、隙がない。スーツに靴、白い手袋と袖の間に覗く腕時計など、地味で控えめなデザインながら、その実よく見ると高級品であることが分かる。綺麗に切り揃えられた口髭。白い髪の一房まで完璧にコントロールされているような、そんな印象を与える。

 ただし、皺深い柔和な顔つきに反し、倖月がふとした拍子に見せる底光りするような瞳の輝きは、得体の知れない迫力を滲ませていた。

 倖月は屋敷の長い廊下を奥へ奥へと進む。天海は黙ってついていく。と、横から現れた黒い影が音もなく天海の横に並んだ。

 倖月が立ち止まり、ちょっと困った顔で振り返る。

「あの、坊っちゃん、面会は天海様お一人でとのことですので……」

「気にするなよ。ただの見物だ。口出しも手出しもしない」

 日暮静秋はそう言った後で、押し殺した早口で「だから人前で『坊っちゃん』はやめろって」と付け足した。

「旦那様が許可下されば、ですよ」

 倖月も日暮家の『坊っちゃん』には弱いのか、それとも甘いというべきか、完璧だった隙のなさが微妙に崩れていた。

「天海様、失礼致しました。こちらへ」

 倖月が歩みを再開する。

 天海の隣を歩きながら日暮が言った。

「俺は日暮静秋だ。名乗るのは初めてだったな。っと、俺にはタメ口でいいぜ。気を遣われるのは嫌なんでな」

 瞬間的に倖月の気配が恐くなり、スッ、と、すぐに余韻なく穏やかなものに戻る。その意図を知ってか知らずか、天海も歩きながら名乗りを返す。

「天海東司だ。前にも助けられたな。雪山で……おっと、あれは謎のマスクマンで別人だったな。失礼」

 天海は真面目な顔に片眉だけヒクリと上げてみせた。日暮は淡く苦笑する。

 広大な日暮邸のおそらく最奥部。両開きの重厚な扉が待っていた。倖月執事が金属の取っ手に触れる寸前、その向こうから声が届いた。

「静秋も入っていいが、天海君の後ろにいなさい。私が天海君と話している間、余計なことを喋ったり、動いたりしてはいけない」

 ゾワリ、と、天海の首筋の皮膚が粟立っていた。大きな声ではなかったが、はっきりと響いた。なめらかで整ったその声音に、途轍もなく恐ろしい何かが潜んでいた。

「了解だ」

 日暮静秋が答える。

「旦那様、天海様をお連れしました」

 既に相手には自明のことを、倖月はわざわざ口に出した。

「うむ、入れてくれ」

 倖月は優雅な動作で扉を左右に開き、「では、天海様、お入り下さい」と客に軽く頭を下げる。

 部屋は、途中から闇になっていた。電灯の光量が足りず徐々に暗くなっていくのではなく、天井も床も壁も、ある個所からいきなり暗黒に変わっていた。先には何も、見えない。実は部屋がそこで断ち切られ、先は暗い宇宙空間と繋がっているのではないかと思わせるくらいに。

 天海は眉をひそめ、しかし二秒後には歩き出した。部屋に入ってすぐ闇に向かって一礼し、「天海東司です」と名乗る。

「座りたまえ」

 闇の何処かから声がかかった。

 部屋の明るい手前側には高級な木製の椅子が一つある。天海は声に従い腰を下ろす。クッションは柔らかかった。天海は背もたれには上体を預けず、真っ直ぐな姿勢で闇に向かい合った。

 日暮静秋は扉近くの壁にもたれて立ち、腕組みして天海を見守った。続いて倖月も部屋に入り、静かに扉を閉めた。

「日暮冬昇だ」

 声が告げた。

「伊佐美君から一通りのことは聞いているし、君の経歴も調べてある。ところで、私のことは伊佐美君からどの程度聞いているのかな」

「吸血鬼の親玉で、日本を影から牛耳っている、ようなことを聞きました」

 神妙な態度のままそんなことを言う天海に、後ろの日暮静秋は危うく吹き出しそうになっていた。

「牛耳っているというのはちょっと違うね。私は自分達が異分子であることを理解している。確かに権力は持っているが、必要以上に政治に介入する気はないな」

 闇からの声は平静で、感情的な変化を感じさせなかった。

「伊佐美君は君をマルキの長に据えたいようだ。いや、朧幽玄の希望だったかな。彼には何度か命を狙われたことがあってね。……希少生物保護管理機構という組織のことを、君は何処まで理解しているのかな」

「日本の平和を守るために化け物を狩る組織でしょう。そのためには一般人がどれだけ死のうが構わないし、中には楽しんで人を殺す奴もいるみたいですね」

 闇を前にして、天海の物言いは辛辣だった。

「君はそんな組織の長として、やっていく自信はあるのかな」

「正直なところ、やってみないと分かりません。ただ、やるからにはとことんやるつもりです」

「悪くない返事だ。しかし、優等生的な返事でもある。君の原動力を知りたい。君が伊佐美君の提案を引き受けたのは、同級生を守るためだそうだね。君は同級生のために自分の一生を捧げられるのかな」

「俺は……もとい、自分は、真鉤に命を救われました。お返しに自分の人生を懸けるくらい、やってもいいんじゃないかと思っています」

 少しの沈黙。背後の倖月も日暮静秋も、静かに成り行きを見守っている。

 やがて、闇が言った。

「覚悟はあるようだね。ただ、その必要はないのかも知れないよ。君がマルキに入らずとも、私がマルキの今の長に圧力をかけ、方針を変えさせることは可能だ。ABULとも私が直接交渉して、取り敢えずは事態を収拾することも出来るだろう。ABULは息子の婚約者を拉致することも予定していたようだし、ひょっとすると息子自身も対象に入れていたかも知れない。私が介入する正当性はある……ああ、そうか、まだ婚約はしていなかったのだね。残念だな」

 途中、日暮静秋が渋い顔で何か言い出しかけたところで、闇の声が訂正した。天海は黙って聞いている。

 闇が続けた。

「ならば、君がわざわざ人生を投げ出して残酷な秘密組織に入る必要もなくなる訳だ。どうだろう。それでもいいのではないかな」

 根本的な動機を揺さぶる提案。しかし、天海は首を振った。

「乗りかかった船ですから、自分にやらせて欲しいですね。あの二人に、最後まで近くで関わっていたいという気持ちもあります。それから、申し訳ありませんが、どんなに上のお偉いさんが命令しても、現場で勝手な判断をする奴は、いるものですから」

「なるほど。君の気持ちは分かった」

 また、少しの沈黙。

 天海は視線を彷徨わせることなく、身じろぎもせず、次の言葉を待った。

「ところで、伊佐美君が言うには、君は、『勘が良い』らしいね」

 部屋の空気が変わっていた。ビリビリビリ、と、天海の首筋の毛が再び逆立った。

 面接の本番は、これからだった。

 天海の顎の筋肉に力が入る。それから彼は口を開き、「多少、良いようです」と答えた。

「君は、私が見えるかね」

「いえ、全く見えません。……ただ、感じるところはあります」

「ふむ。何を感じるのかな」

「正直に、言っていいんですか」

 意外そうに、背後の日暮静秋が天海を見直す。天海の声音が微妙に変わっていた。慎重に、慎重に獲物に近づく、野獣のような。

「構わない。言ってくれたまえ」

「本当に、いいんですか」

 天海は念を押す。

「本当だ。忌憚のない意見を聞きたい」

「分かりました。では」

 天海は重く頷き、大きく息を吸った。深呼吸、ではなかった。

「あんたはっ、卑怯者の臆病者だああっ」

 迷いのない全力の叫びだった。日暮静秋は驚愕に目を見開いて反射的に身構えていた。

 まさか、闇の王・日暮冬昇を、面と向かって罵倒する者がいようとは。

「天海様」

 低く地を這うような声が告げた。天海の喉の皮膚からほんの数ミリのところに、鋭い刃があった。

 倖月執事の左手の人差し指の、爪だった。手袋を脱いだ左手は毛むくじゃらで、鋭い鉤爪が十センチ以上も伸びていた。人間の姿のままでそこだけ変貌させたのだ。

 瞬時に天海の後ろに移動していた倖月は、穏やかな表情のまま目だけが底光りしていた。もういつでも、相手を殺せる目。上品な執事は今、はち切れんばかりの狂猛な殺気を放っていた。

「旦那様に対する無礼な言葉は慎み下さいますよう。後一言でも口をお開きになれば、命の保証は出来かねます」

 だが天海は、倖月の方を見もしなかった。喉元に死が突きつけられているのを理解しながら、叩きつける殺気を受け止めながら、彼は真っ直ぐに闇を睨んでいた。

「倖月、良い。控えよ」

 闇が言った。相変わらず感情を窺わせない、調整された声で。

「正直に言ってくれと私が頼んだのだから、天海君に非はない。……だが、天海君、聞いてみたいな。どうして私が卑怯者で臆病者だと感じたのかね」

 倖月がすぐに手を引っ込め、闇に深々と頭を下げながら扉のそばに戻った。

 天海は答えた。

「あなたがここにいないからです」

「ほう……。分かるのかね」

 闇の返答に、日暮静秋はポカンと口を開けた。

 天海が説明した。

「なんとなくですが。敷地内にはいるようで……ああ、ずっと下ですね。地下何十階になるのかまでは分かりません。最初からテレビ電話のようなものだと言ってもらえれば、感想は違っていたでしょうね。ここにいないのにいるふりをしてましたので、ああいう感想になりました。正直に言うのは許可を貰ってましたが、大声はやり過ぎでした。申し訳ありません」

 フフッ。

 闇の中から楽しげな笑い声が聞こえた。これまでの、意図的に整えられた声音とは違っていた。

「分かった。天海東司君、君には全面的に協力しよう。早急にマルキの人事変更を行い、今夜中には君をトップに据える。また、一族のうち手練れの者を何人か派遣しておく。自由に使ってくれたまえ。静秋も大学を卒業したらマルキに就職してもらおうかな」

 天海は苦笑した。

「いや、それは本人の意思に任せるべきだと思いますが。とにかく、ありがとうございます」

「そうだ、いずれ君には直接会いに行くとしよう。その頃には君は忙しくなっていて迷惑かも知れないが、許してくれたまえ」

 面接は終了した。白い手袋を填め直した倖月執事が、元のように恭しい仕草で扉を開ける。

 天海は改めて闇に一礼し、退出した。

「稀に……ごくごく稀に、常命の者の中に、こういう傑物が生まれる。魂を抉られたような気がしたよ。こんなにドキドキさせられたのは数百年ぶりだ」

 闇の呟きを聞き取ったのは倖月だけだ。長年付き従った人狼の執事は、微笑しつつ扉を閉めた。

 廊下を並んで歩きながら、日暮静秋が天海に言った。

「お前……とんでもない奴だな。こっちは危うくちびりそうになったぜ」

 実際にほんの少しちびっていたことを日暮静秋は黙っていた。本当にほんの少しだから誤差の範囲なのだ。

 

 

  五

 

 フワフワ。

 フワフワ。

 藤村奈美はフワフワしている。

 フワフワしながらふと目を開ける。

 天海東司が、いた。

 病室にはそれから父と母と、楡誠がいた。父母はただ疲れた顔に無理矢理微笑を浮かべ、楡誠はいつもの人形のような澄まし顔だった。天海は、優しい眼差しを奈美に投げていた。

「真鉤君、は」

 酸素マスク越しの掠れた声で、奈美は尋ねる。

「奈美ちゃんが寝てる間、ずっといたぜ。今は、用事があって出てる。大事な用事でな。今夜のために必要なんだ」

 天海は噛んで含めるように、ゆっくりと語る。

「今夜、って……」

「流星雨だよ。ふたご座ベータ流星群で、千年に一度のでかい奴さ」

 天海は右のアイパッチをコンコンと軽く叩いてみせた。そこには星のマークが描かれている。

「そっか……。今夜、なんだ……。いつの間に……」

「真鉤から伝言だ。『今夜一緒に流星雨を見よう』ってな」

「うん。分かってる。……分かってる」

 奈美は血の気のない顔に微笑を浮かべた。

「その時になったら、起こしてくれる。ちょっと寝るから。凄く、眠いから……」

「ああ、任せときな」

 天海が頷くと、奈美は目を閉じて、すぐフワフワした眠りへと落ちていった。

 十八時間ぶりに戻った意識は、一分ほどしか持たなかった。

 奈美の両親はまた涙ぐんでいる。天海は立ち上がり、楡誠に「じゃあ、頼みますよ、先生」と言った。

「サポート役がいますから、防衛の穴は少ないでしょう。最重要とされた事項は確実に実行出来ます。それから今のところ、他の白崎高校生徒達にも異状はないようです」

 瀕死の少女を見守るだけの両親には、意味の分からない会話だったろう。奈美の父親が天海に尋ねた。

「その、真鉤君はどうして来ないんだね。こんな時に……」

「奈美ちゃ……奈美さんに言った通りですよ。真鉤は彼女と一緒に流星雨を見るために、全力で頑張っています」

 まともな説明ではなかったが、天海の口調は真摯で、妙な迫力があった。それで父親は何も言えなくなった。

「失礼します。また後で来ることになりますが」

 天海は病室を出ていった。置き去りにされた楡誠と奈美の両親はこれからどういう会話を交わすことになるやら。しかし天海の知ったことではない。

 エレベーターを降りる。病院のロビーにある長椅子の一つに、黒いジャケットと黒いズボンの少年が座っている。

 少年は、日暮静秋だった。

 歩み寄った天海に、日暮は「今のところ異常なしだ」と告げた。

「仲間が病院の裏に一人、敷地の外に二人詰めてる。病院を囲む結界はムチャクチャ強力で、向こうの魔術師が束になっても干渉不可能、だそうだ。夜の間に、うちの親父が直接張ったらしい。朝になってから聞いて驚いたぜ。随分と気に入られたな、天海」

「ありがたい。それと、受験真っ只中なのに、すまねえな」

「いいさ。俺も無関係じゃないからな。優子……俺の彼女も狙われかねないんだが、今は俺の家で勉強中だ。核シェルターより安全な場所だからな。っと、言っとくが、こうして手伝ってるけどマルキへの就職を決めた訳じゃないぞ」

「分かってる。なら就職は大学卒業後だな。いや、冗談だから気にしないでくれ。頼んだぜ」

 苦笑する日暮を置いて天海は病院の建物を出た。

 玄関前のロータリーに大型トラックと黒いリムジンが停まっていた。トラックの助手席側の窓が下がる。天海が近づくと、乗っていた男が声をかけた。

「トラック十台分、ボディを揃えたよ。急造で、凝ったギミックは入れられなかったけどね。肉の盾とか、囮くらいにはなるんじゃないかな。適当にばらけて、配置させているよ」

 安物のダウンジャケットを着た巨体の男は、須能神一だった。

「助かる。襲撃させないようにするのが俺の務めだが、もしあった時にはよろしく頼む」

「彼女には借りがあるからね。君への借りは、まあ、ちょっとくらいだけど。この先、特にしたいこともないからね。飽きるまでは、君につき合ってあげてもいいよ」

 腕の骨を折り胃を破ったのがちょっとの借りなのかどうか。そんなことには突っ込まず、天海は返した。

「なら、お互い紳士的なつき合いを続けたいもんだな」

 須能は緩い笑みを浮かべ、軽く手を振った。

 天海はトラックを離れてリムジンに向かう。左手が触れる前に内側からドアが開いた。

「どうぞ」

 迎えたのは伊佐美界だった。

「出発してくれ」

 後部座席に乗り込んで天海が指示する。リムジンは静かに滑り出した。

 天海は車内で学生服を脱ぐ。向かいのシートに座る伊佐美がスーツを手渡した。包帯の巻かれた左手を袖に通す際、天海は僅かに顔をしかめる。それを読み取ったようで伊佐美が言った。

「鎮痛剤は使っていないのですね」

「正念場で意識を鈍らせたくないんでな」

 星マークの入ったアイパッチも外す。潰れた右目だが上下の瞼は癒着しておらず、義眼を填めることも出来そうだった。天海は無地の黒いアイパッチに着け直した。

「このスーツ、ちょっと重いな」

 ズボンを手早く履き替え、靴も革靴に替えてから天海が感想を洩らした。

「防弾繊維が編み込まれていますからね。現場の者はもっと強力なものを服の下に着込みます」

「大変そうだな」

「いえ、意外に着心地は悪くないんですよ」

 リムジンは加速し、大通りを進んでいく。

 天海はサイドウィンドウ越しに空を覗く。濃い雨雲ではないものの、雲が多い。天気予報は晴れだったが。天海は小さく舌打ちをする。

「流星雨の心配ですか」

 伊佐美が尋ねる。

「ああ。いざとなったら楡先生に雲をなんとかしてもらうか。……すまねえな、あんたには見えないんだな」

「見えませんが、雰囲気を楽しむことは出来ますよ」

 少しして、伊佐美がまた尋ねる。

「藤村さんの具合は、いかがでしたか」

「今夜の流星雨を見てもらう。真鉤と一緒にな」

 それだけ答えて、天海は黙り込んだ。

 リムジンは高速道路を経て、一時間以上かけて目的地に到着する。それなりに歴史のありそうな、大きなホテル。

「各国の要人や組織との交渉に使われる場所の一つです。盗聴や隠しカメラなどは仕掛けられないように頻繁にチェックされています。確実という訳でもありませんが……。前回の交渉はこちらが直接相手方の大使館に出向かされました。いや、交渉と呼べるようなものではありませんでしたね。今回中立のこの場所が選ばれたのは日暮氏の力でしょう。これで漸く、対等な交渉が出来ます」

 伊佐美の言葉に、天海は「さあ、どうだろうな」と返した。

 ベテランのドアマンが扉を開け、天海と伊佐美はロビーに入る。既にマルキの職員が待っており、フロントの脇に案内される。客からは死角になる通路で、先が左右に分かれていた。マルキの面々は右に曲がる。

「ABULの代表者は左の控室で待機します。時間になったら中間の部屋で話し合うことになります」

 伊佐美が説明した。

 マルキ側の控室には男が一人、待っていた。痩身で、病人のような肌をした初老の男。

「塔村だ。君の前任、ということになる」

 塔村幹彦。昨日まで希少生物保護管理機構の総務部長だった男。

「ということは、真鉤達の情報をあちらさんに渡したのはあんたか」

「そうだ」

 ローテーブルを挟んで向かい合う塔村は、表情を微動だにさせずに頷いた。

「言い訳しないんだな」

「その時点で最善と思われる選択をしただけだ。新しくマルキを率いることになる君に、最低限の引き継ぎをしておく」

 そう言って、塔村はローテーブルに置いてあるコーヒーカップを手に取り、一口飲んだ。何か言いたげに、伊佐美の口元が少しだけ動く。塔村が業務中に飲食することなど、これまであり得なかったのだ。

「原則的に、マルキの長は一般人から選ばれる。国民の視点も常識も持たない特殊生物や異能者では、判断に偏りが生じる恐れがある、という建前だ。私は約八年、務めてきた。結果、内臓はボロボロだ」

 天海は黙って聞いていた。

「今でも大量の精神安定剤と胃腸薬が欠かせない。心まで読んでくる他の組織の怪物達を相手に、常に冷静でいなければならなかった。無表情な私に部下達が陰でつけた綽名は『スケキヨ』だ」

 塔村は淡々と、話を続けた。

「現場の職員の半数は人の命を何とも思っておらず、更にその半数は暴走気質の殺人鬼だ。それでも必要な人員だ。犠牲者は当然出る。犠牲者を出さないのではなく、どちらの選択が犠牲者が少なくてすむのか、社会の安全に繋がるのか、そういう判断をしなければならない。手に負えないものを相手に、私はいつも、ぎりぎりの判断を迫られてきた。国の平和を背負っている。国民の生活を背負っている。そして犠牲になった者達の恨みを背負っている。しかし、誰かがやらねばならない役だ。これから君は、その重荷を背負っていくことになる。それだけは、肝に銘じておきなさい」

「あんたのその判断で、俺の学校の生徒が何人も殺された。それについての恨みは消えないが……」

 天海は塔村に向かい、深く、頭を下げた。

「忠告、ありがとうございます。八年間、お疲れ様でした」

「私はこれで漸く解放される。マルキとこの世界が、少しでも良くなることを祈っているよ」

 塔村は微笑した。八年の任期で初めて見せる、本当に、穏やかな、微笑だった。それから塔村はコーヒーの残りを飲み干して立ち上がり、静かに控室を出ていった。それで彼の役目は終わった。

 天海達は黙って、ホテルマンが運んできた自分のコーヒーを飲んだ。

 十五分ほどして、マルキの職員が入ってきた。

「ABUL側が到着しました。向こうはもう始めてもいいと言っています」

 天海は腕時計を確認する。午前十一時三十三分。

「予定時刻までまだありますが、大丈夫ですか」

 伊佐美が天海に尋ねる。

「……いいさ。始めよう」

 天海は答えた。

 

 

  六

 

 ABUL側の出席者は二人だった。長官のクロス・ホワイトマンと、白いロングコートを着た顔色の悪い男。そちらは名乗らず、挨拶もしなかった。

「トップが急に替わったことは聞いていたが、驚いたな。まだボーイじゃないか」

 クロス・ホワイトマンの最初のコメントがそれだった。

「若輩者ですがよろしくお願いします」

 天海は改めて、軽く頭を下げる。

「何処かで見た気がするな。……真鉤夭の学校の生徒か」

「はい。あなたの娘さんに撃ち殺されるところでした」

 天海は平然と返した。

「なるほど。弾を躱すところをビデオで見たよ。ただのボーイではないということだね」

「それで、話し合いはこのまま日本語でいいですかね。英語はあまり得意でないもので」

「いいとも。こちらは充分に日本語をマスターしている。ただ、君も世界を相手にするのなら、イングリッシュはマスターしておくべきだろうね」

「ご忠告ありがとうございます」

 天海は澄まし顔で慇懃な態度を続ける。

 一人掛けのソファーが二つずつ、向かい合わせに配置されており、マルキサイドに天海と伊佐美、ABULサイドにホワイトマンが座る。ロングコートの男は部屋の隅に立ち、何処かしらけた顔で三人を見守っていた。

「二日前の戦闘では予想外の痛手を受けた。まさか、日暮の勢力が乱入してくるとはね。真鉤が助けを求めたにしても、少しばかりタイミングが早過ぎるように思うが。……情報をリークしたのは君かね」

 ホワイトマンに尋ねられたが、伊佐美は答えなかった。

「私の目には、君が逆らうようには見えなかったがなあ」

「あの時は、逆らう気はありませんでした。私は臆病ですから」

 伊佐美が口を開いた。

「しかし、帰ってから気が変わったのです。冷静になってじっくり考えてみれば、どちらが正しいかは明白ですからね」

「なるほど。後になって心変わりか。流石にそこまでは把握出来ないな。今後の課題だ」

 特に伊佐美に腹を立てているふうでもなく、ホワイトマンは頷いた。それから再び天海に話を向ける。

「日暮冬昇の強力なバックアップを取りつけたようだね。傍観者を貫くかと思ったが、ターゲットに息子のガールフレンドが入って重い腰を上げたか。息子まで確保するつもりはなかったのだがね。合衆国としても、日暮と本気で戦争をする余裕はない。つまり、君達は対等な交渉の場に立てた訳だ」

 そんなことを言いながらも、ホワイトマンの態度にはまだ優越感が潜んでいた。

「それはどうも。で、取り敢えず本題に入る前に確認しておきます。こちらは部屋の外などに部下が控えているんですが、そちらはホワイトマンさんとその方の、二人だけでいいんですかね」

 天海は開いた手でロングコートの男を示し尋ねた。

「そうだが。交渉の場に余分な人員は必要ないからね」

「了解しました。そこと、そこだ」

 天海の左目は一瞬で冷めた。右手人差し指で指した先は、ホワイトマンの右横と、自分の背後。伊佐美が震えた。

 ズズッ、ビドッ、と、二ヶ所で何かが落ちた。クロス・ホワイトマンが歯を剥き出して、噛みつきそうな怒りの表情を見せた。それと、戸惑いと。

 床に落ちたのは、円柱形の肉、だった。直径五センチ、長さ二十センチほど。片方の端には皮膚らしきものがあり、もう一方の端には毛髪らしきものが密集していた。間には骨と、柔らかそうなピンク色っぽい何か。

 二つの肉の上に、灰色の靄のようなものが生じる。それは人の形をしており、床に崩れ落ちた時には灰色のラバースーツを着た男達に変わっていた。拳銃の収まったホルスターと大型のシースナイフが腰のベルトに下がっている。

 既に死体となった二人の男の頭部に、径五センチの細長い穴が貫通していた。

 朧幽玄の仕業だった。

 ホワイトマンが素早く振り返り、物問いたげに同行者を見る。朧対策の結界を張らなかったのかという非難。ロングコートの男は黙って小さく首を振る。結界を張るだけの十分な時間はなかった。彼らもまさか、交渉相手がこんな暴挙に出るとは考えていなかったのだ。アメリカに守ってもらっているような、弱腰で、言いなりの、敗戦国が。

「どういうつもりだ」

 ホワイトマンの声は、怒りのあまり逆に低くなっていた。

「部外者が入り込んでいたので処理しました。そちらはお二人ということでしたから、こいつらは部外者ですよね。どういう技術か知りませんが透明になって武装もしていたので、暗殺者だったかも知れませんね。いやあ、危ないところでした」

 天海はしれっとわざとらしい台詞と並べてみせる。同時にその左の目は二つの死体ではなく、ホワイトマンのイラ立つ顔を真っ向から見据えていた。

 ホワイトマンの青い目は瞳孔が針の穴くらいに狭められ、懸命に天海の本質を見極めようとしていた。

「サイキックか、特殊センサー内蔵か、いや、その耳の通信機で朧から報告を受けていれば同じことか。どちらにしても、調子に乗らない方がいい。こっちがその気になれば、日本という国を世界地図から消し去ることも……」

「あんたは嘘つきなのかい」

 天海の口調が変わっていた。

「何だと」

「俺はちゃんと確認したぜ。あんたらは二人かってな。なのにそんなことを言い出すってことは、この死人共はあんたの仲間だったってことかい。とすると、あんたは嘘つきって訳だ」

 天海は顔を少し俯かせ、鋭い上目遣いでホワイトマンを睨んだ。

「これから大事な交渉を始めようって時に、薄っぺらな嘘をつく奴がいたら、どうやってそいつを信用すりゃあいいんだい。俺は約束したことは守るつもりだし、その結果として誰が死のうが大陸が沈もうが、世界が滅ぼうが構わない。あんたらはどうなんだい。自分の立場が強いと思って調子に乗ってたのは、あんたらの方じゃないのかい」

 天海の隻眼が輝いている。真っ正直で、静かな怒りを孕んだ、狂気の瞳。

 伊佐美の全身が小刻みに震えている。現実を知らぬ少年がアメリカを怒らせることを恐怖しているのではない。彼は、天海の台詞が完全に本気であることを悟っているのだ。

 そして天海は今、実際にそれが可能なだけの力を持っていた。

「……さて、改めてお聞きしたいんだが、この二つの死体はあなた方のお仲間ですかね」

 ホワイトマンの怒りの表情は次第に苦渋へと変わっていった。彼は白いロングコートの男を振り返る。だが魔術師は相変わらず他人事のようなしらけた顔で成り行きを見守っていた。

 向き直って溜め息を一つつき、ホワイトマンは言った。

「全く知らない者達だ。合衆国と日本の関係を悪化させようと目論む、第三国のスパイかも知れないな」

「そうでしたか。つまらない詮索をして申し訳ありませんでした。……すまないが、死体を片づけてくれ」

 天海は襟のマイク越しに命じ、外に待機していた職員が入ってくると、無言で二つの死体を引き摺っていった。

 ゴリ押しを通しながら、天海は微妙に不機嫌な顔をしていた。彼が本当に望んだのは、ホワイトマンが「実は私の部下だった」と正直に謝罪することだったのかも知れない。

「では、本題に入らせてもらいますよ」

 天海が言った。

「こちらの要求は、そちらが真鉤夭と南城優子、日暮静秋から手を引くことです。ABULとシルバー・ゴーストだけでなく、米軍やCIAといったアメリカの組織、それから第三者に依頼してどうこうするのもやめてもらいます。関係者を拉致したり周辺に圧力をかけたりして服従させるような搦め手も禁止です。無関係だとそちらが主張しても、こちらはきちんと調査しますので誤魔化せるとは思わない方がいいですよ」

「なるほど。君達の要求は分かったが、それに従ったとして私達に何のメリットがある」

 冷静さを取り戻したホワイトマンは、相手の隙を探ろうとするような、嫌な目つきになっていた。

「特にないですね。敢えて言うなら、これ以上お互いの被害を広げずにすむ、ということですかね。元々そちらが無許可で人を送り込んで一般人を殺していたのが発端ですから、手打ちのためにこちらが支払うべきものなど特にないと思いますが」

「不幸な行き違いの結果、当方には既に二十人以上の死傷者が出ている。手ぶらで帰る訳にはいかないな。異世界からの帰還者についてはマルキでも健康状態その他の定期的なフォローをする筈だ。そのデータをこちらにも回してもらいたい」

「お断りします」

 天海は即答した。

「何故かね。データを渡すだけならそちらの損にはならないと思うが」

「彼らに関するものは一欠片だって渡すつもりはありませんよ。それに、もし万が一渡したとしても、データだけでは満足出来なくなるんじゃないですか。ぬるい検査をしやがって、自分達なら最新の機器を使ってぎりぎりまで追い込んだ検査が出来る、とね」

 その可能性についてはコメントせず、ホワイトマンは要求を切り替える。

「ならば異世界に関する情報が欲しい。二人を異世界から救出して帰還したのは楡誠だそうだな。彼から直接話を聞き、可能ならABULの調査員が異世界に移動して無事に帰還するのを手伝ってもらいたい。現在クラッシャー・ニレは君の高校に雇われているそうだから、生徒保護のためなら協力してくれるのではないかね」

「お断りします」

 天海はまたもや即答する。

「そちらにサービスするつもりはありません。ちなみに、楡先生は三月からマルキの一員として働く予定ですので、今後とも正しいおつき合いをお願いしますね」

 その告知を受けた時のホワイトマンの変化は、劇的なものだった。一瞬で顔面から血の気が引いて蒼白となり、眼球が零れ出しそうなほど目を見開いた。反射的にソファーから腰を浮かし、またすぐに座り直す。握り締めた拳がプルプルと震えていた。

「インポッシボゥッ。ヒー……彼は、クラッシャーは、中立の筈だ。ずっと……特定の国家に加担することは……」

 ホワイトマンの目が再び限界まで縮瞳し、天海の言葉が真実であるのかを確かめようとしている。

「おいっ、やめろ」

 天海がいきなり左手を上げて顔の前で振った。見えない何かを叩くように。怪我した手の痛みに眉をひそめる。

 反応したのはホワイトマンではなく、白いロングコートの男の方だった。自分が叩かれたみたいに目を瞬かせ、それから脂汗がドッと噴き出して血色の悪い顔面を覆い始めた。まるで、熱で溶けた蝋のように。

「何か術を使ったな。随分とまあ、天下のアメリカ様はみみっちいことばかりやってくるもんだ。それとも、こういうあらゆる汚い手段を駆使するのが国同士の外交って奴なのかね。こっちは直撃してたか」

 天海は隣の伊佐美の頬を右掌で軽く叩いた。

「は……はいっ」

 居眠りから覚めたばかりのような声を出し、伊佐美は首を振った。

「催眠術か。それとも脳を直接いじるのか。次やったらただじゃすまさないので……って、跳ね返ったのか」

 ロングコートの男の汗は止まったが、短時間で目の下の隈が益々ひどくなり、頬もこけて数キロばかり痩せてしまったように見えた。

「……見えたのかね。あれが」

 尋ねたのは、少しばかり冷静さを取り戻したホワイトマンだ。

「見えた訳じゃありません。単なる勘です」

 天海はまた丁寧語に戻って返した。

「それで、どうしますか。どうもそちらはまともに交渉する気はないみたいですが。このまま戦争しますか」

「戦争は、遠慮したいな。クラッシャーが正式にマルキに入るのなら、大陸一つ沈めるというのも大げさな表現にはならない。……だが、ABULとしても、痛手だけ負って収穫なしで逃げ帰ったとなれば、国内外での立場が危うくなってしまう。今後も君達と良好な関係を続けるためには僅かながらでも配慮を貰いたいところだ。それに、君も分かっているかも知れないが、こういう組織には上司の命令を守らずに暴走する者が少なからずいる。『誰が死のうが大陸が沈もうが、世界が滅ぼうが』構わずに、自分の欲求を優先させるような者がね」

 ホワイトマンは天海の台詞を使い、ちょっとしたしっぺ返しを食らわせた。

「例えばあなたの娘さんみたいな人ですね」

「そう。残念ながら娘がまさにそのタイプなんだよ」

 天海も皮肉で切り返したが、ホワイトマンは逆手に取って勢いづく。

「こちらにも何がしかのチャンスを貰えないか。双方の安全のためにもね」

 そこで、沈黙。

 天海は考え事をするように少し首を傾け、右手の指先でコリコリと顎を掻く。

 ホワイトマンは自分の発言の効果を見定めるように、天海を静かに観察している。

 伊佐美は緊張しているようで、膝に乗せた拳に力が入っている。

 白いロングコートの男は元のような無表情で立っている。

 やがて、天海が言った。

「落としどころを、考えてはいたんですよね。そちらがしつこく食い下がるのは予想出来てましたから」

 ホワイトマンは黙って天海の次の言葉を待った。

「ボックスメンのリーダーをやってるあなたの娘さん……ルナさんでしたっけ。真鉤にご執心で、諦めてくれそうにはない訳ですね」

「そうだ。残念ながら、ね。あれは一度欲しいと思ったものは死んでも諦めない性格だ」

「なら、勝負をしませんか。真鉤と、ルナさんとで。真鉤が勝ったら最初に言ったように、そちらは真鉤達三人と関係者に一切手出ししない。ルナさんが勝ったら真鉤についてはそちらの好きにしていい、ということで」

 ホワイトマンは興味深そうに身を乗り出した。

「ほう。条件はどうするかね。ルナは自慢の娘だが、純粋な戦闘力ではあの真鉤には敵わないだろう。流石にポーカー勝負にしろ、などと言うつもりはないが」

「部下を使ってもらっても構いませんよ。今日本にいるボックスメンのメンバー……ABULのメンバーと言った方がいいのかな」

「しかし、その代わりに真鉤に助っ人をつけろというのは困るな。クラッシャー・ニレなどがついたら勝負が成り立たなくなる」

「こちらからは真鉤一人でいいです。さっさと終わらせたいので。勝敗の決め方ですが、真鉤を捕獲して抵抗も逃亡も出来なくさせたらそちらの勝ち、ルナさんが死んだらこちらの勝ち、という条件でいいですか」

「捕らえたらそのまま持ち帰って良い訳だね。それでいい。フィールドはどうするかね」

 自分の娘の死が条件に入っていることに何の感慨も見せず、ホワイトマンが尋ねる。

「特に制限なしでいいんじゃ……いや、日本国内で、とさせてもらいましょう。ルナさんだけ国外に逃げて部下に指示を出されたら、真鉤は追っていけませんから」

「ふうむ。随分と広い範囲だが、いいのかね、それで。こちらとしては特に支障はないが。では、いつ始めるかね。今からでも構わないよ」

 天海はこの時少し眉をひそめ、ホワイトマンの意図を確かめようとするように睨みつけた。

「……こちらも、早い方がいいですね」

「そうかね。では、早速始めようじゃないか」

 そこで伊佐美が手を上げた。

「すみません。勝負の条件を、もう少し明確に詰めさせて下さい」

 両者から条件の細部について確認がなされた。

 ・真鉤夭の身柄を賭けて勝負をする。

 ・ABUL側の勝利条件は、真鉤夭を捕獲して抵抗・逃亡不可能とすることである。勝利した場合、後は真鉤がどうなろうがマルキ側は関知しない。

 ・マルキ側の勝利条件は、ルナ・ホワイトマンを死亡させることである。勝利した場合、その瞬間からABUL側は真鉤に対する直接的・間接的な干渉を禁止される。

 ・ABUL側の戦力としてはルナ・ホワイトマン自身に加え、現在国内にいるABULのメンバーを使用して良い。

 ・マルキ側の戦力は真鉤夭一人である。勝負の間、マルキ側の関係者や楡誠が戦闘や移動を直接サポートすることはない。ただし、真鉤が既に所持しているマルキ製の鎌神刀やアノニマスクについてはそのまま使用を認める。

 ・ABULは真鉤夭を捕らえるために人質を取るような行為をしてはならない。

 ・真鉤夭はルナ・ホワイトマン殺害のためにABULの関係者を拷問・殺害することが許される。

 ・この勝負で決まるのは真鉤夭の扱いだけである。勝負の結果に関わらず、ABUL側は南城優子、日暮静秋に対する直接的・間接的な干渉を控えることとする。

 ・ルナ・ホワイトマンは日本国内で正常な生命活動を維持していることを証明するため、一日一度はマルキの長である天海東司とテレビ電話で言葉を交わす。そこで得られたルナの現在位置に関する情報は真鉤に伝えることを認める。

 ・勝敗が決した時点でABUL側の人員は可及的すみやかに日本国外へ退去する。以降、来日は事前に日本政府或いはマルキへ通知してもらうこととする。事前通知を怠った場合、来訪者の安全は保障出来ない。

「ところで、もしそちらが取り決めを破った場合の話なんですが……いや、信用したいとは思ってますけどね。自由の女神とホワイトハウスでも懲りてないみたいですし。おーい、あれを持ってきてくれ」

 天海の最後の台詞は通信機で部下に向けたもの。背後のドアが開いてアタッシュケースを持った職員が入ってきた。天海の横で開いてみせる。

「ありがとう」

 取り出したのは、径十五センチほどの手回しルーレット盤だった。中心の軸の出っ張りを摘まんで回すタイプだ。

 ルーレットの数字は、一から五十までに細かく区切られていた。

「何かねそれは」

 ホワイトマンが尋ねる。

「アメリカの州って、五十州でしたよね」

「そうだが、それがどうした」

 嫌な予感を覚えたか、ホワイトマンの声音はややイラついていた。

 天海はアタッシュケースに残っていた紙片を取り出した。

「見ますか。どうぞ。コピーは沢山ありますので」

 立ち上がってホワイトマンに歩み寄り、折り畳まれた紙片を手渡す。ホワイトマンは仏頂面で紙片を開いた。

 A4の大きさの紙に、アメリカの州の名前が並んでいた。アラバマ州が1、アラスカ州が2、と、順番に番号がついている。

 自分のソファーに戻って天海が言った。

「その時になったらルーレットで州を選びます。選んだ州を土地ごと消滅させます。楡先生の了承は貰ってます。一応死人が出ないように、一年ほどかけてゆっくり沈めてくれるそうです。州内の動植物には申し訳ないですがね」

「貴様……」

「約束を守ってくれるのなら、何の問題もない。そうですよね」

 ホワイトマンの声にかぶせるように、天海が冷たく告げた。

「……。なら、こちらもそれなりのペナルティを用意することになりそうだ。日本の国土が減るような、ね」

「いいんじゃないですか。約束を破るつもりはないですが、お互いにまだ信頼関係が出来てない訳ですからね」

 天海がルーレットをアタッシュケースに戻すと、職員は黙って部屋を退出した。

「では、始めましょうか。娘さんに連絡してもらえますか。なるべく早く終わらせたいですし」

「いいだろう」

 ホワイトマンはスーツのポケットからスマートフォンを取り出した。操作する前にふと顔を上げ、天海に言った。

「真鉤のガールフレンド……藤村奈美といったね。病状は芳しくないようだな。勝負を急いでいるのはそのためか」

 ホワイトマンの引き絞られた瞳孔が天海を観察している。彼の特殊能力を聞かされている筈の天海は、黙って視線を受けている。

「そういえば今夜は流星雨だったね。眺めるのに日本は最適らしいから、娘と一緒に楽しむとしよう」

 それからホワイトマンはスマホのパネルに触れ、耳に近づけた。

 やがて漏れてくる小さな音声。若い女の声と思われる。クロス・ホワイトマンは早口の英語で説明した。女の反応は喜んでいるようだ。

 英語ばかりの会話が一段落するのを待って、天海が言った。

「説明はすみましたか。なら、勝負の開始を伝えてもらえますか。『ゲームスタート』とでも」

「いいだろう。ルナ、『ゲームスタート』だ」

 ホワイトマンは微妙に上機嫌で、天海にも分かるように明瞭な発音で告げた。

 次の瞬間、スマートフォンから不気味な音が届いた。喧噪、銃声、恐慌、そして派手な破壊音。ホワイトマンが眉間に皺を寄せ、「ワットハプンズッ」など繰り返す。その様子を天海は静かに見守っている。

 状況を問うホワイトマンの声が怒鳴り声に近づき、十数秒後。漸く返ってきた声は男性のものだった。

 ホワイトマンの顔から血の気が引き、そして、怒りと屈辱に歪んでいった。

「『ゲームセット』ですね」

 天海が告げた。

 

 

  七

 

 ルナ・ホワイトマンは準備万端だった。二日前の戦闘でマッド・ドッグと二人のアデプト、十四人の戦闘員を失ったが、既に本国から増援を呼んであった。

 後は、襲撃するだけだ。

 今いる暫定司令部は空き倉庫を勝手に利用したものだ。アデプト達が何重にも結界を張っており、外部からは感知出来ないようになっている。

 この倉庫は、藤村奈美の入院する総合病院から十二キロの距離にあった。

 増援を含めて今動ける戦闘員は五十四人。腰抜けのオールダムには強制的に神経強化薬を服用させた。有能なので多少の我が侭は許していたが、あんな醜態を晒したからには遠慮する必要もない。

 そして、目の前で優雅に紅茶を飲んでいる男。派遣先のブラジルから急遽呼び寄せた、ボックスメンの最終兵器。

 アルルロート・ジ・インビンシブル。『無敵』と呼ばれる男。

 外見は三十代のアジア系……のような肌の色だが、顔の彫りは深い。美男子、というほどでもないがそれなりに整った顔立ち。瞬きをしない黒い瞳はいつも面白がっているようにキラキラ光っていた。艶のある黒髪はぎりぎり肩にかかるくらいまで自然に伸びているが、男が動いてもその髪は揺れることがない。汚れ一つないワイシャツやズボン、靴さえもが実は体の一部であることをルナは知っている。この男の外見は彼自身の意思によって作り上げられたものだ。

 推定年齢四万才以上というこの男は、本当に、無敵なのだった。

 刀も銃も熱も衝撃波も、核爆発も、この男に傷一つつけられず、一ミリも凹ませることは出来ない。あらゆる物理現象も超能力も魔術も、この男に影響を与えられない。完全に安定した、確固たる存在がこの男だった。

 父親から聞いたことがある。アルルロートは独立した一つの世界のようなものだと。世界の中に別の世界が入り込んでいるのだと。ルナには意味がよく分からなかったが。

 幾つかの特殊能力は持っているものの、アルルロートにはクラッシャー・ニレみたいに星の形を変えたり異世界を行き来するような派手な力はない。しかし、燃料切れも弾切れもなく何処にでも行けて永遠に戦えるタンクと考えれば、戦力としてこれ以上のものは望めないだろう。何を考えているのか分からないニレと違い、アルルロートは話が通じるし、こっちの味方だ。ただし、彼がABULに所属しているのは単なる暇潰しらしいが。

「アルルロート。紅茶は美味しいかい」

 ルナは尋ねてみる。外界の何にも影響を受けないのなら口に入ったものはどうなるのか、気になったのだ。

「美味しいさ。そういう味だ」

 アルルロートは微妙な答えを返し、唇の片端を上げて笑みを浮かべた。ルナを馬鹿にしているようにも見える。

 畜生。

 ルナはこの男が嫌いだった。強くて余裕たっぷりで偉そうだからだ。

 超能力者のオールダム・ハリスンも嫌いだった。強くてプライドが高くて偉そうだからだ。

 マッド・ドッグも嫌いだった。強くて戦闘狂のくせに一般人を殺すのを嫌がり、しばしばルナに盾突いた。奴が内心でルナを軽蔑していることは分かっていた。

 シルバー・ゴーストの魔術師連中も勿論嫌いだ。いや、嫌いというより憎かった。奴らはモルモットを見るような目でルナを見ていた。

 父親のクロス・ホワイトマンも憎かった。父はルナを愛しているという。それは本当なのか。愛しているってそもそもどういう意味だ。父自身、分かってないのではないのか。

 ルナがこんなふうになったのは、父のせいでもあるのだ。

 サニーが、憎かった。もう一人の自分。双子の片割れ。

 医学では無理だった、こうしないと二人共助からなかったのだと、父と魔術師達は言った。それは本当か。本当か。本当なのか。

 自分の娘を実験台にして、戦闘マシーンを作りたかっただけじゃないのか。瞬発力や反射神経、思考速度が常人の十倍になったとして、何の意味がある。もっととんでもない化け物は既にうようよいるじゃないか。

 サニーが憎い。あの小娘が。何も知らず、知らされず、無垢で無力なまま、いつまでも可哀相な自分でいられるのだ。良い部分、愛される要素をルナから奪い、汚いものを全てルナに押しつけた。憎い。憎い。ぶち殺してやりたい。

 どいつもこいつも大嫌いだ。幸せな奴は殺したくなる。悩みがなさそうな奴は殺したくなる。目一杯苦痛を味わわせてからがいい。

 真鉤夭。あいつも殺したい。いや死なないのだったな。恋人がいるだって。殺人鬼のくせに。許せない。

 苦痛を味わわせてやるのだ。

 絶望を味わわせてやるのだ。

 クソ野郎共。クソ野郎共。クソ野郎共。クソ野郎共。

 憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。憎い。

 だが、ルナが一番憎んでいるのは、自分自身だった。いつも憎悪を抱え、いつも誰かを殺すことを考えていて、皆に怖れられながら陰では軽蔑されている、薄汚い、ルナ自身。

 イライラする。このイライラを解消するために、また誰かを殺すべきだろう。

 倉庫内に隠した車両のうち、一台は自走式ミサイル・システムだった。通常ミサイルから化学兵器に生物兵器をパックしたもの、そして小型の戦術核ミサイルまで発射することが出来る。

 今回は通常弾頭だが、魔術で隠蔽させたものをありったけ、病院に向けて撃ち込むのだ。吸血鬼の結界では防げない。クラッシャー・ニレならミサイルをブロックする能力はあるだろうが、彼がシルバー・ゴーストの隠蔽魔術を感知出来ないことも分かっている。病院は瓦礫の山になるだろう。そうすれば、真鉤は何処に隠れていようが駆けつける筈だ。資料にも、女のために千数百人の一般人を殺戮したエピソードがあった。姿を現したところをアルルロートが捕獲し、それで終了だ。

 後は南城優子という女と、クラッシャー・ニレに連れられて異世界まで救出に行った日暮静秋だ。こいつらは日暮家の関係者なので少々厄介だ。父のクロスは手を引くつもりかも知れない。

 『指示の伝達ミス』で強襲してしまうのも、悪くはないんじゃないか。

 ホワイトハウスと自由の女神像の件ではかなり叱責されたが、知ったことじゃない。これからの行為もやり過ぎで処分される可能性があるが、知ったことじゃない。

 どうだっていいのだ。

 いっそのこと、世界を焼き尽くしてしまいたいのだ。

 オールダムがトイレから出てくる。顔色が悪い。

「吐き気がする。『ブレイブマン』ってこういう薬なのか」

「飲み慣れたらどうってことないんだがな。胃薬でも飲んどきなよ」

 コンピュータをいじっていた元ハッカーのタブレンが返す。ルナはなんとなく、いきなりこいつらに銃をぶっ放したら面白いだろうなと考える。タブレンは即死だが、オールダムは無理だな。

 ポケットの震動。スマホの呼び出し。父からだ。

 いよいよか。

「交渉がひとまず終わった」

 父クロス・ホワイトマンの第一声がそれだった。想定していたより早かったが、こちらの準備はすんでいる。ゴーサインが出ればすぐミサイルを飛ばすつもりだし、出なければ『手違い』で飛ばすこともあり得る。

「どう。やれるの」

 殺せるの。ルナは尋ねる。

「真鉤に関してはやれる」

 よし。やれる。よし。ルナの中でどす黒い衝動が燃え上がる。

 父は少し早口になって細かい条件を説明した。目の前にマルキ側のトップがいるらしく、余分な解釈や指示は混ざらない。真鉤を捕獲しても残りは諦めて撤退するというのはこちらが負けたようで少々腹が立つが、まあ、それはいい。しめたと思ったのは、人質禁止の件だ。人質なら禁止だ。単純に病院を攻撃するのなら、問題ない。ハハッ。馬鹿め。

 一通り説明が終わった後、微かに別の男の声が聞こえた。日本語のようだ。父はそれに応じ、戦闘開始を告げた。

「ルナ、『ゲームスタート』だ」

「ラジャー。おい、ミサイル発射の……」

 喜び勇んで部下に命令しかけた瞬間、ルナの首筋に何かが触れた。

 

 

 真鉤夭は、じっと、待っていた。

 ボックスメンの潜伏場所を特定したのは日暮冬昇だそうだ。真鉤は天海と打ち合わせした内容を心に留めて、待っていた。

 忙しく歩き回る戦闘員達。倉庫の隅に立つ白いコートの男はおそらく魔術師。屋内に引き込んだ数台のトレーラー、トラック。並べた机。電子機器。

 腕時計も携帯電話も武器も持たず、ベルトも外した。万が一の金属探知を避けるためだ。

 真鉤は冷たい床と同化して、ただ、待った。

 超能力者の小男はたまに姿を見せたが、基本はトレーラーに篭もっていた。気になるのはアル・ローとか呼ばれている男。ルナ・ホワイトマンの態度から男がエースであることは推測出来たし、楡誠に通じるような得体の知れなさを感じた。男は、呼吸をしていなかった。

 真鉤は待ちながら、修学旅行のことを思い出したりした。雪山で、バスを弓矢で襲った鎌神に近づこうとして、罠を踏んで気づかれてしまったのだ。あんなミスを、もう犯すつもりはなかった。

 よそ者、という言葉が頭に浮かんだ。あの白い、音のない世界で朧幽玄に指摘された。本当は、真鉤自身、薄々、気づいていたのかも知れなかった。

 ボックスメンの話し声が響いていた。英語なのでよく聞き取れなかった。コンピュータの電子音が聞こえた。ルナ・ホワイトマンの舌打ちが聞こえた。

 真鉤は藤村奈美のことを思った。アウトサイダーである自分と、この世界を繋ぎ止めているのが彼女だった。出発前に、一言でもいいから彼女と話したかった。

 彼女がいなくなってしまったら、もう、何もかも、どうなってもいいような気がしていた。

 真鉤は、待っていた。天海の指示を思い出しながら。天海は凄い男だ。いきなりマルキのトップになって、真鉤達を守るために相手の組織と交渉することになったのだから。おそらく、天海はうまくやるだろう。真鉤は彼を信頼していたし、感謝していた。卒業したらマルキに入り、天海の部下として働く約束もした。

 しかし、奈美がいなくなってしまったら、真鉤は、もう……。

 魔術師らしき男。四人。最も近い者との距離が、七メートル。

 超能力者の小男。トイレ。二十メートル弱。

 呼吸をしない奇妙な男。四メートル。

 真鉤は、ただ、待っていた。憎しみも殺意も焦りも、自己嫌悪も、全て、押し殺して。

 震動。携帯かスマートフォンの呼び出し。ルナ・ホワイトマンが手に取り、応じた。

 相手の声は男性のものだった。英語で内容はよく分からないが、発音自体は聞き取れた。真鉤は集中した。

 相手の男は細かく説明しているようだった。ルナは立ち上がり、次第に興奮していった。待ちきれないというふうに。

 真鉤は、待っていた。

 相手の男の喋りが途切れた。別の男の声が微かに聞こえた。天海東司の声。

「勝負の開始を伝えてもらえますか。『ゲームスタート』とでも」

 相手の男がハッと笑った。それから『ゲームスタート』と発言した。同時に真鉤は動き出した。ルナ・ホワイトマンのデスクの下から。

 『ゲームスタート』は符牒だった。

 這い出したすぐ前にルナの背中があった。部下に何か命じている。真鉤は四メートル先のアル・ローという男を意識しつつ、立ち上がり際に右の手刀を斬り上げた。ルナ・ホワイトマンの首の左側に、小指付け根の硬い部分がめり込んで、いく……。

 素早くルナが振り返った。振り返ろうとした。予想以上の反応速度だった。だが真鉤の手刀は、刃物のようにその首を食い破っていた。グジッ、と、肉が裂け気管軟骨が潰れる感触。

 真鉤は左手を伸ばしルナの金髪を掴んだ。引っ張る。右の手刀は首を裂き、骨と骨の間を割り入っていく。血が。真鉤は手刀を進める。容赦なく。ルナ・ホワイトマンの見開いた目。驚愕の表情。

 真鉤は手刀で彼女の首を切断した。頭部を持ち帰らねば。死んでないとごねられた時のために証拠が必要だ。生首を掴み直す。奇襲をかけて、周りが対応出来ないうちに逃げるのが計画だった。ルナの胴側の断面から血が噴き上がる。

 血飛沫の向こうにあの男。呼吸をしない不気味な男は驚いてはいなかった。ただ興味深そうに真鉤を見ていた。男がマグカップを持ったまま立ち上がる。何か、来る。ルナ・ホワイトマンの死体が崩れ落ちて、いく。真鉤は生首を抱えて跳ぶ。陰に。まずはトレーラーの陰に。

 何かが、来た。足が胴が歪むのを感じた。いかん。死ぬ、かも。

 瞬間。景色が色を失った。

 真鉤は、再び世界からずれたことを自覚した。学校のグラウンドで戦っていた時のように。白黒の。分かっていた。いざとなればそれが出来ると、分かっていた。真鉤はよそ者だから。トレーラーがクシャクシャに歪み、破れた鉄板が弾け飛んでくる。スローモーション。だが当たるっ。世界からずれて他人に見えなくなっても物が当たるなら意味が……。

 ねじれた鉄の破片が真鉤の脇腹に潜り込んだ。痛みはなく、異物が体に入る感触もなかった。一瞬、真鉤は自分が死んだのかと思った。死んで感覚がなくなったのかと。だが、別の破片が腕を傷つけず通り抜けたのを見て事態に気づいた。敵の攻撃が素通りしている。物理法則からずれているのか。グラウンドでの戦いの時も、サイボーグの攻撃を避ける必要はなかったのか。だが真鉤の攻撃は通用していた。不公平ではないか、とちょっと考え、すぐに真鉤は考えるのをやめた。

 トレーラーが静かに飛び散った。机が椅子が飛び散った。戦闘員がズタズタに裂けて飛び散った。壁が床が歪む床が歪む破れる歪む飛び散る。おかしな爆発の中を真鉤は駆けた。真鉤が到達する前に倉庫の壁が飛び散った。駆けながら振り向いてみる。爆発の中央に平然と立つ男。視線は白い世界にいる真鉤から逸れていたが、彼は余裕のある淡い笑みを浮かべていた。リーダーが殺されたのに。自分の攻撃で仲間が死にまくっているのに。真鉤はすぐに向き直り、逃走に注力した。

 走る。音のない白い世界を走る。衝撃波、だろうか、あれは。数十メートル走ると歪みはなくなった。あの男は追ってこないだろうか。真鉤を見失っていてくれればいいが。道路から跳び、家屋の屋根に移る。

 腕に抱えた生首の感触がおかしかった。グニュグニュと動いているような。これを白い世界に持ち込めたことに安堵し、だが、実は偽物だったのではないかという不安が膨らむ。屋根から屋根に駆けながら真鉤は生首を確認した。

 ルナ・ホワイトマンだったものの顔が、変形していく。頭部そのものが全体的に小さくなり、生首は、幼い少女のものになった。

 虚ろに目を見開いたまま、何処か悲しげな顔は、蛇の大男に連れられていたあの少女だった。ルナと似ているから姉妹だろうか。いや、これは同一人物で、二重人格で、いや体も変わるのだから……真鉤にはよく分からない。

 分かっていたのは、ルナ・ホワイトマンを殺すことが、不幸な少女も殺すことになったということ。予想していた。知っていたのだ。

 後悔はしていない。名も知らぬ少女の命より、自分と奈美の幸福を優先しただけの話だ。

 生首が再びグニャグニャと歪み変形していった。今度は驚愕の表情のままのルナ・ホワイトマンの顔に戻る。と、また変形していく。頭部が膨らみ、顔の左側に、新しい目鼻が浮かび上がってくる。

 抱えていたものは、横に拡大した頭部に、二人分の顔が並ぶ生首となった。

 自分は一度に二人殺したことになるのだろうか。彼女達の人生がどんなものだったか、思いやるような余裕は真鉤にはない。

 まず、出来るだけ遠くに逃げなければ。その上で、天海に連絡だ。真鉤は音のない白い世界を駆け続けた。

 

 

 アルルロート・ジ・インビンシブルは瓦礫の中に手を突っ込み、ABUL専用の高セキュリティスマートフォンを拾い上げた。

 スマホからは今も男の声が洩れていた。状況を問う、クロス・ホワイトマンの声。

 アルルロートは端末を顔に寄せ、建前上のボスに告げた。

「ルナは死んだよ」

「アルルロートか。……。真鉤の仕業だな。奴はどうなった。殺したか」

「いや、ルナの首を持って逃げた」

「なら何故追わない。早く追って処理しないと……」

「『ゲームセット』だからね。ルールは守るべきだ」

 アルルロートはあっさり通話を切り、スマホを放り捨てた。

「……おい……何が起こった……誰か……」

 瓦礫の下からオールダムが助けを求めていた。他に生きている者はいない。戦闘員も、魔術師も、技術者も。

 アルルロートはわざとらしく肩を竦め、唯一の生き残りを放置して歩き出した。次第に駆け足となり、みるみる加速して彼は空へと跳んだ。高く高く、彼は小さな点となり、すぐに見えなくなった。

 

 

  八

 

「仕組んでいたのか。最初から、こうなると分かっていたのだな」

 クロス・ホワイトマンは怒りで頬肉を痙攣させていた。

「ええ、分かってました。いや、信じてました、と言うべきですかね」

 天海は答えた。

「取り決めたルールはちゃんと守ってますよ。事前に準備をしていたのはそちらも同じでしょうし」

 ホワイトマンが「ファック」と吐き捨てるのを、天海は冷静に観察していた。

 握り締めた拳の震えを鎮め、何度か深呼吸を繰り返した後で、ホワイトマンは言った。

「確かに君達は今回、うまくやったようだ。しかし、次も私達を手玉に取れるとは、思わないでくれたまえ。娘のルナをボックスメンのリーダーに据えたのは実験の一環ではあったが、正直なところ、あまり出来の良い子ではなかった。いい機会だ。ボックスメンのメンバーを一新することになるだろう」

「そうですか。……ところで、最初から気になってたことがあったんですよね。黙ってるつもりだったんですが、言ってしまいたくなりましたよ」

 天海は不機嫌に左の目を細めた。実際のところ、彼は怒っていた。

「何かね」

「あんたは自分の娘を道具みたいに思ってるようだが、あんたもただの操り人形なんだぜ。自分では気づいてないだろ。考えまでコントロールされてる。嘘を見抜く目があるのなら確かめてみろよ。そいつにな」

 天海が指差したのは、部屋の隅に立つ白いロングコートの男だった。

 ホワイトマンはポカンと口を開け、それから不思議そうに首をかしげた。眉をひそめ、何か言い出しかけてやめ、漸く彼は、斜め後ろの部下を振り向いた。

 その目が縮瞳を始めてすぐ、ホワイトマンは「むぐぅっ」と呻いてうなだれた。そのまま上体を崩し、糸が切れたみたいに、彼は動かなくなった。閉じた両目から、血の混じったドロドロしたものが漏れ落ちていく。

「責任者に人形を据えるのがアメリカ式なのかい」

 黙っている魔術師に天海は皮肉った。

「だが、お飾りだろうが人形だろうが、約束したことは守ってもらうぜ。あんたの向こうから見ている本当のボスにもな」

 そこで初めて、魔術師は紫色の唇を吊り上げ、ニッと笑った。彼は動かぬホワイトマンの上腕を掴み、物のように引き摺ると、結局最後まで喋ることなく部屋を出ていった。

 暫くして、掠れた声で伊佐美が言った。

「寿命が……相当、縮みましたよ。綱渡りをしているという自覚はありましたか」

「すまねえな。綱渡りには慣れてるんだ。割と、な」

 新任のボスの返事に、伊佐美は震えながら深い溜め息をついた。

 天海は携帯を取り出し、楡誠をコールした。すぐに相手が出る。

「楡です」

「天海ですが、一応ケリはつきました。まだ真鉤からの連絡はないんで、一応ですが。そっちは大丈夫ですか」

「特に襲撃はありませんね。ただ、藤村奈美さんは二十二分前に亡くなりました」

 天海は一瞬、言葉に詰まり、唇を噛み締めた。

「……そうですか。で、うまくいきそうですか」

「問題ありません。永井先生の処置との兼ね合いもありますが、最低でも十分間は確保出来るでしょう」

「では、よろしくお願いします。俺も今からそっちに行きますので」

 天海は電話を切った。

 今夜は、流星雨だ。

 

 

  九

 

 藤村奈美が目を開くと、夜空を背景に真鉤夭の顔があった。

「やあ」

 真鉤は優しく微笑んで言った。

「流星雨だよ」

 真鉤が横によける。星空が視界一杯に広がる。

 空の中心から、流星が落ちていく。静かに、次々と、ゆっくりと、傘を伝い落ちる、雨のように。

「悪いが、ちょっと説明させてくれ。大事なことだからな」

 天海東司の声。奈美は右を向く。

 ここは広い建物の屋上らしかった。病院の、だろうか。物干し台があり、縁には転落防止の鉄柵がある。

 天海の横には楡誠が立っていた。日暮静秋と南城優子もいた。それから、白衣の医師……入院中の副主治医だった、ああ、思い出した、永井先生。他にも背後に何人かいるようだ。

「奈美ちゃん、君に残された時間は十分から十五分くらいだそうだ。永井先生が使った薬は一時的に意識がはっきりするが、体には負担がかかるから、正直なとこ、最後の手段だって。君は法律上は、今日の正午前に死んだことになってる。残された時間を計算して、楡先生がさっきまで君の細胞の活動を止めてたんだ。通夜は明日の予定で、棺桶に入ってるとこを……その、盗み出してきた」

 目が覚めていきなりシュールな話をされて、奈美は思わず笑ってしまった。

「ご両親にちゃんとしたお別れも出来なくて悪いが、これは、飽くまで裏技で、おまけの時間だ。細かいことは置いといて……流星雨を見ようっ」

 天海が夜空に向かって片腕を差し上げる。真鉤は奈美の左隣に座った。

 奈美は毛布を体に巻いて二人掛けのソファーに座っていた。フカフカのソファーだ。寒さは感じない。

 体に力は入らないけれど、痛みもないし、喉も渇かないし、吐き気もしなかった。頭も冴えて、すっきりした気分だ。うん、悪くない。奈美は頷いた。

「ありがとう」

 自然と声が出た。天海は微笑した。日暮と南城も微笑していた。南城は目に涙の痕があった。永井先生も微笑した。皆の微笑は優しくて、温かくて、ちょっとだけ寂しげだった。楡先生も微笑していたが、まあ、これは、いつものだ。

 そうか。私は死ぬんだな。

 でも、最後がこんな感じで、良かったな。皆と一緒で。

 奈美は左に座る真鉤の顔を見た。彼は星空ではなく奈美を見ていた。彼も微笑していたが、無理していることは奈美にもすぐ分かった。きっと一杯、言いたいことがあるだろう。奈美も一杯、彼に言いたいことがある。

 でも、もう、これで充分なのだろう。

 奈美は毛布の隙間からなんとか左手を出した。自分で見てもミイラみたいに細い手だった。その手を真鉤の右手が掴んだ。温かい手。

「手を繋いでてね」

 奈美はそれだけ言った。

「うん。流星雨を見よう」

 真鉤はそれだけ返した。

 空。雲もなく満天の星が見える。星の間に、ふと現れた小さな緑の光が流れ落ちていき、スッと消える。流星。すぐ消えてしまった。あ、別の場所にまた現れる。落ちていき、またすぐに消える。と、また現れる。今度はさっきよりもゆっくりで、消える直前に大きく輝いた。

 空を、星が落ちる。現れては消え、現れては、消えて。明るいもの、ちょっと暗いもの。水平に尾を引いてゆっくり移動するもの。消えた後にも暫く尾が残っていた。二つの星が仲良く並んで流れていく。それもまた、消える。儚く。でもまた新しいものが現れる。

 楡が言った。

「彗星を刺激して空間も圧縮すれば、今の百倍以上の密度の流星を見ることが出来ますよ」

「いや、ちょっと、やめてくれよ先生。無粋だから。興醒めになっちまうから」

 天海が慌てて止め、それから苦笑する。奈美もつい笑ってしまう。そうだよね。自然の方がいいよね。

 日暮と南城のペアも別のソファーに腰掛けて流星雨を鑑賞していた。千年に一度のイベントなのだから、楽しまないと損だよね。それなのに、わざわざここにいてくれることに、奈美は感謝した。

 天海はイベントの幹事役みたいに、皆を見渡せる位置でニコニコして立っていた。楡先生はいつもの顔で天海の横だ。医師の永井先生は少し離れた場所で缶コーヒーを飲んでいた。そのそばで、屋上の出入り口の壁に背をもたせて立つのは知らない男で、大きなサングラスを掛けていた。誰なのかは気にしない。

 後ろ、首が回らないので見えないが、誰かがいた。知っている人のような気がした。奈美は見舞い客のことを思い出した。

「須能さん。来てくれたんだ」

 奈美が声をかけると、「ああ、来てるよ」と声が返ってきた。遠慮しているらしく、姿は見せない。奈美はまた嬉しくなって、フフ、と笑った。

 流星雨。次から次に現れては落ちて、消えていく。ペアの流星が流れていく。七つが同時に流れていくのも見えた。一際大きく輝く流星。静かに。静かに、流れ落ちていく。

 奈美は宇宙の広大さと、自分の小ささを感じる。しかし同時に、自分が宇宙の一部であるとも感じていた。人は生まれ、必ず死ぬ。でもこの世界は存在していて、人は皆必死にそれぞれの人生を生きていて、ああ、なんだかよく分からないが、とにかく素晴らしいのだ。

「真鉤君。私は、幸せだよ」

 奈美は、手を握る真鉤に言った。

「愛してるよ」

 握り返す真鉤は、そう答えた。奈美はまた自然に笑ってしまう。

 流星。折角だから、願い事をしておこうか。これだけ沢山流れているのだから、きっと叶う筈だ。

 どうか、真鉤君が、幸せでありますように。

 私が死んだ後でも。どうか。

 やがて、夜空は暗くなっていき、全てが遠ざかっていく。それでも最期の瞬間まで、奈美は真鉤の手の温もりを感じていた。

 

 

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