真鉤夭はユラユラ揺れている。地に足がついていないみたいに、歩いても勝手にフラついてしまう。もうずっと、こんな感じだ。
感覚が薄い。現実感が薄い。まるで、まだ夢の中にいるみたいだ。
それでも出発しなければいけない。今日は卒業式だから。だから行かないと。彼女が出られなかった分、自分が行かないと。
玄関の呼び鈴が鳴った気がした。錯覚だと自分で分かっていた。
真鉤は鞄を持って家を出る。
庭に植えたアジサイ。それから、ホウセンカも春になれば自然に芽を出すだろう。だが、真鉤は興味がなかった。見せる相手がいなくなってしまったのだから。
歩き出し、ふと振り返ってみた。父と暮らした家。父を殺した後はずっと独りで住んでいた。藤村奈美には『変な形の家』と呼ばれていた。
煙突はここからは見えない。暫く使っていなかった、死体を焼くための焼却炉。
真鉤はなんとなく、自分が二度とここに戻らないような気がした。
再び歩き出す。自分の意志でなく勝手に体が動いて、真鉤自身は単にそれを眺めているような感じだった。学校が近づいて、同級生が挨拶してきて、真鉤は自動的に挨拶を返した。
教室での皆のお喋り。真鉤の頭に内容は殆ど入ってこなかった。明るい顔も暗い顔もあったが、彼らには未来がある。
真鉤にはもう、何もない。
「真鉤君」
一瞬奈美に呼ばれたと思い、慌てて振り返った。
いや、声は違っていた。真鉤の勢いに驚いて固まっているクラスメイトの女子。名前は知っている筈だが思い出せなかった。
「あ、あの、真鉤君……その……大丈夫」
「ええ、大丈夫ですよ」
真鉤は答える。彼女は不思議な表情になって、元の席に戻っていった。
ああ、そういえば、グラウンドでの殺し合いを、クラスメイトに見られていたな。日暮の催眠術で記憶操作してもらったから問題はない筈だが。もしかすると、真鉤に対する潜在的な怯えのようなものは残っているのかも知れない。今となってはもう、どうでもいいが。
奈美の机には、花が飾られていた。
真鉤は、空っぽだ。
卒業式は滞りなくすんだ。最後の挨拶で卒業生を送り出す校長は涙ぐんでいた。担任の二ノ宮を始め、何人かの教師も泣いていた。スクールカウンセラー役の楡誠は相変わらず澄ましていた。
色々、あったな。
真鉤は自分が殺した生徒達のことを思い出した。真鉤からカツアゲしようとした二人の上級生。それを目撃したので始末することになったクラスメイト。彼らは別に、死ななければいけない訳ではなかった。
それから浮かんだのは怪物達のこと。燃えながらもがく偽刑事の肉塊。「もう、どうでもいいのだ」と言っていた、鎌神になった男。建築中のビルの上から生首を落とし、嘲笑っていたサイボーグの式一三。千数百人の一般人を操って真鉤に殺させながら、「僕は何をやってるんだろうな」と嘆息した、須能神一。
彼らは真鉤の同類だった。違うのは、真鉤には守りたいものがあったことだ。
もう、奈美はいない。
教室に戻る際、天海東司が声をかけてきた。グチャグチャになった左手は治っている。生身の皮膚で覆ってあるが中身は機械であることを、真鉤は知っている。
「なあ、明日からちゃんと来いよ。サプライズを用意してあるからな。絶対だぞ」
「分かってる。分かってるよ。ありがとう」
ユラユラ揺れながら、真鉤は答える。天海はマルキの新しい長で、真鉤もその構成員になる。彼には沢山借りがある。沢山、沢山。だからちゃんと行かないと。で、集合場所は何処だっけ。
真鉤は、高校を卒業した。
未来のある生きた人達の間を泳いで、真鉤は独りで裏門から出た。
まだ昼前。特に行く場所もなかったが、足はフラフラといつもの帰路を歩んでいた。どうやら家に帰るようだ。
でも、家に帰った後は、何をすればいいのだろう。
元々独りで生きていたのに。独りで生きていけたのに。独りで生きていくつもりだったのに。
奈美がいなくなって、真鉤は、空っぽになってしまった。
ふと足が止まった。自分がどういうつもりで立ち止まったのか分からなかった。
いや、見えない力に包まれたように、足が動かないのだった。
真鉤は顔を上げた。いつの間にか人気も車の通りもなくなった道に、一人の男が立っていた。
念動力を使う超能力者、ボックスメンの小男だった。
「オールダム・ハリスン」
小男が名乗った。高校のグラウンドで対峙した時は確か、名乗らなかった。
「ABULを抜けた。これは俺の意地だ。お前を殺す」
イントネーションの微妙な日本語で、小男は告げた。あの時のような、こちらを舐めきった顔ではなく、覚悟を決めた顔だった。
意地かな。どうだろう。言わされているような気もするな。鉄砲玉として送り出されたのか。
オールダムの顔に黒い影が見えた。真鉤だけに見える特別なサイン。死相。こいつは遠くない未来、死ぬ。それは今日になるのかも。
真鉤の中で、急に熱い怒りが燃え上がった。
こいつを殺すものか。死なせてやるものか。
死の運命に逆らってやる。
見えない力が強くなった。真鉤の体を押し潰しそうな圧力。ギジッ、と骨の軋みが聞こえる。
真鉤は、一歩踏み出した。見えない圧力がスッと消え、世界が白く変わる。
オールダムは目を見開き、呆然と立ち尽くしている。標的を見失い、どうすればいいのか分からないようだ。
音のない、スローモーションの世界。真鉤は歩み寄り、オールダムの前に立つ。彼を守っている筈の見えないカプセルも感じなかった。その気になれば簡単に素手で殺せるだろう。
真鉤は右の手刀でオールダムの首筋を叩いた。軽く、後遺症が残らないように、慎重に。小男は横に吹っ飛んで、アスファルトの地面に倒れ、動かなくなった。頭をぶつけないように、地面に触れる寸前に真鉤は手で支えるまでしてやった。
視線を感じる。白い世界で誰かが見ている。右のアパートの屋根に、青い人影が腰掛けていた。輪郭も姿もはっきりしない、靄みたいな影。ああ、朧幽玄か。
朧は何も言わず、腕らしき部分で斜め下を指していた。真鉤の後方。振り返る。大型ヴァンが滑り込んできて、五メートルほどの距離で止まる。出てきた数人の男達のうち、一人は天海東司だった。
世界に色が戻ってきた。いきなり出現しただろう真鉤の姿に驚きもせず、天海は気絶したオールダムを一瞥して言った。
「楡先生、こいつの体をチェックしてもらえるかい。多分、爆弾が入ってる」
すぐ天海の横に楡誠が現れる。瞬間移動。
「腹腔内にありますね。半径五十メートル以内が壊滅する程度の威力です。人体ごとパッケージングしますか」
そいつは死なせないで欲しい。真鉤が言う前に天海が指示した。
「いや、爆弾だけ抜いてくれ。こいつとは話をしておきたいからな。どうせ心理操作されてるか脳味噌ごといじられてるかで、上の命令だとは絶対言わないだろうが」
天海が喋っている間に、楡の手にはビニール袋で真空パックされたようなプラスチックケースが乗っていた。楡が両手を叩き合わせると、爆弾は消えた。
走ってくる男がいる。人工の仮面っぽい顔と長い白髪。マルキの風鬼という戦闘員だった。天海が尋ねる。
「魔術師は逃げたか。それとも自殺したかい」
「溶けた。あっという間に溶けて跡形もなくなった」
「そうか。っと、袋かぶせる前に目元を塞いでくれ。テープで」
天海の指示に従い、男達がオールダムの両目を黒いテープで覆い、更に黒い袋を頭からかぶせた。注射器で打ち込んでいるのは睡眠薬か。
手足も縛ったオールダムはヴァンへ回収された。それを見届けてから天海は真鉤へ向き直った。
「言っとくが、サプライズってのはこれじゃないぜ」
天海は苦笑していた。
「この男が来ると、分かっていたのか」
真鉤は尋ねた。
「ずっと警戒はしてたのさ。関係者全員、護衛と監視を置いてた。一番狙われそうだったのはお前だけどな。前にも説明したが、やっぱり頭に入ってなかったんだな」
そう言われると、説明されていたかも知れない。
「ABULはお前を脅威と見てるようだ。物理的にも魔術でも防げない、完璧な暗殺者になり得るからな。多少のリスクを負っても始末しときたかったんだろう。それか、今日のは単に、データを取りたかったのかも知れんが」
完璧な暗殺者か。ルナ・ホワイトマンを殺してのけた状況から、向こうが脅威に感じても不思議はないのだろう。
しかし、真鉤には、どうでも良かった。
真鉤はもう、何もない。空っぽなのだ。
「どう落とし前をつけるか、なんてことは、まあ、後回しにして、だ」
風鬼はさっさとヴァンに乗り込み、天海を残して去っていった。楡もいつの間にか消えている。
前方から一人の男が歩いてくる。真鉤の家のある方から。
サラリーマンっぽい普通のスーツで、顔も変わっていたが、何処となく虚ろな雰囲気から誰だか分かった。須能神一。奈美と一緒に流星雨を眺めたあの時も、彼はひっそりと見守っていた。
天海が言った。
「明日の予定だったんだが、待ちきれなかったようでな。これがサプライズだ」
真鉤君。
声が聞こえた。聞こえたような気がした。声ではなかった。でも、聞こえた。
真鉤君。
気配を感じた。微かに。錯覚だろうか。いや、いる。
見えないが、確かに、藤村奈美の気配だった。
「あれからね、訓練をしてた訳だ。心得、というか、レクチャー、というか。幽霊のね」
須能が言った。彼女の気配は須能とかぶってはおらず、しかし須能のそばにいた。
「それで、幽霊としての単独活動というのは、ちょっときついみたいでね。僕は、肉体と魂っていうのは、モビルスーツとパイロットみたいなものだと思ってるんだけど。彼女の希望でね、君のコックピットに、助手席を作らせてもらおうと、思ってるんだ。それが難しそうなら、取り敢えずは、君の背後霊として、連れてくのはどうかな」
彼女は存在する。
死んでも、消える訳ではないのだ。彼女はいる。存在している。真鉤と共に、また……。
目が熱くなる。視界が滲む。ただ、喜びと感謝の気持ちが溢れてくる。空っぽだったものが、満ちていく。
真鉤は駆け出そうとした。「おいおい、抱きつかないでくれよ」と須能に言われ、慌てて足を止めた。それはそうだ。そこに立つのは須能の操る肉体で、彼女ではない。ただ、安堵で力が抜けて、真鉤はその場に膝をついた。涙が溢れ、溢れ……。
フフ、と、彼女が笑った気がした。いや、確かに笑った。
真鉤は、平凡に生きる人々を羨みながら、ひっそりと陰で生きる、薄汚い殺人鬼だ。この世界が残酷で理不尽であることを知っている。自分自身が共犯者であることも。
それでも今は、この世界にただ、感謝した。
真鉤は、幸せだった。