プロローグ

 

 夕城公園には小高い丘があり、頂上からの景観の良さでそれなりに知られた場所だった。

 地平線が赤みを帯び、ブランコや砂場で遊んでいた子供達が帰り始めた頃、学生服のカップルが公園を訪れた。

 どちらも同じ高校らしく、同じデザインの学生鞄を提げていた。そして首にはお揃いの白いマフラー。毛糸のマフラーは手編みのようだった。

 少年はその年代の平均より少し高いくらいの身長で、あまり特徴のない……端的に表現すれば冴えない顔だった。ただし、少女に向けた視線は優しく、気遣いが感じられた。

 少女は化粧をしておらず、薄い口紅だけをつけていた。アイドルでもおかしくないような整った顔立ちだが、血の気の薄い肌と時折垣間見せる物憂げな眼差しは儚さを孕んでいた。それでも彼女は柔らかな笑みを少年に返した。

 二人は丘の頂上へ向かって緩くカーブした坂道を上っていった。傾斜がきつくない分、道は丘に巻きつくように長い螺旋を描き、半ば辺りに来たところで立ち止まって少年が言った。

「ちょっと一休みしよう。ベンチがあるし」

「大丈夫よ。疲れてないから」

 少女はそう答えたが、呼吸が微妙に荒くなっていた。

「無理することはないよ。景色は逃げないからね」

 少年は先にベンチに腰を下ろし、少女は仕方ないなあとでも言いたげな顔で隣に座った。

「あ、でもお姫様抱っこしてくれたら私は疲れなくてすむなあ」

 少女の言葉に少年は淡い苦笑を浮かべた。

「後ろから人が来てるけど、気にしないのならいいよ」

 その後すぐに人の話し声が聞こえてきて、少女は慌てて下を向いた。

 二人の前を通り過ぎたのは二十代前半くらいの男女だった。やはりカップルらしく、女は男の腕に自分の腕を絡めていた。

 男女は笑顔で他愛のないお喋りをしながら、ベンチの前を歩き過ぎた。女の方はチラリと二人を一瞥していった。

 少女は足音が遠ざかるのを待ってから、赤くなった顔を上げて言った。

「もしかして、聞こえちゃってたかなあ」

 少女は「お姫様抱っこ」のことを言っているようだった。

「聞こえてなかったと思うよ」

 少年は答えたが、その顔から笑みが消え、僅かに眉をひそめていた。気づいた少女が尋ねた。

「どうしたの」

「何でもないよ」

 少年は首を振ったが、黙って見つめ続ける少女に耐えきれなくなったか、やがて低い声で言った。

「サインが見えた」

 少女の表情が固まった。その瞼と視線が少しずつ下がり、瞳が暗い憂いを帯びていく。

「今の二人。どっちが」

 少女は重ねて問う。

「どっちもだ」

「いつ……ていうのは、分からないよね。別に今、どうこうって訳でも、ないだろう、し……」

 少女の声は次第に小さくなっていった。

「帰るかい」

「……ううん。私達は私達だから」

 それで二人は立ち上がり、緩い坂道を進んでいった。

 頂上は広場になっていて、中央に時計塔が建っていた。先程の男女もいて、鉄柵に肘を置いて眺めを楽しんでいた。

 丘の上からの景色は素晴らしいものだった。高いビルが少なく、なだらかに傾斜した街並みの先に川が流れていた。その向こうには海が広がっていた。ゆっくり進む貨物船と、すれ違う小さな漁船。夕陽を反射して海は赤く煌めいていた。

「来て良かったね」

 笑顔になって、少女は言った。

「そうだね」

 少年は頷いた。

「もっと早く来れば良かったね」

「そうだね」

 微笑を浮かべた少年は、景色より少女の横顔を眺めているようでもあった。

 ありきたりの会話をポツポツと交わすうち、空の赤が暗赤色に変わり、星が見えてくる。小さなライトが点灯して塔の時計を照らした。

 冷たい風が広場を吹き抜け、少女は身震いして自分の肩を抱いた後、少年の腕に触れた。

「やっぱり寒いね。帰ろうか」

 少年は答えなかった。彼はただ身を固くして、辺りを見回した。

「どうしたの」

 少女は尋ねた。

「消えた」

 少年は簡潔に答えながら、少女の腰に手を回した。少女は戸惑いと恥じらいに頬を染める。

「消えたって、何が」

「あの二人だ。いきなり消えた」

「えっ」

 少女は振り返った。広場には彼女達以外誰もいなかった。さっきまで、二十代のカップルは少し離れた場所で川を指差して喋っていたのに。

「もう帰ったんじゃない」

「帰っていない。見ていなくても気配は分かるからね。一瞬で消えた。風が吹いた時だ」

 自分達も消えることを心配したのだろうか、少年は少女の体を更に引き寄せた。薄闇の中で少女の頬は更に赤くなった。

 人間二人が消えた広場は静かで、時折風が木々を撫でるサワサワという音だけが聞こえていた。

「帰ろう」

 少年は言った。

 帰りの電車。乗客は少なかった。二人は並んでシートに座った。

「あの人達、どうなったのかな」

 ポツリと、少女が洩らす。

「分からない」

 少年は小さく首を振る。

「……苦しむ間もなく、一瞬だったのかな」

「どうだろう。やっぱり、分からないよ」

「それまでは。あの二人……幸せだったのかな」

 少年はちょっと驚いたように、少女の顔を見返した。

 少女の瞳はただ、美しく澄んでいた。

「そうかも知れないね」

 微笑を浮かべて少年は答えた。淡くて、苦い微笑だった。

 消えた男女のことは特にニュースにはならなかった。よくある失踪と同列に解釈されたのかも知れなかった。

 それらしき死体が発見されたというニュースも、結局ないままだった。

 

 

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