第一章 脇道の闇

 

  一

 

 藤村奈美は消しゴムを置いて何気なく窓際の席へ目を移した。真鉤夭が無表情に黒板の字をノートへ書きつけている。

 彼はあまり表情を変えない。はにかんだような申し訳なさそうな、曖昧な微笑をたまに浮かべることはある。それは例えば他の男子に遊びに誘われて、やんわりと断るような時だ。喋りかければそれなりに応じてくれるが話が弾むことはない。ノートはきちんとつけている方で、頼んだら快く貸してくれるが本人の成績はそれほど良い訳でもないようだ。運動が得意でもなく、バレーボールやサッカーの試合では他のメンバーに紛れて目立たなくなってしまう。

 身長はクラスの男子では真ん中から少し上の方だ。体格はどちらかといえば痩せている。今時の男子なんか化粧をしている者もいるのに、彼は髪を染めず整髪料も使わず、散髪は二ヶ月に一度と決めているようだった。顔立ちに歪みやアンバランスさはないけれどハンサムというほどでもなくあまり特徴はない。俯きがちで、休み時間もぼんやりしていることが多い。いつも何を考えているのだろうと奈美は思う。

 ひっそりと、大人しく、目立たない。真鉤夭は、そんな存在だった。

 二年で同じクラスになり奈美が彼のことを知った時は単に変な名前の人だと思っただけだ。夭なんてどう読むのだろう。中国人か台湾人だろうか。若死にの「夭折」なんて言葉はあるけれど。

 だが二学期に入った今、奈美はこの「まかぎ よう」と読むクラスメイトのことが何となく気になっている。この感情を恋だなどと呼ぶつもりはない。時折、彼の瞳に寂しげな翳りを認めてドキリとすることはあるけれど。彼に直接話しかけることはしない。喋ったのはこれまでに三、四回程度だ。

 そのうちに奈美はクラスの複数の女子が同じように真鉤を見ていることに気づいたのだった。どうやら彼は女子の間では密かに人気があるらしい。

 だからといってヤキモキしたりはしない。奈美は取り敢えず、真鉤夭を眺めているだけだった。

 真鉤の昼食は大抵コンビニの袋に入ったパン二個とオレンジジュースだ。登校途中で買ってきたものらしい。

 彼は徒歩で高校に通っている。結構近くなので奈美も彼の家を見たことがある。多角形で屋根が互い違いになっているような奇妙な屋敷で、二階建てなのか三階建てなのか分からない。手入れを怠っているようで壁は汚れていたし庭は荒れていた。

 真鉤が一人暮らしだという噂を、奈美は聞いたことがある。家族が誰もいないのだという。本人にそれを確かめたことはない。

 放課後になると、真鉤は静かに荷物をまとめて鞄に詰め、クラスメイトと軽い挨拶を交わして教室を去る。彼はどのクラブにも属していない。奈美は文芸部に入っているが幽霊部員だ。彼の少し後から奈美も教室を出た。

 奈美も通学は徒歩だ。裏門の方へ出ると真鉤は二十メートルほど先を歩いている。

 その真鉤に二人の男子生徒が声をかけた。

「ちょっと、そこの二年」

 二人は三年生だった。片方は金髪で、もう片方は鼻と口に目立つピアスを入れている。この白崎高は「やる気のある者は放っていてもやる」というポリシーから生徒に対し放任主義を通していた。自分で勉強して東大を目指す者もいれば、スポーツに打ち込む者もいる。三年前は甲子園に出場したという。そして、少数だが、彼らのように柄の悪い不良もいる。

「何ですか」

 真鉤は立ち止まった。その顔は無表情を保っている。

「これからさ、女集めてカラオケ行くとこなんだが、財布忘れてきちまってな。金貸してくれねえか」

 金髪の方が言った。大人しい雰囲気でいいカモだと判断されたのかも知れない。奈美が心配しながらも何も出来ずに見守っていると、真鉤は冷静に答えた。

「申し訳ないですが、余分なお金は持っていません」

 彼らの横を他の生徒達が黙って通り過ぎていく。

 ピアスが言った。

「なあ、ほんの少しでいいんだよ。まず財布見せてみろよ」

 真鉤は僅かに首をかしげた。怯えている様子ではなかった。どう返事をするのが適切か、事務的に対応を考えているという感じだった。

「おい、やめときなよ先輩方」

 別の場所から太い声が飛んだ。奈美も助け舟の方を見た。同じ学年の天海が歩いてくるところだった。クラスは別だが彼のことは皆良く知っている。

「みみっちいカツアゲしてるなあ。どうせなら一億くらいたかってみろよ。銀行にさ」

 天海東司は長身でがっしりした体格をしている。百八十五センチくらいあるだろう。肘部分で切った制服の袖から太い腕が見えている。小学生の頃から空手やボクシングをやっていたそうで、一対五の喧嘩でも勝ったという噂だ。煙草を喫ったり休み時間に教室でウイスキーを飲んだりはするが彼は他の生徒に迷惑をかけたりしない。校内の雰囲気が落ち着いているのは天海のお陰だし、他校や暴走族とのトラブルがあった時は頼りにされているらしい。普段は誰ともつるまない一匹狼。彼に憧れる男子は多かったし、女子からはバレンタインデーには百個近いチョコを貰ったと聞く。奈美も天海にチョコをあげるべきかちょっと迷った一人だった。

「何だよ天海。俺達は別にカツアゲとかしてねえぞ。金を借してくれっつってただけだ」

 金髪が反論したが、その口調は幾分自信なげだった。

「真鉤、行っていいぞ。じゃあな」

 天海が手を振ると、真鉤は黙って軽く礼を返した。あのはにかんだような控えめな微笑を浮かべて。

 二人の上級生は置き去りにされた。ピアスが天海を睨んだ。

「何口出ししてんだよ。二年のくせに、最近生意気なんだよてめえは。何様のつもりだ」

 天海は平然と返す。

「生意気なのは最近じゃなくて生まれつきでね。それからな、俺はお前らのためを思って親切心で言ってやったんだぜ。あいつには手を出すな」

 最後の台詞の時に天海の目が鋭く光った。彼がそんな目つきをすると凄く迫力がある。

 ピアスが聞いた。

「何だよ。今の奴、お前のダチかよ」

「そうだな……。まあそういうことにしとけ。いいか、手を出すなよ」

 言い捨てて天海は踵を返した。部活でもないのに校舎に戻るつもりらしい。突っ立っている奈美と目が合った。

「よお、奈美ちゃん。どうした、早く帰りなよ」

 天海の精悍な顔が人懐っこい笑みを浮かべた。彼とはあまり話したことがないが、気さくな態度に乗せられてつい奈美も喋ってしまう。

「帰ります。でも、どうして私のことを名字じゃなくて名前で呼ぶんですか」

「可愛い娘は名前で呼ぶことにしてるのさ。勉強は駄目だが、こういうことにだけは記憶力がいいんだ」

 天海は悪戯っぽく両眉を上げてみせた。彼がこんな台詞を使い慣れていて、別に告白なんかじゃないことは奈美にも分かっている。それでも奈美は頬を赤くしてしまった。

「じゃあな、奈美ちゃん」

 天海が手を振って歩いていった。

「さようなら」

 奈美も手を振り返した。他の生徒達も天海に声をかけていた。

 裏門に視線を戻すと三年生二人組はいなかった。門を抜ける時にクラスメイトの島谷紀子を見かけたので「さようなら」と挨拶したが相手はソッポを向いて足早に去っていった。

 島谷とは特別何かあった訳でもないが、何故か奈美は嫌われているようだった。いや島谷はクラスメイト全員を嫌っているのかも知れなかった。彼女は根暗な奴だと女子の間でも陰口を叩かれ、友達もいないようだった。奈美はそんな島谷を気の毒と思ったこともあるが、彼女は誰にも助けを求めなかったし、奈美も敢えて手を差し伸べるようなお節介な真似はしなかった。

 奈美は気にしないようにして、自分の家路についた。

 

 

  二

 

 島谷紀子は藤村奈美が嫌いだった。あのお嬢さん然とした物腰が嫌いだったし、化粧もしていないのに紀子より数段綺麗なのも気に入らなかった。あんな整った顔しやがって。神は不公平だ。

 何より、藤村が時折真鉤夭を見ているということが、紀子が彼女を憎む最大の理由だった。

 真鉤を自分のものだと主張する権利は紀子にはない。紀子が真鉤と話をしたのも数度しかないからだ。しかし、真鉤の価値を知る者は自分だけだと紀子は自負していた。

 彼は真の姿を隠して、目立たないように振舞っている。それが分かるのは紀子も自分を押し殺して生きているからだ。同級生なんて目先のことしか考えない、どうしようもないクズばかりだ。教師も学校も親も社会も大嫌いだった。人間も世界もなくなってしまえばいいと思っていた。でもそんなことを誰に言ったって無駄だ。だって皆クズだから。紀子は絶望を抱え、腐った世界でクズ共に混じって生きてきたのだ。

 唯一の例外が真鉤夭の存在だった。彼は紀子と似たものを持っている。他の人とは違う何かを隠している。きっと素晴らしい本質を。紀子にだけはそれを見せてくれるかも知れない。彼女のためだけの白馬の王子として。もし彼女が勇気を出して告白出来たならば。

 自分が告白するだけの勇気を持たないことを、紀子は薄々感づいていたが。

 紀子はたまに真鉤の通学路に沿って歩いた。別に尾行しているつもりはない。彼の後ろ姿が見えたらいいな、くらいのものだ。まかり間違って声をかけられて、一緒にお喋りが出来れば最高だ。何かきっかけがあれば、きっと……。

 今、コンビニのある角を曲がると真鉤夭が二人の上級生に行く手を塞がれていた。金髪とピアス。

 学校の裏門で真鉤に絡んでいた二人だった。さっきのやり取りを紀子も知っている。藤村奈美が緊張した様子で見守っていたことも。

「なあ、お前、天海の奴と仲がいいのか」

 金髪が聞いた。横を車が行き交っているし距離も遠かったが、なんとかその台詞は紀子にも聞こえた。

 二人は、天海に凹まされた腹いせに出たのだろう。

「いえ。同級生ですが、仲がいいというほどでもありません」

 真鉤は丁寧な口調で応じていた。彼は誰に対してもそうだ。この状況でも全く揺るがない冷静さに紀子は痺れるような快感を覚えた。きっと真鉤にとって、こいつらなどただのゴミなのだ。

「天海がよ、お前には手を出すなって言ってるんだ。なあ、お前は天海に告げ口したりするかい」

「いいえ、そんなことはしません。先輩方は僕に手を出すつもりなんですか」

 真鉤の態度は変わらない。

「さあね。取り敢えず一万円ほど持ってくれば考えてやってもいいけどな」

「申し訳ないですが、そんな余分なお金はありません」

 ピアスが真鉤の肩に手を置いた。

「それは、俺達にやるような金はないって、そういうことかい」

「困りましたね」

 急に真鉤の雰囲気が変わった。苦笑混じりの声だ。真鉤が周囲を確認する動きを見せたので、紀子は慌てて物陰に隠れた。

「なるべくトラブルは起こしたくなかったんです。いつもより早いけど仕方がありません。本来、先輩方のような人達を選ぶべきなんですよね」

 真鉤の声音から、自然な冷酷さが滲んでいた。

「どういう意味だ」

「もう少し詳しい話をしませんか。ここではなくて、別の場所で」

 会話が遠ざかっていく。紀子は慎重に三人の後を追った。真鉤の先導で脇道へ逸れていく。気づかれないように、ぎりぎり見失わない程度の距離を保った。何が起こるのだろう。紀子は期待と緊張に胸が高鳴っていた。

 古いアパートの前を過ぎ、ボロボロになった木造の廃屋が見えた。周りは草が生え放題だ。

「ここがいいでしょう」

 真鉤が先に入り、二人が互いの顔を見合わせてから続いた。喧嘩が始まるんだ。紀子は理解した。きっと真鉤君は強いんだ。一対二でもボコボコにやっつけてしまうだろう。

 いっそのこと、そんな奴らぶち殺しちまえ。世界と人類への憎しみが残酷な喜びとなって期待に上乗せされる。

 音を立てないように気をつけながら紀子は廃屋に近づいた。曇りガラスの割れた隙間から内部を覗いてみる。まだ陽は高く、汚れた屋内の様子がしっかり見える。奥に畳の間があり壊れたタンスなどが転がっている。三人はその手前の土間にいた。

 金髪の右目から茶色いものが生えていた。

 錆びついた、大きな長い釘の、頭だった。

「あ。つ」

 金髪の左目がそれを見ようとしてグリグリと動いた。右目の釘も一緒に動いた。真鉤の左手が素早く釘の頭を摘まんで引き抜いた。ズポンと音がして、串刺しになった眼球が一緒に抜けた。真鉤は両手に軍手を填めていた。

 え、何。どういうこと。

 紀子は、唖然として見守っていた。

「お、おい、それ……」

 金髪が、串刺しの眼球を左目で見て指差した。真鉤が右掌で金髪の顔面を叩いた。ボジャッ、と、不気味な音がした。

 金髪の、首から上が消えていた。金髪の両腕が羽ばたくようにビクンビクンと揺れる。

 ゆっくりと前のめりに倒れた金髪の、見えなかった首から上は、後ろに百八十度折れ曲がって後頭部が背中にくっついていた。

 死。死んだ。

 これは死んでる。殺した。殺人だ。人殺しだ。

 紀子の中で同じ言葉がグルグル回っていた。彼女は瞬きも出来ずその場に凍りついていた。さっきまで殺せと思ったことなど頭から吹っ飛んでいた。死んだ。殺した。心臓の鼓動がうるさいほどに響く。さっきまでの高鳴りとは全く違う鼓動。苦しい。

 残ったピアスの三年が、次第に呼吸音を高い声に変えていく。

「あ。あああ、あひゅ、うわゴゲッ」

 ピアスの上げかけた悲鳴が中断された。滑り寄った真鉤が血塗れの釘をピアスの喉に突き刺したのだ。刺さったままの眼球が喉と釘の頭に挟まって潰れた。気管をやられてピアスは声を出せず湿った咳を繰り返すだけだ。

 その場に蹲るピアスを放って真鉤が屋内を見回した。何かを見つけたらしく奥に歩いていく。戻ってきた時には汚れた包丁を握っていた。錆びた釘も拾ったものだろう。

 軍手を填めているのは、指紋を残さないためか。

 彼は最初から、殺す気だったのだ。手慣れた感じはもしかして、これまでも同じようなことを……。

「災厄は、理不尽に降りかかるものだ」

 感情の篭もらぬ声で真鉤は言った。その横顔は笑みを浮かべていた。たまに見せる控えめな微笑とは全く違う、仮面のように虚ろな笑み。大きく見開かれた目は薄く膜が張ったようで、ここではない別の世界を覗いていた。この世界に属する意志や感情は今の彼の何処にも見当たらなかった。

 真鉤夭は今、異次元の生物であった。

「慣れたお遊びが相手次第で命取りになることもある。望んだ訳でもないのに怪物に生まれてしまうこともある」

 虚ろな笑顔のまま真鉤は告げた。ピアスは喉をギューギュー鳴らしながら必死にポケットを探っていた。取り出したのは折り畳みナイフだ。手が震えてなかなか刃を開けないでいる。

 その右手に、真鉤が屈んで包丁を振り下ろした。ゲヒューッ、とピアスの喉から高い息が洩れた。

 彼の右手首が完全に切断されていた。断端から血が噴き出して土に染みていく。ピアスが目を剥いている。

 一歩下がって返り血を避け、真鉤が言った。

「まだ左手が残っているが、どうする」

 左手でナイフを使えばどうかと言っているのだ。膜のかかった真鉤の瞳に恍惚の色を認めて紀子はゾッとする。

 真鉤夭は、喜んでいるのだ。

 ピアスは噴き出る血を左手で押さえようと努力しながら真鉤の顔を見上げた。そして、ナイフを握ったまま落ちている右手を。

 決断は早かった。ピアスはナイフを諦めて口をパクパクさせた。涙を溢れさせ、助けてくれと目が哀願している。

 真鉤は動かなかった。出血は続いている。ピアスは土下座して命乞いを始めた。湿っぽい呼吸音。

「先輩、顔を上げて下さい」

 敬語に戻って真鉤が告げた。

 ピアスは、青い顔で、恐る恐る、顔を上げた。

 真鉤が包丁を横に払った。ピアスの顔が上唇の辺りで切り裂かれた。何かが飛んだ。歯の三、四本くっついた歯茎の塊と、ピアスの刺さった唇の肉。

 ピアスの頬が破れ、砕けた骨までが見えていた。ビヒュー。気管の音。ピアスが両手で顔を押さえようとする。ない右手から噴いた血が顔を汚す。

 真鉤が無言で包丁を振り下ろした。ピアスの額に、二十センチ以上の刃が完全にめり込んだ。ピアスの目が裏返った。

 力なく崩れ落ちるピアスを見届けてから、真鉤は目を閉じて大きく息を吐いた。

 仮面の笑みは消え、満足げな顔になっていた。心底幸せそうな、表情だった。

 人殺し。人殺しだ。彼は殺人鬼だった。紀子はパニックになっていた。見つかったら私も殺される。逃げないと。警察に。五分前までの淡い恋心など跡形もなくなっていた。逃げよう。でも怖くて足が動かない。急いで逃げないと。人殺し。逃げ……。

 急に真鉤が目を開けて窓の方を見た。紀子の目と真鉤のギラつく目が合った。見つかった。ばれた。ヒッ、と紀子の口から細い悲鳴が洩れた。逃げないと。呪縛が解けた。紀子は走り出した。早く庭を抜けて通りへ、人の多いところに出ないと。

 だが、紀子が窓から離れて三歩目を踏み出す前に強い力が彼女の口元を覆っていた。粗い繊維の感触。軍手だ。そんな。こんなに素早いなんて。

 必死で抗う紀子を真鉤は軽々と引き摺っていった。廃屋の内部へ。

「迂闊だった。昼間だから、もっと注意しておくべきだった」

 死体の転がる土間で真鉤は独り言のように喋った。感情の篭もっていない声。教室で喋る声と変わらない。

 左手で紀子の口元を押さえたまま、真鉤は前に立った。無表情に紀子の顔を観察している。どうやって始末するのか考えているのだろうか。右手は血塗れの包丁を握っていた。出る前に死体から引き抜いたのだ。

「島谷さん。僕を尾けてきたんですか」

 真鉤が尋ねた。彼が自分の名前を覚えていてくれたことも、紀子に何のときめきも与えなかった。

 どう答えればいいのか分からない。口も塞がれている。怖い。膝に力が入らない。腰が抜けそうだった。

 助けて。お願い。死にたくない。

 震えている紀子の目を覗き込み、真鉤が重ねて問うた。

「君が見たことを、誰にも喋らないと約束してくれますか。勿論、警察にも」

 助けてくれるの。クラスメイトだから、助けてくれるの。紀子はすぐ何度も頷いた。彼女の首の動きを確認して、真鉤はゆっくりと左手を離した。冷え冷えとした瞳は紀子から逸らさずに。

「いいですか。もし喋ろうとしたら、殺しますよ」

 真鉤の右手の包丁は、切っ先から血と薄黄色の液体の混じった雫を垂らしていた。

 紀子は頷き続けた。頷くついでにへたり込みそうになるのをこらえた。間違ってへたり込んでしまったら殺されてしまいそうだ。悲鳴になりそうで声も出せなかった。

 真鉤夭は暫く紀子を観察していたが、やがて左手で出口を指差した。

「どうぞ。さようなら」

 紀子はよろめきながら廃屋を出た。草に足を引っ掻かれても気にならなかった。自然に涙が滲み出す。それは安堵のためか、恐怖のためか。

 真鉤君は殺人鬼だった。どうしよう。喋ったら殺すと言った。でも警察に言わないと。でも言ったら殺されるかも。大体私が通報する義務なんてない。でも怖い。あの人の気が変わってやっぱり私を殺したくなるかも知れない。それなら警察に言って早く捕まえてもらった方が。でも彼は私を見張ってるかも。

 紀子は背後を振り返った。真鉤の姿はない。

 彼は死体を隠すのだろうか。それとも放置するのだろうか。誰も来ないような空き家だから発見されないかも知れない。彼は何人も、同じように殺してきたのだろうか。

 大きな通りに出た。人の姿を認めて紀子はやっと生き延びたことを実感した。それでも涙は止まらなかった。紀子は何度も振り返りながら小走りに家に帰った。

「どうしたの紀子」

 母親が紀子の泣き顔に驚いて尋ねた。紀子は久々に母親というものの存在をありがたく思った。いつもは鬱陶しいだけだったのに。そのまま泣き崩れて打ち明けてしまおうかとも思ったが、紀子はなんとか自制した。

「何でもない」

 それだけ言って二階に上がった。自分の部屋に入ってドアをロックする。

 ベッドに蹲って頭から布団をかぶり、紀子は暫く震えていた。

 涙が出なくなった頃には二十分ほどが過ぎていた。紀子は漸く落ち着いてきた。冷静になって考えてみると、やっぱり警察に連絡すべきだろう。殺人鬼と同じ教室でずっと過ごすことを考えたら、とても紀子の精神は耐えられそうにない。警察に説明して、確実に真鉤を逮捕してもらわなければ。もし逃げられたら紀子は復讐されるかも知れない。

 紀子は布団をめくってベッドから立った。震え過ぎて体中の筋肉が痛い。何日か筋肉痛が続くかも知れない。窓から外を覗いてみる。家の前に人影はない。

 よし。

 親子電話の子機は彼女の部屋にもある。紀子は受話器を手に取って、1、1、とボタンを押した。

 0に指先が触れる寸前、カツンと赤いものが視界を過ぎた。

 電話機のすぐ後ろに、それは深々と突き立っていた。電話線を切断している。

 血糊を拭き残した、古い包丁だった。

 それが飛んできた方向に、紀子はゆっくりと、本当にゆっくりと、目を向ける。また涙が滲んでくる。

 部屋の天井に真鉤夭が張りついていた。洋間のため天井には何も掴むような出っ張りがないのに、どうやってか彼は蜘蛛のように張りついていたのだ。

 いつの間に、侵入したのか。もしかして最初から……。

 真鉤は仮面のように虚ろな笑みを浮かべていた。唇から涎が少し垂れている。その瞳が、薄く膜を張ったような瞳が、別の世界を覗くみたいに紀子を見つめていた。

 紀子が悲鳴を上げる前に真鉤が落ちてきた。

 

 

  三

 

 今日は島谷紀子が登校していない。誰かと遊び歩いているのではと言う者もいたが、彼女に友人がいないことは皆知っている。家出したんだろうと言う者もいた。昨夜、彼女の家の前にパトカーが停まっていたという噂だ。詳しいことは分からない。

 藤村奈美は、昨日裏門で彼女が見せた敵意を思い出していた。

 この辺って良く行方不明があるだろ。そんなことを言う者もいた。

 島谷の机に花を置いておこうか。男子の一人がそう言うとクラスメイトの多くは笑った。奈美はちょっと嫌な気分になった。

 奈美は窓際の席を見た。真鉤夭は笑っていなかった。彼はそんなことで笑ったりはしない。奈美は独りで安心した。

 真鉤は横顔にあの寂しげな翳りを映しながら、静かに窓の外を眺めていた。

 

 

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