第二章 魔人達

 

  一

 

「どうして俺に頼まなかった」

 休日の午後、閑散としたカフェテラス。同じテーブルの向かいで足を組む日暮静秋が言った。

「俺の家まで引き摺ってくりゃあ、その女の記憶を消してやったのに」

 日暮は真鉤の黒い制服とは違い青のブレザーを着ていた。隣町にある北坂高の制服だ。真鉤と同じ二年生。

 身長は百八十センチ前後、痩せ型だが貧弱な印象はない。色白で西洋的な彫りの深い顔立ちはどちらかといえば陰性の美を備えている。髪は長い。闇色の深い瞳が真鉤夭を見据えている。

 二人のテーブルは中心から生えた紅白のパラソルで直射日光を免れている。日暮は何処かしら気だるそうだった。

 真鉤は無表情に反論する。

「咄嗟のことで、そこまで思いつかなかった。それに、人込みの中で彼女を連れていって、途中で騒がれる危険もある」

「お前ならうまくやれるだろ。どうしても難しけりゃ電話しろ。出張してやる。余計な死人を出すよりはましだからな」

「分かった。すまない」

 真鉤は頷いた。彼の前にはコーヒーカップがあった。

 日暮はジンジャーエールのグラスに口をつけて少し飲んだ。見つめていると、グラスの中で氷がクルクル回り出す。持った手は動かしていないのに。グラスの中に渦が出来ている。

 やがて、真鉤が言った。

「僕は……君が、羨ましい」

 本心なのだろう、声に苦渋が滲んでいた。

 グラスの渦が静まった。日暮は黙って真鉤を見返している。

「君は、僕のように罪悪感を背負う必要がない。誰も殺さずに済むのだから」

「お前の気持ちが分かるなんて、無責任なことを言うつもりはないぜ」

 日暮は同情も嘲笑もなく告げた。

「だがな、宿命は背負っていくしかない。俺は俺の、お前はお前の宿命をな。背負いきれなくなったら俺に頼め。楽にしてやる」

 真鉤は俯いていた。

「……まだ、死にたくはない。死にたくないからこうして苦しんでいる。僕は勝手な奴だ」

「なら苦しんで生きなよ。俺はお前のそういう割りきれないとこって、嫌いじゃないぜ」

 日暮は唇の片端だけを軽く曲げて大人びた笑みを見せた。

 真鉤も苦笑した。はにかんだような申し訳なさそうな笑み。生き辛そうな、笑み。

 若い男の呻き声が聞こえ、二人はそちらを向いた。横断歩道の手前にラフな服装の若者が三人立ち、うち一人が顔を押さえて呻いている。顎の先から鼻血が垂れている。他の二人はあっけに取られた顔だ。

 彼らを置いてこちらに歩いてくるのは南城優子だった。日暮と同じ北坂高で、同じクラスだという。長めのスカートにブーツ、薄手のジャケット。髪は茶髪のソバージュで、化粧は薄いがモデルのように整った顔立ちをしていた。天真爛漫さと姉御的な気の強さが自然に溶け合っている。

 日暮静秋と対照的に陽性の輝きを持つ少女は、二人の座るテーブルまで近づいてきた。「よう」と片手を上げて日暮が迎える。

「静秋、また制服で来てる。休日くらい私服でって言ったでしょ」

「私服なんて面倒臭いしな。それよりまた殴ったのか。拳で」

 目線で若者達を示して日暮は聞いた。

「だって馴れ馴れしく話しかけてきてさ、私の肩に手なんか置くから。静秋だって私がナンパされたら嫌じゃない」

「でも拳はやめろよな。女の子はおしとやかな方がいい」

「私がおしとやかじゃないみたいじゃない」

 南城優子は頬を膨らませた。怒った仕草も可愛らしいが妙に迫力がある。

 そんな少女に真鉤は控えめに挨拶した。

「こんにちは、南城さん」

 彼女は挨拶を返さなかった。真鉤を見下ろす目にはっきり嫌悪感が浮いている。

「静秋、まだこんな奴と付き合ってるの」

 真鉤は表情を変えなかった。彼女の反応を予想していたのかも知れない。

「付き合ってるってのは語弊があるが、まあこいつは俺の唯一の親友だからな」

 日暮はあっさり言う。少女は呆れたように溜め息をついて、真鉤に強い瞳を向けた。

「何度でも言っとくけどね。もし私の友達に手を出したら許さないからね」

「気をつけています。顔写真つきの除外リストを作ってもらえたら確実なんですが」

 真鉤は頷いた後、同じ口調で言った。

「許さないというのは、僕を殺すということですか。直接手を下すのは日暮君になるでしょうけれど、君も人殺しの共犯ですよ。人殺しになった自分の姿を想像したことはありますか」

 南城優子は答えに詰まった。真鉤は更に付け加えた。

「それに、僕もまだ死ぬ気はありませんから、処刑の結果は逆になるかも知れません。君は自分の恋人を殺し合いにけしかけられるんですか」

 沈黙。三人にとって街の平凡なざわめきは遠いものだった。

「わ、わた……」

 何か言いかけた少女を遮って日暮が告げた。

「俺が殺す。優子を苦しめたら、俺が自分の意志でお前を殺す。それが彼氏の義務って奴だろうからな。お前ほどじゃないが、何人も敵を殺してきた。この手にお前の血がついたところでどうということはない」

 日暮はジンジャーエールを飲み干して立ち上がった。

「さて、行くか。じゃあな、真鉤」

 南城が鼻に皺を寄せて真鉤に吐き捨てた。

「あんたなんて、大っ嫌い」

「そうですか。さようなら」

 真鉤は去っていく親友とその恋人に挨拶を投げた。二人が十歩も進まないうちにさっきの若者達が立ち塞がった。一人はブラスナックルを填め、一人は折り畳みナイフを出している。

「鼻が折れた。どうすんだよ、これ」

 曲がった鼻筋を腫らして一人が憎々しげに言った。

 日暮は気楽に応じた。

「病院に行きなよ」

「おい、お前がこの女の彼氏か」

 ブラスナックルの若者が聞く。

「ああそうだ。まだキスしかしてないけどな」

「馬鹿っ、そんなことペラペラと」

 南城がいきなり拳で日暮の横顔を殴った。ベギッ、と凄い音がして日暮の首がへし曲がった。日暮は苦笑しつつ頬を押さえる。

 テーブルに一人残された真鉤は、彼らのやり取りを静かに眺めていた。

「で、どう責任取ってくれるんだ」

「責任ねえ。じゃあそいつで俺の顔を殴ってみな」

 日暮がブラスナックルを指して言った。まともに当たれば歯が折れ骨が砕ける凶器。

「俺を舐めてんのか」

 ブラスナックルの若者が目を細める。

「別に。まあやってみろ」

 若者は遠慮しなかった。凶器の填まった右拳が日暮の顔面に激突した。

 日暮の首が奇妙な揺れ方をした。途中まで仰け反りかけ、顔に相手の拳をつけたまま素早く小刻みに動いたのだ。

「手首、肘、肩ってとこだ」

 宣言と同時に若者の右腕がだらりと垂れた。必死に腕を上げようとするが腕は惰性で揺れるだけだ。

 日暮静秋は、顔面で受け止めただけで相手の三ヶ所の関節を外してみせたのだ。南城は横で嬉しそうにしていた。強い恋人が自慢らしい。

「お前も病院に行け」

 日暮が言った。殴られたダメージはないようだ。

 若者達は唖然としていたが、ナイフを持った一人が我に返って叫び出した。

「な、何なんだよてめえっ」

「ナイフを受け止めるのは痛いからやめとく」

 言った時には日暮の左手が伸びて若者のナイフに触れていた。パツンと刃が折れた。指三本で挟んで折ったのだ。若者が目を剥いた。

「あれ、お前の顎」

 驚いたふりをして日暮の右手が若者の下顎に触れた。親指と人差し指で顎のラインを挟む。

「お前の顎、砕けちまってるぞ」

 骨の砕ける音がした。若者が言葉にならない声を上げた。

「お前も病院だな。整形外科がいいぞ」

 日暮は唇の片端を曲げて冷たく笑った。

「じゃあ行こ、買い物」

 南城が満足げな笑顔で日暮の腕に自分の腕を絡めた。

 陰と陽のカップルが去っていく。三人の若者は負傷箇所を押さえて見送るだけだ。

 真鉤夭は冷めたコーヒーを静かに飲み干した。

 席を立ち、カフェテラスを去った。

 

 

  二

 

 警視庁から来たという刑事は大館千蔵と名乗った。紀子が姿を消して三日。何故今になって東京から刑事が来るのか島谷香苗には分からない。地元の警察は家出だろうと言っていたのに。

「失踪の状況が特殊なものですから。お嬢さんの捜索に協力出来るかも知れません」

 大館は奇妙な雰囲気を持つ男だった。大柄で、身長は百九十センチ以上ある。のっそりとした動きは何処となく不自然な感じがした。年齢は三十代後半から四十代前半だろう。まだ寒い時期でもないのに灰色の厚いロングコートを着ている。肌の血色は悪く、コートと同じく灰色がかって見えた。オールバックにした髪の生え際はやや後退して深いM字を作っていた。眠たげな目は正面や上を見る際はしばしば三白眼となる。表情は殆ど動かず、歯切れの悪い陰鬱な声で喋る。

 この刑事を前にすると、島谷香苗は自宅にいるのに別の世界に迷い込んだような気分にさせられた。その理由が何なのか、彼女には掴めない。

 大館刑事は幾つかの点を香苗に確認した。娘の紀子が自宅に帰ってきたのが午後四時二十分前後で、ひどく怯えた様子で泣いていたこと。事情を話さず二階の自室に上がったこと。彼女がいないことに気づいたのが午後七時過ぎで、それまで香苗は台所にいて、娘が一階に下りる気配は感じられなかったこと。彼女の靴がそのまま残っていること。自室の窓に鍵が掛かっていなかったこと。子機の電話線が切られていたこと。

 話をしている間、大館は持参したミネラルウォーターのペットボトルに時折口をつけていた。喉が渇くのだろうか。香苗が煎茶を勧めると「いえ、お構いなく」と断っている。

「それでは、お嬢さんの部屋を見せて下さい」

 ペットボトルに蓋をしてコートの内側に収め、大館は言った。

 香苗が先に階段を上り、内装を見渡しながら大館がついてくる。何やら奇妙な音がする。

 大館が深呼吸を繰り返している。それがリュオーン、リュフュー、という高い音になって聞こえるのだ。

 顎が外れるくらいに大きく開けた口は、赤く深い口腔のみで歯が一本も見えなかった。

「どうかしましたか」

 香苗は尋ねた。

「血の匂いです」

「え」

 深呼吸ではなくて匂いを嗅いでいたのか。それにしても血の匂いとは。香苗には全く匂わない。

 刑事が無表情に案内を促した。香苗はドアを開けて娘の部屋に刑事を入れた。

「三日前に一通り見てもらったんですけど……」

 刑事は黙って室内を見回していた。勉強机とベッド、クローゼット、本棚、テレビ、そして床に置かれた電話機。

 板張りの床に屈み、刑事が細い筋を指差した。

「刃物の刺さった跡です。幅と深さから、料理用の包丁でしょう。古いものですね、錆が残っています。それと血液がついていたようです。丁寧に拭き取っています」

「血は、紀子の……」

 床に顔を近づけて奇妙な呼吸音をさせ、刑事は首を振った。

「血液は男のものです」

 匂いだけでどうして分かるのか。しかし刑事は冗談を言っているのではなさそうだ。

 大館刑事は電話線の断端も確かめた。

「血を拭いた跡があります。おそらく、包丁を突き立てて電話線を切断したのでしょう。それもかなりの勢いで。お嬢さんが誰かに電話しようとして、それを急いで妨害した、ということになりますか。状況からすると、警察に電話するつもりだったかも知れません。包丁を投げたのは……」

 刑事は床の傷から、天井の一角に目を移した。

「そこからです」

「て、天井……ですか」

 ぶら下がるにも掴むもののない平らな天井だ。電灯は中心にあり刑事の指した場所ではない。

「失礼。椅子をお借りします」

 問題の場所の下に椅子を置き、刑事の巨体が乗った。顔が天井にぶつかりそうになる。

 暫く天井を睨んだ後、刑事が言った。

「三、四ミリ程度の浅い凹みが出来ています。五つが連なって、丁度手を広げた指先の位置関係です。そんな凹みが幾つもあります。犯人は指で体重を支え、天井を這って移動していた」

「そ、そんなことが、出来るんですか」

「人間には無理です」

 刑事は平然と答えた。喋る時以外は口を開け、リュオーン、リュフュー、と何度も匂いを嗅いでいる。

「おかしい。犯人の匂いがしない。血の匂いだけだ」

「あの、それで、紀子はどうなったんですか。その犯人に連れ去られたんですか」

 匂いの世界に没頭する刑事に眩暈を覚えながら香苗は尋ねた。

「そうですね。探してみましょう」

 刑事は椅子から下りて室内の空気を吸って回った。そのうち部屋から出てしまい、二階の廊下を蛇行していく。香苗は黙ってついていく。

「この部屋は」

 隣の部屋を指して刑事が問う。

「幸子の……紀子の姉の部屋です。大学に行って一人暮らしになったので、今は使ってません」

「失礼」

 刑事がドアを開けた。中は和室で、勉強机や棚はあるが綺麗に片づけている。刑事は匂いを辿りながら押し入れを開けた。上の段、その天井の板を押し上げると屋根裏への通路が開く。

「懐中電灯を持ってきましょうか」

「要りません」

 大館刑事は屋根裏に頭を突っ込み、更には上半身も消えた。

 ズル、ズル、と、重いものが滑る音がした。

 息を呑む香苗の前に、大館刑事は透明なビニール袋に入った大きな塊を引き摺り下ろした。

「紀子さんです」

 あまりにも冷静に、刑事は告げた。

 市指定のゴミ袋に包まれて、饅頭のように丸められ畳まれた、紀子の死体だった。ビニールに押しつけられた窮屈そうな横顔が、白目を剥いて香苗を睨んでいた。

 絶句してその場に座り込む香苗の前で、刑事は袋を開き始めた。

「三重に密封しています。腐臭を洩らさないためでしょうが、その場凌ぎですね」

 刑事は袋の中の死体に触れて手足や首を動かし始めた。

「全身の骨が砕けていますが、これは袋に詰めるためのものでしょう。死因は頚椎骨折、延髄損傷による呼吸停止です。気管も潰されています。素手でしょう。血が部屋を汚すことを恐れたのかも知れません」

 袋に顔を突っ込んで刑事は執拗に深呼吸した。

「やはり、匂いがしない。これでは識別は無理だ」

 暫く死体を調べた後で、動けない香苗を振り向いて刑事は言った。

「ひとまずこれで失礼します。ご協力ありがとうございました。警察に連絡しておいて下さい。指紋はおそらく出ないでしょうが、念のため採るようにも伝えて下さい」

 香苗を置いて、刑事はペットボトルを取り出すと一人で出ていった。階段を下り、玄関を開け閉めする気配があった。

 暫くの間、香苗は放心して座り込んでいた。娘の腐臭が漂ってくる。流れ出る涙は悲しみのためか、それとも腐臭に粘膜を刺激されたのか。

 なんとか階下まで這って電話すると、警察の担当者はひどく驚いていた。

 警視庁の刑事が捜査に参加するとは聞いていないということだった。

 更に警視庁に問い合わせた結果、大館千蔵という刑事は存在しないことが判明したという。

 

 

  三

 

 月曜日の校内は事件の噂で持ちきりだった。屋根裏から見つかった島谷紀子のことはテレビや新聞で皆知っている。死体がビニール袋に包まれていたこと。首の骨が折れていたこと。どうやら犯人は家に忍び込んで彼女を殺したらしいこと。容疑者はまだ特定されていないこと。何故彼女が殺されることになったのかも分かっていない。

 こりゃ恨みだよと男子の一人が言った。もしかして母親が殺したんじゃないかと別のクラスメイトが言った。あいつのことだから自殺だよと笑う者もいた。自分で袋に入ったのだと。

 一時間目は緊急の全校集会が開かれ、校長から島谷紀子の冥福を祈ることと、事件について何か知っていることがあれば教えて欲しい旨の話があった。マスコミの取材には相手をしないようにも言われた。また、二日後に告別式があるので希望者は登校扱いで出席出来るということだった。

 島谷紀子の机には本当に花瓶が置かれることになった。いずれ机は取り払うと担任は言った。

 彼女が死んで泣く者は一人もいなかった。でも告別式には皆泣いてみせるのだろう。藤村奈美はそんなことを思って憂鬱になる。

 クラスメイトが死んだということに、奈美はまだ実感を持てなかった。世の中に人の死は溢れているが、それを身近に感じた経験は少ない。父方の祖父が亡くなった時、彼女はまだ幼過ぎた。母方の祖父母は彼女が生まれる前に亡くなっている。

 こんな状況で彼がどんな顔をしているか知りたくて、奈美は真鉤夭の席を見た。

 真鉤はぼんやりと二時間目の教科書を開いていた。特別普段と変わらぬ様子に奈美はちょっとがっかりするが、彼ならばそうだろうという納得の気持ちもある。彼は、他人とは少し違っている。

 島谷紀子は何を望んで生き、何を思って死んでいったのだろう。他人のことは分からない。奈美には、自分が何のために生きているのさえ分からなかった。きっと皆、そうなのだろうとは思う。

 昼休み、借りていた小説を返却しに図書室に行くと、珍しく真鉤夭が一人で本を読んでいた。新書だ。

 奈美は、思いきって声をかけてみることにした。

「何を読んでるの」

 真鉤は顔を上げ、本を立てて表紙を見せてくれた。著者は外国人で、『善と悪の定義』というタイトルだった。

「哲学の本」

「そうですけど、僕も読み始めたばかりなので」

 真鉤はあの翳りのある微笑を見せた。奈美は後に続けるべき言葉がないことに気づき、内心慌てて言葉を探す。

「あの、もしかして、島谷さんの件があったからかな」

 言ってからしまったと思った。こういうデリケートな話題は出すべきではなかった。

「どうなんでしょうね。自分でも良く分かりません。何となくこの手の本を読みたくなって」

 真鉤は嫌な顔もせず応じた。彼が嫌な顔をしたところをこれまで見たことがなかったが。

 次の台詞に詰まった奈美に、フォローするように真鉤が聞いた。

「藤村さんは良く図書室を使うんですか」

「ええ。一応文芸部だから。幽霊部員だけど」

 奈美が笑うと真鉤も曖昧な笑みで応じたが、目は笑っていなかった。僅かに眉をひそめて奈美の顔を見据えている。どうしたんだろう。何か言いたいことでもあるのだろうか。

 しかし奈美は長居を避けて「じゃあ」と言ってその場を離れた。真鉤も読書を再開した。念のため図書室を出る際に振り返ってみるが、真鉤はこちらを見てはいなかった。

 何だったのだろう、あれは。気になるが、奈美の気持ちなどお構いなしに時間は進む。

 放課後になった。久しぶりに部室に寄ることも考えたが、嫌な事件もあったことだし奈美はそのまま帰ることにした。

 自分の下駄箱を開けると、中に紙きれが入っていた。一瞬ラブレターかと思ってドキリとする。奈美はこれまでそんなものを貰ったことがなかった。恥ずかしながら容姿にはちょっと自信があるのに、どうして誰もラブレターをくれないのだろう。自分は近寄りがたい存在なのだろうか。

 だか問題のものは封書ではなくレポート用紙を小さく畳んだものだった。宛名もない。その場で開いてみると、ただ一文だけ書かれていた。

 『病院で検査を受けろ』となっていた。

 どういう意味だろう。ドキドキ感は一気に吹き飛び、生ぬるい不安に変わっていた。私が病気だということなのか。体力は元々ない方だが自分では健康だと思っている。誰かの悪戯だろうか。一体誰が……。

 図書室で奈美の顔を見つめていた真鉤のことを思い出す。

「よう、どうした奈美ちゃん」

 振り返ると天海東司がいた。右手にブランデーかウイスキーの入った小瓶を持っている。

「いえ別に……」

「お、どうしたそれ、ラブレターかい」

 長身の天海は奈美の肩越しに紙面を覗き込む。彼に繊細さなどを期待しても無理というものだ。奈美は仕方なく内容を見せた。

「下駄箱に入ってたの」

 天海は不精髭の伸びかけた顎を撫でて唸った。息が酒臭いが酔っ払ってはいないようだ。

「ううむ。奈美ちゃん、いい産婦人科紹介しようか」

「い、いや、そんなんじゃない、です。私は覚えありません」

 奈美は慌てて否定した。顔に血が昇るのが分かる。

「ふうん。なら、体の具合はどうだい」

「別に悪くはないと思うけれど」

「誰が書いたんだろうな」

「それが分からないんです。誰の字か分かります」

 角張った字体だった。天海は紙面に顔を寄せた。

「分かんねえな。筆跡出さないためにわざとこんな字にしてるんじゃねえのかな」

「真鉤君の字とは違うかな」

 天海は意外そうに奈美を見返した。

「真鉤の字と似てるのかい」

 奈美は後悔した。

「いえ。あんまり見たことないし」

「真鉤がそれっぽいこと言ってたのかい」

「いえ……。すみません、ただの思いつきです」

「ふうん。まあ、病院で血液検査とかしてもらっても、別に損はねえよなあ」

「そうですね。考えてみます」

 そうは答えたものの、奈美はあまり行く気がしなかった。

「ところで奈美ちゃん、真鉤のことが気になってんのかい」

「え」

 唐突に聞かれて奈美はドギマギしてしまった。

「こないだも真鉤のこと見てただろ。もしかして、告白する予定とか」

 数日前の下校時、真鉤と上級生二人のやり取りのことだ。

「いえ、べ別に、そんなこと、そんなつもりじゃ……」

「あいつにはあまり近づかん方がいいぞ」

 天海が真顔になって言うので奈美は驚いた。あの時も上級生達に天海はそんなことを言っていた。

「どうしてですか」

「真鉤はいい奴だが、プライベートに踏み込まれるのは嫌みたいだからな。ちょっと離れたとこで見守るくらいが一番いいんじゃねえかな」

「天海君は、真鉤君のこと良く知ってるんですか」

「あんまり知らん」

 天海は苦笑したが、すぐに真面目な表情に戻る。

「というか、仲良くしたいんだが俺も気を遣ってんのさ。だから余計なことは詮索しないようにしてる。まあ、俺に出来る範囲で守ってやれたらいいとは思ってるよ。あいつも、周りもな」

 最後の台詞の意味は良く分からなかった。奈美は紙を畳んで鞄に入れ、天海に別れを告げた。

「それじゃあ。お酒飲んでるとこ、先生に見つかったら大変よ」

「先生らも知ってるよ。それに今日は追悼の酒でもあるんだぜ」

 天海は瓶の中身を少し呑んだ。残りは半分ほどだ。もしかするとかなり酔っていたのかも知れないと奈美は思う。酔いが表面に出ない体質なのだろう。

「島谷さんのこと。早く犯人が捕まるといいけど」

「ああ、そうだな。だけど、犯人は捕まらないような気がするぜ」

 意外なことを天海は言った。彼の瞳には沈痛の色があった。

「じゃあ。さようなら」

「じゃあな」

 天海はいつものように片手を振って奈美を見送った。

 

 

 真鉤夭が校舎を出ると、天海東司が裏門のそばの塀に寄りかかって立っていた。

 真鉤は無表情に、彼の前を通り過ぎようとした。申し訳程度の会釈をして。

「真鉤」

 天海が声をかけた。

「仕方なかったんだな。そうなんだろ」

 真鉤が立ち止まり、天海に顔を向けた。その瞳は何の感情も映していない。

 見返していた天海が、やがて、目を逸らした。

 真鉤夭は、黙って裏門を抜けて去った。

 天海は酒瓶を飲み干して気だるく息をついた。

 

 

  四

 

 真鉤夭の家は斜めの屋根が互い違いに重なった奇妙なデザインの建物だ。築二十年ほどになる筈で、多少壁はくすんできている。

 真鉤は郵便受けから夕刊を取って雑草のはびこる庭を一瞥し、玄関のドアを開けた。ロックは二ヶ所ある。一階の窓には鉄格子が填まっており、サッシ戸には小型のセンサーアラームが取りつけてある。

 真鉤は居間に夕刊を置き、まず家の中を一通り点検する。台所、トイレ、浴室、応接室、物置。二階に上がって彼の勉強部屋兼寝室。机に鞄を置く。別の寝室も覗く。親の部屋だったが今はベッドにもカバーがかけられている。書斎。机には何も載っていない。

 三階は六畳ほどの一つのフロアになっている。窓は小さく人がぎりぎり抜けられる程度だ。ここも日頃は使っておらず段ボールなどが積まれている。

 地下室は最後だった。奥の方には不要な荷物が適当に並んでいる。流しの傍らにはモップやバケツがある。フロアの中心に大型の焼却炉があった。

 無表情に点検を終え、真鉤は一階に戻った。テレビを点け、チャンネルを一周させる。緊急ニュースなどはないようだ。真鉤はテレビを流しながら夕刊を開いた。

 一面の記事は首相の訪米に関するものだった。真鉤は途中を飛ばして社会面を見る。

 島谷紀子殺害事件のことが載っていた。朝刊より割かれたスペースは小さい。捜査の進展は特にないようだ。

 いや。真鉤は目を細めた。

 死体を発見したのは警察ではないらしい。身分を刑事と偽った男が屋敷内を調べて見つけたということだ。犯人が死体の隠し場所を教えるとは考えにくく、警察は男を参考人として捜しているという。

 偽刑事の氏名は公表されていなかった。

 真鉤は夕刊を読み尽くし、夕食の準備に移った。冷蔵庫には肉と野菜が詰まっている。一週間分をまとめて買うのが習慣になっていた。

 真鉤は自分で米を研いだ。ニュースを暫く観てから炊飯器のスイッチを入れる。米が炊けると料理を始めた。フライパンで肉を焼き、包丁でキャベツと人参を切る。大きな皿に焼けた肉と生の野菜を載せる。ドレッシングは何もかけない。コップには水道水を注ぐ。

 米と肉と生野菜だけの食事を、真鉤は黙々と食べた。栄養さえ摂ればいいと思っているような食事だった。

 食べ終えるとすぐ後片づけを行い、シャワーを浴びて寝巻きに着替える。寝巻きといっても普段着として使える長袖のシャツとズボンだ。

 二階の自分の部屋で机に向かい宿題に取りかかる。十五分ほどで終え、明日必要な教科書を鞄に詰めると、真鉤は一階の居間に戻ってソファーに背を預けてテレビを観た。ドラマ、バラエティ、雑学番組。コメディアンのジョークに頬を緩めることもなく、一定時間ごとにチャンネルを切り替える。ニュース番組にかける時間が一番多かった。

 まるで、情報を得るためだけにテレビを観ているようであった。

 時刻が午後八時半を回った頃、真鉤は急に立ち上がった。リモコンでテレビの電源を切りかけて手が止まる。

 慎重にリモコンを置き、真鉤は音を立てずに階段を上がり、勉強部屋の窓に寄った。カーテンの僅かな隙間から外を覗く。

 屋敷の前を大柄な男が歩き過ぎるところだった。灰色のロングコートを着た背中が見えて、すぐに視界から消えた。角度的に顔は見えなかった。

 リュオーン、リュフュー、という奇妙な音が続いていた。風の音にも似ているが、呼吸音か。ゆっくりした、深呼吸。時にそれは水を飲むような音に変わる。

 暫くの間、真鉤はその場で凝固していた。目を細め、耳を澄ましている。

 一旦遠ざかった深呼吸が、また近づいてくる。

 真鉤は瞬きもせずに、窓の外を見据えていた。

 カーテンの隙間を男の影が通った。ペットボトルらしきものを持っている。やはり顔は見えない。カーテンを開けば見えるだろう。

 しかし真鉤は微動だにしなかった。男が近くにいる間は息さえ止めていた。

「おかしい。この辺だと思ったが」

 男の呟きが聞こえた。陰鬱な声音だった。

 奇妙な深呼吸を続けながら、男は通り過ぎていった。

 真鉤が息を吐いたのはその二分後だった。

 

 

  五

 

 大館千蔵は古い廃屋の前で立ち止まった。木造で、瓦の抜けた屋根には青いビニールシートがかけてあるがそれも一部めくれている。壁が微妙に傾き、台風が来たら倒壊しそうな危うさを感じさせる。庭は草が生え放題で膝下が隠れてしまうほどだ。

 口を大きく開けて深呼吸を続けながら、大館は独りで頷いた。ペットボトルから一口飲み、草地に足を踏み入れる。足跡を探るように下を見ながら慎重に歩く。

「二人。いや、三人か。二人が中に入り、一人が……窓から覗いたのか」

 大館は窓際の匂いを口から嗅いだ。

「島谷紀子がここに立っていた」

 大館は背を丸めて窓から内部を見た。島谷がおそらくそうしたように。暗かったがうっすらと土間が見える。その向こうに畳の間があり壊れた家具が転がっていた。

 やはり地面を見ながら壁を回り、入口から中へ入る。

 土間には何もない。だが大館は屈んで平らな土に顔を寄せた。ゆっくり息を吸う。一度、二度。

「埋めたな。しかしおかしい。血の匂いが二人分だ。島谷のとも違う」

 闇の中、眠たげな目はどんな感情も映していない。

 大館は周囲を見回した。一旦外へ出て裏手に回るとシャベルが立てかけてあった。大館はそれを手に戻る。握り部分の匂いを嗅ぎながら。

「古い匂いしかしない」

 大館はペットボトルを収めて土間を掘り始めた。作業に慣れてくると次第にペースが速くなる。土がみるみる抉れていき、一メートル掘ったところで大館は手を止めた。

「死体も二つか。白崎高だな」

 大館の息は乱れていなかった。

 折り畳まれた制服の少年達。大館は彼らを掘り出すと、ジッポーライターの炎で彼らを観察した。口で匂いを嗅ぎ、触りながら。

「やはり食べてもいない。血を吸った痕もない。殺しただけだ。……同じ包丁だな。こいつの血だった」

 少年の額に開いた細い傷を見て大館は呟いた。

「二人を殺す現場を島谷は目撃した。逃げ帰った島谷を奴は追い、警察に通報しようとしたのを確認して殺した。島谷をすぐは殺さず口止めしたのか。そして尾行した。何故わざわざそんな面倒なことをする。情けか。奴と島谷は顔見知りか」

 状況を整理するためだろう、大館は独り言を続けた。

「足跡も体臭も残さない殺人鬼か。手間がかかりそうだ」

 大館は穴に二人を戻し、シャベルで再び埋め始めた。

 

 

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