第三章 死は傍らに立つ

 

  一

 

 島谷紀子の告別式には白崎高の校長と担任、それに二百名近い生徒が参加した。クラスメイトは全員だ。天海東司も来ていた。珍しくちゃんと袖のある制服で、窮屈そうに。

 紀子の父親が挨拶で友人達の参加に礼を述べた。母親の方は嗚咽するばかりで殆ど言葉は出せなかった。ひどい死に方だったそうだから、相当ショックだったのだろうと藤村奈美は思う。

「出来るだけ早く犯人を捕まえることが紀子の供養になると思います。どうか皆さんも事件について何か知っていることがあったら協力して下さい」

 紀子の父親はそれで挨拶を締めくくった。犯人は捕まらないだろうという天海の言葉を奈美は思い出した。何故天海はあんなことを言ったのだろう。犯人に捕まって欲しくないという訳でもないだろうに。

 式の様子をマスコミが撮影していた。警察関係者も来ているようだった。参列者の中に犯人がいると思っているのだろうか。

 並んで座るクラスメイト達は涙ぐみ、啜り泣く女子も多かった。彼女の死が判明する前、机に花瓶を置いて笑っていた者達が今は神妙な顔で泣いている。この中に島谷紀子の友達と呼べる者は何人いることだろう。一人もいないのではないか。そう考えるとなんだか不憫になって、奈美は彼女のために少しだけ涙を流した。

 僧侶の読経の間に参列者が順番に焼香していく。天海も流石に真面目な顔をしていた。

 真鉤夭の番が奈美より先だった。スムーズに焼香を済ませる彼も泣いてはいなかった。ただ、奈美は彼の目に痛みを見たような気がした。それは他のクラスメイトの自己陶酔に浸った悲しみとは違っていた。

 最後まで、紀子の棺が開けられることはなかった。

 

 

 斎場を出て貸切バスに戻っていく白崎高の生徒達を、大館千蔵が向かいのバス停にあるベンチで観察していた。距離は四十メートルほど、彼は欠伸でもするように口を大きく開けて深呼吸をしている。フヒュールーと微かに音が鳴る。ベンチの下には空のペットボトルが三個転がっていた。マスコミのカメラは遺族と参列者を撮るのに夢中で大館に向くことはない。

 大館の眠たげな視線に晒されながら藤村奈美がバスに乗った。天海東司がふと大館に目を留めたが、胡散臭そうに唇を歪めただけで列に続いた。真鉤夭は無表情に通り過ぎた。三白眼になった大館の瞳は彼らの姿を確認しても動かなかった。

 バスが全て出発し、大館の薄い眉が、ゆっくりとひそめられていった。

「やはり駄目か」

 ミネラルウォーターのペットボトルを片手に大館が立ち上がった時、斎場から二人の男が近づいてきた。一人は喪服でもう一人は地味なスーツを着ている。大館は小さく舌打ちした。

 歩き去ろうとした大館の背に二人が声をかけた。

「ちょっと失礼ですが」

「何ですか」

 大館は振り向いた。斎場を一瞥してマスコミが見ていないのを確認する。更に彼は数歩下がって曲がり角の陰に移動した。二人も同じだけ寄る。

「もしかしてあなたは大館さんではないですか。大館千蔵さん」

 スーツの男が警察手帳を見せた。島谷紀子の母親から大館の外見的特徴は聞いていたのだろう。百九十センチ以上の長身でオールバック、今の季節に厚いロングコートでは間違えようがない。

「これは職務質問ですか」

「ええ、そう解釈してもらって結構です。あなたは大館千蔵さんですか」

「そうだったらどうします」

 大館は陰鬱に聞き返す。

「ちょっと署までご同行願えますか。今回の殺人事件の容疑者としてではありません。あなたが勝手に刑事を名乗ったことは官名詐称と取られても仕方がありませんがね。それよりも、捜査のために話を聞かせて頂きたい」

「お断りします」

 大館の口調は変わらなかった。刑事達の目つきが険しくなった。

「どうしてですか」

「あなた方には無理だからですよ。今回の犯人は警察の手には負えない。私は独自に犯人を探します」

「し、しかし、死体を発見して、捜査に協力してくれたじゃないか」

 喪服の若い方が言う。大館は二人を冷たく見下ろしていた。

「単に私が調べたかっただけです。それでは失礼します」

「待て。なら官名詐称罪で逮捕させてもらうがそれでもいいか」

 スーツの刑事の脅しにも大館は動じない。

「私に関わるなと聞いていないのですか。本庁に確認した方がいい。私は『マルキ』だ」

 大館は背を向けた。その肩にスーツの刑事が手を伸ばす。

 指先が触れる前に、素早く振り向いた大館の両腕が霞んだ。刑事達の体がくの字に折れ曲がって一瞬宙に浮く。刑事達の呼吸が止まった。

 大館が腕を戻すと二人はアスファルトに崩れ落ちた。眼球が飛び出しそうなほど目を見開き、苦悶の表情で腹を押さえている。大館の拳は二人の鳩尾を捉えたのだ。

「手加減しましたから胃は破れていないと思います。では失礼」

 大館は足早に去った。

 刑事達は声を出すことも出来ず、自分の吐いた胃液に塗れて呻き続けた。

 

 

  二

 

 繁華街から離れた小さな喫茶店に異なる制服を着た二人の少年がいた。窓際のテーブルで向かい合わせに座る真鉤夭と日暮静秋。客は少なくクラシックが控えめな音量で流れている。店の名前はトワイライト。

「秋と冬は好きだな。夜の時間が延びる」

 夕焼けに染まる街を眺めて日暮静秋は呟いた。彼はクリームソーダのアイスクリームだけをスプーンでほじくり回している。

「君が張ってくれた結界が役に立った。もし見つかったらどうなっていたか、僕にも分からない」

 真鉤夭が言った。彼はついでに夕食にしてしまうつもりなのだろう、チキンドリアが目の前にあるがまだ殆ど手をつけてはいない。

「あの結界は意識を逸らすには役に立つが、相手がお前の家をはっきり目標にした時は無理だぞ。それにしても、今回はえらく弱気だな。いざとなったら始末すりゃあいいだろ」

「あれは人間ではなかった」

 真鉤の言葉に、日暮は相手の顔を見直した。

「俺達もそうだ」

 日暮の整った顔が皮肉な微笑を浮かべる。真鉤は生真面目な表情で続けた。

「殺せるかどうか、見極めがつかなかった。彼は深呼吸して、匂いを嗅いでいたようだ。多分、血の匂いを辿っていたのだと思う。僕は体臭と気配を完全に消せる」

「知ってるよ」

 日暮は鼻から空気を吸ってみせた。

「彼女の死体を発見したのも彼だろう。もしかすると別の死体も見つかっているかも知れない。昨日の告別式でも外から観察していた」

「人間じゃないのに警察に協力してんのか」

「それは分からない。彼の意図が分からないから、君も気をつけた方がいい」

「ああ、とばっちりを食わないようにするよ。俺は昼間は弱いしな」

 日暮はアイスクリームを先に全部食べてしまった。真鉤もやっと本格的にドリアを食べ始める。

 やがて、日暮が聞いた。

「なあ。お前、高校を卒業したらどうする」

 短い沈黙の後、俯きがちに真鉤は答えた。

「まだ一年以上先のことだ」

「ああ、そうだな。だが、時間は必ず経つ。俺は社会に溶け込む自信はあるが、お前はどうだ」

「……。出来れば、今の身分を保っていられたなら、大学にも行っておきたい」

「人並みにって訳か。だが、その後はどうする。どうやって生きてくつもりだ」

「まだ分からない。外人部隊に入ろうかと思ったこともある。それとも、マフィアの殺し屋になるかも知れない。なるべく、罪悪感を抱かなくて生きていけるような、そんな仕事が、出来れば……」

 真鉤の声は次第に低く頼りないものになっていった。

「冗談みたいだが本気らしいな。だが、殺しは殺しだぜ」

「分かっている。殺しは、殺しだ」

 真鉤は頷いた。

 ふと外の通りを見て日暮が言った。

「おい、可愛い娘がお前を見てるぞ。知り合いか」

 向かいの歩道を通りかかった少女が立ち止まって喫茶店を凝視している。

「あっと、目を逸らしたな」

「クラスメイトだ。僕のことを気にしているらしい」

 そちらを見もせずに真鉤は答えた。少女は急ぎ足で過ぎていく。たまたま真鉤に気づいただけなのだろう。

「地味なふりして意外にもてるんだな。名前は」

「藤村奈美さん。必要以上に近づけないようにしている」

「なら俺が手を出してもいいか。命に別状はないんだからいいだろ」

 日暮の唇の隙間から、常人より長い犬歯が覗いた。先端が鋭く尖っている。

「やめてくれ。彼女は……」

 真鉤は途中で黙り込み、俯いたままチキンドリアを片づけていった。

 

 

  三

 

 喫茶店で別の高校の生徒と話している真鉤夭の姿を見かけ、藤村奈美はちょっと意外な気がした。校内には友人などいないようだったのに。

 あのブレザーの制服は多分北坂高だろう。長身でハンサムだが、闇を背負っているような暗さが漂っている。

 北坂高の少年が視線に気づいたようなので、奈美は慌てて喫茶店から目を離した。真鉤を気にしているということを、本人に知られたくなかった。

 今日は学校帰りに町で一番大きな本屋に寄ったところだった。それから大通りを外れたところにあるアクセサリーショップで星の形をした銀のキーリングを買った。携帯電話のストラップに繋げるつもりだ。この店はちょっとした穴場になっている。

 夕飯の時間までには家に帰らないといけない。バス停へ向かう途中で奈美は真鉤の姿を認めたのだった。

 どんな話をしていたのだろう。通り過ぎた後で奈美は考える。あまり楽しそうではなかった。相手に脅されているとか。いや彼に限ってそんなことはないだろう。友人なのだとすれば、真鉤に相応しい友人であるような気がした。なんとなく。

 目当てのバスが来た頃、陽も落ちて辺りは暗くなっていた。

 バスには十人ほどの客がいた。空いていた最後部の席に座る。自宅近くまでの料金は確か二百六十円だった。

 このバスを使うのは週に一度くらいだ。他のクラスメイトはカラオケや合コンやあまり公に出来ないことなどで遊んでいるようだが、奈美は自分でも真面目な方だと思う。

 バスは決まった道を進んでいく。バスの運転手は何を考えながら黙々と運転しているのだろう。奈美はふとそんなことを思った。そういえば、同じ道を回ることが嫌になったといってバスの運転手が勝手に道筋を外れた事件があった。人生は同じことの単調な繰り返しなのだろうか。奈美は自分の人生を思う。社会に出てどのように生きていくのか、未来の自分の姿がどうしても思い浮かばなかった。

 島谷紀子のことも考える。クラスメイトに聞いた話だが、三年生も二人行方不明になっているらしい。遊び好きな二人だから家族も何処かに泊まり歩いていると思っていたという。もし彼らも殺されたのだとしたら、同じ犯人なのだろうか。この町には殺人鬼がいるのだろうか。

 繁華街を離れると明かりは減っていき、所々に立つ街灯が夜の町をぼんやり照らす。このバスは寺のそばのバス停にも寄るのだが、その手前はカーブした坂道で左側がちょっとした崖になっている。大きなバスが道幅ぎりぎりを通るため、毎回奈美は落ちていきそうな不安を覚えるのだった。

 だから奈美は窓から左側を見ないように前を向いていた。正面からヘッドライトが近づいてはすれ違っていく。もうすぐ坂を上り終える。

「うわっ」

 いきなりバスの運転手が叫んだ。マイクの音声と肉声が混じって聞こえた。ヘッドライトが。前の席にいた中年女性の悲鳴。何。

 凄い衝撃が来た。奈美の体が座席から浮いて前席の背もたれに叩きつけられた。痛い。胸を打った。ガラスが砕け散る音。ギギイイ、という不気味な金属の軋み。

 トラックだった。トラックと正面衝突したのだ。バスの運転手。血塗れ。トラックの運転手の姿も見えたような気がした。ハンドルに突っ伏している。

「落ちるっ」

 男の乗客が叫んだ。まさか。若者が慌ててドアに駆け寄ろうとするが、大きくバスが揺れたためつんのめって金属のバーに頭をぶつけた。

 まさか。崖から落ちる。そんな。

 トラックに押され、バスの後部がガードレールを破ってはみ出したようだ。ゆらゆらと不安定な感覚が奈美の背筋を凍らせる。落ちる。崖といっても高さは十メートルくらいの筈だ。死ぬことはないかも。いや死ぬかも。後部が先になって落ちそうだ。奈美は少しでも前に行こうと席を立つ。

 その時、新たな衝撃が連続してバスを破滅へ追いやった。前方からと側面から。トラックとバスにそれぞれ別の車が追突したのだろうか。ひどい駄目押しに神を恨む余裕もない。奈美は飛ばされかけて座席にしがみつく。バスが揺れる。傾く。回る。天地が。

 奈美は目を閉じて必死に背もたれの端を掴んでいた。

 音と衝撃が何度か続き、頭が真っ白になった。

 気を失っていたのはほんの数秒だったろう。いや、もしかして一分以上経ったかも知れない。痛み。頭がひどく痛む。体の節々も。特に腕の痛みが強い。左腕。力が入らない。

 横倒しになったバスの中で、奈美は体を丸めて転がっていた。バスの内部が信じられないくらいにひしゃげ、ねじれている。変形した座席と側壁の間に奈美の体が挟まっている。散乱したガラス片。非現実的な光景に圧倒されるよりも痛みばかり気になっていた。腕は折れているかも知れない。

 呻き声。奈美の目の前に若い男が倒れている。その首が曲がって肩にピッタリくっついていた。首の骨が折れている。死んでいる。忘れていた恐怖が数倍になって帰ってきた。バスから出ないと。爆発するかも知れない。

 呻き声は別の場所から聞こえている。バスの運転手。無意味に手が宙を掻いている。他の乗客は呻いている者もいれば死んだように動かない者もいた。

 ここから抜け出さないと。誰か助けに来てくれないだろうか。追突もあったので上の道路に必ず誰かいる筈だ。バスが横倒しになったせいで見える範囲が限られている。後ろの窓を見てゾッとした。

 すぐ近くにタンクローリーがひっくり返っていた。トラックと思っていたがこれだったらしい。タンクから中身が洩れている。引火すれば大爆発を起こすだろう。早く逃げないと。奈美は必死になってもがいたが椅子と壁の間から抜け出せない。挟まった腹部が痛む。内臓破裂など起こしてないだろうか。

「助けてっ誰かっ」

 奈美は声の限り叫んだ。上の道路に人影は見えない。崖の下は草が生えているだけの場所で、近くに民家はない。

「誰かっお願いっ」

 熱気を感じる。バスが燃えているようだ。タンクローリーから洩れたオイルに引火したら終わりだ。

「助けてっ」

 何度も叫んだ。声はバスの外に洩れている筈だが、外に人がいるかどうかは分からない。喉が痛む。奈美は生まれて初めて死を実感した。

 割れたフロントガラスの向こう。闇の中で影が動いた。人影。近づいてくる。助かるかも。

「助けて。ここです」

 声をかけた後で奈美は愕然とした。フロントガラスから覗き込む男の顔が、内部からの灯りによってはっきり見えた。無表情にこちらを観察しているのは、真鉤夭だったのだ。

 どうしてここに。たまたま通りかかっただけなのか。どういう偶然だろう。

 余計なことを考える暇はなかった。奈美はもう一度真鉤に言った。

「助けて」

 この状況で、真鉤はやはり無表情のままだった。急に奈美は強い不安に襲われた。彼がこのまま彼女を見捨てて去ってしまいそうな気がしたのだ。

 と、真鉤の姿が消えた。やっぱり。見捨てられた。でも、まさか。

「嫌っ助けて真鉤君っ」

 奈美は叫んだ。涙が滲み出してくる。

 上の方からゴリッと音がした。バスの上に真鉤がいる。バスは右側面が上になっている。彼は非常用のドアを開けようとしているようだ。奈美を見捨てた訳ではなかったのだ。

 しかしドアは枠ごと変形している。開けるのは無理かもと奈美が思った時あっさりドアが開いた。というより丸ごと外れた。真鉤は白い手袋をしている。いや軍手だ。

 奈美が見ている前で、真鉤は非常用出口の外枠に触れた。嫌な軋み音をさせながら金属の枠が広がっていく。信じられない力だった。

 充分な広さになった出口を抜けて真鉤夭が中に入ってきた。音を立てず奈美のそばに着地する。

「体が、挟まって……」

 奈美が言うと真鉤は変形した座席を掴んだ。それほど力を込めたようには見えなかったが、ギキュゥ、と逆向きに曲がったかと思うと座席が土台から取れた。端の鉄板は外れたのではなくちぎれていた。奈美は解放された。

「掴まって」

 手を差し伸べた真鉤の口調はいつも学校で聞くのと同じだった。どうしてこんなに落ち着いていられるのだろう。

 真鉤の手を握ると、彼は奈美の体を軽々と抱き上げてそのまま非常用出口から抜け出した。バスの後部で炎が揺らめくのが見えた。

「爆発するかも。でも他の人がまだ……」

 真鉤は黙ってバスを飛び下り、姿勢を低くして走り出した。奈美を抱えたままで呆れるほど敏捷な動きだった。

 三十メートルほど離れた大木の陰に隠れた瞬間、凄まじい爆発が辺りを揺るがした。炎の舌が二人の横を過ぎていき、爆風で木がたわむ。奈美は鼓膜が破れたかと思った。耳がジンジンして聞こえが悪い。

 一瞬遅ければ、爆発に巻き込まれて死んでいただろう。真鉤に下ろしてもらい、奈美はバスとタンクローリーを振り返った。

 バスは内部が見えないほど激しい炎に包まれていた。草も一部燃えている。吹き飛ばされた金属の塊が落ちてきた。バスの中にいた人達は即死だったろう。助けられなかった。でもどうしようもなかった。真鉤が来てくれなかったら奈美も彼らと同じように燃えていただろう。

 真鉤は、眉間に皺を寄せ険しい目つきで彼女を見つめていた。彼のこんな表情は珍しかった。

「あの……ありがとう」

 奈美が礼を言うと、真鉤は緊張した声で告げた。脱出の時は平然としていたのに。

「僕が助けたことは誰にも言わないでくれ」

「え。どうして」

 真鉤は理由を説明しなかった。

「皆には自力でなんとか脱出したと言ってくれ。細かいことを聞かれたら、夢中だったので覚えてないと言うんだ」

「あの、どうして」

「そうでないと、僕が困る。誰に聞かれても絶対に僕のことは言わないで欲しい。約束してくれ」

 真鉤の目は真剣で、冷たかった。そして苦しげだった。

 危機は去った筈なのに、急にまた不安が強くなっていた。殺されるかも知れない。彼は私を助けてくれたけれど、その彼に殺されるかも知れない。

 選択肢は決まっていた。奈美は真鉤の指示に従うことにした。命を助けてもらったのだから、彼のために出来るだけのことをしなければならないと思った。

「分かった。誰にも言わない。約束する」

 奈美の言葉に真鉤は頷いた。険しさが少し緩んだ。

「ありがとう。じきに誰か来るだろう。救急車を呼んでもらうといい」

 真鉤は周囲を見回した。誰もいないことを確認するかのように。彼の制服の右脇腹から、十センチほどの鉄片が生えていることに奈美は気づいた。さっきの爆発で飛んできて、木で隠しきれなかった部分に突き刺さったのだ。

「真鉤君、それ……」

 真鉤も自分の脇腹を見て言った。

「心配ない。掠り傷だ」

 真鉤は軍手を填めた右手で鉄片を摘まみ、あっさり引き抜いた。ビヂビヂと肉の裂ける音がして、ねじくれた鉄板が脇腹から抜けた。かなり深く刺さっていたのだろう、血に塗れた部分も十センチくらいあった。

 掠り傷どころではない。絶句している奈美に真鉤はもう一度言った。

「心配ない」

 彼はそれを放り捨てようとしてやめ、厚い鉄板を紙屑のように丸めてポケットに突っ込んだ。脇腹からは血が流れているが、思ったほどひどくはないようだ。彼は素早くその場を去った。ビデオの早送りを見ているような、不自然なスピードだった。

 何なの、一体。

 奈美は立っていられずその場に腰を下ろした。学生鞄がバスの中だったことに気づく。完璧に燃えてしまっただろう。体の痛みも思い出した。左腕がズキズキと疼く。

 助けが来るまでの間、奈美は燃え盛る車輌をただぼんやりと見つめていた。

 

 

  四

 

 藤村奈美は総合病院の救急外来に運ばれた。レントゲンの結果、左尺骨亀裂骨折と言われた。完全に折れてはいないがヒビが入っているということらしい。ギプスを巻かれ、何週間かは取れないことになった。三角巾で吊っていると首が疲れてくる。内臓も頭の方も大丈夫だった。通学には問題なさそうだし不便だが体育以外は授業も受けられるだろう。

 ただし、教科書もノートも鞄ごと燃えてしまった。教科書は買い直さないといけないし、ノートは誰かに借りないといけない。借りるべき相手は真鉤夭になるだろうと思い、奈美は不思議な気がした。

 病院まで両親が駆けつけてきた。心配と安堵で母は取り乱して泣いていた。生きていて良かったと父は何度も頷いた。

 その後で警察も来た。乗客も運転手も皆助からなかったらしい。炎上するバスを見たので奈美も分かっている。死者は十一人になるという。バスに追突した自動車のドライバーは頭を打ったが意識は戻ったという。タンクローリーに追突した方は軽傷だったとも。事故の原因はまだ調査中だが、タンクローリー側の居眠り運転か酔っ払い運転だろうということだった。

 奈美は転落の後、自力で必死に這って脱出したと説明した。細かいことは覚えていないとも。真鉤のことは言わなかった。ドア枠の変形は、元々バス全体が歪んでいたし爆発してグチャグチャになったから疑われずに済むだろう。警察は納得して去った。

 医者は念のため何日か入院しておくことを勧めた。両親も同意した。それから、血液検査で少し異常があるから追加検査をするとも。怪我をしたばかりなので異常は当然かも知れないが、念のためだ、と医者は説明した。奈美は『病院で検査を受けろ』というあの紙きれのことを思い出した。あれを書いたのは誰だったのだろう。真鉤の顔が浮かぶ。

 学校を休むのは金曜日の一日だけで済みそうだ。奈美は病室でテレビを観て過ごした。バスとタンクローリーの衝突転落事故のニュースも流れていた。黒焦げの骨組みになったバスや、燃えて丸裸になった草地が映っていた。新聞でも事故のことは出ていて、左腕骨折の生存者として奈美の名前も載っていた。特に真鉤の存在は触れられておらず、奈美はちょっと安心した。わざわざ彼の心配をする必要もないのだろうけれど。

 病室には担任やクラスメイトが何人か見舞いに来た。それほど仲が良い訳でもない女子が目を輝かせて事故の様子を聞いてきて奈美をうんざりさせた。担任は果物を持ってきてくれた。後で来た母がリンゴを剥いてくれた。

 土曜の午後には天海東司が見舞いに来てくれた。「食いな」と言って持ってきたのはひよこ饅頭で、天海のイメージとかけ離れていたので奈美は驚いた。

「意外だったかい」

 そう言うと天海は気持ち良い笑顔を見せ、奈美も笑った。早速箱を開けて奈美に渡しながら天海は自分でも食べ始める。

「良く助かったもんだな」

 奈美の話を聞いて天海は感心していた。勿論奈美は真鉤のことは言わない。

「まあ、命拾いしたばっかなんだからゆっくり休みなよ」

「来週の月曜から学校には行くつもりなの。勉強についていけなくなると困るし」

「俺なんてハナからついていってねえよ。成績なんか悪くたって人間は生きていけるのさ。奈美ちゃん、顔色悪いぜ。無理しない方がいい」

 天海は本気で気遣ってくれているようだった。いつの間にか彼とは親しくなってしまったようで、奈美はちょっと可笑しかった。

 いなくなった二人の三年生のことも話題に上った。本格的に捜索願が出されたらしい。

「このところ学校も慌ただしいもんだぜ」

 天海は言った。行方不明の二人が、以前裏門で真鉤に絡んでいた者達だったことを奈美は知った。

 ひよこ饅頭は十個あったが、天海は帰るまでに七個を食べてしまっていた。

 日曜日のうちに退院した。結局真鉤は見舞いに来なかった。来る筈がないと分かっていたが、奈美は心の何処かで期待していたのだろう。

 真鉤夭の人間離れした力と、彼があの時見せた冷たい翳りのことが、ずっと気になっていた。

 彼は何者なのか。あいつにはあまり近づくなと天海は言った。詮索が良いことではないと奈美にも分かっている。

 でも奈美は確かめたかった。きっと今の自分なら、それが許される筈だ。

 

 

 月曜日に左腕を吊って肩掛けバッグで登校した奈美を、クラスメイトは温かく迎えてくれた。多くはやっぱり事故の様子を聞きたがった。黒焦げの死体が見えたかどうかなど。授業中は隣の席の女子が机をくっつけて教科書を見せてくれた。注文した教科書が届くまで一週間くらいかかるらしい。片手は不便だがノートを取れないこともない。体育の授業は見学となった。体育祭が近いけれど、この分では参加出来ないだろう。

 真鉤夭は特別いつもと変わりなく、休み時間も席を離れずにぼんやり過ごしていた。鉄片が刺さった脇腹をかばう様子もない。無表情だがあの夜に見た冷たさは感じない。奈美に目を向けることもなかった。でも彼だって奈美が気にならない筈はないだろう。

 奈美は口実を用意していた。

 昼休み、パンを食べている真鉤に近づいて奈美は言った。

「あの、真鉤君。金曜日の分のノート、見せてくれるかな。私、休んでたから」

「いいですよ」

 真鉤は誰に対してもするように、穏やかに頷いた。瞳は奈美を見つめているが何の感情も映さない。

「でも日本史と数学IIは今日なかったからノートも持ってきてません。僕の家と藤村さんの家は割と近くですよね。帰りに寄って渡しますよ」

「そう。わざわざごめんね」

 奈美はひとまず安心していいのか、自分がパンドラの箱を開けてしまったのか分からなかった。

 放課後になった。奈美と真鉤が裏門を出ようとすると天海の声がかかった。

「おや、お二人さん、今日は揃ってお帰りかい」

 冷やかし半分の口調に奈美が振り返ると、天海は悪戯っぽくウインクしてみせる。

「真鉤君からノートを貸してもらうの。天海君、お見舞いの時はありがとう」

「なあに、俺が入院した時も見舞い頼むぜ。おい真鉤、奈美ちゃんと歩いてるんだからもうちょっと嬉しそうな顔をしろよ」

 天海に言われて真鉤はあのはにかんだような申し訳ないような微笑を見せた。奈美は何故だかホッとした。ただ、天海が去り際に真鉤に向けた視線はえらく鋭いものだった。何かを念押しするような。

 並んで歩き、他の生徒の姿が見えなくなった頃合に奈美は真鉤に話しかけようとした。

「あの……あ、ありがとう。あの時……」

「話は僕の家に着いてからにしましょう」

 奈美が言い終える前に真鉤が告げた。冷たい声音だった。それで奈美は黙った。

 やめておこうか。やっぱりノートは要らないと言って別れてしまえば深みに嵌まらずに済む。だが、奈美は込み上げる不安を押さえつけた。以前から彼の翳りの理由を知りたかった。そして命を助けられた。だから、どんな結果になろうとも、踏み込んでみようと思った。

 真鉤の屋敷の前に着いた。不思議な形をした、ちょっと古ぼけた建物。郵便受けから夕刊を抜き取って真鉤は言った。

「ここで待っていればノートを持ってきますけど、中で待ちますか」

 問いかけの意味が分かった。

 奈美は踏み込んだ。

「中で待ってもいいのならそうするけど」

 真鉤は頷いた。玄関のドアは二ヶ所に鍵が掛かっており、真鉤はそれを開けて奈美を居間に案内した。

「どうぞ。そこに座っていて」

 ソファーは二人掛けと一人掛けがあり、真鉤は二人掛けの方を指差した。

 奈美がそこに座ると、真鉤は屋内をウロウロし始めた。何をしているのかと思ったが、どうやら全ての部屋を点検しているようだった。誰かが忍び込んでいないか疑っているのだろうか。

 足音を立てないので何処にいるのか分からなかったが、程なくして真鉤は戻ってきた。

「どうぞ。日本史と数学II、それから木曜に授業のあったものも。君のノートは燃えてしまったでしょうから」

 真鉤は数冊のノートを差し出した。気が回る人だった。

「ありがとう。コピーして明日返すから」

 片手で鞄を開けてノートを収める。

「コーヒーでも飲みますか」

「要らない。それで……」

 真鉤は一人掛けのソファーに腰を下ろし、奈美を見据えた。

「あの……助けてくれて、ありがとう。脇腹の傷は大丈夫なの」

「ええ、もう治りました。こちらこそ礼を言います。僕のことは誰にも喋らなかったようですね」

 真鉤はニコリともせず言った。

「ええ。黙ってたけど。でも、どうしてそれが分かるの」

「僕のところに警察やマスコミが来ていないからね。それに、木曜の夜はずっと君を観察していた」

「え。それって……でも、どうやって」

 奈美を助けた後、真鉤はすぐにあの場を去ったと思っていたが、隠れて彼女を見張っていたということなのか。

「救急車が来るのも見た。救急車がどの病院に向かうかも聞いた。君が治療を受けている間、僕は壁の向こうで様子を窺っていた。君が寝つくまで、僕はベッドの下にいた」

 真鉤は淡々と異常な事実を告げた。奈美は唖然としていた。そんな馬鹿な。信じられない。病室で、私のベッドの下に。気持ち悪い。気づかなかった。医者も看護婦も、誰も気づかなかったのだろうか。

「薄気味悪いだろうと思うが、僕は自分の安全のために実行した」

「どうして、そこまでして。皆に知られたら困るの」

「理由を聞きたいですか」

 口調は丁寧語に戻ったが、ピリピリと緊張感が高まるのが分かった。彼も迷っている。でも言い出そうとしている。抱えていたものを吐き出して、楽になろうとしているかのように。

 奈美は、そんな真鉤を見ながら、黙って頷いた。

 真鉤夭は暫くの間、下を向いて動かなかった。膝の上に置いた手が時折ビクリと震えた。その震えは次第に大きくなり、全身に広がっていく。歯を食い縛っているようで顎の筋肉が盛り上がった。

 やがて、顔を上げた真鉤は冷静な表情に戻っていた。震えが止まり、彼はいつもの声音で告げた。

「僕は特異体質だ。もしかすると人間じゃないかも知れない」

 唐突な内容だった。面食らいながらも奈美は問う。

「特異体質って、どんな……」

「一つは筋力だ。僕は中学の頃、十トントラックを片手で押して横転させたことがある」

 それが本当だとしたら凄い力だった。彼にとってバスのドア枠など曲げるのは造作もなかったろう。

「それに、人に気づかれずに尾行したり、壁や天井伝いに部屋に忍び込むことが出来る。怪我の治りも早い。君のその腕、治るまでに数週間はかかるだろうけど、僕だったら数分以内に元通りになる」

 真鉤は本気で言っているらしかった。彼の主張をどう受け止めるべきか奈美が迷っていると、真鉤は台所に行って包丁を持ってきた。

 腰を浮かしかけた奈美の前で、真鉤は左手を開いて掌を奈美の方に向けた。包丁の先を手の甲につける。

 ブゾリ、と、掌の中心から血塗れの切っ先が顔を出した。それでも真鉤は包丁を止めず、刃の大部分が掌側に抜けた。彼は眉一つ動かさなかった。

 奈美が凍りついていると、真鉤は包丁を引き抜いた。その際に新たに肉が切れて傷口が広がった。出血は意外に少なく、流れ出た血の雫は手首までで止まった。

 真鉤は掌の傷を奈美に向けたままにしていた。奈美は目を背けることが出来なかった。パックリと開いた傷口が少しずつ閉じていく。自然な筋肉の動きだろうか、いや、違う。

 傷をなぞる血液を、真鉤はティッシュペーパーで拭いた。傷口は薄い線しか残っていなかった。

 真鉤は何度か手を握ったり開いたりしてみせた。傷は開かず出血も既にない。

 改めて差し出した掌には、傷は全く残っていなかった。

 非日常的なものを見た不安感と興奮が、奈美を饒舌にさせた。

「す、凄い。真鉤君って不死身なの。スーパーマンみたいな」

「そんないいものじゃない」

 真鉤は苦い笑みを見せた。

「人に知られたら困るっていうのはそのためなの。政府に捕まって秘密研究所で実験材料にされたり」

「そうじゃない。いや、それも少しはあるけれど、一番の理由は別にある」

 今度は真鉤は笑わなかった。奈美の瞳を覗き込むように、瞬きもせず見据えながら、彼は言った。

「島谷紀子さんを殺したのは僕だ」

 え。どういうこと。意味が分からない。奈美はそう言おうとして口が動かなかった。興奮が一気に冷えた。

 殺した。告別式にも出て焼香もしていたのに。本当に殺したの。クラスメイトを。どうして。

「ど……ど……」

 ローテーブルに置かれた包丁に奈美は目をやった。まだ血がついている。奈美の視線を追い、しかし包丁には触れずに真鉤は言った。

「島谷さんは警察に僕のことを通報しようとした。だから殺した。何故そうなったかというと、僕が上級生二人を殺すところを彼女が見たからだ。誰にも言わない約束で解放した。僕は尾行し、彼女が自分の部屋で110番しようとしたのを確認して殺した」

 上級生二人とは、下校時真鉤に絡んでいた、行方不明になっているあの二人のことだろう。真鉤が殺したのだ。

「わ、私も……殺す、の」

 奈美は少しでも真鉤から離れようとしたが、腰が抜けてしまったようで全く力が入らない。体が勝手に震え始めた。

 真鉤は首を振った。

「君は殺さない。誰かに喋ったりしない限り。それと、さっき天海君が声をかけてきたのは、君のことを心配したのだと思う」

「で、でも……どうして……どうして、殺すの」

 真鉤の顔は滅多に表情を変えない。ただその瞳だけが、救いを求めるように奈美を見つめていた。

「分からない。そういう体質なんだ。定期的に、大体二週間に一度くらい、人を殺さないとやっていけないんだ」

「そんな、そんな体質って、あるの」

「信じられないだろうし、僕も信じたくなかった。でも現実にそうだ。一人殺しさえすれば落ち着く。でもまた日が経つと苦しくなってくる。我慢していたこともあるが、限界を超えると頭が真っ白になって、手当たり次第に殺してしまう。だから、僕は、自分でコントロール出来るように、相手と状況を選んで、やってきた。これまでに殺した数は、三百人を超えると思う」

 三百人。物凄い数だ。この町は行方不明者が多いと聞いたことがある。でも三百人も殺してばれないのは変ではないか。

 奈美の疑問を察したように真鉤は続けた。

「この町に引っ越してきたのは小学三年の時だ。前の町で騒ぎになったから、父が配慮したんだ。それからは、僕は出来るだけ死体を隠したり処理するようにした。父が処理を手伝ってくれたこともある。学校ではトラブルを起こさないように気をつけていた。上級生二人を殺したのは学校を出た後も向こうが絡んできたからだ。時期が迫っていたから丁度いいと思ったけれど軽率だった。島谷さんがついてきていたことに気づかず、結局彼女も殺すことになってしまった。……僕の能力は、人を殺すためにあるみたいだ。そういう生き物に、生まれついてしまったんだ」

「そんな……」

 殺人は犯罪だ。彼は体質だと言うけれど、それでも殺人なのだ。体質だから許されるってことにはならない筈だ。人を殺さなくても済むような、何か方法はある筈ではないのか。

「おそらく君は、心の中で僕を非難しているだろう。確かに、悪いことだとは分かっている。でも、どうしようもないんだ。代わりに犬や猫を殺したこともある。半殺しで済ませようとしたこともある。でも、それでは駄目だった。僕は、人を、殺さないと、駄目なんだ」

 真鉤は感情を表に出さないように努力しているようにも見えた。そんな態度が逆にリアリティを感じさせた。

「聞いた話ではこの世には人食い鬼も実在するらしい。でも僕は人肉を食べたいとは思わない。人を殺したくなるだけだ。親は普通だったのに、僕だけこうなった。突然変異かも知れない」

「あの……警察に自首とか、考えたことは」

「未成年だから死刑にならないとか、そんなまともな対応はあり得ない。闇に葬られるか、モルモットにされるだけだ」

 それで真鉤は黙り込んだ。奈美は息苦しさを感じながらも、彼が次の言葉を吐き出すのを待った。彼の本質をもっと確かめておきたかった。

 真鉤は、また、喋り出した。

「僕が最初に人を殺したのは三才の時だ。細かいことは覚えていない。ただ、僕は血塗れの果物ナイフを持って、母のそばに立っていた。母の首が大きく裂けて、血がカーペットに染みていた。帰ってきた父がそれを見つけて、恐い顔をして僕の手を洗った。警察は強盗殺人だと判断したようだ」

 彼は淡々と、母親殺しを告白しているのだった。

「……お父さんは、知ってるんだ。真鉤君のことを、どう思ってるの」

「愛してくれていたと思う。何度も僕を守ってくれた。同時に憎んでもいた。心中するつもりだったのだろう、首を絞められたり、包丁で刺されたりしたこともある。でも僕は死ななかった。最後は斧で首を切り落とされた」

 真鉤は指で自分の首を横になぞってみせた。傷痕など何もない。

「それって……でも、真鉤君は生きてる」

「放っておいてもちぎれた体が引き寄せ合うみたいだ。父を殺したのは小学五年の時だ」

 それはどんな人生なのだろう。両親を殺し、彼はここに独りで住んでいる。奈美はぎこちなく、他のことを尋ねた。

「生活費はどうしてるの」

「親の遺産がある。学校を卒業するくらいまでは食べていけると思う」

「あの……」

 奈美は、次第に強まっていた疑問を口に出すことにした。

「あの、なんで……その、なんで私に……そこまで、話すの」

 真鉤はちょっと驚いたようだった。瞬きを何度かして、彼は言った。

「分からない。多分、誰かに知って欲しかったんだと思う。理解してもらえるとは思えないけれど、一般の人に僕のことを聞いて欲しかった。そうでないと、僕がこの世に存在していないような気がしたんだ。君は僕のことを誰にも言わなかったし、信用出来ると思ったから」

「あの、私が真鉤君のこと喋ってたら、やっぱり、殺してたの」

「……。僕には、君を殺す権利がない」

「どういう意味」

 真鉤は説明しなかった。奈美は急に、下駄箱のメッセージのことを思い出した。

「先週、私の下駄箱に紙きれが入ってて。病院で検査してもらえって書いてた。あれ、真鉤君じゃないの」

 やはり真鉤は答えなかった。

「医者は追加検査すると言っていたね。結果は出ましたか」

 彼が医者の話を知っているのはその場に潜んでいたのだから当然だ。

「結果は明日、母さんと聞きに行く予定だけど……。もしかして、私も特異体質とか」

「医者にしっかり話を聞いた方がいい。……それから今後、もしかすると僕のことについて尋問されることがあるかも知れない。身の危険を感じたら、隠さず喋ってしまって構わない。その時は僕に脅されていたと言えばいい。監視されていたから誰にも言えなかったと」

「え、でも……通報されたくなかったから島谷さんを、殺したんでしょ。なのに、私が喋ってもいいの。どうして」

「状況が変わってきた。警察以外で僕を捜している者がいるようだ。こいつも人間じゃない。多分、僕を捕まえるためなら拷問でも何でもやるだろう。だから、危ないと思ったら喋ってもいい。それに……」

 真鉤は最後まで無表情に続けた。

「自分を守るために島谷さんを、クラスメイトを殺したというのに、僕は特別何も感じなかったんだ。そんな自分にちょっと、嫌気が差してきた。君が喋るなら、それも運命かも知れない。簡単に捕まるつもりはないけどね。あ、そうだ、ノートを返すのは急がなくていいから」

 真鉤は立ち上がった。話は終わったということだろう。奈美はまだ頭の中がまとまっておらず、何か大事なことを聞き損ねているような気がした。と、一つ思い出した。

「天海君は、真鉤君のこと知ってるの。つまり、その……」

 人を殺しているということを。同じ学校の生徒を殺したということを。

「感づいていると思う。彼は鋭い感覚を持っている。でも彼は頭がいいから確かめたりしない。だから僕も彼には何もしない」

 それで話は終わった。奈美はノートの礼だけ言って、真鉤邸を出た。

 詰め込まれた情報が混乱していた。クラスメイトが不死身の殺人鬼で、三百人以上殺していて、同じクラスメイトや上級生も殺して、天海もそれを薄々察していて、奈美を心配していて、真鉤は奈美を殺す権利がないという。全てが冗談なのではないかという気もする。でも、彼が包丁で刺し貫いた手は、あっという間に治ってしまった。あれは手品とかではなかった。

 何が何だか分からない。でもそれを誰にも相談出来ない。

 確かなのは、彼も苦しんでいるということだ。だから奈美に打ち明けたのだ。

 奈美はひどい重荷を背負い込んだような気分になった。

 

 

  五

 

 天海東司は校舎の屋上で黙々と腕立て伏せをこなしていた。千回までやったら休憩してワンカップを開けるつもりだった。鍛錬には褒美も必要だ。

 上半身はシャツ一枚だ。汗を掻いたら柔道部か空手部のシャワー室を使わせてもらうことにしている。部に入らないのは群れるのが嫌いだからだ。わざわざ学校でトレーニングをするのは家が嫌いだからだ。

 下に通じる鉄の扉が開いて、女子生徒が姿を見せた。同級生だと思うが名前は知らない。天海は好みの娘しか覚えないようにしている。

 彼女を横目にして腕立てを続ける天海に、女子生徒は声をかけた。

「天海君、あの……」

「どうした」

 八百三十六回で天海は腕立てを中断した。残りは百六十四回だが回数を覚えていられるかどうか。

「校門のとこで変な男が学校覗いてるの。なんか、朝からずっといたみたいで、キョウコの話だとずっと変な深呼吸しながら学校の周りウロウロしてたって」

 キョウコというのが誰かは知らないが、天海もその辺は突っ込まない。

「ふうん。女子高生の発散する若い空気を堪能してるんだろ」

「もう、天海君ったら」

 彼女は下品な声で笑った。

「それで気味が悪いし、大男だしちょっと怖いから、天海君なら対抗出来るかなって」

「よし分かった任せろ。見てきてやろう。ヤバかったら逃げるけどな」

 などと言いながら逃げるつもりはなかった。天海はニヤリと笑ってみせ、半袖に切った上着を着てワンカップをポケットに押し込んだ。胸のボタンは填めない。

「どっちの門だ」

「今は正門にいる筈」

 面白そうに女子生徒はついてくる。

 天海は校内ではトラブルシューター的な役割になっており、それを自認してもいた。面倒な役割を引き受けることは彼の誇りであり、単なる暇潰しでもある。

 階段を下りて校舎を出る。グラウンドではサッカー部や野球部が練習をやっていた。チームプレイや見せかけの純真さなど天海東司には無縁のものだ。

 正門を抜けて見回すと、右手の曲がり角に大柄な男が立っていた。天海は素早く全身を観察して品定めを行う。

 身長は百九十センチ台後半、体重は百二十キロ前後というところか。肥満ではなくみっしりと筋肉がついている感じだ。まだそんな寒い季節でもないのに分厚いロングコートを着ている。本人は地味なつもりかも知れないが目立ちまくりだ。左手にミネラルウォーターのペットボトルを持っている。髪はオールバックで、M字型の額は後退しかかっている。年齢は三十代後半から四十才前後というところか。えらく血色の悪い顔で、天海はゾンビを連想した。

 薄い眉の下で、死んだ魚のような目が天海を見つめていた。

 この不気味な男に天海は見覚えがあった。島谷紀子の告別式の時、バス停にいた男だ。常人とは違う気配を天海は敏感に感じ取っていた。

 こいつは何者だ。嫌な予感を覚えながらも天海は自分の役割を果たすことにした。

「おい、そこのおっさん。うちの学校になんか用かい」

 言いながらコートの男に近寄っていく。男はその場を動かずペットボトルからトプンと一口飲んだ。女子生徒は正門のそばで見守っている。

 身長百八十六センチの天海を眠たげに見下ろして、男は歯切れの悪い声で応じた。

「別に用はない。君はここの番長か」

 古臭い表現に天海は吹き出してみせたが、体は固く緊張していた。この男は強い。いざ喧嘩になったら到底叶わないだろう。武器を使っても無理だ。

 天海がそんな感じを抱く相手はこれまで二人しかいなかった。一人が真鉤夭で、もう一人は名前は知らないが北坂高の男前。どちらも近づくのが危険だと分かっていた。目の前のこのコートの男もそうだ。それでも天海は慎重に危険域を探りながら会話を続けた。

「今時番長なんてのはいねえよ。だが用がないってのは嘘だろ。葬儀場でもあんたを見たぜ。何を嗅ぎ回ってんのか知らねえが、うちの生徒様が怖がってるんでな。どっか消えちまってくれねえか」

 その時、コートの男は口を大きく開けていた。顎の先が胸につきそうなくらいに。赤い口腔に歯が一本も見えない。そんな異様な口を天海に近づけて深く息を吸う。リュオーン、という空気の唸り。こいつはどんな気管を持っているのか。

「おい、気持ち悪いな。やめろよ」

 天海が手で払いのけようとすると男はゆらりとそれを躱す。リュフー、と息を吐き終わって男は言った。

「やはり違うか。進展がないから別の件を優先するが、また近いうちに戻ってくるつもりだ」

 もしかして、匂いを嗅いでいたのか。

 男の無表情は真鉤夭のそれとは違い、偽物の皮膚をかぶったようにも見えた。出来の悪いホラー映画の特殊メイクみたいに。

「そりゃお疲れさん。二度と来なくていいぞ」

 男は黙って背を向けた。ペットボトルの水を飲みながらのっそりと歩き去っていく男を、天海は苦々しい思いで見送った。

 振り返ると、正門であの女生徒が笑顔で親指を立てグッドジョブのジェスチャーをした。コートの男との会話は聞こえていなかったようだ。

 やれやれ。

 天海東司は首をかしげ肩を竦めてみせた。

 

 

  六

 

 その夜、大館千蔵は列車の到着を待ちながら駅の構内で蕎麦を啜っていた。顎の動きからすると、噛まずにそのまま飲み込んでいるようだ。

 片手に持った夕刊には福岡で発見された変死体の記事が載っていた。二人の若い男が今朝、紫色に膨れた死体となって見つかったという。昨日まで生きていたことは確認されている。それぞれ首と腕に噛み傷があったが、どの動物によるものかは調査中という。

「どうせ調査結果は報道されないだろう」

 大館は陰鬱な声で呟いた。蕎麦は汁まで全て飲んだ。自動販売機でミネラルウォーターを二つ買う。

 やがて博多行きの新幹線が到着した。大館は右手にペットボトルを、左手に大型トランクを持って乗り込んだ。

 

 

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