第四章 宿命

 

  一

 

 高校生にもなって母親に付き添われることに恥ずかしさを感じながら、藤村奈美は整形外科ではなく内科の外来を訪れた。

 入院中に一度だけ会ったその内科医は、まず腕の痛み具合を尋ねた。もう疼かないと奈美が答えると血液検査の説明に移った。白血球が普通の人より多いが今のところは心配ないし病気という訳でもない。ただ、念のため月に一度くらいは検査に来て欲しい、ということだった。真鉤夭の言葉を思い出し、奈美はえらく拍子抜けした。

 しかし、奈美は先に診察室を出され、母親だけが残された。母が出てくるまで十分近くかかり、医者が母に何を話していたのか奈美は気になった。

「先生何か言ってた」

 尋ねると、母は笑顔で答えた。

「次の診察日を決めてただけよ。それから元々白血球が多い人もいるそうだからあまり心配は要らないって」

 無理をしているような笑顔だと奈美は思った。

 隠し事をしている。月に一度の検査って、良く考えてみれば面倒だし、頻繁な検査が必要なほどの問題があるのだ。でも母に問い詰める勇気はなかった。本当の病名を知るのが怖いというよりも、母を傷つけるような気がして。

 不治の病ということを知って奈美が悲しめば、母はそんな奈美を慰められないことに傷つくだろうから。

 いや、勝手に妄想を進めていることを自覚して奈美は苦笑する。不治の病なんて、薄幸の少女を気取るみたいだ。

 母の運転する車で高校まで送られる間、大した会話はしなかった。

 授業には四時間目からの参加となった。隣の席の子に教科書を見せてもらった。

 昼休みになってすぐ、奈美は借りていたノートを真鉤に返した。話をしたい奈美の気持ちを感じ取っただろうが、真鉤は余計なことは言わなかった。奈美にあれだけのことを告白しておいて、彼の日常はいつもと変わりはしない。奈美はちょっと憎らしくなった。

 真鉤夭。三百人以上を殺したという、不死身の殺人鬼。

 真鉤にそれほど恐怖を感じていない自分が意外でもあった。殺人鬼だと頭では分かっていても、穏やかな物腰とのギャップがあって実感出来ないのかも知れない。いや、内心は彼が殺人鬼だと認めたくないのだろうか。実際に彼が人を殺すところを目の当たりにしたらそれも変わるのだろう。

 放課後になり、荷物をまとめて下校する真鉤の横に、奈美は黙って並んだ。横目で一瞥しただけで真鉤は何も言わない。クラスメイトが怪訝な顔で見ている。藤村奈美と真鉤夭という珍しい組み合わせだ。奈美はノートがどうとか言い訳せず、微笑して彼らにさよならを告げた。真鉤もいつもの丁寧な口調で挨拶する。

 学校の敷地を出て、辺りに生徒の影がなくなると、歩きながら奈美は言った。

「検査の結果だけど、白血球が普通より多いだけで心配ないって」

「そうですか」

 真鉤は意外そうな顔もしなかったし、異常のないことを祝うような顔でもなかった。それが奈美を不安にさせ、同時に真鉤への憎らしさがぶり返した。

「もしかして昨日も、病院での話を聞いてたの」

「いやそんなことはしてない」

 真鉤は慌てた顔で手を振った。演技ではない本物の表情が見えたので奈美は胸のモヤモヤが軽くなったような気がした。だがそれで問題が解決した訳ではない。

「心配ないけど念のため、月に一度検査に来いって。内科の先生とお母さんだけで話してて、何か隠してるみたいだった。……ねえ、私の病名って何なの。隠さないといけない病気」

「僕にはどんな病気かは分からない」

「じゃあ何が分かるの」

 奈美は立ち止まった。きつい声になってしまって自分でも驚いていた。疎らにいた通行人がこちらを見ている。恋人同士の痴話喧嘩などと思われただろうか。

 真鉤も立ち止まり奈美を見返した。感情の痕跡は既に消え、仮面の無表情に戻っていた。イライラする。奈美は真鉤の瞳を覗き込み、最も大事な問いを発した。

「ねえ。私、死ぬの」

 不死身の殺人鬼は、奈美を見て何に気づいたのか。何を警告しようとしたのか。

 真鉤夭は黙っていたが目は逸らさなかった。瞳の奥で何かが動いた。それが何なのか、奈美は確かめようとした。何百人もの死を間近に見てきた瞳。殺す権利がないとはどういう意味なのか。獲物の資格がないということなのか。憐れみなのか。死にゆく者への憐れみなのか。

 やがて、真鉤は言った。

「人はいつか必ず死ぬ」

「そんなことを聞きたいんじゃない。ひどいよ。散々人を振り回しておいて」

 奈美は真鉤を置いて歩き出した。涙が滲んでくるのを手で拭いながら。しゃくり上げてしまいそうなのを必死に抑える。

 彼が助けてくれなかったら自分が今頃生きていないことも分かっている。彼が奈美のためを思って警告してくれたことも分かっている。それでも、何も知らない方が幸せだったと思う。いや、自分は何に怒っているのだろう。真鉤は不死身の殺人鬼と言いながら冷静で、苦悩しながらもそれを受け止めていて、自分は訳が分からなくて、自分の立っている場所も分からなくてただオロオロしているだけだ。そんな自分が情けなくて、でもまだ高校生なんだから仕方がないとも思って、でもやっぱり自分がみっともなかった。

 いつの間にか真鉤が追いついて横を歩いていた。

「すまない」

 彼は言った。困っている、動揺している声音だった。

「別に、真鉤君が謝ることないよ」

 そんな真鉤に対し苛立つと同時に、救われたような気持ちにもなるのはどうしてなのだろう。

「僕に分かるのは大まかなことだけだ。もし君が自分の体のことをきちんと知っておきたいのなら、僕の知り合いに会わせる。彼ならもっと詳しく分かると思う。どうするか、考えてみてくれ」

 そう言い残すと真鉤は足を速め、まだ泣いている奈美から離れて去った。

 

 

  二

 

 翌日の放課後、奈美は一旦自宅に戻ってから私服に着替えて出発した。友達とカラオケに行くのだと言うと、珍しいわねと母は笑った。検査結果を聞く前までの笑顔とは何処か違っているような気がした。

 真鉤の屋敷までは歩いて十分もかからない。玄関の呼び鈴を押すと真鉤も私服で出てきた。深い緑色のズボンに灰色の長袖シャツという予想通りの地味な服装だった。

 二人はバスで街に向かった。それぞれ一人掛けのシートに座る。着くまでの間どちらも無言だった。帰りのバスは事故に遭ったあの坂道を通ることになる。落ちていく感覚を思い出し、奈美は嫌な気分になった。料金を払う際、左腕を吊った奈美が財布を出すのに手間取っていると真鉤が二人分払ってくれた。奈美がありがとうと言うと真鉤は黙って頷いた。

 繁華街に着くと真鉤は携帯で誰かに電話を入れた。真鉤が携帯を持っているのは少し意外だった。カラオケボックスに入り、待ち合わせだと説明すると店員は端の一室に案内してくれた。

 防音の扉を開けると早速歌声が流れてきた。ボックス内には二人の客がいた。マイクを持って歌っているのは奈美と同学年くらいの少女で、透き通る声とまでは行かないまでも音程も外さずなかなか綺麗な声だった。切なげなメロディは何度か聴いた覚えのある古い曲だ。

 もう一人の方が真鉤と奈美に片手を上げて挨拶した。北坂高の制服を着た、以前喫茶店で真鉤と一緒にいた少年だった。背は高いが痩せていて、でもちょっとした動作がきびきびしている。髪は長く、学校で先生に注意されないのだろうか。西洋人っぽい顔立ちで、唇の片端だけを上げた淡い笑みは大人びていた。ボックス内の薄暗さに彼は調和していた。闇こそが彼に相応しいというように。

 少女の方は歌いながらこちらを見て僅かに眉をひそめた。特に真鉤に向けられた視線は厳しいものだ。薄手の白いジャケットを着て、アイドルやモデルで通りそうな整った顔をしていた。マイクを持つ指もすらりとしている。

 真鉤は先客と向かい合わせのソファーに腰を下ろした。奈美も真鉤の隣に座る。

 曲が終わると少年が多少おざなりな感じのする拍手を贈り、真鉤がそれに倣った。奈美も片腕を吊った状態で軽く拍手をする。

「じゃあ、密談でも始めようか」

 機械を止めて少年が言った。早速隣の少女がその脇腹へ肘鉄を食らわせる。

「先に自己紹介からでしょ」

 真鉤が奈美を紹介した。

「僕のクラスメイトで、藤村奈美さんだ。昨日電話で話した通り、彼女は僕の素性を知っている」

「殺人鬼と同じクラスなんて大変ね」

 少女が奈美に向かってにっこり微笑んだ。内容は真鉤への皮肉だが。

 少年が自己紹介した。

「俺は日暮静秋だ。北高の二年だから君らとは同学年だな。君が信用出来ると判断して告白するが、俺は吸血鬼だ」

「え」

 あまりにも自然に言うので奈美は聞き違えたかと思った。少女の方が補足する。

「だから吸血鬼。夜毎に女の子の家に忍び込んでチューチュー血を吸ってんの。ひどい奴でしょ」

 日暮は苦笑した。

「チューチューとは吸ってない。提供者は十数人キープして順番に吸ってるし、毎日吸う必要はないから健康上問題はないぜ。まあ献血程度のもんさ」

「『提供者』だって。勝手に押しかけて催眠術で記憶いじってるだけでしょ。血を吸う以外にこっそり何してるか分かったもんじゃないわよね。ねえ、怪しいでしょ」

 同意を求められても奈美は困ってしまう。

「血を吸わせない女がゴチャゴチャ言ってるが気にしないでくれ。キスしかさせてくれないんだぜ」

「またそれを言う」

 いきなり少女が日暮を殴りつけた。拳で顔面をモロだ。ベチッではなくメチィッという音がした。

 この人達は何をやっているんだろう。もしかしてどつき漫才のつもりなのか。奈美はあっけに取られていた。真鉤の方を見るが彼は無表情だ。

「暴力的な彼女、君の番だ」

 日暮に促され、少女が奈美に顔を向けた。

「ええっと、私は南城優子。横の吸血鬼と同じクラスね。代々巫女の家系だったみたいで、巫女って言っても邪教の神だったんだけどね、術とか呪いとかが効かない体質みたい。元々静秋が私の血を吸いに来て、催眠術が効かないから殴ってやったら彼、びっくりして。あの情けない逃げっぷりは写真に撮っておきたかったわ。まあ、それ以来の腐れ縁ね」

「付き合ってる男の前でオフコースの『さよなら』を歌うような女さ。すぐ殴るんで『北高の鉄拳女』と呼ばれてる。まあ、彼女とまともに付き合えるのは俺くらいのもんだ」

「また人の綽名をすぐばらす」

 彼女がまた日暮を殴った。これも骨の軋むような凄い音がする。日暮は首が斜めになっても平然としていた。

 奇妙な自己紹介が済んだことになるが、奈美は納得行かなかったので日暮に尋ねた。

「あ、あの、吸血鬼って、やっぱり日光に弱いんですか。学校にどうやって行ってるんです」

 やっぱりと言いたげな顔で南城が日暮を見た。日暮が説明する。

「一応生き物だから、日光で灰になる訳じゃない。昼間はだるくて力が出ないし、直射日光を長く浴びてると肌が火膨れになったりはするけどな。鏡にも映る。ニンニクは苦手だが十字架は効かないぜ。あっと、心臓に杭を打てばなんて言わないでくれよ。遺伝だから、血を吸った相手が吸血鬼になるってことはない。幾つか特殊能力もあるが、まだ君が信じてないかも知れないから俺の十八番を見せてやろう」

 日暮はテーブルに置かれたグラスを右手で触れた。中身は飲みかけのジュースだ。炭酸入りの薄茶色はジンジャーエールか。

 全員が黙って見守るうち、グラスの中の氷がゆっくりと回り始めた。それは次第にスピードを上げ、ジュースが渦を巻いてくる。日暮は掌で触れているだけで、グラスを持ち上げても揺らしてもいないのに。

 日暮が手を離すと、渦は平たくなっていき数秒で消えた。

「素ではこのくらいだが、血を使うと」

 日暮が右手人差し指の先で親指の腹をこすった。爪で切ったのか血の玉が湧いてくる。彼は血の雫をグラスの中へ落とし込んだ。二滴落としてやめ、親指をペロリと舐める。血は止まっているようだ。

 再びグラスに手を伸ばすが、今度は触れなかった。

 グラスの中身が揺れ始めた。さっきよりも激しく、生き物みたいにグネグネと動いている。と、中身が丸ごと塊となってグラスから飛び出した。日暮が左掌を差し出すとその上にジュースの塊が乗った。零れずその場に留まっている。

 氷を含んで蠢くアメーバのような塊を、日暮は軽く投げ上げた。落下場所は大きく開けた彼の口で、ジュースはツルリと吸い込まれて消えた。

「ブフッ」

 日暮がむせた。渋い顔で片手を上げる。

「悪い、ちょっとしくじった。ケフッ」

 奈美は笑って良いものかどうか迷った。南城が呆れている。日暮は二、三度むせただけで後はこらえ、無事に飲み終えた。奈美はグラスの方を確認してみる。空っぽで底も乾いているようだ。

「まあ、こんなところだ。液体を操るのが得意でね。血液、特に自分の血ならうまく行く。やろうと思えば相手の体に触って脳出血や心筋梗塞を起こすことも出来る。取り敢えず、信用したかい」

 日暮静秋は伝説の吸血鬼とは違っているようだが、彼が只者でないことは分かった。奈美は頷いた。

 彼は誰かを脳出血や心筋梗塞にさせたことがあるのだろうか。

「言っとくが、俺達のことは秘密にしておいてくれよ。では本題に入ろう。医者は異常ないと言ったんだって」

 ソファーに背を預けたまま、日暮は全てを見透かすような目で奈美を観察していた。その物腰はまるで暗黒街の帝王だ。

「いえ、白血球が多いけど心配はないって言われました」

「でも毎月検査するんだろ。普通じゃないよな。で、真鉤の奴から正確な診断を頼まれた訳だが、俺は血にうるさい方でね。相手の体質のかなり詳しいとこまで分かる。ただ、先に聞いとくが、もし救いようのない結果が出たとして、それを受け止める覚悟はあるのかい。俺は気を回すなんてのは苦手でね、聞かれたら全部正直に言っちまうぞ」

 その覚悟はしているつもりだったが、奈美は「覚悟はあります」と答えた後で息苦しさを覚えた。自分の心臓の鼓動を感じる。

 真鉤は無表情に見守っていたが、膝の上で手が僅かに動いた。手を上げかけて引っ込めたみたいに。彼はどう思っているのだろう。奈美のことをどう思っているのだろう。

「じゃあ、首を出しなよ」

 言った日暮の脇腹に鋭い肘鉄が入った。また南城の仕業だ。

「血を吸うのは首じゃなくてもいいでしょ」

「じゃ、じゃあ指を出してくれ」

 可笑しさと不安の入り混じった気持ちで、奈美は自由な右手を差し出した。それを日暮が両手で持ち、顔を近づけた。口を開けると彼の犬歯が長く尖っているのが分かる。

 日暮は奈美の人差し指の先に口をつけた。痛みは一瞬で、採血の時より軽かった。ゾクリ、と背中に寒気のような震えのようなものが走る。血を吸われている。

 それはほんの二秒ほどだったろう。日暮は口を離し奈美の右手を解放した。人差し指を確かめるが傷口は殆ど分からない。

 日暮は吸った血を飲み込まず、口の中で捏ねるようにして味わっている。不気味な仕草だが顔は真面目だ。

 十数秒してやっと日暮は飲み込んだ。更に考え込むような沈黙の後で、日暮はあっさり病名を告げた。

「慢性骨髄性白血病。初期の初期だな。この年代なら急性リンパ球性の方が多いんだが。医者も判断に迷ったんじゃないか。多分、数ヶ月以内に治療が必要になってくるだろう」

 白血病。奈美が予想していた病名の一つだった。悲劇のヒロインが良くかかる病気だ。

 自分がそれほど動揺していないことに奈美は気づいた。

「それで、治る見込みはあるんですか」

「昔は不治の病と言われてたがな。最近は骨髄移植とか化学療法が発達して割と治るそうだ。ただ、問題は別にある。君の親戚って癌で死んだ人が多いんじゃないか」

 薄闇の中で、日暮の瞳は底光りして見えた。奈美の心臓を抉るような、光。

 奈美は覚えていることを口にした。

「私の叔父さんが大腸癌で死にました。三十代だったと思います。それから、祖父も、祖母も癌だったそうです。あ、それと、母さんに妹がいたそうですけど、小学生くらいの時に腎臓の癌で死んだって……」

「君は遺伝的に悪性腫瘍が出来やすい体質のようだ。免疫系と細胞の増殖制御、複数の欠陥だと思う。両親から別々に受け継いだんだろうな。今回は白血病だが、健康診断は小まめにやっていた方がいい。全身の何処からでも癌が出来る可能性がある」

 日暮は感情を抑えて淡々と話した。横の南城はさっきまでの威勢もなく神妙な顔になっている。

「じゃあ、長くは生きられないってことですか」

 奈美が尋ねると日暮は肩を竦めた。

「俺にも寿命までは分からんな。真鉤、どう思う。お前にはどう見えた」

 日暮は真鉤にバトンを渡した。それまで俯いて聞いていた真鉤夭が奈美を見た。

 彼はまだためらっているようだった。この期に及んで気遣いなど必要ないだろうに。奈美が頷いてみせると、真鉤は漸く口を開いた。

「君と図書館で話した時に、初めて気づいた。僕はあれを、死相、だと思っている。多分、人を大勢殺してきたせいなのだろう、死の近い人間が分かることがある。感覚的なものでうまく説明は出来ないけれど。あれは、決められているというサインだから、僕が手を出してはいけないのではないかと考えていた」

 殺す権利がないというのはそういうことだったのか。決められているというのは誰が決めたと真鉤は考えているのだろう。奈美の死を誰が決定したのか。

「その死相ってのはどのくらい正確なんだ。残り時間は分かるのかい」

 日暮が重ねて問う。ちらりと彼の方を見て真鉤が説明する。

「詳しくは分からない。事故か病気かも分からない。バスの事故で君を助けた時、原因はこれだったのかとも思ったが、やはり死相は消えなかった。……僕の経験した限りでは、死相を見た三日後に自殺した人もいるし、二年近く生きていた人もいる。ただ、その人はずっと入院していた。通りすがりの人など最後まで確認の取れない人も多いから、あまり参考にはならないとは思う」

 南城優子が微妙な表情で言った。

「あのさ、別に、早死にすると決まった訳じゃないんだし、たまに、ほら、末期癌が治っちゃった人とかいるよね。私なんか元気一杯だけど、車に轢かれてコロッと逝っちゃうこともあるかも知れないしね。人生何が起こるか分かんないから、体質が変わることもあるかも知れないし、遺伝子治療とか最近流行ってるし、その……まあ、今を楽しんで生きればいいんじゃない」

 慰めようとしてくれたのだろうが、最後の言葉は逆効果な気がする。

「聞いて後悔したか」

 日暮が尋ねた。

「聞かなければ良かったと思うなら、催眠術で君の記憶を消すことも出来る。白血病のこと、癌体質のこと、俺達のこと。真鉤の正体についての記憶もな」

「いえ、後悔はしてません」

 奈美は答えた。忘れたってどうなるものでもない。深刻な事態を前に、自分を誤魔化して能天気に生きるのは嫌だった。

 日暮は頷いた。

「そうか。隣町だし、君が希望するなら時々体調をチェックしてやってもいいぜ。相談事があるなら乗ってやる。思いやりとか気休めの言葉を期待しなければな」

 半端な慰めよりも日暮の中立的な態度の方が奈美にとってはありがたかった。彼は手帳を破って電話番号を書きつけた。「あ、私も」と言って南城が自分の番号も足し、奈美に手渡した。

「ありがとう」

 奈美も自分の携帯の番号を二人に教えた。滅多に使わない携帯だが。

「これからもよろしくな。俺達の素性を知っている者は少ないんだ。それが君の特権かも知れない。ところでどうする。折角だから時間まで歌っていくか」

「こんな状況で歌える訳ないでしょ」

 南城の突っ込みが拳で入る。

「いえ、やめときます。また。今日は本当にありがとうございました」

 奈美と真鉤は自分の分の代金を払ってカラオケボックスを出た。闇の世界から陽の当たる世界へ。さっきまで別の世界にいたような気がする。だが、言われたことはきっと事実だ。

「どうしますか」

 真鉤が尋ねた。まだ街に来て三十分も経っていない。

「本屋に寄ろうと思ったけど、もう帰ります。そんな気分じゃないから」

「そうですか。僕も特に用事はないので」

 二人は同じバスに乗った。あの坂道と事故のことを思い出す。あの時真鉤が助けてくれなかったら奈美は生きてはいない。残りの時間をおまけみたいなものと考えればいいのだろうか。いやそんなふうには割り切れない。いつ死ぬか分からないのに人生を楽しんだり出来ない。

 真鉤夭は通路の反対の席に座り、無表情に前を向いていた。

 皆、所詮は他人事なんだと奈美は思う。真鉤は不死身だし、日暮は吸血鬼だ。死の恐怖なんか感じたことないのだろう。自分はちっぽけな人間で、更にはいつ病気で死ぬか分からない。

 誰も頼れる者はいない。奈美は自分がこの世界で一人きりになってしまったような気がしていた。

 目的のバス停に到着し、降りたのは奈美と真鉤の二人だけだった。

「今日はありがとう。さよなら。また明日」

 自分でも感情の篭もらない挨拶だと思いながらも奈美は真鉤に言った。

 バスが去っていき、真鉤は言った。

「嫌な思いをさせることになってすまない。僕に手助け出来ることがあればいつでも言ってくれ」

 警察に通報させないために機嫌を取っておこうという訳ね。そんな考えが浮かんで奈美は自分を嫌な女だと思う。

「手助けって、私の嫌いな相手を殺してくれるの」

 だってあなたは殺人鬼だもの。ああ、私は嫌な女だ。

「君が望むなら」

 真鉤は表情を変えずに答えた。きっと彼は本気だ。奈美は慌てて訂正する。

「いや、今の嘘。別に殺したいほど憎い人もいないし、私のために誰かが死ぬのは嫌だもの」

「僕は定期的に人を殺さないと生きていけない。どっちにしても、また近いうちに誰かを殺すことになる。同じ殺すのなら、誰かの役に立つ方がいい」

 奈美はそんなことに加担するのは御免だった。真鉤は自分の罪悪感を少しでも軽くしようとしているのか。奈美は急に腹が立ってきた。

「なら私を殺したら」

 奈美は言った。

「どうせ長生き出来ないんだから。あちこち癌になって苦しんで死ぬんだから。今殺してもらった方が楽かも」

「それは出来ない」

 真鉤の瞳の翳りが強くなった。一瞬、彼が泣き出すかと思った。でも泣きはしなかった。

「どうして。真鉤君なら簡単に出来るんじゃないの。私を殺さないのなら、誰も殺さないで。もうこんなことにはうんざり。さよなら」

 奈美は真鉤を置いて自宅に向かった。昨日されたことの仕返しの意味もあった。振り返らなかったので真鉤がどんな様子だったかは知らない。

 私は嫌な女だ。カラオケボックスで受けた宣告よりも、真鉤の見せた悲しげな表情の方がずっと心に残っていた。

 

 

  三

 

 翌日の学校で藤村奈美は真鉤夭と特に会話を交わすこともなかった。左腕を吊った生活にも慣れてきて、それほどの不便は感じない。

 体育祭が来週の日曜に行われるため練習の時間が増えていた。白崎高の体育祭は真夏を避けて秋の初めにある。奈美は競技に参加出来ないから見学だけだと思っていたら、担任の提案で式の間アナウンス役をやることになってしまった。つまりはウグイス嬢だ。余計な配慮だと思ったが仕方がない。奈美はこの恥ずかしい役をこなす覚悟を決めた。

 もしかしたらこれが人生最後の晴れ舞台になるかも知れない。いや晴れ舞台というほどでもないが。数ヶ月後には入院しているかも知れない。来年にはもう生きていないかも知れない。そんなことを考えていると、これまで退屈だった日常が妙に眩しく感じられるのだった。

 午前中は全学年の練習だった。入退場に行進の仕方、実際に競技はしないまでも細かい段取りが確認されていく。生徒達は気だるそうに従っている。今時体育祭に燃えるような生徒は滅多にいない。

 騎馬戦のリハーサルとなり、男子全員が上半身裸となった。運動系クラブなど見事な体格をした者もいれば、折れそうな胴や肥満体の者もいる。女子は見物しながら小声でちょっとした品評会をやっていた。

 学年で三番目に長身の天海東司は凄い体をしていた。盛り上がり、引き締まった筋肉の束が一つ一つはっきり見える。酒ばかり飲んでいたようなのに贅肉は全くついていなかった。天海の体を語る女子達の声は高くなっていた。

 奈美は真鉤夭の姿を探した。異常な筋力を持つ彼はどんな体格をしているのか。身長は平均から少し上の筈だが見つからない。こんな時は本当に目立たない男なのだ。

 白崎高の体育祭は何故か学年対抗で、当然騎馬戦もそうなっている。三年生が優勝することはほぼ間違いないのだが、卒業していく彼らに花を持たせてやろうとかいうことらしい。ただ、何年か前は二年生が優勝してしまい、大変気まずいことになったと聞いた。

 まず一年と二年が戦い、次に一年と三年、最後に二年と三年という順番らしい。今日は騎馬を組むだけで実際に戦いはしない。三人が馬になり一人が上に乗る。天海は上に乗りたがっているようだ。

「おーい、真鉤」

 天海が大声で列の真ん中辺りに声をかけた。皆が怪訝な顔で振り向く。

「こっち来て俺の馬になってくれねえか。ちょっと乗り心地が悪いんだよ。地味ーなお前の人生に、一度くらい勝利って奴を味わわせてやるよ」

 奈美はあっけに取られた。天海が何故こんなことを言い出したのか分からない。彼は真鉤の正体を感づいていて、刺激しないようにしているのではなかったか。

 真鉤夭の姿を発見した。彼は珍しく戸惑いを表情に出していた。彼の体は特別筋肉隆々という訳でもなく、なんとか貧弱という表現を免れる程度のものだった。根本的に筋肉の質が違うのだろうか。奈美を助けた時に鉄板が刺さった脇腹は、勿論傷痕など残っていない。

 騎馬の指導をしていた教師が天海に言った。

「身長差があるからやりにくいだろう」

「いいんですよ。祭りなんだし楽しくやろうじゃないですか。これで三年の大将をあっさりやっつけてみせますから」

 天海のこともなげな言い方に、向かいで列になっていた三年生はカチンと来たようだ。特に、天海と当たることになる一番背の高い生徒が怒りに顔を歪ませた。

「天海、俺を倒すってか」

 奈美もこの三年の名を知っている。柿沢といって学校で最も忌避されている男だ。ヤクザの息子で本人も卒業したらヤクザになるだろうと皆予想している。暴走族を率いて若い女性を拉致したとか、轢き逃げしたとか、中学時代は担任に日本刀を突きつけたとか、色々とひどい話を聞いていた。白崎高の不良達のボス的存在だが、柿沢がのさばることが出来ないのは天海がいるからだ。これまでに二回やり合って、二回共天海にこてんぱんにのされたと影で噂されている。二回目は大人数でかかって返り討ちにされたとも。二人共公言はしないが、柿沢が天海に対しあまり強い態度に出られないのはそのためなのだろうか。

「おや、柿沢先輩、その体重で上に乗るつもりかい。馬の人も大変だな」

 天海がニヤリとする。彼の指摘通り、柿沢は二メートル近い身長に加え肉もたっぷりついているので馬の人も大変だろう。

「偉い奴は上と決まってるんだよ」

 不機嫌に柿沢が答える。早速天海が切り返す。

「へえ、先輩偉かったんだ。まあベッドの外で野郎同士、上とか下とかはあんまり興味ないな」

 男子達がどっと笑った。柿沢もちょっと笑っている。

「なら天海、お前も馬になったらどうだ」

「いや今回は別ですよ。先輩がみっともなく負けるところを全校生徒に見せてやりたいからね」

 柿沢の笑みが凍った。悪辣さがこびりついたような顔が更に険しさを帯びる。

「てめえ、覚えとけよ。本番では大恥掻かせてやるからな」

「そりゃ楽しみだ」

 天海は両手をひらひらさせた。会話から取り残された真鉤が立ち尽くしていると、天海が再び声をかけた。

「こっち来な、真鉤。馬の頭になってくれよ」

 真鉤は教師を見た。教師は適当な笑みを見せて言った。

「ま、いいか。行ってやれ」

 その時真鉤は、仕方ないなあとでもいうような、しかしちょっと嬉しそうな顔をした。

 真鉤が天海の組に入り、押し出された男子は一つ下の組に入り、一人ずつずれ込んでいった。騎馬を作ってみると、体格差にちょっと違和感があるがそれほど不便はなさそうだ。真鉤は片手でトラックを転がしたそうだから、天海の体重くらい余裕で支えられる筈だ。

 どうして天海はこんなことをしたのか。真鉤の人生が地味とは思えないが、おそらく一生表舞台に立つことなく世間から隠れて生きていくのだろう。そんな真鉤に少しでも光を当ててやろうという配慮なのだろうか。いや、単に真鉤の上に乗ってみたいという単純な悪戯心だったのかも知れない。

 何にせよ、体育祭で真鉤が本気を出すことはないだろう。たとえ負けることになったとしても。

 

 

  四

 

 福岡市、漸く風の涼しくなった繁華街を仕事帰りのサラリーマンや遊びに来た若者達が歩いている。その中に、滲む汗をせわしなくハンカチで拭いているスーツ姿の男がいた。

 年齢は三十代半ばほどか、背は低く小太りの体格だ。丸縁の眼鏡をかけた優しげな顔立ちをしていた。

 小太りの男は居酒屋や屋台に寄ることもなく地下鉄へ入った。定期券を使って改札口を抜ける。客の多い列車内で男はドアの近くに立ち、新しいハンカチを出して汗を拭いた。ワイシャツがじっとりと濡れている。

 同じ車両で近くのシートに座っていた若い女が、小太りの男に気づいて「あっ」と声を上げた。男は痴漢を摘発されたみたいにビクリとして女を見返し、続けて周囲の視線を確認した。

「あの時の」

「え」

 小太りの男は女の顔を見つめるうちに誰なのか思い出したようだった。だが男の表情は喜びよりも困惑に変わった。

「へえ、地下鉄使ってるんだ。何処で働いてんの」

 女は馴れ馴れしく話しかける。

「いや、あの、天神で」

「ふうん、サラリーマンなんだ」

「あの、ここではちょっと……」

 大勢の乗客がいることを男は気にしているらしい。

「ああ、分かる分かる」

 女は納得顔になったがまだ男に話しかけたがっているようだ。女は二十才前後だろう。茶髪に耳ピアスをしてやや化粧はきつく、遊び好きそうに見えた。

 目的の駅に到着し男は急ぎ足で列車を降りた。しかし女は面白がってついてくる。

「この辺に住んでんだ」

「ええ、まあ」

 小太りの男は振り切るのを諦めたようで歩みも普通に戻る。ハンカチで汗を拭くのは相変わらずだ。

「こないだは助けてくれてありがとね。私、歩いてると良く絡まれて困るの」

 女が言った。並んで歩くと男より背が高い。

「いえ。助けたというか、代わりに連れてかれたというか……」

 人通りが少なくなり、小太りの男も次第に落ち着きを取り戻してくる。

「で、あの二人、あなたが殺したの」

 女は単刀直入に聞いた。丸縁眼鏡の向こうで男の瞳が不気味な光を帯びた。闇の奥からどす黒い本体が顔を覗かせたような。

 黙っている男の態度を、女は不安と緊張によるものと判断したようだ。

「心配要らないって。私喋ったりしないから。見かけによらず、あなた強いんだね。一対二で勝っちゃうなんて。でもあの二人、凄い死に方だったって。なんか水死体みたいに膨れてたって新聞に書いてたけど」

「本当に、誰にも喋らないで下さいね」

 男の声は低かった。街灯の疎らな薄暗い通り。人の気配はない。

 いや、男は振り向いた。長身の男がこちらに歩いてくる。距離があるので会話は聞こえなかった筈だ。

「ねえ、どうやって殺したの。毒とか使ったの。注射器持ち歩いてんの。噛み傷とかなってたけど、まさか噛んだんじゃないよねえ」

 女は調子づいて喋り続ける。小太りの男は後方を気にしながら歩く。右の脇道を見た。道筋を変えるか迷っているらしい。左側には木の生い茂る公園がある。

 長身の男との距離が縮まりつつあった。奇妙な音が聞こえる。リュオーン、リュフュー、という、風に似た音。長身の男の呼吸音。小太りの男は足を速める。

「ちょっと、そんなに急がなくても」

 何も知らず女が言う。

 カチャリ、と、微かな金属の響きに小太りの男は再度振り向いた。

 長身の男のシルエットが、右手に奇妙なものを握っていた。

 それは壊れた傘の骨のようにも見えた。だが軸は太く、先端部から握りへ向かって生えた数本の棒は逆棘に似ていた。

 一体、何のために作られた道具なのか。

 長身の男の歩みはゆったりしていたが実際には普通の人の全力疾走ほどに速かった。街灯の淡い光に照らされて、男の姿がはっきり見えた。灰色のロングコートを着た大男。やや後退したM字額と、死んだ魚のような無感動な瞳。男の右手の道具が見えた。傘ではなかった。鉄パイプなどを材料に自作したのだろうか、折り畳み式の銛だ。

 男は、大館千蔵だった。

 小太りの男の顔が緊張に引き攣った。女を置いて走り出す。こちらも外見に似合わぬスピードだ。

 だが大館も加速する。無表情に追ってくるのが異様だった。

「ど、どうしたの」

 あっけに取られる女の横を大館がすり抜けた。小太りの男は走りながら左右を見回している。

 大館との距離が十メートルを切った時、小太りの男が跳躍した。五、六メートルの高さがある倉庫の屋根まで届こうかというその時、一直線に飛んできた銛が男の背中を貫いた。ドギャリと音がした。血がしぶく。

「うえっ」

 小太りの男が空中でひっくり返りアスファルトに落下した。なんとか左手をついて頭を打つことは免れる。眼鏡が外れて割れた。

「痛い、痛い……」

 男は手を回して銛を抜こうとしたが、深く食い込んでおりビクともしない。何本もの逆棘は内臓を抉っているだろう。起き上がれぬ男の前に大館千蔵が立った。

「何なんだ、お前は」

 苦悶の顔で小太りの男は問うた。

「それはこっちが聞きたい。毒はどうやって注入した。口の中に毒腺があるのか」

「な、何を言ってる」

「とぼけるな。お前の体臭は人間のものじゃない」

 大館は歯切れの悪い声で告げ、小太りの男を蹴転がした。一瞬男は宙に浮き、地面をバウンドする。銛の刺さった部分で出血が続いている。女は遠くからポカンと口を開けて見ていた。

 大館はコートの内側に手を入れた。隠していた長い金属棒を取り出す。握りのボタンを押すとカチャリと先端が開いて逆棘が飛び出した。

「お前の親や兄弟も同じ体質か」

 大館が二本目の銛を振りかぶった。小太りの男は答える代わりに突然顔を上げた。口をすぼめて黄色の液体を噴き出したのだ。咄嗟に顔面をかばう大館の左前腕に液体が付着する。大館の舌打ち。右手の銛を容赦なく男の胸に突き刺して貫通させ、アスファルトに縫い止めてから後方へ跳ぶ。素早く脱いだコートの内側には更に二本の銛が吊られていた。

 コートもシャツも溶けてはいないが、まくり上げた前腕の皮膚が溶けて径十センチほどの潰瘍を作っていた。見ている間にも肉が泡を立てて溶けていく。

 大館が目を剥いた。眼球が半分以上せり出すほどに。

「俺の皮膚が、畜生」

 忌々しげに呻きながらベルトの鞘からハンティングナイフを抜く。刃渡り二十センチ以上あるそのナイフで、大館は潰瘍部分と溶けかけの肉を素早く削り取った。肉のスライスがアスファルトに落ちる。

 前腕の抉れた肉はすぐに盛り上がっていき元通りになった。だが表面の皮膚は大きく傷口を開けたまま変化しない。少量の血液が滲んだ。

「やってくれたな屑が。皮膚は治りにくいんだぞ」

 大館の顔が蠢いていた。表情を変えるというレベルのものではない。皮膚の下で小動物が暴れているような、異様な動き。大館は左手で顔を押さえた。飛び出しかけた眼球も押し戻す。

「どうして、こんなことをするんだ」

 胸の中心を貫かれても小太りの男はまだ生きていた。男の言葉はたどたどしく、聞き取りにくくなっていた。顎が変形して、全体的に大きくなり前にせり出している。まるで顎の骨が折り畳み式であるように。先端に小さな穴の開いた牙が二本、前方を向いて生えていた。これも畳まれていたものか。

「僕は、誰にも迷惑をかけずに、生きてきたのに。人を殺したのも、今回が初めてだ。女の子を、助けようとしただけだ。それなのに、問答無用で、僕を殺すのか」

 小太りの男はアスファルトから銛を引き抜こうと四苦八苦していた。伸びた顎がカツンカツンと空を噛む。銛の握り部分には鍔が溶接されており、前にも後ろにも抜けなかった。男を中心に血溜まりが広がっていく。大量の汗が爬虫類のように肌をぬめらせ、丸く開かれた目は怨念を込めて大館を見上げていた。

 大館は左手を離した。顔は本来の無表情に戻っている。ナイフを収め、肉を削った左前腕にハンカチを巻いた。置いてあったコートから三本目の銛を取り上げて逆棘を開く。

「好きで、こんなふうに生まれてきた訳じゃないんだ。それでも、ただ生きることさえも、許さないというのか」

 男の言葉は大館の耳に届いていただろうか。毒の噴射を用心しているらしく、大館は五メートル以上の距離を保って銛を振りかぶった。

「末代まで祟ってや……」

 銛は小太りの男の左目から後頭部まで抜けた。脳漿を撒き散らし痙攣する男を、大館は冷静に観察していた。

「随分と古風なことを言う。だが無駄だな。俺に子孫はない」

 大館が呟き終えた時、小太りの男は全く動かなくなっていた。それでも大館は四本目の銛を取り、死体の背後から回り込んで近づいた。

 振り下ろした銛は、男の頭部を下手なスイカ割りみたいに叩き潰した。

 大館は女に目を向けた。女はその場から動くことも出来ず、ただ膝を押さえて必死に立っている。

「あ、あの……私、だ、誰にも言わないから……」

 大館は無造作に銛を投げた。女の顔が爆ぜた。

「運が悪かったな」

 大館は女の死体に告げた。小太りの男を貫いて地面に刺さっていた銛をあっさり引き抜く。アスファルトの一部が剥がれた。足で死体を踏んで更に引くと、肉を裂いて完全に抜けた。他の銛も同じようにして抜く。

 大館はコートを畳み、取り出したペットボトルの中身を一口飲むと、四本の銛と二つの死体を引き摺って夜の闇へ消えた。

 

 

  五

 

 ギプスを巻いた腕が痒い。掻けないもどかしさで藤村奈美の日常はイライラしたものとなっている。

 月曜日、真鉤夭は登校してこなかった。風邪で休むと学校に電話があったらしい。奈美には彼が風邪を引いたとは信じられなかった。

 真鉤が学校を休むのは初めてのことだ。極力目立つことを避けている彼は判で押したような生活を続けてきたのだから。今回は何か特別な事情があるのだろうか。

 まさか、天海東司に騎馬戦で指名されたのが負担になって、体調不良を理由に辞退するつもりなのだろうか。いやそんなことをしたら逆に波風を立てることになるだろうし、体育祭は日曜だから休むのが早過ぎる。

 それとも、殺す相手を求めて何処かを彷徨っているのだろうか。この町では行方不明者が増え過ぎたため、都会へ出稼ぎに行ったとか。いやわざわざ平日に学校を休んでまで行くことはしないだろう。そんなことを冷静に考えている自分に奈美はちょっと驚いたりもする。

 私を殺したら、とあの時奈美は言った。そうでなければ誰も殺さないでとも言った。勝手なことを言ってしまったと今は後悔している。真鉤が人を殺さないと生きていけないのならば、それは死ねと言うのに等しかったのではないか。奈美は自己嫌悪に浸る。

 この数日で体のだるさを感じ始めていた。体温を測ってみるが平熱だ。白血病が進行しているのだろうか。体の中で悪い細胞が増えていく様を想像して気分が悪くなる。実際には過敏になっているだけなのだろうか。宣告を受けた直後からだし。

 なるようにしかならない。奈美はそう思おうとした。病院には定期的に検査してもらうし、気になったら日暮静秋に診てもらってもいい。頻繁でなければ彼も引き受けてくれるだろう。

 日暮もまた、あまり近づきたいとは思えない存在だった。殺人鬼の真鉤よりはましかも知れないが、闇の住人であることには変わりがない。

 いや、既に奈美自身も、そちら側の世界に足を踏み入れているのだろうか。

 昼休みに三年の岸田が教室を訪ねてきた。岸田は文芸部の部長で、色白でひょろりと痩せていて一昔前の文学青年といった趣きの男だ。でも書く小説は陰惨なホラーだったりするので良く分からない。

 暫く部活に参加していなかったことを奈美が詫びると、岸田は別段怒るふうでもなく言った。

「聞いたよ。凄い事故だったんだって。何はともあれ、生きてて良かったなあ」

「はい。体育祭には出られなくなってしまいましたけど」

 奈美が左腕のギプスを軽く上げてみせると岸田は首を振った。

「いやいや、文芸部にとっては体育祭なんかどうでもいいんだよ。それより大事なのは文化祭だよ」

 文化祭は十一月にある。去年の文芸部では機関紙を配布しただけだった。三年の引退前の最後の行事だ。

「今年は何か特別なことやるんですか」

 奈美が尋ねると岸田は頭を掻いた。

「いやあ、特別なことって訳でもないけど、やっぱり機関紙だよ。今回は学期分のとは別に、文化祭用に分厚いのを作ろうと思ってね。だからメンバーを総動員したいんだよ」

「すみません、幽霊部員で」

 奈美は苦笑する。

「どう、何か書かないかい。小説書いてみたいって言ってたよね」

「それが、あれから全然進んでなくて。文化祭には間に合いそうもないです」

「分かる分かる。書き出せるようになるまでが大きな壁だからね。なら、詩の方はどう。去年の三学期分に載せた詩はなかなか良かったよ。『夏の夜空に』だったっけ」

「いえ違います。確か……ええっと……」

 と、自分で書いた詩の題名を思い出せないことに奈美は呆れてしまった。取り繕うように岸田が言った。

「ま、まあ、だから何か新しく詩でも書いてよ。締め切りは取り敢えず十月一杯だから。いや出来れば中旬くらいまでがいいけど。考えといて」

「はあ……」

「それからたまには部室に来なよ。皆の熱気に触れるのもいい刺激になるよ。いや、そんなに熱気はないかなあ。あっはっはっ」

 気の抜けた笑い声を上げながら岸田は去っていった。

 重苦しかった空気が少し軽くなったような気がした。そうだ。部活をしよう。高校生らしいことをしよう。幼稚でもいいから詩を書いてみよう。生きているうちに何か残しておこう。自分が生きてきたという証を……。駄目だ、また暗い考えになってしまった。

 放課後になり久々に部室に行ってみると、狭いスペースにいつもより多くの部員がいた。文芸部のメンバーは七、八人だったと思うが、見覚えのない部員もいる。一年生の新入部員、といってももう二学期なので新入というほどでもないが。私がぼんやりしている間に皆は着々と成長していたのだと奈美は感心する。部長の岸田はノートパソコンでカタカタ小説を書いているが、ここで創作活動の出来る図太い人はそうはいないので、部室は小説談義や互いの作品を批評する場となっている。奈美も皆のやる気に心を打たれて、自宅に戻ってから詩を書き始めてみる気になった。

 だが、いざ自分の部屋で机に向かい、レポート用紙を睨んでみても何も言葉は浮かばなかった。取り敢えず題名に「秋」という言葉を入れようと思い、シャープペンシルでそう書いた。でも秋だからどうなのかということになるとやっぱり何も浮かばない。なら「体育祭」はどうだろう。奈美は「秋」の字を消して「体育祭」に書き直した。末尾に「の」を加えてみた。やはり何も思い浮かばない。奈美は仕方なく宿題を先にやることにして、レポート用紙を引き出しに仕舞った。

 宿題を済ませた後も、奈美はレポート用紙を出す気になれなかった。白紙に向かったところで何も出てくる筈はない。まずは内容を考えなければ。題材を探して本棚のコミックを読んだりテレビドラマを見たりしているうちに夜も更けてしまい、奈美は溜め息をついた。まだ猶予はある。じっくり考えていこう。その猶予はあっという間になくなってしまいそうな気もしたが、奈美はひとまず自分に言い聞かせた。

 翌日の火曜、真鉤夭はまた休んでいた。

 どういうことなのだろう。奈美は流石に心配になってきた。風邪はあり得ない。誰かを殺しに行って返り討ちになってしまったのだろうか。いや、でも学校に電話したのだから少なくとも生きていることは確かだ。

 ひょっとすると。奈美は気がついた。

 誰も殺さないでなどと奈美が言ったために、真鉤はずっと我慢しているのではないか。我慢し過ぎると頭が真っ白になっておかしくなるとか言っていた。二週間に一度くらいは人を殺さないといけないとも。島谷紀子が死んでどのくらい経っただろう。もう二週間は過ぎている筈だ。彼は自宅で独り、苦しんでいるのだろうか。殺人を我慢することは彼にとってどんなに苦しいのだろう。アルコール依存症の人が酒を我慢するより苦しいのだろうか。根性とか意志の力とか、アルコール依存症という病気にそんなものは通用しないと専門家がテレビで言っていた。

 いや、奈美の推測は外れているかも知れない。全く関係ない別の事情なのかも知れない。本当に風邪を引いているという可能性だってゼロではない。

 奈美は、確かめてみようと思った。

 午後になると雨が降り始めた。一応折り畳み傘を鞄に入れているが、片腕を吊った状態では使いにくいだろう。やんでくれればいいのだが。

 放課後になり、雨は更にひどくなっていた。奈美は部室に寄らず下校した。詩が全く書けていない状態で行きにくいということもある。部活と疎遠になっていたきっかけもそういうことだったような気がする。自分が情けなくて、駄目な人間のような気がしてくる。

 とにかく今日は真鉤のことが優先だ。奈美はそう自分に言い訳した。

 右手で傘を握り、肩掛けバッグと吊った左腕を雨からかばう。景色はどんよりと濁り、大粒の雨が傘にぶつかりバラバラと凄い音をさせる。風は強くなかったので助かったがスカートの裾はずぶ濡れだ。

 真鉤の家はこの辺だ。傘を傾けて視界を広げる。あの奇妙なデザインの屋敷が見えた。門は開いている。郵便受けを覗いてみると新聞が幾つも重なって入っていた。

 いないのだろうか。まさか、死んでいるなんてことは。いやそんな筈は……。

 奈美は玄関に立ち、傘を置いて右手で呼び鈴のボタンを押した。鐘の音に似た電子音が雨の音に混じる。インターホンではないので奈美はただ待った。

 屋内に動く気配はなかった。声もしない。やはりいないのだろうか。奈美はもう一度ボタンを押した。三十秒ほど待つ。やはり反応がない。

 もう帰ろうか。奈美はそう思い始めていた。最後の駄目押しに三度目のボタンを押した時、上の方から押し殺した声が聞こえた。

「……レ」

 雨のせいで良く聞き取れなかった。真鉤の声かどうかも分からなかった。でも上からだ。二階だろうか。奈美は傘を持って数歩下がってみた。二階の窓は半開きでカーテンがかかっている。

 カーテンの僅かな隙間から、血走った目が一つ、覗いていた。

 総毛立つという感覚を、奈美は初めて味わうことになった。カーテンから覗く目は一杯に見開かれ、極大の狂気と冷たい殺意を放射していた。

 低い呻きの後で、二階のものが言った。

「カエ・レ」

 それは真鉤夭の声だったが、いつもの穏やかさは微塵もなかった。万力か何かで搾り出したような、不気味な声音。

 真鉤夭が、おかしくなっている。

「アブ・ナ・イ」

 帰れ、危ない、と、真鉤は言っているのだ。殺される。奈美は直感した。急いでこの場を離れなければ。奈美はお義理程度に挨拶の言葉を喋ろうとした。だが口が動いても声が出ない。息もしていないような気がする。

 奈美は、傘の角度を変えて狂気の視線を防いだ。そのまま三歩後ずさる。背を向けるのが怖いが後ろ向きに歩いて転ぶのも怖かった。奈美は、真鉤を刺激しないように、ゆっくりと踵を返し、門を抜けた。

 走ったら危険だと思った。奈美は一歩一歩注意して足を進めた。踏み締めている筈の地面の感触が鈍い。雨の音も何処か遠く感じていた。

 奈美は後悔した。真鉤のことを理解しようとしたのが間違いだった。彼は奈美を殺さないと言ったが、実際はそんな生易しいものではなかった。とても自分の手には負えない。

 でも、帰れと警告したのは、奈美を守るためではなかったか。

 三十メートルくらい歩いただろう、通行人の姿が見えてきた。買い物袋を提げた主婦。傘がないので走る青年。肩が濡れるのも気にしていない相合傘の高校生カップル。

 これでもう安心だ。思った時、後方から荒々しくドアの開く音が届いた。ドアが吹っ飛んだのではないかというくらい激しい音だった。

 奈美は、振り返った。全身の筋肉が強張っていて、背骨がギシギシと音を立てた。

 真鉤夭が、土砂降りの雨に晒されながら、傘も持たずに突っ立っていた。長袖のシャツとズボンがみるみる濡れていく。彼は裸足だった。

 真鉤は、自然と垂らした右手に、大きな鉈を握っていた。先端の方が少し膨らんでいて、刃渡りが三十センチくらいありそうだった。

 濡れた髪が額にへばりついていた。何日か食べていなかったのか頬がこけていた。その頬が笑みに緩んでいた。全く可笑しそうには見えない、ピエロの虚ろな笑み。

 真鉤の瞳は大きく開かれたまま瞬きもせず、町も人も通り越した別の世界を見つめているようだった。薄く膜が張ったようにも見える。

 奈美は死が具体的な形を取って目の前に現れたのを感じた。バスが落ちた時は、あれは事故だった。だが今度は……。

 真鉤が、こちらに向かって走ってきた。濡れた地面を裸足で走っても音はしなかった。或いは雨の音に紛れたのかも知れないが。そんなことより真鉤が近づいて、くる。通行人がいるのに。目撃者が……。

 奈美は逃げようとして、緊張のあまりバランスを崩してよろめいた。傘を離して右手をつく。傘が転がる。服が濡れてしまった。鉈が。

 風鳴りが奈美の頭上を通り過ぎた。鉈。外れた。痛くない。外れた。それともわざとなのか。次の攻撃が……。

 刃は来なかった。鉈を持った真鉤は奈美の横を駆けていった。雨を避けて軒下沿いを走っていた青年が、真鉤に気づいてキョトンとした顔になった。いきなりこんな非日常に出くわせば誰だって正常な判断を失うだろう。

 その青年の横を真鉤が駆け抜けた。鉈が踊った。刃が青年の顔辺りを過ぎたように見えたが、錯覚だったのだろうか、青年は真鉤を振り返っている。

 青年の、その、頭から、大きな塊が落ちた。

 塊にはスイカの断面のようなものが見えた。いや、中身はピンク色で他にも色々詰まっていた。

 青年が、それに気づいたのだろう。落ちたものを確かめようと向き直って下を見た。青年の顔の正面が見えた。彼の頭部は顔の右側、頭頂部から右耳の下にかけての線で、斜めに輪切りにされていたのだ。断面から血が滲み出し、雨に打たれて混ざった。青年は、そのまま地面に崩れ落ちていった。先に転がっていた外れた頭部に、青年の右手がぶつかって中身を潰した。

「ん。どうしたの」

 少女の声。相合傘のカップル。倒れた青年に気づいて立ち止まった二人の前で真鉤夭が減速した。

「あ」

 傘の角度を上げて、少年の方が目の前に立つ相手の顔を確認しようとした。カップルの制服は北坂高のものだった。

 真鉤が鉈を横殴りに振った。刃はあっさりカップルの首を通り抜けた。ゼリーを切るように、あっさりと。

 切断された二人の首と傘の軸が、ふわりと一瞬宙を浮いた。二人の身長が違っていたため断面は少し斜めだった。仰向けに倒れた二人の死体から血が噴き出して濡れた地面を染めていく。二つの首は向かい合わせに転がっていた。

 あからさまな光景を前にして、主婦が買い物袋を落とした。叫びかけたその喉に、逆手に握った真鉤の鉈が深々と突き刺さった。深過ぎる。先端は首の後ろから抜けただろう。刃側が天を向いている。真鉤は鉈を刺さったまま上に振った。主婦の頭が縦に真っ二つになり、左右に分かれた状態で倒れた。

 視界に入る生きた人間は、アスファルトに座ったままの奈美だけとなった。そこで真鉤は行為を止めた。

 四つの死体に囲まれて、真鉤夭は立ち尽くしていた。虚ろな笑みは消え、瞳の中に恍惚の余韻を残しながらも意志の光が甦ってくる。我に返ったのか。呆然と、周囲を見回して、今の状況を確認しようとしているようだった。殺した本人が呆然としてどうするのか。呆然としたいのはこっちだ。

 四つの惨殺死体はもう動かない。死体を見るのは初めてではない。バスの事故の時も。いやあの時は炎の奥に影を見ただけだ。それよりも、実際に真鉤が人を殺すところを見るのは、これが初めてだった。殺人鬼だと告白された。彼の異常な筋力も、掌の傷があっという間に治っていくのも見た。吸血鬼の友人も紹介された。近づく死に怯えなければならない自分の体質も指摘された。

 だが、それでも奈美は、真鉤が殺人鬼であることを本当の意味で実感していなかったのだろう。信じたくなかったのかも知れない。

 もう、信じた。

 真鉤が握る鉈の切先から、雨で薄められた血液が滴り続けていた。

 どうするつもりなのだろう。死体の処理は。でも日中なのに。まだ通行人も来るだろうし。

「うわっ」

 右手にあるアパートの、ベランダのない二階の窓が開いていた。三十代くらいの男が窓から顔を出して道の惨状に凍りついている。主婦の上げた短い叫び声が聞こえたのだろう。

 真鉤が数歩走って跳躍した。二階の窓まで簡単に届いた。慌てた男が顔を引っ込める前に鉈が閃いた。通り過ぎた真鉤は猫のようにしなやかに着地する。

 男の顔が、お面のようにずれていく。粘着力に重力が勝り、外れて地面まで落ちていった。残った頭部に脳と筋肉と骨と空洞が見えた。男がクニャリと前のめりに崩れ、喉が窓枠に引っ掛かって止まった。

 五人目の殺人において真鉤は冷静だった。目撃者を消すために行われたのだ。でもここを通る人達を片っ端から殺すつもりなのか。

 真鉤が奈美を見た。私も殺されるかも。恐怖は半ば麻痺していた。真鉤が近づいてくる。鉈は……。

 鉈は振られなかった。彼は奈美の傘を素早く拾い、動けずにいる奈美を両手で抱え上げた。真鉤は周囲を確認しながら自宅に駆け戻り、開け放しになっていた玄関をくぐった。奈美を床に下ろしてドアを閉め、内側からロックした。

 真鉤は、ドアを背にしてその場に座り込み、頭を抱えた。鉈が床に落ちた。

「やってしまった……」

 真鉤は、虚ろな声で呟いた。

「どうなるかは、分かっていた筈なのに……やってしまった……もう、メチャクチャだ……」

 奈美は、何も言えなかった。ただ座って息をして、自己嫌悪に陥っている殺人鬼を見守るだけで、他には何も出来なかった。

 二人共ずぶ濡れで、汚れていて、ひどい気分だった。

 

 

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