第五章 体育祭の昼と夜

 

  一

 

 どのくらいの間そうしていたのだろうか。やがて真鉤夭は立ち上がり、帰っていいよと奈美に告げた。服が濡れてしまったね、乾燥機を使ってもいい、シャワーを浴びてもいい。真鉤の声は優しく、疲れていた。服がずぶ濡れのまま帰るのはためらわれ、奈美は真鉤の提案通りシャワーと乾燥機を借りることにした。真鉤は奈美にバスタオルを差し出して、鉈を洗面所で洗った後は二階に消えた。奈美に配慮したのだろう。バスルームはタイル張りで、浴槽はあまり使っていないようだった。ギプスに湯をかけないよう気をつけたが既に雨で濡れてしまっていた。乾燥機は古いものだったがしっかり働いてくれた。

 ある程度乾いた制服を着直して出ていこうとすると真鉤が黙って見送ってくれた。彼は別の服に着替えていた。

「明日は学校に来るの」

 奈美が尋ねると、真鉤は言った。

「分からない」

 雨の音は軽くなっている。代わりに、外の通りから人のざわめきが聞こえていた。さっきはパトカーのサイレンも鳴っていた。日中の通りで起こったことなのだから当然のことだ。

 真鉤は、今日見たものを誰にも喋らないようにとかは何も言わなかった。奈美のことを信用しているからだろうか。それよりも奈美には、彼が疲れ果てて、投げ遣りになっているように見えた。

 現場はすぐ近くだ。きっと刑事が聞き込みにこの屋敷を訪れるだろう。その時、真鉤は何と答えるつもりなのだろうか。

「さようなら。また明日」

 奈美が伝えると、真鉤は黙って頷いた。

 通りは何台もパトカーが停まっていて、警官が紐を張って野次馬を遠ざけていた。まだ雨が降っているのに大きな人だかりが出来ていた。

「俺、見たんだぜ。生首が転がってた。畜生、画像撮っときゃ良かった」

 興奮して携帯に話す若者がいた。彼らは真鉤の屋敷も奈美も見ようとはしなかった。奈美は傘を差して彼らの後ろを過ぎ、別の道を通って家に帰った。

「サイレンが聞こえてたわよ。この近くみたいだけど何かあったのかしら」

 母が言った。

「近くで殺人事件があったみたい。テレビのニュースに出るんじゃないかな」

 奈美は冷静に答えることが出来たと思った。自分の部屋で私服に着替え、少し眠った。

 六時のニュースでは大々的に報道されていた。被害者は五人で、首や頭部を鋭利な刃物と思われる凶器で切断されていたこと、それが極めて短時間に通り魔的に行われたらしいことなどを伝えていた。被害者のうち三人は身元が判明していた。北坂高の二人の名前も出ていた。同じ二年生。彼らの人生があまりにもあっけなく絶たれたことをどう解釈すればいいのだろう。人生は理不尽だ、とでも。

 死体発見者や近所の住人のコメントも流れていた。発見者は凄い死体だった、人間業じゃないと話していた。住民は悲鳴が聞こえたような気がするが大雨のせいではっきりしなかったと言った。真鉤と奈美を目撃した人はいないようだった。もしいれば真鉤が見逃す筈がない。

 警察の発表はまだない。事件から二時間ほどしか経っていないのでそんなところだろう。島谷紀子の事件との関連性も疑われることになるだろうか。これから町一帯に聞き込みがあるだろう。奈美の家にも刑事が来るかも知れない。

 もし聞かれたら、奈美は何も見ていないと答えるつもりだった。

 真鉤はどうしているのだろう。自分に捜査の手が及ばないか、ニュースに目を光らせているのだろうか。それとも、また頭を抱えて蹲っているのだろうか。あの憔悴した顔が奈美は気になった。

 真鉤は、奈美が言ったことを守ろうとしたのだ。彼は登校する余裕をなくしてまで必死に我慢を続け、おかしくなってしまい、結局今回の殺戮を引き起こすことになったのだ。すると奈美にも責任の一端があるのだろうか。奈美の発言は殺人という行為への嫌悪感からだった。

 だが、殺人への嫌悪感は、真鉤本人もずっと抱いていたのではないか。

 翌日の学校でもやはり事件のことは話題になっていた。

「藤村さんとこの近くでしょ」

 クラスメイトが聞いた。

「そうなの。何も知らないけど」

 奈美は無難に返した。天海東司は何と言うだろうか。奈美は天海に出くわさないことを祈った。

 真鉤夭は、また学校を休んでいた。

 奈美の心配は、昨日までとは違うものに変わっていた。

 放課後になり、奈美は急ぎ足で下校した。天海の姿は見えなかった。

 重くのしかかってくるような曇り空の下、奈美は真鉤夭の屋敷の前に立った。

 現場の道はまだ通行止めになっていた。何やら調べているらしい警官の姿が見えた。犯人がすぐ近くに住んでいることを、彼らは想定しているだろうか。

 郵便受けには新聞が一部のみ入っていた。今日の夕刊だ。奈美は二階の窓を見上げた。閉まっていて相変わらずカーテンがかかっているが、隙間から覗く目はない。

 細い煙が上がっている。良く見ると壁から煙突が出ているようだ。暖炉か何かあるのだろうか。

 考えてみると、随分と深入りしてしまったものだ。奈美は玄関に立ち呼び鈴のボタンを押した。屋内に鐘の音が響く。

 やはり反応はなかった。奈美は三度試して諦めた。引き返そうとしてふと思いつき、ドアノブに触れてみた。

 ノブが回る。

 もう一つの鍵も掛かっていなかった。昨日乱暴に開けたためか、傷んだ蝶番が情けない軋みを上げながら開いた。

 人の気配はない。ただし、病室のベッドの下にまで潜り込むような男だから、すぐそばに隠れているのかも知れない。

「真鉤君」

 一歩足を踏み入れ、奈美は奥に呼びかけてみた。屋内は物音一つない。

 ここまで来たのだから。奈美は意を決し、靴を脱いで上がった。居間に行ってみる。テレビとソファー。かつて真鉤に告白を受けた場所。今は真鉤はいない。台所にもいなかった。

「真鉤君」

 一階にはいないようだ。奈美は階段を上って二階に進んだ。真鉤の勉強部屋を見た。散らかっていなくて本棚などもきちんと整理されている。学生服がハンガーで吊られている。鞄もあった。ベッドを見る。毛布に乱れはない。

 ベッドの下から何かが顔を出していた。木製の柄。鞘に収まった大型の鉈が転がっている。昨日使われた凶器だ。もっとしっかり隠すべきではないかと奈美は余計な心配をしてしまう。

 勝手に他人のプライバシーを覗く後ろめたさを感じながら別の部屋を見る。使われていないらしい寝室。彼の両親の部屋だったのだろうか。彼が殺した両親の。書斎も使われている様子はなかった。

 三階は段ボールが積まれているだけで何もなかった。

 真鉤がいない。出かけているのだろうか。でも真鉤の靴は上がり口にあった。別の靴を履いていった可能性はあるが。

 そういえばあの煙は何処から出ているのだろう。暖炉はなかった。隠し部屋でもあるのだろうか。一階に戻ってみるとあっさりドアが見つかった。見落としていただけだ。

 ドアの向こうは地下への階段だった。地下室から光が洩れている。階段は剥き出しのコンクリートで、冷たさが靴下越しに伝わってくる。

 殺風景なコンクリートの地下室は、中央に大きな焼却炉が設置されていた。煙突が天井を伝って壁へ抜けている。

 焼却炉のそばにポリタンクが置いてあった。二十リットルくらい入るものだ。中身は空だ。近づいてみると灯油の匂いがする。

 何かを焼いているのだろうか。覗き窓がついていないので焼却炉の内部は分からない。

 取っ手は熱くなかった。奈美は右手でそれを握り、噴き出す炎にやられないように慎重に、焼却炉の蓋を上に開けた。

 灰の上に、黒焦げになった人間が膝を抱えて座っていた。体の所々が燃えているが、炎の勢いは既に弱くなっていた。まともな皮膚はなく、髪はなくなり頭蓋骨の一部が見えている。焼けた人肉の嫌な匂いが奈美の鼻と喉を突いた。

 それは、眠っているように、目を閉じていた。

 何なのだ、これは。真鉤が新しい死体を始末しているところなのか。でも昨日五人も殺したばかりだ。それとも……焦げていて良く分からないが、この顔立ちは……まさか、自殺……。

 それが瞼を開いた。バリッと音がして右の瞼は外れて落ちた。絶句している奈美に、それが、掠れた声で告げた。

「閉めてくれないか。まだ、生焼けなんだ」

 真鉤夭の右目は白く濁っていたが、左目は潤いを保っていた。冷たく澄んだ瞳が奈美を見上げている。

「……ど……どういうつもり」

 やっとそれだけ声が出せた。

「閉めてくれ」

 真鉤は言って左目を閉じた。右目も裏返った。

 彼は死ぬつもりなのだ。独りで静かに。生きたまま焼かれるという、苦痛に満ちた方法で。

 三百人以上殺した殺人鬼の末路が、これなのか。散々人を巻き込んで、自分も苦しんで。何一つ救われぬまま、最後がこれか。

 奈美の中に訳の分からない怒りが込み上げてきた。それは珍しく強い衝動となって奈美を動かした。

「馬鹿っ」

 焼却炉の中に右手を突っ込んで真鉤の頬を叩いた。炭化した肉が零れた。かなり熱かった。

 真鉤も目を開き、少々面食らったようだった。

「触らない方がいい。火傷する」

「もう……馬鹿」

 もう一回叩こうとして奈美は諦めた。掌が痛い。確かに火傷してしまったかも知れない。

 視界が滲んだ。涙がどんどん溢れ出してくる。焼却炉の煙のせいではなさそうだ。奈美は腹立たしいような情けないような、なんだかどうしようもない気分になっていた。

「消火器は何処」

 迷った末、真鉤が答えた。

「玄関の下駄箱の横だ」

 奈美は一階に戻って消火器を取ってきた。ギプスの左腕が少しだけ痛む。説明書きを読みながらロックを外し、焼却炉の中に吹きつける。粉が充満して真鉤がむせる。血の混じった唾が出た。炎が消えた。

「早く出なさい」

 白塗りになった真鉤に奈美は告げた。

「服がない。燃えてしまったから」

「じゃあ取ってくる。何処にあるの」

「二階の僕の部屋にタンスがある。でもそこまで世話を焼かなくても……」

「馬鹿。あなたが世話を焼かせてるんでしょ。言っとくけど、私はあなたのお母さんじゃないんだからね」

「分かってる」

 私は何をしてるんだろう。急に馬鹿馬鹿しくなったりもしたが、怒りやら自分でも訳の分からない感情やらに押されて奈美は二階から真鉤の上着とズボンを取ってきた。涙はまだ止まらない。ああ、他人に「馬鹿」なんて言ったのは何年ぶりだろう。

 焼却炉の中で座っている真鉤にそれを手渡して、奈美は言った。

「下着は後で自分で履いて。私は一階に上がってるから」

「ありがとう」

 真鉤の掠れ声は少し治っていた。

 居間のソファーに腰掛けて待っていると、五分ほどして服を着た真鉤がやってきた。片足を引き摺っている。消火器の粉は洗い落としたようだ。炭化した部分は剥がれて、赤い肉が見えていた。

 全身大火傷のゾンビのような真鉤が、奈美に言った。

「コーヒーでも飲みますか」

 この状況でこの台詞。奈美は思わず吹き出してしまった。それからまた涙が出た。奈美はハンカチで何度も涙を拭いた。

「ええ。淹れてくれるの」

「インスタントしかないけれど」

「それでもいい」

 真鉤は台所へ消えた。

 やがて盆に二つのコーヒーカップとスティックシュガーを載せて戻ってきた。

「ありがとう」

 奈美は礼を言って受け取った。真鉤も黙って自分のカップに砂糖を入れる。スプーンで掻き混ぜて、一口啜る顔の皮膚はピンク色になっていた。なくなっていた右の瞼も出来かかっている。破壊が止まったため本来の治癒力を発揮し始めたようだ。

 奈美も少し飲んで、真鉤に尋ねた。

「いつからああしていたの」

「午前九時を少し過ぎていたと思う」

 すると七時間以上も燃え続けていたのか。焼けた部分が治り、また焼けるという過程を延々と繰り返していたのだろう。凄まじい真鉤の生命力に奈美は呆れた。

「君はどうやって僕の家に入れたんだ」

「だって、玄関に鍵が掛かってなかったから。あの、勝手に入ったのは悪かったけど、その前に何度もベルを鳴らしたんだから」

 真鉤は毛のない眉を上げて驚きを示した。

「ロックし忘れてたのか。初めてだ。いつも用心してたのに」

 骨が見えていた部分は既に新しい肉が覆い、頭には産毛が生えていた。この分だと一時間もせずに完全に元の姿になるだろう。再生の材料は何処から出てくるのだろう。物理法則を無視しているような気がする。質量保存の法則とか色々と。

「死のうと思ったの」

 奈美は聞いた。

 真鉤は暫く黙ったまま、何度かコーヒーを啜った。

「真鉤君」

「僕が生きていても、誰のためにもならない。害になるだけだ。僕自身にとっても」

 真鉤は他人事のようにそれを言った。

「死ぬのは怖くないの」

「これまでは怖かった。でも、もう死んだ方がいいような気がしてきた」

「……皮肉ね。私はまだ生きていたいのに、いつ癌で死ぬか分からない。あなたは自殺しようとしても不死身なんだから」

 奈美の言葉を真鉤は非難と取ったかも知れない。

「僕が死ぬことで君が助かるのなら、僕は何度死んでもいいよ」

 奈美は苦笑した。

「ありがたいけど、それは関係なさそう」

 また暫く、沈黙が続いた。

 コーヒーを飲み終えてから、奈美は言った。

「明日は学校に来て」

「分かった。そうする」

 真鉤は頷いた。

 翌日の木曜日、真鉤はいつもの姿で教室に現れた。クラスメイトの男子が「ひどい風邪だったんだな」と言い、真鉤は「ええ。かなり」と答えた。

 本番を三日後に控え、体育祭の練習が行われた。騎馬戦はなかったが、学年練習で天海が「間に合ったな」と真鉤に告げた。真鉤は天海の馬になるのだ。

「ええ」

 真鉤は笑みを見せた。はにかんだような申し訳なさそうな微笑は、いつもより翳りが濃かった。

 天海の笑みも彼らしくなく、真鉤と似たり寄ったりのものだった。

 

 

  二

 

 奇妙な呼吸音を聞いた瞬間に嫌な予感がした。リュオーン、リュフュー、という風に似た響き。気道の形状がまともではないのだろう。

 日暮静秋が角を曲がると三十メートルほど先に大柄な男が這いつくばって地面に顔を寄せていた。身長百九十センチ台後半、体重百二十キロ以上。厚いロングコートの合わせ目から太い金属棒が覗く。髪はオールバックで額の生え際はやや後退し、肌の色は慢性的な血行不全を示している。皮膚と肉が互いに軽い拒絶反応を起こしているようだ。首と手の筋肉から、日暮は彼が人間でないことを瞬時に読み取った。彼が何者であるのかも。

 偽刑事は真鉤の家のある通りで、今日封鎖解除されたばかりの殺人現場を調べているのだった。

 内心舌打ちしながら日暮は引き返そうとした。気づいた偽刑事が身を起こしてこちらを向く。顔を見られる前に曲がり角の陰に隠れることが出来た。

 偽刑事の判断は早かった。こちらに凄い勢いで駆けてくる。日暮も全速力で走った。姿を見られるとまずい。次の角を素早く曲がり塀を越えて内側を走り、屋根から屋根へ飛び移る。偽刑事の気配も同じルートで追ってくる。繊細さに欠ける動きだが身体能力は日暮より上か。少しずつ距離が縮まっている。日没にはまだ時間がある。今やり合うのは避けたかった。というより勝っても得のない戦いはしたくない。向こうの意図がどんなものかはっきりしないが、追ってくる様子からも友好を結びたい訳ではなさそうだ。人の少ない方へ逃げるか、多い場所へ駆け込むか。相手にどれほどの覚悟があるかだ。向こうだって騒ぎは避けたいだろう。そう判断して日暮は屋根から飛び降りて大通りに向かった。なんとか駅前の人込みに紛れることに成功する。

 向かいの歩道から偽刑事の気配がこちらを窺っていた。日暮は顔を見せぬよう注意しながら歩いた。視線を感じる。あっさり識別されたようだ。あの呼吸音は匂いを嗅いでいるらしい。体臭を覚えられたか。真鉤のようには行かない。非常にまずいことになった。

 偽刑事が近づいてくる。このまま歩いていれば人込みもばらけてしまう。試しに足止めしてみるか。心を決めた日暮は、コンビニ前で地べたに座って談笑していたヤンキー達に声をかける。

「よお、久しぶりだな」

「何だ」

 胡散臭そうに彼らが顔を上げた。どいつも二十才前後だろう、五人いて二人はニッカボッカを履いていた。

「あれ、俺のこと覚えてないのか。ほら、この目を見りゃ分かるだろ。よーく見てくれよ」

「なーに言ってん……」

 彼らが一斉に日暮の目を見つめた。二秒もすると彼らの顔から表情が消えた。個人差もあるが大概の相手は五秒以内に術に掛かる。吸血鬼の特権だ。

「いいか、あのでかい男を皆でボコれ」

 立てた親指で肩越しに後方の気配を示し、日暮は命じた。

「その後俺のことは忘れろ」

 若者達は立ち上がった。彼らの目には植えつけられた意志の光が湧いている。日暮は足早にその場を離れた。

「おい、てめえ」

 若者達が偽刑事に絡んでいる。肉が肉を打つ音の連続。彼らは頑張っているようだ。相手のダメージは全くなさそうだが。偽刑事はまだ反撃していない。多くの通行人が見ているため遠慮しているのか。音と気配でそれを判断しながら日暮は五十メートル以上の距離を確保した。そのまま逃げるか。いや、結果を見届けたい。日暮は三階建てビルの屋上まで二度の跳躍で届いた。左手人差し指の爪で右手首を切り、静脈から流れ出る血で自分を囲む円を描く。きっちり五百cc使って出血を止めた。十秒もあれば傷口は塞がる。

 敵の意識から自分の存在を隠すための結界だった。常人相手なら直接姿を見られても認識されることはないが、強力な相手であるほど成功率は低くなる。相手が明らかに日暮を目指している場合は更に確率が下がる。逆に血を多く使うほど結界の効果は強くなる。狭い範囲にこれだけ大量の血を使ったのは初めてのことだ。日暮はその場に蹲り心身の活動レベルを下げる。

「私をボコるそうだな」

 ここから見えない六十二メートル先で偽刑事の声がした。歯切れの悪い声音は口腔内の構造も人と違うようだ。

「ああ、そうだ」

 息を切らしながら一人が言う。催眠術に操られた彼らは無駄な戦いにも怯んでいない。

「なら人が見ていない方がいいだろう。どうだ、続きは裏でやらないか」

 偽刑事はその気になったようだ。ヤンキー共を深入りさせたか。だが遠隔操作出来る訳ではないので見守るしかない。

 偽刑事は脇道へ歩いた。こちらに近づく方向だ。彼を蹴りながら若者達がついていく。日暮は耳を澄ます。

 人気のない裏通りに彼らは回り込んだ。カチャリ、と、金属部品が噛み合うような響きがした。

「何だそれ」

 一人が聞いた。戸惑いが術の強制力に勝ったらしい。

 偽刑事は無言だった。ただ風鳴りの音がした。同時に、グワシャッ、とでもいうような、肉と骨がまとめて潰れる音が。即死以外あり得ない音だ。

 別の若者の悲鳴が上がった。その悲鳴が破壊音で掻き消された。二人目。いやまとめてもう一人。飛び散った血と肉片が地面に落ちる音を日暮は聞いた。

 残った二人が流石に逃げようとした。ドブビュッ、と凶器が相手の胴を貫く音。それがブジャリという音に続く。貫いた凶器で胴を引き裂いたのだ。次は、凶器が肉に叩きつけられ、丸い塊が地面を転がる音だった。潰れた気管が一瞬洩らした細い呼気からも、首を飛ばされたことが分かる。

 これで五人が全滅した。あっけない殺戮だ。

 偽刑事は彼らを殺さずに軽くあしらえた筈だ。或いは無視して日暮を追っても良かった。なのに何故わざわざ殺したのか。

 答えはおそらく、日暮への当てつけだ。

 あんたがどういう奴か良く分かったよ。日暮は自分のせいで死んだヤンキー達の冥福をほんの少し祈った。

 偽刑事は死体を放って裏通りを歩いた。リュオーン、と深く息を吸って匂いを嗅ぎながらこちらへ近づいてくる。結界がうまく効いてくれれば、日暮の血臭は意識を逸らす方に役立ってくれるだろう。いざとなったら全力で逃げ出さねばなるまいが、身構えることで気配を悟られる恐れもある。日暮は全身の力を抜いていた。

「こいつらはお前が殺したも同じだ」

 偽刑事が陰鬱に告げた。足音は日暮の潜むビルから四十メートルほどだ。

「吸血鬼だな。お前の仲間も五、六匹仕留めた」

 偽刑事は「匹」という言葉を使った。挑発のためか。だが日暮はそれに乗ったりはしない。

 三十メートルに近づいた。

「この町の殺しは、お前がやっている訳じゃないだろう。白崎高の三人に、通り魔で五人。実際はそれ以上殺している筈だ。犯人を知っているか」

 二十メートル。

「教えてくれたらお前は見逃してやってもいい。吸血鬼など、どうせ人の生き血を吸うだけの社会的には無害な連中だ」

 偽刑事に見逃すつもりがないことは日暮も分かっている。五、六匹仕留めたと今言ったばかりではないか。

 十メートル。凶器から滴る血が地面にぶつかる音。

「どうだ。協力する気はないか」

 日暮のビルから五メートルの地点で、偽刑事は立ち止まった。リュオーン、リュフュー。気に障る深呼吸。ここで僅かでも動けば危険だ。日暮は飽くまで冷静だった。

 数秒で、偽刑事は歩みを再開した。

「ふん。お前は後回しだ。吸血鬼などより大物がいるからな。奴のような殺人鬼を放ってはおけない」

 お前も殺人鬼だろ。日暮は内心でそう反論した。

 偽刑事はビルを通り過ぎた。

 十メートルまで離れた時、偽刑事は低い声で言った。

「お前の匂いは覚えたぞ」

 コンビニの裏から若い女の悲鳴が聞こえてきた。店員が死体を見つけたらしい。

 偽刑事の足が速まった。

 その気配が消え、パトカーがやってきて現場検証を始めても、日暮静秋は用心のため、数時間その場で動かずに耐えた。

 

 

  三

 

 日暮静秋が真鉤夭の屋敷を訪れたのは夜十時過ぎだった。

「電話で済ませるより直接言った方がいいと思ってな。その分厄介な奴に出くわしちまったが」

 ソファーで足を組んで日暮が言った。

「知っている。それにニュースも見た」

 真鉤は無表情に頷いた。這いつくばって匂いを嗅ぐ刑事を、真鉤は自宅から観察していたのだろうか。

「今日の犠牲者、警察はお前のせいにするかもな。しかしありゃあ強い。一対一じゃ敵いそうにねえ」

「……二対一ならどうだろうか」

 真鉤が聞くと、日暮は唇の端を歪めて笑った。

「さあな。だが俺はリスクを冒す気はねえ。ほとぼりが冷めるまで家に引き篭もっていようかと思ってる」

 ほとぼりが冷めるまでというのは、真鉤が始末されるまでということだろうか。だが真鉤は淡々と応じるだけだ。

「そうか。それがいいのかも知れない」

「だがその前に」

 日暮が急に厳しい表情を見せた。

「北坂高校二年八組、葛西美智子。誰のことか分かるか」

 真鉤は答えなかった。その名を知っているのかどうか、表情からは読み取れない。

 日暮が解答を告げた。

「お前がおととい殺した五人のうちの一人だ。そして、優子の数少ない友人の一人だ。彼女はショックを受けてる」

「……そうか。すまなかった」

 真鉤は頭を下げた。日暮の瞳は冷たかった。

「謝って片づく問題じゃないことは、分かってるだろ」

「分かっている。それで、今日来たのか」

「ああ。約束した通りだ。受けるか」

「君とやりたくはない。だが、僕には受ける義務がある」

 南城優子の友人を殺した場合は日暮が彼を殺す。前に日暮はそう宣言していたのだった。

「いつやるかだな。今夜零時にと思ってたが、もう時間がない。気持ちの整理もつけときたいだろうから、明日の夜零時でどうだ」

「すまないが、少し延期してくれないか。日曜に体育祭があるんだ」

「出ておきたいのか」

 日暮は意外そうな顔をした。

「騎馬戦で、馬になるように頼まれているから。約束は果たしておきたい」

「三日後か。まあ、いいだろう。じゃあ、体育祭の終わったその夜の零時でいいな」

「それでいい」

「場所は、瀬川町病院って知ってるか。数年前に潰れて今は廃墟だ。たまに暴走族が入り込むが、問題なければそこでやろう。また電話する」

「分かった」

 真鉤の返事を聞いて日暮は立ち上がった。

「お前に悪気がなかったことは分かってる。だが、結果は結果だ。こうなっちまったからには責任を果たさなきゃな。どっちが死ぬにしても」

 真鉤は黙って日暮を見送った。玄関を出ると日暮の姿は夜の闇に紛れ、すぐに消えた。

 

 

  四

 

 高校生にもなると体育祭を観に来る父兄も少なくなるものだが、観客席は盛況だった。大声で応援する親は流石にいないもののデジカメやビデオカメラを構える者は多い。天気も快晴で、暑いとかめんどくせえとか言いながらも生徒達は楽しんでいた。

 点数に関係のない演舞などもあるが、百メートル走やリレー、棒倒しなどは全て学年対抗で点数が加算される。今年の体育祭で皆が気にしているのは、二年生と三年生のどちらが勝つかということだった。

 昨年の体育祭で優勝したのはやはり三年だったが、一年と二年の点差はかなり接近していた。今年は天海東司が活躍していて、障害物競争でも一位を獲り、棒倒しでは真っ先に棒に飛びついて勝ちに貢献した。天海が同級生を煽ることはなかったが、彼の熱気が皆にも伝染したらしい。

 棒倒しは攻め組と守り組に分かれて相手方の一本の棒を倒し合う競技だ。学年の男子が全員参加するためゴチャゴチャに入り乱れて何が何だか分からない状態となる。学年対抗なので一つの学年が他の学年と一回ずつ勝負を行うのだが、その二回共、二年生の棒はびくともしなかった。守り役には真鉤夭がいた。

 綱引きでも二年生が完勝だった。三年生は必死に顔を歪めて引いていたが、二年生は楽々と相手を引き摺って一気に勝負を決めた。学年内に誰かとんでもない力持ちがいるんじゃないかと同級生は冗談を言い合った。

 アナウンス役をこなす藤村奈美は満更でもないようだった。予め用意された文面を読み上げ、競技中には適度なタイミングで劣勢の組を励ますことになる。最初のうちは気恥ずかしげな様子だったが、次第に彼女の口元には微笑が浮かぶようになっていた。

 最近の彼女の顔に真鉤夭と同種の翳りが染みついていたことに、奈美自身は気づいていただろうか。

 昼休みとなり、生徒達はバラバラと散っていく。父兄が弁当を作って待っている者もあれば、いつものように学食で食べる者もいる。藤村奈美は両親が来てくれた。途中で天海とすれ違い、彼女は言った。

「天海君、今日は凄く頑張ってるね」

「まあね。たかが高校の体育祭だが、一度くらいは本気を出してもいいかってな」

 天海はニヤリと笑ってウインクしてみせた。

 奈美は真鉤の姿も見かけた。体操服姿は一見貧弱であったけれども、彼は集団競技でこっそりと異常な筋力を発揮させているようだった。彼にしては珍しいことだ。

 奈美と目が合うと真鉤は微笑した。時折見せるあの申し訳なさそうな微笑とは違って、本当に、嬉しそうな笑みだった。奈美はちょっと驚いた顔をして、それから彼女も微笑んだ。

 藤村奈美の母親は豪華な弁当を作ってきていた。

「フォークダンスも参加出来ないの。残念ね」

 奈美の吊った左腕を見て母親が言う。

「今年はフォークダンスはないのよ。プログラムにそうなってるでしょ」

「あら、そうなの。ねえ、奈美。一緒に踊りたい相手とかいなかったの」

「え、いや、その……」

 奈美が顔を赤らめていると父親が渋い顔で言う。

「母さん、今日は体育祭なんだから、そういうことを話す日じゃないだろう」

「まあそうだけど、奈美にもそろそろ好きな男の子の一人や二人いてもおかしくないでしょ」

「二人もいたら困るだろう」

 父親が言って、皆で笑った。

 真鉤夭はいつものようにコンビニで買っていたパンを教室で食べていた。教室で食べる生徒は七、八人いた。そのうちの一人の男子が真鉤に声をかけた。

「真鉤んとこも親、来てないのか」

「ええ」

 真鉤は穏やかに答える。

「うちは俺を置いて北海道旅行だよ。ひでえよな。真鉤んとこの親はどうしてんだ」

「両親共死にましたから」

 真鉤は淡々と答えた。男子生徒は平手打ちを食らったような顔を見せた。彼は噂を知らなかったのだろう。

「そうか。悪い」

「いえ、気にしなくていいですよ」

 男子生徒は机に尻を載せてコンビニ弁当を食べていたのだが、真鉤の発言に自分の座っている机が誰のものか思い出したようだ。

 それは、島谷紀子の席だった。

「こいつも、死んじまったけどな。まあ、今になってみると、嫌な奴って訳でもなかったな」

 そんなことを言いながらも彼は机から尻をどけようとはしなかった。

「いい奴でもなかったけどな。でも、まあ、殺されるほど悪い奴でもなかったよな」

 男子生徒は少ない語彙を駆使して、彼なりに自分の気持ちを表現しようとしていた。

「そうですね」

 真鉤は頷いて、食事を再開した。

 午後の集合時刻が近づき、真鉤が一階に下りると男子トイレから天海東司が出てきた。

「やられたぜ」

 真鉤に気づいて天海は自嘲気味に語った。彼の顔は青ざめていた。午前中までの覇気が消えている。

「下痢ですか」

 真鉤が聞いた。

「というより下剤だ。ジュースに目一杯入ってたらしい。昼前からちょっと変だったんだが、休み時間になってからずっと大洪水さ。朝方に一年の女が応援だって持ってきてくれたんだが、柿沢の回しもんだったようだ」

 柿沢とは三年の不良で、天海とは対立関係にあった。騎馬戦での対決を前に、柿沢は手段を選ばないことにしたらしい。

「信用して全部飲んだんですか。君は勘がいいのに、らしくないですね」

 真鉤は微笑していた。優しくてちょっと意地悪な微笑だった。天海も弱々しく笑った。

「俺はな、女の子の期待は裏切らないようにしてるんだよ」

「でも、大丈夫ですか。後半出られます」

「なんとかやってみるさ。さっき保健室で正露丸五十個ほど飲んだし、少し楽になったみたいだ。いや、嘘。ちっとも楽じゃねえ。先生にはオムツ履いて出たらなんて言われたぜ」

「履くんですか」

「いや、死んでも履かねえ」

「じゃあ、午後の競技は休みますか」

「それも嫌だね。俺は一度始めたことは最後までやり通す主義なんだ。必死でケツに力を入れてりゃなんとか洩らさずに済みそうだ。……だが、悪かったな。折角馬になってもらうのに、負けるかも知れねえ」

「構いませんよ。僕はそんなに勝ちたい訳じゃないですから」

「それだけじゃなくて、ひょっとすると俺の洪水をまともにかぶるかも知れんぞ」

「それは困ります」

 流石の真鉤も慌てていた。天海の笑みはまた青ざめていきトイレへ駆け戻る。

 午後の部が始まり、天海東司はなかなか姿を現さなかった。二年生の演舞が始まるぎりぎりで校舎から駆けてきたが、本番での動きはかなりぎこちないものだった。退場するとすぐにまた校舎へ消えた。そんな天海を目ざとく柿沢が見つけ、取り巻き達と指差してニヤニヤ笑っていた。

 体育祭のプログラムも佳境に入り、騎馬戦が開始となった。男子生徒は皆上半身裸となり鉢巻きを締める。寸前でげっそりした顔の天海が到着して真鉤を先頭とする馬に跨った。近くにいた者達は天海の腹が鳴る音を聞いた。

「どうした天海、緊張し過ぎて腹壊したのか」

 隣の三年の列から張本人の柿沢がからかった。百三十六キロの彼を乗せた馬は苦しそうだった。

 天海は柿沢を非難する代わりに軽口で応じた。

「勝利の女神が先輩にハンデをやれってさ」

 柿沢が鼻で笑う。

「オムツしてなくて大丈夫か。皆の前でお洩らししないように気をつけろよ」

「心配ご無用。洩らす時は先輩の顔の上でするからよ」

 そんなやり取りの間も天海の腹は鳴り続けていた。

 勇壮な音楽に乗って騎馬達が入場していく。二年の先頭は天海の騎馬で、通りかかると同学年の女子が「頑張って」と声援を送った。天海は左手で自分の腹を撫でながら右手を振って返す。アナウンス席から藤村奈美も小さく手を振った。天海は余裕のなさを隠してウインクし、真鉤は淡い微笑を浮かべていた。

 場内に三学年の列が並び、体育教師の合図で三年が脇へ寄って一年と二年が対峙した。太鼓の音が次第にペースを上げる。ただしカセットテープだが。

 笛の音と共に騎馬達が向かいの敵へ突進した。自然と雄叫びが上がる。肉と肉がぶつかり合う響き。白崎高の騎馬戦は相手の帽子を奪うようなソフト化されたものではなく、相手の体をねじり倒して地面に落とした方が勝ちという昔ながらの荒々しいものだった。観ている方にも自然と力が入ってくる。

 ある程度体勢が崩れて勝負あったと思われるものには教師が割って入り判定をつけていく。負けた方は騎馬を解く。やがて、全ての勝負が終わった。

 天海東司の騎馬は勝者として残っていた。彼は腸を刺激しないように浅い呼吸を小刻みに続けながら、不敵な笑みをキープしていた。かなりの苦戦だったが勝ったことには変わりがない。

「天海、洩らさなくて良かったな」

 柿沢があからさまな大声で言った。薄々事情を察し始めた二年男子達の顔には天海への同情と柿沢への敵意が湧く。

 負けた者達も騎馬を組み直し、二年と三年の列が入れ替わった。一年と三年の対決となる。その間、天海は目を閉じて自分の内臓と戦っていた。

 勝負が終わった頃、天海は目を開けて大袈裟に驚いてみせた。

「おや、柿沢先輩、勝ったのか。勝負の前に重みで勝手に潰れると思ってたぜ」

 しかし台詞の後半はかなり苦しげなものになっていた。余裕の笑みは引き攣っている。馬の後ろになっている二人は心配そうに天海の尻を見ていた。

 柿沢は何も言わず、残忍な笑みを浮かべていた。

 一年が引き下がり、三年の前に二年の騎馬が並んでいく。ここで初めて天海の騎馬と柿沢の騎馬が向かい合うことになった。

 柿沢に、天海の瞳は限界まで研ぎ澄まされたような鋭い視線を送っていた。馬の頭を担当する真鉤は無表情に天海の体重を支えている。

 観客が固唾を呑む中、体育教師が笛を鳴らし、男達は雄叫びを上げながら駆けていった。天海は勿論黙っていた。柿沢の馬は乗り手の体重のため足が遅く、素早く回り込んだ天海の馬が真横からぶつかっていく。

「死ね馬鹿っ」

 柿沢が右拳を振り回した。明らかに天海の腹を殴ろうとしていた。天海はなんとか手で払ったが、前屈みになった彼に柿沢が体重をかけてのしかかる。拳のルール違反に体育教師が注意しようとする。天海と柿沢が絡み合った。天海の苦悶の表情。

 片方が馬から転げ落ちた。客席からどよめきが上がった。

 落ちたのは柿沢だった。出産間際の妊婦のような呼吸をしながら天海自身も驚いているようだった。仰向けに転がる柿沢は白目を剥いて悶絶していた。二年の女子のどよめきが歓声に変わった。教師が柿沢の頬を叩くが目を覚まさない。

「脳震盪だろう」

 教師が言った。全ての騎馬の勝敗が決まった頃、柿沢は担架で運ばれていった。男性教師が六人がかりだった。柿沢の股間が濡れていたのを見つけた二年が早速失禁の噂を広め始める。「大の方じゃなくて良かったな」と誰かが笑った。

 退場の際、天海は声援に応えて手を振っていたが、天海の騎馬だけが本来の出口より手前で運動場を出ていった。天海の腹が悲鳴を上げ続けているためだ。

 天海は馬から降りて一言、真鉤に言った。

「やったな」

 真鉤が答える前に、天海は尻を押さえてトイレに飛び込んでいた。

 真鉤は微笑していた。プログラムが続き、三年との点差について皆がざわめいている間も、真鉤はずっと淡い微笑を浮かべていた。今日という日が彼にとって至福の時であるかのように。

 優勝は二年だった。最後までトイレに入り浸っていた天海も満足げだった。柿沢の姿はなかった。意識は戻ったが不貞腐れて早退してしまったらしい。表彰式の後で校長の手短な挨拶があり、藤村奈美の「それでは皆さん、お疲れ様でした」というアナウンスで体育祭は幕を閉じた。

 体育祭の様子をデジカメで写した父兄の一人が奇妙な画像を見つけた。騎馬戦における二年と三年の大将同士の対決。天海を押し潰そうとのしかかる柿沢の左頬に、何かが重なって写っているのだ。ぶれているのか元々そうなのか、靄のような半透明のそれは、人間の右手首にも似ていた。だが天海の両手はきちんと写っている。

 彼は暫く首をかしげて吟味した末、その画像を削除した。

 一瞬だけ後ろの馬から手を離し、柿沢を超高速の平手打ちで気絶させたのは真鉤夭だった。

 

 

  五

 

 瀬川町病院は郊外にあった三百床ほどの総合病院で、当時は割と繁盛していた筈だ。院長が不祥事を起こしてやむなく閉鎖となったらしいが、そんなことはこれから行われる殺し合いとは全く関係ない。

 夜空には月が出ていた。半月と満月の中間くらいで、窓越しに充分な光が差し込んでいる。尤も、ここで待ち合わせる二人には僅かな光さえも不要だが。

 殺人鬼・真鉤夭は灰色のシャツと深い緑色のズボンという服装だった。軍手を填めている両手は何も持っていない。

 彼は、どんな表情も浮かべず、元病院の外来受付の広間に、静かに立っていた。

 内部は散らかっていた。空のペットボトルや缶ビール、スナック菓子の袋、待合用の長椅子には汚れた毛布が載っている。面白がって廃墟を訪れる客や暴走族の仕業だろう。玄関の自動ドアは半開きの状態で止まっている。喧嘩があったのか、受付カウンターに血痕が残っていた。古いものだ。

 真鉤は少し顔を俯かせて耳を澄ましている。

 ロック音楽が移動している。カーオーディオを大音量でかけながら誰かが病院周辺を回っているらしい。若者達の喋り声も聞こえる。病院の門の近く、五、六人。

 真鉤は腕時計を見た。安物のデジタル時計が二十三時五十九分五十九秒を指し、次の瞬間、全ての数字がゼロに変わった。

「よお、お前ら、久しぶりだな。俺の顔覚えてるか」

 門の近くで新しい声。

「誰だっけ」

 別の男の笑い声。

「良く見てみろよ。ほら、この目には見覚えあるんじゃないか」

 十秒ほどして声が言った。

「お前ら、今夜はここに近寄るな。どっか他のとこで遊べ。それから俺のことは忘れろ」

 若者達の声が聞こえなくなった。やがて、大音量のロックも遠ざかって消えた。

 黒い影が病院玄関に近づいてくる。長身の影の動きは悠然として優雅でさえあった。

 自動ドアの間を抜け、吸血鬼・日暮静秋が到着した。

「少し遅れたか」

 日暮が言った。黒の長袖シャツと同色のズボン、更にウォーキングシューズも黒で固めている。彼は素手だった。

「一分だけだ」

 真鉤が応えた。

「お前は早くから来てたみたいだな」

「十五分前に来た。遅刻するのが嫌いだから」

 それを聞いて日暮は口の片端を軽く上げて笑った。

「悪かったな。俺に有利な時間にさせてもらって」

「日暮君」

 真鉤が珍しく相手の名を呼んだ。

「僕を簡単に殺せるとは思わない方がいい」

 冷たい声音に、得体の知れないものが含まれていた。

 差し込む月光を背に、日暮静秋の長い髪が逆立っていた。首や手の皮膚も粟立っている。

 日暮の両目が赤い光を発した。彼は両掌を互い違いに向かい合わせ、人差し指の爪で両手首に切り込みを入れた。流れ出す血液がスルスルと動いてまとまった形を取り始める。それは長さ一メートルほどの細い鞭となった。二本の赤い鞭は地面に触れることなく蛇のようにうねった。日暮の指は鞭に触れるか触れないかという状態で自然に垂れている。

 真鉤は両手を背中に回し、シャツの下に隠していた二つの凶器をシュルリと音をさせて抜き出した。右手に握るのは刃渡り三十センチの剣鉈で、ものを断ち切りやすいように切先側が少し膨らんで重心が前にある。左手は刃渡り二十センチ超の鎌だった。木製の柄には洗っても落とせない血痕が残っている。刃は草を刈りやすいようにギザギザになっているが、真鉤の筋力であれば切れ味に支障はない筈だ。むしろ治りにくい傷口を作るのに役立つだろう。真鉤はその二つの凶器を腰の高さで、少し外側に向けた形で保持していた。

「始めようか」

 目を光らせて日暮が告げた。真鉤は動かない。

「決められたサインだとか、手を出してはいけないとか、えらく表現を工夫したもんだな」

 囁くように日暮が言った。カラオケボックスで真鉤が使った言葉だ。

「流石に正直には言えなかったか。死にかけを殺しても気持ち良くないってな。なあ、真鉤」

 真鉤は、無反応だった。

 日暮が音もなく動き出した。滑るように、僅かに回り込みながら真鉤に接近していく。

 真鉤は目だけで日暮の動きを追い、体はまだ微動だにしない。既に腰は浅く落としている。

 日暮に停滞はなかった。両者の距離が次第に縮まって、五メートルを切った時にいきなり真鉤が動いた。鋭い呼気はどちらのものか。血の鞭が風を切る音。二人は一瞬ですれ違い、再び向かい合いながら距離を取った。

「四十六cc」

 日暮が告げた。

 真鉤の右手首でミミズのようにのたくるものがあった。鉈で切り払った鞭の切れ端が、軍手と袖の間に取りついて皮膚に潜り込もうとしているのだ。それが素早く自分の体内へ消えるのを、真鉤は黙って見つめていた。

 日暮が言ったのは、真鉤に入った自分の血液の量だった。

「まずいことになったな、真鉤」

 気楽な口調で喋る日暮の左頬には、抉れたような深い傷痕が走っていた。真鉤の鎌がやったのだ。しかし血は流れない。

「俺の血はお前の中で拡散して血流を悪化させる。もう少し量を足せば血管や内臓を破って回ることだって出来るんだぜ。いきなり終わっちまったな」

 月の光だけで常人には識別困難だろうが、日暮が説明している間にも真鉤の唇がチアノーゼを呈し始めていた。

 だが、真鉤夭はその唇の両端を笑みの形に吊り上げた。全く笑っていない瞳は薄く膜がかかったようで、赤い悦楽の世界を覗いている。

「そうは思わないな」

 真鉤は小さな声で言った。

 上体が床に触れそうなほどに姿勢を低くして、今度は真鉤が接近を始めた。

 

 

 藤村奈美の携帯電話が鳴り出した時、既に夜の十一時半を回っていた。

 体育祭は楽しかったが家に帰ってみるとかなりの疲れを自覚した。他の生徒と違ってテントの下だったから直射日光は避けていられたのに、やはり体力が落ちているようだと奈美は思う。今日は勉強も早めに切り上げて寝るつもりだった。詩も全く進んでいないが後回しだ。

 携帯の呼び出しメロディに虚を衝かれ奈美はドキリとした。電話番号はクラスメイトなど何人かにお義理で知らせてはいるが、長話は苦手だったし、実際に電話がかかることなど滅多になかったからだ。

 誰だろう。嫌な予感がする。画面を見ると『南城優子』となっていた。恋人の吸血鬼を良く殴っていた彼女だ。この間番号を教えてもらったので登録しておいたのだった。

 彼女から奈美にかけるような用事はないと思うのだが。奈美は少し迷った末、携帯を取り上げて通話ボタンを押した。

「藤村です。南城さん……」

「そう、南城優子。こんな時間に悪いわね」

 南城優子の声はカラオケボックスで会った時とは違い、不安げなものだった。

「いえ。でもどうしたんですか」

「静秋の奴がいないのよ。あっと、日暮静秋。あいつの家にかけたら執事が出て、静秋は出かけてるって言うし。携帯は切ってるし」

 どうしてそんなことを言ってくるのか、奈美には分からなかった。

「はあ。でも、誰かの血を吸いに行ってるとかじゃないんですか」

「いや、あいつが血を吸う日は決まってるから。そりゃ、吸血鬼だし、気紛れに夜中に出かけることはあるけど、今夜は多分、違うと思う」

「違うっていうのは」

「あのさ、五日前、真鉤が殺したでしょ、五人。コンビニの事件は違うみたいだけど。いやそれでね、真鉤が殺した人の中に……私の親友が、いたの。美智子っていってね」

 そうだったのか。奈美はちょっと驚いたが、クラスメイトだった島谷紀子のことを思い出し、衝撃はすぐに薄れていった。この一ヶ月ほどで色々と経験し過ぎたようだ。

 それにしても南城の話は妙に回りくどかった。結局何が言いたいのだろう。

「そうだったんですか。でもそれで、どうして私に電話を」

「……。多分、静秋の奴、真鉤を殺しに行ってる」

「えっ」

 真鉤夭と日暮静秋は友人ではなかったのか。でも真鉤も南城の友人を殺したのだから。でもそんなに簡単に殺し合えるものなのか。二人共人間じゃないから、いや、そういう問題ではない筈だ。

「そんな時は真鉤を殺すって、静秋、約束してたもの。事件の後、張り詰めた顔してたから私も気になってたけど、私……何も、言えなかった」

 彼女は後悔しているのだろうか。自分の恋人が人を殺すことをか、それとも……。

「じゃあ、日暮君は真鉤君の家に」

「いや、きっと別の場所で決闘してる。前もこんなことがあったから見当はついてるの。瀬川町病院って知ってる。もう潰れたけど」

「名前は聞いたことありますけど、場所は良く知りません」

「大丈夫、私が知ってるから。ねえ、一緒に行ってくれない」

「え、どうして私が」

 奈美は面食らった。そりゃあ全く関わりがないこともないが、二人の殺し合いに立ち会ったところで何が出来る訳でもない。奈美はただのか弱い人間なのだ。

「だって、私一人じゃ怖いもの」

 南城優子の答えに奈美は呆れた。やっぱり最初のイメージと違う。南城が続ける。

「それに、あなただって真鉤と付き合ってるんじゃない」

「いや、別に、付き合ってるという訳じゃ……」

 奈美は何故かドギマギしてしまった。

「あら、そうなの。まあ、でも関係者でしょ。このまま真鉤が死んだら後悔するわよ。だから一緒に来て」

 南城の強引さに背中を押される形で、奈美は仕方なく承諾した。南城の口調が切迫していたのと、決闘が本当ならば真鉤を見ておかねばならないと思ったからだ。正直、凄惨な場面はもう見たくない。でも、自分には立ち会う義務がある。或いは権利が。焼却炉の中で膝を抱えていた真鉤の姿を奈美は思い出した。

 パジャマを私服に着替えた。テレビの音が聞こえるから両親はまだ起きている。念のため毛布の下にクッションを入れて膨らみを作り、電灯を常夜灯に切り替えた。忍び足で廊下を歩き玄関の扉を開閉し、外から鍵を掛けた。自分が無事に戻ってこられるように祈りながら。

 十五分ほど歩くと、待ち合わせの場所に南城優子が立っていた。彼女も私服で、緊張していた。

「行きましょう」

 南城は言った。持ち前の天真爛漫さが消え、整った顔を濃い不安の影が覆っていた。

「前にもこんなことがあったって、真鉤君とのことですか」

 並んで歩きながら奈美は尋ねた。急に拳が飛んでくると困るので少し距離を取っている。

「いや、静秋はこれまで色々変なのと戦ってきたからね。人食い鬼とか黒魔術師とか同族とか、私の父親とか。そういうのに全部勝ってきたから、私は心配してないんだけど」

 友人と殺し合うということについては彼女は何とも思っていないようだった。そういえばカラオケボックスでも真鉤に対し嫌悪感を露わにしていた。

「心配してないんだけどね。心配してないけど……ほら、真鉤……あいつ、私にも分かるんだけど、あいつ……化け物よ。あんな得体の知れない奴……ああ、静秋が死んじゃったらどうしよう」

 南城は単に恋人の身を案じているのだった。自分はどうなのだろう。奈美は思う。決闘なんてあまり実感がない。真鉤が死んだら自分はどう感じるのだろう。焼却炉の中の真鉤をまた思い出す。そして、道に転がる幾つもの惨殺死体を。

 真鉤が死ぬ筈はない。彼が不死身なのは奈美も良く知っている。でも日暮も不思議な力を持っている。それに、もしかすると、真鉤はまだ、死にたがっているかも知れない……。

「止められそうですか」

 奈美は聞いた。南城は首を振る。

「分かんない。静秋が勝つんなら別に構わないんだけど。大体、真鉤がミッチを殺したから悪いのよ。互いに不可侵条約を結んでたのに」

 途中、不良っぽい服装の男が二人、奈美達を見て追いかけてきた。

「ねえ、君ら、何処行くの」

 ヘラヘラ笑って尋ねた相手の顔面にあっさり南城の拳が打ち込まれた。

「邪魔」

 唖然としているもう一人も正拳突きで倒し、南城は停滞なく歩いていく。奈美も慌ててついていきながら振り返ると、一人の鼻は潰れて曲がっていた。

 空地の横に病院の廃墟が見えてきた。勿論灯りなど点いていない。腕時計を見ると午前零時十三分だった。

「やっぱりやってる……」

 南城が呟いた。奈美にもその音は聞こえた。素早い足音や、金属が固いものとぶつかる響き。月光の下、それは意外なほどに静かでささやかだった。

 正面玄関のガラス戸越しに二つの影が動いているのが見えた。南城の歩みが遅くなる。これ以上近寄って、どうするというのか。奈美の心臓は鼓動を速めていく。

 南城優子が、玄関から足を踏み入れ、奈美もそれに続いた。

 広間は血の海だった。バケツ一杯の血をひっくり返したようなひどい有り様だ。どちらの血なのか。

「静秋っ」

 南城が叫んだ。影の一方がこちらを振り向いた。もう一方が光るものを振った。前者が素早く離れるが、その体から何か塊が飛んでいく。追いすがろうとした影が急に転びそうになった。二つの影は充分に距離を取る。

「よう、来たのか」

 南城に声をかけたのは日暮静秋だった。彼の瞳は豆電球が入っているみたいに赤く光っていた。顔には幾つもの傷が走っていた。刃物によるもの。血は止まっているようだが、頬などは大きく抉れて白い骨が見えている。顎の下にも傷があった。

 日暮の右腕が肘の部分で断ち切られていた。今の攻防で失ったのだ。断端から数本の細い糸が伸びていく。赤い糸だ。それは生き物のように動いて、床に落ちた右腕に繋がった。糸に引っ張られて持ち上がり、魔法みたいに元の部分に吸い寄せられて繋がった。日暮は左手で右腕をしっかり押さえた。彼もまた、真鉤のように異常な治癒力を持っているらしい。ただし、日暮の左手がさっきまで触れていた場所、シャツの破れた脇腹はパックリと裂けて内臓が見えていた。それでも出血がないのは血を操るという彼の能力のためだろうか。

 対する真鉤夭は、頭から血をかぶったように全身が染まっていた。元の色が分からなくなった衣服はあちこちがズタズタに破れている。袖の端や髪の毛の先から血の雫が落ちる。赤い軍手は右手に大きな鉈を握っていた。彼が通行人を殺した時に使ったもの。左手には草刈り鎌があった。どちらの刃にも血はあまりついていなかった。

 血みどろの顔はとろけるような笑みを浮かべたまま凝固していた。異世界の虚ろな笑み。血で覆われた眼球はちゃんと見えているのか分からない。

 一応その目が動いて飛び入りの奈美達にも向けられたが、虚ろな笑みには何の変化もなかった。やはり来るべきではなかった。奈美は後悔した。

 左目からは血が流れていた。下瞼を押して勢い良く溢れていたが見ているうちに止まる。首筋の小さな傷から噴いていた血も止まった。

 日暮と真鉤の中間の床に、奇妙なものが落ちていた。長い部分で十五センチくらい、厚みが二センチくらいの白い板。スポンジのように見えるそれに赤い棘が沢山生えている。

 棘は血で出来ていた。スポンジのような板は、真鉤の靴底の一部だった。真鉤が体勢を崩したのはこのせいだったらしいが、日暮がどのようにこれを行ったのかは奈美には分からなかった。

「ご、ごめん。今の、私のせいだよね」

 南城が血の気の引いた顔で日暮に謝った。右腕を切られたことだ。

「危ねえぞ。離れて見てろ」

 日暮が南城と奈美に言った。まだ右腕は押さえたままだ。南城は黙って頷き、真鉤から目を離さず壁沿いに歩いて広間の端に移動した。奈美もそれに倣う。どちらかというと日暮と近い距離になってしまったが、別に日暮の味方をしている訳でないことは真鉤に分かって欲しい。いや、今の真鉤は何も考えていないかも知れない。奈美は真鉤の応援をしたい訳でもない。ただ、こんな馬鹿らしい戦いはやめて欲しいだけだ。だが、既にそれを言い出せる状況ではなかった。

 日暮が向き直るのを待っていたかのように、真鉤が二つの凶器を翳して襲いかかった。

 

 

 真鉤夭と日暮静秋。二人の魔人は、自分の命を削りながら相手を死へ追い込むゲームをいつ果てるともなく続けていた。

 日暮は血の鞭を使い真鉤の体に少しずつ自分の血を打ち込み、全身の動脈を破壊して出血を持続させた。心臓も脳も傷つけたし頚動脈も十数回は破った。目の血管を破壊し網膜を荒らし、真鉤の視力はかなり落ちている筈だ。肺に血を溢れさせ呼吸を妨害もした。肝臓も腸も腎臓も破壊した。脊髄を幾度も傷つけ、血管沿いの神経も何十回となく切断した。脳の血流を停止させたりもした。

 だが、それでも真鉤は死ななかった。皮膚と肉を引き裂いて噴き出す血液もすぐに勢いが弱まり傷が塞がってしまう。脳や脊髄の損傷も彼の動きには殆ど影響がないようだった。血液を操る日暮の力は距離が近いほど強くなる。日暮は一度真鉤の首に直接触れて血で延髄をほぼ切断した。だが真鉤の動きが止まったのは一秒ほどで、続けて脳を破壊しようとした日暮の攻撃は三度目で左腕を掴まれることとなった。無理矢理引き剥がした際に肉を百グラムほどちぎられた。真鉤の不死身ぶりは底なしのようであった。流失した血液もリアルタイムに再生しているらしい。逆に、自分の血液を使っているため日暮も貧血に近づいていた。既に二リットル以上を消費した。日暮の全身の血液は約五リットルで、常人なら短時間に三分の一を失えば致命的となるが、日暮の場合は残りが五分の一でもなんとか生存は可能だ。だが今のやり取りを続けていれば確実に死へ近づくことに変わりはない。

 真鉤の戦術は単純だった。強大な腕力を使って相手の急所に武器を振り下ろすのみだ。スピードは必ずしも日暮に劣っている訳ではない。だが繰り出した刃は八割方空を切る。真鉤の動きを読んでいるかのような、日暮の見事な反応だった。なめらかで優雅にさえ見える日暮の動きに比べ、真鉤の動きは単刀直入で地味だ。それでも鉈と鎌は時折日暮の皮膚を裂き肉を削っていく。日暮は刃を身に受けながらも上体を反らしたり身をひねったりしてダメージを最小限にしてしまう。腹壁を裂いたが内臓までは達せず、左頚動脈を切断しても致命傷にはならなかった。血管の切断は日暮にとってはダメージとならない。彼は自分の血液の流れを完全にコントロール出来るのだから。真鉤は繰り返し破壊される重要臓器の修復と失われる血液の再生にエネルギーを奪われている。少しずつながら真鉤の再生速度が遅くなっていることに日暮は気づいているだろうか。再生には材料が必要だ。四日前に自分の体を焼いて体重が半分になった。食べることで二十キロは戻ったが、本来の余力はない。ただ、それは大館と出くわして結界に大量の血を使った日暮も同じことだ。互いにそんなことを言い訳にしたりはしない。二人はただ黙って殺し合う。

 日暮は自分の能力が及ぶ距離をキープしていた。真鉤が突進してきた際には直接相手の体に触れてダメージを大きくする。と、闘牛士のようにぎりぎりで日暮がすれ違った瞬間、真鉤の鎌が後ろざまに振られた。余裕を持って躱した筈が左頬から鼻筋を切り裂かれ、削られた骨片が飛ぶ。日暮が驚愕の表情を見せる。真鉤のシャツの左袖が妙に短い。いや、腕が伸びているのだ。真鉤は戦いが始まってから十数分の間に、秘かに左腕を骨格ごと十センチ近く伸ばしていたのだ。彼は体格を自在にコントロール出来るらしい。

 間髪入れず向き直った真鉤の大鉈が日暮の脳天へ振り下ろされた。上体を反らして避けるには近過ぎ、体を左右にずらしても肩から胴深くまで割られるだろう。日暮の赤い目が細められた。

 肉と肉の打ち合わせられる音が、静寂の広間に響いた。

 日暮は、振り下ろされた鉈を両掌で挟み、真剣白刃取りをやってみせたのだ。僅かでもタイミングがずれていたら即死だったろう。いや、刃には赤い鞭が幾重にも巻きついている。まず鞭を当ててから手で挟み込んだものか。

 だが真鉤の筋力を支えきれず日暮の両膝が崩れた。真鉤の鎌が長い左腕によって横薙ぎに打ち込まれる。と、鉈に巻きついていた鞭の先端が素早く動き、刃の硬度と鋭さで真鉤の右手人差し指から小指まで四本、関節部分で切断してのけた。真鉤の手から鉈が落ちる。瞬間、日暮が後方へ跳びすさる。鎌は肋骨を一本切っただけで通り過ぎた。真鉤が右手を振ると何かが日暮の顔面へ飛んだ。

 

 

「うっむぅ」

 呻きが日暮静秋の口から洩れた。

 藤村奈美には二人の攻防を殆ど把握出来なかった。要所での腕の動きは霞んで見えるほどだ。彼女はただ息を詰めて目を凝らし、立ち入ることの出来ない部外者として見守るだけだ。

 どちらが優勢なのかも分からない。飛び散る血と肉片がどちらのものかも分からない。ただ、互いの体を傷つけ合うようなことはもう、やめて欲しかった。既に何人もの人が死んだ。これ以上死者を増やしてどうしようというのか。確かに原因は真鉤にある。でも、二人は友人同士の筈だ。こんなことはすべきではない。「やってしまった」と呆然と呟いた真鉤の顔を思い出す。焼却炉でのことも。

 いい加減にしてと叫びたかった。しかし今の彼女には、ここで見守るしか出来ない。

 奈美と南城が来て戦いが再開されてから、どれだけの時間が経ったのだろう。三、四分かも知れないし、もう二十分近く過ぎたかも知れない。腕時計を見るために彼らから目を離すのはためらわれた。

 久々に両者が大きく距離を取り、二人の姿がはっきり分かるようになった。日暮はいつの間にか真鉤のものだった鉈を左手に握っていた。

 右手は、傷だらけの顔の、右目辺りを押さえていた。そこから何かを摘まむ。ブジュッ、と嫌な音をさせて細長いものが出てきた。

「意外に器用なんだな。親指だけで挟んで投げたのか」

 日暮が床に放り捨てたのは、根元から断ち切られた人間の指だった。軍手の布地に巻かれているから真鉤のものだと分かる。人差し指か中指だろう。日暮の声は、何処かから息が洩れているような不気味なものになっていた。喉に開いた裂け目のせいか。

 日暮の赤く光る瞳は、一つだけになっていた。右の眼窩には潰れた肉が詰まっている。

「器用なのは君だ。あんなふうに鉈を止められるとは思わなかった」

 真鉤夭が初めて喋った。仮面の笑顔でいつもの口調なのが逆に不気味だった。彼はさっきよりも痩せて見えた。右手の指が親指以外ない。彼はその場に屈み込み、鎌を持った左手で落ちた指を拾い集めた。元の位置に押しつけていく。一本がうまく繋がるまで約十秒。切断の痕跡は軍手の切れ目だけとなる。

「時間がかかってるな。流石のお前にも体力の限界があったか」

 ゆっくり動かして確認する指の間から、血の膜で覆われた真鉤の瞳が日暮を見つめている。人差し指がない。日暮の横に落ちたのがそうだろうが、拾いに行くことはしなかった。

「君もかなり血を使っている。そろそろ危ないんじゃないか」

「大丈夫だ。お前を殺した後で補給する」

 日暮が鉈を右手に持ち替えた。戦いが再開されようとしている。

 タイミングは今しかなかった。奈美は深呼吸して勇気を奮い起こし、二人の魔人に言った。

「あ、あの……もう、やめませんか」

 声がちょっと裏返ってしまったが恥ずかしいと思う余裕はなかった。

 日暮が振り向いた。真鉤は動かない。

「何をだい」

 日暮の声はむしろ優しかった。

「あの、殺し合いを、です。こんな、馬鹿馬鹿しいこと、もう、やめませんか」

「確かに馬鹿馬鹿しいが、やめることは出来んな」

 日暮は答えた。

「でも、真鉤君だって、悪気があってやったことじゃないんだし。彼だって、苦しんで……」

「分かってるさ。だが俺も今、悪気があってやってるんじゃない。俺も苦しんでる。それでも、やるべきことはやらなくちゃな」

「藤村さん、ありがとう」

 真鉤が奈美に言った。彼は相変わらず血塗れだったが、異様な笑みは消えていた。

「でも、彼の言う通りだ。やるべきことはやらねばならない。……どちらかが死ぬにしても」

 奈美は南城優子に助けを求めようとした。だが振り向いてみると南城は水中で息を止めているような、珍妙な表情で固まっている。緊張と心配のあまり思考停止してしまっているのか。

 なんとかしなければ。だが奈美が口を開くより早く真鉤が走り出した。一直線に日暮の方へ。

 日暮が右手の鉈を構えるかと見えた刹那、その手から銀線が飛ぶ。真鉤に投げつけたのだ。だが鉈は何もない空間を通り抜けた。

 真鉤が跳躍していた。激突を避けようと日暮が横にステップする。

「おっ」

 空気の洩れる声で日暮が驚きを示す。

 真鉤はまだ落ちていなかった。右手の指先だけが触れた状態で、あり得ない角度で天井にぶら下がる真鉤を奈美は見た。

 天井を蹴って改めて真鉤が跳んだ。日暮も横に避けたが間に合わず、二人の体が床に倒れた。

 真鉤の右手が日暮の右足首を掴んでいた。日暮が振りほどこうとして真鉤の指が二本ちぎれた。まだ繋がりが弱かったのだろう。だがその間に真鉤の鎌が、呆れるほどあっさりと日暮の右膝を切り落とした。血が噴いたのは一瞬だけだ。

 真鉤の背中に鉈が突き刺さっていた。心臓のある場所だが刺さりは浅い。さっき通り過ぎた筈なのにいつの間にどうやって刺さったのか奈美には想像出来なかった。鉈の柄には血の糸が絡んでいる。

 日暮が先に片膝で起き上がった。真鉤から離れるかと思ったら、逆に近づいて鉈の柄を強く叩いた。鉈が深く進んだ。切先は胸から抜けたかも知れない。日暮は手を離さない。その手から鉈を伝い、大量の血が真鉤の背中に滑り込んでいく。

 ズバンと凄い音をさせて真鉤の背中が爆発した。ちぎれた小さな肉片が周囲に飛び散った。だが真鉤は身を起こしざまに鎌を振った。片足の日暮は躱しきれなかったようだ。よろめきながら離れた日暮の左首筋から肩にかけて深い切り込みが入っていた。

「いってえ」

 日暮が唸る。

 真鉤は立ち上がりかけて両膝をついた。彼の胸が見えた。直径二十センチほどの巨大な穴がそこに開き、向こうの景色が見えていた。心臓が、なくなっている。

「だが、もう終わりだな。これをお前の脳味噌にぶちかます」

 日暮の右掌の上に、赤い球体が回っていた。彼の血で出来た凶器。左腕は力なく垂れている。流石の吸血鬼も神経を繋ぎ直す余裕はないようだ。

 真鉤は膝をついたまま動かない。意識は既にないのかも知れない。だが左手はしっかりと鎌を握っている。俯いた顔に、あの虚ろな笑みが復活している。

 真鉤の状態を見極めようとしているのか、日暮もまた動かなくなった。真鉤にまだ余力があった場合、迂闊に近づいて止めを刺されるのは日暮の方かも知れないのだ。しかし、観察していたのは数秒だ。彼は左の膝を軽く曲げ、片足で小刻みに進んでいく。

 焼却炉の中にいた真鉤の顔。あの時彼は何と言ったか。まだ生焼けだからとか何とか、他人事のように言ったのだ。

 真鉤はもう、動かないかも知れない。

 嫌だ。

「……もうやめて……」

 乾ききった喉からやっと掠れ声が出た。奈美の全身は震えている。自分の心臓の速い鼓動を感じる。苦しい。このまま壊れてしまいそうだった。

 日暮はやめなかった。また一歩、二歩と近づく。

「南城さん、止めて。どっちかが死んじゃうわよ」

 奈美は南城優子にすがった。原因は彼女の友人を殺したことなのだから、彼女が許すと言ってくれればいいのだ。こんなに二人を追い詰めておいて、許さないなんて彼女が悪い。切羽詰まった奈美はそんなことまで思い始めていた。

 だが南城はやはり真っ赤な顔で固まっていた。彼女の方が先に壊れてしまったみたいだ。こんな時に。涙が溢れて奈美の視界が滲む。

「ねえ、お願い、何か言って。もういいって言ってよ。二人を止めてよ」

 焦った奈美は南城の肩を掴んで揺さぶった。

 突然南城が動いた。左頬に衝撃。あれ。奈美はよろめいて尻餅をついた。

「あ、ごめん」

 南城が自分の右拳を見て、奈美を見て、呆然と言った。左頬が凄く痛い。もしかして、殴られたのかも。え、どうして。奈美も訳が分からなくなって動けない。涙がどんどん溢れてくるのは痛みのためか、それとも……。

「ごめんってば。勝手に手が……痛かった、ごめんね。泣かないでよ」

 立ち上がれない奈美に南城が屈んで背中を撫でてきた。それでも涙は止まらない。

「泣かないで、ごめんってば、ごめわあああああん」

 急に南城が泣き出した。苦しいくらいに奈美を抱き締めて大声で泣き続ける。吊った左腕が痛い。

「うわーん、うわわーん、わあーん」

 南城もずっとこらえていたのだろう。そう思うと奈美も急に張り詰めたものが溶けてしまい、泣き出してしまった。涙が益々滲んできて、ヒュフー、ヒャク、と肺がヒクつく。南城が泣きながら頬を寄せてきた。涙で濡れた頬。それは奈美も同じか。益々大声になって南城が泣く。

「えーん、うえええーん、ええーん」

「あのー、君達、何やってますか」

 抱き合って泣く二人に日暮の呆れ声がかかった。南城が泣きながら言う。

「だって、だって、静秋が死んじゃったら、嫌だもん」

「泣くなよ。仕方ないだろ。人間死ぬ時は死ぬ。人間じゃなくても死ぬテッ」

 声が倒れた。床にぶつかる鈍い音。奈美は涙を拭ってそちらを見た。日暮が俯せに倒れている。一瞬、真鉤が攻撃したのかと思ったが、彼は元の姿勢のまま固まっている。片足のためか日暮が一人で転んだらしい。

「貧血だ」

 右掌にあった血の球がみるみる小さくなって体内に戻される。日暮も殆ど余力がなかったのだ。

「あの、ヒャク、もう、やめてくれますか」

 奈美は聞いた。

「そうだな。君らを見てたらやる気が失せたよ。それに今、優子に殴られたろ。これでおあいこってことで」

 何がどうおあいこなのか良く分からなかったが、奈美は頷いた。

「優子。俺の足、取ってきてくれないか」

 日暮が言うと南城は泣きながら立ち上がり、ちぎれた日暮の足を拾いに行った。奈美も真鉤が心配だった。残った涙を袖で拭い、膝をついたままの真鉤に歩み寄る。胸には大きな穴が開いたままだ。目を血の膜が覆っているため見えているのかどうか分からない。

 前に立つと鎌で切られないだろうかとふと思ったが、大丈夫という確信はあった。真鉤の虚ろな笑みは消えている。

「真鉤君」

 声をかけると、真鉤は小さく「すまない」とだけ言った。この人はいつも謝るばかりだ。

 急に熱いものが込み上げてきて、奈美は右腕で真鉤の頭を抱き締めた。いや、寸前で素早く頭を引いて躱されてしまった。何、折角私が……。ひどい。

「君の服が血で汚れる」

 真鉤に指摘されて気がついた。服やギプスに血がついたらまずいことになる。こんな時にも気を遣う真鉤に、奈美は愛しいような腹立たしいような複雑な気持ちになった。

 戦いは終わった。

 南城優子は十分以上泣き続けていた。日暮が決まり悪そうになだめていた。奈美は真鉤の指を探して拾い、血みどろの右手に繋いでやった。

「違う。中指と人差し指が逆だ」

 真鉤に言われて奈美は苦笑した。真鉤も微笑していた。

 南城がやっと泣きやんだ頃には、真鉤と日暮はなんとか歩けるくらいになっていた。日暮の右目は潰れたままだったが、数日で治ると彼は言った。真鉤の胸の穴に、新しい小さな心臓が動いているのが見えた。彼は広間にあった毛布で何度も血を拭いた。

「新しい靴を買わないといけない」

 真鉤の靴底は引きちぎれていた。

「服もだろ」

 日暮が付け足した。彼の服もボロボロになっていたが。敵同士でなく、友人の口調だった。

「別にあんたを許した訳じゃないからね」

 まだ時折しゃくり上げながら、南城優子が真鉤に言った。

「分かっています」

 真鉤は頷いた。

「ただね、今日はね、んんと、とにかく……あっ、藤村さん、ごめんね。歯、折れてない」

「大丈夫です」

 奈美は笑顔を作ってみせた。左の頬はまだズキズキ疼いていたけれど。鼻を折られなくて良かったと奈美は内心思う。

「本当にごめんね。じゃあ、お休みなさい」

「お休みなさい」

 奈美は挨拶を返した。軽く手を振って、日暮と南城が病院の玄関を出ていった。日暮は右足を引き摺っている。

「ああ、疲れてフラフラだ。優子、俺を背負ってくれないか」

「何甘えたこと言ってんのよ」

 早速南城の拳が飛んだ。殴られてよろめいた日暮の手を南城が掴み、二人は、手を繋いで去っていった。

「帰りましょうか」

 真鉤が奈美に言った。二人は並んで廃墟を後にした。

 真鉤の全身はまだ真っ赤で、こんな姿を誰かに見られたら大騒ぎになるだろう。でもきっと、見られないだろう。

 そういえば、あの時の真鉤の動き。奈美が抱き締めようとすると素早く躱した。真鉤にはまだ充分余裕があったのではないか。もしあのまま日暮が近づいていたら真鉤はどうしていたのだろう。躱したろうか、反撃しただろうか、それとも……。

 奈美はそれを真鉤に尋ねたりはしなかった。

 あの二人は手を繋いでいた。奈美は真鉤の手を見た。軍手は脱いでいるけれどやはり血塗れだ。

 でも奈美は、勇気を出して、真鉤の左側に回り込み、右手で真鉤の左手を掴んだ。真鉤はちょっと驚いた顔をしたが何も言わなかった。

「南城さんみたいに殴ったりはしないから」

 奈美が言うと真鉤は苦笑した。

 真鉤の手は血で湿っていたが、温かかった。

 月の光に照らされながら、二人は黙って歩いた。特に喋ることはなかったし、それでもいいような気がした。

 ただ一つだけ、奈美は思い出して真鉤に言った。

「今日の体育祭、楽しかったね」

「そうですね」

 昼に見た、あの温かな微笑を真鉤は浮かべていた。

 

 

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