一
火曜日の放課後、天海東司が屋上で腕立て伏せを始める前に考えたのは、休肝日をいつにするかということだった。酔っ払うのが悪いことだとは思わないが、肝硬変で腹水を溜めるのはかっこ悪いし赤っ鼻にもなりたくない。まだ若いのだから先々のことも考えねばならない。一匹狼にも人生設計は必要なのだ。
それで週に一度は休肝日を作ろうと思い立ったのだった。何曜日にするか。週の始まりにはやはり飲みたい。金曜日も頑張った自分をねぎらうために飲みたい。日曜日も特に面白いことがないので飲みたい。真ん中の水曜日はどうか。水曜日は体育があるしくたびれるので飲みたい。結局どの曜日も飲んでいたいのだ。困ったものだ。でも体育祭のために実は一週間禁酒していたのだ。だから休肝日のことはゆっくり考えることにしよう。取り敢えず今日は飲む。
アルコールを控えめにしようと思って、今日買ってきたのは缶酎ハイだ。しかしこれは失敗だった。冷蔵庫がないのでぬるくなってしまう。空手部の冷蔵庫を使わせてもらおうかとも思ったが、流石の天海もそれは諦めた。
そのぬるい缶酎ハイを置き、上着を脱いで腕立て伏せを始めて五十七回目、天海しかいなかった屋上に一人の女子生徒が現れた。
「天海君、ちょっといい」
不安げな顔を見ると愛の告白に来た訳じゃなさそうだ。前に頼みに来た女の子とは違う。今日の顔はなかなか可愛いので覚えている。確か三年の……ええっと、誰だ。忘れた。
「どうかしたかい」
天海は腕立てをやめて起き上がった。
「あの、天海君、相談があるんだけど」
「トラブルかな」
「そう。私じゃなくて、私の友達。五組の三橋瑠里って知ってる」
「いや、知らねえな」
ところで先輩の名前はと聞きたかったが天海はやめておいた。
「瑠里ってさ、エンコーやってんだけど、あ、これは皆には黙っててよ、こっそりやってる人多いんだけど、で、瑠里が、島高の奴に引っ掛かっちゃったのよ」
島高というのは敷島高校のことだ。隣の地区にあって不良も多い。島高とのトラブルにはもう二十回以上関わってきた。
「引っ掛かったってのは」
大体想像がついたが天海は尋ねる。
「電話では三十代だって言ってたのに、値段とか話をつけて行ってみたらそいつだったってこと」
「島高の奴の名前は」
「田口って奴。知ってる」
その時ピリッと来た。違和感。
「知らんな」
「会話が録音されてて、エンコーのこと学校にばらされたくなかったら三十万払えって。それで瑠里が私に泣きついてきた訳。ねえ、天海君、助けてくれない。今日が期限なの。天海君がなんとか話つけてくれないかな」
演技だな。天海は直感した。彼女の不安は本物だが三橋瑠里なんて女は関係ない。田口というのも多分架空の人物だ。何故彼女はそんなことをでっち上げるのか。
俺を動かすのが目的だ。
彼女の顔を見据え、天海は聞いた。
「本当は誰に頼まれたんだ」
「え」
彼女は目を瞬かせた。キョトンとした表情で必死に動揺を隠そうとしている。
「本当のことを言ってくれなきゃ、俺は動かないぜ」
「私、私はほんとのこと言ってるわよ。なんでそんなこと言うの」
彼女は否定しようとした。だが天海が黙って見つめていると、耐えきれなくなって泣き始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。でも、でも、お願い」
「誰の差し金だい」
「違う。嘘じゃない。お願い、信用して、お願い、一緒に来て」
彼女は泣きじゃくるだけで本当のことを言わなかった。なら無視して今日はもう家に帰ろうか。
だが、それが出来ないのが天海東司だ。体育祭で痛い目に遭ったばかりなのに。下剤入りジュースを飲ませた一年の女はあれから見ていない。
天海は溜め息をついた。
「分かった。行くよ」
「本当。ありがと」
彼女は顔を輝かせた。あっという間に涙が引っ込んでしまう。最近の女は不実になったな。天海は内心ぼやく。
上着を着て缶酎ハイをポケットにねじ込み、名も知らぬ彼女と校舎を出る。校門を抜ける際に下校途中の真鉤夭の姿を見かけ、天海は気軽に声をかけた。彼に出来るのは声をかけることだけだから。
「よう、真鉤。今日は一人で帰んのか。奈美ちゃんはどうしたんだ」
真鉤は穏やかな口調で答えた。
「藤村さんは今日は部活に行くそうなので」
「部活か。お前も同じクラブに入ったらどうだ」
「文芸部ですから、僕には無理です」
そう言うと真鉤は微笑した。翳りが薄れたなと天海は思う。何かあって吹っ切れたのだろうか。だが天海は別のことに気がついた。
「なんか急に痩せたみたいだが、大丈夫か」
「大丈夫です。すぐまた太りますから」
横の女が腕を引っ張って急かすので天海は真鉤に別れを告げる。
「じゃあな」
「さようなら。また明日」
真鉤は会釈して歩き去った。彼は女のことを尋ねたりしなかった。瞬間、無表情に一瞥しただけだ。
「さて、案内しなよ」
天海は女に言った。
十五分かそこら歩いただろう。着いたのは築後二十年くらい経っていそうなコンクリートの地味なマンションだった。八階建て。目的地は何階だ。建物を見上げ天海は思う。
玄関はオートロックだった。女は六○三とボタンを押して呼び出す。
「ちなみです。瑠里の件で」
親しい筈のない相手に下の名前を喋ったのは半端だったな。ばれているにせよ、演技は最後までうまくやらなきゃ。いやそんなことよりも。天海はエレベーターの中で、どのタイミングで逃げ出すかに思いを巡らせていた。六階から飛び降りたら無傷では済まない。下手すりゃ死ぬ。だがうまく体勢をコントロールして一階下の共用廊下やベランダに飛び込む自信はあった。チリチリと嫌な感触が天海の肌を刺す。駄目だな。部屋に入るべきではない。相手は複数で多分武器を持って待ち構えている。十四人相手に勝ったこともあるが今回はヤバそうだ。六階に着く前に逃げちまうか。天海は五階のボタンを押したがエレベーターは意外にスピードが速く六階に到着してしまった。
開いた扉の向こうでニヤついた男が拳銃を握って待っていた。四メートル、反撃不能の距離。用心深い男だ。
それでも天海は突進して一撃を加えようとした。サイレンサー独特の響きが連続する。腹に猛烈な痛み。それに構わず進み、膝を撃ち抜かれて天海は転んだ。
「高校生相手にいきなり四発かよ」
精一杯獰猛な笑みを浮かべて天海は言った。
「甘い奴だな、お前」
告げる男の顔からニヤつきは消えていた。三十代半ば、笑みがなくなると男は陰鬱に見える。
「お前なら女を盾にして逃げることも出来ただろ。そのくらい頭が回った筈だ」
「そんなことは死んでも出来ねえな」
答える天海の体を男達が押さえ込んでロープで幾重にも縛りつけた。こいつらヤクザだ。一目で分かる。
「ちなみ、もう帰っていいぞ」
聞き慣れた声が女に告げた。なんとか顔を上げ、天海は男達の後ろに立つ太った高校生を見た。三年の柿沢。
「じゃあ、三十万は払わなくていいの」
女が言った。
「いい。だがこいつのことは誰にも喋るなよ」
援助交際がばれたのはどうやら本人であったらしい。早速エレベーターに戻る彼女に天海は声をかけた。
「女に幻滅させてくれてありがとよ」
彼女は返事をせず、エレベーターの扉は閉じた。
「よう、天海。ざまあねえな」
天海の頭を足で踏みつけて、柿沢が言った。
「おや、柿沢先輩、体育祭で小便洩らした後は姿を見なかったが、ちゃんと生きてたのか。俺はてっきり、恥ずかしくて首でも吊ったかと思ったぜ」
怒った柿沢が天海の頭を何度も蹴りつけた。
「俺の親父はな、若頭なんだぜ」
「で、お前は小便垂れだ。人の力を自分の力と勘違いしてる哀れな奴さ。あんたらもこんなガキに使われてちゃ世話ないな」
柿沢がまた蹴ろうとした。その肩を押さえ、サイレンサーつき拳銃を持った男が言った。
「信夫さん、まずは部屋に入れましょう。タダシ、血を洗い流しとけ」
そして男は気だるげに天海に告げた。
「安心しろ。致命傷じゃない。まだ二時間は持つ」
全く、ドジを踏んだな。天海は覚悟を決めた。
二
1LDKの奥の一室。板張りの床は汚れや血を繰り返し拭いたような染みが残っている。本来の窓がある場所は鉄板で塞がれ、隣室と繋がるドアも鉄製だった。ちらつく蛍光灯だけが男達を照らしている。ここは監禁用の部屋らしかった。
部屋の真ん中に天海東司が転がされている。手首と足首をきつく縛られ、血行不良のため指が紫色だ。
天海以外には四人の男達がいた。最初はもう三人いたが、天海がすんなり捕まったため去った。
四人のうち二人の若いチンピラが、慣れた工場作業のように天海を蹴り続けていた。
床には血溜まりが広がっている。天海の腹からの出血。四発の銃弾は貫通せず体内に残っていた。このまま放置すれば死ぬ。撃った男は二時間は持つと言ったが、既に三十分経った。
凸凹になった天海の顔を、柿沢は黙って見下ろしている。最初は自分で天海を殴っていたのだが、十分ほどで若い衆に替わらせた。額の骨に当たって拳を傷めたせいもあるが、柿沢の悪相に浮かぶ不安は別のことを語っている。これだけ殴られ蹴られても天海が悲鳴一つ上げず不敵な目つきを崩さないことと、腹の出血のひどさに柿沢の方が怖じ気づいてきているのだ。しかし彼はやめろとも言えず、天海が弱っていくのをただ眺めている。
天海を撃った男は無表情で壁に背を預けている。煙草を持つのは左手で、右手はまだ拳銃を握っている。天海が突然何をするか分からないと踏んでいるのか。
「信夫さん」
拳銃使いが煙草を壁に押しつけて消し、柿沢に言った。
柿沢は天海の顔から目を離せずに、拳を握り締めたまま立ち尽くしている。
拳銃使いが若い衆に言った。
「お前ら、ちょっと休め。信夫さん」
二度呼ばれて初めて柿沢は我に返ったようだった。
「何です。サキさん」
サキとは名字の佐木であろうか。柿沢も敬語を使っていることから、組の中でもそれなりの地位にいる男なのだろう。
「どうするつもりです、こいつ」
「……。だから、仕置きをしてやるんだよ」
「信夫さん、俺が聞いているのは、そんなことじゃあないんですよ」
サキの口元に冷笑めいたものが浮かんだ。
「結局こいつをどうするかってことなんですよ。信夫さんが撃っても構わないと言いましたし、俺は必要と思ったから撃ちましたけどね。このまま解放したら、事件になっちまいますよ。組の関係者だってことはばれてますし、俺達の顔もしっかり覚えてるでしょうからね。手足を折ったくらいなら相手がビビッて喋らないことはありますけど、腹の傷が銃創だってことはどんな藪医者だって分かりますよ。弾も中に残ってますしね」
「……」
「撃っても構わないということは、つまり、最後までやるつもりなんだと、俺は判断したんですよ。ぶっ殺すぶっ殺すって、信夫さん何度も言ってましたしね。ドラム缶とセメントも用意しています。ところが、妙ですね。信夫さんの顔は、そういう覚悟のある顔をしてないんですよ」
「俺は、別に……」
柿沢はそこまで言い、後が続かなかった。二人の若い衆は困ったような顔で見ている。
「別に、というのは、殺すつもりはないってことですか。ならこいつをどうします。申し訳ないですが、俺の体は組のものですから、こんなことのために懲役行くつもりはないですよ。このブローニング、信夫さんが撃ったということにして下さいね。大丈夫ですよ、信夫さんならまだ少年院ですから。こいつもそのくらいは口裏合わせてくれるでしょう。なあ、兄ちゃん」
「この縄をほどいてくれたら、前向きに検討してやってもいいぜ」
相当に弱っている筈だが天海はすぐ応じた。左瞼は腫れ上がって目が開かない。口から吐いた赤い唾には歯の欠片も混じっていた。
サキは苦笑した。それから柿沢へ視線を戻した。
「いや、俺は……」
柿沢はまた口ごもった。サキは溜め息をついた。顔にあからさまな侮蔑が表れている。
「信夫さん、どっちかにして下さいよ。ここで殺すか、信夫さんが年少行くか。もうどっちかしかないんですよ。そんなことも考えないで俺達を呼んだんですか。あまり時間はありませんよ。放っておきゃあこいつは死にますからね」
柿沢の顔は青くなり白くなり、眼球がせわしなく動いて殺風景な室内を見回した。
やがて、柿沢は言った。
「わ、分かった」
「分かったというのはどういう意味です」
「そいつを殺してくれ」
「え。殺してくれ、ですか」
サキはわざとらしく呆れ顔を見せた。
「信夫さんが殺すんじゃなかったんですか。天海をぶっ殺すぶっ殺すって、これまで何百回聞いたか分かりませんよ。信夫さんが口だけのヘタレでないことを見せて下さいよ。拳銃貸しますから。使い方は知ってますよね」
サキが壁際を離れて柿沢に拳銃を手渡そうとした。柿沢は手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めようとしてまた止めるというなんとも微妙なことをやった。二人の若い衆が柿沢を見る視線に敬意は失せていた。
突然、横たわっていた天海が縛られた両足を跳ね上げて蹴ろうとした。狙いは拳銃で、サキの手から落ちたものを拾うつもりだったのだろう。一瞬の機会を彼はずっと待っていたのだ。
「おっと」
だが寸前でサキは足を躱していた。振り向いた彼の顔にはあのニヤニヤ笑いが張りついていた。
「タフな奴だ」
天海を蹴転がし、またサキが発砲した。サイレンサーのため音は小さい。天海の左太腿と右膝に穴が開く。天海は低い唸り声だけで耐えた。
「大した奴だ。感心するよ。うちの組にスカウトしたいくらいだ」
「お断り、だ。ヤクザは、大嫌いでね」
歯を剥いて天海が答える。駄目押しでサキがまた撃った。今度は右肩だ。七つの銃創から血は流れ続け、合計の出血量はもう一リットルを超えるかも知れない。
「さて、信夫さん、どうぞ。弾はまだ七発残ってますから」
天海から充分な間合いを取ってサキが促した。
額に油汗を浮かべ、柿沢は俯いた。叱られた幼児のような弱々しい声で、彼は言った。
「サキさん、やってくれよ。慣れてるだろ」
「クッ」
サキは低く嘲った。
「信夫さん。あんた、どうしようもない小物だな。言っときますが、高校卒業してもうちの組には要りませんから。もし入ってきたら殺しますよ」
柿沢は反論出来なかった。サキが拳銃を天海に向けた。その時、天海は開いている右目を細め、別の方を見ていた。顔が腫れているため表情は分からない。
隣室から凄い音がした。玄関の鉄の扉がへし曲がって飛んでいくのが見えた。向こうの壁に激突し、衝撃で部屋が震える。天海が目を閉じて顔を床につけた。
「うおっ何だ」
男達は固まり、サキが素早く隣室を覗き銃口を向けた。
ドュギュビ、と、サキの背中から太い円柱が生えた。潰れた心臓と背骨を絡みつかせたそれは血塗れの消火器だった。外の共用廊下に置かれていたものだ。投げつけて相手の胴体を貫くにはどれほどの筋力が必要か。
「ゲッガッ……」
サキの右手は天井を三発撃って力を失った。その場に崩れ落ちる前に彼の背から消火器が引っ込んでいく。侵入者が凶器を引き抜いているのだ。俯せに倒れたサキは白目を剥いていた。
「サ、サキさんっ」
若い衆が叫んだ。一人は慌てて懐からドスを抜こうとしている。
「うわ、わわわわ」
柿沢は両腕をバタつかせて意味のない声を洩らすだけだ。その脳天に消火器が振り下ろされ、潰れた頭が太った胴へ完全にめり込んだ。はみ出した眼球が一個、糸を引いて揺れる。
「なな、何だてめっ」
手が震えてまだドスを抜けないうちに、若い衆の一人は横殴りの消火器を食らって首が飛んだ。壁をバウンドした生首が足にぶつかって、残った一人が細い悲鳴を上げた。
「た、たす、たす、たすたた」
後ずさりして部屋の隅に追い詰められた男は、消火器と壁に挟まれて丁寧に頭を潰された。音がゴギッ、から、ブビュジュッ、へと変わり、中身が全部はみ出した。
天海はしっかりと目を閉じて動かなかった。コトンと小さな音をさせて消火器が床に置かれ、足音のない気配が離れても、天海は目を開けず一言も喋らなかった。
喋ったのは、気配の方だった。
「体育祭は楽しかった」
確かに、真鉤夭の声で、そう言ったのだ。
天海東司は目を開けたが、部屋には死体しかなかった。
「なんで、俺を助けた。なんで、喋った。そういうことは、しない主義じゃなかったのか」
答える者は既にない。天海は芋虫のように這い、扉のなくなった入口からなんとか外の共用廊下へ出た。
天海は取り敢えず、残った力で大声を張り上げた。
「おおーい、誰か、助けてくれえ。救急車を頼む。それか、縄をほどいてくれ。自分で病院に行くからよう」
三
町の総合病院に天海東司は収容された。銃弾は全て摘出され、命に別状はないが、砕けた右膝は暫くリハビリが必要で後遺症が残る可能性もあるとのことだった。
手術を終えてまだ点滴を受けている天海の病室に、二人の刑事が来て事情を尋ねた。天海は柿沢とのトラブルについてのみ説明し、殺人犯については自分は気絶していたので何も知らないと言った。
刑事はこの町で起きている一連の殺人事件との関連性を指摘した。天海は心当たりがないと答えるだけで、麻酔が残って眠そうなそぶりを見せるとひとまず刑事達は退出した。
警察と病院からの連絡を受け、天海の父親が訪れたのは夜八時過ぎだった。彼は入院の手続きだけ済ませて息子とは面会せずに去った。天海も家族のことは何もスタッフに尋ねなかった。親子はそういう関係だった。
翌日になると午前中のうちから学校を休んで見舞いがやってきた。まだ天海はひどい顔だし身動き出来ないしものを食べられないのだが、女子生徒はフルーツバスケットやら菓子やらを沢山持ってきた。今の時期にチョコレートを持ってくる女の子もいた。彼女達がベッド脇のパックに溜まった尿を興味深げに見るので「麦茶じゃないぜ。間違って飲むなよ」と天海は軽口を飛ばした。男子生徒は新聞持参で面白そうに事件のことを聞いてきた。「実はお前が殺ったんだろ」と冗談っぽく言う同級生もいた。天海は苦笑して体中の包帯を示すのみだ。新聞には惨殺とのみで詳しい殺害法については書いていなかった。
昼休みの時間帯に担任の教師が来た。暫く休むことになりそうだと天海は伝える。学校では色々と問題になっているようだった。生徒が惨殺されただけでなく、その生徒がヤクザを使って後輩をリンチにかけ発砲さえしたのだから。「撃ったのはヤクザの方だぜ」と天海は説明した。もしかすると校長など上の者達は天海も処分しようとしているかも知れない。だが担任の男性教師は「早く戻ってこい」とだけ穏やかに告げた。彼は天海のことを気に入っているらしかった。
午後になるとまた刑事が来た。昨日よりも細かいことをしつこく聞いてくるが、天海は当たり障りのないことしか言わなかった。特に、犯人が誰かということには全く知らないと主張し続けた。刑事の鋭い目つきに、天海は呆れた口調で言った。
「もしかして俺が殺したなんて思ってんじゃないだろうな。俺も死体を見たが、グチャグチャだったぜ。俺にあんな殺し方が出来るなら、捕まってリンチなんかされてねえよ」
「犯人の足跡がないんだ」
刑事の声は得体の知れない不安を孕んでいた。
「部屋の床は君の血で溢れてたが、被害者の靴跡と、君が這った跡しか残っていないんだよ」
「そんなこと言われたって俺にゃ分かんねえよ。死にかけて気絶してたんだぜ。刑事さん方、重傷の男を尋問するより他にするべきことがあるんじゃないのかい」
勢い込んで喋った後で「いてて」と腹を押さえてみせると、刑事達は溜め息をついて立ち去った。
四時過ぎになって、真鉤夭と藤村奈美が一緒に見舞いにやってきた。
「私と同じ病院ね。これ、あの時のお返し」
藤村はひよこ饅頭の箱を見せて笑った。個室の隅に積み重なった見舞いの品に気づいてもう一度笑う。
「悪いが、まだ食べられねえんだ。腸を縫ったらしくてな」
「じゃあ私が代わりに一個食べるね」
前にしたことをそのまま返されて、天海は苦笑した。饅頭は十五個入りで、藤村と真鉤が一個ずつ食べた。
「新聞には撃たれたって書いてたけど、大丈夫」
「まあな。こうしてちゃんと生きてるし、手足もついてる」
「その足は」
ギプスを巻いた右足を見て藤村が尋ねる。
「膝の骨が砕けたとさ。まあ、松葉杖なしでも歩けるようになるさ。奈美ちゃんとお揃いでいいだろ」
「あら、ごめんなさい、私のギプスはもうすぐ取れるって。退院はいつになりそう。長くかかるの」
藤村の物腰に落ち着きが備わっていた。この短期間で多くの経験を積んだみたいに。
「俺にも分からねえ。病院に飽きたら学校に戻るよ」
そんなやり取りを、真鉤は静かに見守っているだけだ。殺人犯についての話題は出なかった。この場にいる全員の、暗黙の了解であるかのように。
真鉤は最後になって、一言だけ告げた。
「元気そうで、良かった」
「ああ」
天海東司は頷き、真鉤の顔を見上げた。彼は何も聞かず、一言だけ返した。
「真鉤、お前、変わったなあ」
「そうかも知れない」
真鉤は微笑した。はにかみはあるが申し訳なさそうではない。薄れた翳り。
そして二人は去った。
することのなくなった天海はテレビを観た。時々看護婦が来て尿量や血圧などをチェックしていく。主治医が来たので天海はいつになったら食事が出来るか尋ねたが、もう少し待ちなさいと言われただけだ。ニュースでは事件のことをやっている。マスコミがどう判断したのか、天海の名は公表されていないようだ。犠牲者である柿沢の名も。天海は黙って観ていたが、やがてうつらうつらし始めた。
どのくらいの時間が過ぎただろう。天海は不気味な悪寒でまどろみから引き戻された。発熱のせいではない、最悪の予感に意識が冴え渡る。
病室の外で誰かが話していた。
「では十五分、二人だけにさせて下さい。その間に話を済ませますから。もしかすると少し騒がしくなるかも知れませんが、気にしないで下さい」
何処か舌足らずで、陰鬱な低い声だった。聞き覚えのある声。看護婦か医師に話しているのだろう。天海は瞬きもせずに病室の扉を凝視していた。
扉が開き、灰色のロングコートを着た大柄な男を認めた時、天海は叫ぼうとした。
「こい……」
だが予想外のスピードで滑り込んだ男の左手が天海の口を塞いでいた。同時に右手人差し指中指が喉を突く。気管軟骨のひしゃげるコリュッという音がして、天海は目を剥いてもがく。息が。
「潰してはいない。大声を出せないようにしただけだ」
男は手を離して告げた。ナースコールの線も引き抜いて捨てる。病室の入口に戻り扉を閉めた。のっそりして見えるが、いざとなれば素早く動けることは既に証明されている。
ゼビュー、カビュー、と喉を鳴らしながら天海はなんとかベッドから転がり落ちようとした。少しでも大きな音を立てて人を呼ばなければ。
「無駄だぞ」
男の一声で天海は諦めた。男は面会人用の丸椅子をベッドの傍らに置いて腰を下ろした。
男の身長は二メートル近く、血色の悪い肌をしていた。髪をオールバックにしておりM字型に後退した生え際が目立つ。瞼は下がり気味で瞳にまでかかっており、三白眼となって冷酷に天海を見据えている。顔の表情は殆ど動かない。
男はコートのポケットからペットボトルを出し、蓋を開けて一気に半分ほど飲み、ポケットに戻した。
「前に……会ったな、学校の前で……」
天海は掠れ声を絞り出した。それに答えず男は言った。
「私は警視庁の刑事で大館千蔵という。君が巻き込まれた事件について質問をしたい」
「嘘つけ……刑事が、こんなこと、するかよ」
「君をリンチした四人を、殺したのは誰だね」
偽刑事のゾンビのような顔を、天海は黙って見返した。
こんな時に天海の選択肢は一つしかない。切れている口元を歪ませて彼は言った。
「知らねえな」
大館は口を大きく開けた。顎が外れそうなくらいに。リュオーン、リュフュー、と深い気道で風が鳴る。口を開けたまま天海に顔を寄せる。歯が一本もない赤い口腔が覗く。舌らしきものも見当たらなかった。
こいつは、人間じゃない。
男は姿勢を戻して告げた。
「嘘だな。殺したのはお前ではないが、犯人を知っている筈だ。犯人はお前を助けるためにヤクザ共を殺したのだからな。何故犯人をかばう。口止めされたか」
「糞食らえ」
吐き捨てた天海の口を大館の左手がまた塞いだ。右手が天海の右前腕を掴んで軽くひねる。骨の折れる音と靭帯の切れる音が重なり、天海の肘が本来とは逆の向きに曲がった。天海の叫びは大館の掌に吸い込まれた。
手を離して大館がまた聞いた。
「お前の親戚か。それとも友人か」
「し……知らねえって、言ったろ。耳が、ないのかい」
激痛にも怯まず天海は返す。大館が左手で天海の右耳を掴み、あっさり引きちぎった。天海は低く呻いただけで耐える。大館は耳を投げ捨てた。
「耳がないのはお前だ。早く言え。私は容赦しないぞ」
「俺は、決めたことは、やり通す、主義でね。お前には、教えてやらねえ」
「そうか」
大館がまた左手で天海の口を塞いだ。動かせぬ天海の右手の、人差し指を摘まむ。ペジッ、と、指の骨が潰れた。大館は停滞なく中指、薬指と進めていく。
「気の毒なことだ。粉砕骨折だから二度とまともには握れんぞ」
天海は大館の左手に噛みついた。同時に違和感。こいつの肉は変だ。均質に硬い。大館は平然と左手を持ち上げた。食い込んだ前歯が三本折れた。すぐにまた口を塞がれる。
結局大館は、天海の右手の指を全部潰した。気だるい大館の瞳に昏い愉悦が滲んでいる。
天海は全身を震わせてそれに耐えていた。この怪物は手段を選ばない。どんな残酷な拷問でもやってみせるだろう。天海は死を覚悟した。
死んでも言わねえ。
手を離して大館が聞いた。
「犯人は誰だ」
「知ら、ねえ、な。あ、先生」
天海は扉の方を見た。大館が素早く振り返るその隙に天海の左手が動いた。窓へ向かって振ったその手を大館の右手が掴んだ。信じ難い反応だった。
天海の左手は、テレビのリモコンを持っていた。最後の切り札だったのだが。
「窓を割って人を呼ぼうとしたのか。いい機転だし動きも悪くない。人間にしてはな」
大館が右手に力を込めた。天海の左手がリモコンと一緒に潰れた。砕けたプラスチック部品が床に落ちる。更にねじると天海の左前腕が途中で折れ曲がった。二本のささくれた骨が肉を破って突き出す。
もうメチャクチャだった。それでも天海は歯を食い縛って耐えた。唇を濡らす血は噛み切ったのか、それとも前歯の折れた場所から出ているのか、自分でも分からない。
天海の呼吸が再開するのを待ち、大館が聞いた。
「話す気になったか」
「お、こ、と、わ、り」
大館が初めて笑みを作った。陰惨な、ドロリとした笑顔だった。
「なら次は目を抉るが、それでもいいか」
「構わんね、クズ」
間髪入れず大館の右手人差し指中指が天海の右目に突き込まれた。中で指を曲げて眼球を掻き出し、伸びた視神経を一気に引きちぎるのを天海の左目は見ていた。
天海の口の中で妙な音がした。食い縛るあまり歯を折ってしまったらしい。
天海の中は、痛みと、怒りだけに、なっていた。
また大館がミネラルウォーターを飲んだ。ペットボトルの表面が天海の血で汚れた。
「喋る気になったか」
「益々、喋りたく、なくなった」
「何故そうまでして犯人をかばう。おそらくこれまで何十人となく殺している奴だぞ。お前にとって、そんなに大事な奴なのか」
口の中に溜まった血を飲み込んで、天海は答えた。
「そんなことは、どうだっていいんだよ。言っただろ。俺は、決めたことは、やり通すって」
「大した男だ。だが、次は睾丸を潰す。男の性器など触りたくもないが、ペニスごとちぎり取ってやる。男じゃなくなるがそれでもいいか」
そいつは大変だ。命の次に大事なところだ。
天海は答える前にむせた。血が気管に入ったようだ。何度か咳をしたが通りが悪く声が出ない。
「何だ。言ってみろ」
「ちょ……ガフッ……ま……」
後は口をパクパクさせるだけだ。大館が聞き取ろうと顔を近づけた。
天海はそれを待っていたのだ。口をすぼめて吹きつけたのは割れた奥歯だった。
「ぬっ」
大館が自分の右目を押さえた。狙い通りだった。失明するような怪我ではないだろうが、油断した大館の角膜に正確に命中した。
「このガキッ」
大館が怒りを露わにした。天海の右膝を掴んでギプスごと粉砕した。天海はそれでも悲鳴をこらえ全力で笑顔を見せた。殺される前に一矢報いてやった。ざまあみろ。天海の顔面を大館の左手が掴む。メシャゴキと骨が砕けていく。
「あっ」
唐突に大館が手を離した。何が起こった。朦朧としながら天海の左目は大館を見る。
大館の顔が、ボコボコと盛り上がり波打っていた。皮膚の下で何匹もの大きな虫が蠢いているように。と、鼻周辺が十センチほども突き出した。引っ張られて眼裂がずれる。
大館が慌てて自分の鼻を手で押し込んだ。と、反動のように左のこめかみが突き出してきた。ピシリ、と限界まで伸ばされた皮膚に亀裂が走る。左頬まで広がった裂け目から、蠢動する赤い肉塊がはみ出してきた。
「痛え、畜生、痛え、皮膚が」
大館は両手で傷口を押さえて身を屈めた。彼はそのまま走り、窓を破って外へ飛び出した。四階の窓から。
地面にぶつかる音は小さく、すぐに足音が遠ざかっていった。
ガラスの割れる音にやっと看護婦が駆けつけた。悪いけどまた治療を頼む。天海はそんな冗談を言おうとしたが顎が動かなかった。そのまま天海の意識は途切れた。
四
皮膚は大切だ。
皮膚は人間の外見を作る。外見とは人間の本質そのものだ。
だから俺は人間だ。
人間でいるためには人間の皮膚に合わせて形を整えなければならない。皮袋内の隅々にまで体を伸ばし密着させ、人間の関節の動きに倣って体を動かす必要がある。長い間苦労して、それを習得した。
落ち着け。形を間違えるな。
大館千蔵はハンカチで顔の左側を押さえながら駅前のビジネスホテルに戻った。
「お客様、大丈夫ですか。お怪我を……」
フロント係が心配そうに声をかけるが、大館は右手を振って冷淡に返す。
「野球のボールが当たっただけだ」
エレベーターで上る間、大館は「痛え」と「畜生」と「落ち着け」を延々と繰り返した。畜生。大事な皮膚が。だが落ち着かないと。形を整えろ。痛みはどうか。自分は本当に痛みを感じているのか。勿論そうに決まっている。これは俺の皮膚なのだから。
大館は部屋に戻って大型トランクを開けた。衣類や予備の折り畳み式銛、ロープなどを掻き分け、裁縫セットを取り出す。
洗面台で深呼吸を一つして鏡を見る。左こめかみから頬まで二十センチ近い傷口は、幅も広がって肉が見えていた。というより、肉の盛り上がりが傷を広げている。顔からはみ出した部分の厚みは十センチを超え、ボールが当たって腫れたとは到底言い訳出来ない状態だ。露出した筋繊維の流れは一定でなく乱雑に絡み合っている。所々が収縮を繰り返し揺れていた。滲み出た血が顎を汚している。
二年かけて、やっとこの皮膚に馴染んできたのに。
大館は、肉塊を掌で押さえつけた。
「落ち着け。冷静に。冷静に。私は人間だ。人間だ。冷静に。人間だ。人間の形だ」
鏡に映った目を見つめ、大館は自分に言い聞かせた。
暫くして大館は手を離してみた。肉の盛り上がりはかなり軽減している。ボールが当たって腫れたといってもおかしくない程度になってきた。大館は傷口を引っ張り合わせてみて、閉じられることを確認してから縫い針を摘まんだ。通す糸は釣り用の細いナイロン糸だ。
大館は鏡を見ながら、傷口を縫い始めた。
「痛え。畜生。いや落ち着け。怒るな。冷静に。いつでも冷静に、だ。形を忘れるな。でも痛え。あの糞ガキ。怒るな。冷静に。私は人間だ」
大館は二十センチの傷に七十針かけた。皮膚は大切に、だ。縫ったばかりの傷をタオルで拭き、ガーゼを当ててテープで止めた。
これで良し。私は人間だ。人間の形を忘れるな。大館は蛇口に直接口をつけ、大量に水を飲んだ。彼の肉体に持続的な水分補給は欠かせない。
部屋に戻り備えつけのテレビを点ける。ニュース番組に合わせてから灰色のロングコートを脱ぐ。一部が裂けている。窓を破った時か。布地も釣り糸で縫う。コートの内側には四本の銛が吊られている。シャツの左袖をまくって確認する。先々週に自分で削ぎ落とした前腕の肉は厚みが戻っているが、引っ張って縫い合わせた長い傷はまだ癒合していない。
皮膚は治りが遅いのだ。だから大切にしないと。乗り換えてもまた馴染むまで長い期間がかかる。
ニュースではまだ病院での出来事は流れていなかった。
今日は少し無茶をした。もっと簡単に喋ると思ったのだが。人間のガキのくせに。
警察も流石に私を黙認出来なくなるかも知れないな。大館は考えている。マルキの追っ手が来るかも。ふん。奴らは半端なのだ。化け物は残さず始末するべきだ。
大館はコートを着た。トランクを提げて部屋を出る。彼は多少まともになった顔でフロントにチェックアウトを告げた。