第七章 自己嫌悪

 

  一

 

 携帯電話が鳴った。

 午後十時のニュースを見て予感していた藤村奈美はすぐに取り上げて相手を確認する。登録していない固定電話だった。迷わず通話ボタンを押す。

「夜遅くすまない」

 予想通りの相手だった。

「真鉤君」

「明日、僕は学校を休むことになると思う。すまないが、明日は一人で行ってくれないか」

 いつの間にか奈美は真鉤夭と一緒に登校するようになっていた。というより奈美の方が真鉤の家に寄って呼び鈴を鳴らすのだ。

「天海君のこと」

「……そうだ」

「私もテレビのニュースで、びっくりして。凄い重傷だって。まさか病院でなんて」

「僕が馬鹿だった。自分のことしか考えてなかった。こんなことを想定しておくべきだったんだ」

 真鉤の声に悔恨が滲んでいた。

「暴力団の仕返しじゃないの」

「それはない。刑事を名乗ったということだし、四階の窓から飛び降りて逃げている。多分、奴は天海君を拷問したのだと思う」

「拷問って……」

 今の時代にそういうことをする人がいるのか。不死身の殺人鬼や吸血鬼がいるのだからいても不思議はないか。

 天海は大怪我をしていたのに、更にどんなひどい拷問が加えられたのか。想像することさえ恐ろしい。あの天海が。

「奴は僕を追っている。前に一度話したと思うが、先月から嗅ぎ回っている男だ。島谷さんの死体を見つけたのは奴だし、先週コンビニの裏で五人殺したのも奴だ」

「え。あれは真鉤君じゃなかったの」

「僕だって、そんなにやたら殺し回っている訳じゃないよ」

 真鉤は苦笑しているようだった。

「ごめんなさい。えっと、それで、これからどうするの」

「……。ずっと逃げていても、被害者が増えるだけだ。そろそろ、対決すべき時だと思う」

 奈美は体育祭の夜の出来事を思い出した。あんな闘いが、また繰り広げられることになるのだろうか。

「大丈夫なの」

「やってみる。片がつくまで、僕の家には近づかないで欲しい。それから病院もだ。天海君の病院……君も通院しているけど、絶対近づいちゃ駄目だ」

「そうする。でも、来週の月曜日には行かなくちゃいけないんだけど。ギプスが取れるって」

「それまでには片はついていると思う。多分」

 片がつくというのは二通りの可能性がある。真鉤が敵を殺すか、敵に殺されるか。

 それを自然に理解している自分がいる。

「なんだか、二学期になってから、メチャクチャになってしまったみたい。沢山の人が死んだし、天海君も……」

 奈美はついそんなことを言ってしまった。

「僕のせいだ。僕がいなければ、ここは平和な町だった」

「あ、そんな意味で言ったんじゃなくて。ごめんなさい。じゃあ、真鉤君、気をつけてね」

 それ以上の慰めをかけることは出来なかった。実際に、真鉤に責任の一端があるのだから。

「じゃあ。お休み。また……」

 真鉤はその台詞を最後に電話を切った。

 また真鉤夭と会うことは出来るのだろうか。その夜、奈美はなかなか寝つけなかった。

 

 

  二

 

 午前六時。長い手術を終えた天海東司は観察室に移された。体中をガーゼと包帯で覆われ、何本もの管を繋がれ、手足を固定されて。心電図モニターは規則正しい波を表示している。

 天海の顔で唯一露出した左目は閉じており、眠っているようだった。

 観察室の前を数人の警官が守っていた。ベッドのそばから医師が去り、看護婦が場を離れた。

 天海が左目を開けた。まだ麻酔が残っているらしく眼光は鈍い。

 その目尻が僅かに、笑みのようなものを浮かべた。

 ベッドの下から小さな声が洩れた。

「……すまない。僕のせいだ」

「気に、すんな」

 天海の返事は更に小さかった。舌も顎もまともに動かず、呼吸音に似た微かな声。

「自分で、選んだ、道だ。でも、俺は、運がいい。まだ、生きてるし、キンタマも、ちゃんと、ついてる」

 右耳介離断、右眼球喪失、上顎骨・頬骨・下顎骨骨折、右上腕骨遠位端剥離骨折、右肘靭帯断裂、右手第一指から第五指までの基節骨粉砕骨折、左橈骨・尺骨複雑骨折、左中手骨から末節骨まで半数以上の骨折、右大腿骨遠位端・脛骨近位端・膝蓋骨粉砕骨折。それだけのダメージを受けて尚、天海の左目には、恨みも、怒りも、後悔もなかった。

「すまない。奴が僕を追っていることは分かっていたのに」

 真鉤の声は泣いているようでもあった。僕のことを奴に喋ったのか、とは聞かない。天海も言わない。答えは自明だった。

「奴は、大館とか、言ってたな。本名かどうか、知らねえ。匂いを、嗅ぐのが、得意な、奴さ。折れた歯を、吹いてやったら、エキサイト、しやがった。そしたら、よお、顔が、盛り上がって、顔の皮が、はち切れ、やがった。自分で、痛がりながら、逃げてった、ぜ。ふ、ふ。可笑しい、だろ」

「……。君は、凄い男だ」

 天海の目尻がまた笑みを作った。

「ふ。当たり前の、ことを、今更、言うなよ。気をつけろ。奴は、化け物だ」

「分かっている。僕もそうだ」

「ふふ。眠い、から、寝る。また、な」

「また、見舞いに来るよ。次は普通に」

 天海東司は目を閉じた。ベッドの下の声は聞こえなくなった。

 

 

  三

 

 自分がされたら嫌なことは、人にしてはいけない。真鉤夭が小学生だった頃、先生に繰り返しそう教えられた。

 ということは、自分が人に何かすれば、同じことをされても文句は言えないのだ。

 だから自分は殺されても仕方がないと、真鉤はずっと思っていた。

 真鉤にとって食事は栄養補給であり、料理に美味しさを求めない。何故なら、美味しい料理を作ってくれる母親は自分が殺したからだ。コーンポタージュの味を真鉤は覚えている。カレー粉が入っていたのに辛くなくて、ちょっと濃くて、牛乳の味もして、コーンが甘くて、柔らかい味なのに、真鉤の記憶の中では鮮烈な輝きを保っていた。

 もう二度と味わうことはない。

 真鉤夭は記憶の中の光景を眺めている。コーンポタージュのお椀がひっくり返っている。零れたスープが途中で赤い色彩に変わる。スープと混ざった血溜まりの原因は横たわる母だった。首筋の傷から断続的に血が噴き出して、血溜まりを広げていく。真鉤の素足に血が触れる。温かい。母はびっくりしたような、笑おうとしているような、不思議そうな、顔をして真鉤を見上げていた。どうしたの、夭ちゃん。母がそう言ったような気がした。

 ああああああ。

 ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ごめんなさい。真鉤は何万回繰り返したか分からぬ謝罪を新たに積み重ねていく。しかしそれが母に届くことはない。自分が既に殺したのだから。

 どうしてあんなことをしてしまったのだろう。どうしてあんな悪いことをしてしまったのだろう。僕はなんて悪い子なんだろう。どうして、どうして……。

 真鉤は自分を責めながら、罪の重さに震えながら、同時にあの恐るべき光景に快感を覚える自分に気づいている。真鉤は益々自分を責める。

 回想は別の場面に移る。薄暗い寝室。

 真鉤は振り下ろされる斧を見ている。夜中にふと気がつくと父親がベッドの横に立っていた。両手で握り締めた斧を一杯に振りかぶり、父は泣きそうな、鬼のような形相をしていた。「夭、すまん」父はそう言って斧を振り下ろした。避けることも出来たし父親の手を止めることも出来た。だが真鉤は動かずに斧を待っていた。自分は悪い人間なのだから殺されるのも仕方がないのだ。自分がされたら嫌なことは人にもしてはいけない。自分がやったことと同じことを自分がされても我慢しないといけない。斧は首の半ばほどまでめり込んで止まった。痛かった。息が苦しくなった。でもまだ死んでいない。父は斧を引き抜いた。止めを刺さねばならない。きちんと切り離さないといけない。真鉤はそれが分かっていたので首に力を入れないようにして第二撃を待った。衝撃で視界が揺れる。でもまだ首は繋がっている。痛みも息苦しさもひどくなった。でも首から下の感覚はなくなっていた。父は結局、五回目でやっと真鉤の首を切断した。全身を震わせながら、父は大きな溜め息をついた。その顔は真鉤には、ヒクヒクと笑っているようにも見えた。それは当然のことだ。真鉤は悪い人間なのだから。殺されるべき人間なのだ。死んだ後はきっと地獄に行くのだろう。だが真鉤の意識は途切れなかった。父は力を使い果たしたのだろう、後始末をせずに部屋を出ていった。いつまで待っても真鉤は地獄を見ることが出来なかった。痛みも苦しさも次第に和らいでいくが、薄闇の中で部屋の様子は鮮明に見えていた。やがて、首から下の感覚が戻ってきた。息苦しさがなくなってきた。自分は呼吸をしている。痛みはまだ残っていたが、真鉤は首を起こしてみた。きちんと動く。手を上げて首筋に触れてみる。皮膚が薄く、感触の違う場所がある。既に傷口は存在しなかった。仕方なく真鉤は起き上がった。父が投げ捨てた斧が床に落ちている。仕方なく真鉤は斧を拾った。生き延びてしまったからには、父を殺さなければならない。それも仕方のないことだ。父は僕を殺そうとしたのだから、父は僕に殺されても仕方がないのだ。

 だから真鉤は、居間で酒を飲んでいた父親に背後から忍び寄り、脳天に斧を叩きつけた。父とは違い、一撃で完璧に割ってのけた。父がどんな顔をしていたのか、真鉤は見ないようにして死体を引き摺っていった。父が死体処理のために買ってくれた、地下室の焼却炉へと。

 蓋を閉める前に、一瞬だけ父の顔が見えた。真っ二つに割れて血で汚れていたため、表情は見分けがつかなかった。

 ああああああああ。

 恐ろしい。

 この光景に、快感が伴っていることが最も恐ろしい。

 また別の光景が浮かんでくる。それは父に刺される場面であったり、小学時代の真鉤がいじめっ子の頭を握り潰す場面であったり、父が険しい顔で死体を毛布に包む場面であったり、反射的に殺した通行人の死体を前に真鉤が途方に暮れる場面であったりした。島谷紀子の恐怖に凍りついた顔もあった。真鉤へ向けられた藤村奈美の悲痛な眼差しも思い出す。結局真鉤は人を殺すことしか出来ないのだった。だから真鉤は楽しい思いをしてはいけないのだった。真鉤は自分の宿命以外のことで社会に迷惑をかけないように努めた。自分が社会にとって無害であるように、出来るならば少しは貢献出来るように。何故なら既に真鉤は社会に多大な被害を及ぼしているのだから。

 だけど、どうして、これらの嫌な場面が、楽しいのだろう。

 宿命は背負っていくしかない。でも、僕は、どうしようもない悪魔だ。

 悪魔であっても、藤村と天海だけは守りたかった。それが自分の存在する意味だと真鉤は決めた。大館という偽刑事を倒せるかどうかは真鉤にも分からない。だが真鉤が死ねば奴もこの町を去ることだろう。どちらに転んでも悪くはない。

 いや、大館は殺すべきだ。

 天海にあれだけのことをしてくれたのだ。奴も同じ目に遭わせなければならない。

 人を殺すような奴は、殺してもいいのだ。

 真鉤はそんなことを考えながら、獲物が来るのを待っていた。出来れば人気のない場所で、確実に仕留めたかった。

 

 

  四

 

 藤村奈美は授業など上の空で真鉤夭のことを考えていた。休み時間に携帯でネットを覗き、新しいニュースが出てないか確認する。時には授業中にも。何も出ていない。

 クラスメイトは天海東司の噂をしていた。意識不明の重体とかもう再起不能だとか勝手なことを言っている。朝のホームルームで先生は面会謝絶だと言っていた。朝刊では手足と顔面の骨折と右目の失明となっていた。どんなひどい拷問を受けたのだろうか。どんなひどい奴に。

 きっと、天海は耐え抜いたのだと奈美は思う。

 真鉤は無事なのだろうか。ニュースに出てないからといって何も起きていないとは限らない。闇から闇に葬られてしまう可能性もある。

 葬られる、なんて言葉は使うべきではない。真鉤君が生きていてくれますように。奈美は昨夜からずっと祈っている。

 奈美は日暮静秋のことを思い出す。彼は手伝ってはくれないのだろうか。二対一なら勝てる見込みも強くなるのでは。でもクールな人だから、自分のことは自分で片をつけろなどと言うかも知れない。

 学校が終わった。奈美は下校途中で真鉤の家に寄ってみようかと思ったが自制した。危険な状況に自分が下手に関わって悪化させるのが怖かった。家に帰り着いて真っ先に夕刊を読む。天海東司が手術を終え、命に別状はないという小さな記事があった。話の出来るようになるのを待って警察は事情を聞く方針という。真鉤については、それっぽい事件は今のところないようだ。テレビのニュースも見る。やはり真新しい情報はない。

 どうなったのだろう。奈美は焦り始めていた。終わったのなら連絡してくれても良さそうなのに。奈美が心配していることを真鉤も分かっている筈だ。なのに電話がないということは、もしかして……いや、あの不死身の真鉤夭がそんなことはないだろう。

 でも、相手も人間じゃないと、真鉤は以前言っていなかったか。

 宿題を広げて奈美は連絡を待つ。集中出来ずに全く進まない。電話は来ない。またニュースを見る。何もない。

 どうなったのだろう。ジリジリと追い立てられ、奈美は室内を意味もなく歩き回ってしまう。「どうしたの」と呆れて母が尋ねる。「何でもない」と奈美は答える。

 午後六時になった。まだ連絡はない。電話くらいしてくれてもいいのに。奈美は心配を通り越して怒りすら覚える。このままでは自分の神経が焼け焦げてしまいそうだ。奈美は真鉤の家に電話をしてみた。予想通り、出ない。留守番電話にもなっていないのでそのまま切る。

 携帯には電話しない方がいいかも。そう思いながらも、結局は電話してしまった。だが圏外というアナウンスが流れるだけだ。電源を切っているのかも。殺し合いの真っ最中に携帯が鳴っても困るだろうし。

 病院はどうなったのだろう。天海はもう襲われることはないのだろうか。真鉤は何処にいるのだろう。もしかすると天海を守るためにずっと病院に詰めているのだろうか。それともとっくに真鉤は殺されて、死体を埋められて……いや、そんなことを考えてはいけない。でも、無事なら電話くらいしてくれてもいいのでは。いや奈美が勝手に一人で焦っているだけなのか。

 どうにかして、真鉤の安否を知りたかった。近づくな、と真鉤は言った。でも、元々バスの事故の時に真鉤に助けてもらわなかったら、とっくに奈美は死んでいたのだ。

 奈美は決心した。あからさまに危険な真似はしない。面会謝絶と知ってはいるが、天海の見舞いにかこつけて病院を訪れることは出来るだろう。それくらいなら他の同級生もやっているだろうし、怪しまれることもないと思う。

 母には天海の見舞いに行くと告げて、奈美は制服のまま家を出た。

「なら帰ってきてから夕飯にするわね。もう暗くなるから気をつけてね」

 そう言って見送った母はもしかすると、奈美の焦りを天海を案じているためと解釈したかも知れない。確かに天海のことも心配ではあるけれど。

 奈美はバスに乗って病院へ向かった。あの坂道とはルートが違っている。この町も慌ただしくなった。奈美は窓から景色を眺めてそんなことを思う。

 病院のすぐ手前のバス停で奈美は降りた。午後六時五十分。もう夕焼けが闇に変わりつつある。もっと早く来るべきだったと奈美は少し後悔する。

 受付で天海への面会を説明すると、女性の事務員はやはり面会謝絶であることを告げた。

「天海さんのご友人ですか」

 事務員が尋ねた。待合に警官が一人立ってこちらを見ている。

「はい。高校の同級生です。すみませんでした」

 奈美は一礼して病院を出た。何のことはない。真鉤の姿も見当たらず、状況にも変化はない。受付にいたのはほんの二、三分で、ただこれだけのために来たようなものだ。

 馬鹿馬鹿しい。私は何をしているのだろう。奈美は自嘲した。

 帰ろう。奈美は通りの向かいにあるバス停を目指し、横断歩道を渡った。高層マンションの前を過ぎた時、後方で重いものが落ちる音がした。

 え、何。奈美が振り返ると目の前に大きな男が立っていた。身長は二メートル近く、分厚いロングコートを着ている。不健康そうな肌をして、左のこめかみから頬にかけてガーゼを当てていた。左手に五百ccのペットボトルを持っている。中身はミネラルウォーターか。

 音はもっと離れていた。一瞬でここまで移動したのか。上の階から飛び降りた音だったのか。まさか、マンションの屋上から……。混乱している奈美の前で、男が大きく口を開いた。ガーゼを留めていたテープが一部剥がれる。

 奈美を見据えたまま、リュオーン、リュフー、と、奇妙な音をさせて二度、深呼吸をした。何。この人は、何をしているの。奈美が絶句しているうちに男は口を閉じた。テープを押さえ、少し聞き取りにくい声で尋ねた。

「天海君への面会ですか」

 瞬間、奈美は理解した。この男は人間とは違う。冷血で、目的のためには手段を選ばない。他人の命など何とも思っていない。

 彼が、真鉤を追っている偽刑事だった。

 馬鹿なことをした。奈美は思い知った。真鉤の言う通り、病院に近づくべきではなかったのだ。この男は天海に近づく者を待ち伏せしていたのだ。

「ええ、そうですけど」

 奈美はなんとか答えた。膝が震え出さないようにこらえながら。ここは通行人もいるし車の往来もある。無茶なことはしないだろう。いや、この男はいざとなればそんなことは気にしない。

「私は警視庁の刑事で大館といいます。最近この町で起きている連続殺人事件について調べていましてね。天海君もそれに巻き込まれたのだと考えています。天海君の同級生ですか」

 男は淀みなく喋った。嫌な目で奈美を見つめている。眠たげで、冷酷な。

「え、ええ」

「どうです。犯人に心当たりはありませんか」

 冷静に答えなければ。冷静に。

「いえ、全くないです」

 奈美は答えた。成功しただろうか。二人の横を中年の男が通り過ぎる。助けを求め……いや、無理だ。

 偽刑事はまた口を大きく開けて不思議な深呼吸をした。一度だけ。

 口を戻して、偽刑事は言った。

「嘘だな」

 嘘って、何がですか。奈美はそう言おうとしたが、口が動かなかった。膝が小刻みに震え始めていた。もう止められない。

「詳しい話を聞かせてもらえませんか。別の場所で。一緒に来て下さい」

 嫌です。もう声が出ない。顎が震えて歯がカチカチと鳴っている。

 偽刑事が右手を伸ばし、奈美の左肩を掴んだ。真鉤君。真鉤君……。

 物凄い痛みだった。偽刑事はすぐに手を離した。ギプスが来週には取れるのに。でも、来週なんて、もう来ないかも知れない。

「分かっただろう。変な真似をすれば殺す」

 偽刑事は同じ声音で告げた。

「では、行こうか」

 偽刑事がペットボトルを持ち替え、奈美の右腕を掴んで引っ張った。その気になれば奈美の手など簡単に握り潰せるだろう。へたり込みそうになりながら、奈美は泳ぐみたいにして歩く。もう駄目だ。拷問されるだろう。天海君みたいに、手足を折られて。そして殺される。天海君みたいに喋らずにいられるだろうか。とても無理だ。怖い。でもどうせ喋っても殺される。真鉤君。何処にいるの。

 真鉤は現れなかった。大男と女子高生のコンビを通行人が一瞥しながらすれ違う。もう涙が滲んでくる。私が馬鹿だった。悔恨と恐怖の涙。

 偽刑事は時折ペットボトルの中身を飲みながら、どんどん人気のない場所へ奈美を引っ張っていく。じっくりと拷問が出来るような、暗い闇へ。

「ここだ。前から目をつけていた」

 偽刑事が言った。門の奥にコンクリートの平屋がある。建物の幅は三十メートルくらい。何の企業だったのかは分からないが、門柱の看板も取り外されて今は空のようだった。

 空になったペットボトルを放り捨て、偽刑事が錆びた鎖をあっけなく引きちぎって門を開けた。奈美を敷地内へ引っ張っていく。もう見ている者はいない。先に舌を噛めば楽になれるのだろうか。でもその勇気もない。でもいずれ、痛みに耐え切れずに噛むことになるだろう。

 真鉤君。

 正面玄関でなく横手に回り、偽刑事の手が鉄の扉に触れた。嫌な軋みを上げて扉が変形しながら開いた。奥は暗くてうっすらとしか見えない。

「入れ」

 偽刑事が奈美の背中を押した。奈美はよろめいて三歩進んだところでへたり込んだ。

 ボビュッ、と不気味な音がした。奈美は振り向いた。

 扉の外側に立つ偽刑事のシルエットに、新たな輪郭が加わっていた。首の辺りから細長いものが伸びている。雫が下へ落ちる。血だ。

 偽刑事の背後から鉈を突き刺し首を貫通させたのは、私服姿の真鉤夭だった。彼はいたのだ。彼は見ていてくれたのだ。

「逃げろ」

 鋭く告げながら真鉤が剣鉈を動かした。偽刑事の首が揺れた。揺れ過ぎる。首がちぎれた。ボドリと偽刑事の頭が転がり落ちる。

「逃げろ」

 もう一度真鉤は言った。

「え、でも」

 もう偽刑事は死んだのに。

 と、首のない男の両手が後ろへ伸びて真鉤の胴を掴んだ。人間には不可能な関節の動きだった。真鉤が剣鉈を振りかぶり首の断面から胸へ刺し通す。偽刑事が真鉤を持ち上げて入り口上の壁に叩きつけた。コンクリが砕けて破片が散る。真鉤の手が偽刑事の腕を掴む。絡み合った真鉤と偽刑事が建物内へ転がり込んだ。奈美は危うく潰されそうになる。

「この糞ガキャ」

 偽刑事の生首でなく胴体が唸った。通路の壁に一方がもう一方を押しつける。刃の煌き。暗いので良く見えない。

「早く逃げろ。出来るだけ遠くに」

 真鉤の声。そうだ。逃げなければならない。真鉤の足手纏いにならないように。奈美は外へ這い出した。なんとか膝を奮い立たせて歩き出す。建物の中からは重い破壊音が続いている。逃げなければ。

 だが、門を抜けて暗い道を歩くうちに、奈美の気持ちはまた変化していった。

 このまま家に帰る訳には行かない。すぐ近くで闘いを見守ることは出来ないが、少なくとも真鉤を待っていなければならない。怖かったが、それが、奈美の義務なのだ。

 誰もいない小さな公園があった。ブランコとベンチが一つだけ。奈美はベンチに腰を下ろした。強張った体を休ませ、息を整えて、奈美は真鉤が来るのを待った。

 彼ならばすぐに奈美を見つけることが出来るだろう。あの怪物に勝って生き残ったならば。

 奈美に出来るのはもう祈ることだけだ。

 でも、本当に、それだけしか出来ないのだろうか。

 風が強かった。夜空を雲が凄いスピードで流れていく。その隙間から月が覗いた。

 今夜は満月だった。

 

 

 壁を突き破った先に広い部屋があった。会議室に使っていたのだろうか、隅の方に畳んだ長いテーブルが幾つか残っていた。

 闇の中で一旦距離を取り、二つの怪物が対峙した。

「やってくれたな、大事な皮膚を」

 大館千蔵はいつの間にか自分の生首を小脇に抱えていた。声は生首からでなく胴から出ている。彼の発声器官は奥にあるらしい。断面に覗くのは筋肉ばかりで、骨や血管らしきものは見当たらなかった。出血も少ない。一つしかない穴は気管と食道の共用か。断面の肉が、モゾモゾと盛り上がり蠢いている。

「また縫合だ。治るまでどれだけかかると思ってやがる」

 言い終えてから生首を元の位置に載せた。手を離しても落ちないのはあっという間に繋がったらしい。肉の余計な盛り上がりのため首はかしげられ、一周する傷口はよじれていた。

「先の心配は要らない。お前は今日ここで死ぬ」

 真鉤夭が冷たく告げた。フリーサイズの長袖シャツとスラックス。いつもの私服と違うのは、彼の身長が十センチ以上伸びているためだ。特に腕が長い。新しい軍手を填め、右手に剣鉈を、左手に鎌を握り、切っ先を軽く前方へ向けている。物体を見るような目つきで大館を見据えたまま、真鉤は足の動きだけで新品の靴を脱いだ。指に合わせて先が五つに分かれた靴下。

「これまで散々逃げ回っていたくせに、自信満々だな」

 篭もった声は一応口から洩れた。真鉤が応じる。

「お前はやり過ぎた。お前が何者かなんてどうでもいい。お前の存在を許さない。それだけだ」

「その台詞、そっくりお前に返そう。これまで何人殺した。この殺人鬼が」

 真鉤は反論しなかった。

 大館はコートの内側から鉄パイプのようなものを取り出した。径五センチ、長さ六十センチ、全体が薄く錆びているのは使い込んできた証だ。溶接した鍔の手前、滑り止めのテープを巻いた握り部分に金属のスイッチがついている。大館の指がそれを押す。

 カチャリ、と棒の先端部から六本の逆棘が一斉に起き上がった。鋼鉄の棘は根元の幅が一センチほどで、緩やかに細くなった先端には更に小さな逆棘がついていた。こんなものが刺さったら抜きようがない。

 大館は自作の銛を床に置いた。コートから別の銛を出してまた開く。同じ動作を繰り返して合計四本の凶器を置いた。二本の腕でどうやって使うつもりなのか。

 いや。

 大館は自分の頭頂部に手を伸ばした。髪を掴んでゆっくり引く。顔が上にずれていく。

 マスクでも脱ぐように、大館は自分の首から上の皮膚を脱ぎ去ったのだ。投げ捨てるのではなく、大館は部屋の隅まで歩き丁寧に皮膚を置いた。

 真鉤へと振り返った顔は赤い肉の塊だった。瞼のない二つの眼球だけが名残りで、あちこちが勝手に盛り上がり輪郭がいびつになっている。

 肉塊が更に膨れた。常人の頭部の倍以上に。大館の両肩が少し下がっている。自然に垂らした両腕が細くなっていく。肉塊がどんどん大きくなる。コートの裾が床につく。

 繋ぎの服がずり落ちるように、大館は自分の全身の皮膚を脱いでいるのだった。コートを着てズボンも靴も履いたまま、中身を失った大館の皮膚はその場にくずおれた。

 脱いだ皮から一歩踏み出した大館千蔵は、幼稚園児が作ったような下手糞な肉像だった。束縛から解放された今、人間の輪郭を逸脱して不気味な変形を始めている。元々骨はなく、互いを起点とした筋肉の制御だけで形態の維持も動作も行っていたのだろう。この男に内臓は存在するのか。脳は何処にあるのか。

 表面は血液が滲んでぬらぬらと光っている。首筋のくびれが頭より太くなり、頭頂部から両肩までがなだらかな傾斜となった。頭部が少し胴にめり込んでもいるようだ。両脇から突起が盛り上がって新たな腕になっていく。元の腕もそれぞれの指が融合して太い三本の指となった。

「はじめよう」

 血走った二つの眼球で真鉤を見据え、その下の穴から声がした。ペタ、ペタ、と関節の明確でない両足が進み、四本の腕で四本の銛を掴んだ。

 真鉤夭は飽くまで冷静に異形の肉塊を観察している。その口元がふと悪意に緩んだ。

「同族嫌悪か」

 大館の動きが一瞬止まった。

 真鉤の笑みは次第に虚ろなものに変化していく。鋭い視線を投げていた瞳は薄く膜がかかったようになり、ここではない別の世界を覗いていた。それはきっと、甘美な殺戮の世界だ。

 大館が跳んだ。助走なしで一気に真鉤に体当たりする。真鉤も跳んだ。闇の中に金属の打ち合う響き。

 半ばから折れた鎌の刃が天井に突き立った。鋼鉄の銛が肉と共に床へ落ちる。

 両者の位置は交替していた。

 真鉤の背中に銛が一本刺さっていた。腹部から先端が顔を覗かせ、シャツの破れ目に血が滲んでくる。すれ違いざまに大館が投げつけたのだ。

 大館の左上の腕が切り落とされていた。真鉤の鉈の仕業だ。鋭利な断面から流れる血は僅かだ。

 まだ銛を握ったままの腕を、大館は屈んで拾い上げた。元の場所に押しつけるとほんの数秒で動くようになる。ダメージは全くないのか。

 真鉤は無言で折れた鎌を投げ捨て、左手を背中に回して刺さった銛を掴んだ。ビヂブヂブヂ、と平然と肉を裂いて銛を引き抜く。

「ありがたく使わせてもらう」

 左手でそれを構え、感情の篭もらぬ声で真鉤夭は言った。

 今度は真鉤が先に動いた。低い姿勢で駆け寄る真鉤を叩き潰すべく大館は三本の銛を振り下ろす。三本とも空を切り、一本は床にめり込んだ。真鉤が寸前で跳んでいた。天井を破りそうな勢いで上へ。真鉤の銛を大館の銛が弾く。大館の低い頭に真鉤の剣鉈が切り込まれた。二十センチほども進むがそこから動かない。筋肉が刃を万力のように挟みつけているのだ。鉈を握る腕を狙って大館の銛が動く。真鉤は一瞬鉈から手を離し、銛が過ぎた後すぐまた握るという凄いことをやってのけた。しかし抜けない鉈をどうするのか。

 綺麗に揃えた両足が大館の顔に激突した。渾身の蹴りで鉈が抜け、真鉤の体は大館から離れた。グヒュッ、と肉塊の口から呻きが洩れた。

「やったな」

 大館が言った。右の眼球を割って深々と金属片がめり込んでいた。さっきまで天井に刺さっていた、折れた鎌の先端部。素早い攻防の最中に真鉤は足の指でそれを引き抜き、蹴りに乗せて刺したのだ。

 大館は手で抜かず、顔の筋肉を使って刃を押し出した。刃に続き、割れた眼球が落ちた。ドロリとした硝子体をはみ出させ、視神経は先細りになっている。それは何処に繋がっていたのか。不死身の肉塊は眼球も再生させられるだろうか。

 真鉤夭は相変わらず虚ろな笑みを浮かべていた。唇の隙間から透明な涎が垂れる。右耳を裂き頭蓋骨を削る傷は銛の逆棘によるものだ。

 大館の輪郭が違ってきていた。足は短く、胴はずんぐり分厚くなり、四本の腕が太さを増している。刃物対策か、それとも人間の形を忘れつつあるのか。濡れた肉の表面は勝手に波打っている。

 再び両者が接近する。鋼鉄の凶器が打ち合わされ、鉈の刃が欠ける。銛と銛が逆棘で絡み合い、引き合う力比べは真鉤が諦めて手を離した。鋼鉄の銛が壁へ飛んでいく。銛の打撃で左肩を砕かれながら真鉤の剣鉈が大館の胴を貫いた。肉の怪物に内臓はあるのか。

「はは」

 大館が笑った。やはり鉈が抜けない。肉の壁が波打ち、高い音を立てて刃が折れた。跳びすさる真鉤の左足首を伸びた腕が掴んだ。仰向けに倒れながら真鉤が何かを投げる。予め用意しておいた釘二本。左目を狙った長さ五センチのそれを大館は肉の腕で受けた。

 真鉤が持ち上げられた。異常な筋力を速度に変え壁に叩きつけられる。壁が派手に凹む。骨の砕ける音は握られた足首から聞こえた。大館は離さなかった。今度は逆方向、床目掛けて叩きつける。真鉤は両手をついて支えようとする。瞬間、おかしなことが起こった。支えきれず床にぶつかると思われた真鉤の胴が擦れ擦れで前転し、勢いそのままに掴んだ腕を引っ張られて大館の体が浮いた。自分で自分を投げたようなものだ。向こう側の壁に激突して破り、肉塊の半分が隣室へはみ出した。銛の一本が落ちる。

 だが、大館はまだ真鉤の左足首を離さなかった。真鉤は落ちた銛を握り、太い肉の腕へ振り下ろす。三度目で硬い筋肉がちぎれ、真鉤は解放された。大館が壁の向こうから身を戻す。その時には真鉤は反対の壁に刺さる銛を引き抜いていた。これで二本と二本。凶器の数は互角になった。

 真鉤は右足だけに体重を預けて立っている。粉砕された左足首は治癒するまでどれだけかかるか。銛で砕かれた左肩は一応機能している。

 大館はちぎられた自分の肉に触れた。すぐに融合し一体化する。内臓も脳もないとすればどうやってこの怪物を殺せるのか。そして、小さな白い球体が顔に生えてきている。眼球が再生しようとしているのだ。

 殺人鬼と肉の怪物は至近距離でそれぞれの銛を振った。逆棘が折れる。ちぎれた肉片が飛ぶ。叩きつけられた銛を分厚い肉が弾く。真鉤の方がスピードがあるが左足のハンデがあり、打撃も刺突も相手に殆どダメージを与えられていない。大館は銛以外に余分な腕が真鉤を捕まえるべく追い、凶暴な一撃が真鉤の骨を砕く。頭部にまともに命中すれば脳が丸ごと吹っ飛ぶだろう。

 圧倒的不利な状況に真鉤夭は何を思うのか。彼は殺人鬼の虚ろな笑みを浮かべたまま、殺すべき敵を見据えながら恍惚と別の世界を覗いている。自分自身の死の瞬間にも、彼は快感を覚えるのだろうか。

 左足首が治った頃には右膝に打撃を受けていた。関節が破壊されブラブラ揺れるだけとなり、暫くは使えないだろう。首を振って銛の突きを躱すが逆棘に首筋を深く抉られる。破れた頚動脈から血が噴き出し、やがて止まる。大上段から振り下ろされた銛を弾き切れず、真鉤の左膝がカクンと落ちる。右脇腹を掴んだ大館の腕を銛で払う。肉が引きちぎられて破れた腹壁から腸が顔を出した。左右斜め上からの連撃を真鉤が転がって避ける。横殴りの銛にも大館の太い足は動じない。突き下ろした銛が真鉤の胸を貫き、力づくで引き抜くと破れた心臓がついてきた。真鉤が血を吐いた。

 だがその頃、大館にも異変が生じていた。ぬらぬらと血で濡れ光っていた肉の表面が、乾いてきているのだ。剥き出しの肉から滲み出し、蒸発した体液はどれほどになるだろうか。大館が皮膚を大切にしていたもう一つの理由がこれであり、常時水分を補充していたのもそのためだった。赤かった肉が所々、虚血により灰色がかっている。

 大館が灰色の腕を伸ばした。真鉤が逃れようとするがこちらも血流を失い動きが鈍い。肉塊が真鉤に馬乗りとなった。

「おわりだ」

 告げる声は掠れていた。真鉤の胸の穴に腕を突っ込み左右に広げる。肺が潰れ肋骨の折れる音。真鉤が銛で叩く。血色の悪かった腕がちぎれて落ちた。大館が別の腕で銛を叩き下ろす。真鉤の右上腕を潰すにはまだ充分な筋力を保っていた。もう一本の銛が真鉤の頭を狙っている。絶体絶命の場面で、真鉤はまだ笑っていた。

 突然、大館の胴がねじれて後方を振り返った。

「よう、頑張ってるな」

 シャツもズボンも靴も黒ずくめの男が気楽に言った。今訪れたばかりのその男は、ニッと不敵に笑って長い犬歯を見せた。

「きゅうけつきか」

 大館が言う。

 日暮静秋は、両手にそれぞれ二十リットルのポリタンクを提げていた。両脇にも同じものを挟んでおり、合計八十リットルの容器に入る液体は何であろうか。蓋をしていないが中身はゆったり揺れるだけで零れない。

「おや、偽刑事は何処だ。何やらみっともねえ肉ダルマの化け物はいるんだが、まさかあれが大館って奴じゃねえよなあ」

 わざとらしく日暮が言った。ギュビュー、という掠れた呼気は大館の怒りか。馬乗りに敷いていた真鉤から離れ、五、六メートル先の日暮へ飛びかかる。

 四個のポリタンクのそれぞれの口から透明な液体が飛び出して、意志を持つ生き物のように大館の全身にかかった。日暮は自分の血を混ぜていたのだろう。

「よっと」

 日暮がポリタンクを抱えたまま大館の体当たりを避けて横に跳んだ。右手の指を鳴らすと大館の体に火が点いた。一瞬で燃え広がり全身が炎に包まれる。暗い室内が赤く照らされた。黒い煤が昇り、肉の焦げる匂いが室内に満ちる。異様な悲鳴を上げた口にどんどん液体が雪崩れ込む。

「放火は苦手な方だが、ガソリンの助けがあれば別さ」

 燃え狂う怪物からある程度の距離を取って日暮が言った。右膝がまだ完治していないのか、左右の歩幅は僅かに違っている。右目も瞳の色素が薄かった。

「ごはばばっぼっ」

 肉塊から炎の塊となった大館が猛牛のように日暮へ突進する。日暮が軽く後ろへ跳び、代わりに立ち塞がったのは真鉤だった。左手で腰溜めに持った銛が燃える肉塊へ突き刺さる。大館の勢いは止まらず真鉤は押し倒された。大館は日暮を追いかけようとして足を滑らせる。

 大館の胴に刺した銛を、真鉤が握ったまま引き摺られているのだった。日暮が攻撃されないよう、自分が足枷となるつもりらしい。

「ばふっばっ」

 口から煤を吐きながら大館が真鉤を締め上げる。炎の腕が握っていた別の銛を真鉤が右手で奪い取る。ちぎれ落ちた大館の指は黒く焦げていた。

 真鉤は折れた右腕を振り翳し、二本目の銛を大館の胴に打ち込んだ。

「ばはっせっごほぐそぼけっ」

 大館が振りほどこうとするが、真鉤は二本の銛を決して離さない。燃える腕が真鉤を殴る。それでも真鉤は離さない。逆に足を絡めて大館の移動を封じる。シャツに火が燃え移るが真鉤は無表情に耐えている。

「心臓がまたお出かけのようだが大丈夫か」

 さほど心配するふうもなく日暮が問うた。ポリタンクから断続的にガソリンの球が大館に飛び、火の勢いを維持している。ガソリンはまだ三分の二以上残っていた。

「なんとか」

 短く答える真鉤は苦笑していた。別の世界を覗いていた瞳はこちらの世界に戻ってきている。彼の苦笑は血の快楽を逃したことを残念がっているようでもあった。その顔を炎の腕が殴る。焦げた肉の欠片が散る。

 壁際で日暮が目を細めている。瞳が赤く発光する。

「驚いた。こいつも心臓がないみたいだな。全身の筋肉で血を回してやがる」

「脳はあるか」

 バグン、と殴られて後頭部を床に打ちつけながら真鉤が尋ねる。床が陥没している。

「分からん。肺はあったが全部焼いたぜ。偽刑事、何かご意見は」

 大館の口から出るのは炎と煤だけだ。二本の腕が真鉤の首を絞め上げている。いや、首を引きちぎろうとしているのかも知れない。しかし真鉤は銛を離さない。大館が動くたびに炎の中からパラパラと死んだ肉が落ちていく。新たに覗く肉も灰色がかっていた。そこにまたガソリンの球が飛んできて追加される。大館の爛れた瞳も怒りに燃えている。

 三本目の腕が真鉤の首絞めに参加した。そして崩れかけた四本目の腕が。ゴギン、と頚椎の折れる音。真鉤の眼球が一瞬裏返る。それでも真鉤は二本の銛を離さなかった。

 だが銛が二本共スッポ抜けた。大館が筋肉を制御して押し出したのだ。太い足で駄目押しの蹴りを入れて真鉤を引き剥がし、大館が走った。壁を破って廊下へ。そして屋外へと気配が離れていく。状況不利と見て逃げるつもりなのか。真鉤が起き上がろうとするが足がついてこない。

「おや、変なもの踏んじまった」

 日暮がわざとらしく声を上げた。床の隅に落ちていた、服を着たままの人間一人分の皮膚。それを日暮のウォーキングシューズが踏みつけていた。

「汚え皮だな。ゴミはちゃんと燃やさないと」

 気配が猛スピードで戻ってきた。バギョンと壁を破って燃える肉塊が飛び込んでくる。それをやっと立ち上がった真鉤が体で受け止めた。両腕を大館の胴に回して離さない。突進速度が鈍り、余裕を持って日暮が避けた。ついでに大量の燃料がポリタンクから注がれる。一際大きく大館が燃え上がった。真鉤の体も燃えている。顔を焼かれながら真鉤は全力で大館に組みついている。日暮を追おうとして大館が転んだ。真鉤が潰される。真鉤が両足を大館の胴に絡める。真鉤への被害などお構いなしに、日暮が盛大にガソリンをかける。真鉤の体力を信頼しているのだろう。揺れる炎で天井が焦げる。空気を求めて大館の表面に別の口が開く。そこに容赦なく日暮がガソリンを注ぐ。怨嗟の声は軽い爆発に変わった。炭化した腕が一本落ちた。大館のもがきが次第に弱くなっていく。自身も焼かれながら、真鉤は決して手足を離さない。バキン、と、腕を含めた塊が転げ落ちた。大館の体積が小さくなっていく。

 肉の焼ける異臭に満ちた部屋で、やがて、大館は手足を失い僅かに蠢くだけとなった。日暮がポリタンクを置いた。中身は残り少なくなっている。転がっていた銛を四本拾い上げ、真鉤に差し出した。真鉤は漸くそこで肉塊を解放して立ち上がる。焼け爛れた顔は飽くまで無表情だ。

 受け取った銛を次々に振り下ろし、真鉤は大館の体を床に縫い止めた。日暮がポリタンクをひっくり返してガソリンを全てかけ終える。

 燃える肉塊を見つめながら日暮が言った。

「ガキの頃に読んだ外国の民話でな、悪魔が人間の皮を着て化けるってのがあったな。生きた人間から綺麗に引っ剥ぐらしい」

「こいつは悪魔なのか」

 真鉤が尋ねる。

「さあ、それは知らんな」

 日暮は肩を竦めた。

 かつて大館千蔵であったものは何も喋らない。殺人鬼と吸血鬼の会話がまだ聞こえていたならば、まだ喋ることが出来たならば、彼はこう言ったかも知れない。お前達も悪魔だ、と。だが燃える肉塊は、モゾリ、と一度うねっただけだ。

 真鉤と日暮は焼け崩れていく大館を冷たく見据えている。真鉤が日暮に尋ねる。

「どうしてここが分かった」

「携帯で呼び出された」

「僕は呼んでない」

「お前じゃない。お前の彼女だ。泣きつかれたから仕方なく飛んできた。女の涙ってのは最強だな。でもこれはお前への貸しにしとくからな」

 真鉤は治りかけた顔に微妙な表情を浮かべる。

「僕の彼女じゃない」

「嘘つけ」

 大館千蔵の全てが灰と燃えカスに変わるまで、二人はずっと見守っていた。

 

 

 肩掛けバッグの中でメロディが鳴った。藤村奈美は急いで携帯を取り出す。真鉤君かも知れない。いや、帰りが遅いので心配した母からかも知れない。いややっぱり真鉤君かも。こんな時にクラスメイトからだったら殺意を覚えるだろうなと思いながら、奈美は相手を確認する。

 真鉤夭、となっていた。

 通話ボタンを押して耳に近づけると、「終わったよ」と一言だけ聞こえた。疲れているが、優しい、真鉤の声だった。

 目が熱くなり、涙が急に溢れ出した。奈美は返事をしようと思うのだが声にならない。「お疲れ様」と言うのはおかしいし、「良かったね」も何か変だ。「大丈夫」とか「無事なの」がいいだろう。しかし喉がヒクつくばかりでやっぱり声は出なかった。

 ベンチに座る奈美の前に、人の気配があった。慌てて顔を上げる。

 携帯を片手に持った真鉤夭が、微笑を浮かべて奈美を見下ろしていた。大き目のシャツの袖をめくっている。他人の服を着ているのだろうか。

 その横に、どうだ俺をねぎらえとでも言うようにちょっと自慢げな日暮静秋がいた。

 奈美は立ち上がった。涙がまた溢れて真鉤の姿が見えなくなる。どうか彼が幻ではありませんように。奈美は祈る。

 喉はヒクッと鳴るだけで、やっぱり声は出なかった。

 

 

  五

 

 いつか会えなくなるあなたへ 藤村奈美

 

 こんな無情な世界だから

 今 全て伝えておきます

 あなたが今 目の前にいるうちに

 ありがとう

 あなたに会えて良かった

 愛していました

 愛しています

 これからもずっと

 いつか急に会えなくなっても

 確かに愛していたのだと

 ずっと愛しているのだと

 覚えていて欲しい

 それだけが 私の生きてきた証だから

 いつまでも このままでいたいけれど

 それが出来ないことも分かっているから

 今のうちに全て伝えておきます

 ありがとう

 私はあなたを愛していました

 愛しています

 この先どんなひどいことが起きても

 それだけは確かなことだから

 どうか覚えていて下さい

 それだけが私の願いです

 愛しています

 

 

「ううむ……」

 文芸部の部室で、手渡された原稿を睨み部長の岸田が唸っている。ひょろりと痩せた文学青年っぽい容姿にそんな仕草が似合っている。

 藤村奈美はドギマギしながら部長の評価を待っていた。しかし岸田はなかなか喋らない。

「あ、あの……やっぱり、駄目ですか」

 内容が短過ぎたかな。それとも稚拙過ぎたか。頭を悩ませ、何度も何度も書き直して仕上げたこの一編の詩だけが、締め切りギリギリまで頑張った奈美の成果だった。

「いや、駄目じゃないよ」

 岸田は目をパチクリさせて顔を上げ、慌てて言った。

「悪くない。というか、なかなかいいよ。切ない感情がストレートに出てるしね。グッと来るよ。僕も女の子にこんなこと言われたいよ。あっはっはっ」

 気の抜けた笑い声を上げた後、ふと真顔に戻って岸田は奈美を見た。

「ただね、本当に切ないんだよ。悲しくなる。高校生ならもっと将来に夢を膨らませているものじゃないかな。いや、色んな生き方があるし、色んな人生はあるよ。ただ、僕は、藤村君にはそんな人生を送って欲しくなかった。もっと明るい人生で、幸せになって欲しかったなあ」

「なって欲しかった、って過去形で言わないで下さい。それに、私は充分幸せですよ」

 奈美は苦笑する。岸田は頭を掻いてまた笑った。

「あっはっはっ、ごめんごめん。そうか、幸せならいいんだよ。よし、採用だ。文化祭用の機関紙に君の詩を入れよう。皆に見せびらかしてやろうじゃないか」

 それでも奈美は岸田の瞳に気遣いを認めた。いい人だと奈美は思う。

「そうだ、僕の小説はまだ読んでないだろう。今回は原稿用紙百七十枚の大作だよ。死人の数も残虐度も当社比五倍だ。人数分印刷しといたからどうぞ読んでくれたまえ」

 この人はちゃんと受験勉強をやっているのだろうか。部室に残っていた三年の部員が口を尖らせた。

「部長の小説、そのまま載せたら機関紙の厚さが三倍になっちまいますよ。三分の二が部長の小説ってのはちょっとねえ。スプラッターだし、読んだ人が文芸部を勘違いしそうで嫌だなあ……」

「なら君も対抗して三百枚の恋愛小説を書けばいいんだよ。締め切りは明日だが」

 岸田は澄ましたものだ。

 奈美は分厚い冊子を持て余しながら岸田に言った。

「あ、あの、じっくり読ませて頂きますね。ただ、申し訳ないんですけど、私、明日からちょっと入院するんで、文化祭のお手伝いが出来そうにないんです」

「あれ。ギプスは取れたのにかい」

 岸田がまた目をパチクリさせる。

「ええ、ちょっと別の問題で。二週間か三週間くらいですけど」

「そうだったのかい。大変だな。出席日数は大丈夫かい」

「余裕がありますから一応大丈夫です。それに、本当にちょっとしたことですから」

「了解。詳しくは聞かないよ。最終稿が出来たら見舞いがてら持っていくよ」

「すみません」

 奈美は部室を退出した。校舎を出ると裏門の前で真鉤夭が待っていた。

「帰ろう」

 真鉤は微笑した。優しくて、少し儚げな微笑だった。

「うん」

 奈美は頷いた。

 あれ以来、この町で新たな事件は起きていない。島谷紀子の事件も、白昼の通り魔事件も、コンビニの裏で五人殺された事件も、捜査に進展がないようで新聞に載ることが少なくなっていた。

 それでも、真鉤は定期的に誰かを殺し続けているのだろう。不死身の殺人鬼と奈美は並んで歩いている。

 そんな人生もあるのだろう。奈美はギプスの取れた左手を伸ばして真鉤の右手に繋いだ。真鉤の背は幾分伸びて、今は百七十センチくらいになっていた。

「詩は、部長のOKを貰えましたか」

 いつもの丁寧な口調で真鉤が尋ねる。

「うん。文化祭に冊子になって配られると思うから、真鉤君もその時、読んでみてくれるかな」

「読みますよ」

 真鉤は頷いた。彼にはまだ奈美の詩を読ませていない。自分の目の前で読まれるのは恥ずかしかったので、こんな頼み方になった。詩に書いたことを、奈美は実行出来ていないようだ。

 翌日の午前中に奈美は入院した。ちょっと白血球に異常があるから精密検査と念のための治療を、と内科の主治医は説明した。付き添いの母が帰った後で、奈美は慢性骨髄性白血病ですよねと主治医に言った。医師は戸惑い顔だった。お母さんに聞いたのかね。いいえ、私が知ってるってこと、母には言わないで下さい。それから、私は遺伝的に癌が出来やすいらしいです。定期的に全身の精密検査をやってもらえますか。奈美は冷静に喋ることが出来た。

 治療は骨髄移植や化学療法までは必要なくて、副作用の少ないタイプの新しい内服薬でひとまずはやっていくということだ。入院は二週間で、以降は通院治療を続けるのだと。個室でないのが少し不満だったが、奈美は四人部屋でゆっくり過ごした。勉強の本は持ってきたがやる気にならないので小説などを読んだ。同室の患者達とも少しずつ仲良くなったりした。

 母親は毎日、父親は三日に一度くらいのペースで病院に来てくれた。両親には奈美は明るい顔を見せるよう努めた。

 真鉤も毎日見舞いに来てくれた。気をつけているのだろう、両親とかち合うことはなかった。彼はいつも桃の缶詰を持ってきて、「見舞いにはこれだと聞いたから」と笑った。彼はその場で缶切りを使って開け、奈美が食べるのを穏やかな顔で眺めていた。そうして空の缶を持ち帰るのだ。証拠を残さないためだとは思うが、四人部屋で他の患者も見ているのだからあまり意味はないのにと奈美は思う。

 同じ病院に入院している天海東司も、一日に何度かやってきた。彼は松葉杖で歩行訓練を始めており、病棟を歩き続けているのだ。左腕は全体がギプスに包まれているし、右手も使えず前腕部に杖を固定していたし、包帯を巻いた顔の輪郭が歪んでいたが、彼は元気だった。顔の骨はまだ何度か再手術が必要で、右膝にもいずれ人工関節を入れるのだという。右耳の縫合した痕は目立たない。右目はガーゼで覆っていた。

 真鉤が来ている時に出くわすこともあって、三人で仲良くお喋りをしたりした。天海はまだ喋りにくい舌で、義眼にした方がいいか海賊の眼帯を当てる方がかっこいいかで悩んでいるのだと尤もらしく話すのだ。

「眼帯にしたら目ん中に小物を隠せるだろ」

 そう言って天海は笑った。あれだけひどい目に遭っていながら、彼は全く変わっていなかった。真鉤の肉体的強さとは違う彼の精神的強さを、奈美は尊敬する。天海の口に奈美はひよこ饅頭を入れてあげた。

 内服薬は体がだるくなる程度でそれほどひどいものではなかった。岸田部長が文化祭用の冊子を持ってきてくれたが奈美は真鉤には読ませず隠していた。入院している間に、文化祭は終わってしまった。その夕方に真鉤はやってきて、奈美の詩を読んだと告げた。

「どうだった」

 奈美はドキドキしながら尋ねた。

 真鉤は黙って仕切りのカーテンを動かして、奈美のベッド周囲を他の患者から隠した。

 真面目な顔で、真鉤は言った。

「僕の人生は君のためにある。そう決めた」

 そうして真鉤は奈美にキスをした。彼の唇は柔らかくて、温かかった。

 唇を離した後、すぐに真鉤はカーテンを戻し、他の患者達に軽く一礼して去っていった。顔を赤らめている奈美に、向かいのベッドの老婆が悪戯っぽくウインクした。

 入院は予定通り二週間で済んだ。まだ暫く入院の必要な天海にまた来ると告げ、奈美は母親に連れられて退院した。その日の夕食は豪華だった。

 週末の昼、トワイライトという名の小さな喫茶店に奈美と真鉤、日暮静秋と南城優子が集まった。かつて窓越しに真鉤と日暮の姿を見かけた、あの喫茶店だった。退院祝いということで、皆がケーキを奢ってくれた。天海が退院していたら、この輪に入れたかも知れない。

「まあ食べろ食べろ」

 日暮がニヤニヤしながら直径三十センチのケーキを切り分け、四分の一という巨大な量を奈美の皿に乗せた。真鉤も笑っていた。

「優子はダイエット中だよな。こんくらいにしとくか」

「いや待ってよ、今日は特別だから」

 十六分の一くらいに切ろうとしたのを、南城が日暮の手からナイフを奪い取り四分の一を確保した。結局皆、綺麗に四分割して食べた。奈美もなんとか全部食べた。ケーキが昼食になってしまった。

「ああ、それにしても、なんだか、俺は幸せだなあ」

 ふとそのことに気づいたように、日暮が詠嘆調になって言った。すぐさま南城優子が返す。

「私がいるからでしょ」

 タイミングを計ったように、二人が同時に大声で笑った。ハハ、とかフフ、ではなく、あーっはっはっという豪快な笑いだった。

 馬鹿馬鹿しいような可笑しいような気分になって、奈美も思わず笑ってしまった。真鉤も笑った。負けじと日暮も南城も声を大きくした。奈美も大声で笑った。真鉤も声を出して笑った。彼がこんなに可笑しそうに笑うのを奈美は初めて見た。

 なんだか楽しくて、涙が出そうになるほど楽しくて、でもこれが永遠に続く筈がないことも理解しながら、奈美は皆と一緒に笑い転げた。

 奈美は、一瞬一瞬を大切に生きることに決めた。

 

 

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