エピローグ

 

 倦怠感は症状なのか、薬の副作用なのか、藤村奈美には区別がつかない。何となく体がフワフワして足が地についていないような感じがする。自分が走ったり跳んだりする姿が想像出来ない。この数ヶ月で随分と変わってしまったものだと奈美は思う。それともこの感覚は不安から来るものなのだろうか。

 病状は進んでいないと主治医は言う。この間、日暮静秋にも診てもらった。特に変化ないと日暮は言ってくれた。彼は覚悟のある者に嘘をついたりはしないだろう。

 せめて高校を卒業するまでは生きていたい。出来れば大学にも行きたかった。でもどうせ死ぬのに何のために大学に行くのだろう。自分の将来がまるで見えてこない。だから奈美は今を大事にしようと思った。土曜の朝八時、真鉤夭に会おうと急に思いついたのもそういうことなのだろう。一緒に何処かへ行こうと思った。バスに乗ってでも構わない。

 化粧はあまり好きではないので、淡い色の口紅だけをつけた。鏡で見る自分の顔はなんだか青白く見えた。いかにも美人薄命という感じだ。鏡の中の奈美が苦笑するが、その笑みもやはり薄幸な感じがした。

 母には町に出かけると告げて奈美は出発した。空は晴れている。びっくりするほど冷たい風が奈美の頬を叩いていく。秋もあっという間に過ぎて、もう冬なのだった。

 そうだ、一緒に映画を観よう。ポップコーンを食べながら並んで映画を観よう。でも今どんな映画が何時から上映されているのか、奈美は知らなかった。

 真鉤夭の屋敷は近くだ。真鉤が奈美の家を訪れることは決してないけれど。彼は遠慮している。家族に自分のことが知られないように。社会に自分のことが知られないように。

 屋敷の煙突から、煙が昇っていた。

 奈美の頭に、焼却炉の中で膝を抱えた真鉤の姿が鮮明な映像となって甦った。背中に悪寒が走る。ゾクゾクとして、吸い込まれてしまいそうな感覚。

 まさか、自殺なんてことは。彼は私のために生きるといってくれた。だから死ぬなんてことはない筈だ。でも焦げた真鉤の映像は消えなかった。

 奈美は玄関のドアに触れた。鍵が掛かっている。合鍵を貰っていたので奈美は自分でドアを開けた。居間には真鉤の姿が見えない。奈美は地下へのドアを開けて階段を下りていく。

 地下室の電灯は点いていた。真鉤の姿は見えない。中央にある大きな焼却炉。覗き窓がないので内部の様子が分からない。

 真鉤の筈がない。

 奈美は祈るような気持ちで、取っ手を掴んで蓋を持ち上げた。

 中で人間の形をしたものが炎に包まれていた。服は燃えてしまい焦げた肉だけだ。膝を抱えてはおらず、上体を前屈させて体を二つに畳んだ姿勢だった。

 その首が、後ろにねじれ、側頭部が背中にくっついていた。

 真鉤ではなかった。

 奈美は理解した。殺されたのだ。これは真鉤ではない。真鉤に殺された、犠牲者だ。彼は死体を始末しようとしているのだ。焼却炉の本来の役目はそれだった。

 勘違いしていた。奈美は安堵したが、同時にどうしようもない悲しさと別の不安が膨らんでいった。息苦しさと悪寒と、心臓の速い鼓動を奈美は感じていた。

「藤村さん」

 階段から声がかかって奈美は振り向いた。

 普段着姿の真鉤夭がそこに立って奈美を見ていた。彼は無表情だった。いや、瞳の翳りは驚きと気まずさと、自己嫌悪を含んでいた。

「ご、ごめんなさい。煙が昇ってて、私、真鉤君かと、思って」

 先に電話しておくべきだった。絶対に、そうするべきだった。私は、何を浮かれていたのだろう。

 真鉤はその場から動かなかった。彼自身が、奈美に近づくことを、怖れているかのように。

「すまない。これが僕だ」

 重い声で真鉤は言った。

「分かってる。分かってる、けど」

 分かっている。彼は私のために生きると言ってくれた。真鉤夭は奈美のためのナイトだった。奈美は真鉤が好きだった。生きている間は彼と一緒に過ごしたいと思っていた。それは本当の気持ちだ。でも……。

 言わないつもりだった。でも口が自動機械のように動いて、勝手に言葉を絞り出した。

「いつか、私も、殺すの」

 真鉤は、背後からいきなり心臓を刺されたみたいな顔をした。実際に刺されても、彼は顔色一つ変えないだろうけれど。

「そんなことは、しないよ」

 真鉤は首を振った。

「ごめんなさい。分かってる。分かってるけど……」

 奈美は同じ言葉を繰り返した。ただただ涙が溢れてきて、奈美は声を出さずに泣いた。

 

 

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