第一話 ニコニコピザ

 

  プロローグ

 

 冷たい風の吹き抜ける細い道を男は歩いている。空は隙間なく黒雲に覆われて太陽が見えない。切れかけた蛍光灯が、薄暗い裏通りを揺らす。

 男は四十代の後半に見えた。クリーム色のコートの下には高級な背広が覗く。重職に就く者の貫禄を備えたその顔は今、強い不安と焦燥を湛え、険しいものになっていた。黒い傘をステッキのように握る男の右手は緊張のためか、かなりの力が込められている。

 静まり返った通りに、男が傘の先を地面に突くカツンカツンという冷たい音だけが響いていた。

 初めて訪れた場所らしく、男は周囲を見回しながら慎重に進んでいた。通りの両側に並ぶ建物は、塗料が褪せたり壁に亀裂が入ったりした古いものが多かった。中には完全に倒壊し、ただの瓦礫の堆積と化している場所もある。

 と、静寂を破り、前方から甲高い悲鳴が聞こえてきた。若い女性の断末魔に近い響きだった。男は表情を凍り付かせ二、三歩後じさりした。

 暫くの間、男は立ち竦んだまま耳を澄ましていたが、悲鳴はもう聞こえず冷たい静寂が暗い裏通りに戻っていた。

 男は再び、前へと歩き出した。

 道端に、大きな黒い塊が転がっていた。男は立ち止まって目を細め、その塊を見下ろした。

 それは、焼け焦げた肉だった。人間の胴体のように見える太い肉塊から、人間の手足のように見えるねじ曲がった細長い突起が伸び、人間の頭のように見える丸い物体も付いていた。

 実際のところ、それは、人間の焼死体であった。焼け残った布の切れ端が黒い肉にへばり付いている。

 何日も放置されていたのだろう、死体の顔や腹の部分は、鼠が囓ったような痕が残っていた。

 男は慌てて死体から目を逸らし、吐き気を堪えるように、深呼吸を何度か繰り返した。

 冷静さを取り戻すと、男はまた、歩き始めた。

 やがて、四階建てのビルディングが男の前に見えた。黒い煤が壁に染み付いてはいるが、周囲の建物に比べると幾分ましな部類に入るだろう。

 その最上階に、地味な看板が掛かっていた。素人が書き殴ったような字で『黒贄探偵事務所』となっていた。

 男は目的地を発見した安堵のためか、小さな溜息をついた。だがすぐに口元を引き締める。

 蝶番の壊れかけた扉を押し開け、男はビルディングの中に入った。

 一階は誰も入っていないらしく、がらんどうになっていた。フロアにはがらくたや木屑が転がっている。男はすぐ横手にある階段へと進んだ。

 二階も一階とほぼ同じだった。床に残る赤い染みが、男の目を惹いた。だが男は黙って階段を上った。

 三階も同じだったが、男は噎せ返るような臭気に眉をひそめた。濃厚な血の臭いと、何かが腐ったような饐えた臭いは、どうやら更に上の階から漂っているらしい。床の赤い染みも増えている。

 男はそれでも、階段を上り、目的の場所に辿り着いた。

 四階には、まず手前に狭いフロアがあり、正面に古ぼけた木製のドアがあった。ドアには『黒贄礼太郎探偵事務所』という表札が付いていた。これは専門の職人に頼んだらしく、彫り込み式の整ったものだ。

 表札の下に、貼り紙がしてあった。

 埃っぽい床を進み、男はドアの前に立った。貼り紙の文章を覗き込む。

 貼り紙には下手糞な字で『受付時間は午前十時から午後六時までです。それ以外の時間帯には探偵として応対出来ない場合があります。』と書かれていた。

 男が自分の腕時計を見下ろすと、アナログの針は午前十時五分を示していた。

 血の臭いと腐臭は強くなっていた。男は緊張のためか恐怖のためか顔をしかめ、それでもドアをノックした。

「はーい、ちょ、ちょっと待って下さい」

 慌てたような声が返ってきた。意外に若い声だった。

 ドアの向こうで、何かを急いで片付けているような音がした。

 男が黙って待っていると、一分弱で再び声が届いた。

「どうぞー」

 男はノブを捻り、ゆっくりと引き開けた。錆びた蝶番が嫌な軋みを上げる。

「失礼します」

 男は事務所に足を踏み入れた。

 フロアを幾つかに分割して使っているらしいその部屋は正面に安物の机が据えられ、その手前にはゴミ捨て場から拾ってきたようなカバーの破れたソファーが置かれていた。

「いらっしゃいませ。まあどうぞどうぞ、おかけ下さい」

 探偵が机の向こう側に座り、丁寧な口調で男にソファーを勧めた。探偵はよれよれの黒い礼服に身を包んでいる。

 明かりを点けていない部屋は、外の通りよりも暗く感じられ、空気は黒く淀んでいた。あの匂いが、これまでにない程に強くなっている。即ちこの場所が、匂いの発生源であるらしかった。ソファーに腰を下ろした男の表情に気づき、探偵が言った。

「ああっと、いかんいかん、匂いがきつかったようですな。窓を開けましょう」

 探偵が立ち上がって背後の窓を開けた。冷たい風が吹き込んでくるが、部屋に染み付いた臭気を消すことは出来なかった。

 男はふと、床を見下ろした。机の下から赤い血溜まりが広がって、男の足下まで延びていた。

 男は、少し屈んで、奥を覗き込んでみた。

 机の陰から僅かながら、若い女性の手らしきものが見えた。空を掴むような形で凝固した、血みどろの手。

 そういえば、先程の悲鳴は、この近辺から届いたようだった。

 探偵がこちらへ向き直ったため、男は慌てて姿勢を正した。

「さて、ご用件は」

 探偵が、にこやかに尋ねた。

 

 

  一

 

 午後の講義も終わり、学生達が大学からゾロゾロと溢れ出してくる。仲間同士で他愛もないお喋りに興じながら。

「明日の法律学は休講だってさ。教授が通り魔に刺されて死んだって」

「やったね。じゃあ明日は雀荘行こうぜ」

 他愛もないお喋りとは、こんな具合だ。

 昼頃まで晴れていた空は雲が流れ寄り、どんよりと厚みを増していた。

「明日は雨が降るかも知れないね」

 空を見上げ、横を歩く同性の友人に言ったのは白のツーピースを着た女学生だった。化粧は薄く、健康的な印象の美人だ。つぶらでクルクルと良く動く目が特徴的だった。

「そうね。なんか台風が来てるらしいわよ。土砂降りになるんじゃないかな。嫌だなあ、明日の経済Bは代返効かないもの」

 ジーパンにTシャツの友人はそう言って口を尖らせた。

 遠くで消防車のサイレンが聞こえていた。ビル街の隙間から黒煙が上がっているが、皆慣れっこになっているらしく目を向ける者などいない。

「やあ」

 正門の辺りで、白い服の彼女に声をかけてくる若い男がいた。

「あれ、城崎君、待っててくれたんだ」

 彼女は明るい笑顔を見せた。

「だって今日は一緒に食べに行く約束だったろ。恵美が忘れてないかと心配してたんだ」

 城崎は浅黒い肌の、スポーツマンタイプの色男だった。シャツの上からでも大胸筋の隆起がはっきりと見て取れる。遊び慣れした印象もあるが、彼女を見つめる瞳には真摯な光があった。

「あ、忘れてた」

 恵美と呼ばれた白い服の彼女は悪戯っぽく舌を出した。城崎が苦笑する。

「じゃあ、智子、ごめんね。また明日」

 恵美はジーパンの友人を振り向いた。

「まあ、頑張って来なさいよ」

 智子がからかうような口調で言うと、二人は照れ臭そうに笑った。

 街へ向かって歩き去っていく恋人達を、智子は何処となく寂しげな顔で見守っていた。

 そんな智子の視界に、道端に停車している大型のバンが映った。ボディの色はワインレッドで、窓には黒いフィルムが貼られていて中が見通せない。エンジンをかけ放しにしているらしく、マフラーの先端から白い煙が洩れている。

 恵美達がバンの傍らを通り過ぎる時、いきなり側面のドアが開いてぞろぞろと四、五人の男達が飛び出した。いずれも精悍な顔立ちで、暴力的な匂いを発散させていた。

「榊恵美だな」

 思わず立ち竦んだ二人を男達が素早く取り囲む。

「何だお前らは」

 城崎が怯まず、強い口調で返した。男達の一人を両手で突き放そうとする。

 派手な銃声が、大学通りの賑わいを打ち破った。

 城崎の、首から上が、消失していた。

 爆発したような断面から血が噴き出した。城崎の胴体がクニャリと地面に崩れ落ちる。

 銃身を切り詰めたポンプアクション式ショットガンを握るのは、真紅のスーツを着こなした男だった。ひょろりと痩せたその男は髪を短く刈り込み、口元には皮肉な笑みをへばり付かせていた。

 恵美は、自分の置かれた状況が信じられないのか、目を見開いたまま凍り付いていた。城崎の体から流れ出た血がアスファルトの地面を赤く染めていく。のんびり歩いていた学生達が逃げ走る。

「乗せろ」

 赤いスーツの男が命じると、男達は恵美の体をバンの中へと押しやって次々と自分達も乗り込んだ。

 ショットガンの銃口から立ち昇る白煙を、赤いスーツの男はじっと眺めていた。その細い瞳には悦楽の色があった。

「木島さんも早く乗って下さい」

「一発じゃあ撃ち足らんな」

 部下の声を無視して男は楽しげに呟くと、ガチャリと次弾を薬室に送り込み、逃げ惑う学生達に向けて発砲した。その動作には些かの躊躇もなかった。散弾を足や背中に浴びて何人かの学生が倒れた。続けてもう一度、更にもう一度、男は鳥や獣でも撃つように人を撃っていった。

「ハハッハッ」

 犠牲者達の苦しみもがく様子を観察し、男はさも可笑しげに笑った。

 それからショットガンをスーツの内側に収め、バンに乗り込んだ。バンはすぐに発進し、猛スピードで赤信号の交差点も突っ切った。慌てて避けた軽自動車が大学の塀に激突する。

 恵美を攫って走り去る大型のバンを、友人の智子は呆然と見守っていた。

 大学通りには、地面に倒れ呻き声を洩らす数人の学生と、首のない城崎の死体だけが残された。

 

 

  二

 

 殺風景な部屋の正面に、向かいからは足元が見えないような覆いの付いた木製の机が置かれ、その後ろには窓がある。椅子に座ってすぐ振り向けば窓の外の風景が見えるだろう。ただし、大して良い眺めではない。

 机の手前には客用のソファーがある。緑色のカバーが破れ、所々薄いクッションが露出していた。三人以上の客が訪れた場合に備え、部屋の隅には折り畳み式の椅子が立てかけられていた。しかし、それはうっすらと埃を被っている。

 部屋の左右にそれぞれ隣室へのドアがある。右のドアは開いており、隙間から冷蔵庫とベッド、小さな流し台が見える。どうやら探偵は事務所で寝泊まりしているらしい。

 左のドアには、ノブに内蔵された鍵とは別に大きな南京錠が掛かっていた。ドア周辺の壁と床に赤い染みが付いている。それはまるで血痕のように見えた。

 部屋の壁には、何十もの仮面やマスクの類が飾られていた。縁日で売っているような安っぽい特撮ヒーローのお面から、昔ながらのひょっとこの面、仮面舞踏会で用いるような目の辺りだけを隠す種類のものに、動物の着ぐるみの頭の部分、などなど。中には白いホッケーマスクもあった。まだ新しいものもあるが、時を経て変色しかけたものもある。それらの多くには赤い染みが付着していた。

 机の向こう側から依頼人を見つめる探偵は、アイロンがけを怠ったまま着潰したような黒の礼服姿だった。ネクタイはしていない。そのワイシャツの胸元に、赤い小さな染みが幾つか見えている。まだ新しい染みのようだった。

 筋骨隆々という訳ではないが、意外にがっしりした体格をしていた。立ち上がった時の身長は百九十を幾らか超えるであろう。

 探偵は彫りの深い整った顔立ちをしていた。西洋人と勘違いされそうだが、その瞳も髪も漆黒だ。肩の辺りまで伸びた髪は自分で切っているのか、やや左右がアンバランスだった。年齢は二十代の後半から三十代の前半であろうか。肌は異様に白く、蝋人形を思わせる。その切れ長の目は眠たげな色を湛え、薄い唇は常に何かを面白がっているような微笑を浮かべていた。

「くろにえ……さん、と、仰るんですか」

 四十代後半の依頼人はコートと傘を脇に置いて、まず探偵に尋ねた。その声は微かに震えていた。

「いいえ、くらに、です。良く間違えられるんですよ」

 探偵事務所の所長であり唯一の所員である黒贄礼太郎は穏やかな口調で答えた。時にその声は、やや投げ遣りで気怠いものに変わる。

「珍しい名字ですね」

「ええ、そうなんですよ。名付けた私も驚いてます」

 黒贄の言葉に、依頼人の目が大きく見開かれた。

「……。名字を、自分で考えられたのですか」

「え、皆さんは違うんですか」

 ちょっとびっくりしたように、黒贄が聞き返す。

 事務所に、重苦しい沈黙が落ちた。

 十秒程してから、改めて黒贄が尋ねた。

「それで、ご用件は何でしょう」

「そ、そうですね。そのために私は来たんですから。私は榊栄三と申しまして、この八津崎市の市議をやっております」

「ははあ、市議さんですか。なるほど……」

 黒贄が自分の顎を撫でる。

「もしかして、私のことをご存知でしたか」

「いえ、全く知りませんな」

 黒贄は平然と答えた。

「いやあ、それにしても、ここって八津崎市というんですか。まるで、後から苦し紛れにつけたような名前ですね。いえ、誰のこととは言いませんが」

 戸惑い顔の榊の前で、黒贄は意味不明の言葉を口にした。

「さてそれで、市議さんが、どういうご依頼に来られたんでしょうな」

 促され、依頼人・榊は気を取り直して話し始めた。

「実は、暴力団に誘拐された、私の娘を救い出して欲しいのです」

 榊の顔が、重い役割を背負う者の厳粛なそれから、娘の身を案じるただの父親のそれに変わった。

「娘が攫われたのは昨日の午後五時過ぎ、大学からの帰りでした。数人の男達によってバンに押し込まれるところを、娘の友人が見ています。私の所にその彼女から電話があってすぐ、犯人からも連絡が入りました。娘の命と引き換えに、二十四時間以内に一億円を用意しろとのことでした」

「警察には相談されましたか」

「いいえ」

 榊の顔に暗い影が差す。

「警察へ通報しないようにと念を押されました。私は彼らの手口を知っています。警察内部に内通者がいるんです。一年半前、私の知人が同じように、娘を彼らに誘拐されました。警察に通報したところ、その二時間後には宅配便で小包が届きました。中に何が入っていたと思いますか」

「さあ。何でしょう」

「娘さんの生首だったそうです」

 榊の声は震えていた。

「ほほう」

 黒贄は軽く眉を上げたが、それは幾分嬉しそうにも見えた。

「それで、あなたは最初に、暴力団、と仰いましたが、犯人の正体を知っておられるのですかな」

「ええ。彼ら自身が電話口で名乗りました。如月会です」

「ほほう、如月会ですか」

「如月会のことはご存知でしたか」

「いえ全然」

 微笑を崩さず答える黒贄に、もう榊は構わなかった。

「如月会は、五年程前から急速に勢力を拡大してきた組織です。組員は四十名前後と聞きます。八津崎市内にひしめき合う暴力団の中でもかなりの武闘派で、逆らう者には容赦しません。しばしば見せしめのため惨殺死体をビルの屋上から吊るしていますし、三百人近い死傷者を出した四葉デパートの爆破事件は、経営者が規定の上納金を払い渋ったためと言われています。如月会は自分達のやってきたことを平気で公言し、住民は皆恐れています。また、若い組員達の詰めている事務所は分かっているのですが、組長のいる本拠地は知られていませんし、その名も不明です」

「良く調べておられますね」

 黒贄が言うと、榊は自嘲的な笑みを浮かべてみせた。

「市議会で、如月会の追い出しを強く主張したのが私だったのです。娘が誘拐されたのは、そのことが彼らの気に触ったからなのでしょう。そして、一億円を渡しても、娘が無事に帰ってくる保証は全くないのです」

「ふうむ」

 黒贄は顎を撫でた。面白がっているような口元の笑みが深くなっている。

「まあ、攫われた娘さんが無事にお戻りになれば宜しい訳ですな」

「引き受けて頂けますか」

 その目に必死の願いを湛え、榊が前へにじり寄った。靴の先が血溜まりに触れた。

「分かりました。やってみましょう」

 黒贄の返事に、榊は深々と頭を下げた。足元の血溜まりがその視界に入る。

「おそらく娘は事務所の方でなく、本拠地の方に監禁されているのではないでしょうか。かなり酷い目に遭わされているかも知れませんが、せめて命だけでも……」

「まあ、今日の内に片が付くでしょうね。まずは、如月会の事務所が何処にあるのか教えてもらえますかな。それと、娘さんの顔写真か何かあれば」

「持ってきています」

 榊がポケットから一枚の写真を取り出した。二十才前後の健康的な色気を発散する美人だった。

「娘の名前は恵美といいます」

「ふうむ」

 写真を見つめる黒贄の目が、次第に不思議な色合いを帯びていった。迂闊に覗き込めばそのまま吸い込まれてしまいそうな、恐ろしく深い闇。

「いや、いかんいかん。これは仕事だから」

 黒贄は自分に言い聞かせるように首を振った。整髪料を使っていない髪が揺れる。

「報酬は、そうですね、十万円くらいにしときましょうか、榊さん。それだけあればもう暫く生活出来そうだし」

「はい、それでよろしいのでしたら」

 榊はもう一度頭を下げる。

「あの……ところで、黒贄さん、さっきから一つ、気になることがあるのですが……」

 言いにくそうに、榊は自分の足元の血溜まりを見下ろした。黒贄が榊の視線に気づき、机越しに上体を乗り出してそれを見た。

「あれれ」

 黒贄は大して困ってもいない口調で言った。

「いやあ、心配はご無用です。ちょっとお待ちを」

 黒贄が机の下に腕を差し入れた。

 ゴキゴキ、と、音がした。

「えーっとねえ」

 ブチブチ、と、音がした。

 黒贄が素手で掴み出したのは若い女の生首だった。血塗れの顔は凄まじい苦痛と恐怖に歪んだまま凍り付き、首筋は力づくで無理に引きちぎられた無惨な断面を晒していた。

「ほらね、あなたの娘さんではないでしょう。安心安心」

 黒贄は血の滴る生首を脇へ放り投げた。それは壁をバウンドして赤い染みを残し、隅に置かれた屑篭にすっぽりと収まった。

 絶句する榊に、黒贄は机の上の箱を指し示した。

「まあ、この中から選んでみて下さい。そうですね、今回は二枚でいいですかねえ」

 箱の上面には、丁度手が入るくらいの丸い穴が開いていた。榊が上から覗いてみると、折り畳んだ小さな紙片が何十枚も入っている。

「あっと、見ないで選んで下さいよ」

 黒贄は何処となく楽しげに見えた。榊は黒贄の言葉に従って、おずおずと箱の中に手を差し入れ、二枚を選び出した。

「ふむふむ、十九番と……七十二番ですな。ちょっとお待ちを」

 黒贄は受け取った紙片を開いて読み上げると左のドアへ向かった。彼は素足に直接スニーカーを履いていた。ポケットから鍵束を出して二つの鍵を開ける。

 ドアを軋ませながら、黒贄はその部屋に一人で入っていった。

 榊は目を剥いた。ドアの隙間から少しだけ、奥の様子が見えたのだ。

 左の部屋には、棚に壁にびっしりと様々な凶器が飾られていた。目に入っただけで日本刀や鉈や斧や電気ドリルや槍の穂先などがあった。

「ありましたよー」

 機嫌良く黒贄が戻ってきた。両手にそれぞれ凶器を持って。

 右手に握られているものは、大型の植木鋏だった。柄の部分に十九と書かれた紙がテープで貼られていた。

 左手に握られているものは、木の伐採などに用いるチェーンソーだった。こちらには七十二と書かれた紙が貼られていた。

 二つの道具はどちらも良く手入れされており、刃は黒光りしていた。この薄汚れた事務所の主の物だとは信じられない程だ。

「いやあ、なかなか良い品を選ばれましたね」

 榊の前で黒贄がとろけそうな笑顔を見せた。

「あっとそれとですね、非常に申し訳ないんですが」

「な、何でしょう」

 榊は慌てて立ち上がろうとするが、腰が抜けているらしく動けない。或いは逃げるつもりだったのかも知れない。

 黒贄がチェーンソーに目を向けて言った。

「これに使うガソリン代は、報酬とは別代金にして頂きたいのですが、宜しいでしょうかねえ」

 

 

  三

 

 四十分後、黒贄礼太郎は特大のスポーツバッグを抱え、向かい側のビルを観察していた。まだ新築らしい二階建て。入り口の大きな看板には『如月総合開拓事業』とある。

 ビルの屋上から二本の太いロープが下がっていた。先はそれぞれ、逆さに吊られた死体の足に結び付けられていた。地面に触れるか触れないかというところで、二つの死体がゆらゆらと揺れている。

 片方の死体は、胸の辺りに大きな風穴が開いていた。至近距離からショットガンで撃たれるとこんなふうになるかも知れない。

 もう片方の死体は、眼球を抉り出され、耳鼻を削ぎ落とされ、両腕を切断されていた。

 まだあまり日数が経過していないらしく、それらの下の地面には血溜まりが残っていた。度重なる逆さ吊りディスプレイによるものか、ビル前の歩道のその部分だけが濃い赤色に染まっていた。

「ふうむ。なかなか洒落てますな」

 感心したように、黒贄は呟いた。

「さて、どうしますかねえ」

 黒贄は地面に屈み、薄汚れたスポーツバッグを下ろしてジッパーを引き開けた。

 研ぎ澄まされた植木鋏の刃先が顔を出し、それを見つめる黒贄の瞳が喜悦の色を帯びていく。

 と、ギュルルルルル、と、黒贄の腹の虫が鳴った。

 黒贄は情けない顔になって周囲を見回した。

 丁度黒贄の後ろに、ニコニコピザというピザ屋のチェーン店があった。

 黒贄はポケットに手を入れ、擦り切れた財布を取り出した。紙幣は一枚も入っていない。

 小銭を数えると、二百三十一円しかなかった。

「前払いにしてもらえば良かったですな」

 黒贄は呟いて財布を戻した。

 ピザ屋の入り口には等身大の人形が立っていた。赤いレオタードを着たそのキャラクターはニコニコピザのマスコットで、ニコニコ君と呼ばれている。

 プラスチックで出来たニコニコ君の顔は、直径が七、八十センチ程の平たい円形になっている。ピザの生地を模したその顔はたっぷりのチーズで黄色の肌をして、半月形に切られたトマトの目とソーセージの鼻、大きな海老の口が載っていた。

 満面の笑みに輝くニコニコ君の顔を、黒贄は暫くの間見つめていた。

「今回はこれにしますか」

 黒贄は立ち上がり、ニコニコ君の巨大な頭を無造作に引っ掴んだ。

 バキバキ、と、首の部分が折れて、黒贄はニコニコ君の頭を手に入れた。黒贄は首の断面を覗き込み、内部が空洞であることを確かめた。

「さて」

 戦利品をなんとかスポーツバッグに押し込むと、黒贄は歩き出そうとした。

 その時、一人の店員が慌てて飛び出してきた。

「ちょっ、ちょっと待って下さいよ。うちのマスコットに何てことするんですか」

 まだ若い、男性の店員だった。

「いや、使おうと思って」

 当然のように答え、黒贄は店員を見た。

「使おうと思ってって、あんた、そんなこと好き勝手にやっていいと思ってるんですか。ちょっと来て下さいよ。弁償してもらいますからね全く……」

 捲し立てる声など聞こえぬかのように、黒贄は冷静に店員の服を上から下まで観察した。鍔だけの帽子に縦縞のシャツ。ズボンも含め、色調は青で統一されている。

 にっこりと、黒贄は店員に笑いかけた。

「なかなか良い服をお持ちですな。ちょっと来て下さい」

 呆気に取られる店員の首筋を、黒贄はスポーツバッグを持っていない方の手でむんずと掴み上げた。

「あ、な、何を……」

 店員は手足をバタつかせるが、圧倒的な筋力差があるらしく黒贄の手を引き剥がすことが出来ない。足先が地面から離れかけていた。

「まあまあ」

 ゴキン、と、店員の首の辺りで不気味な音がした。

 店員が白目を剥いた。手足が力なく垂れ、ピクリとも動かなくなる。

 ふと黒贄が店の奥を見ると、若い女性の店員が心配そうにこちらを見ていた。

「いやあ、良いお店ですねえ」

 黒贄は彼女に軽く頭を下げると、店員の体を引き摺って建物間の細い路地に消えていった。

 

 

  四

 

 ピザ屋の店員の服装をした男が如月会のビルの前に立ったのは、五分後のことだった。

 鍔だけの青い帽子を被るのは黒贄礼太郎だった。左手にスポーツバッグを、右手には黒光りする植木鋏を持っていた。ピザ屋の制服は黒贄の体格に合わず、前腕と脛の半ば程が剥き出しになっている。

 植木鋏は刃の部分が二十センチ程、木製の柄が五十センチ程の長さであった。

 二つの柄を纏めて右手に握り、鋏の先端を見つめる黒贄の瞳に、再び不気味な輝きが渦を巻き始めた。

 と、黒贄は首を振ってそれを追い払った。

「いかんいかん。今は冷静にやらねば」

 深呼吸を何度か繰り返すと、玄関の両側で風に揺れている二つの死体を横目に、黒贄はスポーツバッグを持った左手で入り口の扉を押し開けた。

「こんちはー」

 にこやかに挨拶して、黒贄は中の様子を見渡した。二階への階段は右にある。すぐ前に低いテーブルとソファーの置かれた広間があり、屈強な男達が四人、腰を下ろしてテレビを観ていた。その粗暴な顔立ちと服装は、誰が見ても下っ端やくざだと分かる。

 男達の視線が一斉に黒贄へ集まった。

「何だい、あんたは。ピザ屋か。今日は頼んでねえぞ」

 パンチパーマの男が胡散臭そうに聞いた。

 黒贄はスポーツバッグを床に下ろし、彼らの方へ歩み寄った。

「ちょっとお尋ねしますが、ここで一番偉い人は誰ですかな」

 黒贄の問いに、彼らは互いの顔を見合わせた。そして、黒贄が持つ植木鋏も見た。

「だから何なんだよ、おめえ。表の死体を見なかったのか。あんまり舐めた口きくと、お前もああなるぞ」

 坊主頭で頬に傷のある若者が凄みを利かせたが、黒贄の表情は変わらない。

「取り敢えず、あなたじゃないですね。あーパッチン」

 言うなり黒贄の植木鋏が動いた。

 パッチン、ではなく、ギジャリ、とでもいうような不気味な音が室内に響いた。

 坊主頭の男の喉が、大きく横に裂けていた。

「あゴゴゴゴブッ」

 男は何か言おうとしたが、出てきたのは鮮血だけだった。傷口からも血が噴き出した。鋏は頚動脈を切断していた。そのまま崩れ落ちていく仲間を、残った三人は呆然と見つめていた。

「一番偉いのは誰かなあ」

 両手で鋏を開き、黒贄が歌うような口調で言った。刃から柄の方へ、ドロリと血が流れ落ちていく。

「て、てめえ……」

 我に返ったサングラスの男が背広の内側に手を入れた。

「あなたも除外、ほれパッチン」

 ゴジャリ。サングラスの男の右手首があっけなく植木鋏に切断されて床に落ちた。その手は拳銃を握っていた。

「うわあああああっ」

 サングラスの男は血の噴き出す手首を左手で押さえ、泣きそうに顔を歪めて喚いた。

 その大きく開かれた口の中に黒贄は閉じた植木鋏を突っ込んだ。首の後ろから血塗れの先端が顔を出す。

「ああ〜偉いのは〜」

 黒贄は微笑を浮かべ、眠たげな目つきで彼らを見下ろしていた。

「こ、この野郎」

 短刀を抜いたパンチパーマが黒贄の長身に向けて腰溜めに突進してきた。

 黒贄が植木鋏を横殴りに振り回すと、刺さったままだったサングラスの死体が軽々とついてきた。短刀が貫いたのはサングラスの男の腹であった。死体にのしかかられてパンチパーマが倒れる。

「あーパッチン」

 開いた鋏をパンチパーマの顔面に当て、黒贄はにこやかに力を込めた。目の下が横断されて眼球が飛び出した。

「あぎいいいいいっ」

 叫ぶパンチパーマの顔を、黒贄は真上から無造作に踏みつけた。頭蓋骨が砕け、顔面の傷口から脳味噌がはみ出した。

「さーて、残ったのはあなたですが」

 黒贄が振り向くと、残った革ジャンの男がサングラスの男の落ちた手首から拳銃を引き剥がそうとしているところだった。

 革ジャンの男は黒贄の視線に気づくと、すぐに両手を上げて後じさった。失禁したらしく、ズボンの股間が濡れている。

「ひいっ、た、助けて」

「まあまあ落ち着いて」

 黒贄は優しく告げながら、血みどろの植木鋏を構えてにじり寄る。

「どうした達治」

 その時、背後から錆の利いた低い声がした。

「あ、兄貴、助けてくれよ、こいつが……」

 達治と呼ばれた革ジャンの男がホッとした表情を見せた。

「何だそいつは。ピザ屋か」

 黒贄が声の方を振り向くと、階段の半ば程に灰色の背広を着た男が立っていた。年齢は四十才前後か。不摂生のためか目の下に青い隈があるが、一階に詰めていたチンピラ達とは異なる貫禄があった。

「初めまして、黒贄礼太郎です」

 植木鋏を構えたまま、黒贄は丁寧に一礼した。

「知らねえな。何処のもんだ。殴り込みか」

 背広の男は拳銃を抜いた。或いは男には、黒贄の武器が植木鋏であるということへの侮りがあったかも知れない。

「ちょっとお待ち下さいねー」

 黒贄は背広の男に言うと、革ジャンの男へと向き直った。

 その薄い唇の両端が、信じられない程に高く吊り上がり、悪魔的な笑みを作った。

 革ジャンの男の顔が、幼児のような情けない泣き顔を作った。

「あなたは要りませんねえ。パッチン」

 実際にはジャギッと音がして、革ジャンの下の白いシャツを赤く染め、植木鋏が男の腹部を大きく切り裂いていた。

「あいいいいいっ、痛え、痛えよお」

 泣き叫んだため腹圧がかかり、破れた腹壁から腸がはみ出した。

「パッチンパッチンパパッチン」

 黒贄は革ジャンの男の腹から鋏を抜かずに何度も刃を開閉させた。大量の血飛沫が撥ねる。

「うおおおおっ達治、てて、てめえっ」

 乾いた銃声がビル内に木霊する。だがその前に異常な敏捷さで黒贄は身を翻し、鋏伝いに革ジャンの男を持ち上げて盾にしていた。革ジャンの背中に穴が開く。

「あ……兄貴……」

 必死に首を捻りながら呻く、革ジャン男の口から血が溢れた。

「ランラランララーン」

 黒贄が革ジャンの体を盾にしたまま階段へ向かって走った。更に二度、灰色の背広の男が発砲したが、それは革ジャンの男に止めを刺しただけだった。

「チイッ」

 灰色の背広の男が二階へと逃げた。革ジャンの死体を掲げたまま黒贄が階段を駆け上がる。

 ドッ、と、鋭い刃が革ジャンの脇腹を突き抜けて黒贄を襲った。階上に待ち構えていた別の組員の仕業だった。突き込まれた日本刀に構わず、黒贄は革ジャンの死体をその男に向かって押し付けた。植木鋏の先端が革ジャンの背中を突き抜けて、日本刀を持った男の胸に突き刺さった。

「ふうむ。二段刺しですな」

 黒贄が折り重なった死体を鋏伝いに持ち上げ、感心したような口調で呟いた。黒贄の脇腹に血が滲んでいるが、彼は平然と立っていた。

「こ、この……」

 背広の男の発砲した銃弾は窓ガラスを割った。男に向かって黒贄が二つの死体を投げ付けた。避け切れず下敷きになった男を跨いで立ち、黒贄は飽くまでもにこやかに見下ろしていた。

「あーパッチンパッチンパッチンパッチン」

 黒贄は職人の如き手際の良さで、スニーカーで踏み転がして適切な角度に変えながら男の手足の腱を切断した。

「ぐ、ぐううううう、てめえっ」

「ねえ、どうしたの」

 その時奥の扉が開いて、下着姿の女が不用意に顔を出した。

「ほれパッチン」

 反射的に黒贄の長い腕が動いて、植木鋏が女の首を切断していた。皮一枚で繋がった状態で、女の首が後ろにゴロリとひっくり返った。血を噴出させながら女の体が扉を押し開けて前のめりに倒れる。

「あ、しまった」

 絶句する男の上で、黒贄がポケットから一枚の写真を取り出した。着替えた時に移しておいたものだ。俯せに倒れながら真上を向いている女の虚ろな顔を写真の顔と見比べて、安堵の息をつく。

「あー良かった良かった、別人でした」

「な……何者だ……てめえ……」

 女の血を顔に浴び、手足の痛みを堪えながら灰色の背広の男が声を絞り出した。

「いや実は、この写真のおおっと」

 用件を喋りかけ、しかし黒贄の目は部屋の隅に置かれた冷蔵庫に向けられていた。

 黒贄の腹が鳴った。

「ちょっ、ちょっと待って下さいねー」

 黒贄は二つの死体の下になってもがく男の手を取り、植木鋏で両手首を纏めて突き刺して床に縫いつけた。獣のような唸り声を上げる男を放って黒贄は冷蔵庫に歩み寄り、恐る恐る開けてみた。

「ほほーう」

 冷蔵庫の中には食べ残しのバースデイケーキが収まっていた。苺の載っている白いケーキだった。

「いやちょっと失礼して」

 黒贄は血塗れの手でケーキを掴み、そのまま食べ始めた。

「いやあ、なかなかおいしいですよこれ。どなたのお誕生日だったんですかな」

「お、俺だよ畜生……」

「それはおめでとうございます」

 黒贄はケーキを頬張りながら頭を下げた。

 あっという間にケーキを食べ終えると、黒贄は冷蔵庫の中にシャンパンのボトルを見つけ、ラッパ飲みした。五秒で黒贄の顔が赤くなった。

「いやあ、何から何までお世話になりまして」

 黒贄はふらつく足取りで男に近寄り、うっかりと男の右足を踏んづけた。ゴキリと嫌な音がして男が悲鳴を上げる。

「ああっとすみませんねえ」

 黒贄はもう一度写真を取り出して男に見せた。

「この方なんですが、何処におられるかご存じないですかねえ」

「ふん……知らねえなあ。てめえは榊に頼まれたのか。これで榊も終わりだな。娘はバラバラにして送り返す。榊もその親戚も一人残らず皆殺しだ」

 男は黒贄に向かって唾を吐きかけた。黒贄は素早く避ける。

「困ったなあ。なんとか教えてもらわないとねえ」

 黒贄は頭を掻きながら一人で階段を下りていった。男が手首に刺さった鋏をなんとか引き抜こうと奮闘していると、すぐに黒贄が戻ってきた。

 黒贄は、スポーツバッグを抱えていた。

「フンフンフーン」

 機嫌良く鼻歌を歌いながら、黒贄はスポーツバッグを開けた。

 取り出された物を見て、灰色の背広の男は大きく目を見開いた。

 それは、全長一メートル程の、チェーンソーだった。

 黒贄がスターターを引くと、小気味良い唸りを上げてチェーンが回り出した。塗り立ての手入れ油が散る。

 チェーンソーを構えた黒贄がにっこりと微笑みかけると、あっけなく男は折れた。

「わ、分かった、言う、言うからやめてくれ」

 最初に男が見せた威厳は、もはや完全に崩壊していた。

「いやいやそんなに早く言っちゃ駄目ですよ。男ならもっと我慢しなくちゃねえ」

 震動する凶暴な刃を、黒贄は心底楽しげな顔で男の足に押し付けた。裂けた肉と血が飛び散る。

「ぐぎゃあああああああっ」

「ああ〜男なら〜」

 また黒贄が歌い出した。

「あぎいいいいいっ、言う、言う、榊の娘は角田さんの屋敷だ」

「角田……誰ですかそれは」

 残念そうにチェーンソーを離し、黒贄が聞いた。

「角田信吉、知らないのか、市会議員だよ。そうだよ、榊と同じ八津崎市の市議だ。角田さんは裏では俺達のボスだ。このことは警察だって知らないんだ」

「ふーん、で、住所は。私にも分かるように教えて頂けますかな」

 男が泣きながら住所を教え、黒贄はそれを手帳に書き留めた。古い手帳は三年前の年度になっていた。

「た……助けてくれ。これを言っちまった俺は、仲間に殺される」

「そんな心配はご無用ですよ」

 黒贄が静かに告げた。安心して見上げた男の顔が、凍り付いた。

 その顔はもう酔ってはいなかった。黒贄の瞳の中で、不気味な昏い輝きが渦を巻き始めていた。

 スポーツバッグから、黒贄が大きな人形の頭を取り出した。向かいのピザ屋のマスコットである、ニコニコ君の頭部だった。

 首の辺りを少し折り取って穴を広げ、黒贄がその中に自分の頭を突っ込んだ。すっぽりと程良く収まった。

 すぐに外して、黒贄はニコニコ君の顔を見つめ、その口の上辺りに指先で穴を掘った。横並びに二つ。被った時に、丁度黒贄の目が位置する場所だった。

 黙々と、黒贄はその作業を終えた。

 そして、再び、黒贄がニコニコ君の頭を被った。

「あああああ、あああああああ」

 灰色の背広の男が、情けない声を出した。

 男は、失禁していた。

 アンバランスに大きな仮面を首に載せ、黒贄礼太郎はチェーンソーを掴み上げた。

 二つの穴から覗く黒贄の瞳は、あらゆる感情を排除した、恐ろしく冷たい光を放っていた。紅蓮地獄と呼ばれる酷寒の地獄がもし本当に存在するのならば、或いはその時の黒贄の瞳に似ていたかも知れない。

「ああああ、ああああああああああ」

 灰色の背広の男は、涙と鼻水を小便と糞便とを垂れ流していた。

 黒贄が、チェーンソーを、振り下ろした。

 

 

  五

 

 広大な敷地内に角田信吉の屋敷はあった。正門前に立って左右を見回すと、高い塀が何処までも続いている。

「いやあ、金持ちですなあ」

 黒贄はちょっと切なげに嘆息した。

 ピザ屋の服装に、右手にチェーンソー、左手にニコニコ君の頭を持ち、黒贄礼太郎は正門の前に立っていた。武家屋敷の入り口に似た大きな木製の門が、黒贄の行く手を塞いでいる。

 門の横に角田信吉の大理石で出来た門標があり、その上に市会議員と書かれた札が掛かっていた。

 雨が降り出していた。既に黒贄の服からは水が滴り落ち、濡れた髪が額にへばり付いていた。

 黒贄はニコニコ君を小脇に挟み、左手でインターホンのスイッチを押した。

「……。どなた」

 若い女性の声が返ってきた。

「ニコニコピザでーす。ご注文のピザをお届けに上がりました」

 黒贄は元気良く答えた。

 少しの間、沈黙があった。

「どうぞ、中へ」

 そう言ってきたのは太い男の声だった。遠隔操作出来るらしく、正門が自動的に内側へと開いていく。

「どうもー」

 黒贄はそのまま奥へと進んだ。屋敷へと続く石畳の両側には木々が立ち並び、まるで森の中に迷い込んだようだ。遠くから長閑な鳥の鳴き声が聞こえている。

 降りしきる雨の中、黒贄の顔は、次第にある期待へ輝き始めた。歩くペースが速くなっていく。

 黒贄はチェーンソーのスターターを引いた。唸りを上げて血みどろの機械が回り始める。

「アプー。アピャー。アピー。ううむ、ちょっと違いますな」

 何かを模索するように、黒贄は奇妙な言葉を口に出していった。右手ではチェーンソーが獲物を求めて震動を続けている。

「アッペー。アッピョー。アッペニャー」

 角田の豪華な屋敷が見えてきた。木造の、昔ながらの日本式家屋だ。何部屋くらいあるのか見当もつかない。

「アペニャー。今日はこれですな」

 黒贄は満足げに頷くと、内部に湧き上がる衝動に堪え切れぬかのように、全身を震わせた。

 低い石段を上がり玄関の前に立つと、またもやその横に付いているインターホンのボタンを押した。

 そして、ニコニコ君の仮面を頭に被ろうとした。

 ドン。

 轟音と共に黒贄の体が後ろに吹っ飛んだ。チェーンソーもニコニコ君の頭も離さなかったが、彼はそのまま地面に仰向けに倒れた。

 縦縞の上着の胸の部分に大きな穴が開いていた。その周りに小さな穴も幾つかある。

 至近距離から発射された散弾によるものだった。

 玄関の扉が丸く破れていた。スライド式の扉を開けて現れたのは真紅のスーツを着た男だった。髪を短く刈ったその男は唇を皮肉に歪めていた。銃身を短く詰めたショットガンの銃口から煙が立ち昇っている。

「頭がイカレてんのかよ、てめえは」

 黒贄を見下ろして、赤いスーツの男が吐き捨てるように言った。その声は、インターホンで応対した男の声だった。

「門の上に監視カメラが付いてたのに気づかなかったのか。そんなもん持ったピザ屋なんている訳ねえだろうが。何処の鉄砲玉かは知らねえがよ」

「いいえ、固定観念に囚われてはいけません」

 黒贄の平然とした声に、赤いスーツの男は目を丸くした。

 散弾は、心臓をズタズタに破壊している筈だった。

 まともな人間ならば、即死している筈だった。

「私は世界で唯一人、チェーンソーを持ったピザ屋です」

 むくりと黒贄が起き上がった。その胸は朱に染まっていた。

 悪魔のような笑みを黒贄は見せた。左手が上がり、ニコニコ君の巨大な頭が黒贄の頭をすっぽりと覆う。

「こ、この……」

 赤いスーツの男が次弾を薬室に送り、再び発砲した。散弾は黒贄の胸と腹と仮面に無数の穴を開けたが、黒贄はびくともしなかった。

「アペニャー」

 気の抜けるような奇声を面の下から洩らし、黒贄が立ち上がった。

 赤いスーツの男が再度発砲した。黒贄の体に穴が増えたがそれだけだった。

 赤いスーツの男が更に発砲した。黒贄の体に穴が増えたがそれだけだった。

 男の顔から皮肉な笑みは消え、そこには恐怖と焦燥感だけが絡み付いていた。相手が一人だと判断して高を括り、黒贄の出迎えに来たのは赤いスーツの男だけだったらしい。

 チェーンソーを掲げた黒贄が魔性の疾さで迫った。赤いスーツの男が身を翻して逃げようとした。

「アペニャー」

「うげああああああっ」

 赤いスーツの男の背中をチェーンソーが斜めに引き裂いた。いや、チェーンソーは胴体を両断していた。二つに分かれた男の肉体が玄関を通り抜け、内臓を撒き散らしながら床の上に倒れた。

「うわっ、木島さんっ」

 赤いスーツの男の死体を見て、廊下を歩いていた男達が声を上げた。チェーンソーを持ち大きな仮面を被りピザ屋の制服を着た黒贄に、男達は唖然と息を呑む。

「アペニャー」

 立ち竦む男達へ黒贄が突進した。慌ててスーツの内側へ手を入れる男達の首を、横殴りのチェーンソーが纏めて切断した。

「きゃああああっ」

 顔を出した女中が悲鳴を上げた。その首が宙を飛んで廊下の壁にぶつかった。

「アペニャー」

 廊下は血の海と化していた。ニコニコ君の頭を揺らせながら、黒贄礼太郎は広い屋敷内を歩き回った。ドタドタと駆けてきた黒服の男達が黒贄へ向かって一斉に発砲した。ピザ屋の服に血の花が咲く。しかし黒贄の歩みは逆にスピードを増した。

「うわっ、ば化け物うぎゃあああああ」

「アペニャー」

 黒贄の声は異様に落ち着いていた。身を庇おうと差し上げられた腕ごと、チェーンソーは相手の胴体を斜めに切断した。血飛沫を浴びて男達が悲鳴を上げる。

「アペニャー」

 逃げ惑う男達を追いかけて黒贄のチェーンソーが唸る。腕をもがれ足を切られ首が飛び、男達は次々と解体されていく。女中にぶつかって一緒に倒れた男の胴体を、女中の体ごとチェーンソーが串刺しにした。

「アペニャー」

 恐慌の叫びに黒贄の静かな声は掻き消された。返り血と自分の血の混ざった血みどろの姿で黒贄は歩き回り、血みどろのチェーンソーを振りかざして手当たり次第に殺していった。市会議員の豪勢な邸宅は、死体が一杯の血みどろの邸宅へと変貌した。

「アペニャー」

 襖を裂き破った奥の広間に、黒服の男達に守られて六十代の老人が座っていた。醜く太った体を和服で包み、禿げ上がった頭と二重顎を晒していた。護衛の男達の拳銃とライフルが火を噴いた。黒贄の上体が僅かに仰け反った。だがそれだけだった。絶え間ない銃撃を浴びながらチェーンソーが振られ、手足や首が宙を舞った。老人を見捨てて逃げ出した男の胴体が横殴りの一閃で真っ二つになった。バラバラの死体に囲まれ、老人は腰が抜けたらしく立てずにいた。

「わ、わ、わわ、わしを、角田信吉と、し知っての、ろろろ狼藉か」

「アペニャー」

 黒贄が答えた。ニコニコ君の顔に開いた二つの穴から覗く目は、絶対零度の冷酷さを湛えていた。

「たた、た助けてく……」

 老人の口からは涎が垂れていた。黒贄がチェーンソーを無造作に突き出した。老人の膨れた腹をチェーンソーが突き破り、血と肉片を撒き散らしながら背中まで抜けた。黒贄はチェーンソーを差し上げて、老人の痙攣する体を高く持ち上げた。そのまま黒贄は部屋を出て廊下を歩いていった。もう屋敷には生存者は見当たらなかった。黒贄がふと足を止めた。傍らの庭に、鯉の泳ぐ小さな池が設けられていた。

「アペニャー」

 黒贄はチェーンソーを振り、ちぎれかけた老人の死体を池に投げ込んだ。雨の中、池の水が赤く染まっていった。無人となった邸内を黒贄は歩いた。倉庫の奥に地下への階段が見つかった。黒贄は無言で階段を下りていった。チェーンソーの回転する不気味な唸りだけが響いていた。鉄製のドアに辿り着くと、その奥から若い女の啜り泣きが聞こえてきた。黒贄がドアに蹴りを入れるとあっけなく蝶番が外れて吹っ飛んだ。

「だ、誰。助けに来てくれたの。お父さん」

 怯えた声が闇の中から這い出した。黒贄が部屋の外にあった電灯のスイッチを入れると、室内の様子が照らし出された。がらんとした部屋の隅に、一人の若い女が膝を抱えて蹲っていた。破れた着衣は、女が暴行にあったことを示していた。頬に残る涙の痕が生々しい。

 女は、榊恵美だった。

「アペニャー」

 黒贄がチェーンソーを振った。恵美の首が飛んだ。

 

 

  エピローグ

 

 その若い男は、何日も降り続く雨に悪態をつきながら暗い裏通りを歩いていた。吹き抜ける風に傘を持っていかれそうになる。既に男のジャケットもジーンズも、ぐっしょりと濡れている。

 突然、空が光ると同時に雷鳴が轟いて、男はビクリと身を竦ませた。どうやら雷はすぐ近くに落ちたようだった。

 死体の転がる通りを進む内に、四階建てのビルが見えてきた。その最上階に掛かっている看板を見て、若い男は唇の右端を軽く吊り上げた。

 玄関の扉を抜けて傘を畳み、漂う腐臭に顔をしかめながら男は階段を上っていった。二階、三階、がらんとしたフロアを横目に、男は目的の最上階に辿り着く。

 『黒贄礼太郎探偵事務所』となっている表札を男は見た。そしてその下の張り紙も。

 男は腕時計を見た。

 午後六時十五分を示していた。張り紙に規定された時間を十五分オーバーしている。

 ドアの隙間からは、明かりが洩れていた。

「少しぐらいならいいだろうさ。俺も急いでるんだから」

 若い男は自分に言い聞かせるように呟いた。

 男は、ドアをノックしてみた。

「もしもーし」

 返事はない。部屋は、死んだように静まり返っていた。

「仕事を頼みたくてさ。入りますよ」

 男は、ノブを捻り、ドアを引き開けた。

 いきなりその隙間を抜けて、上方から銀光が閃いた。

「カハッ」

 若い男の喉が、横に大きく裂けていた。何か言おうとした男の口と喉の傷から、鮮血が流れ出す。

 戸口の上から逆さに伸びた手は、床屋の使う剃刀を握っていた。黒い礼服の袖が見えた。ポタン、ポタン、と、刃から滴り落ちた血が床を濡らす。だがそれはすぐに、男の足を伝って広がっていく血溜まりに呑み込まれた。

 上から伸びたもう一本の腕が、男の頭を掴んだ。男は自分の喉元を押さえたまま、部屋の中へと引きずり込まれていった。

 礼服の腕が、ドアの上端に触れ、内側に引いた。

 ドアが、軋みを上げながら、ゆっくりと、閉じられた。

 

 

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