プロローグ
昼下がりのカフェテラス。十個程の丸いテーブルは全て埋まっている。珍しく快晴になった空と、街を流れゆく人々の賑わいを眺めながら、ぼんやりとコーヒーを啜っている男がいた。
男は二十代の後半から三十代の前半に見えた。着古して擦り切れかけた礼服と薄汚れたスニーカーがアンバランスだ。自分で切ったのであろう髪は左右非対称だった。切れ長の目は眠たげで、薄い唇は常に何かを面白がっているような微笑を湛えている。
礼服の男は、黒贄礼太郎だった。
同じテーブルで黒贄と向かい合わせに若い女が座っていた。年齢は二十代の半ばであろうか。タイトな白のスーツは引き締まった印象を与えている。ショートカットの髪に、やや鋭角的な顔立ちの美人だ。エリートビジネスウーマンといった雰囲気の、黒贄とは対照的な女だった。
女は優雅な仕草でハーブティーを飲み終えると、カップをテーブルに置き、黒贄に向かって言った。
「私達、別れましょう」
「えっ」
黒贄の顔が凍り付いた。コーヒーカップが彼の手から落ちて、残っていたコーヒーがテーブルを濡らす。
「ど、どうしてだい。ぼ、僕は君を愛しているし、大切にしてきたつもりだよ」
やや吃りながら黒贄は聞いた。彫りの深い整った顔が情けなく歪む。
女は冷たい瞳で告げた。
「だってあなた、殺人鬼じゃない」
「そ、それはそうだけれど」
黒贄はしどろもどろになった。
「そんなふうに生まれついてしまったのだから、しょうがないじゃないか。さ、性という奴だよ。でも、殺人鬼にだって人を愛する権利があっていいだろう。僕は君を愛してる」
「でもこの前、家に来た時、私の兄さんを殺したでしょ。台所の包丁でザクザクと」
「そ、それは仕方がないさ。そそられてしまったんだから」
「だから、殺人鬼の恋人なんて嫌なのよ」
女は伝票を取って立ち上がった。
「ここの代金は私が払ってあげる。あなた貧乏だし。でも、会うのはこれが最後ね」
黒贄は女を見上げ、哀願するような口調で言った。
「君がいなければ、僕は人を殺しても楽しくないんだ」
「じゃあ殺人鬼やめたら」
素っ気なく答え、女は背を向けた。去っていく女を、黒贄はがっくりと肩を落として見送った。
昼のカフェテラスは恋人達の別れに関わりなく、楽しげな話し声や笑顔に満ちていた。
黒贄礼太郎は死んだようにうなだれたまま、数分を過ごした。
やがて、動かぬ黒贄を不審に思ったのか、ウェイトレスが彼のテーブルまで歩いてきた。
「お客様、どうかなさいましたか」
「……。ちょっと待って下さい」
黒贄は俯いたまま懐に手を入れた。
いきなりウェイトレスの首が飛んだ。立ち上がった黒贄の手には大型の剣鉈が握られていた。客達の悲鳴が上がる。黒贄は次々と近くの客達を襲い、胸を刺し腹を抉り腕を切り落とし首を刎ねていく。
落ち込んでいた黒贄の顔に、至福の笑顔が戻ってきた。
「あ、やっぱり楽しい」
黒贄は剣鉈を振り回しながら言った。
「彼女がいなくても殺しが楽しいよ。ああ良かった。楽しい楽しいタノチーッ、キャハハーッ」
パニックに陥ったカフェテラスで、一人黒贄だけが浮かれていた。
「キャハーッ、キャハハーッ」
晴れ渡った空、ただただ麗らかな日差しが、人々を優しく照らしていた。
一
夜空に浮かぶ月はほぼ真円に近い形を呈している。丁度明日が十五夜になるのだろう。
冷たい風が磯の香りと、岩壁にぶち当たる波の音を運んでくる。
海に面した山林のやや小高い部分に二人の男が座っていた。背の高い男はポケットが多く付いたベストを着て、首には一眼レフのカメラが下がっている。背の低くがっしりした体格の男は、灰色のTシャツに同じ色のズボン姿で、双眼鏡を覗き込んでいた。背の高い男が二十代の後半、灰色のTシャツの男は四十才前後だろう。二人の後ろには紺色のワゴンが見える。
「もう三日目になりますけど、来ますかね」
背の高い男が隣の灰色の男に尋ねた。かなり退屈しているらしい。
「来るだろうさ。確かな筋の情報だからな」
灰色の男は事もなげに答えた。
「そりゃあ、もし本当だったら大スクープになりますけどね。暗殺された筈の人喰い大臣、十五年ぶりに祖国へ舞い戻る、なんてね」
「まあ何事も辛抱さ。そんなに簡単にスクープなんて取れるもんじゃない」
「辛抱ですかねえ。俺は小便に行きたくなったっスけどね」
背の高い男が小さく溜息をついた。
「行って来いよ、急いでな。いやちょっと待て」
双眼鏡を覗きながら、灰色の男の口元が引き締まった。海沿いに延びた道路をヘッドライトの光が走ってくる。まだかなりの距離があったが、二人の立っている場所からは近づいてくる車体が見て取れた。
先頭を行くのは大型の黒いリムジンだった。曲がりくねった細い道をかなりのスピードで走っても危なげがないのは、余程腕の良い運転手なのだろう。そのすぐ後を、これまた大きなトレーラーがついていく。黒い壁に覆われた箱形の荷室には何が収まっているのだろうか。
「この暗さじゃ良く見えんな。やはり別荘に着いて、車から降りた時が勝負だな」
灰色の男が双眼鏡を外し、リムジンの進行方向にある建物を見た。断崖絶壁のぎりぎり手前に建てられた屋敷の窓には、既に明かりが点いている。
「一応今も撮っときますか」
背の高い男が一眼レフを構えた。
「ああ、そうしとけ」
二人が喋っている間に、リムジンとトレーラーは下の道を通り過ぎようとしていた。背の高い男がファインダーを覗き、シャッターを押した。
「バッチリですよ」
背の高い男は灰色の男へ得意げに言った。
「おい」
灰色の男の血相が変わっていた。
突然リムジンが急停止して、助手席のドアが開いたのだ。二人の存在に気づかれたのか。フラッシュは使わずに高感度フィルムを使って撮っていたし、二人とリムジンの距離は百メートル以上離れていた。なのに何故、見つかったのか。
助手席から異常なスピードで白い影が飛び出した時、灰色の男は相棒に鋭い声で告げた。
「逃げるぞ」
二人は慌ててワゴン車に駆け寄った。背の高い男が助手席のドアを開けた時、運転席側でカツンという音が響いた。
運転席のドアを開けようとしていた灰色の男の、首から上が消失していた。
「うわわわわわわわっ、ロクさん」
灰色の男は、首の切断面から血を噴き出して窓ガラスとドアを汚しながら、ズルズルと崩れ落ちていった。
その後ろに、白い着物姿の男が立っていた。肩の辺りで切り揃えられた総髪に、細面の鋭角的な顔立ちをした男だった。年齢は二十才とも四十才とも判断がつかない。三白眼の冷酷な瞳が背の高い男を見据えていた。
着物の男は、一振りの日本刀を構えていた。きちんと鍔の付いた、時代劇に出てくるような刀だった。漆塗りの鞘が一本、男の腰に差してあった。
人間の首を刎ねた刀身に全く血が付いていないのは、振られる際の凄まじいスピード故か。
「あわわわわわ、たす、たすすす」
背の高い男は尻餅をついた。膀胱に溜まっていた尿が解放されてズボンを濡らす。
白い着物の男が素早くワゴン車を回り込んで背の高い男の前に迫った。
「待て、村雨」
嗄れ声が別の場所から聞こえ、着物の男の動きが止まった。
拳銃を持った男達に守られて、大きな男が立っていた。カメラを持った背の高い男よりも更に高く、二メートルを超えているだろう。それだけでなく胴回りも腕の太さも常人を遥かに上回っていた。
その男は、顔も両手も足首も、肌の見える筈の部分を隙間なく包帯で覆っていた。
「今殺しては勿体ない。船旅の間は出来なかったからな。あれに使おうではないか」
百才の老人のような声でゆっくりと、包帯の巨人は言った。
着物の男は頭を下げ、日本刀を鞘に収めた。
背の高い男は泣きそうな顔で、着物の男と包帯の男を交互に見上げていた。
二十分後、カメラを没収された男は地下室に引き立てられた。
「懐かしいのお。西原はわしの言っておいた通り、ここには手を付けずにおってくれたようじゃの」
包帯の男が感に堪えぬように呟いた。
「それはもう、先生のご言い付けですから」
六十代の痩せた男が揉み手しながら応じた。部下達に対しては尊大な態度を取っていた彼はしかし、包帯の男を見上げる表情に明らかな畏怖が混じっていた。
背の高い男は濃厚な臭気に顔をしかめた。この部屋は何かの腐ったような臭いに満ちていた。それも部屋全体に染みついているような、古いものだ。裸電球の光が地下室を淡く照らしている。村雨と呼ばれた白い着物の男は、地下室の出入り口付近にひっそりと立っていた。
包帯男の部下達は部屋の中央に大型の機械を設置し終えるところだった。トレーラーから運び出したそれは元々はこの場所にあったということか、その脚と同じ形の凹みが床に出来ていて、男達はそこに位置を合わせた。延長コードを引っ張ってきてコンセントを繋ぐ。
頑丈な三脚に支えられたそれは、垂直に立つ短円筒形の機械だった。側面にスイッチが二つ付いている。その上に、硬質ガラスで出来ているらしい漏斗状のものが填め込まれていた。上から落とし込んだものを下へ流し込むように作られている。一体何を入れるための漏斗か、上縁の径は四メートルを超えていた。
機械の下に、男達がバケツのような大型の容器を差し入れた。漏斗から機械を通り抜けて落ちてくる何かを受け止めるためだろう。
「準備が出来たようじゃな。では早速始めよう」
包帯の男が喜々として命じた。
黒服の男達に両脇を抱えられ、背の高い男はズルズルとその機械の方へ引き摺られていった。
「うわっ、な、何を、や、やめてくれ」
背の高い男の叫びに構わず、設置された階段を上って、男達は彼を漏斗の端まで引き立てた。
「うひゃあああああ」
背の高い男は叫んだ。彼は漏斗の下にあるものを見たのだ。
透明な漏斗によって導かれる先、短円筒形の機械の中には、換気扇に似た構造が待っていた。水平な鋼鉄の羽が六枚、しかもその縁は鋭利に研がれていた。羽の下部には強力なモーターが取り付けられてあった。それ以外には何もない。羽の間を通して、待ち構えている容器が見えていた。
「では、始めようかの」
包帯の男が言うと、部下の一人が機械の側に寄り、スイッチを押した。
鋼鉄の羽が、唸りを上げながら勢い良く回り始めた。機械が小刻みに震動する。
「下りろ」
背の高い男を黒服の男達が押し出した。
「う、うわあああ、た、助けてくれえ」
背の高い男の足が、漏斗の中に落ち込んだ。ズルッとそのまま滑り落ちかけて、漏斗の縁を背の高い男の手が必死に掴んだ。透明な壁は三メートル程の高さになっていた。もし手を離したら、抜け出すことは不可能だろう。
黒服の男の一人が、懐から手斧を抜き出した。
「や、やめろ、助けて、なんでこんな……」
黒服の男が手斧を振り下ろした。背の高い男の右手の指が大部分、その一撃で切断された。
「あげえええええ」
背の高い男の体がゆらりと傾く。それでも彼は左手で踏ん張っていた。
黒服の男が再度手斧を振り上げた。
「や、やめろおおおお」
黒服の男は、やめなかった。
左手の指も切断され、背の高い男は少しずつガラスの漏斗を滑り落ちていった。体全体を壁に押し付けて、彼は少しでも落下を遅らせようとしていた。
「クックックッ」
背の高い男の必死の足掻きを、包帯の男はさも楽しそうに見物していた。
やがて、漏斗の上から丸い物体が投げ込まれた。それは背の高い男の横を転がり抜け、鋼鉄の羽に呑み込まれていく。
「うわあっ。ロクさんっ」
背の高い男が叫んだ。彼は認めたのだ。投げ込まれたものが同僚の生首であったということを。
背の高い男は漏斗の縁を見上げた。
黒服の男達が灰色のシャツを着た首のない男の死体を抱え、今にも投げ落とそうとしているところだった。
「やめてくれえええええ」
生命を失った肉の塊が背の高い男の頭にのしかかった。その重みで彼の体が漏斗の先へと一気に滑り落ちていく。
「うぎゃあああああああああああああ」
透明な漏斗の壁に赤い色が飛び散っていった。
「年を取ると、歯が弱くなってのう」
包帯を巻いた男が、誰にともなく呟いた。
「でも胃腸はまだまだ丈夫じゃわ」
獣のような悲鳴はまだ続いていた。
二
「ああ、気の毒だなあ」
血臭漂う探偵事務所で、黒贄礼太郎は目の前の物体を見つめながら呟いた。
机の上には一枚の大皿が置かれていた。皿の上には若い男の生首が載っていた。虚ろな目を半開きにした状態で凝固するその生首は、頭頂部や側頭部や頬の数ヶ所に金属の突起が生えていた。
皿の横に、バーベキューに用いる鉄串が、まだ何本か残っていた。
「クロちゃんの口からそんな台詞が出るとはね、驚きだ」
壁に陳列された仮面を眺めていた男が、意外そうな顔で言った。男は三十代の後半に見えた。くたびれた地味なスーツを着て、折れ曲がったネクタイを締めている。短めの髪は寝癖が付いたままで不精髭が頬と顎を覆っていた。
「クロちゃん、は、やめて下さいよ。くらに、ですから私は。クラちゃん、と呼んで下さい」
と言いながらも黒贄は特に気にしているふうでもない。
「いいじゃないか、クロちゃんでさ」
不精髭の男が疲れた顔で笑う。
「いえね、こんなことをやっている張本人の私が」
黒贄が鉄串に手を伸ばし、一本を握った。その尖った先端を生首の左目に当て、無造作に力を込める。鉄串は眼球を貫き脳を突き破って後頭部から顔を出した。
「この人のことを、気の毒とも何とも思ってないんですよ。気の毒とも思われないというのは気の毒だなあと思って」
黒贄の言葉に、不精髭の男は眉を上げただけだった。
次の鉄串を握りながら、ふと黒贄が首を傾げる。
「あれ、ということは、私は気の毒だと思っているんですな。ということはこの人は気の毒だと思われてるんだから気の毒じゃないや、安心安心プッスリプッスリ」
黒贄はにこやかに微笑みながら、鉄串を立て続けに生首へ刺し捲った。
「全くねえ」
不精髭の男は呆れたように言うと、ポケットから煙草を取り出して百円ライターで火を点けた。
「あ、刑事さん、ここでは煙草は厳禁ですよ」
黒贄が声をかける。机の上には灰皿もなかった。
「へえ、どうしてだ」
「だって、副流煙にもかなり良くない成分が入ってるそうじゃないですか。やっぱり健康には気をつけないとねえ」
黒贄は当然のように言った。
「やれやれ」
不精髭の刑事は溜息をついて、生首の載った皿に煙草の火を押し付けた。
「それにしても刑事さんは、良くその体で煙草が吸えますね」
「左肺の半分だけ、生身で残ってんのさ」
答える刑事の右手や首筋の肌は、ビニール製の人工物だった。もし耳を澄ませば、彼の体内で響く微かなモーター音に気づくことだろう。
「いやあ、どうもあなたにはそそられないですね」
「だから関係が続いてるんだろうさ。対戦車砲に吹っ飛ばされて、唯一俺が得したのはそれだけさ」
不精髭の男の言葉に黒贄は苦笑する。
「そう言えば、依頼は何でしたっけね」
鉄串を使い果たして黒贄が尋ねた。
「やっぱり俺の話を聞いてなかったか」
「すみませんねえ、没頭してたもので」
黒贄が頭を掻く。
「分かってるさ。だから終わるまで待ってた」
不精髭の男はソファーに腰を下ろした。
「逆楡龍苑って奴のことを知ってるか。二十年くらい前に外務大臣にもなった男だ」
「ほほう、逆楡龍苑ですか」
「へえ、知ってたのか」
「いいえ全然」
悪びれる様子もなく黒贄は平然と答えた。
黒贄の態度には慣れっこになっているのか、不精髭の男もそのまま話を続ける。
「人喰い大臣と呼ばれた男だ。不思議な男だよ。何の基盤も持たない状態から三十代で国会議員に立候補して、いきなり当選した。与党と野党の間を行ったり来たりしてのし上がり、役職は外務大臣止まりだったが裏ではかなりの権力を握っていて、影の総理とか噂されていたよ。どうも本人を目の前にすると皆、催眠術に掛かったみたいにふらふらと言うことを聞いちまうらしいんだな」
「ははあ」
黒贄が、感心しているのかいないのか分からないような合いの手を入れる。
「影の総理から人喰い大臣に綽名が変わったのが十五年前だな。運良く逃げ出してきた被害者が警察に駆け込んだんだ。奴は攫ってきた人達をでっかいミキサーで挽肉にして、それを食ってたって言うんだ。荒唐無稽な訴えを警察が信じたのは、前々から奴の周囲で失踪が相次いでいたかららしい。で、警察が満を持して踏み込んだ時は、奴の屋敷はもぬけの殻。犠牲者を処理していた海岸沿いの別荘からはミキサーこそ見つからなかったが、攫われて監禁されていた人達と食べ残しの挽肉が見つかった。当の逆楡はタッチの差で国外脱出を果たしてた。その後、東南アジアの小国で異常なカリスマを発揮して革命の指導者になるが、演説の最中にライフルで狙撃されてお陀仏。当国の政府の仕業とか、逆楡の行動で国際問題に発展することを恐れた日本政府の仕業とか、逆楡に食われた犠牲者の家族の依頼とか、色々言われているが真相は不明だ。それが十三年前の話さ」
「ふうむ。とすると、もう人喰い大臣はお亡くなりになっている、と」
「ところがそうでもねえのさ」
不精髭の刑事はニヤリと笑った。
「生きているという噂は当時から既にあった。いや、暗殺された場面は丁度ビデオカメラに撮られてて残ってるんだが、頭が半分吹っ飛んでるんだ。普通の人間なら生きてる筈がないよな。だが、暗殺事件の後でも逆楡を見た、会った相手が逆楡と名乗ったという証言がポツポツと続いているんだよ。ただし、そいつは包帯で顔を覆っていて、本当に逆楡だったのかは分からないがね。で、逆楡の目撃証言の前後には、必ずその地で多数の失踪者が出ている。目撃地点はこの十三年の間に、インドを通ってヨーロッパ、オーストラリア、アメリカと、次第に移動している。面白いのが、その目撃証言に出てくる逆楡の身長が、段々伸びているんだな。日本を脱出した時が百六十センチちょっとの小柄な男だったという。それが次第に百七十、百八十と伸びてきて、最近の証言では二メートルを超えていたっていうんだなこれが。もう百才にもなろうって老人がだぜ。妖怪じみた話だが、まあそれはいいとして。三日前、情報屋から俺の所に連絡が入ってきた。一週間程前に逆楡が船を使って……」
「この日本に戻ってきた、ということですな」
黒贄がその後を継いだ。
「そういうことだ。もし本当なら大事件だし、捕まえることが出来たら、この大曲源さんの株も上がって出世がしやすくなるって訳だ。使われていた奴の別荘はこの八津崎市内にあってな、今は西原って国会議員の持ち物になってる。逆楡がそこにいるという確証がない限り、こちらとしても踏み込めない。迂闊に踏み込んで奴がいなかったら俺の首が飛ぶよ」
「すると、私の役目はその確証を掴んでくること、と」
「そう。クロちゃんならやれるよな。もし確認が取れたらこの大曲が証拠をでっち上げてでも踏み込むからさ。頼むよ」
「そうですなあ」
黒贄は腕を組み、目の前の生首を眺めながら考え込むような仕草を見せた。
「いや、最近あまり仕事がなくて、なかなか苦しいんですよ。今回は十万円くらいは頂かないと」
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ」
不精髭の男が慌てた。
「こっちも安月給で遣り繰り大変なんだぜ。見てくれよ、俺の服はこの一張羅だけだ。五万に負けといてくれよ」
「いえ私も生活がかかってますし。なら八万ではどうですか」
「六万」
「ううむ。七万で」
「分かった、それで手を打とう」
二人は、悲しげな溜息をついた。
「それにしてもよお、クロちゃんは探偵やるより殺し屋やった方が合ってるんじゃないの。そっちの方が絶対儲かるよ」
「そんなことは出来ませんよ」
黒贄は信じられないといった顔を見せた。
「自分の利益のために人を殺すなんて、それは殺人を冒涜しています」
「やれやれ」
不精髭の男は呆れ顔で首を振った。
「では、箱の中から一枚お選び下さい」
黒贄が、上面に丸い穴の開いた箱を差し出した。不精髭の男が生身の左手を差し入れ、折り畳まれた紙片を掴み出す。
「ふうむ。三十四番。確かこれは……」
紙片を開いた黒贄は、ちょっと戸惑ったような顔をした。左のドアの鍵を開け、一人で入っていく。
戻ってきた黒贄が右手に持っている物は、デザートなどを食べる時に使う小さな銀色のスプーンだった。
「いやはや、今回はなかなか……」
「大丈夫かい、クロちゃん」
不精髭の男も流石に心配そうに声をかける。
黒贄はきっぱりと顔を上げ、政治家の良く使う台詞を口にした。
「いえ、善処します。……それからもう一つ、私はクロちゃんじゃなくてクラちゃんです」
三
盗んだ自転車で二時間かけて、黒贄礼太郎は目的の地に到着した。曲がりくねった細い道筋の右側は山の斜面になっていて、左側は険しい断崖になっている。岩にぶつかっては引き、ぶつかっては引きを繰り返す波は、時に黒贄の頬に霧状の冷たい飛沫を届けてくる。
陽が落ちかけていた。黒贄は漕ぐ足を休め、緩やかな勾配の先を見上げた。五百メートル程前方の、道の左側つまり海側に鋭く突出した土地がある。今にも零れ落ちそうな程切り立ったその崖の上に、二階建ての豪勢な屋敷がそびえていた。夕日に赤く染まるそれが、かつて逆楡龍苑の別荘であり、今は国会議員西原の所有になっている問題の建物であった。
「いやあ。別荘かあ。いいですなあ」
黒贄はちょっと羨ましそうな口調で呟いた。彼は着古した黒い礼服姿で、荷物は何も持っていなかった。
「さて、どうしますかな。正面から入ってもいいんですが……」
ふと黒贄は背後を振り向いた。遥か後方から走ってくる、黒いトレーラーが見えていた。
「ふうむ。どうやらあれですな」
黒贄は自転車を軽々と藪の中に投げ捨て、自らも木の陰に隠れた。
やがて、大型のトレーラーが低いエンジン音を立てながら近づいてきた。この細い道で時速七十キロは出ていただろう。黒いフィルムで覆われたフロントガラスの奥に三人分の頭が見える。
トレーラーが十メートル程手前に来た時、黒贄は勢い良く道へ身を投げ出した。
甲高い急ブレーキの音が響き、しかしそれは間に合わず、巨大な質量が黒贄の体を撥ね飛ばしていた。黒贄は二十メートル以上先のアスファルトをバウンドし、更に壊れた人形のように十メートル以上を転がって漸く止まった。
トレーラーのドアが開き、黒服の男達が飛び出してきた。素早く周囲を見回して目撃者のいないことを確認しながら、俯せに倒れて動かない黒贄に近づく。
彼らの顔は、えらいことをしてしまったという焦りではなく、この状況をどう処理するかと計算する冷静さを示していた。
黒贄は目を閉じたまま、手足を弱々しくひくつかせていた。
「まだ生きているぞ」
男達の一人が言った。
「どうせだから、連れていくか」
別の男が言い、三人の男達は黒贄の体を抱え上げ、トレーラーの後ろへ運んでいった。
閂を外し後面の扉を開けると、内部の闇から声にならない声が洩れた。夕暮れの淡い光が中へ差し込み、手足を縛られ猿轡を噛まされている四、五人の男女が見えた。
黒贄の体を乱暴に放り込むと、男達は扉を閉じた。再びトレーラーが進み出す。
「皆さん、初めまして。お加減は如何ですか」
闇の中で、楽しげな黒贄の声が響いた。
「もがー、もがが」
誰かが返事をしようとしているが、猿轡のため何と言っているのかは分からない。
「皆さんはどちらからおいでですか」
「もがー、もがもが」
「ほほう、もがもがからですか。珍しい地名ですね。いやあ、私達は何処に連れていかれるんでしょうねえ。遠足の前夜みたいに、ワクワクした気分になりませんか」
「もががが、もももー」
「ははあ、あなたもですか。良かった良かった。あ、そこのあなた、その、何というか、なかなかそそられますねえ。ちょっといいですかな」
「もがあ、もごごご」
ゴキリ、と、不気味な音がした。
五分もしない内にトレーラーは停止した。
閂を外す音がして、後部の扉が開いた。男達が上がってきて人々を運び下ろしていく。ぐったりと動かずにいる黒贄の体を、男達が足で蹴り落とす。
そこは先程黒贄が見た、別荘の庭だった。
「首尾はどうだった」
迎えに出た男が聞いた。
「五人と、さっきそこで拾ってきた一人だ。こいつは早く使った方がいい。轢いてしまったので弱ってる」
黒服の一人が答える。
「そうか。とにかく地下室へ運べ」
屋内から数人の男達が手伝いに出て、誘拐された男女を手際良く運んでいった。
「む、この女は死んでいるぞ」
黒服の一人がちょっと驚いて言った。
「おかしいな。首の骨が折れている。これも今日の分に回せ」
男達は女の死体を運んでいった。黒贄の体も、男二人が上半身と足を抱えて持ち上げる。
その時、黒贄の口から弱々しい声が洩れた。
「さ……逆楡……」
「何、今何と言った」
男達の顔色が変わった。
「逆楡……龍苑……か……彼に、会わせて欲しい……」
「何者だ、貴様。何故その名を知っている」
「それは……会ってから……」
黒贄はそのままがくりと頭を落とした。
男達は互いの顔を見合わせた。
四
裸電球の照らす薄暗い地下室に、男達は黒贄の体を運び込んだ。他の攫われた人々は横の小部屋に放り込まれ、鉄製の扉を閉じられる。首の折れた女の死体は黒贄の横に置かれた。
腐臭漂う湿った床に這いつくばったまま、黒贄はゆっくりと首を上げて地下室の内部を見渡した。天井は高い。がらんとした殺風景な部屋だが、丁度彼の後ろ、部屋の中央に、巨大な機械が設置されていた。鋼鉄の脚の上に短円筒形の機械が据えられ、更にその上にガラス製の大きな漏斗が載っている。径四メートルを超す漏斗の縁に届くように、階段が取り付けられている。その階段を上り、漏斗に何かを注ぎ込むのだろう。
「ふうむ。ミキサーですな」
近くに立つ男達には聞こえない声で、黒贄は呟いた。その口元には面白がっているような微笑が浮かんでいる。
部屋の外から人の話し声が近づいてきた。
「いいではないか。面白い」
ゆっくりした嗄れ声はかなりの高齢と思われたが、その声音は同時に異様な生気を含んでいた。
「しかし先生、万が一ということもありますし……」
諫めるのはこれも年老いた声。
と、三人の男が地下室に入ってきた。黒服の男達が頭を下げる。
先頭の男は、深く屈んで入り口をくぐらねばならない程の大男だった。半袖の白いシャツからはみ出た腕もその顔も、隙間なく包帯に覆われていた。
その右に立つ男は、痩せた小柄な老人だった。やや粘質な威厳を放っているが、包帯の男に対しては卑屈な態度を取っている。
包帯の男の左にひっそりと控えているのは、白い着物姿の男だった。綺麗に切り揃えられた総髪に、表情のない鋭角的な顔立ち。三白眼と呼ばれる、白目の部分に比して小さな瞳が油断なく黒贄を観察していた。男は腰の左側に一振りの日本刀を差していた。
「わしに会いたいと言っておるのは、お前か」
包帯の男が黒贄を見下ろして尋ねた。男の全身からは自然に黒い圧力のようなものが発散されていた。人によってはそれを妖気などと呼ぶことだろう。
「初めまして、黒贄礼太郎と申します。私立探偵を、やっています」
黒贄は弱々しく且つにこやかに挨拶した。
「ほう。私立探偵が、何の用じゃの」
「実はですねえ、逆楡龍苑さんが、日本に戻ってきたという、噂があるようで、私に、それを、確かめて来い、と」
「誰に頼まれたのじゃな」
「それは、職業柄、依頼人については、お答えすることが、出来ません。ふう」
黒贄は、如何にも辛そうな顔をしてみせた。
「ふふん。まあいいじゃろう。これまで特に隠しておらんかったからの。察知されておっても不思議はない、か」
包帯の男の、頬の辺りが動いた。
「しかし、変ですねえ。私の聞いている、逆楡さんは、そんなに、背が高くなかったようですけれど」
「それはのう、成長期だからよ」
カッカッ、と、包帯の男は不気味な声で笑った。
「なるほど、でも、包帯で顔が隠されていては、本人かどうかは、確かめようがありませんねえ。折角ですから、包帯を取って、顔を見せて頂けませんかねえ」
「ぶ、無礼者がっ」
横にいる痩せた老人が血相を変えて怒鳴った。それは同時に、何かを恐れているようにも見えた。
「まあ、良いではないか。お前の度胸に免じて、冥土の土産に顔を見せてやろうかの」
そう言って、包帯の男は両手を顔まで上げた。顔に巻かれた包帯を解いていく。
痩せた老人が、体を小刻みに震わせて顔を背けた。これまで見たことがなかったのだろう、男達の何人かがウッと呻く。白い着物の男は平然としていた。
「ほっほーう」
黒贄が嘆息した。
包帯の中から現れたのは、ざらざらしたオレンジ色の皮膚を持つ、獣に似た造形の顔だった。眉毛のない額の両端に浅くテント状の隆起があった。まるで角が生えかけているかのようだ。鼻は大きく広がり、全体的に前方へ突き出している。唇は分厚い皮膚と同化しており境がない。口の両端は耳の下まで延びていた。眼裂は丸く、黒々とした大きな瞳が黒贄を見下ろしていた。
「なかなか個性的な顔をしておられますな」
物怖じすることなく黒贄は感想を述べた。
「しかし、私は逆楡さんの顔写真を見ましたが、どうもあなたとは別人のようですね」
「ちょっと事情があっての」
嗄れ声で自称逆楡は答えた。
「わしは若い頃から魔術に凝っておってな。悪魔と取り引きをした。強い力を得る代わりに……」
「死んだ後は魂を捧げるという訳ですかな」
黒贄の言葉に、逆楡は口を歪めて首を振った。
「カッカッ。違うのう。そんな勿体ないことはせんわい。その代わり、生け贄を捧げることになった。人々の苦痛と恐怖が奴の好物での。わしはミキサーを使ってそれを引き出し、出来た肉はわしが食べた。それによって、わしは力を維持しておる。人の心を操れるのも、銃で撃たれても死なぬ不死身の体も、そのお陰じゃよ」
「グルメでいらっしゃいますな」
黒贄が皮肉を言った。或いは、本心からだったのかも知れないが。
「だが、十三年前に狙撃されて死にかけてから、どうもわしの体が変化してきたのじゃよ。あの頃わしは体を再生させるために、人肉を食べに食べ続けた。脳の大部分を破壊されたのが悪かったのかも知れんし、食べた人間の中に妙なのが混じっとったのかも知れん。わしの体はどんどん成長し、皮膚が硬くなり、顔の形が人間とは思えんものに変わっていった。わしは焦った。なんとかして顔を元通りにせねばならん。この顔では政治家は出来んからの。カッカッ」
それは、自嘲めいた笑いだった。
「腕の良い形成外科医にもかかったが失敗じゃった。皮膚がメスを通さんのじゃよ。わしに出来ることは食べて治すことだけじゃった。わしは顔を元に戻すために各地を回り、色んな人種を試してみた。しかしわしの顔は酷くなるばかり。そこでわしは考えた。わしは日本人じゃから、やはり日本人の肉が一番合っているのじゃろうとな。それで危険を冒しながらも十五年ぶりに、故郷の土を踏んだという訳じゃ」
「なるほど。いやあ、詳しい説明をありがとうございます。これで、逆楡さんがおられることを自信を持って報告出来ますよ」
黒贄が微笑むと、怪物逆楡はさも可笑しそうに笑った。
「カッカッ。面白い男じゃ。お前の肉を喰らえば、わしも元通りになれるかも知れんて。さて」
逆楡が大きな顎をしゃくった。男達が黒贄の体に近寄った。抱え上げてミキサーにかけるつもりなのだろう。
「逆楡さん、私も不死身に関しては一家言ありまして」
黒贄が言った。黒贄が途中から苦しげな素振りをやめ平然と喋っていたということに、彼らは気がついていただろうか。
「ほう、何じゃね」
男達が黒贄の体を抱き起こした。
「悪魔と取り引きしたからとか人肉を食べたからとか、不死身であることに尤もらしい根拠があってはいけません。不死身は、不死身だから不死身なのです」
黒贄の唇の両端が、キュウッと吊り上げられた。ぞっとするような笑みだった。
「カッカッ。放り込め」
「あーキュポンキュポン」
逆楡が命じるのと、黒贄が奇妙な台詞を唱えるのとがほぼ同時だった。
「うぎゃああああっ」
黒贄を掴んでいた一人が自分の顔を押さえた。その手から二つの眼球がはみ出して糸を引いていた。
「目が、目があああっ」
黒贄の右手に小さな銀色のスプーンが握られていた。スプーンには新しい血が付いていた。
男の両目を、黒贄はスプーンで素早く抉り出したのだ。
「こ、こいつ」
もう一人が黒贄を押さえ込もうとした。
「あーキュッポン」
その右目を黒贄のスプーンが抉り取る。スプーンの曲面を利用した見事な職人芸だ。
「えぎいいいっ」
「キュッポーン」
思わず自分の目を押さえた男の首筋を、黒贄のスプーンが深く抉っていた。異常な黒贄の筋力だった。だがスプーンの首が折れ、残ったのは五センチ程の柄だけになった。
「こ、こいつ」
男達が懐から拳銃を抜き出した。左側の三人に対し、首筋から血を噴いている男の体を黒贄が放り投げた。勢い良く激突し、骨の折れる音が地下室に響く。右側の二人には、傍らに転がっていた女の死体を投げた。回転しながらぶち当たった死体に吹き飛ばされ、男達が壁に頭をぶつける。
「ひいっ、化け物っ」
痩せた老人が逃げようとした。逆楡はその場から動かない。そして地下室の出口は逆楡の後ろだった。
「では失礼しまーす」
黒贄は明るい声で挨拶すると、両目を失って蹲る男を左手で掴み上げて盾にした。そのまま逆楡に向かって突進する。
風が鳴った。
それは突風ではなく、曖昧なそよ風でもなかった。ただ鋭く小さな音だけが聞こえた。
「おりょ」
黒贄が言った。
彼が持ち上げていた男の胴体が、腰の上でほぼ水平に切断されていた。下半身がドチャリと床に落ちる。
それと同時に、切断されていたものがあった。
黒贄が男の体の陰で構えていたスプーンの柄が、右手首ごと消失していた。異常に鋭利な断面だった。黒贄は、落ちていく自分の右手首を、ちょっと困ったような顔で見つめていた。
黒贄の前に、白い着物の男が立っていた。彼はいつの間に抜いたのか、日本刀を青眼に構えていた。と言うより、男の胴体と黒贄の右手首をただの一閃で切断したのはその日本刀であったのだ。
だがすぐに黒贄はニッと笑みを見せた。その瞳の奥で黒い歓喜が不気味な渦を巻いていた。
「素晴らしい。時代劇から飛び出してきたようなお人ですな」
緊張感に欠ける黒贄のコメントにも、対照的な瞳の中の不気味な渦にも、着物の男は無反応だった。
「下がっておれ、村雨」
逆楡の一声で、着物の男・村雨は滑るように二、三歩下がった。
「ほほう、えらく自信がおありですな」
半分になった男の死体を横に投げ捨て、黒贄が言った。右手首からは血が流れていたが、黒贄は不敵な笑みを維持していた。
瞬間、黒贄の体が眩い光を浴びた。
逆楡は何もしなかった。ただその両目が光っただけだった。
それだけで、黒贄の体は動かなくなっていた。
「こりゃ困りましたな」
黒贄が他人事のように呟いた。逆楡が近づくと黒贄の体を軽々と抱え上げ、部屋の中央へ放り投げた。
即ち、ミキサーの透明な漏斗の中へ。
黒贄の体はガラスの壁を滑り落ちていき、足先が鋼鉄の刃にかかって止まった。少し切れたらしく、下の容器に血が滴り落ちる。
「楽しみじゃぞ、黒贄とやら」
逆楡は機械の側に寄り、電源スイッチを押した。
六枚の刃が唸りを上げながら高速で回転を始めた。血と肉片が散り、透明な壁面の下半分にべったりと張り付いた。靴や服の切れ端と一緒にミンチとなった体が容器へ落ちていく。
自分の足を削られながら、黒贄は笑っていた。ショックで呪縛が解けたのか、彼は左腕を大きく振り被り、手刀を作ってガラスの壁に突き込んだ。
ビシリ、と、硬質ガラスの壁面に亀裂が走った。
「おおっ」
逆楡が驚いて後じさる。
血と肉で曇った漏斗が砕け散った。破片を浴びそうになった逆楡を村雨が庇う。その隙にミキサーから飛び出した影が、凄い勢いで横を擦り抜けていった。
「何ということじゃ。わしのミキサーが」
愛用の品を破壊されて逆楡は呻いた。
階段を駆け上がる黒贄は、右足が足首まで、左足が膝のやや下までしかなかった。断面から血を流しながら奇妙な格好で走る黒贄の顔には、それでも微笑が浮かんでいた。
黒贄の背後に鋭い殺気が迫っていた。黒贄は一階に上がると手近な窓を見つけ、欠けた両足ですぐさま跳躍した。
銀光が閃いた。
ガラス窓をぶち破った時、黒贄の胴体は、左腰から右脇までを一気に両断されていた。
窓の外には地面はなかった。その窓は断崖絶壁ぎりぎりの場所で海に面していたのだ。
真っ二つになって奈落へ落ちていく黒贄を、日本刀を握った村雨は冷酷に見下ろしていた。
「どうじゃったか」
背後から逆楡の声がかかり、村雨は答えた。
「仕留めました」
全く感情を含まぬ、抑揚のない声だった。
「勿体ないことをしたのう。死体は上がってこんじゃろうからな」
逆楡が残念そうに言った。常人よりも遥かに長い舌が伸びて、自分の大きな鼻を舐めた。
五
深夜二時。
電灯も点けず、窓から差し込む満月の薄明かりの中、黒贄礼太郎探偵事務所の机に長身の影が座っていた。
影は上半身裸のようだった。その胴体の輪郭が、途中で微妙にずれている。
影は左手を伸ばし、電話の受話器を取った。受話器を机の上に一旦置いて、左手で電話番号を入力する。
受話器を持ち、影は言った。
「大曲刑事さんに代わってもらえますかな」
やがて、あのくたびれた声が届いた。
「ああ、大曲だが」
「刑事さんですか。私です。黒贄礼太郎です」
影は静かに告げる。
「おっ、クロちゃんか。待ってたよ。首尾はどうだった」
「クロちゃんではありません、クラちゃんです」
「分かったよクロちゃん。それで逆楡は」
ちっとも分かっていないようだ。
「先程、本人に直接会って確認を取りました。姿は変わってますが、本物のようですな。ミキサーもありましたし」
「よーし。すぐに署長を叩き起こして、掛け合うことにするよ。クロちゃん、ありがとさん」
喜び弾む大曲の声に、影が言った。
「すみませんが刑事さん。もう一枚、番号くじを引いてもらえますかな」
「……」
大曲の息を呑む気配が伝わってきた。
「ク、クロちゃん。もう仕事は終わったんだし……」
「事務所まで来るのは面倒でしょうから、私が代わりに引いておきますね」
「ま、待った、クロちゃん」
「クラちゃんです」
そう言い捨てて影は受話器を置いた。影は箱を引き寄せて、左手を突っ込んだ。
一枚の紙片を取り出し、片手で開いて満月の光に翳す。
「九十六番ですな」
読み上げる声は微かに震えていた。湧き上がってくる愉悦を堪えるように。
影は立ち上がり、左のドアまで歩いた。歩くごとに、カツンカツンと硬い音がした。
影の右手首から先は、存在しなかった。
左手だけで鍵を開け、影は奥の部屋に入った。
少し経って出てきた影は、細長い物を握っていた。長さは一メートル程か。その先端に、握り拳よりやや小さいくらいの平たい突起が付いていた。
「パミー。パンミー。パッミー」
言葉の響きを試すように、影は呟きながら椅子に座った。
「パメーン。パミョーン。パッパミー」
影は机の引き出しを開け、ロープの束を取り出した。
「パミャー。今回はこれですな」
ロープを左手だけで解きながら、影は満足げに頷いた。
六
警察の内通者から逆楡の元に連絡が入ったのは三十分後のことだった。逆楡はその男の口座に百万円を振り込むよう国会議員の西原に命じた後で、包帯を巻いた太い首を捻った。
「おかしいのう。あの黒贄という男が生きておったということかの」
包帯の隙間から、炯々と光る大きな瞳が覗いている。
傍らに控える村雨は無言だった。
「或いは、奴の懐に無線マイクが収まっとったのかも知れんが。何にせよ、不用意じゃったな」
のんびりと呟く逆楡に西原が言った。
「警官隊が出動して別荘に到着するまでは、まだ四十分以上の余裕があるようです。先生、ここは一旦避難された方が宜しいかと。お車のご用意は出来ております。あのミキサーも運び出すように部下には伝えております。警官隊は私がなんとか時間稼ぎをして……」
「まあ待て西原。わしはちょっと考えておったことがあってな」
言いながら逆楡は地下室への階段を下りていく。村雨と共に、仕方なく西原もついていく。
「昨夜わしがここに着く時に、雑誌記者が待ち構えておったじゃろう。そして今日は黒贄という探偵じゃ。どうもタイミングが良過ぎるんじゃないかと思っておったのだ。お前達、ミキサーを動かすのはちょっと待て」
逆楡は窮屈そうに入り口をくぐり、ミキサーを持ち上げようと奮闘している男達に命じた。
「それはつまり、どういうことでしょうか」
西原が遥か上にある逆楡の顔を見上げる。
「つまり、この中に、わしのことを洩らした奴がおるんではないかと思ってな」
「そんな、先生、滅相もない」
慌てて手を振る西原の声は震えていた。その顔を、路傍に転がった石を見るような目つきで逆楡が見下ろす。
「西原、お前には、日本におる間はわしが随分と世話をしたのう。じゃがもう十五年も経った。国会議員として独り立ちした今となっては、スキャンダルのネタであり怪物となったわしのことなど、邪魔者でしかないのかも知れんのう。お前の気持ちはようく分かるぞ」
「せ、先生……」
西原の額には、冷たい汗が滲んでいた。
「ミキサーのスイッチを入れよ」
逆楡が言うと、村雨が流れるような動きでそれに従った。破壊されたガラス製の漏斗は既に外してあり、剥き出しになった鋼鉄の羽が回り出す。
「先生、わ、私じゃない、助け、助けて……」
「まあじっとしておれ。すぐに終わる」
逆楡は片手で西原の体を掴み上げ、唸りを上げて回転する羽に直接押し付けた。
凡そ人間のものとは思えぬ悲鳴が上がった。
飛び散った血が、肉片が、逆楡の包帯にもかかった。逆楡は長い舌を出してそれをうまそうに舐める。村雨は自分の着物が汚れないようにミキサーから距離を置いていた。
本来西原の部下である筈の男達は、恐怖のためか逆楡の術のためか身動き一つ出来ず、容器に落ちていく挽肉を見守っていた。
二十秒程であっけなく、西原の痩せた肉体は完全に下の容器に収まっていた。
スイッチを切ると、逆楡は男達に命じた。
「ミキサーを運び出して、トレーラーに積み込むがいい」
血の気の失せた顔で男達が従う。
「悪いが、お前のように年老いた肉はうまくないからのう」
容器に収まった西原の肉に言い残し、逆楡は階段を上っていった。
「実は血原組にはもう連絡をつけておるんじゃよ。以前繋がりのあった組じゃ。やくざなら、わしとの利害が一致するじゃろうて」
ついてくる村雨に、逆楡はそう言った。
「ミキサーも新品を作るように頼んでおる。あれも長い間使ってきたが、そろそろガタが来ておるでな。わしと違って」
カッカッ、と、逆楡は笑った後で、ふと真面目な口調に戻った。
「何年も前から気になっておったことがあるんじゃ。もしかするとわしの顔は、あの悪魔の顔に……」
逆楡はそれ以上の言葉を続けなかった。自分でも、口に出すのを恐れていたのかも知れなかった。
前の庭に、既にリムジンを待たせてある筈だった。逆楡は玄関の扉を開け、身を屈めて外に出た。
その瞬間、ゴチャリ、とでも言うべき音が聞こえた。後ろにいた村雨が目を見開いた。
「パミャー」
上方から異様な声が洩れた。
逆楡の、首から上の部分が消失していた。刃物ではなく鈍器を凶暴な力で叩き付けたような爆ぜた断面から血が噴き出していく。
ぐらりと、逆楡の巨体が前のめりに倒れた。玄関の上に潜んでいた影が跳躍し、距離を置いて着地した。カツンカツンと硬い音がした。
満月の光を浴び、その男は裸の上半身を晒していた。分厚くはないが鞭のようにしなやかな筋肉の束が、血の気のない皮膚の下でうねっていた。右脇の下から左腰まで、輪切り状に新鮮な傷が走っていた。胴体を両断したその傷を繋ぎとめているのは裁縫用の木綿糸だった。乱暴な縫い方で、所々がずれている。男の足は破れた礼服のズボンを履き、右足が足首まで、左足が膝のやや下までしか存在しなかった。その代わりを務めているのは、足の中に打ち込まれた木の棒だった。二つの丸い先端で地面を突いて、男は器用に姿勢のバランスを保っていた。男の右腕は手首から先が存在しなかったが、その代わりに別のものが生えていた。前腕の中へ深く埋め込まれ、肉に食い込む程に強くロープで巻き付けられ固定されたそれは、ゴルフクラブのアイアンであった。村雨に向かって差し上げる、血塗られたアイアンの底部には、七の文字が刻まれていた。
「パミャー」
気の抜けるような無意味な奇声を、男は発した。
殺人鬼探偵・黒贄礼太郎のその顔は、般若の面で隠されていた。
彼がその足の状態で、時速六十キロ以上のスピードでこの別荘まで駆けつけ、既に待ち構えていたということを、誰が信じられようか。
リムジンの運転席には、頭の潰れた黒服の死体が座っていた。
「かあーっ」
村雨が刀を抜いて気合を発した。彼が初めて見せた表情は、黒贄の般若面と同じく、怒り、だった。
恐るべきスピードで村雨が黒贄へと迫った。両足を木の義足で支えている黒贄は、身を躱すことも出来なかった。
唸りを上げて、アイアン七番の横殴りのスウィングが村雨を迎撃した。その単調な軌道を村雨は跳躍してぎりぎりで避け、逆に日本刀の一閃が黒贄の面の下、その首筋へ減り込んだ。
ギャリッ、と、金属と金属の噛み合う手応えに、村雨が目を剥いた。
必殺の刃は、黒贄の首を五センチも進まずに停止していた。
村雨の刀の柄を、握った両手ごと黒贄の左手が掴んだ。骨の軋む音に村雨が顔を歪める。黒贄に持ち上げられる形となった村雨は、草履を履いた両足で黒贄の腹部を、特に傷口の付近を蹴りつけた。だが黒贄はびくともしなかった。
刃の離れた首筋の傷が開き、中から赤茶色の金属が覗いた。村雨が蹴ったせいで捲れ上がった腹の傷からも、同じ物が見える。
村雨の刃を防いだそれは、コンクリートの芯としてよく用いられる、細長い鉄筋であった。黒贄が行きがけに工事現場から盗み出し、何本も体内に埋め込んでおいたのだ。
「パミャー」
もう一度、黒贄が言った。右腕の七番アイアンがゆっくりと振り被られる。
般若面の奥から村雨を見つめる瞳は、真空の宇宙に匹敵する、絶対零度の黒い輝きを放っていた。
「き、きさまあああああっ」
叫ぶ村雨の頭に、アイアンの鈍い縁が激突した。それは頭蓋骨をぶち破り骨と脳の破片と撒き散らしながら反対側まで通り抜けた。
村雨の頭が、消滅した。
「パミャー」
力を失った村雨の死体を放り捨て、何の感情も含まぬ声で黒贄は言った。
と、何を思ったか、玄関口に倒れている首のない逆楡に黒贄は近づいていった。
失われた首の断面からは出血が止まり、ブツブツと不気味な音を立てていた。ささくれた肉片が少しずつ動いて癒合を始めているのだ。
このまま放っておけば、いずれ頭が再生するのかも知れない。
黒贄は逆楡の巨体を左手で抱え上げ、二本の義足で屋敷の奥へと進んでいった。
「どうしたんですか、先生……」
村雨の叫び声に驚いた男達が階段を上がってくる。拳銃を握っている者もいた。
「パパパパミャー」
黒贄は血塗れの七番アイアンを振り、その度に男達の頭が吹っ飛んだ。
地下室では漏斗のないミキサーがまだ置かれていた。少し位置がずれているのは、運んでいる最中だったのだろう。
黒贄は一旦逆楡の体を置いて、コンセントを挿し直した。
アイアンの先でスイッチを押すと、勢い良く鋼鉄の羽が回り出した。
その数十秒の間に、逆楡の首に、頭らしいものが出来始めていた。まだ成長しきっていないそれは、彼が半日前に見せた顔とは別のものだった。赤銅色の皮膚に、山羊に似た形の顔。額の左右の端から、見ている間にも捻じ曲がった角が伸びていく。
「フッシャーッ」
黒贄が逆楡の体を持ち上げると、山羊に似た怪物は鋭い威嚇音を発した。手足がぎこちないながらもバタつき始める。
「パミャー」
黒贄は構わずに、元逆楡の体をミキサーに直接押し付けた。
「ギシャアアアアアッ」
飛び散る血と肉の欠片が、般若面にも撥ねた。山羊頭の怪物はひどく暴れたが、黒贄が押さえているので逃げられずにどんどん体積が減っていく。生成された挽肉が下の容器にどんどん溜まっていき、西原国会議員のそれに追加された。
エピローグ
夕暮れの静寂の中、黒贄礼太郎は細い道を歩いている。着古した黒い礼服と、歩く際に殆ど音を立てない薄汚れたスニーカー。
黒贄の三十メートル程先を、夕陽に背を染めて一人の女が歩いている。長い黒髪を腰の辺りまで伸ばした、美しい女だった。年齢は二十才前後だろう。大学からの帰りだろうか、薄いベージュのスカートにゆったりした白いシャツ、肩にはテキストの入っているらしい大きな鞄をかけている。
街で一時間も前に擦れ違ってから、黒贄はずっと女の後を尾けているのだった。女が本屋に寄り、ショーウィンドウに飾られた洋服を眺め、偶然見かけた知り合いとちょっとした立ち話に興じている間も、黒贄は息を潜めて女を観察していた。
黒贄の瞳には今、気怠い殺戮への期待ではなく、少年のような恥じらいと躊躇が浮かんでいた。
何度も駆け出そうとしてやめ、黒贄は唇を噛んだ。相手に声をかけたくても、それが出来ないようだった。
だが、ついに黒贄は走り出した。すぐに女に追いついて、緊張した面持ちで背後から声をかける。
「あの、ちょっと」
「え、何ですか」
怪訝な表情で女が振り向いた。その仕草がまた美しい。
「ぼ、僕と付き合ってもらえませんか。い、いえ、まずはお茶でも一緒に……」
黒贄はいきなりそう言った。
「グボッ」
女の口から異様な声が洩れた。声の後には、大量の血が溢れ出す。
「あれっ」
黒贄は愕然として女を見た。女が苦痛に顔を歪めながら、自分の胸元を見下ろした。それにつられて黒贄も視線を下げる。
女の胸に、太い刃が刺さっていた。
それは、峰の部分に鋸の付いた、大型のサバイバルナイフだった。
黒贄は更に視線を動かして、ナイフの根元を見た。
凶器を握っているのは、黒贄の右手であった。
「あ、刺しちゃった」
情けない顔で、黒贄は呟いた。
衣服を夕陽ではなく血で染めながら、スズ、と、女が崩れ落ちていった。澄んだ目から光が失われ、そのまま、女は息絶えた。
血塗れのサバイバルナイフを握り締め、呆然と、黒贄は立ち尽くしていた。