第三話 ウェルダン

 

  プロローグ

 

 血臭と腐臭の漂う黒贄礼太郎探偵事務所で、静寂を破ってけたたましいベルの音が鳴り響いた。

 机の上で騒いでいるのはダイヤル式の黒い電話機だ。プラスチックのダイヤル盤は一部、指を入れる部分が割れ、赤い染みが残っている。

 薄暗がりの中、礼服を着た腕が伸び、受話器を掴んだ。

「はい、黒贄礼太郎探偵事務所ですが」

 気怠い声で黒贄は応じた。窓から差し込む淡い光に浮かび上がった顔は珍しく、ちょっとした苛立ちを示していた。テレビドラマに夢中になっている少女が母親に用事を言いつけられた時に、丁度このような表情を見せるかも知れない。勿論、黒贄の事務所にテレビはないが。

「いきなり電話で失礼だが、こっちも焦っていてね。行方不明になった娘を捜して欲しいんだ。何者かに攫われたようだ」

 声の主は中年の男だった。娘の身を案じる不安のためか、声は揺れていた。

「ほほう。まあ取り敢えず、お聞きしましょう。いつ何処でどのようにして行方不明になられたのですかな」

 黒贄は受話器に向かって尋ねた。

「いなくなったのは昨日だ。夕方の六時前後らしい。学校からの帰り道で、商店街を歩いてたところまでは目撃者がいるんだが。それが、黄泉津通りに娘の鞄だけが落ちていた」

「ふうむ。黄泉津通りですか。ここから近いですな」

 黒贄は首を捻った。何か思うところがあるようだ。

「警察にも連絡したんだが、まだ全く手掛かりが掴めていない。お願いだ、娘を捜し出してくれないか。娘はまだ十七才なんだ。こんなことで失いたくない」

 声は次第に、今にも泣き崩れてしまいそうな切迫感を増してきた。

「十七才ですか。ということは、高校生でいらっしゃる」

 黒贄の首を捻る角度が深くなった。

「そうだが」

「聞き忘れていましたが、娘さんのお名前は何と仰るのですかな」

「春奈、南条春奈だ。頼む、引き受けてくれないか」

「ちょっとお待ち下さい」

 そう言うと、黒贄は受話器を机の上に置いた。彼はドアの近くまで歩き、電灯のスイッチを入れた。

 事務所に蟠っていた薄闇を光が追いやった。壁に飾られた仮面達と机と椅子、緑色の古いソファーが照らし出される。

 ソファーの手前に、若い女の死体が転がっていた。

 セーラー服を着た死体の胸に、短刀が根元まで突き刺さっていた。まだ作業を始めたばかりであったのだ。

 黒贄は血塗られた手で制服のポケットを漁った。財布の中に学生証が入っていた。

 学生証には、南条春奈、と記載されていた。

 黒贄は机に戻り、受話器を取って相手に告げた。

「お断りします」

 黒贄は電話を切った。

 

 

  一

 

 真昼の街は、昼食を摂る店を探してうろつくサラリーマン達と、何がしかの物質的或いは精神的快楽を求めて徘徊する若者達で溢れていた。

 その人込みの中に、場違いに若い影が混じっていた。平日の昼に制服を着て、周囲を見回しながら歩く少年は、まだ中学生であった。

 少年は背丈が百四十センチ程度で、しかも猫背であった。胴回りも腕もかなり細く、軽く押しただけで倒れそうなくらいに頼りなく見えた。髪は今時珍しい坊っちゃん刈りだ。頬はこけ、神の手によって押し潰されたような配置の目鼻は常に陰気な印象を漂わせていた。街の流れの中で、彼の存在だけが浮いていた。

 人々は、学生服の少年を気にも留めなかった。彼らはそれぞれ自分の用事のために脇目も振らずに進んでいく。そんな群衆を、少年は死人のように感情のない瞳で眺めるのだった。

 少年は手頃な何かを探しているようにゆっくりと歩きながら、人込みと通りに並ぶ建物を観察している。その口元には暗い優越感を湛えた薄い笑みがへばり付いていた。

 行き交う人の流れの中、少年の正面から三人の若者が歩いてくる。ピアスや薄いサングラスや逆立てた金髪の彼らは、互いのお喋りに夢中になっている。

 少年もまた横を向いていて、進行方向の若者達に気づかなかった。

「おっと」

 若者の一人の腕に、少年の肩が触れた。

「あっ」

 少年が二、三歩よろめいた。その慌てた仕草が滑稽で、若者達は吹き出した。

 若者達を見上げる少年の顔を、臆病な本性が掠める。

「ちゃんと学校行きなよ、ボクう」

 サングラスをかけた若者が少年の頭に手を載せた。他の二人は可笑しげに笑った。

 彼らとのやり取りはそれだけだった。他の通行人は何人かがちらりと横目で見ただけで、後は無関心に通り過ぎていく。

 少年は無言だった。若者達が少年の横を擦れ違っていった。取り残された少年は立ち止まって振り返り、歩き去っていく若者達の後ろ姿を見守った。

 少年の瞳は、陰鬱な黒い憎悪に濁っていた。

「アレニスルカ、タカシ」

 声が聞こえた。人間のものとは思われぬ奇妙な音程だった。声はとても微かなものであったので、この雑踏の中では少年の耳にしか届かなかったろう。

「そうしよう」

 少年が頷いた。その唇が昏く歪む。

 少年の瞳が一瞬、赤い色を帯びた。

 二十メートル以上先を歩く若者達の内、サングラスの若者の背中に赤い点が生じた。

 若者は気づかずに、談笑しながら歩き続けた。

 赤い点の面積が、若者の薄いトレーナーの上で次第に広がっていき、径五センチ程に達すると、ポンと小さな音を立てて炎に変わった。

「アチッ」

 サングラスの若者が立ち止まり、自分の背中に触れようとした。

「あれ、お前の服、燃えてるぞ」

 仲間がトレーナーの炎に気づいた。

「アチチ、アチ、消してくれよ」

 サングラスの若者が叫ぶ。

 まだ炎は大きなものではなかった。一人が苦笑しながら上着の袖で炎を叩く。

 炎は消えなかった。逆に叩いた袖に燃え移り、仲間は舌打ちした。

「服を脱げよ」

 別の一人が言った。炎は背中の大部分を覆い始めていた。

「アチ、アチチチ、アヂイイイイイッ」

 サングラスの若者が慌ててトレーナーを脱ごうとした。だが炎は既にシャツにまで透っていた。

 急に炎が勢いを増した。サングラスの若者の上半身が、一気に火達磨になった。

「うげあああああっ」

 サングラスの若者は地面を転げ回った。横目に通り過ぎていた人々がどよめき出した。

「火が、火が消えねえよ」

 燃え盛る自分の腕を見つめ、仲間が泣きそうな声で言った。炎は弱まるどころか勢いを加速している。脱いだ上着ではたいて、サングラスの若者の炎を消そうとした別の仲間に更に炎が燃え移る。

「誰か、誰か助けてくれよ。火を消してくれよ」

 若者の叫びも虚しく、人々は遠巻きにして恐る恐る眺めるだけだった。腕に火のついた若者が助けを求めて彼らへ走り寄り、中年の婦人の体にも火が燃え移る。

 それをきっかけに、群集がどっと逃げ散っていった。後には火達磨になって走り回る者と転げ回る者が五、六人残された。

 それを確認すると最後までは見届けず、少年は背を向けて、これまでの方向を歩き始めた。

「クックッ。クックックッ」

 少年は陰湿な笑みを浮かべ、静かに含み笑いを洩らした。誰もが逃げ出すことに精一杯で、少年の様子を気にする者などいなかった。

 暫く含み笑いを続けていたが、やがて少年は、デパートの前で立ち止まった。この地域では大手の一つで、平日と言えど多くの客が忙しなく出入りしている。

「ここにしよう」

 少年は誰にともなく呟いた。

「ワカッタ、タカシ。イリグチマデ、モットチカヅケ。ダレモ、ニガシタクナイ。タクサン、コロシタイ」

 微かな声が、少年の言葉に応じた。

 不気味な声は、少年の内部から聞こえていた。

 少年は、未来への希望に輝くその年齢には似つかわしくない軽蔑と憎悪の眼差しを、冷笑と共に人々へ送っていた。

 

 

  二

 

 黒贄礼太郎は人も疎らになった夕闇の通りを歩いていた。暫くアイロンとは縁遠いような古い礼服に、歩く際に殆ど音を立てない薄汚れたスニーカー。身長が百九十センチを超える彼を、擦れ違う者は必ず振り向いた。

 彫りの深い端正な顔立ちだが、切れ長の目は何処か眠たげだ。口元は常に、何かを面白がっているような淡い笑みを浮かべている。自分で適当に切ったらしい髪は左右不均等で、彼の大きな歩幅につられ、ゆらゆらと揺れていた。

 黒贄は左脇に一辺が三十センチほどの箱を抱えていた。その上面には丁度人の手が入りそうな丸い穴が開いている。

 場所を確かめるように時折景色を見回しながら進む黒贄は、やがて、静かな通りにひっそりと構えたレストランを見つけ出した。

 大きくはないが洒落た洋風の造りで、看板に描かれた名称は『ボーダーゾーン』となっていた。

 黒贄は小さく頷くと、入り口のガラス戸を押し開けて店内に足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ」

 蝶ネクタイをしたウェイターが落ち着いた物腰で一礼した。

 店内はセピア色の明かりに照らされていた。クラシックな調度品がさり気なく飾られているが、どれも高級な品ばかりだ。七、八人の客がいた。彼らの服装も談笑するちょっとした仕草も上流階級の雰囲気を漂わせ、レストランの中で黒贄だけが場違いな存在に見えた。

 だが、黒贄にそれを気にする様子はない。

「お客様はお一人様ですか。それとも、どなたかとお待ち合わせでも」

 店内をキョロキョロと見回す黒贄にウェイターが尋ねた。

「こちらデスよ、ミスターくらにい」

 その時、店の奥から奇妙なイントネーションの声がかかった。

「おっと、そちらでしたか」

 黒贄は隅のテーブルで手を上げた男を認めると、奥に向かって自分で歩いていった。クッションの良く効いた椅子に腰を下ろし、隣の椅子に箱を置いて、テーブルの向かいに座る紳士に言った。

「いやあ、良いレストランですな。初めまして、黒贄礼太郎です。念のため言っておきますが、決して、くらにい、ではありません」

「コレハ失礼。エフトル・ラッハートです。ワザワザお呼びダテして申し訳ありマセン」

 屋内であるにも関わらずシルクハットを被った紳士は、そう名乗った。その喋りには音程の狂ったような不自然な声音が混じる。名前からして外国人と思われるが、英語圏の者が日本語を喋る際の違和感とはまた異なっていた。

 燕尾服に身を包んだエフトル・ラッハートは、小柄ではあるがどっしりした体型の男だった。年齢は四十代であろうか。肉付きの良い顔は穏やかながら、殆ど表情が動かない。左目に填まった片眼鏡から銀色の細い鎖が伸びている。両目は丸く開かれたまま正面の黒贄を見つめていたが、どのような感情も含まない虚ろなものだった。しかも瞬きをしない。椅子には黒いステッキが立てかけてあった。

 テーブルの上には、エフトルの前にコーヒーカップが置かれていた。中身は少しも減らないまま冷め切っている。

「用件にハイル前に、まずはお好きな物をご注文クダサイ。ゴ心配なく、お代はワタクシがお持ちしまス」

「こりゃどうも。それでは遠慮なく」

 ウェイターの差し出したメニューを開くと、黒贄は特大のステーキとチキンドリアとナポリタンスパゲッティとビーフシチューと海老グラタンと帆立貝カレーとチョコレートパフェを注文した。

「ナカナカの健啖家でおられますネ」

 エフトルが澄まし顔を崩さずに言った。

「お恥ずかしい。三日間、何も食べていなかったもので」

 黒贄は恥ずかしげもなく答えた。

「探偵というショクギョウは、大変なヨウデすネ」

「そうですな。収入が不安定で困ってしまいますよ。夫の浮気調査なんかではうっかり夫本人を殺してしまったり、後払いなのにうっかり依頼人まで殺してしまったり。いやあ、生きるということは大変なことですねえ」

 黒贄はしみじみと言った後で、意味ありげにエフトルを見た。

「いやあ、実は、一目見た時からあなたのことが気になっておりまして。仕事よりも、あなたの方にそそられておりますな」

 黒贄の瞳の奥で、不気味な黒い渦が巻き始めていた。薄い唇が吊り上がる。

「ご期待にソエナクて残念ですガ」

 まるで動揺するふうもなくエフトルは言った。彼は白い手袋をした手でシルクハットを外し、下を向いて剥き出しの頭を黒贄に見せた。

「このようにナッテおりまして」

「ありゃりゃ」

 黒贄の瞳の熱狂が瞬時に醒めていた。

 エフトルの額の生え際、シルクハットを当てていた部分から上は、鋸で水平に切断されたように何も存在しなかった。そこから見えるべき骨と脳の断面はなく、完全に空洞になっている。薄い内壁の凹凸は、そのまま外面の頬や鼻の隆起に対応していた。首の辺りで括れがあり、空洞は更に奥まで続いているようだが、それ以上先は見通せなかった。

 エフトル・ラッハートは、薄い鉄板を型通りにプレスして作ったような、中空の存在であった。

「失望させまシタカな」

 コーヒーカップを取り上げ、冷めた中身を全て頭頂部の穴へ注ぎ入れると、エフトルは優雅な動作でシルクハットを被り直した。

「仕事の話に行きましょう」

 元気なく黒贄が言った。

「サテ、ここ数週間デ、ここ八津崎市内の火事が急増してイマス。特に三日前に大倉屋でアッタカサイハ、二百人以上が焼死するという大サンジになりマシタ」

「ははあ、なるほど。あの大倉屋の」

 黒贄が自分の顎を撫でる。

「ご存知でシタカ」

「いえ、全く知りません」

 黒贄は平然と答えた。

 エフトルは表情を変えずに話を続ける。

「大倉屋のカサイは特殊でシタ。まず、炎が火の気のない正面のデイリグチから、突然発生したというコト。更に異常ナノハ、焼死者の状態に比して建物のヤケグアイが非常に軽いとイウコト。そして、最も重要なノハ、消防車の放水も消火器のフンムモ、炎にタイシ殆ど効果を持たなかったトイウコトです」

「ふうむ」

 黒贄は水の入ったコップを手に取って、中の氷を揺らしていた。続きを催促するように腹の虫が鳴る。

「この数週間におけるカサイの何割カハ、そのような特殊なモノデシタ。また、道を歩いテイた人が突然焼死するジケンモ起こっていマス。スポンティニアス・コンバッションの一種だと思われマス」

「ほほう。スポンティニアス・コンバッションですか」

 黒贄が眉を上げた。

「ご存知でシタカ」

「いえ、全然」

「スポンティニアス・コンバッションは、俗に自然発火現象と呼ばレマス」

 エフトルはそのまま続けた。

「火の気のナイところで、突然人間がモエテしまいマス。水をカケテも火は消えまセン。そのまま黒焦げにナッテ死んでしまイマス」

「ははあ、黒焦げですか」

 とか言っている間に料理が到着した。分厚いステーキをナイフで切りながら黒贄は呟いた。

「黒焦げじゃあ、あまりうまいものではないでしょうな」

「異常な焼けカタデス。ここに実物がありマスガ」

 エフトルはそう言うと隣の椅子に置いてあったバッグを開けて、黒い物体を取り出した。

 それは、炭化した人間の右手首であった。エフトルがテーブルの上に置くと、焦げた欠片がパラパラと剥がれ落ちた。

「ははあ」

 黒贄はステーキにぱくつきながら手首を観察した。エフトルは手首を動かして断面を見せたが、炭化は深く骨にまで達していた。

「これは例えば、ガソリンを浴ビテ焼死した場合とは異なりマス。君、ちょっと来てクレナイか」

 エフトルはウェイターに声をかけた。

「何でございますか」

 ウェイターが恭しくテーブルの側に立った。

 エフトルはバッグから液体の入った小瓶を取り出して、いきなり中身をウェイターに振りかけた。うまい具合にウェイターの全身に染み付いたそれは、特有の強い匂いを発散していた。かかった量は、小瓶の容量よりもかなり多く見えた。

「な、何を」

「ガソリンですガ」

 うろたえるウェイターに、エフトルは手袋を填めた右手を近づけてパチンと指を鳴らした。途端にウェイターの全身は炎に包まれた。

「あじいいいいいえええええっ」

 火達磨になって踊り狂うウェイターから、先程までの落ち着きは消え去っていた。

「ふうむ」

 黒贄はカレーを食べながらその様子を眺めていた。周りの客達が立ち上がって騒ぎ出す。

「マアマア皆さん、落ち着イテ」

 エフトルが皆に声をかけると、客も駆けつけた他の店員もすぐに冷静な顔になって、自分の行為に戻っていった。

 テーブルのすぐ横で、ウェイターは倒れたまま燃え続けていた。その内にウェイトレスが次の料理を運んできた。人肉の焦げる匂いが漂っていたが、黒贄は無心に食べ続けた。

 炎が小さくなってきた頃には、床には黒焦げの塊が横たわっていた。もう一度指を鳴らすと炎が消えた。

「さて、ガソリンの場合はこのヨウニ」

 エフトルが死体の腕を持ち上げた。さっきまでステーキを切るのに使っていたナイフを取って、黒贄がその手首を無造作に切断した。

「見かけはクロコゲデすが」

 エフトルが手首の断面を黒贄の目の前に差し出した。

「中身は生焼けデス」

「ふうむ。なるほどねえ」

 黒贄は感心したように呟いた。その時には黒贄は全ての品を食べ終えていた。

「お分かりにナリマシたかな」

 シルクハットを外し、ウェイターの焼死体を軽々と持ち上げると、エフトルは自分の頭の中に死体を放り込んだ。魔法のように死体が縮み、エフトルの内部に吸い込まれていった。ウェイターはこの世界から消滅した。

「それで、コの異常な火事を起こしテイル犯人を、サガシ出して欲しいのデス」

「ははあ。あなたは、この事件を何者かの仕業だと思われるのですな」

 黒贄は自分の顎を撫でた。

「何か根拠でもあるのでしょうかねえ。それに、依頼人であるあなたは事件と、どういう関わりをお持ちなんでしょう」

「そのテノ質問には、お答えデキマせん」

 シルクハットの紳士エフトル・ラッハートは、飽くまで無表情だった。

「まあ、私も依頼人の事情には興味がありませんがね」

 黒贄も気怠い口調で言った。

「サテ、報酬とシテハこんなところでよろシイでしょうカ」

 エフトルがバッグから取り出してテーブルの上にそれを置いた。

 黒贄は目を丸くして、顎が外れるくらいに口を開けた。

 テーブルに載っているのは分厚い札束であった。

「二百万円ありマス」

 エフトルが言った。

「そ、それは、しかし……」

 黒贄が苦しげに呻いた。彼は自分の中の欲望と戦っているようだった。

「いや、私は、依頼人から大金をふんだくるのは、ちょっと、職業倫理として……。いやその、フェアに行きたいと思って……」

「では、コチラに致しましょウネ」

 すぐにエフトルは札束を掴んで戻し、代わりに別のものを置いた。

 黒贄は目を剥いた。

 それは、一枚の、五十円硬貨だった。

「い、いや、やっぱりさっきのでお願いします」

 黒贄は泣きそうな声で言った。エフトルが札束を再び取り出し、黒贄はありがたく受け取って懐に収めた。ちなみにその二時間後、二百万円の殆どが借金の取り立てで消えることになる。

「それでは、二枚、選んで頂けますかな」

 黒贄が横の椅子に置いていた箱をテーブルの上に置いた。

「分かりまシタ」

 エフトルが手袋を填めたまま、上面の穴に手を入れた。

 彼が選んだのは、五十三番と十七番であった。

 

 

  三

 

 翌日の昼、強い風の吹き抜ける通りに、黒贄礼太郎は悄然と佇んでいた。黒の礼服にスニーカーといういつもの服装だ。

 黒贄の右手には、重量のある丸い球体があった。

 五十三番として選択されたそれは、ボーリングに使う黒い球であった。三つの穴に親指と中指と薬指を差し込み、黒贄は無造作にぶら下げている。

 黒贄の立っている前には廃屋となった二階建ての屋敷があった。破れた窓の周辺には黒い煤がへばりつき、火事に遭ったことを示していたが、建物自体は大して痛んでいなかった。黒贄は左手に、エフトル・ラッハートから受け取った一枚の紙を握っていた。そこには異常な火事のあった地点のリストが記されてある。

「一家五人が全滅じゃったよ」

 屋敷を眺めていた黒贄に背後から声がかけられた。

 黒贄が振り向くと、そこには杖をついた老人が立っていた。茶色のチョッキを着た彼は七十才を超えているだろう。

「あなたはご近所の方ですかな」

 黒贄が尋ねると、老人はすぐ隣のアパートを指差した。

「そこに住んじょるが。あんたは何もんかね。ここの人達んことを知っちょったんか」

「いえ私は探偵でしてね。火事のことを調べています。あなたはここが火事の時に居合わせられたのですかな」

「ああ、おったよ。二週間も前になるか。夕方の時分じゃったろ。いきなり悲鳴が聞こえてきてのう。わしらは何も出来んやった。中学生の坊主なんか、火達磨んなって玄関から飛び出してきたが、消火器を使っても消えなんだ。そりゃ凄い叫び声じゃった。今でもあの悲鳴が、わしの頭にこびり付いちょるよ」

「ほほう、頭にですか。ほりゃストライク」

 気軽に言うと黒贄は右腕を振り、ボーリングの球で老人の頭を殴りつけた。バギョン、と嫌な音がして老人の頭が破裂した。

「それで実は、放火の可能性もあるのですが、あなたに心当たりは……ありょ」

 老人は割れた頭から脳をはみ出させて倒れている。

「死んでますな」

 自分がやったのだと分かっているのかいないのか、黒贄は呆然と呟いた。右手に持った球体からはポタリポタリと血が滴っている。

「あらーっ、じいさん、どうしただ」

 アパートの戸口から顔を出した老婆が道に転がる老人を見て血相を変えた。死体に駆け寄る老婆に黒贄は尋ねた。

「あなたは放火魔について何かご存知ですかな。どんな小さなことでもいいですからそうりゃダブル」

 黒贄の握ったボーリングの球が老婆の頭を打ち砕いた。眼球を飛び出させて即死した老婆が夫の死体の上に崩れ落ちる。

「ありゃ、死んでしまった」

 黒贄は困ったような顔をして二つの死体を見下ろしていたが、やがて顔を上げてにっこりと微笑んだ。

「まあ、いいか」

「うわあ、ひ、人殺しいっ」

 道の向こうでサラリーマンらしい男が叫んだ。黒贄との距離は三十メートル以上あった。

「そりゃ、トリプルじゃなくてターキー」

 黒贄は下手投げでボーリングの球を放った。空気を押し潰して飛ぶ球体は狙い違わず男の顔面に激突した。ゴキョリ、と、顔面が陥没して男は前のめりに倒れた。ボーリングの球が男の顔から外れて転がり戻ってくる。

「ランラランララーン」

 黒贄は機嫌良く球を拾い上げた。

「ひええ、人殺しだあっ」

 通りかかった若者が大声を上げる。

「放火魔の手がかりは〜。ああ放火魔は〜」

 黒贄は歌いながらボーリングの球を振り回した。若者の頭が爆ぜた。そこは交差点になっていて、黒贄の行為を目撃した通行人達が悲鳴を上げた。

「ほれスペア、そりゃストライク、ありゃガーター、こりゃダブル、えいやスピリット」

 黒贄は血塗れのボーリングの球を握り、逃げ惑う人々を手当たり次第に撲殺していった。血と脳漿と断末魔の悲鳴と恐慌が通りを埋め尽くす。

「というか、私はボーリングなんてしたことありませーん。ああ放火魔は〜何処ですか〜。放火魔は〜。皆さんは〜ご存知ですか〜」

 楽しげに歌いながら黒贄は球を振り続けた。エフトルにもらったリストは既になくしてしまっていた。

「ああ〜放火魔は〜」

 黒贄は無差別殺戮をしながら通りを駆け巡った。街は大混乱に陥っていた。

「放火魔は〜いませんか〜」

 黒贄が入った裏通りで、木造の壁の側に立ち、丸めた新聞紙にライターで火を点けようとしている若者がいた。血みどろのボーリング球を持って現れた黒贄に若者は悲鳴を上げる。

「放火魔の方ですか」

 黒贄は穏やかに尋ねた。

「た、助けて、許して下さい、お、お願いです」

 ライターを放り捨て、若者は膝をついた。

 壁と床はべっとりと濡れていた。空になったポリ容器が転がっている。喉に不快感を与える特有の匂いが漂っていた。

「ガソリンですな」

 がっかりして黒贄は言った。

「邪魔をして悪いですが、放火なら外の街でやって下さいね」

 そう言うと、呆気に取られた若者を残して黒贄は立ち去った。

 結局この日は犯人を見つけることが出来ぬまま、黒贄はボーリングの球で百四十七人を撲殺して事務所に帰った。

 

 

  四

 

 少年はぼんやりと窓の外の景色を眺めている。彼の席は教室の窓際で、そして最後尾だ。数学教師が抑揚のない声で公式を読み上げているが、少年はテキストもノートも閉じたままだ。

 少年の身長は百四十センチに満たず、クラスの中でもかなり低い部類に入った。いや実際のところ、男子の中で最も背が低かった。か細い腕に加え猫背であることが、更に少年をか弱く見せていた。少年の瞳は陰鬱に昏く淀み、薄い唇は嘲笑のようなものを浮かべていた。

「おい、佐沼、ちゃんと聞いてるのか」

 険のある声に少年は慌てて向き直った。眼鏡をかけた数学教師が、教壇から冷たい表情で少年を睨み付けていた。

「え、は、はい」

 佐沼少年は反射的にテキストとノートを開いた。怯えた小動物のようなその仕草や表情には、何処か相手の嗜虐心を掻き立てるものがある。佐沼を見る数学教師の口元にも、隠そうとしても隠せない愉悦が浮かんでいた。

 だが、佐沼の動揺はすぐに消え、その瞳を粘質な闇が覆っていった。それは意識的にか無意識にか、相手を侮蔑しているような表情になった。

 数学教師の目付きが険しくなった。相手がそんな態度を見せるとは予想外のことだったらしい。

「じゃあ佐沼、二十二番の問題をやってみろ。一ヶ月も学校に来なかったからといって、授業を聞かなくていいことにはならないぞ。さあ、黒板で解いてみせろ」

 数学教師は意地の悪い口調で言った。クラスメイト達は無関心を装っているか、冷笑を浮かべているかのどちらかだった。

 オドオドと情けない顔を見せるかと思われた佐沼は、しかし、表情を変えなかった。嘲弄と憎悪が静かに入り混じったような瞳で、佐沼は教師を見返していた。逆に数学教師の方が落ち着かない顔になった。

 佐沼は無言で前に出た。テキストを見ながら数式を書いていったが、すぐに詰まって進まなくなった。

「分かりません」

 困ったような表情も見せずに、平然と佐沼は言った。

「解けるまでやれ。まだ時間はあるぞ」

 数学教師は頬を歪ませて命じた。その苛立ちと焦りは、いつもとは異なる佐沼の落ち着きによるものだろう。

 その時限が終わるまで、佐沼は黒板の前に立っていた。佐沼は不気味な落ち着きを最後まで崩さなかった。

 昼休みになった。佐沼少年は自分の席で、購買部で買ったパンを黙々と食べていた。

 三人の男子生徒が、ニヤニヤしながら佐沼の机に近づいてきた。

「よう、孝志ちゃん、一ヶ月も学校に来なかったけど、元気だったかい」

 三人の中でもリーダー格らしい、がっしりした体格の生徒が聞いた。

「うん。元気だったよ」

 陰気な口調ながら、平然と佐沼は答えた。

 佐沼の様子に違和感を覚えたのか、三人は互いの顔を見合わせた。だがすぐに、にやけた表情を取り戻す。

「放課後さあ、体育館の裏で待ってるよ。あの話のことだよ。孝志ちゃん、必ず来てくれよな」

 それだけ言うと、三人は自分達の場所に戻って、お喋りを再開した。

 教室に居合わせた他のクラスメイト達は、無関心に弁当を食べ続けていた。

 佐沼は薄い笑みを湛えたまま、パンの残りに囓り付いた。

「アイツラヲ、ヤルカ、タカシ」

 微かに響く奇妙な音程の声に、佐沼孝志は小さく頷いた。

「ああ、勿論だよ」

 佐沼の独り言に、何人かのクラスメイトが訝しげに振り向いた。

 

 

 放課後、クラスメイト達が楽しげに談笑しながら出て行く中で、佐沼はゆっくりとテキスト類を鞄に収め、一人で教室を出た。彼に声をかける者などいなかった。

 佐沼は昇降口を抜けて体育館の裏側へと向かった。

 その貧相で陰気な顔は、残忍な期待に歪んでいた。

 角を曲がると、既に三人は待っていた。真ん中の生徒は腕を組んで仁王立ちしている。

 佐沼は彼らの三メートル程手前で足を止めた。

「孝志ちゃん、一ヶ月前に俺が言ったこと覚えてるか」

 真ん中の生徒がねちっこい口調で言った。

「覚えてるよ」

 佐沼は答えた。

「じゃあ、持ってきたよな、十万円。家の金庫から盗ってでも、泥棒をやってでも、ちゃんと持ってこいって言ったよな。一ヶ月も、待ちくたびれちゃったよ、俺達。お陰でカラオケも寿司屋も、暫く行けなかったもんなあ」

 三人は笑った。奴隷をいたぶる支配者の笑みだった。

「持ってきてないよ」

 佐沼はふてぶてしい程の余裕を見せて答えた。三人の笑顔が凍り付いた。

 唇の片端を吊り上げて、威厳を取り繕いながら一人が言った。

「よお、今日はえらい強気じゃねえの。頭がおかしくなっちまったのかい。何の取り柄もないのに頭までイカレちゃったら、救いようがないじゃんよ」

「ずっとね、ずーっと、ねえ、君達に言いたかったことがあるんだ」

 少し俯いて、静かに、佐沼は告げた。

「へえ、何だろうな」

 別の生徒が聞いた。

 大きく息を吸って、佐沼が顔を上げた。それは、狂気とも呼べる程、圧倒的な憎悪に歪んでいた。

「くたばれ、この糞野郎どもっ」

 これまでで一番大きな声であり、激しい口調だった。この貧弱な体躯から出たとは信じられないような怒号だった。

 三人は唖然として立ち竦んでいた。完全に支配下にあると思っていた生き物が、急に牙を剥いたのだ。

「な、何言ってんだこいつ……」

 一人が引き攣った笑みを浮かべた。

 真ん中の生徒が、憤怒の形相に変わった。ギリギリと拳を握り締めた彼の体格は、佐沼よりも二回りは大きかった。

「舐めてんのか、ああっ」

 彼の言葉が終わらぬ内に、佐沼の瞳が一瞬、緋色に染まった。

 彼の叫んだ口の中に、赤い光が生じていた。それはすぐに炎へと変わり、唇を焼きながら吹き出した。

「おごおおおおおっ、あごおおおおっ」

 口を押さえて踊る生徒を他の二人は呆然と見つめていた。再び佐沼の瞳が光った。もう一人の胸に炎が出現した。

「あぢいいいっ、あぢいよおおおっ」

 火達磨になって転げ回る仲間達と、佐沼の方を見合わせて、残った一人はクシャクシャに顔を歪めた。

「た、たす……」

 その顔に火が点いた。

 佐沼は薄い笑みを浮かべたまま、これまで自分を虐げてきた者達の悲鳴を、肉の焦げる音を聞き、火を消そうとして無駄に踊り狂う様を、皮膚が弾け体内から炎を吹き出す様を、じっくりと見物していた。

「クックックッ。クックックッ」

 佐沼の口から、含み笑いが洩れた。

 三人が完全に炭化して、炎が消えるまでの約五分間、佐沼はその場を動かずに、ずっと見守っていた。

 

 

 午後七時を過ぎた頃、背広の男が書類鞄を小脇に抱えて校舎から出てきた。

 彼は、今日の授業で佐沼をいたぶった数学教師だった。

 正門を歩いて出てきた彼を、少し離れて後を追う小さな影があった。

 影は、学生服のままの佐沼孝志であった。

 人気のない道を歩き、教師は駅に向かっていた。誰もいないと思っているのか教師はブツブツと何か呟いていた。どうやら職場での愚痴を零しているらしい。

 そんな後ろ姿を、佐沼は陰鬱な瞳で見つめていた。

 駅に着いた。教師が定期券を使って改札口を通り抜ける。佐沼は急いで一番安い切符を買い、改札口を通った。

 佐沼がホームに着くと、百人近くが列車を待って並んでいた。その中に数学教師を見つけ、気づかれないような位置に佐沼は移動した。

「マダカ、タカシ」

 微かな声が尋ねた。

「ああ、まだだ」

 佐沼は答えた。

 五分ほど待っていると、列車到着のアナウンスが入った。佐沼は静かに教師の背後に歩み寄る。

 ホームに滑り込んだ列車は、既に乗客で一杯になっていた。何人かが降りた後、並んでいた者達が狭いスペースに自分の体を押し込んでいく。列の後ろだった数学教師は、顔をしかめながらも窓際になんとか入った。

 外を向いた教師が、少し離れて立っていた佐沼を認めた。

「あれ、佐沼……」

「さよなら、先生」

 ねっとりした声で佐沼は告げた。その瞳が赤く光っていた。扉が閉じられた。列車がゆっくりと滑り出す。

 ガラス窓の向こうで、数学教師が凄まじい形相で叫んでいた。その背広が燃えていた。炎は次々に隣の客へと移っていく。ぎゅうぎゅうの車両内で乗客達が騒ぎ出した。佐沼が眺めている間にも、中で踊り上がった赤い炎は外部には洩れぬまま、隣の車両にも進んでいた。窓ガラスに遮られ、彼らの悲鳴は全く聞こえなかった。人々の苦痛を呑み込んだまま、列車は何事もなくホームを出発した。

「クックックッ」

 佐沼は含み笑いを洩らしつつ、改札口まで戻って駅を出ていった。

「キョウハ、コノクライデ、イイダロウ」

 微かな声が佐沼に囁いた。

「ダンダン、チカラガ、タマッテキタ。アシタハ、モット、デキルダロウ」

「楽しみだな」

 陰鬱な笑みを湛え、佐沼は言った。

 

 

 十五分後、住宅街に辿り着いた佐沼は高級マンションの立ち並ぶ道を過ぎ、古いアパートの階段を上った。彼と同じ名字が書かれた表札の前に立ち、蝶番の錆びたドアを開けた。

「ただいま」

 佐沼が無表情に言って玄関を上がると、太った中年の女が居間で寝転がってテレビを観ながら振り向きもせずに応じた。

「遅かったから先に食べちまったよ。一人で勝手に食べな。全く、何処をほっつき歩いてんだろね」

 佐沼は母親の言葉を無視し、冷蔵庫からおかずを取り出して茶碗に飯を装った。母親は料理が嫌いなのか、食事は粗末なものだった。

 無言で食べ始めた佐沼に、母親が背中越しに悪態をついた。

「全く、役立たずのくせによく無事で戻ってきたよ。今日は沢山人が死んだってのにね」

 佐沼は昏く微笑した。列車の火事のことが、もうテレビのニュースで流れたのかと思ったのかも知れない。

「お前も殺人鬼に殺されりゃ良かったんだよ」

 母親の言葉に、佐沼は細い眉をひそめた。振り向いて母親に尋ねる。

「殺人鬼って」

「今日の昼頃に、街で殺人鬼が出たんだよ。ボーリングの球で百人以上を殺したそうだよ。放火魔を探してるとかどうとかって言ってたらしいね。全く、変な事件ばっかりだよ」

 母親はテレビから一度も目を離さなかった。

 食卓に向き直った佐沼に、先程までの余裕はなくなっていた。

 食べ終わると、佐沼は居間を通り過ぎて、そそくさと四畳半の自分の部屋に篭った。

「オッテガ、キタノカモシレナイ」

 微かな声が告げた。

「追っ手って何だ。大丈夫なのか」

「シンパイナイ、ソウカンタンニハ、ツカマラナイ。ワタシノチカラモ、ツヨクナッタ。センテヒッショウダ。サキニ、シマツシテシマオウ」

「そうだな。まだまだ殺し足りないもんな」

 敷きっ放しの布団の上に仰向けになり、佐沼孝志は呟いた。

 襖の向こうでは、酔っ払って帰ってきた父親と母親との口論が始まっていた。

「学校の奴らは皆、殺してやる。親父も、お袋も、殺してやる。僕を馬鹿にしてきた奴らを、皆、殺してやる。人間は皆殺しにしてやる」

 佐沼は呪文のように、それを小さく繰り返した。何度も何度も、唱え続けた。

 

 

  五

 

 そして翌日。

 昨日とほぼ同じ時間に黒贄礼太郎は探偵事務所を出発した。今日はボーリングの球を持っていない。繁華街では昨日の惨劇にも関わりなく、大勢の人々が自分の用事を済ませるために休みなく行き交っている。

 人込みの中で、背丈が百九十センチを超える黒贄はかなり目立つ存在だった。礼服姿で気怠げに立つ黒贄に、人々は目を留めながら通り過ぎていく。

「さあて。今日も頑張ってみますかな」

 交差点に立った黒贄は、右手を礼服の内側に差し入れた。

 ゆっくりと引き抜いたのは、十七番として選択された、湾曲した刃渡りが三十センチ程の大型の鎌だった。黒い光沢を放つ刃は丁寧に砥がれており僅かな欠けもない。

「皆さーん」

 群衆に向かって、黒贄は大声で明るく呼びかけた。

「放火魔をご存知ですか〜」

 人々の半数が足を止めて黒贄の方を見た。

 そして、黒贄が右手に握っている鎌に、視線を向けた。

 人々の顔が引き攣った。

「うわあ、殺人鬼だあっ」

 誰かが声を上げ、それを合図に繁華街の雑踏は恐慌へと変貌した。

「ああ〜放火魔は〜」

 昨日と同じく歌いながら黒贄は行動に移った。最も近くにいた中年の主婦の首を刎ね、その隣にいた若い女の背中を突き通し、皮ジャンの若者の腹を引き裂いた。人々は悲鳴を上げて我先に逃げ惑う。

「放火魔は〜誰ですか〜教えてくれないと〜困ります〜」

 横殴りの一閃で同時に三人の首を飛ばし、老人の額を割り、目にも留まらぬ早業で男の手足を切断し、泣き叫ぶ女の顔面を削ぎ落とした。

「ああ〜放火魔〜憧れの〜」

 大量の返り血を浴びて礼服は黒から赤に変わっていた。黒贄が人々の間を走り抜けると、その両側にいた人々は血を噴き出してバタバタと倒れていく。

「あああ〜ほ〜う〜か〜ま〜」

 急に黒贄は立ち止まって鎌を持つ手を休めた。まるで誰かに呼び止められたかのように、キョロキョロと周囲を見回す。

 そして、黒贄は、広い道路の向こう側に立つ少年に、視線を留めた。

 中学の制服を着た少年は、背が低く痩せていて更に猫背であった。坊っちゃん刈りの髪が、少年を繊細というより柔弱に見せていた。上下に押し潰されたような醜い目鼻の配置は相手に不快感を抱かせる。唇は薄い笑みを浮かべ、その昏い瞳はどす黒い憎悪と殺意を黒贄へ送っていた。

 両者の距離は、車が忙しく行き交う四車線の道路を挟み、まだ三十メートル以上あった。

「あのー、放火魔さんですかあ」

 黒贄が少年へ向かって大声で問うた。血みどろの鎌から、ポタリポタリと血がアスファルトの地面に落ちていく。

 少年・佐沼孝志は答えなかった。ただその口元の笑みが深くなっただけだ。

 同時に、黒贄礼太郎の薄い唇が、キュウッ、と、吊り上げられた。少年の陰鬱な笑みを凌駕する、悪魔的な笑顔だった。

 黒贄が佐沼へ向かって道路に足を踏み出した瞬間、佐沼の両目が赤い光を帯びた。

「おりょ」

 黒贄は自分の胸元を見下ろした。礼服の隙間、返り血を浴びた白いワイシャツに、血とは異なる赤い点が生じていた。

 左手で押さえる前に、それはポンと軽い音を立てて赤い炎に変わった。

「ほほう。燃えてますな」

 のんびりと呟く黒贄の左手にも炎は移っていた。黒贄はしかし、炎を無視して次の一歩を踏み出した。

 炎が勢いを増し、上半身に回っていた。黒贄はそれでも更に一歩を踏み出した。

 笑みを絶やさず迫る黒贄を見て、佐沼の顔に動揺が浮かぶ。

 炎は一気に黒贄の全身まで広がった。火達磨になった黒贄は佐沼へ向かって駆け出した。燃える鎌を振り被って。

 佐沼の顔が恐怖に歪んだ。

 その時、道路に深く入り込んだ黒贄の体を、避け損なった大型トラックが撥ね飛ばしていた。黒贄は地面をバウンドして対向車線まで飛び出した。その体を向かいから来たダンプカーが轢き潰した。急ブレーキの甲高い悲鳴。巨大なタイヤが黒贄の体を通り過ぎずにそのまま二十メートルも引き摺っていく。横にはみ出した部分を別の車が轢いて、漸く解放された黒贄は佐沼の傍らの歩道まで転がって停止した。

 燃え盛る黒贄の体が、佐沼の目の前で、もぞりと動いた。

「サガレ、タカシ」

 佐沼にしか聞こえない程の微かな声が告げた。少年は慌てて二、三歩後じさる。

 黒贄は焼け爛れた顔を上げた。

「いやあ……今日は暑いですねえ……まるで、焼け死にそうな暑さですな……」

 気楽な口調で喋りながら、黒贄は起き上がろうとした。だが手足が思い通りに動かないらしく、すぐ前のめりに倒れる。三連続で轢かれたことにより、体中の骨が折れているようだ。

 炎に包まれながら、黒贄の瞳の奥で、不気味な黒い歓喜が渦を巻いていた。

 佐沼は七、八メートルの距離を取った。燃えていく黒贄を、人々が恐る恐る遠巻きにして見守っている。

「アリョパー……アゴピャー……アメニャー」

 アスファルトに横たわり、もぞもぞと手足を無駄に蠢かせながら、黒贄は奇妙な言葉を呟いていた。

「アロパー……アロピョー……」

 黒贄の動きが段々弱くなっていった。肉の焦げる匂いが周囲に漂っている。

「アロ……ピャー……これ……ですな……」

 その言葉を最後に、黒贄は動かなくなった。炎がかなり小さくなってきたのは、即ち、もう燃えるものがなくなってきたということだった。

 黒い炭の塊と化した殺人鬼を、人々は呆然と見つめていた。その中に混じって、佐沼は陰鬱な笑みを湛えていた。

「オワッタ。ツギダ」

 微かな声が告げ、佐沼は黒贄に背を向けた。

「カナリ、チカラガ、タマッタ。タクサン、イケルゾ」

「そうか。じゃあやろう」

 立ち尽くす人々の間を、佐沼は悠然と通り抜けていった。その背後で新しい悲鳴が聞こえた。別の男が発火したのだ。次々と叫びが上がっていく。

 歩み去る佐沼の後ろで、火達磨になった群衆が無意味なダンスを踊っていた。瞳を何度も赤く染めて阿鼻叫喚を生み出しながら、佐沼は振り向かずに、昏い笑みを浮かべたまま歩き続けた。

 街は燃えていた。走る自動車の中で運転手が燃えていた。通行人が皆燃えていた。建物の窓からは黒い煙が噴き出していた。中の人間が燃えているのだ。

「クックックッ」

 佐沼の口から、含み笑いが洩れた。

「クックックッ。クックックックッ」

「アロピャー」

 人々の叫び声に混じって、奇妙な声が聞こえた。気が抜けるような、静かな、声だった。

 佐沼の笑みが消えた。

 ゆっくりと、佐沼は、振り向いた。

 二十メートル程離れた場所に、人の形をした黒焦げの物体が立っていた。

 高さ百九十センチを超えるそのオブジェは、右手に当たる部分に、緩く湾曲した細長い突起が付いていた。

 煤の付着したそれは、鎌の刃であった。

 黒いオブジェ・黒贄礼太郎のその顔は、皮膚も肉も完全に焦げ付いており、どんな表情をしているのか窺い知ることは出来なかった。ただ唯一無事である両の瞳が、あらゆる感情を超越した暗い虚無を映し出していた。

「アロピャー」

 もう一度、焦げた声帯で奇声を発すると、ゆらりと黒贄が動き出した。進み出る毎に、パラパラと炭化した欠片がその体から落ちていく。

 佐沼の目が再度、緋色に光った。黒贄の胸に赤い点が生じたが、それは炎にならずに消えた。

 佐沼の目がもう一度、緋色に光った。黒贄の胸に赤い点が生じたが、それは炎にならずに消えた。

「な、なんで……」

 佐沼の顔から黒い余裕は失せ、十四才の少年の怯えが露出した。

「ニゲロ、タカシ。ヤツハモウ、モヤセルブブンガ、ナイ」

 微かな声の囁きに、佐沼は慌てて踵を返して逃げようとした。

「アロピャー」

 不気味な奇声は、佐沼のすぐ後ろに迫っていた。

「ひっ」

 焦げた鎌の刃が佐沼の右肩に振り下ろされた。それは無造作に佐沼の服と皮膚と肉と骨を裂きながら、一気に股間まで抜けていった。その衝撃で黒贄の右腕が、肘の辺りから外れて落ちた。

 佐沼の体が、真っ二つに、裂けた。鮮血と内臓を撒き散らしながら佐沼は地面に倒れた。左手で体を支えようとして失敗し、佐沼は顔面を血の海に打ち付けた。

「ち……畜生……」

 即死してもおかしくない状態で、佐沼孝志は弱々しい憎悪の言葉を絞り出した。

 佐沼の前に、黒贄が立った。死相の浮かんだ顔を上げると、黒贄礼太郎の冷徹な瞳が見下ろしていた。

「アロピャー」

 黒贄の口から出た台詞は、それだけだった。元は唇であったであろう焦げた破片が落ちる。

「皆……死にやがれ……どいつもこいつも……くたばりやがれ……畜生……」

 血と共にそれだけ吐き捨てると、佐沼孝志は、がくりと頭を落として息絶えた。二つに裂けた死体の回りを、ゆっくりと血溜まりが広がっていく。

 黒贄は暫くの間、死体の前に黙って立ち尽くしていた。彼が何を思うのか、本人以外に知る由もない。

 と、左側の胴体の内部から、突然赤い何かが飛び出した。あまりにも素早い動きだったので黒贄も反応出来ないまま横を擦り抜けられる。残った左手で鎌を拾い上げて黒贄が後を追うが、既にその赤い生き物は三十メートル以上先を走っていた。

 パシン、と、空気の弾けるような軽い音がした。

 赤い生き物が、一メートル程の高さで宙に浮いていた。必死に足と尻尾をもがかせているそれは、体長三十センチ程の赤い蜥蜴だった。

 蜥蜴が宙を滑っていき、細長い棒の先に自ら突き刺さった。

 赤い蜥蜴の胴体を串刺しにしているそれは、黒いステッキであった。

 ステッキを握っているのは、白い手袋を填めた右手だった。蜥蜴を眺めている恰幅の良い燕尾服の男は、依頼人であるエフトル・ラッハートであった。

 エフトルの体は、何もない空間に上半身だけが浮かんでいた。まるで異次元からこちらの世界へ、上半分だけ姿を覗かせたように。

「無事、回収さセテ頂きまシタ。ありガトウございマス」

 エフトルは左手でシルクハットを脱いで、丁寧に一礼した。同時にステッキの先を頭の空洞に持っていき、もがいていた蜥蜴は中へ吸い込まれて消えた。

 シルクハットを再び被ると、エフトルはカーテンを閉じるような仕草を見せた。黒贄がそこに駆けつけた時には、エフトル・ラッハートの姿は消えていた。

「アロピャー……」

 黒贄の奇声も、なんだか釈然としない響きだった。

 

 

  エピローグ

 

 血臭と腐臭の漂う黒贄礼太郎探偵事務所で、けたたましいベルの音が鳴り響いた。

 騒いでいるのは勿論、机の上のダイヤル式黒電話機だ。薄闇の中、礼服の腕が大儀そうに伸び、受話器を掴む。

「はい、黒贄礼太郎探偵事務所ですが」

 気怠い声で黒贄は応じた。没頭していた作業を中断された苛立ちがその顔に表れている。

「いきなり電話で用件を言って悪いが、実は今朝から妻がいないんだ。台所には血の痕が残ってた。もしかしたら誘拐されたのかも知れない。もう警察には連絡したんだけれど、どうしても心配で」

 若い男の声だった。

「ほほう。あなたの家はどの辺ですかな」

 黒贄は首を傾げながら受話器に尋ねた。

「三途町二丁目だよ。頼む、妻を捜してくれないか」

「ふうむ」

 黒贄の、首を傾げる角度が深くなった。

「もしかすると、奥さんは三十才くらいで、三つ編みの髪が腰まで届いて、二重瞼で笑顔の可愛らしい方ですかな」

「そ、そうだよ、良く知ってるじゃないか。頼む、捜し出してくれ」

 黒贄は、目の前の床に横たわっているものを見た。

 それは、黒贄が今言った通りの女性だった。ただしその美しい顔に笑顔はなく、断末魔の恐怖を語っていた。

 女性の首は、胴体から離れていた。大型のハンティングナイフが裂けた腹に残っている。

 黒贄は言った。

「お断りします」

 受話器を置こうとした時、相手の男の喚くような声が聞こえてきた。

「百万円払うっ。だから引き受けてくれ」

「……」

 黒贄は受話器を持ったまま、思案するように暫く顎を撫でていたが、やがてこう答えた。

「分かりました。後ほど郵送します」

 

 

戻る