第四話 千五百二十七円

 

  プロローグ

 

 ラッシュアワーを過ぎたばかりの午前九時の通りは、それでも各々の目的地に向かう人々で埋まっていた。

 その人込みの中で、安物のロングコートに身を包んでぽつねんと立つ男は、三十才くらいに見えた。男は右手をコートの内側に差し入れたままの姿勢で、口元に引き攣った笑みを浮かべたままずっと立っていた。男の髪は暫く洗っていないのか油脂で固まり、こけた頬を不精髭が覆っていた。男の目の下には濃い隈が出来ていた。

 殆ど瞬きをしないその瞳は明らかに、常軌を逸した狂気の光を帯びていた。

 人々は男の異常な雰囲気を察し、擦れ違う際には一定の距離を置いていた。

「ヘヘッ、ヘッ」

 やがて、男の口から湿った笑い声が洩れた。ジュル、と男は唇から垂れかけた涎を啜った。

 男はコートをはだけた。男の正面を歩いていた人達はギョッとして立ち竦んだ。

 コートの内側で、男が右手で握っていたものは一挺のライフル銃であった。肩から腰にかけて巻かれたベルトには無数の弾薬が挿さっていた。

 男はライフルを構えた。手慣れた動きは或いは傭兵などの経験があったのかも知れない。

 その場に居合わせた人々の三分の一が慌てて地面に伏せ、別の三分の一が悲鳴を上げて逃げ走り、残りの三分の一が恐怖に凍り付いたまま身動き出来ずにいた。

「死ね」

 乾いた銃声が街に木霊した。立ち竦んでいた中年男の胸に赤い穴が開いた。弾丸は背中の肉を大量に抉って貫通していた。撃たれた男は呆然と自分の胸を見下ろしながら前のめりに倒れた。

 悲鳴が更に大きくなった。

「死ね、死ね」

 男は続けざまに発砲した。買い物袋を提げた老婆の頭が破裂した。五才くらいの幼児が腹部から内臓を溢れさせて泣いていた。伏せていた女の背中に銃口を当てて男は発砲した。

「死ね、死ね、死ね、死ね、ヘヘッ、ヘヘヘヘッ」

 男は抑揚のない声で呟きながら笑いながら涎を垂らしながら人を撃ち続けた。通りは恐慌に陥っていた。

 と、交差点の陰から長身の男が一人現れた。聞こえている銃声にも逃げ惑う人々にも伏せている人々にも転がっている死体にもまるで気づいていないのか、男は鼻歌を歌いながらライフルの男の方へ歩いてくる。

「フンフフンフフーン」

 よれよれの礼服を着て薄汚れたスニーカーを履いた男は、黒贄礼太郎だった。

 この状況で平然としている黒贄の登場に男は目を見開いたが、やがて銃を構え直して黒贄へ発砲した。

「死ね」

 ボツン、と、黒贄の胸に穴が開いた。背中から血飛沫が散った。着弾の衝撃に黒贄の上体が僅かに仰け反った。

 だがそれだけだった。黒贄は傷口から流れる血を気にするふうもなく、鼻歌を続けながら歩いてくる。

「こ、この、死ね」

 もう一度男が発砲した。黒贄の腹部に穴が開いた。だが黒贄は平然と歩いてくる。

「あわわ、た、たす……」

 迫ってくる黒贄に、男は思わず腰砕けになって後じさった。

 しかし、黒贄は何もせずに男の傍らを通り過ぎただけだった。

 穴の開いた黒贄の背中を、男は呆然と見つめていた。

「く、糞っ」

 男の痩せた顔が無視された屈辱に歪んだ。

「死ね、死ね」

 男は背後から黒贄を撃った。黒贄の背中にポツ、ポツ、と穴が開く。だが黒贄は何事もなかったように歩み去っていく。

「畜生、死にやがれっ」

 男は黒贄を走って追いかけた。歩みを止めぬ黒贄の背中に至近距離から立て続けに発砲した。しかし黒贄は無反応だった。

「フンフンフフフーン」

 黒贄は小さな食料品店に入った。ライフルに弾を込めながら男が急いで続く。

「こんちはー」

 黒贄が愛想良く挨拶すると、中年の店長は渋い顔を見せた。

「またあんたか。今日もツケじゃないだろうね」

「すみませんねえ。ツケでお願いしますよ。今度纏まったお金が入ったら払いますので」

 黒贄は言いながらカゴを取り、店内に並んだ食パンや牛乳やインスタントラーメンを詰め込み始めた。

「お、俺を無視するなよ、死ねよ、てめえっ」

 ライフルの男が黒贄を撃った。体中の穴から出血して血塗れになっているが、黒贄は構わず店長に話しかける。

「いやあ、なかなか仕事がなくてねえ。大変ですよ」

「あんたのツケはもう二十万以上溜まってるからね。早く払ってくれよ」

 店長は苦々しげに言った。

「おおおっ、死ねよ、死んでくれよっ」

 ライフルの男は泣き出していた。食料をレジまで持っていった黒贄の後頭部に向けて発砲した。頭蓋骨の欠片と脳の一部と脳漿が飛び散った。

「いやあ、すみませんねえ。いつもいつも」

 黒贄は店長に向かって、左上四分の一が欠けた頭を下げた。

「うおおおっ」

 ライフルの男は銃身を逆に向け、その先端を自分の口に突っ込んだ。

「毎度ー」

 店長が投げ遣りな口調で言って、黒贄は紙袋を抱えて店を出ていった。

 男が泣きながらライフルの引き金を引いた。男の頭が爆ぜた。

 

 

  一

 

 静かな夜だった。澄みきった星空に浮かぶ満月は、そろそろ中天に達しようとしている。

「あああああ、良い月だなあ」

 若い男が空を眺め、感に堪えぬように嘆息した。顔にかかった蓬髪の隙間から無邪気な瞳が覗いている。男は二十代の前半に見えた。身長は百八十センチ前後で、凶暴なまでに分厚い大胸筋がTシャツにくっきりと形を浮かせている。

 蓬髪の若者は、両手に長い柄を握っていた。木製の柄は下まで延び、鈍い金属の光沢へと続いている。

 そこには、青い制服を着た警備員の死体が転がっていた。その背中に深々と減り込んでいるのは、若者の握っている長柄の大斧だった。

「ボサッとするなよ、サイコ」

 蓬髪の若者に渋味のある声をかけたのは、厚手のコートを羽織った中年の男だった。腹は幾らか出ているが動作はキビキビしたもので、リーダーの貫禄を感じさせる。口の端に咥えた葉巻からは紫煙が昇っている。

 コートの男が持っているのは、小型のサブマシンガンだった。

「警報装置は千里眼がとっくに処理してるんだ。急ぐぞ」

「分かったよカポネ。でも君達には、情緒というものが足りないなあ」

 蓬髪の若者・サイコは、警備員の死体を靴で踏み付けて斧を引き抜いた。

 その場にはサイコとコートの男・カポネを含めて、五人の男女がいた。彼らは正門の近くに設けられた詰所を抜け、屋敷へ繋がる広い庭を歩いた。サイコが右手に握る長柄の大斧から滴った血が芝生を濡らす。

「玄関には監視カメラが一台ありますね」

 眼鏡をかけた青年が説明した。肉体労働には向かぬ体つきだが、頻繁にキョロキョロと動く目は鋭い光を帯びている。

「ただし、不審な動きを自動認識するものではなくて、人間が直接画面を確認するタイプのようですから心配は要りません。玄関の扉にはセンサーが付いています。力ずくで開けるとすぐに警備会社に連絡が行くようになっています。台所の辺りにセキュリティ・システムのコントロールパネルがあります。まずはこれを破壊することですね。えーっと、猟銃が一挺、寝室に保管されていますね。それだけは注意して下さい。現在、起きている者はいません」

 大きな屋敷だった。二階建てで、十部屋は下るまい。向こうの庭にはプールも付いている。

 五人は玄関まで辿り着いた。カポネが顎をしゃくる。

「千里眼」

 眼鏡の若者・千里眼は、ドアのすぐ前に立ち、目を細めながら右へと移動した。他の者達は黙ってついていく。大きな屋敷の壁伝いに歩き、側面の勝手口近くで千里眼は立ち止まった。

「ここからが良いようです。タイタン、お願いします」

 千里眼が言った。どうやら彼らは、互いのことを本名ではなく綽名で呼び合っているらしい。

 身長二メートル近い大男・タイタンが進み出た。頭は完全に禿げ上がっていて、無表情な顔には眉毛も髭もない。黄土色のベストを着たタイタンの動きは整然として遊びがなく、それが逆に不自然に感じられる。

 タイタンは右腕を水平に差し上げた。モーター音を立てて手首が直角に折れ曲がり、暗い穴が覗く。

 前腕の内部から伸びたのは、大口径の長い銃身だった。その形状はライフルなどよりは戦車の砲塔に似ていた。

「右に十五度、下に五度。もう少し下ですね。はい、そこで止めて。壁一つ越えて八メートル先にあります」

 千里眼の指示に従ってタイタンは右腕の角度を調整し、一ミリの揺れもなく静止した。

「セキュリティ・システムを潰したら、サロメが勝手口のドアをぶち破れ」

 カポネが横に立つ女に言った。サロメは黒い上着に同じ色のジーパンという服装の女だった。年の頃は二十代の後半か。豊かな胸の隆起が服の上からでも見て取れた。軽いウェーブのかかった黒髪は肩のやや下まで伸びている。真夜中にも関わらずサングラスをかけて、かなりの美人だと思われるその目元を隠していた。

 サロメは、ショットガンを構えて頷いた。

「では、やれ」

 カポネの合図で、タイタンは右腕の銃を発射した。音もなく撃ち出されたのは鉛の弾ではなく、エネルギーを凝縮した光弾であった。それは厚い壁をあっけなく貫通していった。

「セキュリティ・システムが破壊されました」

 千里眼の声と同時にサロメがドアに向かってショットガンを発射した。二度の轟音と共に蝶番がグチャグチャになる。すぐにサイコがドアを荒々しく蹴破って屋内へ突入した。仲間達がそれに続く。

「左の部屋に使用人が二人います。それから奥の右手の部屋に、警備員が一人です。皆、目を覚ましました」

 千里眼の言葉に男達が素早く動いた。恐る恐るドアを開けて顔を出した若い女性の使用人に向かってカポネのサブマシンガンがパラパラと軽い音を立てる。使用人が胸を朱に染めて倒れる。カポネは穴だらけになったドアを引き開けて、中にいたもう一人の使用人を撃ち殺した。

 タイタンが警備員の部屋に進んだ。ドアを開けると、電灯を点けた中年の男が警棒を掴んだところだった。

「な、何だお前達は……」

 その顔に突き立てられたのは、タイタンの左手から伸びた螺旋状の刃であった。前腕内部に格納されていたのだろう。刃はモーター音を上げて回転し、警備員の頭部に異様な形の風穴を開けた。

「階段を上がって突き当たりが夫婦の寝室です。金庫もそこにあります」

 五人は階段を駆け上った。暗い廊下を進み、突き当たりのドアにまだ距離のある地点で千里眼が警告した。

「中で猟銃を構えています」

「なら、タイタンかサイコだな」

 カポネが二人を見る。

 タイタンが口を動かさず、抑揚のない声で答えた。

「ボディーニ、キズガツク。コノアイダ、メンテナンスシタバカリダ」

「じゃあサイコだ」

 カポネに命ぜられ、サイコは肩を竦めた。

「やれやれ、不死身は辛いねえ」

 愚痴を零しながらもサイコは長柄の斧を振り上げて突進した。渾身の力を込めて振り下ろされた大斧は木製のドアを突き破った。

 その瞬間、銃声がしてドアに別の穴が開いた。サイコの体が揺れる。

 サイコのTシャツに、散弾による無数の破れ目が出来ていた。

 だがサイコはニヤリと笑った。斧を引き抜くとドアを体当たりでぶち破った。オレンジ色の光の中、ベッドの傍らでしゃがみ込んでいる三十代の夫婦が見えた。猟銃を構えた夫がもう一度発砲した。

 最初よりも近距離でしかも顔面に命中し、サイコは激しく仰け反った。そしてすぐに体勢を戻した。

「痛えな、おい」

 大きな軌道を描いて振り下ろされた長柄の斧が、夫の顔面を割って頭部をほぼ真っ二つにしていた。血と脳漿が撥ね、妻が悲鳴を上げる。

 サイコが顔をしかめ、顔面の筋肉に力を込めた。無数の赤い点から小さな丸いものが次々と床に落ちていった。

 屋敷の主人が発射した、散弾の一つ一つであった。

 サイコは、震えている妻の美しい顔に自分の顔を寄せてしげしげと眺めた。

「好みだ」

 そしてサイコは、凄い笑みを浮かべた。

「た、助けて……」

 妻の言葉に構わず、サイコは斧を夫の顔から引き抜いて、妻の体に振り下ろした。

「ヒャハーッ」

 サイコは甲高い歓喜の声を上げた。

 悲鳴が上がった。大斧は、床についた妻の左手の指を大部分切断していた。

「バラバラーッ」

 再びサイコが斧を振り下ろした。今度は左手首が切断された。再びサイコが斧を振り下ろした。今度は左前腕の半ば程が切断された。再びサイコが斧を振り下ろした。今度は左肘が切断された。再びサイコが斧を振り下ろした。今度は左上腕の半ば程が切断された。再びサイコが斧を振り下ろした。左腕が肩の付け根で切断された。

「ヒャハーッ、バラバラーッ、ヒャハーッ、ヒャハハーッ」

 サイコは左腕を完全に分解し終えると、次に妻の右腕で同じ工程を開始した。妻の悲鳴は獣じみたものに変わり、やがて次第に弱くなっていった。

 サイコが自分の行為に没頭している間に、他の者達も既に寝室へ入っていた。隅に置かれた大型の金庫の前に千里眼が立ち、そのダイヤル錠に触れていた。試行錯誤もなく、千里眼は正確にダイヤルを回してロックを解除した。しかしまだ鍵式の錠が残っている。千里眼は別の隅へと歩き、カーペットの端を捲った。そこには鍵が一つ隠れていた。

 金庫を開けると、中には札束の山と宝石類と分厚い有価証券の束が収まっていた。カポネと千里眼とサロメの口元が綻んだ。タイタンは無表情だった。

「詰めろ。残さずだ」

 仲間に命じ、カポネは葉巻を手に取って、紫煙の混じった息を吐き出した。

「今回はあっけなかったな。警備員が二十人くらいは欲しかったところだ」

 それでもカポネは満更でもない様子だった。その頃になってやっと、サイコは妻の解体を終えていた。彼女は数十もの肉片に分かれて血溜まりの中に転がっていた。

 袋に全てを詰めた後で、千里眼が口を開いた。

「それからカポネ、クロー……」

「いや何もないだろ、千里眼」

 サイコが千里眼の言葉を遮った。血みどろのウインクを受け、千里眼はおずおずと訂正した。

「いえ、何でもないです」

 そんな千里眼を、カポネは黙って見つめていたが、やがて言った。

「なら、引き揚げるか」

 あまりにも残虐な強盗一味が去った後、寝室のクローゼットの扉が、内側から静かに開いた。

 中から怯えきった顔を覗かせたのは、まだ小学生くらいの少女だった。

 少女は、目を涙で潤ませながら、全身の震えを止めることが出来ずにいた。

 満月の、夜だった。

 

 

  二

 

「ふうむ」

 黒贄礼太郎はちょっと困ったような顔で、正面に立つ依頼人を観察した。荒れ果てたビルの四階、血臭と腐臭の漂う探偵事務所でのことだ。

「あなたのお年は、お幾つですかな」

 黒贄の問いに、臭気に眉をひそめながら少女は答えた。

「十一才です」

「ふうむ」

 黒贄はもう一度唸り、左手で自分の顎を撫でた。彼はいつもの着古した礼服に、自分で切ったような左右非対称な髪をしていた。彫りの深い端正な顔立ちだが、その眼差しは気怠げだ。薄い唇は常に何かを面白がっているような微笑を湛えている筈なのだが、今日の唇は些か別の方向に曲がっていた。

 黒贄は歯切れの悪い口調で言った。

「弱りましたな。確かにここは、十八才未満お断りという訳でもない、ですが。まあ、そりゃあ、報酬さえ頂ければ、ねえ……」

「両親の仇を討って欲しいんです」

 凛とした口調で少女は言った。少女はストレートの髪を肩の辺りで切り揃え、目鼻立ちのすっきりした顔は清楚な印象を与える。もう四、五年もすればかなりの美人になるであろうが、今はまだあどけなさの要素が強かった。部屋に充満する臭気と外よりも冷たい空気に、防寒コートの下に覗く膝は微かに震えている。それでも少女は唇を一文字に引き結んでいた。

「まあ取り敢えず、お座り下さい。あなたのお名前は」

「三沢優紀子です」

 無数の仮面で埋まった壁を見回しながら、三沢優紀子はカバーの破れたソファーに腰を下ろした。

「ほほう、三沢さんと仰るのですか」

「もしかして、私の父さんのこと知ってるの。金持ちだったしね」

 優紀子が黒贄の顔を見上げて聞いた。

「いえそれが、全然知りません」

 平然と黒贄は答えた。

「ところで今日は、学校はおサボリになられたのですかな」

「違うわ。だって今日は日曜だもの。いや、でも、学校にはもう二週間も行ってないけどね」

 少女の瞳を昏い翳りが掠める。

「ありゃりゃ。今日は日曜日でしたか。いやあ、探偵には曜日などありませんからねえ。というか、仕事自体がなかなかありませんからねえ」

 黒贄はいつもの微笑を取り戻していた。

 優紀子は話し始めた。

「父さんは事業をやってて、すっごいお金持ちだったの。家も大きくて庭も広くて、お手伝いさんも二人いて、警備の人もいたわ。私は生まれた時からそこに住んでて、そんなのが当たり前だと思ってたけど、友達の家に遊びに行った時にびっくりしたわ。私って凄い恵まれてて、贅沢なんだって」

 優紀子は話す内に、少しずつ俯いてきた。

「でもそれはいいの。大切なのは、二週間前に、いきなり強盗がやってきて、両親も、お手伝いさんも警備の人も皆、殺されちゃったってこと」

 少女の頬を流れる涙を、黒贄は表情を変えずに見つめていた。

「警備の機械は壊れてて、電話線も切られてて、外の警備員さんは斧で殺されて、中で寝ていた警備員さんは頭に大きな穴が開いてたって。お手伝いさん達は体中を撃たれてた。私が両親の寝室に駆けていったら、父さんが私をクローゼットの中に押し込んで、隠れてろ、何があっても絶対に外に出るなって言ったわ。そしたらすぐ後に、銃声があって、それから母さんの悲鳴が聞こえた。知らない男の人が笑ってた。ドカッ、ドカッ、て、嫌な音が暫く続いてた。それから別の人の声がして、あっけなかったって言ったわ。彼らはカポネとか、千里眼とか、変な名前で呼び合ってた。その人達が出ていった後で、私は隣の家に駆け込んで、警察を呼んだわ。でもその時に……」

 優紀子は両手で顔を覆った。やがて嗚咽混じりの声が洩れた。

「父さんと母さんが見えたわ。父さんは頭が西瓜みたいに割れてた。母さんは、バラバラになってた。とても細かくなってた。頭は四つくらいに。あの嫌な音は、母さんを切り刻む音だったんだって……」

「ふうむ。なかなか凝ったことをされますな」

 黒贄は呟いた。感心したような黒贄の口調に優紀子はきっと顔を上げたが、すぐに思い直して話を続けた。

「警察が来て、私も一生懸命話した。それから刑事さんが、気の毒そうな顔をして言ったわ。これはブラディー・ベイビィの仕業だろうって」

「ほほう、ブラディー・ベイビィですか」

「知ってるの」

 黒贄はにこやかに肩を竦めた。

「いえ全く。でもなかなか良い名前ですね。血みどろ赤ちゃんとは」

 少女は溜息をついた。

「半年くらい前から八津崎市で暴れ回っている強盗団で、押し込んだ先を皆殺しにしていくから、目撃者が殆どいないんだって。警備の様子が全部分かってるみたいに凄く手際が良くて、警察も全くお手上げなんだって。昨日、私は刑事さんに、絶対にあいつらを捕まえて欲しいって言ったの。そしたら刑事さんが、警察も忙しくてあまり手が割けないし、まともな方法じゃあ捕まえられないだろうから、まともじゃない所を紹介するって……」

「そしてあなたが、ここに来られた訳ですな。ううむ」

 黒贄は首を捻った。

「その刑事さんの名前は何と仰いましたかな」

「大曲って刑事さんだったわ。だらしない格好してたけど、いい人よ」

「ううむ、やはり」

 黒贄は苦笑した。

「しかしあなたは、私のことをどの程度知っておられるのでしょうな。私のやり方をご存じですか」

「いいえ、知らないわ。刑事さんは、よく話してみろとしか言わなかったし」

「私は殺人鬼です」

 黒贄の言葉に、少女は息を止めた。部屋の雰囲気と異様な臭気で、それまで曖昧な形で忍び寄っていたであろう不安が、一気にその顔に表出していた。

「殺人鬼って、あの……」

「天然ものです。それはもう、バンバン殺しちゃいます」

 黒贄の笑みは寧ろ優しかった。

「信じられませんかな」

「だ……だって……」

 口ごもる優紀子を置いて、黒贄は立ち上がった。殺されると思ったのかビクリと少女の肩が動く。

 しかし黒贄は優紀子の方ではなく、左のドアに向かった。二つの鍵を外し、黒贄はドアを大きく開け放った。

 優紀子は凍り付いた。少女の座っている場所から、奥の部屋の様子が見えていた。壁には隙間なく、斧や鉈やチェーンソーや包丁や電気ドリルやサーベルやギロチンの刃の部分など、様々な道具がかけられており、中央の床にも陳列台が置かれ、同じく数々の器具が並んでいた。それらが全て、人間を殺戮するために揃えられた凶器であることは明白だった。よく手入れされたそれぞれには、番号の書かれた小さな紙片が貼られていた。

「お分かりになりましたかな」

 嬉しそうにそして幾分得意げに、黒贄は言った。

 絶句する優紀子をどう解釈したのか、黒贄は凶器の並ぶ部屋に足を踏み入れた。

「実は更に奥があります」

 凶器の部屋の正面に、奥に続くドアがあった。黒贄はとろけそうな笑みを湛えたままノブを掴み、そして開いた。

 むっとする濃厚な腐臭が優紀子のいる部屋まで流れ込んできた。開かれたドアのその奥を、少女は一瞬見ただけですぐに目を逸らした。

 黒贄はドアを閉め、少女の座る部屋に戻って凶器の部屋へのドアも閉めた。

「まあ、こんな私なんですがねえ」

 黒贄はのんびりした口調で告げ、自分の椅子に腰を下ろした。

 優紀子の顔色は真っ青になっていた。全身の震えは大きくなり、今にも壊れてしまいそうだった。

「まあまあ落ち着いて。原則として依頼人は殺しませんのでご安心を。飽くまで原則として、ですが」

 黒贄は穏やかに保証した。彼の瞳をふと寂しげな色が掠めた。滅多にないことだった。

 優紀子の震えが小さくなるまでの数分間、黒贄は黙って待っていた。少女は、この場を逃げ出したり悲鳴を上げたりはしなかった。或いはあまりにも恐怖が強くて、出来なかったのかも知れないが。

「落ち着かれましたかな」

 やがて、黒贄が聞いた。少女はぎこちなく頷いた。黒贄を見上げるその目にはまだ怯えの色が残っている。

「し……信じられない。どうして……人を、殺すの」

 少女の問いに、黒贄はちょっと困ったような顔をした。

「ううむ。そう言われても、人を殺す理由などありませんねえ。やっぱり、殺人鬼だからでしょうかねえ」

「そんなの……そんなの、理由になってないよ。殺される人の立場になって考えたことがあるの。父さんはいつも言ってたわ。自分がされたら嫌なことは、他人にしてはいけないって」

 優紀子は、黒贄を非難するような口調になっていた。恐怖よりも道徳心の方が勝ったのであろうか。

 黒贄は気怠い視線を少女に返した。

「あなたは、蚊を潰したことはありますかな。牛肉や豚肉は食べておられますよね。さて、あなたは、殺される蚊や牛や豚の立場になって考えたことがありますかな」

 優紀子はぐっと鼻白んだ。

「で、でも、それは動物だもの。人間とは、違うじゃない」

 答えようとして、黒贄はふと照れ笑いのような表情になって頭を掻いた。

「いやはや、危ない危ない。申し訳ないですが、これ以上は答えられませんな。殺人鬼は倫理について語ってはいけないことになっているのです。まあ、あなたが決めなければならないのは簡単なことですな。殺人鬼の私に依頼して、ブラディー・ベイビィを退治されるか、それとも依頼を諦めて、警察に任せられるか。ひょっとすると警察が運良く捕まえてくれることもあるかも知れませんしねえ」

 優紀子の顔に迷いが浮かんだ。黒贄礼太郎という存在と、自分の中の道徳観念と、両親の思い出の、それぞれの重みを、少女は幼い心で必死に比較しているようだった。

「わた……私は……」

 優紀子の目が、再び涙で潤んできた。俯いてしゃくり上げる少女を、黒贄礼太郎は懐かしいものを見るように、好ましげに見守っていた。数分経ち、少女が泣きやむまで、黒贄は静かに待っていた。

 やがて、優紀子は顔を上げた。涙の痕は残っていたが、その強い光を湛えた瞳は、何かを決意した者のそれだった。

「私は……。両親を殺した奴らが憎い。ブラディー・ベイビィを捕まえないと、私の気が済まないわ」

「私を雇われますかな」

 黒贄の言葉に、少女は黙って頷いた。

「しかし、報酬は頂けるんでしょうかな。幾らお家が金持ちでも、あなたのお小遣いはそう高くはないでしょう」

 黒贄が心配そうに尋ねた。少女は小さな財布を取り出して、その中身を机の上にぶち撒けた。

 チャリーン、と、音がした。

 ガコン、と、音がした。

 最初の音は、硬貨がぶつかり合って鳴り響いたものだった。

 次の音は、黒贄の顎が外れた音だった。

 机の上には、千円札が一枚と、五百円硬貨が一枚、後は数枚の小銭だけだった。

 念入りに硬貨を数え、外れた顎を元に戻し、悲しげに黒贄は言った。

「千と、五百二十七円ありますな」

「あのね、私、貯金箱に貯めてたお金を、この前CDを買うのに使っちゃって」

 優紀子がもじもじと上目遣いになって言った。

「今はお小遣いを全部、叔父さんが管理してるの。だから、私の全財産、これだけ」

「くううぅぅ」

 黒贄は泣きそうになっていた。優紀子は取り繕うように慌てて付け足した。

「あのねあのね、刑事さんがね、探偵さんはとっても優しい人だから、頼み込めばなんとかしてくれるって」

「……。わ……分かりました」

 長い溜息の後、黒贄は答えた。

「インスタントラーメンならば、一日二食二百円以内で、一週間は食べていけるでしょう。いや、一日百円なら十五日間は生活可能ですな」

「ごめんなさい」

 優紀子は素直に頭を下げた。

「まあ、いいでしょう。それでは二枚、選んで下さい」

 黒贄は机の上の箱を指差した。箱の上面には丁度手が入る大きさの丸い穴が開いていた。中に積み重なった紙片の山が見える。

 優紀子は右手を差し入れて、二枚を選び出した。

「八番と……六十一番ですな」

 黒贄は紙片を開いて読み上げ、左の部屋へ消えた。

 緊張した面持ちで少女が待っていると、黒贄は両手に二つの道具を持って現れた。

 黒贄の右手には、柄の長さが四十センチ程の、金属のハンマーが握られていた。柄にテープで貼られた紙片には、八の番号が書かれていた。

 黒贄の左手には、太いコの字型のフレームに支えられた、刃を取替える方式の鋸が握られていた。糸鋸と違うのは歯が細かく、そして刃の幅が広いことだ。それは、金属材を切断するための金鋸だった。

「も、もしかして……それ、使うの」

 恐る恐る優紀子が聞いた。

「はい、勿論使います」

 きっぱりと黒贄が答えた。

 

 

  三

 

 一時間半後、三沢優紀子に案内され、黒贄礼太郎は三沢家に辿り着いた。

「いやはや、広い屋敷ですなあ」

 黒贄は嘆息した。

「今は私、叔父さんの家に住んでるから、今は誰もいないの。叔父さんはこの家、売りに出すって言ってる。私がずっと住んできた家だけど、でも嫌な思い出も……」

 殺された両親の姿が脳裏を掠めたのか、優紀子は眉をひそめて俯いた。

 正門を開いて二人は敷地内へ足を踏み入れた。すぐ側に小さな詰所がある。

「ここに、警備員の人が倒れてたの」

 優紀子は詰所を指差した。扉は壊れ、床には血の染みが残っている。

「ふうむ」

 顔を突っ込んで数秒観察すると、黒贄は先へと進んだ。

「警察が散々調べていったけど、結局、役に立つ手掛かりはなかったって。指紋とか足跡とかは沢山残ってたけど、前科もないみたいで。私が鍵持ってるから、玄関から入れるよ」

 優紀子は玄関の扉を開けた。

「靴は脱がなくていいよ、もう汚れてるから」

「そうですか、ではお邪魔します」

 黒贄はスニーカーのまま中へと入った。

 二人は奥へ進み、広いキッチンに入った。勝手口は板で閉鎖されている。

「このドアは、ショットガンで撃たれてたって。ほらあの、小さな弾が沢山出る奴」

 説明した後、優紀子は壁にあるセキュリティ・システムのコントロールパネルを示した。

「ふうむ」

 黒贄は顔を近づけ、パネルの中心に開いた穴を観察した。

「溶けてますな。壁の裏側まで貫通していますし」

 そして黒贄は振り向いて、外に接した壁に別の穴を見つけた。

「レーザーかエネルギー弾でしょう。外から撃ち込まれて、正確にパネルを破壊しています。窓もないのによく外から内部の様子が分かりましたな。その千里眼という人は透視能力でも持っているのかも知れませんね」

 更に二人は廊下を進み、壁とドアに横並びに撃ち込まれた弾痕を観察した。

「それから上に、私達の寝室が……」

 その時、二階からゴソゴソと何者かの動く気配が伝わってきて、優紀子は顔を強張らせた。

「ほほう」

 黒贄は礼服の内ポケットから金属製のハンマーを取り出した。音を立てずに階段を上り、その後を優紀子がついていく。

 廊下を進む内に、右手にある部屋から忌々しげな呟きが聞こえてきた。

「全く。何もありゃせん。兄貴の奴……」

 その声に何を感じたのか、優紀子が黒贄の後ろで首を傾げた。

 ドアは開いていた。黒贄が隙間から覗き込むと、小太りの男が机の引き出しを漁っていた。書類や本が散乱しているこの部屋はどうやら書斎らしい。男はこちらに背中を向けていて黒贄に気づかない。

「もしもーし。泥棒の方ですか」

 気楽な黒贄の呼びかけに小太りの男はビクリと身を竦ませた。ゆっくりと振り返ったのは、三十代半ばの狡猾そうな顔をした男だった。

「だ、誰だ、君は」

「それよりあなたはどなたでしょう。いえ、答えて頂く前に、二、三発ポカポカとやらせて下さい」

 黒贄がにっこり笑って右手のハンマーを振り被る。その後ろから顔を覗かせた優紀子が小太りの男を見て声を上げた。

「やっぱり叔父さんだ。ここで何をしてるの」

「な、何だ、優紀ちゃんか」

 小太りの男は、ホッとしたような気まずいような顔をした。

「い、今、君のお父さんの荷物を整理してたところだよ。優紀ちゃんこそ何をしてるんだい。それにこの男は」

 優紀子の叔父である小太りの男は、胡散臭そうに黒贄を見た。

「探偵さんなの。ブラディー・ベイビィを捕まえてくれるのよ」

 優紀子が説明すると、小太りの男は疑惑の目を今度は彼女に向けた。

「探偵だって。そんな者を雇う金が、何処にあったんだい。優紀ちゃんは、何か叔父さんに隠してることはないかい」

「え、どういう意味」

 優紀子が目を見開いた。そんな反応が返ってくるとは思いも寄らなかったのだろう。

「いやあ、整理しているというよりは、何か金になりそうなものを探しているような感じですねえ」

 黒贄が微笑を崩さずに言った。

 小太りの男の目が険悪な色を帯びた。

「何だ君、変な言いがかりはよせ」

「なかなか欲の深そうなお顔ですな。いえいえご謙遜なさらずとも結構ですよ、すぐに分かります。金庫の中身は全部強盗に持ち去られたそうですが、それでも遺産は相当ありそうですねえ。いやはや強盗様々ですねえ。あ、でもそれは優紀子さんのものですかな。といっても優紀子さんはまだ幼いですから、財産管理はあなたがされるんでしょうねえ。浪費好きなあなたのことですから、それはもう好き勝手に使い捲るんでしょうねえ。でも優紀子さんが成人してしまったら財産はあなたの手を離れてしまうから、その前にあなたは優紀子さんを殺してしまわねばなりませんねえ。狡猾なあなたのことですから、事故に見せかけて完璧に実行されてしまうでしょうねえ。あっと、もう計画されているんですか、気の早いお方だ」

 黒贄は表情を変えず、気怠い口調で淀みなく喋り終えた。

 小太りの男の顔が、次第に青黒く変わっていった。それは怒りよりも、図星を指されたという焦りの色だった。

 叔父の変化を見て、優紀子の顔は逆に蒼白になっていた。

「叔父さん……」

「しょ、証拠は何もないぞ」

 小太りの男はふてぶてしい口調になって開き直った。

「そりゃあそうでしょう。まだ計画の段階ですからね。さて、どうしましょうかねえ。ついでですから叔父さんも始末しときましょうか。いえこれはサービスで」

 ハンマーを手の中で弄びながら、黒贄が優紀子に尋ねた。

 黒贄の瞳の中で、殺戮への黒い期待が渦を巻いていた。

 本気で言っていると悟ったらしく、小太りの男が凍り付く。

「ま、まさか、優紀ちゃん……」

「いや、やめとくわ」

 優紀子は黒贄に言った。安堵する叔父に軽蔑の眼差しを送ってから、少女は部屋を出ていった。

 そしてすぐ、優紀子の顔は泣きそうに歪んだ。

 彼女の後ろをひっそりと黒贄がついてきていた。優紀子はそれに気づくと、表情を引き締めて黒贄に告げた。

「突き当たりが、両親の寝室よ」

 入り口のドアは失われ、廊下からでも奥が見えた。背後では小太りの男が逃げ走っていく。

「ふうむ」

 黒贄は部屋に入って内部の様子を見渡した。隅には金庫が置きっ放しになっているが、どうせ中身は空だろう。

「私はそこに隠れてたの」

 優紀子がクローゼットを指差す。

 黒贄は、ビニールの被さったダブルベッドに近づいた。ベッドの横、高級な絨毯に広く赤い染みが残っていた。

「ここに……」

 優紀子の言葉はそれ以上続かなかった。

 黒贄は暫くの間、黙ってそこに立っていた。その口元の笑みが、少しずつ、少しずつ、深くなっていった。

「何か手掛かりはありそう」

 黒贄の表情に怯えつつ、それでも優紀子は聞いた。

「いえ、特に何も」

 平然と黒贄は答えた。

「ただ、一つだけ分かったことがありますな。彼らは、お金は勿論好きですが、殺しも好きということです。趣味の要素が多分に入っておりますな」

「それで」

 優紀子はちょっとがっかりしたような声になった。

「そうなるとおそらく、プライドも高いでしょうねえ。そこに糸口がありそうですな」

 黒贄は自分の顎を撫でながら言った。

 

 

  四

 

「今夜はどうされますかな」

 電話ボックスから出た後、夕闇の通りを並んで歩きながら、黒贄礼太郎は三沢優紀子に尋ねた。

「後は私に任されますか。それとも強盗団を捕まえるところをあなたが見届けたいと思われるんでしたら、明日の朝に私の事務所に来て頂ければ一緒に出かけられますが」

 暫く躊躇っていたが、優紀子は答えた。

「もう、叔父さんの所には帰りたくない。探偵さん、泊めてくれるかな」

「そりゃ、まあ、数日ならいいですけどね。あなたが恐くなければ。それと、食事はインスタントラーメンですが」

 黒贄が肩を竦め、優紀子は苦笑した。

「ごめんなさい。で、これからどうやってブラディー・ベイビィを捜すの」

「捜すのではなくて、向こうから来てもらいます。ちょっとここで待っていて頂けますかな」

 黒贄が立ち止まった場所は、大きな和風の邸宅の前だった。厳めしい門の横に『黎風会 酒井田玄吾』とあった。

「ここは……」

「私も良く知りませんが、暴力団の組長さんの屋敷です。いや、黎風会ですから会長さんになりますかな。麻薬に恐喝、殺人と色々やっておられて、最近なかなか羽振りがいいそうです。先程大曲刑事さんに電話しまして、ご推薦を頂きました」

「どういうこと、ここにあいつらがいるの」

「いいえ、違います。まあお待ちを」

 不審顔の優紀子を後に残して、黒贄は正門をくぐった。ポケットから金属製のハンマーを取り出す。

 黒贄はハンマーを愛おしむように撫でてから、インターホンのボタンを押した。

 少しして、低い男の声が聞こえてきた。

「誰だ」

「ブラディー・ベイビィです。お金になりそうなものを沢山頂きたいのですが」

 黒贄は気楽な口調で言った。

「……。馬鹿か。失せろ」

「開けてくれないと扉をぶち破ってしまいますよー」

「てめえ、ここが何処だか分かってんのか」

「ですから黎風会ですよねえ。急いでますので入りますよー」

「やめろ、この馬鹿野郎っ」

 声に構わず、黒贄は玄関の引き戸をハンマーで叩いた。填っていたガラスが割れ、格子状の木枠が折れる。

 黒贄がもう一度ハンマーを振り下ろすと、扉は内側へ向かって倒れ派手な音を立てた。

 険しい目付きの屈強な男達が廊下を走ってきた。

「てめえ、何処のもんだっ」

「あーポカリ」

 先頭の男の頭を黒贄は上からハンマーで叩いた。

 ポカリ、ではなくてゴギョリ、というような音がした。

 男の頭頂部が十センチ以上も凹んでいた。眼球を飛び出させ男は倒れた。

「うおおっ」

 男達がどよめいた。彼らの何人かは持ってきた日本刀や短刀を抜き放った。別の数人は懐から拳銃を抜く。

「そりゃポカリポカリ」

 間近にいた二人の頭を黒贄は素早くハンマーで殴り付けた。横殴りの打撃で最初の男の頭が破裂した。次の男は顔面に食らって潰れた眼球や歯の欠片を撒き散らしながら崩れ落ちる。

「こ、この……」

 短刀を腰溜めにして二人が向かってきた。黒贄は避けもせず、その腹に二本の刃が突き刺さる。別の男が日本刀を振り下ろした。それは黒贄の左肩を裂き、五センチほど食い込んで止まった。

「あああ〜麗しの〜ブラディー……」

 立て続けに銃声が鳴り響いた。近距離から発砲された弾丸が、黒贄の胸に幾つかの穴を開けた。

「ベイビィ〜」

 黒贄は機嫌良く最後まで歌い終えると、血塗れのハンマーを振り上げた。

「ば、化け物っ」

「ほれポカリポカリポッカリー」

 短刀を離して逃げようとした男達の頭が爆発した。日本刀の男のグチャグチャになった生首が宙を飛ぶ。拳銃の男達は無意味に発砲を続け、黒贄のハンマーの餌食になった。

「あーポカリ、そりゃポカリ、ポッカリポカッリポッカポカ〜」

 逃げ出した男達に追いすがり、黒贄は次々に撲殺していった。逃げ惑う女達も黒贄は遠慮なく叩き殺した。

 奥の部屋で、金庫の中身を慌ててトランクに詰め込んでいる中年の男がいた。左の頬に傷のある会長らしいその男は、黒贄に気づいて動きを止めた。

「どうぞ、続けて下さい」

 黒贄が血みどろの顔でにこやかに告げた。

「た……助けてくれ。命だけはどうか……」

「まあまあ、まずはお金を詰めて詰めて。いやあ、沢山お持ちですねえ」

 黒贄がハンマーで自分の左掌をペチペチと叩いてみせる。

「か、金はやる、全部やるから、お願いだ」

 男は札束と金の延べ棒を震える手でトランクに詰め込んだ。それを見届けて、黒贄は丁寧に一礼した。

「これは良い物を頂きまして、どうもありがとうございますポカリ」

 金属のハンマーが男の頭を打ち砕いた。目や耳や鼻や口から血と脳漿を噴き出して倒れる男を置いて、黒贄は左手でトランクを持って出ていった。

 門の前では、体を震わせながら優紀子が待っていた。

 血塗れの黒贄の姿を見て、少女は聞いた。

「こ……殺したの」

「はい。お金もこの通り、盗みました。後は警察が来て、事件は明日の朝刊に載ります。ブラディー・ベイビィの仕業だと発表して頂くように、大曲刑事さんにお願いしました。自分達の名を騙った事件を探るため、おそらく明日の間に、プライドの高い本物が偵察に来るでしょう」

「そ、そのために……。そのために、沢山の人を殺したの」

 問う優紀子の瞳には、圧倒的な恐怖と、後悔と、非難の色があった。

「ひどい……」

「そうですね。ひどいですねえ」

 他人事のように黒贄は言った。彼は、相手が悪人だったからだとか、そんな言い訳はしなかった。

「どうされますかな。やっぱり叔父さんの元に帰られますかな」

 黒贄は優しく尋ねた。少女はかなりの間、逡巡した後、か細い声で答えた。

「いや。泊めて」

「分かりました」

 黒贄は右手で優紀子の頭を撫でようとした。だが自分の手が血塗れであることに気づいてやめた。

 事務所に戻った二人は、カップラーメンの侘しい夕食を摂った。

「そのお金は使わないの」

 トランクを指して優紀子が聞くと、黒贄はとんでもないというように首を振った。

「盗んだお金は使えませんよ。自分の利益のために人を殺すというのは、殺人を冒涜しています」

 黒贄の台詞に、優紀子は寂しげな微笑を浮かべた。

「へえ、自分のルールがあるんだ」

 食べ終えた後で、黒贄が言った。

「私はソファーで寝ますので、あなたはどうぞ、私のベッドで寝て下さい。いえいえ遠慮なさらずに」

 礼を言って隣の部屋に入った優紀子は、悲鳴を上げてすぐに戻ってきた。

「棚の上に……」

 黒贄が入ってみると、優紀子の指差した先に、若い男の生首が載っていた。

「ああ、すみませんねえ。片付け忘れてました」

 黒贄は生首を上から素手で叩いた。ベチャリ、と、潰れた生首から頭蓋骨と脳の欠片が飛び散った。

「さあ、これで大丈夫ですよー」

 黒贄の説得に反し、優紀子はどうしてもソファーで寝ると言い張って、結局そうなった。黒贄は自分のベッドで眠った。

 

 

  五

 

 翌日の朝早く起きた二人の朝食は、またもやインスタントラーメンであった。おそらく朝刊には昨夜の事件のことは、ブラディー・ベイビィの仕業として大きく扱われている筈であった。テレビのニュースでもそうであろうが、黒贄の事務所にテレビはないし、新聞も取っていないので確かめようがない。

 昨夜使った金属製のハンマーは綺麗に洗い、手入れを済ませて元の場所に戻していた。今、彼の懐には別の凶器が収まっている。

「では行きますか」

 黒贄礼太郎が言うと、三沢優紀子は無言で頷いた。お金がないので二人は昨日の道程を同じように歩いて辿り、四十分後に黎風会の会長、酒井田玄吾の屋敷前に到着した。

 大通りに面した門の付近には、関係者らしい黒服の男達が何人か寄り合って話している。

「警察の人はいないの」

 小声で優紀子が聞くと、黒贄は頷いた。

「大曲さんが早めに引き揚げさせたんでしょうな。まあ、警察もなかなか忙しいですからねえ」

 屋敷の向かいに小さな公園があった。二人はそこのベンチに座り、状況の変化を待つことにした。

「いやあ、いい天気ですねえ」

 黒贄がのんびりと言った。空は下界の人々の事情に関わりなく、雲一つない快晴だった。

 優紀子は口元を引き結び、時折周囲を見回していた。

 二十分も過ぎた頃、門の近くにいた男の一人が、ベンチに座ったまま動かぬ二人の方を見た。

「こっちに来るわよ」

 緊張した面持ちで優紀子が言った。

「そうみたいですな」

 黒贄の口調は変わらない。

 三十代半ばの、スポーツ刈りの男が近寄ってきた。冷たい目で二人を見下ろし、低い声で聞いた。

「何だ、お前らは。さっきからこっちを見てるが、何か用事でもあるのか」

「ええ。重要な用事なので、邪魔をしないで下さい。出来ればあなた達にも消えて頂きたいですな」

 何の感情も込めずに黒贄は答える。

「……。失せろ。こっちは大変なことになっちまって、殺気立ってんだよ」

 男は懐から短刀を抜き出し、刃先を黒贄に突き付けた。優紀子が息を呑む。

「仕方がないですな」

 黒贄が立ち上がった。男は気圧されたように一歩下がった。黒贄の身長は百九十センチを超えており、男よりも一回り大きかった。

「ちょっと向こうでお話でもしませんか。あなた方の将来のことについて」

 黒贄は、男の右手を短刀ごと無造作に掴んだ。男が苦痛に顔を歪める。

「痛てて、何しやがる」

「ちょっと待ってて下さいね。すぐ終わりますから」

 優紀子に微笑むと、黒贄は男の手を掴んだまま正門へと引き摺っていった。門の近くにいた黒服達が慌てて駆け寄ってくるのも纏めて、黒贄は屋敷の中に押し込んで見えなくなった。

 少しして銃声が聞こえ、優紀子はビクリと肩を震わせた。銃声が、二度、三度、四度。

 やがて、奥の闇から黒贄が戻ってきた。

「お待たせしました」

 にっこり笑って、黒贄は再び優紀子の隣に腰を下ろした。

「……殺したの」

「はい」

 黒贄は答えた。

 優紀子は、目を伏せて、長い溜息をついた。十一才の少女には似合わぬ仕草だった。

「なんだか、気持ちが麻痺しちゃったみたい」

 優紀子は呟いた。

「ねえ、探偵さんは昨日、肉は食べてるかって聞いたよね。あれから私、ずっと考えてるんだ。私はあの時、動物と人間は違うって言ったけど、やっぱり牛や豚にだって、魂はあるかも知れないもんね。でも私はお肉を平気で食べてるし、蚊を潰してるし。自分にとって嫌なことを相手にするな、なんて、出来ないのかな」

 考え考え話す少女を、黒贄は黙って見守っていた。

「でね、出来ないのなら、仕方がないっていうか、それでもいいかなって。今はそんな気もしてるんだ。他人を傷つけても、自分の大切な人を守ることが出来たら、それでいいんじゃないかって。不公平で、ひいきだけど」

「まだ若いのにそんなことを考えてはいけませんよ」

 黒贄は穏やかに言った。

「全人類が平等で幸福になる明るい未来を夢見てて下さい」

 黒贄の言葉に、優紀子はプッと吹き出した。

「探偵さんって変な人だね」

「そりゃあもう、殺人鬼ですから」

 黒贄は澄ましたものだ。

 優紀子は、黒贄の礼服に開いた穴と、その周囲に滲む血に気づいた。

「ねえ、血が出てるよ」

「そうですね」

 何でもないことのように黒贄は答えた。

「痛くないの」

 黒贄は苦笑した。

「実際はどんなに痛くても、殺人鬼は、痛がってはいけないことになっているのです」

「……。ねえ、ずっとあの事務所に、一人で住んでるの」

「そうですよ」

「寂しくないの」

 黒贄の苦笑が深くなった。

「殺人鬼は、寂しがってはいけないことになっているのです」

「ふうん。殺人鬼って、色々大変だね」

 優紀子は言った。

 通りは静かだった。二人は肩を寄せ合って座っていた。何事もなく一時間、二時間と過ぎていった。

 正午を過ぎた頃、黒贄の腹が鳴り出した。

 優紀子は笑いながら、自分の腹も押さえた。

「お腹空いたね」

「そうですなあ」

 黒贄は悲しい顔をして、ポケットから財布を取り出した。中身を確かめると、昨日の千円札が一枚と、小銭が七百七十九円分しかなかった。

 つまり、昨日優紀子から受け取った分を除けば二百五十二円しか持っていなかったことになる。

「えーっ、探偵さん、これだけしか持ってないの」

 流石に優紀子も唖然としていた。

「そうです。生きていくというのは大変なことですねえ」

 黒贄はしみじみ言った。

「ごめんなさい。少ししか出せなくて」

 謝る優紀子に黒贄は首を振った。

「いえいえ、大丈夫です。水だけで二ヶ月間過ごしたこともありますし。ですが今日くらいは奢りましょう」

 黒贄は立ち上がった。向かいの角にパン屋が開いていた。二人はそこに入った。黒贄がクリームパンとミルクパンを、優紀子が遠慮したのかメロンパン一つを選び、それぞれ牛乳パックを足して、合計四百四十一円であった。よって黒贄の財布の残りは千三百三十八円となった。

 心配そうな優紀子の顔を見て、黒贄は弱い微笑を浮かべた。

「大丈夫ですよ」

 紙袋に入れてもらい、二人は公園に戻って食べた。

「ご馳走さま。どうもありがとう」

 優紀子が食べ終わってゴミを紙袋の中に詰めようとすると、黒贄がそれを止めた。

「いえ、折角なのでこれは使います」

 黒贄は茶色の紙袋を手に取って、暫し観察した。ゴミを公園の屑籠に捨てた後、優紀子がまじまじと見ている前で、彼は紙袋を頭に被ってみた。

 優紀子がその滑稽な姿にも笑わなかったのは、黒贄の瞳の中に浮かんでいた、不気味な黒い渦のせいだった。

「ちゃんと入りますな」

 脱いでから満足げに呟くと、黒贄は紙袋の、被った時に両目が位置しそうな辺りに、指で穴を開けた。

「それ……。何に使うの」

 優紀子が、慎重に、尋ねた。

「勿論、被ります」

 何かを面白がっているような黒贄の微笑が深くなり、別のものに変質していった。

 これまでの時間、屋敷の前の通りは疎らに人が行き交っていた。それらは大学生らしい若者であり、買い物帰りの主婦であり、自転車に荷物を詰め込んだ浮浪者らしい男であった。

 だが今、突然顔を上げた黒贄の視線の先を、二人の男女が歩いていた。

「どうしたの」

 優紀子が黒贄の様子に気づき、同じ方向へ顔を向けた。

 男は、二十代半ばに見えた。ひょろりと痩せて、神経質そうな若者だ。眼鏡の奥の瞳は常に忙しく動いている。

 女は、男よりも少し年上に見えた。クリーム色のスカートと薄い赤のシャツに包まれた肉体は見事なプロポーションを誇っている。女は濃い色のサングラスで美貌を隠していた。テニスラケットのケースを肩にかけている。

 黒贄は立ち上がっていた。左手に紙袋を持ち、右手は懐に入っていた。

「あれなの」

 優紀子も立ち上がる。顔が戦いの予感に強張っている。

 まだ双方の距離は五十メートル近くあった。さり気なく酒井田の屋敷へと近づいていた男女の内、眼鏡をかけた男がはっとして公園に立つ黒贄を見た。

 黒贄の、唇の両端が、キュウッ、と、吊り上がった。

「千里眼さんですねーっ」

 黒贄は大声で呼びかけた。眼鏡の男の顔が驚愕から凄まじい恐怖へと変化した。男がすぐに女の手を掴んで逆方向に走り出した。女が不審顔で何か問うた。

「ば、化け物だ。早く逃げろ」

 若者の震え声が公園の二人にも届いた。

「待って下さいよー。あなた方に大事なお話があるんですよー」

 黒贄も彼らの後を追って走り出した。優紀子が慌ててその後に続く。

 黒贄の右手に、鈍い輝きを放つ金鋸が握られていた。

「ハラヘリー、ハラハラー、ハレハラー」

 次第にスピードを増しながら、黒贄の口から奇妙な言葉が洩れた。

 千里眼達と黒贄の距離が縮んでいく。同時に黒贄と優紀子の距離は開いていく。

 女が走りながらラケットケースを開けた。

「サロメ、無駄だっ」

 千里眼が叫ぶ。

 ケースの中にはテニスラケットではなく、折り畳み式のショットガンが収まっていた。

「ハラミリャー、ハラニャー、ハラメニャー」

 黒贄が五メートル程の距離まで迫った時、サングラスの女・サロメが振り向いて発砲した。轟音。走りながらの不安定な照準は、しかし黒贄の胸の中心を撃ち抜いていた。恐るべきサロメの技量だった。胸に大きな赤い花を咲かせ、黒贄の上体が揺らいだ。だが黒贄は満足げに奇声を完成させた。

「ハラモニャー」

 黒贄の顔は、殺戮への期待に輝いていた。彼は左手に持っていた空の紙袋を頭から被った。

 紙袋の小さな二つの穴から覗く瞳は、一変して、絶対零度の虚無を、映し出していた。

「ひいいいっ」

 千里眼が怯えた悲鳴を洩らした。その足がもつれたのは恐怖のためか、運動不足のためか。

 すぐ後ろに紙袋を被った黒贄礼太郎がいた。左手で千里眼の髪を掴むと、彼は右手の金鋸をその首筋へ水平に当てた。そして素早く左右に動かした。

「ハラモニャー」

「あぎえええぶうううう」

 血と肉の細かい欠片が散った。凄まじい断末魔に顔を歪めたまま、千里眼の頭は胴体を離れていた。切断まで四秒しかかからなかった。血を噴き出しながらくたりと倒れる胴体を踏み越えて、右手に血肉塗れの金鋸を、左手に千里眼の生首を握ったまま黒贄が走る。

 サロメの走る約三十メートル前方に、メタリックブルーのライトバンが停まっていた。エンジンは既にかかっている。

「カポネ、助けてっ」

 サロメが甲高い声で叫んだ。運転席から葉巻を咥えた男が顔を出した。サブマシンガンの銃口も窓から覗く。

「ハラモニャー」

 黒贄が千里眼の生首を走りながら投げた。風の唸りと共に生首はサロメの背中に命中した。骨の砕ける音がした。それが千里眼の頭蓋骨なのか、サロメの背骨なのかは分からない。

 サロメが前のめりに転んだ。アスファルトの地面に左手を突いて体を半回転させ、サロメはもう一度黒贄へ向けて発砲した。二メートルの距離で黒贄の左肩が爆ぜた。だが黒贄はそのまま左手を伸ばし、サロメの首筋を掴んだ。

「カポネエーッ」

 パラパラと軽快な銃声が聞こえた。黒贄の胸に小さな穴が開いていく。

「ハラモニャー」

 黒贄は金鋸をサロメの頭頂部に垂直に当て、素早く前後に動かしていった。

「だじじいいいいっ」

 サロメの頭が真っ二つになるのに、五秒しかかからなかった。サロメの頭が左右にべろりと倒れ、グチャグチャになった脳の断面が露出した。サングラスが折れて外れ、サロメの目が見えた。その左目は潰れており、醜く引き攣れた古い傷痕を残していた。

「チイッ」

 カポネは車を降りず、逆にエンジンを吹かせて逃走に移った。黒贄に勝てないと判断したのか、白昼の戦闘を避けようとしたのか。

「ハラモニャー」

 サロメの死体を左手で掴み上げ、黒贄は走った。人間一人の死体を引き摺りながらも尚、黒贄は異常なスピードで、逃げるバンへ迫っていた。

 バンの後面の窓ガラスが砕け、太い腕が現れた。ただしその手首から先は直角に折れ曲がり、細長い砲塔が延びている。黒贄がサロメの死体を持ち上げて振り被った時、砲塔の先端から光が飛んだ。それは黒贄の首筋をあっけなく貫通していった。径四センチ程の穴が首の左前面と右後面に開いた。

「ハラモニャー」

 黒贄の動きは止まらなかった。二発目の光弾が左胸を貫通したが、黒贄はサロメの死体をまるで洗練されていないフォームで投げ付けた。派手に四肢を踊らせながらそれはバンの右側面にぶち当たった。運転席のドアが凹む。ハンドルを取られたのかバンが激しく蛇行し始め、つんざくようなブレーキ音を鳴らせ横転した。途端にバンの天井を軽々と突き破り、黄土色のベストを着た巨体が転がり出た。

 頭髪も眉毛もない無表情な大男は、砲塔を収めて右手首を元に戻し、逆に左手首から螺旋状の刃を出していた。両刃の剣を緩やかに捻り上げたような、コルク抜きに似たそれは、前腕ごと回転して相手の肉を抉り取ることが出来る凶悪な武器だ。

「オレハ、タイタンダ」

 抑揚のない声で大男が名乗った。

「ハラモニャー」

 黒贄の無感動な奇声が応じた。

 二人は互いの体へ目掛けて突進し、激しくぶつかり合った。黒贄よりもタイタンの身長が数センチ高かった。タイタンの胸倉を掴み、その首を狙って差し込まれた黒贄の金鋸を、タイタンの螺旋状の刃が弾いた。タイタンの右フックが紙袋に包まれた黒贄の顔面を殴り付けた。ヘビー級ボクサーによるパンチの十倍以上の衝撃が黒贄の体を地面にぶち倒した。だが倒れた瞬間に黒贄の左手がタイタンの左足を掴んでいた。

「ハラモニャー」

 黒贄が金鋸をタイタンの左足首に当て、素早く振動させた。タイタンの右肘が凄い勢いで黒贄の脇腹に落とされた。ギシャリと肋骨の折れる音が響く。しかし、タイタンはバランスを崩して膝をつき、逆に黒贄は立ち上がっていた。

 タイタンの左足首は切断されていた。アスファルトに転がった足首は金属の断面を晒していた。

 優紀子がやっと彼らに追いついたが、目の前で繰り広げられる凄惨な戦いに、それ以上近寄ることが出来ぬまま荒い息をついていた。

 タイタンの刃が黒贄の腹に突き出された。黒贄はそれを避けなかった。土手っ腹に突き刺さったそれが勢い良く回転を始め、黒贄の肉を抉り血と衣服の切れ端と一緒に飛び散らせる。

「ハラモニャー」

 そのタイタンの左腕を、がっしりと黒贄の左手が掴んだ。金属のフレームが軋みを上げ、刃の回転が嫌な唸りを上げて止まる。黒贄が金鋸をその左肘に当てた。タイタンが右拳で黒贄の左胸を殴った。骨と肉が潰れる音がしたが、黒贄はびくともしなかった。

「ハラモニャー」

 黒贄は金鋸を素早く前後に動かした。鉄粉を撒き散らしながらタイタンの左腕が切り落とされた。

「コノ……」

 ベストを押し分けて、タイタンの胸壁が開いた。その奥には、ジェットエンジンの噴射口のようなものが四つ並んでいた。それぞれの奥から白い光が覗いた時には既に、黒贄はタイタンの体を引き掴んで地面に押し倒していた。アスファルトの地面が膨大な熱量放射によって赤熱し、溶解していく。

「ハラモニャー」

 黒贄はタイタンの首を押さえ付け、その後頭部を横断する向きに金鋸を当てた。タイタンの右腕が人間には不可能な角度に曲がり、延びた砲塔が黒贄の頭を撃ち抜いた。紙袋が血で滲む。

「ハラモニャー」

 しかし黒贄の行為は止まらなかった。金鋸は毛のない頭部を切り進み、七秒で完全に輪切りにした。クッションとシリコンカバーに保護された脳の断面が覗いていた。サイボーグ・タイタンは動かなくなった。

 金鋸の歯は、酷使によってかなり鈍っていた。

「動くな、この化け物」

 男の低い声が聞こえ、黒贄はゆっくりと振り向いた。

 七、八メートル離れた場所で、三沢優紀子が立ち竦んでいた。その首筋を左腕で締め付け、こめかみにサブマシンガンの銃口を当てているのは、ブラディー・ベイビィのリーダー、カポネだった。

「動くとこいつを殺すぞ」

 苦痛に顔を歪めつつ、カポネが言った。口から血の筋が引いていた。バンが横転した際に、肋骨が折れて肺に刺さったのだろうか。それでも彼はまだ葉巻を咥えていた。

 優紀子は身動きすることも出来ず、そのまま凍り付いていた。その顔に浮かぶのは恐怖と後悔であった。彼女はもっと距離を取っておくべきだったのだ。

 黒贄は動かなかった。足だけは。左手で金鋸の固定ネジに触れ、ゆっくりと回していく。緩んだブレード部分を外し、黒贄は無造作に投げ捨てた。

「動くなと言ってるだろうがっ。俺はな、人を殺すことなど何とも思っちゃいないんだよ。舐めてると、この餓鬼の耳でも指でも吹っ飛ばすぞ」

 カポネが怒鳴る。

 黒贄の顔を覆った紙袋。

 その二つの穴から、恐ろしく冷たい瞳が覗いていた。

 カポネは身震いした。自らの怯えを打ち消そうとするかのように、カポネは一際大声で叫んだ。

「サイコ。サイコオオオオッ。いつまで寝てんだ。早く出てこいっ」

 少しして、横転したバンの中で気配が動いた。タイタンの突き破った屋根の大穴からのっそりと姿を現したのは、綿のズボンとTシャツを着た男だった。身長は百八十センチ程か。ゴリラのように分厚い筋肉でシャツはパンパンに張っている。手入れのしていない髪は若い顔にかかっていた。その穏やかな顔つきは、しかし、見る者に何かしらの違和感を覚えさせる。彼が、人間の姿をした、別世界の生き物であるかのような。

「もうちょっと見物していたかったんだけどなあ」

 無邪気な口調で話すサイコの手には、一メートルを超す長柄の大斧が握られていた。

「ボサッとすんな。そいつを解体しろ。手足をバラバラにして首を落とせ」

「だってさ。この人は大人しく解体されたりしないよ」

 サイコが斧を肩にかけて、のんびりと歩いてくる。

「今、この人に理性なんかないよ。忘我の境地って奴だよ。この人は、僕と、同類だ。一目見て分かっちゃったよ」

 サイコは、ニッと不気味な笑みを見せた。

 黒贄はその間に、左手を懐に入れていた。カポネがはっと銃口を向ける。

 抜き出されたのは取り替え用の新しいブレードだった。フレームに取り付けて黙々とネジを締めていく黒贄を横目に、サイコはカポネと優紀子の方へと歩いた。

「お嬢ちゃんはもしかして、この前押し込んだ三沢の家の子かな。あの、クローゼットに隠れてた」

 優紀子は頷いた。その瞳から恐怖が少しずつ押しやられ、怒りの色が浮かんでくる。

「あなたが、私の父さんと母さんを殺したのね」

「そうですよーん」

 サイコは答えた。カポネが片方の眉を吊り上げた。

「それじゃあサイコ、お前は、この餓鬼が隠れてるのを知ってたんだな。目撃者を残さないのは基本中の基本だろうが。何故あの時、千里眼を黙らせたんだ」

 カポネが怒鳴り、その後で咳き込んだ。洩れた血が優紀子の服を濡らす。

「だってさあ、僕はロリコンじゃないもの。それに、たまには生存者がいた方が、面白いじゃないですか」

 サイコは、二人の横にいた。

「こ、この馬鹿が……。それより早く、そいつを殺せ」

 カポネがサブマシンガンで黒贄を指した。紙袋の黒贄は、丁度ブレードの交換を終えたところだった。

「そりゃね、勿論」

 楽しげなサイコの声と共に、その時、信じられないことが起こった。空気が鳴った。

「ゲハッ」

 カポネの体が揺れ、血を吐き出した。これまでより段違いに多い量だった。血塗れの葉巻が落ちる。

 厚手のコートを着たカポネの背中に、サイコが横殴りに振った大斧が、深く減り込んでいた。

「な……ば……裏切……」

 目を白黒させて、カポネが呻いた。締め付けていた左腕の力が抜け、優紀子がカポネから離れる。幸い斧の刃は彼女までは通らなかったらしい。倒れかけたカポネの体は、斧に吊られるようにしてなんとか立っていた。最後の力を振り絞ったサブマシンガンの銃口がサイコへ向けられ、パラパラと軽い音を立ててその胸に小さな穴を開けていった。

「だってさあ、強盗なんて半年もやってたら飽きちゃったよ」

 平然とサイコは言うと、右手だけで握っていた長柄の斧を軽く振った。カポネの体が崩れ落ちる。

「ヒャハーッ」

 サイコの瞳が赤い欲望に狂っていた。胸の穴からの出血は数秒で止まっていた。筋肉の力で弾丸が押し出される。彼は両手で斧を握り大きく振り被ると、勢い良く振り下ろした。切断されて地面を転がったカポネの首は、醜悪な無念を刻んでいた。

「バラバラーッ」

 次はカポネの腕を狙い、サイコが甲高い声で再度斧を振り上げた時、気の抜けるような声が響いた。

「ハラモニャー」

 ビクリ、と、サイコの動きが止まった。振り向くと、紙袋を被り右手に金鋸を握った黒贄礼太郎が、ゆっくりとサイコの方へと近づいていた。

 優紀子は、二人の殺人鬼から離れ、息を詰めて見守っていた。

「ウヘ、ウヘヘヘヘ。ウヒャヒャ。ヒャハ」

 サイコがさも可笑しそうに笑った。血の付いた斧を大きく振り被る。

「ヒャハハーッ」

 一転して急激に加速して迫る黒贄へ、サイコは両腕に凶暴な力を込めて大斧を振り下ろした。ドキャッ。血が撥ねた。

 黒贄の左肩に分厚い斧の刃が二十センチ近く減り込んでいた。鎖骨と肋骨が何本か破壊されたであろう。

「ハラモニャー」

 黒贄の左手が伸びてサイコの首筋を掴んだ。ミチミチ、と、肉が潰れ首の骨の軋む音がした。金鋸を握った右手が迫る前に、サイコは右足で黒贄の胸板を蹴りつけて無理矢理に黒贄を引き剥がした。黒贄の肩の肉が更に裂けた。サイコの右首筋の肉が黒贄の指によって何十グラムか引きちぎられた。

「ヒャハーッ、バラバラーッ」

 サイコが力任せの一撃を横殴りに放つ。それは黒贄の横腹に、殆ど刃が隠れてしまうくらいに減り込んだ。

「ハラモニャー」

 そのサイコの左前腕を黒贄の左手が捕らえた。ピタリと吸い付いた金鋸の往復運動が太い筋肉を削っていく。

「ヒャハーッ、イターイッ」

 サイコが斧を引き抜かずにそのまま持ち上げた。黒贄の体が宙に浮く。斧ごと地面に叩き付けられるまで、黒贄はサイコの腕を削り続けていた。黒贄の体が派手に地面をバウンドした。更に潜り込んだ斧は黒贄の腹部を右側から突き破って漸く外れた。黒贄の手から逃れたサイコの左腕はしかし、半ば程まで裂けた肉がべらりと剥がれていた。黒贄の腹部から腸がはみ出した。

「探偵さんっ」

 泣きそうな顔で優紀子が叫んだ。二人の戦いにおいて、彼女の叫びは場違いなものだった。

「ヒャハハーッ」

 顔の皮膚が弾けてしまいそうなくらいに狂気の笑顔を引き攣らせ、サイコは長柄の斧を大きく振り上げた。

「バラバラーッ」

 サイコの大斧が、倒れている黒贄の左手を狙って振り下ろされた。それはまず左手首を切断する筈だった。

 ベヂヂ、と、嫌な音がした。

「ハラモニャー」

 斧は、黒贄が差し上げた左手の、開いた親指と人差し指の間を裂いて、前腕の半ば程まで進んだところで止まっていた。サイコが斧を引き抜く前に、黒贄は素早く左腕を横に倒して抜けないように押さえた。そして木製の長い柄の、刃に近い部分に金鋸を当てた。

「あ」

 サイコが慌てて柄を引こうとした。いやにあっけなく抜けた反動で彼は尻餅をついた。サイコは唖然として柄の先を見つめた。

 コンマ三秒の早業で、斧の柄が金鋸によって切り落とされていた。

 黒贄が腸を引き摺りながらゆらりと立ち上がる。左腕には斧が減り込んだままだ。

「ず、ずるいぞ」

 サイコは子供みたいに口を尖らせた。立ち上がろうとした彼の右足を黒贄の裂けた左手が掴んだ。

「ハラモニャー」

 金鋸によって、サイコの右膝が切断された。

「イタヒャハーッ」

 逃走を封じられたサイコが反撃に出た。両手で黒贄の首を掴み、渾身の力で締め上げる。ゴキリ、と、音がして、黒贄の首が妙な角度に曲がった。しかし黒贄はその間にサイコの左腕を切り落とした。

「俺がバラバラーッ、ヒャハーッ」

 黒贄のはみ出た腸をサイコが右手で掴み、引きちぎった。その右腕も黒贄の左手が捕らえた。

「放せよ。ヒャハーッ」

 サイコの腕の太さは黒贄の二倍はあった。だがサイコが幾ら抗っても、黒贄のズタズタの左手は微動だにしなかった。

「ハラモニャー」

 静かに血みどろの金鋸を当て、熟練の技で、黒贄はサイコの右腕を肘の辺りで切断した。

「イターイッ、イターイッ」

 短くなった両腕を振って騒ぐサイコを押さえ付け、黒贄は膝をついて丁寧に、残った左足を付け根から切断した。

 俯せになったサイコの背中を片足で踏み付け、右手に血の滴る金鋸を握り、左腕に柄の切れた斧を減り込ませたまま、黒贄礼太郎は立ち上がった。

「ハラモニャー」

 紙袋の穴から覗く瞳は、冷え冷えとした虚無を湛えていた。

 十一才の少女には酷過ぎる戦いを、三沢優紀子は瞬きも出来ずに見守っていた。

 黒贄の左手が上がり、血で染まった紙袋を脱いだ。

 額の右端に穴が開き血と脳漿が洩れていたが、その眠たげな瞳も口元の微笑も、いつもの黒贄のものだった。

「まあ、こんなところですが。いやあ、他の人達は殺しちゃいましたけど」

 慄いている優紀子に、黒贄は申し訳なさそうな口調で言った。

「……。探偵さん。大丈夫なの」

 常人ならば十回は死んでいる傷を見て、心配そうに優紀子が聞いた。

「大丈夫ですよ。さて、この方をどうしましょうかねえ」

「そ、それは、勿論……、警察に、突き出すわ」

 優紀子は言った。

「あなたの考えは、そうですか」

 ちょっと困ったように、黒贄は言った。

「ですがねえ、今思ったのですが、この方は、警察に突き出しても無駄なような気がしますな」

 地面に触れていたサイコの顔が上がり、血に狂った笑みを優紀子へ向けた。

「ど……どうして」

「この方は私の同類ですね。手足が切れたのに出血があまりありませんし、あなたも目を近づけて良く見れば分かると思いますが、傷がもう塞がりかけているんですよ。この調子だと手足も生えてきそうですね。おそらく、拘置所にいる間にも脱走するでしょう。警察は、この手の犯罪者にはあまり有効な手段を持っていません。さて、この方が脱走してまずすることと言えば、私とあなたに復讐することでしょうな」

 まるで自分に経験があるような口ぶりだった。優紀子の顔は青ざめていた。

「バラバラー。バラバラー」

 サイコがねっとりした声で言った。

「最善の選択肢は、ここで止めを刺してしまうことでしょうねえ。まあ、頭をグチャグチャに吹き飛ばしてしまえば片は付くでしょうな。あなたも両親の復讐をこの場で見届けることが出来て、後の憂いもなく万々歳です」

 優紀子は黙っていた。その顔には逡巡の色があった。

「ただ、私は基本的に、殺しの依頼は受けません。もし止めを刺したいのならば、あなた自身がするのです。向こうにショットガンが転がっています。まだ弾は入ってるんじゃないですかね」

 恐るべき言葉を黒贄は口にした。優紀子の顔が凍った。

「それとも、やはり警察に預けますかな。まあ十中八、九、死刑になる前に逃げおおせてしまうでしょうけれど」

 少女の瞳の中を、複雑な感情が浮かんでは消えていった。殺された両親のことを思っているのだろうか、自分が人を殺すという罪の重さを思っているのだろうか、或いは、正義という概念そのものについて考えを巡らせているのだろうか。

 優紀子は、やがて、サイコの顔をもう一度見下ろした。サイコの顔はまだ残忍な殺意に光っていた。

 優紀子の唇が、真一文字に引き結ばれた。彼女は道を引き返し、道に落ちていたショットガンを拾い上げた。

「銃身を一度引いて、戻すんじゃないですかね。私も使ったことがないので良く分かりませんが」

 黒贄の言葉に従って優紀子は次弾を送り込もうとしたがうまくいかなかった。

「それは自動式だから、引き金を引くだけだよーん」

 説明したのはサイコ自身だった。嘲笑うようなサイコの態度にきっと強い瞳を向け、優紀子はその前で立ち止まった。

「ぴったりと頭に付けて発射すればいいでしょう」

 足でサイコを押さえたまま、黒贄が穏やかに助言した。

 優紀子は、慣れない手つきでショットガンを構え、銃口をサイコの額に当てた。

「バラバラー。バラバラー」

 陶酔の笑みを浮かべ、舌を出して、サイコは言った。彼は、自分の死に対しても悦楽を感じるのだろうか。

 ショットガンの引き金に、優紀子の人差し指がかかった。両親を惨殺した男を見据える眼差しに、殺意と痛みが走った。

 人差し指が、ヒクリと動いた。だがそれは弾丸を撃ち出すまでには届かなかった。

 黒贄は静かに優紀子を見下ろしていた。サイコは血の熱狂を湛えて優紀子を見上げていた。

 十数秒の間、重苦しい静寂が続いた。優紀子は必死に力を込めようとしていた。だが、彼女の指は、動かなかった。

「……。出来ないわ」

 優紀子は言った。彼女はショットガンを下ろして俯いた。その瞳から透明な涙が溢れ、頬を濡らしていった。

 少女が引き金を引けなかったのは何のためか。それを自覚し、弁明するだけの力はまだ十一才の少女にはなかった。

「そうですか。それもいいでしょう」

 黒贄は優しく言った。

「ごめんなさい」

「誰に対して言っているのですか。あなたは充分に頑張りましたよ」

 涙ぐむ少女を黒贄は慰めた。

「さて、ならば私がこの方を押さえてますので、警察に連絡してもらえますかね。公衆電話でも警察ならただでかけることが出来ますからね」

「うん、分かったわ」

 少女は涙を拭いながら、黒贄達に背を向けて、百メートルばかり離れた場所に立つ電話ボックスへと歩いた。

 十メートルも進まぬ内に、背後で不気味な音が響いた。

 肉を裂き、骨を削る音だった。

 振り向いた優紀子の視界に、再び紙袋を被った黒贄の姿が映った。彼は右手の金鋸をサイコの首に当てていた。既に半分以上が切断され、彼女が声を洩らす前に、サイコの首が胴体を離れて転がった。

 サイコの生首は、笑っていた。

「ハラモニャー」

 黒贄は言って、右足でサイコの生首を踏み付けた。頭蓋骨が砕け、潰れた脳がはみ出した。

「ど……どうして」

 優紀子は顔をクシャクシャにして、紙袋を被った殺人鬼探偵に問うた。

 黒贄は、何も答えなかった。

 

 

  六

 

「空港までの電車賃もないので、残念ながら見送りはここまでです」

 駅の改札口の手前で、黒贄礼太郎は横を歩く三沢優紀子に言った。彼はいつもの黒い礼服に身を包み、彫りの深い端正な顔に微笑を浮かべていた。左肩には特大のスポーツバッグをかけ、右手にはオレンジ色のリュックサックを提げていた。

「色々ありがとう、探偵さん」

 人々の疎らに行き交う中、優紀子は立ち止まり、黒贄に向かって深く頭を下げた。黒贄からリュックサックを受け取って背負う。

 ブラディー・ベイビィのライトバンに、盗んだ金はなかった。警察が手がかりを探しているが、或いは永遠に見つからないのかも知れない。

 優紀子の叔父とは既に連絡がついていた。大事にしていた持ち物だけをリュックに詰めて、彼女はアメリカへ出発する。その国の田舎で、母方の叔父が一人で住んでいる。偏屈で有名だったけれど、私には優しかったからと優紀子は言った。

「本当にごめんなさい。探偵さん貧乏なのに、二晩も泊めてもらっちゃったし、ご飯も食べさせてもらったし。お金もあれだけしか出せなくて」

「いえいえ。まあなんとか生きていきますよ。あなたも長生きして下さいね。私のような殺人鬼に捕まらないように」

 黒贄が言うと、優紀子は悪戯っぽい笑顔になった。

 ふと真顔に戻ると、優紀子は聞いた。

「ねえ、探偵さん、あの時は……もしかして、私のために……」

「え、何ですか」

「いえ、何でもないです」

 優紀子は慌てて手を振った。

「そうですか。そう言えば私から餞別がありますよ。私は使わない物なので、あなたにあげましょう」

 そう言うと黒贄はスポーツバッグを下ろし、ジッパーを引き開けた。

 中から取り出したのは、黎風会の屋敷を襲撃した際に手に入れたトランクであった。中には億単位の金が入っている筈だった。

「いやあ、なかなか良いトランクですよねえ。折角なので持ってお行きなさい」

 優紀子が何か言いかけるのを遮って、黒贄は続けた。

「あれあれ中に何か重い物が入ってますねえ。邪魔だったら中身は捨てていっても構いませんよ。ではどうぞ」

 黒贄はトランクを優紀子に押し付けると、さっさとスポーツバッグを閉じて肩にかけた。

 優紀子の瞳から、涙が溢れ出した。彼女はトランクを置いて、黒贄のがっしりした胴にすがり付いていた。

「優しい殺人鬼の探偵さん。……あなたも、ずっと、長生きしてね」

「ええ、それはもう、頑張りますよ」

 黒贄は答えた。

 そして優紀子は重いトランクを抱え、改札口を通っていった。彼女は途中、何度も黒贄の方を振り返った。黒贄はその度に手を振った。

 優紀子の姿が見えなくなった後で、黒贄は踵を返した。緩やかな人の流れの中、黒贄は礼服の内ポケットに手を入れた。

 取り出したのは、三枚目の替刃が填まった、あの金鋸であった。

 歩きながら暫くそれを手の中で弄んでいたが、やがて黒贄は小さな溜息をついた。

「ま、たまにはねえ」

 黒贄は誰にともなく呟いて、金鋸をポケットに戻しかけ、また思い直して投げ捨てた。金鋸は水平に回転しながら飛び、母親の横でソフトクリームを舐めていた幼児の側頭部にスコーンとめり込んだ。

 

 

  エピローグ

 

 午後七時の薄闇の中、通りは帰宅途中のサラリーマンや、仲間同士で街へ繰り出そうとしている若者達や、肩を並べて歩く若いカップルなどで溢れていた。

 その人込みの中で、薄汚れたジーンズに汗で黄色く染まったシャツを着てぽつねんと立つ男は、二十才くらいに見えた。男は左手に小さなバッグを提げていた。男は何かに怯えているようにキョロキョロと周囲を見回し、逆に時折怒ったような顔になった。

 男の異様な雰囲気に、擦れ違う人々は一定の距離を置いていた。

「うう、ううう、ころ……」

 口から泡を飛ばしながら、男はバッグの中に右手を入れた。

 近くを歩いていた人々はギョッとして立ち竦んだ。

 男がバッグを放り捨てた。彼が右手に握っているのは剥き出しになった出刃包丁であった。

「こここ、殺してやる」

 男は怒鳴った。男は一番近くにいた主婦の首にいきなり包丁を突き刺した。悲鳴が上がる。グリグリと深く抉ってから男は包丁を引き抜いた。主婦は首から血を噴き出させながら倒れた。

「お、おお、お前ら、全員、こ、殺してやる」

 男は逃げ散る人々に追いすがり、次々と背中を刺していった。帰宅途中の女子高生が、太った中年男が犠牲になった。ベビーカーを押して逃げていく若い女を殺し、中で泣いている乳児の首を切り落とす。

「ぶ、ぶち殺してやる。み、みなみな、皆殺しだ」

 通りは恐慌状態になっていた。男の手際はあまり良くなかった。十数人を殺した時には、他の人々は遠くへ逃げてしまっていた。

「畜生。こ、殺し……」

 と、前方から長身の男が歩いてくる。その男は歩道に転がっている数々の死体を気にも留めず、所在なげな顔で呟いている。

「あー、腹減ったー。腹減ったー。これで三日も食べてないー」

 くたびれた礼服を着た男は、黒贄礼太郎だった。

 包丁を持った男は、平然とこちらに歩いてくる黒贄に、数瞬唖然と立ち竦んでいたが、やがて殺意に全身を漲らせて突進した。

「こ、ころ殺してやる」

「あー、腹減ったなあ」

 呟く黒贄の腹に、腰溜めにした男の包丁が根元まで突き刺さった。

「あーあ、金がないなあ。どうしようかなあ」

 黒贄は止まらなかった。目の前の男など存在せぬかのように真っ直ぐに歩き続け、男は包丁を握ったまま黒贄に押されてズルズルと後退していった。ばたつく男の足は地面から浮いてしまっていた。

「こ、ころころ……」

「あ、道間違えた」

 はっとして黒贄が踵を返した。黒贄に包丁ごと振り回されて男の体が回転した。

「うわうわわ」

 包丁がすっぽ抜けた。男はすぐ横の道路に倒れ込んだ。丁度そこへ通りかかった大型トラックが男の体を轢き潰していった。

「あー。腹がなあ」

 黒贄は情けない顔で呟きながら、元の道を引き返していった。

 

 

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