第五話 神を噛み噛み

 

  プロローグ

 

「あ〜生活〜生活〜」

 黒贄礼太郎は鼻歌を歌いながら暗い夜道を歩いていた。上機嫌なのは、どうやら久しぶりに纏まった金が入ったらしい。

「やー、今晩はー」

 道端に座り込んでいた中年の男に黒贄は背後から声をかけた。

 男はビクリと振り向いた。男の右手には包丁が握られていた。男が馬乗りになっているのは、はだけた上半身を血で染めた若い女であった。既に死んでいる女の胸に腹に十数ヶ所に及ぶ刺し傷があった。

「こ、こ今晩は」

 男が包丁を隠して答えると、黒贄はにっこりと微笑んだ。

「あなたも頑張って下さいねー」

 呆気に取られた中年男の横を、黒贄は鼻歌を歌いながら通り過ぎた。

 百メートル程歩くと、街灯の薄明かりの下、椅子の上に立って街路樹の枝にロープを結んでいる男がいた。

 陰気な顔をした男はロープで輪を作り、その中に自分の首をかけた。

 いざ椅子を蹴倒そうとした時に、黒贄が気楽に声をかけた。

「いやあ、人生って素晴らしいものですね」

 男は驚いて振り向いた。

「え、いや……」

「どうぞどうぞ、続けて下さい。なんならお手伝いしますよ」

 男を支えていた椅子を黒贄は軽く蹴倒した。男の体が沈み、ロープが一気に絞まる。

「いやあ、楽しいなあ」

 苦悶する男を置いて黒贄はそのまま歩いていった。やがて黒贄の背後で、男の動きが止まった。

 黒贄が角を曲がると、数十メートル先にコンビニの明かりが見えた。

「飯〜飯〜インスタント〜」

 黒贄は歌いながらコンビニへ向かって歩く。

 店の前で、三人の若者が向かい合って喋っている。時折、笑いながら足元の何かを蹴っている。キャウンと小さな悲鳴が上がる。

 三人の若者に囲まれて逃げられずに、弱々しく鳴いているのは白い子犬だった。秋田犬であろうか、まだ生後数ヶ月にしかならないようだ。野良犬らしく首輪はなく、毛は泥で汚れている。

 若者達は、面白半分に子犬を蹴って遊んでいるのだ。

「まあまあ君達、やめたまえ」

 黒贄は若者達に向かって声をかけた。

 胡散臭そうな顔で彼らは振り返る。まだ二十才にも達していないだろう。髪を染めている者、耳や口にピアスを入れている者。

「何だよおっさん」

 髪を染めた一人が言った。

「おっさんではありません。黒贄さんです。君達、生き物を苛めてはいけません。生命は尊いのです」

 白い子犬は救いを求めるような顔で黒贄を見上げている。

「何馬鹿なこと言ってんだよ。そんなの俺達の勝手だろ」

「まあまあ、それそれ」

 黒贄は懐からククリナイフを抜いてあっという間に三人の首を刎ねた。ククリナイフはエッジ側に軽く湾曲したブレードを持つ大型のブッシュナイフだ。

 血を噴き出して倒れる三人を横目に、黒贄はククリナイフを懐に戻してコンビニへ入ろうとした。

 その足元に子犬がじゃれ付いてきた。黒贄は少し考えていたが、やがて子犬を抱き上げて、インスタントラーメンとドッグフードを買って出た。

 黒贄は子犬に頬を寄せて囁いた。

「君は運がいいねえ。私にお金がなくてお腹が空いてたら、君は食料になってたよ」

 子犬は何も知らず、無邪気に黒贄の頬を舐めた。

 

 

  一

 

 薄闇の中、呻き声が聞こえる。

 三十メートル四方のホール、光量を絞ったオレンジ色の光の下で、百人前後の人々が蹲り、小さく揺れている。

 苦悶の呻きに混じって、それぞれの声がホールを埋め尽くしている。

「光を光を世界に光を……」

「愛に溢れ優しさに溢れ善意に溢れ正義に溢れ平穏に溢れ……」

「幸福を人類全てに幸福を与えたまえ幸福を幸福幸福幸福……」

 それは、呪文のようにも聞こえた。その声音は内容に逆らって闇と憎悪と悪意と不幸に満ち満ちていた。肺腑から絞り出すようにして唱えられる嗄れ声。

 人々は純白のローブを纏っていた。彼らは口々に愛と善意を唱えながら、思い思いの行為に没頭していた。ある者は自分の指をペンチで締め上げ、ある者は針で自分の肉を刺し続け、ある者はライターの炎で自分の皮膚を炙り、ある者は両手で自分の首を絞めて顔を紫色に腫らし、ある者は手足を限界以上の角度に曲げ、ある者は固い床に額を打ち付け続けている。人々の内、半数近くがそんな個性的な作業に従事し、残りの半数はその代わり、頭に白いヘッドギアのような物を被っていた。通常のヘッドギアと異なるところは、数本のコードが延びて弁当箱のような形の機械に繋がっていることだ。機械にはスイッチが付いていて、その電源はオンになっていた。ヘッドギアを被った彼らの表情は、他の特定の作業を行っている者達と同じく、苦痛と憎悪とある種の快楽に歪んでいた。

 と、前方の低いステージをスポットライトの光が照らし出した。人々は苦悶の声をやめてそちらを見た。

 ステージの中央に幅一メートル、高さが二メートル程の、切り出されたような壁が立っていた。壁には一人の人間が固定されていた。両の手首と足首に枷が付いている彼は、全裸の若い男だった。彼は目を見開いて、なんとか枷を外そうともがいているが、どうやらそれは無駄な努力のようだ。口には猿轡が当てられ、彼の叫びは篭った唸りにしか聞こえなかった。

 台のすぐ横に、長身の男が立っていた。白いローブには他の者達と違い、胸の辺りに金色の刺繍で奇妙な模様が描かれていた。髪を綺麗に撫で付けた男の顔は二十才前後に見えたが、その年齢にはあり得ない落ち着きと威厳を備えていた。女性と見間違える程の繊細に整った顔。その形の良い唇は仏像のようなアルカイックスマイルを浮かべていた。

「神を称えよ」

 中性的な声音で穏やかに、長身の男が告げた。

 男の右手には、一振りのサーベルが握られていた。

「ムゴー、モグゴゴ」

 全裸の男がもがいた。

 ホール内の人々は黙ってステージの上に視線を向けていた。瞬きもせず、その顔は歓喜の笑みを浮かべている。

「世界の平和と人類の幸福を願い」

 長身の男が優雅な動きでサーベルを振った。

 全裸の男の腹が横に裂けた。

「ムグググ」

 大きく開いた傷口から腸がはみ出してきた。流れ出した血が男の足を伝い、ステージを染めていく。

「おおお、平和を」

「幸福をををを」

 人々が歓びに全身を打ち震わせ、深く嘆息した。

「そして愛を」

 長身の男は微笑を湛えたままサーベルを振った。

 カツン、と、音がした。

 緩やかにカーブした刀身は、全裸の男の首の後ろで、壁に接して止まっていた。

 全裸の男の首を、水平に赤い筋が走っていた。サーベルは、男の首を通り抜けたのだ。

「ゴ」

 全裸の男が口を開いた。猿轡が溢れ出た血で染まる。首の横断線からも血が流れ始める。

 出血の圧力によって、ズッ、と、男の首がずれた。男の泣き歪んだ顔が、前に倒れていく。

 ステージへ転がり落ちた生首に、人々は歓声を上げた。

「おおお、愛を愛を愛を……」

 死体は首の断面から血を噴出させた。

 台の真後ろには、奥の部屋への通路がカーテンによって隠されていた。と、風もないのにカーテンが揺れ、隙間から光が洩れた。

 ホール内の空気が、突然性質を変えた。憎悪と悪意に満ちた黒い熱気が、柔らかな冷気へと。

 カーテンはすぐに閉じた。

「今日はここまでです」

 血の付いたサーベルを下げ、長身の男が言った。

「皆さんは各自の道具を持って帰られるように。安楽機をご使用の方は、所定の場所に戻しておいて下さい」

 人々は立ち上がり、長身の男に向かって深々と頭を下げた。入り口の扉が開き、光がホール内に差し込んだ。スタッフらしい男達がステージに上がり、死体を片付け血を拭いていく。

「それではまた明日。人類に愛を」

 長身の男は声をかけ、全員が出ていった後でサーベルを置いて、ホール横手にある扉に向かった。

 扉の向こうは螺旋階段になっていた。長身の男は薄暗い階段を静かに上っていく。ホールに満ちていた冷気は今、長身の男についてきたように、彼の周囲に濃く漂っていた。

 そこは屋上だった。月の光に金色の刺繍が映える。男は柵の近くまで進み出て、眼下の情景を見下ろした。

 ビルは十七階建てで、夜の街の営みが男には一望出来た。忙しなく行き交う人々。酔っ払って肩を組んで歩く若者達。スナックの呼び込みを続ける女性。道端で寝転がっているホームレス。

 長身の男は、背広姿の中年男に視線を留めた。顔をしかめ何かブツブツ呟いているようだが、流石に彼が何と言っているのかはここまでは聞こえてこない。おそらくは職場や家庭の愚痴なのだろうが。

 長身の男は右手の人差し指を伸ばし、背広の男に向けた。

「死になさい」

 優しい声が洩れた。長身の男の指先から、冷たい空気が流れた。

 長身の男は、背広の男にはもう興味を失ったように、すぐに視線を離した。夜の街を見回して、やがて白いスーツを着た若い女に目を留める。

 女を指差して、長身の男は言った。

「死になさい」

 冷たい風が吹いた。

 長身の男は微笑しつつ、次の標的を求めて視線を彷徨わせた。

 

 

「もし、そこの方」

 背広の中年男が狭い路地に入った時、薄暗がりから声がかかった。良く通る、若い声だった。

「……。何だ」

 背広の男はぼんやりとそちらを向いた。小さな台を前に置いて、黒い着物の男が座っていた。台の前面には『易』という字が描かれている。

「手相見か」

 背広の男は呟いた。

「手相だけではありません。人相から姓名判断、占術も一通りのことはこなせるつもりです。それで、たった今あなたの姿を見かけたところ……」

 男は着物と同じく浅黒い肌をしていた。今のように暗がりに紛れていれば、注意力のある者でないと気づかないであろう。男は痩せていたが、それは病的な印象ではなく、袖から覗く腕などには鋼のような引き締まった筋肉が見て取れる。髪は整髪料を使っていないらしくボサボサだが、それなりにきちんと肩の辺りで纏まっていた。男は二十代の後半に見えたが、或いは二十才かも知れないし、逆に四十才を過ぎているかも知れない。そんな不思議な雰囲気が男にはあった。男の顔立ちはハンサムだが、何処か肉食獣を思わせる野性味があった。獲物を狙うような瞳の黒い輝きや、軽く捲れた唇の隙間から覗く尖った犬歯が特徴的だ。

「あなたの顔には死相が出ていますね」

 黒い着物の男は背広の男に向かって言った。

「変な言いがかりはよせ」

 背広の男はそう応じたが、その口調は何処か頼りなく、弱々しいものだった。普通の人間ならば着物の男の言葉に対し、嫌な顔を見せてすぐに立ち去るか、何を言うかと怒り出すところであろう。

「あなたの顔をもう少し近くで見せてもらえませんか。いえ、別に見料は要りませんよ」

 着物の男は懐から大型の虫眼鏡を取り出した。

「ふ……ん」

 背広の男は、少し迷った末、男の前に立った。着物の男は立ち上がり、台越しに虫眼鏡を使ってまじまじと相手の顔を覗き込んだ。

「大変ですね」

 虫眼鏡を離すと、眉をひそめて着物の男が言った。

「あなたは数分以内に死にますね。それがどんな状況によるものかは分かりませんが……」

「そうか。やっぱりな」

 背広の男は呟いた。そして舌を出して力一杯顎を閉じた。その動作に些かの躊躇もなかった。

 呆気に取られた着物の男の前で、背広の男が白目を剥いた。血の滲む口から泡を噴き、痙攣しつつ男は倒れた。

「何だこいつは」

 着物の男は呟いた。倒れた男をよく観察しようと側に屈み込み、突然着物の男は顔を上げた。

「死になさい」

 微かな声が、冷たい風に乗って届いてきた。

「うおうっ」

 着物の男は路地の隙間から向かいの建物を見上げた。彼の体毛はそそけ立っていた。遥か向こうに立つ高層ビルの屋上に、ローブを着た影が見えた。

「死んで堪るかよ」

 着物の男は唇を噛み、自分の左手の甲に細長い物を突き刺した。それは八卦に使う算木の一本であった。掌から先端が貫通し、同時にパチンと何かが弾けるような音が鳴った。冷たい空気が霧散していた。

 同時に着物の男は後ろ向きに跳躍していた。人間業とは思えないアクロバティックな動きで、男は建物の狭い隙間に消えた。

 数十秒の静寂の後、暗闇の奥から呻くような声が洩れた。

「畜生……。覚えてろよ」

 

 

  二

 

「という訳で」

 黒い着物を羽織った男は、机の向こうに腰掛ける探偵に言った。

「という訳で、とはどういう訳ですかな」

 黒贄礼太郎は眠たげな瞳を着物の男に向けて尋ねた。

「ノックもせずにいきなり入ってこられ、第一声がそれでは、私には何が何だかさっぱり分かりませんが」

「……」

 着物の男は机の手前にあるソファーに腰を下ろした。彼は素足に草履を履いている。足の指は常人よりも長かった。

「どうもあなたはお約束というものを理解出来ないようだ。彼も大変でしょう。いや、自分でも喋りながら、意味がよく分からないのだが」

 着物の男は黒贄にそう言った。

「いや、彼はあれでなかなか楽しんでるんじゃないですか。いや、私は何を喋っているのでしょうな。さっぱり分かりませんな」

 黒贄は首を捻った。彼の口元には常に面白そうな微笑が浮かんでいる。着古した礼服の下には赤い染みの残ったワイシャツを着ている。ネクタイはしていない。抜けるような白い肌は、着物の男の浅黒い肌とは対照的だ。

「では最初から行きましょう。お会いするのは初めてですね。私は神楽鏡影です」

 着物の男は名乗った。男の左手の甲には治りかけの小さな傷があった。

 黒贄の探偵事務所は底冷えするような寒さに包まれていた。壁に飾られた仮面達が部屋の主人と客を静かに見据えている。蛍光灯は寿命が近づいているのか、時折チカチカと揺れる。

 黒贄は着物の男の名乗りに、髭のない顎を撫でた。

「ほう。あなたが神楽さんですか」

「私の噂は聞いていましたか」

「いえ全く知りませんが」

 黒贄の答えに神楽はずっこけそうになったが、その肉食獣の瞳を黒光りさせて話を続けた。

「易術と占術をやっています。私のことを知る者からは『闇の占い師』と呼ばれていますよ」

「ほほう。それはまたどうしてでしょう」

「ここだけの話ですが」

 神楽はそう前置きした。唇の間から牙のような犬歯が覗く。

「裏稼業で殺し屋をやっています」

「ふうむ。それはまた」

 黒贄の目が細められた。神楽を吟味するように。

「呪術を使う場合と、直にやるのとは、ケースバイケースです。複雑な手順を踏んで呪殺するよりも、ナイフの一刺しが手っ取り早いことは多いですから」

 神楽の右手で何かが光り、すぐに消えた。袖の中に仕込んでいるナイフを瞬時に出して、また引っ込めてみせたのだ。

「なかなか素晴らしいご職業ですね。やってみたいとは思いませんけれど」

 黒贄の口元の笑みが深くなっていた。

「それで、殺し屋兼占い師のあなたが、私に何のご用でしょうかな」

 黒贄が尋ねると、闇の占い師・神楽鏡影は話し始めた。

「三ヶ月前に、この八津崎市で深淵光会という宗教団体が設立されています。主催者は円崇泰全という十九才の若者です」

「ほほう。深淵光会ですか」

 黒贄が意味ありげに顎を撫でた。

「知っていましたか」

「いえそれが全然」

 無邪気に笑う黒贄にぐっと詰まり、それでも神楽は続けた。

「教団は、サンライトビルの十六階と十七階を借り切って使用しています。サンライトビルはご存知ですかね」

 黒贄が何か言う前に、先手を取って神楽が聞く。

「いえ、知りませんな」

 ちょっと残念そうに黒贄が答えた。

「なら後で地図を書いてお渡ししましょう。信者は増加中で、現在のところは百二十人程度ということです。毎日午後六時を過ぎるとほぼ全員が本部に集合します」

「で、その深淵光会がどうされたのですかな」

「まだよく分かりません」

 神楽は首を振った。その瞳に屈辱の翳りが掠める。

「ですが最近八津崎市で、自殺者が急増しているのはご存知ですか」

「いえ、ぜん……」

「しているんです」

 神楽は黒贄の言葉を遮って断言した。

「それも動機が不明の突発的な自殺が増えています。遺書もなく列車に飛び込んだりトイレで首を吊ったりベランダから飛び降りたり断崖から車ごと落ちたりです。三日前の夜、私の目の前で一人、舌を噛んで死にました。手相では後十五年は生きる筈でした。私は男の周囲に不気味な空気を感じました」

「ふうむ。その空気というのは、どのようなものですかな」

「死の成分、とでも表現すべきでしょうか。冷たい囁き声が急激に気力を奪い去り、何もかもが無意味に感じられ、死という概念だけが視界を覆い尽くします。それが人々を包み込み行動を支配し、自殺に追いやったのだと思います。私も死の風に襲われ、危うく難を逃れました。その時私は、サンライトビルの屋上に、術者の姿を見たのです」

「ほほう。それはつまり……」

 神楽の瞳が強い光を帯びた。

「以前教団の記事が新聞に載ったことがあり、私はそれを取り寄せて写真で確認しました。円崇泰全です。人々を自殺へ導いているのは彼だと思います。深淵光会はおそらく魔術結社です。彼らの目的は不明ですが、このまま放置しておく訳にはいきません」

「ふうむ」

 黒贄の眼差しは神楽とは逆に、気怠いものだった。

「それであなたは、私に何をお求めですかな。あなたのご職業からすれば、私に頼まずともご自分で出来るのではありませんかな」

「出来るならとうにやっている。俺は殴られたら必ずその十倍は殴り返す男だ」

 神楽が唇を噛んだ。彼の口調ががらりと変わっていた。

「だがさっきも言ったように、深淵光会は魔術結社だ。サンライトビルを中心とした半径百メートルに強力な結界が張られていて、俺には近づけんのだ。魔術に通じていればそれだけ感受性も強くなり、影響も受けやすい。悔しいが奴らの総合的な魔力は俺より上だ。だが黒贄礼太郎、お前なら結界など物ともせずに本部まで入り込めるだろう。だからお前に頼んでいるんだ」

「ふうむ。まあ、そうかも知れませんがねえ」

 神楽の変化にも、黒贄はまるで動揺を示さなかった。

「しかし私は基本的に、殺人の依頼は受けません。結果的に相手がお亡くなりになることはよくありますがねえ。そんな私が教団の本部に乗り込んで、何をすればいいのですかな」

「円崇泰全を結界の外まで引き摺り出すこと。或いは信者達の力を封じること。円崇と一対一ならば、俺も負けるつもりはない」

「分かりました。やってみましょう」

 黒贄は頷いたが、何か言いたげに神楽を見た。その瞳の中で、殺戮への黒い熱望が渦を巻き始めていた。

「ただ、報酬のことなんですが、ねえ、私は、お金よりも、どうもあなたにそそられていましてね。お金の代わりに、あなたの命というのは、どうですか、ねえ」

 今にも暴発しそうな、不気味な緊張感が部屋を支配し始めていた。その圧力を、神楽は平然と受け流した。

「まずは引き受けてもらって感謝します。報酬については一つ、提案があるのですが」

 丁寧な口調に戻った神楽は、懐から一枚の紙を取り出した。まだ何も書かれていない紙を黒贄の机の上に広げ、ボールペンで四本の平行な線を引いた。

「選択肢は四つです」

 四本の線の片方の端に、神楽は順番に言葉を書き込んでいった。五百円、十万円、百万円、神楽鏡影の命。

「阿弥陀くじをやりましょう。ただし、選ぶのは私です。私は後ろを向いていますので、あなたは自由に横線を引いて下さい。そして紙は折り曲げて、線の部分を隠してもらって構いません」

「いいでしょう」

 黒贄の笑みは、唇の両端を限界以上に吊り上げた、不気味なものになっていた。

 神楽がソファーから立ち上がり、入り口のドアの近くまで歩いてそこで背を向けたまま立ち止まった。黒贄はボールペンで二十本近い横線を引いて、嬉しそうに用紙を折り曲げた。

「どうぞ」

 黒贄が声をかけると、神楽は振り向いてつかつかと机に歩み寄った。獲物を狙う鷹のような目付きで、五秒後に右から二番目の線を選んで印を付けた。

「これです」

「ふむ」

 黒贄は紙を開き、ボールペンで慎重に線を辿っていった。それを見つめる神楽の瞳は冷たく澄んでいる。

「お、おおおおお」

 黒贄が、驚愕の低い呻きを洩らした。その手からボールペンが落ちる。

 線は、五百円と書かれた場所の前で終わっていた。

「では、お願いしときますよ」

 神楽は袖の中から五百円玉を一枚出して、机の上に置いた。

「くく、くくくくくくう」

 黒贄が泣きそうな顔でそれを受け取ると、四角い箱を指差した。上面に、手が入りそうな丸い穴が開いている。

「な、中から一枚、お選び下さい」

 神楽は右手を差し入れ、一枚の紙片を選び出した。

 黒贄は紙片を開き、番号を読み上げた。

「二十九番、ですな」

 左の扉の錠を外し、黒贄は奥へ消えた。

「ふう……む」

 戻ってきた黒贄の手には、マンホールの丸い蓋が握られていた。直径は八十センチ程で、表面は茶色に錆びている。

「では、明日の夕方頃に行って下さい。私は結界の外で待機していますので」

 神楽が言った。

「分かりました、が、まあ、しかし、ねえ」

 黒贄が決まり悪そうに口ごもった。

「やっぱり、駄目、ですかねえ、あなたの命というのは」

 突然、黒贄の瞳が殺意に光った。瞬間、マンホールの蓋を両手で抱え上げ、机を乗り越えて魔性の疾さで神楽へ迫っていた。

 その時には既に黒贄の更に上、天井擦れ擦れを神楽の体が跳躍していた。野獣めいた笑みが神楽の口元に浮いていた。

「では、宜しく」

 天井を滑るように移動した神楽は、そのまま窓を突き破って外へ飛び出していた。

「ありゃりゃ」

 事務所は四階だった。黒贄は慌てて窓へ駆け寄って外を見た。

 神楽鏡影は下ではなく、上にいた。

 彼は蝙蝠のように夜空を駆けていた。半透明の黒い翼が見えた。それが背中に生えているのか、腕と脇腹の間に張られているのかは、暗闇に紛れて見極めることが出来なかった。

 彼方へと消えていく神楽を見守りながら、黒贄の口から溜息が洩れた。

「いいなあ、あれ」

 

 

  三

 

 世界が赤く染まり始めた午後六時、黒贄礼太郎は左手にマンホールの蓋を抱え、雑踏の中に立っていた。皺の付いた礼服に、底の磨り減ったスニーカー。自分で切った左右非対称の髪が風に揺れている。

 前方を見上げると、立ち並ぶビル群を掻き分けるようにして一際高いビルが建っている。SUNLIGHTと一文字ずつ並べられた看板が目立つ。

「あれですな」

 黒贄は微笑を浮かべて頷いた。

 改めて足を踏み出して二、三歩歩いた頃、通行人の一人が横を見上げて叫んだ。

「あ、あれを……」

 他の人々も立ち止まり、歩道に面した建物を見上げて、通りはざわつき始めた。後じさる人々に構わず、黒贄はのんびりと歩いていく。ついでに歌も歌っていた。

「五百円〜インスタントラーメンなら〜六食分くらい〜」

「あ」

 誰かが声を洩らした。

 絞り出される悲鳴と共に、黒贄の上方から何か重いものが落ちてきた。咄嗟に右腕で、黒贄は軽々とそれを抱き止めていた。どよめきと歓声が上がった。

「こんにちは」

 抱き止めたものに黒贄は挨拶した。それはまだ若い女であった。女は靴を履いておらず、アスファルトの地面ではなく人間の手に受け止められたという驚きに身を震わせていた。

「ふうむ」

 黒贄は横のビルを見上げた。十階建ての屋上に、残されたハイヒールとハンドバッグの紐が僅かにはみ出して見えていた。

「自殺ですか。申し訳ありませんが他でやって下さいね」

 黒贄はにっこりと微笑みかけ、女を放り捨てた。女の体は車の行き交う道路に落ち、その上をダンプカーが轢いていった。人々の歓声は悲鳴に変わったが、黒贄は平然とサンライトビルへ向かって進んでいった。

「一日三食で〜二日〜ぶ〜ん〜」

 二十メートル程進むと、黒贄の前方に作業服を着た中年の男が立っていた。男は持っていたポリ容器の蓋を開け、その中身を周囲にばら撒き始めた。人々が悲鳴を上げる。吐き気を催させるような臭気はガソリンのものだ。男はガソリンの残りを自らも頭から浴びると、ライターを取り出した。

「あ〜五百円の〜し〜ご〜と〜」

 黒贄はまるで頓着せず、騒ぎの中へと足を進めていく。

 男がライターを着火した。途端に炎が全身に回り、火達磨になっていた。ガソリンを浴びた数人の通行人にも次々に燃え移り、歩道は炎に包まれた。

「今日は暖かいねえ」

 黒贄は呟きながら燃える歩道の上を歩いた。火達磨の男がよろよろと、黒贄に向かって近づいてきた。

「あーバッチン」

 黒贄はマンホールの蓋を横殴りに振った。実際にはグシャリと音がして、男は頭を潰して地面に崩れ落ちた。

 五メートル進むと、またもや上から人が飛び降りてきた。黒贄はマンホールの蓋で叩き落とした。七メートル進むと、包丁を持った男が通行人を追い回して刺し捲っていた。黒贄の方にも来たので、マンホールの蓋を水平に振って首を刎ねた。三メートル進むとまた人が降ってきた。黒贄は歌いながら身を躱し、その男は地面に激突して潰れた。十五メートル進むとハンドル操作を誤った自動車が突っ込んできた。通行人を何人か轢いた後で黒贄の体を十メートルも撥ね飛ばしたが、黒贄はやれやれと呟きながら平然と起き上がった。六メートル進むとまたまた人が降ってきた。今度は同時に二人だった。黒贄は電光石火の早業で二人を立て続けに叩き落とした。五メートル進むと近くの建物が爆発した。爆弾テロだったらしい。ガラスの破片を浴びながらも黒贄は起き上がった。十メートル進むと今度は三人同時に人が降ってきた。黒贄は跳躍して空中で迎撃し、マンホールの蓋で悉く叩き潰した。八メートル進むと戦闘機が墜落してきた。翼をビルに引っかけて折り、破片を散らしながら地面に激突して大爆発を起こした。通りは炎に包まれたが、その中から黒贄は平然と現れた。ただし髪の一部が縮れていた。一メートル進むと今度は上から七人同時に降ってきた。黒贄はマンホールの蓋を円盤投げの要領で投げ、落ちてくる七人全員の首をただの一投げで奇跡のように刎ねた。黒贄は血塗れになったマンホールの蓋を拾い上げ、サンライトビルの入り口をくぐった。黒贄の通った道には無数の死体と廃墟となった町並みが残された。

 

 

  四

 

 オレンジ色の薄闇の中で蹲り、それぞれの行為に没頭する信者達。その姿が大型のテレビモニターに映し出されている。

 彼らの苦悶の呻きと憎悪の呟きと怨嗟の叫びが、モニターの横に設置されたスピーカーから聞こえていた。

 小さなテーブルについた円崇泰全は、満足げにモニターを眺めつつ、仄かに湯気の立ち昇るティーカップを優雅な動作で口に運んだ。彼の身長は百八十センチ前後あった。太っている訳ではないが、顎から首筋のラインなどは優美なものだ。形の良いふっくらとした唇は微妙なアルカイックスマイルを浮かべ、その吸い込まれそうな深い瞳は、十九才とは思えぬ落ち着きと自信を湛えていた。白いスーツに身を包んだ彼の姿は、テレビを賑わすアイドルさえ足元にも及ばぬ完璧な美しさとカリスマを発散していた。傍らの椅子に金色の刺繍の入った白いローブがかかっている。

 モニターの横には円形の台があった。機械によって支えられたそれは、必要な時に真上のステージへと台を持ち上げることが出来る。ここは十六階で、教祖である円崇の控え室であった。

 水平の台の上に、ほぼ垂直に立てられた磔用の壁が据え付けられていた。壁に固定された手枷足枷は今、若い女の両手足をがっしりと掴んでいた。女は全裸で、まだ成熟の余地のあるその体つきは高校生くらいと思われた。猿轡を噛まされ、恐怖に慄いた瞳は助けを求めるように円崇を見つめていた。

 円崇は、穏やかな視線を女に返して、中性的な声で告げた。

「何も心配は要りません。あなたは至高の愛と慈しみを一身に浴びて神の元に召されるのです。神の愛は全ての人々に平等に注がれています」

「モゴゴッ」

 女の声は言葉にはならなかったが、円崇の主張にはどうやら反論があるらしい。しかし円崇は意に介さず、好ましげに女を見つめていた。全裸の女を見る視線に情欲の色はない。

「私は三ヶ月前に、神の啓示を受けました」

 感に堪えぬように、円崇は語った。

「慈愛に満ち溢れた偉大なる神は、死と破滅を求めておられるのです」

 控え室の扉を何者かがノックした。

「どうしました」

 円崇が応じると、扉が開いて四十才くらいのスタッフが遠慮がちに顔を覗かせた。

「申し訳ありません、高祖様。只今、黒贄礼太郎と名乗る者が受付に参っておりまして、高祖様に面会を希望致しております」

 スタッフの説明に、円崇は美しい眉をひそめた。

「予約もなしに来てもらっても困りますね。大事な儀式の前です。追い返してもらえませんか」

「それが……」

 スタッフは、躊躇いがちに付け足した。

「その男は、探偵だということです。至急お会いしたいと言って聞きません」

「ふうん」

 円崇は首を傾げた。ちょっとした物腰の一つ一つが、見事に様になっている。

「敵意のある者は結界で入って来られない筈ですが。まあ、会ってみましょう」

「申し訳ありません」

 スタッフは深く頭を下げた。

「楽しみにしていて下さいね。もうじき始まりますよ」

 繋がれた女に微笑みかけると、円崇は席を立った。

 部屋を出て通路を擦れ違う際、忙しく動き回るスタッフ達は恭しく頭を下げた。

「応接室に通しましょうか」

「いえ、すぐに終わりますので、その必要はありません」

 円崇は答え、受付に赴いた。

 そこには困り果てた顔の受付嬢と、返り血と埃塗れになった礼服の男が立っていた。礼服の男は何故か左手にマンホールの蓋を持っていた。それもまた血塗れだ。

「今晩はー。円崇さんですか」

 黒贄はにっこりと笑いながら軽く一礼した。

「そうですが、あなたは探偵さんということでしたね」

 円崇も柔らかな微笑を湛えたまま応じた。

「そうなんです。黒贄礼太郎と申します。いやあ、この辺は物騒ですねえ。いきなりですが用件に入らせて頂きます」

「何でしょう」

「あなたをどうしても殺したくて殺したくてウズウズしている方がいらっしゃいましてね。私はあなたを結界の外まで連れてくるように依頼された訳です」

「ははあ」

 さして動揺する気配も見せず、円崇の眉だけが上がった。

「私を殺したいと仰る方はどなたでしょうね。それにその方は、何故私を殺したがっておられるのでしょう」

 黒贄はにこやかに首を振った。

「依頼人の事情に関するご質問には、残念ながらお答え出来ませんな。さて、早速ですが来て頂けますかねえ」

 黒贄の右腕がゆらりと上がって、円崇の首筋に伸びかけた。

「まあお待ちなさい」

 円崇の声は落ち着き払っていた。彼の瞳が一瞬、白い光を発した。冷たい風が黒贄の周囲を吹いた。

「はい」

 黒贄の動きが止まった。

 円崇は受付嬢に言い付けて、ある物を持ってきてもらうことにした。

 やがて受付嬢が倉庫から持ち出したそれは、一メートル程の長さに切ったロープだった。

 それを黒贄に手渡すと、円崇は慈愛の眼差しで命じた。

「これで首を吊って死になさい」

「分かりました。ではこれにて」

 黒贄はロープを受け取ると、一礼して立ち去った。

「やれやれ」

 円崇は肩を竦め、控え室に戻っていった。

 黒贄はエレベーターで一階まで戻り、サンライトビルを出た。外の通りは救急車と消防車とパトカーのサイレンが鳴り響き、大惨事の収拾に努めていた。

 黒贄は手近な街路樹を見つけ、幹をよじ登って太い枝にロープを結び付けた。

 そして輪を作って自分の首を通し、幹から手足を離した。

 

 

「そろそろですね」

 上の階のホールで信者達のテンションが高まっていくのをモニターで眺めながら、円崇泰全は紅茶の残りを飲み干した。

 円崇は立ち上がり、白いスーツを脱いでいった。シャツも脱いで上半身裸になると、純白のローブを頭から被った。金色の刺繍が胸に映える。

 円崇の優美な姿を見る生贄の女の瞳は、恐怖とは別に陶酔の色が混じっていた。

 扉がノックされた。スタッフが顔を出す前に、扉越しに円崇は伝えた。

「サーベルを持ってきて下さい。そろそろ始めましょう」

「高祖様、それが……」

 扉の隙間から顔を出したスタッフには戸惑いと怯えが浮かんでいた。

「どうしました」

「さっきの探偵がまた来ています。高祖様とお話がしたいと」

「ほう」

 円崇は眉をひそめた。

「術が効かなかったのかな。珍しいことですね」

「いえ、それが、そうでもないようで……」

「行ってみましょう」

 スタッフの曖昧な物言いに何を感じたのか、円崇は部屋を出て受付まで歩いた。

「こりゃどうも」

 黒贄礼太郎はにこやかに挨拶した。左手にはまだマンホールの蓋を持っている。

 その首には太いロープがきつく絞まっており、黒贄の白い顔はやや紫に変色していた。

「どうされました。何故生きておられるのです」

「申し訳ないのですが」

 黒贄は答えた。

「首は充分に絞まったのですが、なかなか死ねなくて困っています」

「丈夫な体をお持ちなんですね」

 指先を額に当てて考え込むような仕草を見せると、やがて円崇は言った。

「ではそこにバルコニーがあります。今度はそこから飛び降りなさい」

「そうします」

 黒贄は頷くとサッシ戸を開けて広いバルコニーへ出た。そして柵を越えると十六階の高さから落ちていった。

 べチャリという音を確認して、円崇は満足げに控え室に戻った。

 

 

 十七階のホールでは信者達の苦行が続いていた。

「光を光を光を世界に光を人類に光を……」

「愛を愛を優しさを善意を善意を正義を平穏を平穏を与え与え与え……」

「幸福を全ての人類に幸福を慈しみを幸福を享受幸福を……」

 思い思いの言葉を唱えながら、彼らは自分の肉を捻ったり針で刺したり火で炙ったり首を絞めたり床に頭を打ち付けたりを繰り返していた。個性的なアイデアを持たぬ者は安楽機を頭に取り付けて苦痛に耽っていた。

 薄闇の中を、静かにステージに磔台が持ち上がってきた。信者達は苦行に夢中で気づかない。壁には全裸の若い女が据え付けられていた。その傍らには長身の影が立つ。

 少しの間、長身の影は静かに信者達の様子を見守っていたが、奥に向かって軽く手を上げた。

 合図によって、待機しているスタッフがスイッチを入れた。スポットライトの光が生じ、ステージの上を照らし出す。

 信者達は待ち兼ねた儀式に怨嗟の声を止めて顔を上げ、台の女と傍らの影を見た。

 金色の刺繍の入った白いローブを着た長身の影は、円崇泰全だった。彼は美しい微笑を湛え、右手には抜き身のサーベルを握っていた。

「神を称えよ」

 信者達の期待の視線を一身に浴びて、円崇泰全は告げた。

「世界の平和と人類のこう……」

 その時正面の扉が開き、光がホールへと差し込んだ。大事な儀式を中断され、流石に円崇が頬を歪めた。信者達が扉の方を振り返る。

「無粋な。何事です」

「こ、高祖様、や、奴が……」

 スタッフの声は恐怖に上ずっていた。膝が震えているのが傍目にも見て取れる。

 円崇が目を細めた。

「また戻ってきたのですか」

 スタッフは激しく縦に首を振った。

「一時中断します。ちょっとお待ちなさい」

 忌々しげに信者達に告げると、円崇はサーベルを握ったままホールを出て、階段を下りていった。スタッフが真っ青な顔でついてくる。

 降りていく内に、階下から不思議な呟きが聞こえていた。

「クミャー。クミャラー。クミュロー」

 円崇は美しい眉をひそめた。

「クミャロー、クミャバー、クミュー」

「何だ、何を言っているのです」

 円崇が階段を出るとすぐそこは深淵光会の受付になっていた。受付嬢は逃げてしまったのか、既にいない。

「クミャラバー。うむ」

 マンホールの蓋を持った黒贄礼太郎が、小さく頷いてその意味不明な呟きをやめた。丁度現れた円崇に、黒贄は微笑んだ。

「申し訳ないのですが」

 先程と同じ台詞を黒贄は語った。その体の輪郭は微妙に歪み、左腕は変な角度に曲がっていた。首も左側へ傾いでいる。右足には体重がかかっていない。

「体中の骨は砕けたのですが、死ねませんでした」

 黒贄の瞳の奥で、黒い不気味なものが渦を巻き始めていた。それに気づかなかったのか、それとも自分の能力に絶大な自信があったのか、円崇は瞳を白く光らせて命じた。

「ならばこれで首を切り落としなさい」

 そう言ってサーベルを黒贄に手渡した。黒贄はサーベルを握り、にこやかに一礼した。

「分かりました」

 すぐさま黒贄はサーベルを振った。空気を裂く鋭い音が鳴った。

「ば……」

 円崇が怒りに口を開き、何か言いかけた。

 その首筋に、赤い線が水平に走っていた。

 おそらく彼は、私の首ではない、と、言おうとしたのだろう。だが口から洩れたのは鮮血だけで、それは首の傷からもみるみる内に溢れ出した。

「あわわわ、高祖様……」

 スタッフが後じさり、尻餅をついた。

 それでも円崇は、両腕を上に泳がせた。自分の首を押さえようとするかのように。だがそれよりも早く、円崇の首は胴体を離れ、前のめりに転がった。ボトリ、と、床に落ちたその生首は、まだ信じられないというような表情を浮かべていた。胴体から大量の血が噴き出して天井まで届いた。白いローブが赤く染まる。やがて胴体は前後にふらつき始め、仰向けにバタリと倒れた。

「ありゃりゃ。お亡くなりになってしまわれた」

 黒贄がちょっと困った顔で言った。

「た、たす……」

 腰を抜かしたまま這い歩くスタッフを無視して、黒贄はふとバルコニーの方を見た。サッシを開けて柵から顔を出してみると、ビルの前の通りに、黒い着物に身を包んだ神楽鏡影の姿があった。円崇が死んで結界が解けた瞬間に駆け付けてきたのだろう。

「首尾はどうだ」

 野獣のような殺気に全身を漲らせ、神楽は十六階の黒贄へ声をかけた。

「残念な結果となりました。今からお渡ししますね」

 黒贄は神楽に叫び返し、フロアに戻って円崇の死体を引っ掴んだ。何を思ったか、血塗れのローブを剥ぎ取ると、黒贄は礼服の上にそれを着た。上半身裸の死体をバルコニーまで引き摺っていき、下で待つ神楽へ向かって投げ落とした。

「行きましたよー」

 神楽の目が一瞬驚きに見開かれたが、猛スピードで落下してくる円崇の死体を身軽な動きで躱した。同時に無数の銀光が花火のように煌く。

 円崇の体が地面に到着した時には、数十の肉片に分解していた。

 神楽は左右の手に刃渡り十数センチのナイフを握っていた。きっと顔を上げて、彼は黒贄に叫んだ。

「首がないぞ」

「分かりました。ちょっとお待ちを」

 血塗れのローブを着た黒贄はフロアに戻り、円崇の生首を拾い上げた。死しても美しい顔を黒贄は暫し眺めていたが、サーベルで円崇の後頭部に縦の切れ目を入れた。

 黒贄は傷口に指を差し入れて、その生皮を素手で剥ぎ始めた。頭部の皮は簡単に剥がれたが、顔の額から下になると皮下組織がしっかりしていてなかなか取れない。黒贄はサーベルの切っ先で皮下組織を切り分けて、所々失敗したが、円崇の皮を剥ぎ取ることに成功した。ペラペラになったそれは、もう美しいとは呼べぬものに変わっていた。

「早くしろ。どうした」

 神楽の声が聞こえてくる。黒贄は湧き出る歓喜に顔を染めながら、円崇の顔の皮を、頭から被った。サイズが合わずに多少ずれていたが、血みどろのそれはなんとか黒贄の顔を覆った。

 グロテスクな円崇泰全のコピーが、ここに誕生した。

「クミャラバー」

 黒贄の口から声が洩れた。筋肉を露出させた円崇の生首を拾い上げ、黒贄はバルコニーへ出て柵の上から顔を出した。

「黒贄、早く投げ……」

 下で文句を言いかけた神楽の顔が、凍り付いていた。

「クミャラバー」

 黒贄は言った。円崇の目の穴から覗く黒贄の瞳は、恐ろしく冷たい輝きを放っていた。

 神楽の全身が、小刻みに震え出した。神楽は歯を食い縛ってそれを止めようとしていたが、震えはどうしても消えなかった。

「クミャラバー」

 黒贄が生首を神楽の方へ放り投げた。だがそれが地面に当たって潰れた時には、神楽はその場にいなかった。彼は背中を向けて、凄いスピードで逃走に移っていた。

 振り向きもせずに建物の陰に消えた神楽を見届けて、黒贄はフロアに戻った。その右手にはマンホールの蓋がまだ握られていた。

「こ、こ、こ、高祖様が……」

 駆け付けた別のスタッフに、まだ腰を抜かしているスタッフがなんとか状況を説明しようとしていた。が、生皮を被った黒贄が悠然と近づくのを見て悲鳴を上げる。

「ひいいっ、た……」

「クミャラバー」

 黒贄がマンホールの蓋を振った。スタッフの側頭部に蓋の縁が当たり、骨と脳が飛び散った。

「うわ、な何だこいつは」

「クミャラバー」

 別のスタッフの頭に黒贄は上からマンホールの蓋を叩き付けた。頭蓋骨が潰れ首が陥没し口から脳をはみ出させてスタッフが倒れる。

「うわあああっ、ば、化け物っ」

 他の者達は奥へと逃げ込んだ。

「クミャラバー」

 血みどろになったマンホールの蓋を持って黒贄が追う。

「いやあああっ」

 追いつめられた受付嬢が机の上のセロテープや鋏や分厚い本をどんどん投げつけるが、黒贄は見事な反射神経でその全てを叩き落した。ついでに受付嬢の頭も叩き落とした。潰れた生首が宙を飛ぶ。

「クミャラバー」

 十六階のスタッフを皆殺しにすると、黒贄は階段を使って十七階へ進んだ。

 ホールの入り口から信者の一人が顔を出していた。

「高祖様、お早くあれ、な、なな」

「クミャラバー」

 信者の首をマンホールの蓋で切り落とし、黒贄は薄暗いホールへ足を踏み入れた。

「な、何が起こったんだ、高祖様は」

「ひ、人殺しだっ」

 騒ぐ信者達へ歩み寄り、黒贄は手近な者からマンホールの蓋を叩き付けていった。

「クミャラバー」

「うげばっ」

「あげろべっ」

 次々と頭を潰されて倒れる信者達。白いローブは血で赤く染まっていく。黒贄のローブも返り血で更に濃く染まる。

「うわああっ、助けてくれええっ」

「クミャラバー」

 逃げ惑う信者達に、黒贄はマンホールの蓋を水平に振る。五、六人の首が纏めてちぎれ宙を飛ぶ。

「うわわ、神よ神よ、愛を……」

「おおおお、幸福を幸福ををを」

「クミャラバー」

 信者達の無意味な祈りを黒贄の無意味な奇声が打ち消した。同時にマンホールの蓋で命も打ち消した。暗いホールは死体と血で埋まっていた。

 一分も経つ頃には、ホールで動いている者はいなくなっていた。入り口から逃げ去った者はほんの数人だったろう。後は皆、潰れた死体となって転がっていた。

「モモ、モゴゴ」

 スポットライトがつけっ放しになっており、台の上に生贄の女がまだ固定されていた。薄暗い中に立つ黒贄の影に何を期待したのか、女の顔には安堵があった。黒贄は台の傍らに歩み寄り、言った。

「クミャラバー」

 マンホールの蓋が振られ、女の頭が潰れた。

 血臭で満たされたホールに、生皮を被りマンホールの蓋を持った黒贄は立ち尽くしていた。彼の瞳の中を虚無の風が吹いていた。

 その時、奥のカーテンが揺れ、現実の冷たい風が吹き付けてきた。

「クラニレイタロウ。マッテイマシタヨ」

 カーテンの隙間から声が聞こえてきた。いや、それは声であったのだろうか、それとも風の鳴る音がそう聞こえただけであったのだろうか。

 黒贄はカーテンの方を振り向いた。隙間から、スポットライトとは別の白い光が洩れていた。

「クミャラバー」

 黒贄はカーテンを押し分けて、生皮に覆われた顔を奥へ覗かせた。

 その小部屋は、光で満ちていた。電灯はなく、中央に立つもの自体が光を放っているようだった。

「アナタハ、ワタシノシモベトナルタメニ、ココニヨバレタノデス」

 声或いは風が続ける。

 小部屋の中央には、なんだか良く分からないモヤモヤした綺麗なものがいた。

 黒贄は光溢れる室内へ、静かに足を踏み入れた。

「ワタシハカミデス」

「クミャラバー」

 黒贄はマンホールの蓋を振った。

「ウギョベッ」

 なんだか良く分からないモヤモヤした綺麗なものは潰れて飛び散った。

 

 

  エピローグ

 

「あー、ペロちゃん〜ペロペロ〜」

 黒贄礼太郎は歌を歌いながら機嫌良く、事務所のあるビルを出た。ドッグフードの入った小さな皿をその手に持って。

「ペロちゃーん、ご飯だよー」

 黒贄は優しい声で飼い犬の名を呼んだ。彼が白い子犬を育て始めて二週間が過ぎようとしている。

「ペロちゃーん。何処行ったのかなあ」

 黒贄は首を捻った。皿を持ったまま、黒贄は狭い裏通りを子犬を探して歩く。

「ペロちゃーん。ペ……」

 曲がり角に差しかかった時、黒贄の体は凍り付いた。その手から皿が落ち、ドッグフードが汚れた地面を転がっていく。

「ん」

 浮浪者の一人が顔を上げて黒贄の方を見上げた。

 少し広くなった路地に、四人の浮浪者が集まっていた。彼らの中心には焚火の炎が揺れている。

 炎の上に鉄製のフレームを使って固定されているのは、大きな鍋だった。鍋の中には野菜と一緒に肉の塊が浮かんでいる。浮浪者がフォークで鍋の中を掻き混ぜている。

 浮浪者達の横に、血塗れの白い毛皮が放置されていた。

「ああ、おめえさんも食べるかい。煮えるまでもう少し待ってなよ」

 浮浪者の一人が人懐っこい笑顔を見せて黒贄を誘った。

「……。いえ、結構です」

 黒贄はそう言って踵を返した。ビルへ戻る彼の肩はがっくりと落ちていた。

 だが事務所に戻る頃には、彼の肩は上がり、凄い力が込められて小刻みに震えていた。

 彼は簡易キッチンから出刃包丁を出して、砥石を流しの中に置いた。蛇口から水を流しながら、黒贄は包丁を砥ぎ始めた。

「皮を剥ぐのは大変だからねえ。何しろ四人分だから」

 黒贄は淡々と呟いた。

「別に私は、復讐をしようなんて訳じゃないんです。ただの、ちょっとした気紛れなんですよ、これは。大きな大きな鍋が要るよねえ。何しろ四人分の肉だから。どうせ私は食べないけどね」

 念入りに包丁を砥ぎ続ける黒贄の顔が、泣きそうに歪んだ。

 

 

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